重たい話から始めよう。舞台は群馬県碓氷郡松井田町、今の安中市にある霧積温泉だ。1972年8月16日、霧積ダムの建設現場に近い作業小屋で、24歳の女性Kさんの遺体が見つかった。この霧積温泉殺人事件は、むごい殺され方と迷宮入りの経緯から、群馬県の重大な未解決事件のひとつに数えられる。犯人は今も分からない。
霧積と聞いて、西条八十の麦わら帽子の詩を思い出す人もいる。美しい高原の名前だ。その同じ地名が、群馬県の重大な未解決事件のひとつの名前として、半世紀以上たった今も残ってしまった。盆休みで人の消えた山のなかで、ひとりの若い女性が命を落とした夏の話になる。
Kさんは伊勢崎市に住む、ガソリンスタンドの店員だった。旅行好きだったらしい。本当は母親と弟との三人旅の予定だったのに、二人の都合がつかず、彼女ひとりで山の宿へ向かうことになったという。秘境の温泉で起きたこの事件は、地元の松井田町に強い衝撃を与えた。
一人旅そのものは珍しくない。家族の予定が合わず、ひとりで出かけることにした若い女性の夏休みだ。その旅は山を下りる途中でぷつりと途切れ、宿に着いた日から4日後に、いちばん最悪の形で終わりを迎える。事件の輪郭は分かっているのに、肝心なところだけが霧の中にある。
明治の山津波を生き延びた一軒宿
発見は鎌倉時代と伝わる。江戸時代には、碓氷関所の要衝として名の通った湯だった。明治43年の山津波でほとんどの旅館が壊滅するなか、一軒宿の金湯館だけが生き残り、秘境の名湯として静かに愛されてきた。
山津波は、霧積の温泉場をほぼ丸ごと呑み込んだ。残ったのは金湯館ただ一軒。生き延びたその一軒が、伊藤博文や与謝野晶子ら名の知れた客を迎えた歴史ごと、秘境の名湯という看板を背負ってきたことになる。なかなかの宿だ。
そんな山奥の宿だ。麓まで歩けば3時間以上かかり、女将が徒歩の下山を止めたのも無理はない。宿そのものは、明治の災害をくぐり抜けた歴史を背負ったまま、事件のあとも同じ場所で客を迎えていくことになる。そこがまた、この話を妙に生々しくしている。
1972年当時、この山では霧積ダムの工事が進んでいた。普段なら約100人の作業員が出入りする現場だ。ところが事件が起きたのはちょうど盆休みで、作業員の姿が消えた現場はがらんと静まり返っていた。その静けさが怖い。作業員もいない盆休みの山のなかを、24歳の女性がたったひとりで、それも徒歩で下っていたことになるからだ。
舞台の取り合わせも独特だ。明治の山津波を耐えた古い一軒宿のすぐそばで、ダム建設という近代的な開発事業が進んでいた。その工事現場の小屋が、事件の現場になった。盆休みで人がいなかったという偶然も含めて、開発の陰で起きた事件だったことが、この話の異様さをいっそう際立たせている。
バスも車も断って、彼女は歩き出した
Kさんが金湯館に一人で泊まったのは、8月12日のことだった。翌13日の朝。朝食を済ませたKさんに、女将は「徒歩での下山は3時間以上かかり危険」だと言って、マイクロバスを勧めた。Kさんはこれを断った。宿の人間がわざわざ止めるくらいの道だったのに、彼女は自分の足で下りるほうを選んだ。
履いてきたハイヒールをスニーカーに履き替え、午前10時に宿を出ると、彼女は霧積川沿いの道をひとりで下り始める。真夏の炎天下の山道だ。3時間以上かかると分かっている道を、あえて歩いて下りたわけだ。正直、ここで胸がざわつく。
午後2時ごろ、旅館から約5キロ下ったあたりで、Kさんは安中市の親子連れに目撃されている。親子は車に乗るよう声をかけた。彼女はこれも断り、そのまま歩き続けたという。生きているKさんの姿がはっきり目撃されたのは、これが最後とされていて、そこから先の足取りは誰にも分かっていない。
時間の流れを並べてみる。8月12日に金湯館へ一人で泊まり、13日の午前10時に宿を出た。その日の午後1時15分ごろに忍の池で誰かに写真を撮ってもらったと推定され、この時点ではまだ無事だった。午後2時ごろ、約5キロ地点で親子連れの車を断る。次の姿は、16日の作業小屋。
3日あまりの空白。最後の目撃は13日の午後2時ごろ、遺体の発見は16日の午後5時ごろだ。殺されたのがそのあいだのいつで、本当の現場がどこだったのかも、はっきりしたことは何も分かっていない。山はそれを黙って隠している。
どこをどう歩いたのか。誰と出会い、どこで何が起きたのか。山奥の旅館を出てから遺体で見つかるまでのあいだは、50年以上たった今も、ぽっかり空白のまま残されている。この空白こそが、事件をいつまでも終わらせない。
首をかしげる行動がいくつもあった
この日のKさんの動きには、あとで不可解な点がいくつも指摘された。過去に2度この温泉へ来ていたのに、宿の連絡所では初めての客のように振る舞い、予約の事実を伏せていたらしい。予約の経緯を偽っていた、と書く記事もある。行き当たりばったりに見える。3時間以上かかる山道を、真夏にわざわざ徒歩で下ろうとしたのも、計画性のなさとして挙げられた。
ちなみに靴の話は、記事によって食い違う。大筋は宿で履き替えた話だ。ところが、ハイヒールのまま3時間以上の下山を始め、途中でスニーカーを買ったとする書き方もネットの記事には出回っている。ここは宿で履き替えた側を本筋に置き、途中で買ったという話は、そう誤って伝わった噂として脇に置いておく。
こうした行動の不自然さが、後年「発達障害的な傾向があったのではないか」という憶測を呼ぶ土壌になった。ネットの一部には、アスペルガー症候群の可能性まで持ち出す声もある。証拠はどこにもない。念のためはっきり書いておくと、どれも後付けの推測で、亡くなった本人の内面を手元の断片だけで決めつけていい理由はどこにもない。
人の親切を二度も断った理由は、本人にしか分からない。急いでいたのか、ひとりで歩きたかったのか、それとも別の事情があったのか。どの答えにも裏付けはない。分かっているのは彼女が断ったことだけで、その先を埋めようとすると、どうしても想像が勝手に走り出してしまう。
ここは慎重になりたい。予約を伏せたことも、バスを断ったことも、それだけで何かが説明できるものじゃない。不可解に見えるのは、結末があまりにむごかったせいでもある。同じように宿のバスを断り、歩いて山を下りても、無事に家へ帰った旅行者だったら、誰ひとり気に留めなかったと思う。
父親が開けた作業小屋の扉
Kさんが帰ってこない。心配した姉が探し始め、父親が近所の人たちと霧積ダム近くの作業小屋を調べたのは、8月16日の午後5時ごろだった。大量のハエが群がるなかに、変わり果てた娘がいた。父親がどんな思いでその扉を開けたのか、面白半分に想像していい場面じゃない。
広さ8畳ほどの小屋の真ん中に、Kさんは仰向けで倒れていた。紺のノースリーブのブラウスに白いスカートという服装で、スカートはまくれ上がり、着衣は乱れていた。全身の刺し傷は24か所。左胸を深さ8センチまで刺した傷が心臓に達し、これが致命傷になったとみられる。
服装にも目がいく。見つかったときの紺のノースリーブに白いスカートは、どう見ても山歩きの格好じゃない。靴だけはスニーカーに替えていたにしても、真夏の山道を3時間以上下るには軽すぎる。宿のバスを断り、親子連れの車も断って、その軽装のままひとりで霧積川沿いの道を下っていったことになる。
肋骨は3本が骨折。首や下腹部にも複数の切り傷があったのに、小屋に残った血痕はごくわずかだった。この食い違いから捜査当局は、Kさんが別の場所で殺され、遺体だけがこの小屋へ運び込まれて捨てられたと推定した。
小屋の中には、血のついた軍手と地下足袋の足跡が残されている。帽子、カメラ、布バッグ。Kさんのこうした持ち物は、まるで人目から隠すかのように、ブリキ板をかぶせて覆い隠されていた。犯人の遺留品は、ひとつもない。
凶器は見つかっていない。刃渡り12から15センチほどの牛刀か登山ナイフとみられたものの、現場の周りをどれだけ探しても出てこなかった。警察は怨恨、痴情、通り魔と、いくつもの線を検討した。それでも手がかりは乏しく、犯人像はとうとう絞り込めずに終わる。
登山ナイフという見立ては重い。山や川で刃物を持ち歩いていても不自然に見えない人間が、盆休みの霧積には釣り人を中心にたくさんいたことになる。後で出てくる釣り人真犯人説も、この凶器の見立てを足場にしている。牛刀なら話は変わるものの、どちらにせよ現物は出てこなかった。
殺した場所と捨てた場所が別で、持ち物は隠され、凶器は消えた。手口の細かいところをなぞるつもりはない。犯人がその場から慌てて逃げたとは思えないほど、遺体と持ち物に手間をかけた跡が、現場からは読み取れる。それがいちばん薄ら寒い。
カメラに残った5枚と、足元のモヤ
ここからが、この事件をオカルト寄りの話にしてしまった部分だ。Kさんのカメラのフィルムからは、5枚の写真が現像された。1枚目と2枚目は金湯館の水車の前、3枚目と4枚目は忍の池の堰堤、5枚目は金洞の滝を写した風景だった。問題は3枚目と4枚目。
この2枚は、Kさんが誰かにシャッターを頼んだとみられるカットだ。彼女の足元に、霧のようなモヤが写り込んでいた。当時のメディアや地元では「死の予兆を捉えた心霊写真ではないか」と囁かれ、大きな話題になった。ぞっとする話だ。
撮ってもらった本人の足元にだけ、霧のようなモヤがかかっている。その本人が、あとで無残な姿で見つかる。後になってこの写真を見た人たちが、そこに死の気配を読み取ってしまったのも、無理もない流れだと思う。一枚の威力。
まあ、冷静になろう。山あいの霧が入り込んだか、当時の現像の過程でたまたま出たミスだと見るのが自然で、科学的にはそれで説明がつく。それでも、むごい事件の記憶と重なったせいで、この写真は「死の予兆」として長いあいだ人の口にのぼり続けた。
カメラの写真は、捜査の役にも立っている。写っている場所と、同じ宿に泊まっていた客の目撃証言を照らし合わせることで、Kさんの足取りをつかむ手がかりになったからだ。撮影者だけが謎だ。水車の前から忍の池、そして金洞の滝へと続く5枚は、彼女が最後にたどった道の貴重な記録になった。
「石田良夫」と名乗った釣り人
話をさらにややこしくしたのが、8月19日付の上毛新聞だ。紙面に「石田良夫」と名乗る人物が現れた。霧積川で友人と釣りをしていたとき、忍の池でKさんに写真を撮ってほしいと頼まれた、という証言だった。撮影者はこの人か。
ところが、この人物が名乗った住所には該当する人が実在しなかった。警察への出頭も、結局果たされないままだった。証言の信用はがた落ちだ。事件を扱うサイトに寄せられた声でも、男性が実名で名乗り出たのにそんな男性は実在せず、謎のままだと書かれている。
遺体の発見から、たった3日後の名乗り出だ。友人と一緒だった、釣りをしていた、忍の池で頼まれた。妙に具体的な証言だ。それなのに、書いてあった住所をたどっても本人にはたどり着けず、最後まで警察の前に姿を見せなかった。一気にきな臭くなる。
名乗り出方も妙だ。名乗り出た先は新聞で、警察には最後まで来なかった。本当に写真を撮っただけの釣り人なら、住所をごまかす理由も警察を避ける理由もなかったはずだと、複数の記事が首をひねる。そこから疑いが一気に膨らんでいく。
別の報道では、埼玉から来た若いカップルが写真を撮ったのではという線も出てきた。撮影時刻は午後1時15分ごろと推定されている。釣り人かカップルか。当日の霧積川はヤマメやイワナの釣り場として人気で、川沿いにはおよそ30台の車が止まっていた。
撮影者の候補が二通り。釣り仲間といた男と、埼玉の若いカップル。カップル説が本当なら、「石田良夫」の証言はそもそも根元から崩れることになる。どちらが正しいのかは結局確かめられないまま、Kさんの足元にモヤが写ったあの写真を撮った人物は、今も分からずじまいだ。
ダムの工事現場は盆休みで空っぽだった。川のほうは違う。渓流釣りの車がずらりと並び、岸にはけっこうな数の人がいたことになる。静まり返った工事現場と、人の出入りが多い川沿いという、このちぐはぐな組み合わせが、事件の見え方をいっそう複雑にしている。
この「釣り人」の存在は、そのまま犯人像として注目を集めた。警察は釣り人やハイカーにまで捜査を広げた。目撃情報は乏しい。結局、該当する人物を特定するところまではたどり着けず、有力な手がかりを得られないまま釣り人の線は途切れてしまう。
5000世帯を回っても届かなかった
警察が投入した捜査員は、延べ90人以上。金湯館の宿泊者名簿、ダム工事の関係者、伊勢崎でのKさんの交友関係まで洗い出した。捜査の手は広かった。旅館の宿泊記録は過去5年分までさかのぼって調べられ、周辺の5000世帯へ聞き込みもかけられたという。
数字だけでも並べておく。捜査員は延べ90人以上、宿泊記録は5年分、聞き込みは5000世帯。大がかりな捜査だ。それでも犯人の影すら踏めなかったのだから、どれほど手がかりの乏しい事件だったのかが嫌でも分かる。
疑う範囲は広かった。怨恨や痴情の線なら、伊勢崎での人間関係を洗う必要がある。通り魔の線なら、あの日の山にいた誰か。宿の客、工事の関係者、川の釣り人にハイカーと、警察はその全部に手を伸ばしたのに、どの線からも決め手は出てこなかった。
それでも突破口は開かなかった。1987年、事件は公訴時効を迎える。発生から15年。こうして霧積温泉殺人事件は、法の上では誰ひとり裁かれることのない未解決事件として、時の流れのなかに沈んでいった。
時効は解決じゃない。1987年を境に、刑事裁判で犯人を裁く道は閉じた。犯人が誰なのかは分からないまま、家族や関係者にとっては何ひとつ終わらない時間が、そこから先もずっと続いていく。
ローカルな事件が、ネットの定番になるまで
最初は静かだった。この事件がネットで広く知られるまでには、ずいぶん時間がかかっている。土台にあるのは、1972年当時の上毛新聞をはじめとする地方紙の報道だ。全国紙の扱いは小さかったとみられ、長いあいだ地元でひっそり語られるだけのローカルな事件だったようだ。
転機は1992年に来る。作家の吉村達也が、この事件を下敷きにしたとみられる推理小説『霧積温泉殺人事件』を徳間書店から出したのだ。ミステリーファンに小説が知られると、実際の事件にも関心が向かい、両者を混同する読者も出てきた。題名がまったく同じなのだから、取り違えるのも無理はない。
事件からちょうど20年。地元でひっそり語られていた事件の名前が、そっくりそのまま推理小説の題名になって、ミステリーファンの目に触れたことになる。実際の事件より、小説の題名のほうで霧積の名を知った人もいたと思う。
まとめサイトや個人ブログの多くが「実際の未解決事件で、吉村達也の小説とは別物」とわざわざ断り書きを添えている。混同がそれだけ広がっていた証拠だろうね。小説は事件から着想を得たのかもしれない。中身は別物だ。登場人物も動機も、謎が解けていく筋立ても作家がこしらえた創作で、独自の探偵や犯人像まで描かれている。
ここで書いている心霊写真や「石田良夫」の話は、小説から来たものじゃない。出どころは1972年当時の報道と、地元の口承だ。話が混ざるとややこしい。だから小説の筋や人物は、この記事には一切持ち込まず、あくまで実際にあった事件の話だけをしている。
やがて流れが変わる。2000年代後半になると、未解決事件や怖い話、都市伝説を扱う個人ブログで、この事件を詳しく紹介する記事が相次いだ。はてなブログやアメーバブログがその主な舞台だ。心霊写真と謎の証言者という、推理小説さながらの材料がそろっていたのだから、書き手が飛びつくのも無理はない。
2010年代半ばからは、YouTubeの未解決事件考察チャンネルでも扱われ始めた。耳で聴く番組にもなる。Podcast番組「昭和オカルト奇譚」のようなオーディオコンテンツでも、事件は取り上げられた。未解決事件専門のまとめサイト「消えた事件wiki」が事件を体系的に整理したのも、知名度を押し上げたとみられる。
霧積の事件はただの凶悪犯罪の記録では終わらず、オカルトや未解決事件考察の定番ネタとして、何度も焼き直されていった。複雑な気分になる。亡くなったのは実在の24歳の女性なのだから。
霧積という地名に、霧のようなモヤの写真。できすぎた符合だ。怪談好きが食いつく材料は、最初からそろいすぎていた。そこに偽名の証言者と迷宮入りまで重なれば、ネットで何度も語り直されるのは当然の流れだったと思う。
同じ事件が、三通りの顔で語られる
ネットの記事を読み比べると、語り口はおおむね三つに分かれる。一つめは「釣り人真犯人説」を押し出す型だ。根拠に挙がるのは三点。偽名を使ったことと、地元紙でしか報じられていない事件をなぜか知っていたという矛盾が、まず槍玉に挙がる。
残る一点は、凶器とみられるナイフを日ごろ持ち歩いていてもおかしくない職業的な特性だ。これを並べて、「石田良夫」を名乗った人物こそ真犯人だと、ずいぶん踏み込んで論じる記事がいくつもある。推測にすぎない。その人物が裁判で有罪と認められたことはなく、実在の誰かを犯人と決めつけることはできない。
ここは冷静に読みたい。どの理屈も、状況をつなぎ合わせて組み立てた推理だ。決め手になる物証は、ひとつも示されていない。読み物としては筋が通って見えても、名前の挙がった人物に罪を着せていい根拠にはならないし、そこは線を引いて読んでおきたい。
二つめは「心霊現象と予兆」を前に出す型だ。足元に霧が写った写真を「死を告げる心霊写真」として扱い、事件のむごさより超常的な不可解さのほうに焦点を当てて語る。怪談として読むなら、たしかによくできている。そこが引っかかる。事件の中心にいるのは亡くなった女性なのに、話の主役がいつのまにか一枚の写真にすり替わってしまうからだ。
三つめは「被害者の特異な行動」に目を向ける型だ。下山ルートの不自然さや宿での言動の矛盾から、アスペルガー症候群の可能性まで持ち出して、Kさんの内面を推し量る。これはきつい。被害者のプライバシーと尊厳に踏み込む話で、根拠のない当てはめだという点には強い留保が要る。
彼女を最後に見た人たちの話
金湯館の女将の「徒歩での下山は危険だから、バスを使ってはどうか」という助言。安中市の親子連れの「車に乗らないか」という呼びかけ。Kさんがその二つをどちらも断ったという証言は、生前の彼女を伝える最後の具体的な記録として、事件のたびに引かれる。断ったのは二度だ。
女将の立場で考えてみる。3時間以上かかる山道を、若い女性がひとりで歩いて下りると言う。止めるのが当たり前で、実際にバスを勧めている。断られて見送った相手が、数日後に作業小屋で遺体となって見つかったのだから、その知らせは相当こたえたと思う。
危険だと分かっていて、見ず知らずの人の申し出を断り続ける。あとから振り返るほど、その行動は不気味な余韻を残す。事件を扱うサイトに寄せられた声にも、本人の性格なのか、若い女性なら普通そうするだろうか、という違和感が書かれていた。その気持ちは分かる。
寄せられた声の中身はこうだ。1972年の夏、家族や知人のキャンセルによって、群馬県在住の若い女性がたまたま一人旅になってしまった。ひなびた旅館に泊まったあと、近くの作業小屋で遺体となって見つかった。作業員や釣り人、ハイカーまで調べられたのに、犯人は捕まっていない。
父親が近所の人たちと小屋の扉を開け、ハエの飛び交うなかで娘を見つけた瞬間の話は、直接の目撃談としていちばん凄惨だ。家族を失った重さがにじむ。興味本位で消費していい記録じゃない。ここは静かに置いておきたい。
金湯館の若女将は、訪ねてきた観光客や探訪者に、事件現場の場所を教えることもあるらしい。話は終わっていない。50年以上がたった今でも、未解決の怖さは山あいの土地に影を落とし、事件はまだ完全には過去のものになりきっていない。
地元では、現場の作業小屋が「呪われた場所」と呼ばれ、人を遠ざけてきた。廃墟やダムの周りを歩く探訪者のあいだでは、心霊スポットとしても名前が挙がる。嫌な呼ばれ方だ。秘境の名湯という看板の裏に、いつのまにか「怖い場所」という顔まで貼りついてしまったのは、どうにもやりきれない。
掲示板とコメント欄は、今も割れている
2chや5chの過去ログ、Yahoo!知恵袋、まとめサイトをのぞくと、同じ問いが何度も立っている。本当に釣り人が犯人なのか。「証言の矛盾がここまでそろっていて、逮捕に至らなかったのは不自然だ」という声がある。そこへ「状況証拠だけで実名不詳の人物を犯人と決めつけるのは危険だ」と、慎重な立場の投稿もそれなりの数ついている。
考察界隈のなかでも意見は真っ二つ。疑わしさを積み上げる側と、決めつけにブレーキをかける側が、何年も同じ論点で行ったり来たりしている。どちらの言い分も、手元にある材料は当時の報道と伝聞だけで、新しい物証を持っている人はいない。そこが議論の限界だ。
YouTubeの考察動画のコメント欄も似たようなものだ。「心霊写真の話が事件の本質から目をそらさせている」という指摘と、「霧の写真は今見ても薄気味悪い」という感想が混在する。見事にごちゃまぜだ。むごい凶悪事件としての顔と、怪談としての顔が、いっしょくたに消費されているわけだ。
時効を迎えて久しいのに、あきらめない声は根強い。DNA型鑑定などの進歩でいつか真相が明らかになってほしいという願いが、地元の関係者からも考察系ブログからも上がる。新しい証拠さえ出れば。地元では今も、Kさんの冥福を祈る声が絶えない。
この事件を追っていていちばんこたえるのは、写真でも偽名でもない。ひとりの24歳の女性が、人の親切を断って歩き出した山道の先で、二度と家族のもとへ帰らなかったという当たり前の重さだ。怪談の顔ばかりが大きくなると、そこが見えにくくなる。そこは忘れたくない。
麦わら帽子の高原に残ったもの
霧積温泉の金湯館は、事件から50年以上たった今も、秘境の一軒宿として客を迎えている。寄せられた声によれば、現場付近の雰囲気は40年がたっても大きくは変わらず、Kさんが泊まった旅館も当時のまま残るそうだ。山は変わらない。観光の目玉としての値打ちも大きい。
霧積高原は、西条八十の詩の舞台としても知られる。「母さん、僕のあの麦わら帽子どうしたでせうね」で始まる、あの有名な詩だ。牧歌的で美しい高原のイメージと、そこで起きた陰惨な未解決事件との落差が、この事件をいっそう忘れがたいものにしている。このギャップは強烈だ。
金湯館の名は、森村誠一の1976年の長編推理小説『人間の証明』の着想源のひとつとして挙がることもある。群馬県を舞台にしたミステリーの系譜で、この温泉地は何度も取り上げられてきた。事件そのものも金湯館の名をさらに広め、観光地としての注目を集めた。皮肉な話だよな。
ひとつ断っておく。日付、遺体の状況、捜査の経過、時効の成立は、当時の新聞報道や捜査記録に基づく事実だ。犯人像の推測や心霊現象としての読み解きは、あくまでネットで語られてきた噂と考察の域を出ない。そこは混ぜないでほしい。
家族や関係者は、今も真相を求めているという。静かな山あいに響いているのは風の音なのか、それとも1972年の夏に起きた悲劇のこだまなのか、確かめるすべはまだない。答えは霧の向こうだ。
