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09|おせんころがし殺人事件:連続殺人の残虐な犯行と封じられた過去とタブーの真相

房総の断崖で、ひと晩に母子が消えた

最初に断っておく、重い話だ。1951年、昭和26年の10月11日に、千葉県安房郡小湊町の断崖で母子が襲われた。場所は今の鴨川市で、地元では昔から「おせんころがし」と呼ばれてきた崖の上になる。襲われたのは29歳の母親と3人の子どもで、長女が7歳、長男が5歳、次女はまだ2歳という幼さだった。

命を奪われたのは母子3人。母親は1人の男に乱暴されたうえで殺されていて、子どもたちも容赦なく手にかけられた。古い記事には母親と子ども3人の全員が殺されたと書くものもあるけど、これは誤りで、長女だけは生き延びている。

犯人の名は栗田源蔵。この事件の名前は、彼が起こした合計7人の連続殺人をまとめて呼ぶ通称にもなっている。戦後最大級の悲劇と呼ぶ人もいるくらいの事件なのに、今この名前を聞いてすぐにわかる人は驚くほど少ない。

理由ははっきりしている。犯行があまりに残虐で、母子が狙われた痛ましさもあって、表立って語られにくいんだ。地元でも事件はずっとタブー視されていて、静かに覚えている人がひっそりいるだけという状態が長く続いてきた。

ただの殺人事件とは違う。戦後の混乱期の貧しさと、人間らしさが壊れていく怖さを映した事件として、歴史に刻まれている。犠牲者の無念を忘れないようにしながら、事件の起こりから犯人の生い立ち、経緯、土地への影響までを順にたどっていく。

興津の駅で声をかけてきた男

1951年10月11日の夜。房総の海はもう冷たい潮風に包まれていて、あたりはすっかり暗くなっていた。神奈川県横須賀市に暮らす29歳の女性が、7歳の長女と5歳の長男、2歳の次女を連れて、上総興津駅のあたりに立っていた。夫を探していたんだ。

夫は蛇の仕入れの仕事で、横須賀から房総まで来ていたらしい。駅の場所は、のちの行川アイランド駅の近くとして語られている。都会から来た母子にとって、明かりの少ない見知らぬ土地の夜道は、どれほど心細かったことかと思う。そこへ男が来た。

当時25歳の栗田源蔵だ。人当たりのいい態度で「送っていきましょう」と申し出て、自転車で一緒に行こうと持ちかけた。女性はそれを受け入れ、疑いを抱いた様子はなかった。今の感覚で見ると胸がざわつくけど、困り果てた夜に親切そうな男が現れたら、すがりたくもなるよな。

長男は自転車の荷台に乗せてもらい、女性と娘たちは歩いてついていった。荷台じゃなくて自転車のかごだったと書く記事もあるけど、どちらにしても幼い長男を見知らぬ男に預けた形だ。向かう先は、崖沿いの旧道。

当時、鉄道は通っていない。移動は歩きか自転車くらいしかない土地で、崖の中腹を抜けるおせんころがしの道は、昔から交通の難所として知られていた。夜の闇の中、片側は切り立った崖、反対側は荒い海という道を、母子は男と一緒に進んでいった。

崖の上で起きたこと

栗田の態度が一変する。ここから先はなるべく淡々と書くので、つらい人は次の見出しまで飛ばしてほしい。証言や裁判記録によれば、最初に襲われたのは幼い長男で、石で頭を殴られてそのまま崖から突き落とされた。

次は長女だった。同じように殴られ崖から突き落とされたあと、母親は抵抗する間もなく乱暴され、首を絞められて崖下へ落とされている。母親に背負われていた2歳の次女も、同じ崖の下へと投げ落とされた。

それでも、崖下に落とされた中には即死を免れた人がいた。栗田は懐中電灯を手に崖下を照らし、まだ息のある者を探し出しては、もう一度手をかけたとされる。書いていて、ここで手が止まる。

地獄のような夜。その中で、長女だけが生き残った。崖の途中の草むらに引っかかるようにして、じっと身を隠していたんだ。懐中電灯の光が何度も崖をなめていったはずだけど、栗田は最後まで、その小さな体を見つけられなかった。

草むらで朝を待った七歳の子

翌朝、崖の近くを歩いていた地元の僧侶が、斜面の途中でぐったりしている小さな女の子に気づいた。声をかけると、少女はかすかに息をしていて、命はまだつながっていたんだ。僧侶はすぐに警察へ知らせた。

すぐに捜索が始まる。警察と地元の人たちが崖下を探すと、母親の遺体は岩場で見つかり、長男と次女の遺体もその近くにあった。長女がひと晩で失ったものの大きさに、言葉が出ない。

事件が明るみに出たのは、長女の証言があったからだ。7歳の子の話から犯人の人相がわかり、男が自転車を使っていたことも見えてきて、これがのちの捜査の大事な手がかりになった。7歳の、小さな証人。

あの子の生存が事件を解いた。それだけに、あの子が背負った心の傷は計り知れない。母と弟妹を一晩で失い、崖の途中で朝を待った時間を想像するだけで、こっちの胸まで詰まってくる。

長女のその後はわかっていない。プライバシーが守られていて、公的な記録も残されていないんだ。子孫についても表に出ている情報はひとつもなく、事件の記憶そのものが年月とともに少しずつ薄れつつある。

秋田の三男坊が流れ着くまで

栗田源蔵は1926年、大正15年に秋田県で生まれた。貧しい農家の三男。古い記事のほうには秋田県大館市の生まれとあって、大館の貧しい農家に生まれた子どもとして紹介されている。

出生順には揺れがある。次男として生まれたと書く記事も出回っている。ただ、事件をたどり直した記録では三男とされていて、次男説はネットの記事で誤って語られてきた形と見ていい。

幼いころから夜尿症に悩んだ。いじめと虐待の中で育ったとされ、とくに父親からは厳しい虐待を受けて、家族との関係もすっかり壊れていった。1940年代には兵隊にとられたものの、夜尿症のせいで数か月で除隊になっている。

孤立は深まった。大人になっても定職には就けず、戦後は東京や千葉を転々とする流れ者の暮らしになった。盗みや詐欺を繰り返す暮らしの中で、恋愛のもつれやお金目当てで女性を狙う犯行を重ねていたとされる。

事件はひとつじゃなかった

時代の空気も重かった。1951年の日本は戦後の食糧難と経済の混乱がまだ続いていて、GHQの占領政策の下、農村の貧しさは深刻になっていた。犯罪も増えていた頃のこと。

犯行は続いていた。栗田はおせんころがしの前後にも、いくつもの殺人を重ねていた。1951年8月には、栃木県小山市で別の女性を殺している。おせんころがしの事件のあとも逃げ続け、翌1952年1月には千葉市検見川で主婦と親族の女性を殺した。

事件は栃木から千葉まで、いくつもの県にまたがっていて、当時の新聞は彼を「連続殺人魔」として大きく報じている。逮捕は1952年1月。別件の窃盗容疑がきっかけだった。取り調べが進むうちに、栗田はいくつもの殺人を自供していった。

古い記事の書き方は少し違う。1948年から1951年にかけての数年間、栃木や千葉で次々と被害者を出し続けたというのがその書き方だ。栃木で女性を殺し、千葉では別の母子を殺したとも書かれている。

ここは食い違う。検見川で殺されたのは主婦と親族の女性で、母子ではない。この「別の母子」という話は、誤って伝わった形だと見ていいと思う。女性を狙った犯行を重ねるうちに、おせんころがしでは子どもたちまで巻き込んだ、という流れ自体は古い記事も同じだ。

保険金目的という話の出どころ

別の筋書きもある。ネットの記事では、栗田は保険金目的で殺人を繰り返していたことになっている。逮捕されたときに保険証書を何枚も持っていて、それで保険金目当ての犯行だと明らかになったと書かれている。

ここは注意して読んでほしい。事件をたどり直した記録では、動機は恋愛のもつれやお金目当てとされていて、保険金の話は出てこない。保険金目的という筋書きは、ネットの記事で誤って語られてきた噂として扱っておくのが筋だと思う。

掲示板にも疑いの声がある。「保険金目的というのは後付けの説明じゃないか」という書き込みだ。ただ、これもまた裁判で確定した事実の外側へはみ出した推測なので、結局のところ噂の域は出ないと思っておこう。

二つの死刑判決と、ずれた年表

裁判の話に移ろう。栗田は日本で初めて、複数の死刑判決を受けた人物として記録されている。いくつもの県で重ねた罪が、それぞれ別の場で裁かれていった結果で、それだけ多くの命が奪われた証しでもある。

ネットの記事の年表は違う。1952年1月に逮捕され、連続殺人罪で起訴。千葉地裁で公判が開かれて1953年に死刑判決が出て、控訴はしたものの1954年に取り下げ、死刑が確定したという流れだ。

その先もある。獄中では反省の言葉を残さず、1956年3月に死刑が執行されたという。最後の言葉は不明とされる一方で、裁判記録では「貧困が私を駆り立てた」と話した、という一文まで添えられている。

どうにも引っかかる年表。裁判がひとつきりだったかのような書き方で、複数の死刑判決を受けたという記録とかみ合わないんだよな。この年表はネットの記事で誤って語られてきた形として、少し距離を置いて読んでおきたい。

娘が落ちた崖という名前

「おせんころがし」という名前は、事件よりずっと前からあった。千葉県勝浦市の西の端から鴨川市にかけて、約4キロメートルにわたって続く断崖地帯を指す、古くからの呼び名だ。漢字で書けば「お仙ころがし」。

由来は一つじゃない。いちばん広く語られているのが、ある領主の一人娘お仙の話だ。お仙は年貢の重さに苦しむ領民たちの姿を見かねて、父である領主に年貢を軽くするよう必死に頼み込んだ。

父は聞き入れなかった。怒りのおさまらない領民たちは父を簀巻きにして、そのまま崖から突き落としたという。翌朝、崖の下の波打ち際に降りた領民たちがそこで見つけたのは、父の着物をまとった娘お仙の遺体だった。

領民は悔いた。自分たちの過ちを思い知った領民たちは、「孝女お仙」を供養するための塔を建てたと伝えられている。聞くたびに、なんともやりきれない気分になる話だ。

言い伝えは一つではない。継母にうとまれたお仙が、崖の上の萱を刈るように命じられ、そのまま崖から突き落とされて殺されたという話もある。古い記事では、江戸時代の娘おせんが病気の母のために薬草を探しに出て、崖から落ちてしまった悲話として紹介されている。

どの話も芯は同じ。崖から落ちて死ぬ娘の悲劇が、地名そのものに刻まれているわけだ。この崖は1951年の事件のはるか前から、「人が落ちて死ぬ場所」という不吉な影をまとっていた。

ここで崖の顔が変わる。事件のあと、地名の由来と本物の殺人が結びつけられた。こうして「呪われた崖」という色合いがいっそう濃くなり、人々から恐れられる場所になっていった。

景勝地と難所の顔

鴨川市は房総半島の南東にある。海と山が織りなす自然の豊かな土地で、おせんころがしは切り立った崖と荒々しい海が交わる景勝地でもある。江戸時代から交通の難所として知られ、昔の国道は崖の中腹を通っていた。

戦後、復興は進んでいた。それでも、地方の人目の少ない孤立した場所が犯罪の温床になった、という背景がこの事件にはある。おせんころがしの夜道は、まさにそういう場所だった。

今は道も変わった。新しい国道128号が内陸を走っていて、難所は解消されている。崖沿いの旧道は遊歩道として整備されていて、事件の現場付近は何事もなかったかのように、ひっそり静かにたたずんでいる。景色だけ見れば、ため息が出るほどきれいな海岸線だ。

事件は地元に深い影を落とした。鴨川の住民は事件を「地域の恥」として語り継がず、観光地としてのおせんころがしを前に出すようになった。それが町なりの守り方だったんだと思う。

夜は近づくなと言われた道

町は凍りついた。事件当時の地元は、恐怖と悲しみでいっぱいだった。僧侶が長女を見つけた小湊町では、「崖下の叫び声が今も聞こえるようだ」と話した住民もいて、町じゅうが事件を深く悼んだ。

新聞も土地の衝撃を伝えた。1951年10月の千葉新聞は、興津町の住民が口にした「母子の無念が崖に宿る」という声を、記事に載せて伝えている。世の中では、栗田を「鬼畜」と呼ぶ声が多かった。

報道は大きかった。事件が最初に報じられたのは、1951年10月の地元紙と全国紙だ。見出しには「母子殺し」「鬼畜の所業」といった言葉が並び、戦後混乱期の犯罪の凄惨さを象徴する事件として大きく扱われた。その後も犯罪史や実話系の本、ウェブサイトで繰り返し紹介されてきた。

令和の今もその流れは続く。ニュースのまとめサイトや個人のブログで、事件を一からたどり直す検証記事が今も書かれ続けているんだ。とはいえ、事件を直に知る世代はもうずいぶん少なくなった。

記憶の断片はある。鴨川や勝浦の年配の住民には、子どものころ大人たちに口をそろえて言われた言葉を覚えている人がいる。「おせんころがしの近くには夜行くな」。理由を聞くと露骨に嫌な顔をされ、教えてもらえなかったと振り返る。

崖の下から聞こえるという声

旧道が遊歩道になってからも、妙な話は消えない。旅行記や体験談の投稿サイトには、崖の途中で急に寒気がして、それ以上進めなかったという話がぽつぽつと出てくる。その手の話は多い。

こんな話もある。あるドライバーが深夜、国道の旧道区間を車で通ったときのことだ。ヘッドライトの先に子どもが立っているように見えて急ブレーキを踏んだのに、降りて確かめると誰もいなかったらしい。

真偽は確かめようがない。確かめようがないのに、話は消えない。けれどこの手の体験談は、事件から70年以上たった今も、心霊スポット巡りのブログや動画で繰り返し紹介されている。

供養碑の話もある。碑を訪ねた参拝者の中には、手を合わせた瞬間に急に強い風が吹いて、木々がいっせいにざわめいたと書き残した人がいる。「まるで返事をされたようで鳥肌が立った」という。

どれも個人の主観の話。事件の捜査資料や科学的な根拠とはきっちり切り離して、あくまで個人の感じ方として受け止めるべきものだと思う。それでも、読んでいるとちょっと背筋が冷えてくる。

語られ方は三通り

語り口は三つある。一つ目は、裁判記録や新聞報道に基づく事実寄りの語り。犯行の日時や被害者の年齢、逮捕までの流れを、余計な脚色をつけずにただ淡々と伝えていくタイプだ。

二つ目は、孝女お仙の民話と混ぜて語るもの。崖の名前の由来になった娘の悲劇と、本物の母子殺害事件がつながって、ひとつの「崖の呪い」の物語として一体化している。史実と伝説の境目がぼやける。

三つ目は心霊系だ。「崖の下から今も子どもの泣き声が聞こえる」「深夜に近づくと自転車のベルの音がする」。心霊やオカルトのサイトで噂が次々と足されて、実際の事件から生まれた都市伝説がひとり歩きしている。

心霊譚に史実の裏付けはない。あくまで噂や創作として扱うべき話だ。ただ、事件のあまりのむごさが、そういう話を次々と生み出す土壌になったことだけは、間違いないと思う。

ドラマにならない理由

Xや、まとめサイトでの扱いも見ておこう。この事件は「戦後最悪の母子殺害事件」として何度も紹介され、「おせんころがし殺人事件は戦後最悪の悲劇」という投稿もある。残虐さを指摘する声が目立つ。

定番の疑問がある。これほど有名な事件なのに、なぜ今まで一度も映像化やドラマ化がまったくされないのか、というものだ。繰り返し持ち上がる議論だ。

理由として挙がるのは三つ。遺族のプライバシーを守ること、内容のむごさゆえの自主規制、地元の観光イメージへの気づかいだ。どれも、言われてみればもっともな話だと思う。

長女を気にかける人も多い。生き残った長女がその後どうしているのかを案じる書き込みはよく見かけるけど、公的な記録は残されていない。プライバシーを守るため、詳しいことは明かされていないんだ。

陰謀めいた噂のあれこれ

陰謀説は少ない。それでも、犯人の生い立ちや動機にまつわる憶測はいくつかある。主流なのはやはり、栗田が育った家の貧しさと、幼いころから受けた虐待が事件の原因だという見方だ。

それとは別の説もある。「戦後のGHQによる社会の混乱が、栗田のような犯罪者を生んだ」という説を唱える人たちがいるんだ。時代のせいにしたくなる気持ちは、まあ、わからなくもない。

もっと踏み込んだ噂も。栗田がいくつもの保険金殺人をしたという前提で、その裏に闇金融や地元の有力者が絡んでいたと疑う声がある。けれど証拠はなく、推測の域を出ない。保険金殺人という前提そのものが怪しいんだよな。

ネットの声も拾っておく。Xには「栗田の死刑執行で真相が埋もれた」という投稿が見られる。掲示板には「栗田源蔵は本当に単独犯だったのか」という書き込みもある。どれも裁判で確定した事実を大きく超えてしまった推測で、今のところは噂話の域にとどまっている。

比べられる事件もある。下山事件や帝銀事件などが、よく比べる相手に挙がる。貧しさと社会不安が犯罪の温床になった時代を映す事件のひとつとして、今も犯罪史研究の題材になっている。

供養碑の前で

崖は今もそこにある。おせんころがしは、今も勝浦市と鴨川市にまたがる実在の断崖だ。旧道は遊歩道になり、供養碑も残っていて、近くには廃止された行川アイランド駅や鴨川シーワールドのような観光施設がある。

地元は立て直した。鴨川シーワールドなどの観光開発で活気を取り戻し、事件の暗いイメージをぬぐうように観光地として生まれ変わってきた。事件の傷を、自然の美しさで癒そうとしてきたわけだ。

祈りの場もある。現場の近くには石碑や供養碑が建てられていて、2025年の時点でも住民がそこで静かに祈りをささげている。地元の寺では犠牲者を供養する行事が開かれていて、住民はそれぞれのやり方で記憶を刻んでいる。

今の空気は複雑だ。事件を直に知る世代がどんどん減って、今ではSNSで切れ切れに語られる程度になった。Xには「母子の無念を忘れない」という声が上がる一方、地元の住民からは「過去の傷を掘り返さないで」という声も出ている。

観光客が増えるほど、事件に触れない空気は強くなる。むごさゆえにメディアで取り上げられることも少なく、長いあいだずっと封じられた話として扱われてきた。語られないまま、年月が過ぎた。

忘れていい話じゃない。それでもこの事件は、戦後日本の暗い部分を映す一件だ。今の犯罪報道や被害者支援にも、その影は届いている。住民は犠牲者の魂に敬意を払いながら、この土地で暮らす者として、未来へ向けた一歩を踏み出してきた。

断崖の海を見るときに

2025年は戦後80年の節目。こういう過去を振り返る動きもあったけど、あまりに残虐な事件だから、扱いはどうしても慎重になる。扱う側も手探りだ。

残された教訓は重い。貧しさと孤立が生んだ悲劇として、この事件は教訓を残した。犯人の最期にはもう決着がついている。それでも母子3人の無念と連続殺人の闇は、千葉の断崖に深い影を落としたままで、その悲しみは今も土地に響いている。

町の暮らしは続く。地域は癒しを探しながら、静かに記憶を刻む。住民は犠牲者のことを偲びながら、この先の日々を一日ずつ紡いでいて、その営みは今も続いている。

いつか鴨川の海を眺めることがあったら、あの断崖の上の夜のことを、少しだけ思い出してみてほしい。奪われた3つの命。草むらで朝を待った、1人の女の子のことも。

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