手錠のままピースをした男
古い事件の話になる。ある個人ブログが、神奈川県藤沢市で約35年前に起きた「藤沢母娘殺人事件」を覚えているか、と読者に問いかけていた。書き手の記憶に焼き付いていたのは、犯人Tの連行シーンだった。手錠をかけられた手をゆっくり上げてピースをし、不敵に笑う映像だったという。
ブログはその姿を、この犯人の闇の深さを物語る場面として紹介した。ただ、この記事の筋書きは、後から調べてわかった事実とあちこちで食い違っている。ひとまず順に追う。ブログの語りをそのままなぞったうえで、照合で見えてきた本来の経過と一つずつ突き合わせていくことにする。
ブログが語った筋書き
ブログの話は畑から始まる。ある日、千葉県の畑の中で若い男性の他殺体が見つかり、そこから事件が明るみに出ていったと書かれていた。重要参考人として浮かんだTと、殺された男性は少年院仲間だったそうだ。なぜ仲間を殺したのかについて、ブログは口封じだと答えている。
話はそこから少し遡る。ブログによれば、Tは少年院に収監されていた時期に別件で逮捕されていた。そのとき武勇伝のように「俺は殺人もしている」と口にして、虚勢を張ったそうだ。その殺人の中身として語られたのが、収監される前のTが当時16歳で高校1年生の女子に抱いていた片思いだった。
ブログの描写はこう続く。Tは失恋の傷を恨みに変え、刃物を持って少女の家を訪ねた。ところが少女本人は留守で、家にいたのは少女の姉だったと書かれている。Tは問答無用で姉に刃物を向け、玄関から奥の部屋へ逃げた姉を追って、家の中で命を奪ったという筋立てだ。
そこへ母親が帰ってくる。家の異変に気づいた母親は隣家に助けを求め、家の裏へ逃げたものの、そこで何度も刺されて亡くなったとされる。さらに片思いの相手だった少女が帰宅してしまい、Tに殺されたとブログは書いた。
ブログはこの先も言い切る。Tはこの事件では立件されず、別件で収監されたのだという。計4人を殺傷したのだから、Tの頭にも死刑の二文字がよぎったのだろうと書き手は想像していた。当然のように死刑判決が確定し、時代が平成に移ってから刑場の13階段を上った、というのがブログの流れだった。
結びの一文も印象的だ。執行の日までTは死刑の恐怖に包まれていたのだろう、と書き手は推し量っている。ピースをしながら連行される姿は今も脳裏に焼き付いている、と締めくくっていた。読み手の記憶に訴える書き方だが、ここまでの筋書きには、後の照合結果と合わない部分が少なからず混ざっている。
数えてみると合わない話
ずれは一つや二つじゃない。ブログは最初の遺体が千葉県の畑で見つかったとするが、調べた本筋では横浜市戸塚区のキャベツ畑だ。ブログは姉が殺されたと書くものの、本筋で命を落としたのは少女本人と妹、そして母親の三人だった。約35年前という年数も、何年の時点から数えたのかブログには書かれていない。
口封じの相手も違う。ブログは畑の遺体を口封じの犠牲者として語っていたが、本筋で畑の青年が殺された理由は20万円の持ち逃げだった。口を封じるために消されたのは、兵庫県尼崎市で殺された別の少年のほうだ。
人数もずれている。ブログは計4人を殺傷と書くが、照合候補の資料では神奈川と兵庫で男女5人が殺された連続殺人とされる。この事件では立件されず別件で収監された、という話も、母娘殺害の容疑で逮捕された本筋とはかみ合わない。平成に入ってからの執行という点だけは、2007年の執行と矛盾しないんだよな。
照合で残ったもの、残らなかったもの
照合の結果にも触れておく。同じ名前か、十分に近い独立した資料は、今回の照合では見つからなかった。自動の照合だけで確定できた事実はなく、この話はひとまず元記事の記述や伝説、噂として保留の扱いだ。いちばん近い候補として挙がったのは「藤沢市母娘ら5人殺害事件」だが、一致度は弱いと判定された。
候補の中身はこうだ。1981年10月6日から1982年6月5日までの約8か月間に、神奈川県と兵庫県で男女5人が相次いで殺された。3件の事件からなる連続殺人で、加害者は男F、逮捕されたときは21歳だったとされる。ブログのTとは頭文字が違う点も、頭の片隅に置いておきたい。
本筋はこの候補とよく重なる。畑の事件が1981年10月6日、尼崎の事件が1982年6月5日で、日付がぴたりと合うからだ。それでも題名が似ているというだけでは採用せず、候補は参考扱いにとどめた、というのが照合側の判断だった。
「徹底した悪になる」と決めた少年
Tの生い立ちから見ていく。Tは1960年8月に茅ヶ崎市内の病院で生まれ、平塚市で育った。幼いころは両親の愛情を受けていたが、妹が生まれると関心はそちらへ移り、姓の読みをもじった蔑称でからかわれるようにもなった。それがきっかけで、本人いわく「大きくなったら徹底した悪になる」と考え始めたというから、根が深い。
小学4年のとき、事件を起こす。同級生の女の子の頬に、鉛筆を突き刺したんだ。これを境に、今度はT自身がいじめの標的になっていった。中学では「Tを殺す会」とでも呼べそうな集団のいじめを受けながら、空手道場に通って体を鍛え、非行を重ねていった。
非行は段々と大きくなる。オートバイ盗難に始まり、ひったくり、窃盗へとエスカレートしていった。十代のうちに新潟の少年院、小田原の中等少年院、久里浜の特別少年院と、いくつもの施設を渡り歩いている。この少年院暮らしで、のちに事件の当事者となる二人の少年と知り合ったことが、悲劇の伏線になった。
独特の空気もあったらしい。閉じた世界では、武勇伝を語ることが一種のステータスだった。実際には手を下していない者まで、話を盛った暴力自慢をするのが珍しくなかったとされる。Tも人を殺す前から「俺は殺人もしている」と虚勢を張っていたと伝えられ、その見栄が数年後、皮肉にも現実になってしまう。
キャベツ畑の夜と、疑われた別の若者
出所は1981年5月。久里浜少年院を出たTは、かつての少年院仲間だった青年とまた組み、ひったくりを繰り返して荒稼ぎした。ところがその仲間が、現金20万円を持ち逃げしてしまう。激怒したTはこれを裏切りと受け止め、殺意を固めた。
同じ年の10月6日の未明。Tは横浜市戸塚区のキャベツ畑にその青年を呼び出し、刃物で滅多刺しにして殺した。青年は最後まで自分が殺されるとは思っていなかったと見られ、Tは「最後のドライブ」だと言って現場へ誘い出したと伝えられる。遺体を見つけたのは、同じ日の朝に散歩していた近くの住民だった。
捜査の目はTに向いた。ところが実の母親が「あの夜は家で寝ていた」とアリバイを証言したことなどから、Tは嫌疑不十分で釈放されてしまう。代わりに別の少年院仲間が、最重要参考人として厳しい取り調べを受けた。
その人は完全に無実だった。なのに真犯人が野放しのまま、長いあいだ疑われ続けたという経緯がある。振り返り記事や個人ブログでは、この時点でTを再逮捕できていれば悲劇は防げたのでは、という悔いを添えて語られがちだ。
断られた片思いが殺意に変わるまで
事件の芯はここからだ。1981年11月、Tは茅ヶ崎の高校の前で、下校途中の女子高校生に声をかけた。「自分は社長の息子で金持ちだ」と嘘の身の上話で近づき、まんまと住所と電話番号まで聞き出している。何度かデートを重ねたものの、少女の本心は別の同級生の男子にあった。
年末、少女ははっきり断った。「好きな人がいる」「ガキみたいでダサいし不潔だから嫌」と、きっぱりとした拒絶。プライドを深く傷つけられたTは、ここから逆恨みを募らせていく。少女の交際相手候補だった同級生の男子に脅迫電話をかけ、学校にも嫌がらせの電話を何度もかけるようになった。
大人たちも取り合わない。少女の父親は「勝手に好きになられても困る」と突っぱね、母親にもまともに相手にしてもらえなかった。そのことがTの中で殺意に変わっていったとされる。それでも一時は和解したかに見える時期があった。Tが少女の妹とも顔見知りになっていたという込み入った関係が、この事件をいっそう痛ましいものにしている。
辻堂の家で起きたこと
1982年5月上旬のこと。Tは金銭の返済を求めて少女の自宅を訪れたものの、少女の両親から「警察を呼ぶ」と強く拒絶されてしまった。この瞬間に「一家を皆殺しにしてやる」と決めたと、T自身が供述している。
包丁は用意してあった。5月27日の夜、Tは藤沢市辻堂にある少女の自宅に押し入る。少女本人、当時中学生だった妹、そして帰宅した母親の三人が、次々に命を奪われた。深夜に家の異変に気づいた母親が隣家へ助けを求めて走ろうとし、追いかけてきたTに刺されたという経緯も伝えられている。
言葉が出ない。一つの家で、家族三人が短い時間のうちに亡くなった。想像を絶する惨劇だったはずだ。ブログが描いた、姉が玄関から奥の部屋へ逃げたという場面は、この本筋のどこにも出てこない点も付け加えておく。
口を封じられたもう一人の少年
共犯とされる少年がいた。事件当日、Tはもう一人の少年院仲間の少年を、この犯行に関わらせていたとされる。この少年は5月末に東京の歌舞伎町で、たまたまTと再会したばかりだった。ところが犯行を終えたあと、Tの中では、この少年が警察に自白してしまうのではないかという恐れが大きくなっていった。
これが口封じの正体。6月5日の夜、Tはこの少年を兵庫県尼崎市まで連れ出し、殺害した。ブログが「なぜ少年院仲間を殺したのか」と問いかけ、その答えを口封じだとしていたのは、本来この尼崎の件にあたる。
この少年の過去も重い。共犯でありながら口を封じるために消された彼もまた、家庭環境に恵まれず、教護施設や少年院を転々としてきた。行き場のない少年たちが、閉じた世界の中で互いを傷つけ合った末の悲劇。事件全体を通すと、そんな側面が色濃く浮かんでくる。
十六年かかった裁判とVサイン
逮捕は1982年6月、母娘殺害の容疑だった。問題の映像はその後のものだ。1982年10月、Tは護送車を取り囲む報道陣のカメラに、笑顔でVサインを送った。ブログが書いた、手錠のかかった手を上げてピースし不敵に笑ったという場面は、この逮捕後の護送の姿のことだ。
法廷の外でも同じ振る舞い。閉廷後にも、外にいたカメラマンや傍聴人に向けてピースサインを見せつけている。こうした光景は当時のニュース映像として広く報じられ、画面越しに見ていた人たちへ強い衝撃を与えたんだよな。
判決の日も、あのピース。死刑判決が言い渡された公判で、Tは著名な広域暴力団の総裁の名を挙げ、「自分が世界で好きな人物」だと言ったと伝えられる。傍聴席に向かって、何度もピースサインを送ったともいう。裁判長からは「そんなことをしているから反省していないと思われるのだ」と厳しく諭されたって話だ。
あの態度が事件の顔になった。この不敵さこそが、その後も長いあいだこの事件を象徴するイメージとして、見た人々の記憶に焼き付いていく。裁判そのものも、すんなりとは進まなかった。
長い長い裁判。1988年に一審で死刑判決が出たあと、控訴審では異例の争点が持ち上がり、裁判は長い回り道に入った。不安定な精神状態で出した控訴の取り下げが、有効かどうかで争われたんだ。最終的に2004年、最高裁が上告を棄却して死刑が確定するまで、実に16年を要している。
最高裁の言葉は厳しかった。判決では「殺害の決意と実行の過程は誠に短絡的かつ身勝手」だと断じた。続けて「事前に準備した鋭利な刃物で身体の枢要部を執拗かつ残虐に滅多刺しにした」とも述べている。死刑はその後の2007年12月、法務大臣の執行命令によって東京拘置所で執行された。
掲示板で呼ばれた「サインはV」
事件から40年以上がたった。今も懐かしニュース系の掲示板や個人の事件まとめブログで、折にふれて取り上げられている。古くからある匿名掲示板の過去ログには、「サインはV」という通称でこの事件専用のスレッドまで立っていたんだよな。
スレッドの中身も濃い。護送車でのVサインの静止画や、判決公判での発言について書き込みが続いた。当時をリアルタイムで見ていた世代のユーザーたちが、記憶をたどりながら書き込みを重ねてきた場所だ。
ほかの媒体でも扱いは同じ。個人が運営する事件史ブログや、いわゆる「戦後の猟奇事件」を扱うネット記事でも、この事件は繰り返し紹介されてきた。並べられる相手は、西口彰事件や大久保清事件といった顔ぶれだ。昭和後期を代表する凶悪事件の一つ、という位置づけになる。
まとめサイトにも顔を出す。イラストや二次創作の周辺にある百科事典ふうのまとめサイトに、犯人の経歴や逸話を項目にしたページがあるんだ。ネットユーザーのあいだで息長く記憶されているのが、そこからもうかがえる。
音声や動画でも扱われる。ポッドキャストや個人のYouTube考察チャンネルでは、「なぜピースサインだったのか」という切り口で取り上げられることがある。反省のなさの象徴として語られる一方、極度の虚勢と幼さの表れではないかと見る配信者も少なくない。
少年院の武勇伝という毒
よく出る指摘がある。加害者と被害者の一人がどちらも少年院出身で、閉じた集団の中で培われた歪んだ人間関係が悲劇の土壌になった、という見方だ。個人ブログや掲示板で、この話は繰り返し語られてきた。
内部の声もある。元少年院関係者を名乗る書き込みでは、暴力や犯罪歴を盛って語ることで序列が決まる独特の空気が、当時の少年院にあったという。「殺人もしている」という嘘の武勇伝が、後に本当の殺人へ転じてしまう危うさを常にはらんでいた、とも振り返られている。Tの虚勢の話と重ねると、背筋が冷える。
地元の声も残っている。当時神奈川県内で育った世代を名乗るユーザーの体験談だ。「自分の通っていた高校の近くで実際に起きた事件で、しばらく夜道を歩くのが怖かった」という。湘南の穏やかなイメージを持つ藤沢や茅ヶ崎で起きたというギャップが、当時の怖さをいっそう強めていたらしい。
湘南の住宅街と、取り違えられる別の事件
舞台は藤沢市辻堂の周辺。湘南の海に近い、閑静な住宅地として知られる土地だ。名前が似ているせいで、ネットではまれに、藤沢市内で過去に起きた別の殺人事件と混同して語られることがある。近隣住民とのトラブルが発端となり、母娘三人が犠牲になった別の傷害致死事件などがその例だ。
でも、これは別物だ。犯人も時期も経緯も違う、まったく別個の事件だという点は押さえておきたい。本事件は警察庁から広域重要指定事件に指定されるほどの重大事件で、神奈川県内では戦後の殺人事件として最多の死者数を出した。地元紙でも、その年のトップニュースに挙げられている。
現場は三か所に散らばる。横浜市戸塚区のキャベツ畑、藤沢市辻堂の住宅街、そして兵庫県尼崎市。少年院という閉ざされた場所で生まれた歪んだ人間関係が、どれほど広い範囲で、どれほど長く人の運命を狂わせたのか。点在する現場を結ぶTの逃避行そのものが、その答えを突きつけてくる。
まだ確かめきれていないこと
念のため書き添えておく。元記事にある日時や人数、場所、動機、判決、捜査経過は、公的記録や裁判資料、警察発表、同時代の報道で個別に確かめたいところだ。「隠蔽」「口封じ」「霊視」「呪い」「異界」「陰謀」のような説明は、独立した裏付けがない限り噂や異説として扱う。弱い検索候補3件も、題名が似ているだけでは採用していない。
口封じの一文も例外じゃない。ブログの「それは口封じです」という答えは、照合の段階では伝説や噂、異説の側に分けて扱われた。本筋で尼崎の少年の件が口封じとされている点も含めて、公的な記録で裏を取るまでは慎重に読みたい。亡くなった人たちへの敬意を忘れずに、語られた話と確かめられた事実を分けて読んでいきたい。
