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08|連合赤軍事件:あさま山荘の篭城と総括リンチで未だ語られぬ内部の闇と真相

鉄球が山荘の壁を叩き割る映像。1972年の冬、日本中のテレビがその瞬間を映していた。連合赤軍事件と聞いて頭に浮かぶのは、たぶんあの中継映像なんだよな。でも本当に背筋が冷えるのは、その少し前に雪の山奥で起きていた、仲間が仲間の命を奪っていく数か月のほうだった。

事件の輪郭から話しておく。連合赤軍事件は、1971年から1972年にかけて過激派組織の連合赤軍が起こした一連の事件をまとめた呼び名だ。中心にあるのは二つで、内部で「総括」と称して行われたリンチ殺人、いわゆる山岳ベース事件と、あさま山荘事件になる。英語ではUnited Red Armyと書かれ、日本の極左テロ組織、新左翼組織のひとつに数えられる。

母体は二つの組織だった。共産主義者同盟赤軍派と、京浜安保共闘革命左派。この二派が合流して生まれた武装組織が、共産主義革命を掲げて動き出す。山岳ベース事件にあさま山荘事件と、殺人とリンチ殺人をいくつも重ねたのが、この集団だったわけだ。

高度成長の影で、学生運動は最後のあがきに向かった

時計を1960年代まで戻してみる。話はそこからだ。日本は戦後復興を抜け、高度経済成長の坂を駆け上がっていた。その陰でベトナム戦争への反対や安保闘争が熱を帯び、大学のキャンパスは大学自治や反戦を軸にした学生運動で揺れていた。

赤軍派の結成は1969年。武装闘争を正面から掲げた組織だ。けれど警察の摘発を受けて、組織はみるみる弱っていった。もう片方の革命左派は京浜安保共闘から枝分かれした一派で、こちらは都市でのゲリラ戦を目指していた。

1971年、両派は手を組む。互いの足りないところを埋め合う、補完関係を求めての合流だった。南アルプスでの軍事訓練や榛名山での指導部会議を重ねたうえで、同じ年の12月、連合赤軍は正式に結成される。旗印は毛沢東主義で、目指すは「人民戦争」だったが、内側の対立は早くから深刻になっていた。

GHQの占領政策が左翼運動を刺激した、という見方もある。それでも事件の芯は、両派の思想と組織の未熟さが暴走したところにある。筋としてはこっちが近い。学生運動は1970年代の初めに潮が引くように勢いを失っていき、連合赤軍の結成はそのなかでの最後のあがきだった。

貧困や社会への不満も、事件の根っこにはあった。それは確かだ。けれど最後に悲劇を生んだのは、不満そのものより、革命という理想がどこかで歪んでしまったことのほうだった。

榛名の山小屋で始まった「共産主義化」

1971年の暮れ、群馬県の榛名山。冬の山は厳しい。中腹に建つ粗末な山小屋には暖房もろくになく、若者たちが息を潜めるように暮らしていた。警察の追及から身を隠しながら、できたばかりの連合赤軍のメンバーはそこで「軍事訓練」と称する共同生活を送っていた。

指導部の中心は森恒夫と永田洋子。二人はメンバー一人ひとりに「共産主義化」という言葉を突きつけた。厄介なことに、その「共産主義化」が何を指すのかを定義した人間は、組織の中に誰ひとりいなかった。物差しは伸び縮み自在。

髪型が乱れている。化粧をしている、恋人と手をつないだ、そんな些細な仕草までが「ブルジョア的」「反革命的」と断じられていった。行き着く先は決まって「総括せよ」という命令だった。

考えてみてほしい。化粧をしただけで、恋人の手を握っただけで、仲間の輪の真ん中に引きずり出される。基準を決めるのは指導部だけで、弁明の余地はどこにもない。そういう場所で雪に閉じ込められたまま何か月も暮らすことが、どれほど人の心を削っていくのか、想像するだけで息が詰まる。

言葉の追及が「援助」という名の暴力に変わるまで

最初は言葉だけだった。円座に座らされたメンバーが、自分の弱さや革命への覚悟の足りなさを延々と語らされる。森は「総括が足りない」と何度でも突き放した。やがてそこに「援助」と称する暴力が加わり、指導部がメンバーの思想を検証する場は、別のものへ変わっていく。

殴打、極寒の屋外への放置。後ろ手に縛ったうえでの監禁まであった。12月から翌1972年2月にかけて、こうした仕打ちを受けたメンバーが凍死や撲殺で次々に命を落としていった。亡くなったのは12人にのぼる。

数字で追うと寒気がする。最初の拠点、榛名ベースだけで8人。その後に拠点を移した迦葉山ベースや、妙義山系の山中に構えたアジトでも、暴力は止まらず犠牲者はさらに増え続けた。

事件を紹介するネット記事には、「榛名山や浅間山麓の山小屋で」「浅間ベースでは4人」と書いたものもある。ここは少し引っかかる。記録で山岳ベースの舞台として出てくるのは、榛名、迦葉山、妙義山系のほうだ。12人から榛名の8人を引いた残りの4人は、迦葉山や妙義へ移ってからの犠牲と読んでおくのが自然だ。浅間の名は、あさま山荘の強烈な印象に引っぱられて紛れ込んだのかもしれない。

最初の犠牲者とされる人物は、「軍人らしくない」という理由で総括を求められ、暴行の末に死亡したとされる。妊娠していた女性メンバーは、おなかの胎児とともに命を落とした。かつて総括を主導する側にいた人間までが、やがて自分自身が総括にかけられる側へ転落していく。地獄の構図だ。

全員が「次は自分か」という恐怖に縛られていた。逃げ場はない。逃げ出そうとする者への監視は日に日に強まり、雪に閉ざされた小屋の中で、暴力は自分で自分を増やすように膨らんでいった。

死は「敗北死」と呼ばれた。亡くなった仲間は「革命に耐えられなかった」者として片づけられる。遺体の多くは雪に覆われた山の中に埋められ、事件が明るみに出るまで、長いあいだ誰にも見つけてもらえなかった。

遠山美枝子という一人の若い女性

犠牲者の名前を、ひとりだけ挙げておく。遠山美枝子、当時25歳。東京の裕福な家庭に生まれ、かつては明るく活発な学生運動家だったと伝えられる。そんな彼女もまた、閉ざされた集団の中でじわじわと追い詰められ、仲間からの集団リンチを受けて命を落とした。

明るかった人が、革命の名のもとで死んでいく。やりきれない。亡くなった12人の無念は今も現場に静かに響いている気がするし、残された家族を思うと言葉が出てこない。

「総括」はもともと、ただの反省会の言葉だった

「総括」自体は、左翼運動のなかでごく普通に使われていた政治用語だ。意味は「これまでの活動を振り返って、次に活かす」くらいのもの。会社の反省会とそう変わらない。それが連合赤軍の内部で異様な意味を帯びたのは、森恒夫の唱えた「共産主義化論」がきっかけだとされる。

森が持ち出したのは、人間は暴力によって弱さを克服し、共産主義的な人間へ生まれ変われる、という趣旨の理論だった。その実践として、暴力を伴う「総括要求」が正当化されていく。理屈が現実を追い越した瞬間だ。

反省会の言葉が、人を殺す言葉に変わる。言葉は変わっていない。変わったのは、それを口にする側の空気と、誰ひとり逆らえない指導部との力関係のほうで、そこが何より怖い。

この理屈の怖さは、判断の基準が客観的な事実じゃなく、「決意」や「覚悟」という目に見えないものに置かれていたところにある。覚悟が足りるかどうかを決めるのは、いつも指導部の主観。誰ひとり、そこから逃れられなかった。正直、これが一番ぞっとする。

山を降りた5人と、軽井沢の保養所

1972年2月。警察の包囲網が迫るなか、生き残った幹部候補生の一部は山を降りて逃走を続けていた。そのうちの5人、坂口弘、坂東国男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久が、あさま山荘事件の当事者になる。

運命の2月19日。5人が逃げ込んだのは、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所の保養所「あさま山荘」だった。河合楽器は静岡県浜松市に本社を置く会社だ。管理人の妻、当時31歳の女性が人質に取られた。

長野の冬は容赦がない。警視庁の機動隊と長野県警の機動隊が山荘を囲み、隊員たちは氷点下のなかで包囲を続けた。5人は銃器で武装して警察と撃ち合い、人質を無事に救い出すための作戦は、なかなか思うようには進まない。

テレビは連日、この現場を中継し続けた。2月28日の強行突入までの合計視聴率は89.7%、瞬間視聴率は90%近くに達したと伝えられている。全国のお茶の間が固唾をのんで画面を見つめていたわけだ。数字だけでも異常さがわかる。

籠城は19日から28日まで続き、突入は10日目のことだった。ここも細かい話。事件を紹介するネット記事には「9日間にわたって対峙」と書いたものもあり、数え方によって日数が一日ずれて語られている。公的な記録に沿えば、2月19日に始まって10日目の2月28日に決着した、足かけ10日間の事件だ。

突入の日、鉄球が山荘の壁を打ち壊す映像が全国のお茶の間に流れた。人質は無事に救出され、立てこもった5人は全員が逮捕される。代償は重かった。死者は3人、機動隊員2人と民間人1人で、重軽傷者は機動隊員26人と報道関係者1人を合わせた27人にのぼる。

人質の女性はどうなったか。19日から28日まで、管理人の妻は武装した5人と同じ建物の中に閉じ込められていた。10日目の強行突入で彼女が無事に救い出されたことは、あの長い冬の出来事のなかで、数少ない救いのひとつだ。

ネット記事では「警察官2人が死亡」とだけ書かれることが多いけど、民間人にも犠牲者が出ていた。ここは大事なところだ。そこは落とさずに覚えておきたい。地元の人たちは亡くなった警察官たちの魂に敬意を払い、その記憶をこの土地に刻んできた。

本当の衝撃は、そのあとに来る。5人の逮捕後に始まった取り調べで、山岳ベースで起きていた凄惨なリンチ殺人の全貌が、ここで初めて明らかになった。日本中が言葉を失い、連合赤軍という組織はこれをきっかけに解体へ向かっていった。

順番が逆なんだよな。世間はまず銃撃戦の中継で連合赤軍を知り、そのあとで山の中の12人の死を知らされた。中継で見ていた5人が、あの山の中で起きたことと地続きの場所から来たとわかったとき、日本中の背筋が凍ったわけだ。

避暑地と山村に残された傷

軽井沢町は、長野県を代表する避暑地だ。あさま山荘はその高級別荘地の一角に建っていて、事件が起きたのは観光客もまばらな冬の閑散期のことだった。静かな町は、いきなり大混乱に放り込まれた。想像するだけで胃が痛い。

群馬県の榛名山は、山岳ベースの舞台になった山だ。深い森と厳しい寒さ。その寒冷な気候が、極寒の屋外に放り出されたメンバーを追い詰め、リンチの残虐さをいっそう増幅させた。

事件は地元に深いトラウマを残した。軽井沢の住民は観光業への打撃を恐れ、今も事件のことをあまり語りたがらない。口が重いのも無理はない。避暑地としての評判で暮らしを立てている町にとって、あの事件は今もずっと触れられたくない傷のままなんだよな。

あさま山荘の建物は今もある。ネット記事のなかには「記念館として保存されていて、訪れる人は少ない」と書いたものがある。「解体や改築を経て記念館として残された」という語られ方も見かける。ただ実際には改築のうえで河合楽器の施設として現存していて、内部が一般に公開されることは基本的にない。見られるのは外観だけだ。

手を合わせる人はいる。群馬の山中では、遺体が見つかった場所に供養塔が建てられ、住民が静かに祈りを捧げてきた。榛名山周辺の旧アジト跡は観光地にはなっておらず、供養のための地元の活動が細々と続けられてきたと伝えられている。千葉県や栃木県で起きた関連事件も、それぞれの土地の記憶に刻まれている。

「山が汚された」と地元は嘆いた

事件当時、地元の反応は恐怖と怒りだった。軽井沢の住民は「町のイメージが壊された」と嘆き、その一方で警察を支えようとするボランティアも集まり始める。群馬の山村では、リンチの惨状を知った住民が「山が汚された」と口にした。胸に刺さる一言。

潮目が変わった。全国では左翼運動への支持が急落し、事件そのものが「過激派の狂気」の代名詞として批判の的になっていった。学生運動の退潮は、ここで決定的になる。

それから半世紀。事件を直接知る世代は減り、今ではSNSでときどき名前を見かける程度になった。Xには「連合赤軍の総括はカルトのよう」という投稿が流れ、現代の政治運動と重ねて比べる声もある。

軽井沢の住民は「過去の傷を癒したい」と、静かに記憶に封をしている。気持ちはわかる。メディアでの扱いが今もずっと少ないままなのは、左翼運動の暗部を正面から取り上げるのを避けているからだ。

警察の協力者、GHQの影という噂

ここからは噂の話になる。連合赤軍事件には、組織の内側に協力者がいたとか、外の勢力が関わっていたとか、陰謀説がいくつもつきまとっている。代表的なのは、警察庁が連合赤軍の中に「協力者」を置き、謝礼金を渡していたという説だ。

事件を紹介する記事のなかには、事件後の国会で後藤田正晴警察庁長官がこれを認めた記録がある、と書いたものもある。監視していたことが、かえって事件を助長したのではという指摘だ。ここは落ち着いて聞いてほしい。

公式に近い線で語られているのは、後藤田長官(当時)が国会答弁で公安の情報収集活動の存在を認めた、とされる史実のほうだ。陰謀論はそこを出発点にした憶測で、組織の壊滅を早めるために泳がされていたのではないか、という見立てになる。けれど確たる証拠は示されていない。噂の域を出ない話。

もうひとつがGHQ説だ。戦後、GHQが反戦運動を奨励し、その流れから赤軍派が生まれたが、やがて無関係の組織として暴走した、という筋立て。Xでは「GHQの赤化政策の遺産」なんて憶測も飛び交っている。でも、直接の因果関係を示す史料は見つかっておらず、証拠は乏しい。

噂は噂として聞く。陰謀説も、GHQ説も、面白がって飛びつくには材料が薄すぎる。それでもこういう説がまとわりつくせいで、事件の真相はかえって語りにくいタブーのような空気をまとってしまった。

死刑判決、獄死、そして転向した元メンバーたち

事件のあと、連合赤軍のメンバーは次々に逮捕され、裁判で死刑や無期懲役の判決が下る。森恒夫は自殺した。永田洋子は獄死している。服役を終えた元メンバーのなかには、かつての思想から離れて転向し、保守派へと立ち位置を変えた者もいた。

あさま山荘に立てこもった5人のうちのひとり、加藤倫教は、のちに自民党員となって事件を反省する立場に回っている。2017年のドキュメンタリーでは、元メンバーの新しい証言が注目を集めた。人は変わるものだ。

事件から50年以上がたった2025年の時点でも、軽井沢で記念のイベントが開かれることはほとんどない。町は多くを語らない。記憶は静かに保たれているだけだ。社会に戻った元メンバーの一部は、事件から何を学ぶべきかを口にしてきた。

獄中の手記と一本のマンガ

事件の全貌が公に語られはじめたのは、逮捕後の取り調べ、その後の獄中手記、そして裁判記録からだ。坂口弘は獄中で短歌を詠み、『あさま山荘1972』などの手記で自分の体験を克明に綴った。永田洋子も『十六の墓標』という手記を残し、組織の内側にかかっていた心理的な圧力を書き留めている。どれも読むのがつらい本だ。

これらは一次資料として、後の研究者やジャーナリストが事件を語るときの土台になっている。近年ではマンガ家の山本直樹が『レッド』シリーズで事件を描き、ネット上でも「総括の恐ろしさがよく分かる」と話題になった。読んだ人の感想はだいたい同じ。ノンフィクション作家や識者の分析、noteのような個人の発信でも、総括はなぜ暴走したのかが繰り返し取り上げられてきた。

同じ事件が、四つの語り口で語られている

語り口は大きく四つ。ひとつめは、元メンバーの獄中手記に基づく「内部の証言」だ。坂口弘や永田洋子の著作は、加害と被害が入り混じった当事者の目線から、総括の中身を内側から描き出している。

ふたつめは、警察発表や裁判記録に基づく「事件史」。犠牲者の氏名や死亡した状況、遺体が埋められた場所までが淡々と記録されていて、感情をそぎ落とした記述が続く。読むと冷たい。

みっつめは、後年の創作や考察。マンガやドキュメンタリー、ネット記事が、心理学や社会学の目で「なぜ普通の若者たちが殺人に加担したのか」を掘り下げていく。読み手が自分に引きつけて考えやすいのも、この系統だ。

よっつめはSNSだ。掲示板やSNSでは「連合赤軍はカルト集団と同じ構造だった」という現代的な読み替えが、しばしば持ち出される。宗教二世の問題や、ブラック企業の「圧力による同調」になぞらえる議論も目立つ。どれも史実そのものより、後の世代がこの事件をどう受け止めたかの幅を映している。

冬の斜面から聞こえる話し声

怪談めいた話もある。榛名山周辺の登山者のあいだでは、古くから語られてきた話がある。冬のさなか、決して人が入るはずのない斜面の奥のほうから、誰かの話し声のようなものが聞こえてきたというんだ。

ある登山愛好者は、1980年代に山菜採りで榛名の奥地へ入ったとき、突然強い違和感を覚えて引き返したと語っている。「理由はわからないが、その一角だけ空気が重かった」。後で地元の人に尋ねると、事件の現場に近い場所だと言われて背筋が寒くなった、という趣旨の体験談だ。ネットの掲示板への投稿だ。

軽井沢のあさま山荘の周辺にも、静かな怪異譚が細々と伝わっている。厳冬の夜にあの辺りを車で通ると、ラジオにノイズが混じり、当時のアナウンサーの声のようなものが聞こえる気がする。地元住民の一部が口にする、都市伝説めいた話だ。ぞくっとする。

念のため断っておくと、これは記録に基づく事実じゃない。あくまで噂話の域。それでも、こういう話が生まれてくること自体に、事件の記憶がどれほど深くこの土地に刻まれているかが表れている。

オカルト系のまとめサイトには、「祖父が機動隊員としてあさま山荘の現場にいた」という匿名の書き込みがある。祖父の話はこうだ。祖父いわく、あの寒さと緊張感は今でも夢に見る。

突入の瞬間、味方が撃たれるのを目の前で見た。その後、何年ものあいだ大きな音が苦手になった。真偽は確かめようがない。それでも、現場に立ち会った人に事件が長く影を落としたことをうかがわせる証言として、繰り返し引用されている。

2月が来るたび、SNSはこの事件を思い出す

X(旧Twitter)や掲示板では、事件の周年の2月や関連ドキュメンタリーの放送のたびに話題が再燃する。多いのは、今の社会への警鐘として読み替える投稿。わかる気はする。

「総括というシステムは今のブラック企業やカルト宗教の構造とまったく同じ」という書き込みは、周年のたびに見かける。「同調圧力が閉鎖空間でどこまで人を壊すかの実例」と書く人もいる。耳が痛い話だ。

事件は、まだ終わっていない

連合赤軍事件は、左翼運動の退潮を決定づけた。なんとも皮肉な話だ。暴力で革命を目指した若者たちの事件が、結果的には合法的で平和的な民主主義を根づかせる方向へ社会を押したんだから。

新左翼運動全体への不信も、ここで決定的になる。その後の学生運動やセクト間の抗争、いわゆる内ゲバを語るときも、この事件は欠かせない参照点として持ち出される。それだけ重い出来事だった。

2025年は戦後80年の節目で、こうした過去を振り返る動きもあったが、暗部に触れる話だけに扱いはどこか慎重だった。当然かもしれない。Xでは現代の政治運動と重ねて、「過激主義の危険性」を訴える声も上がる。組織の絶対主義が生む悲劇の教訓として、事件は今も引き合いに出される。

亡くなった人たちの悲しみは、今も町に静かに響いている。傷はまだ深い。地元の人たちは彼らの記憶を胸に抱えたまま、癒しを探り、少しずつ未来へ一歩を踏み出そうとしている。

それに、この事件にはまだ幕が下りていない部分がある。あさま山荘に立てこもった坂東国男は、1975年のクアラルンプール事件で超法規的措置によって釈放され、国外へ逃亡した。国際手配は今も続いている。

立てこもった5人のうちひとりが今も手配されたままで、その「終わっていない」感じが、この事件に独特の不気味さを与えている。山も町も、今は静かだ。次に軽井沢を訪れたとき、別荘地の静けさの奥に、ふとその影を感じるかもしれない。

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