ベレー帽の男が差し出した甘い誘い
始まりは1971年の群馬だった。ベレー帽に高級外車、それに画家という肩書き。男は路上で若い女性に近づき、「絵のモデルになってほしい」と誘っては自分の車に乗せていったんだよな。男の名は大久保清。
行き先はモーテルだった。大久保はそこで関係を持とうとし、断られると相手を殺した。ある投稿者は、事件の骨組みをそんなふうに書き残している。投稿によれば、大久保はわずか3か月のあいだに8人もの女性を殺害し、その遺体を遺棄したのだという。
数字の話はまだ続く。投稿者によれば、大久保はロシア人とのハーフだったそうだ。声をかけた女性は1000人ほどにのぼり、そのうち150人ほどが車に乗ったそうで、肉体関係を持った女性もいたらしい。とんでもない数に声をかけていたことになる。背中が冷える数字だ。
みんなが夢を見ていた時代
時代は高度成長期。車への憧れ、外国人やハーフへの憧れがあちこちにあった。みんなが何かしらの夢を抱えて暮らしていて、だからこそ女性たちは彼の誘いに乗ったのだと投稿者は考えていた。投稿者がいちばん力を込めているのは、たぶんこのあたりだ。
今で言えば、IT企業のオーナー級の人物に成りすまして近づくようなもの。投稿者のたとえだ。当時の若い女性の目には、それほど特別に映ったということだ。ただ当時の感覚だと、それ以上の魅力があったようだとも付け加えていて、外車とベレー帽の組み合わせの威力がよくわかる。
家庭を持っても止まらなかった
前科もあった。読むのがつらい話になる。投稿者によると、大久保には以前から性暴力の癖があったようだ。10代で強姦事件を起こし、服役していたそうだ。その後は結婚して妻子を持つ身になったが、それでも犯行を続けていたとのことで、家庭すら歯止めにならなかったことになる。
知らないうちに乗ってしまう怖さ
怖さの芯はどこにあるのか。投稿者の答えははっきりしている。知らないうちに殺人鬼の車に乗ってしまい、自分には関係ないと思っていても被害に遭ってしまう、そこが怖いのだと言う。たしかに、これほど防ぎにくい怖さはない。
稀に見る殺人鬼。投稿者は大久保をそう呼び、アメリカ映画の無差別殺人鬼そのものだとまで言い切った。ふつうに暮らしているだけで襲われる恐怖がそこにある。甘いマスクと高級外車、巧みな言葉づかいにほだされて車に乗ったばかりに、彼女たちは命を奪われたのだと投稿は続く。
車が一家に一台なかったころ
「なぜそんなに簡単に車に乗るのか」という指摘もある。答えは時代にある。当時は車がまだ一家に一台もない時代で、車に乗ること自体のステータスが今では想像できないくらい高かったと投稿者は言う。車を持っている男というだけで、女性にもてたそうだ。
大久保はこの時代背景まで利用したのだと思う、というのが投稿者の見立てだ。今なら「ポケモンGOの穴場を知っている」と誘い出して殺害するような感じに近い、とも投稿者はたとえている。妙に生々しいたとえだ。映画の中だけの無差別殺人鬼が実在した恐怖の事件だと、投稿は締めくくられる。
白いスポーツカーとフランス帰りの名乗り
別の記録もある。1971年3月、群馬県内の路上を一台の白い外国製スポーツカーが走っていた。運転していたのは大久保清で、当時35歳の男だ。彼は自らを「フランス帰りの画家」と名乗り、道を歩く若い女性に「絵のモデルになってほしい」と持ちかけていた。
物腰はやわらかい。口ぶりには自信が満ちていた。マイカーが一家に一台とはいかない時代のことだ。外国製の車を乗りこなし、洒落た身なりで話しかけてくる男は、若い女性の目に都会的で魅力的な人物として映ったのだろう。声をかけられた女性のうち、少なくない数が車に乗ってしまったと伝えられている。
拒まれた瞬間に顔が変わった
拒まれると、話は変わる。車内や連れ込んだモーテルで女性が拒むと、大久保は豹変した。穏やかな態度は一転し、暴力で相手を組み伏せて性的暴行に及んだ。抵抗されたり通報をほのめかされたりすると、彼は口封じのために相手の命を奪うという凶行に走っている。
期間はおよそ73日間。1971年3月末から5月中旬までのことだ。そのあいだに8人の女性がこの手口で命を奪われ、遺体は群馬県内の造成地や山の中などに埋められて遺棄された。
声をかけた女性は延べ100人を超えるとも言われる。車に乗ったのはその一部だ。それでも短い期間にこれほどの被害を生んだことは、当時の警察と社会に強い衝撃を与え、群馬の人々を震え上がらせた。
二つの語りで食い違う数字
数字を並べてみる。最初の投稿では、期間は3か月で、被害者は8人。声をかけたのは1000人ほど、車に乗ったのは150人ほどだった。別の記録では、期間が3月末から5月中旬の約73日間、声をかけた女性は延べ100人超で、一致するのは被害者の8人だけだ。
車の描写も少し違う。投稿は「高級外車」、記録は「白い外国製スポーツカー」と表している。画家という名乗りは同じで、記録のほうには「フランス帰り」とついている。どちらかが間違っていると決めつける材料はここにはないので、それぞれの語りとしてそのまま受け取っておくのがいいと思う。
妹を捜し続けた兄
兄の話をしたい。発覚のきっかけは、行方不明になった被害者の一人の兄だったと伝えられている。妹の身を案じた彼は、警察の捜査を待つだけでは終わらなかった。自分の足で手がかりを追いかけ、少しずつ大久保の存在へと近づいていったというから、その執念には頭が下がる。
警察はやがて動いた。大久保を任意で確保し、事情聴取を進めていく。ところが大久保は、行方不明の女性たちをどこに埋めたのかをすぐには語ろうとせず、取り調べにも反発的な態度を取り続けた。警察への恨みや反発心を口にしていたとも言われている。兄の動きが効いた形だ。
一つずつ掘り起こされていく現場
捜査本部は手を変えた。取り調べの方針を切り替え、担当官を替えるなどの対応を重ねていく。その結果、大久保は徐々に自供を始め、6月末から7月にかけて、埋めた遺体の場所を一つずつ明らかにしていった。
掘り起こされる遺体。事件の全貌は、想像よりはるかに大きかった。次々と見つかる遺体がそれを物語っていて、連日の報道は群馬県内にとどまらず、全国へ大きな衝撃を広げていった。現場に立った人たちの心中は想像もつかない。
法廷で見せたふてぶてしさ
法廷でも態度は同じ。大久保は挑発的な、あるいは投げやりな発言をたびたび繰り返した。反省の言葉を口にすることは、ほとんどなかった。聞いているだけで胸が悪くなる。自分の犯行を誇示するかのような態度を見せることさえあったと伝えられ、遺族の胸中を思うと言葉が出ない。
精神鑑定も行われた。鑑定では人格の偏りが指摘されている。ただ、刑事責任を問えないほどの精神障害とは認められず、1973年に裁判所は求刑どおり死刑を言い渡した。大久保は控訴せず、判決はそのまま確定する。
執行は早かった。死刑確定からおよそ2年10か月後、1976年1月のことだ。享年は41だった。事件の年から数えると、5年ほどしかたっていない。日本の死刑執行の歴史の中でも短い部類で、事件の凶悪さと社会への影響の大きさを反映した結果だと見る向きもある。
彼女たちはなぜドアを開けたのか
時代を映す事件。この事件は、しばしばそう語られてきた。犯行の手口そのものに当時の日本社会の空気が色濃く表れていて、マイカーは庶民にとってまだ高嶺の花だった。外国製の車を運転し、芸術家を名乗る男には、それだけで強い説得力があったわけだ。
見た目の話もある。大久保にはロシア人の血を引く外見的な特徴があった。それが当時の外国への漠然とした憧れと結びつき、女性たちの警戒心をゆるめる一因になったのではないかという分析がある。ネットのまとめや個人ブログで、たびたび語られている話だ。うなずける話ではある。
今の感覚だとどうか。「なぜ見知らぬ男の車に乗るのか」と首をかしげる人も少なくない。でも当時の社会状況や情報環境を踏まえれば、決して不自然なことではなかったという指摘も根強くあって、ここは考えさせられる。スマホもSNSもなく、初対面の相手の素性を確かめる手段は限られていた。
肩書きと外見で近づく。そういう手口が成立しやすい土壌があったと考えられている。掲示板やまとめサイトの書き込みでは、この事件を現代の特殊詐欺やSNSを使った誘い出し事件になぞらえる声も目立つ。「手口の本質は今も変わっていない」という趣旨のコメントも、しばしば見られるんだよな。形を変えた罠は今もある。
ネットの中で形づくられた人物像
生い立ちも語られがちだ。幼少期は複雑な家庭環境で育ったという。早い時期から性犯罪で服役を繰り返していたという経歴とあわせ、後年のまとめサイトや考察系コンテンツが何度も取り上げてきた。
前科の話は一致している。最初の投稿も、10代で強姦事件を起こし服役していたと伝えていた。家庭を持ってからも犯行をやめなかった話と重ねると、長いあいだ危うさを抱えたまま暮らしていた男の姿が見えてくる。
有名な逸話もある。法廷で見せたとされる、開き直った態度がその一つだ。自分を人間らしい情を持たない存在のように語った、という話も残る。こうした話は凶悪犯の「見苦しい発言」を集めたまとめ記事でよく引用され、ネット上の大久保像をつくる大きな要素になっている。
ここは注意したい。発言の正確な文脈や一言一句は、資料によって表現に細かな差がある。伝聞が重なるなかで言い回しが微妙に変わってしまった可能性もあるから、引用をそのまま信じ込むのはちょっと危ない。言葉だけが独り歩きしている部分もあるかもしれない。
海外の殺人鬼と並べられるわけ
海外と比べる声もある。動画サイトの事件考察やSNSで見かける議論だ。この事件を「日本版のシリアルキラー事件」と位置づけ、海外で起きた同じような連続殺人事件と並べて語る見方である。短期間に多数の被害者を出したこと、身なりや話術で相手の警戒心を解いたこと。
そこが似ているらしい。海外の著名な連続殺人犯の手口と重なるという指摘が、何度もなされてきた。日本の犯罪史における特異な事件として、国内外の犯罪考察コミュニティで今も繰り返し名前が挙がっている。やり口の骨組みは、国が違っても変わらないのだろう。
娘を一人で歩かせなくなった町
地元の記憶も残る。群馬で当時を知る住民のあいだでは、事件の話が折にふれて出てきた。ある地元の高齢男性は地域の集まりで、あのころは女の子が一人で外を歩いても心配しない時代だったと話していたそうだ。それが事件以来、親たちは娘を一人で出歩かせなくなったという。
地方紙が伝えた話だ。特集記事のなかで、そんな趣旨の言葉として紹介されている。町の空気が変わった。捜査に加わった元警察関係者の回顧談も伝わっている。次々と掘り起こされる遺体を前に、捜査員たちが言葉を失ったという趣旨のエピソードで、衝撃の大きさがうかがえる。
兄の執念が照らしたもの
家族の存在も大きい。妹の行方を案じ、自ら情報を集めて警察の捜査を後押しする形になった兄。その執念は後年のノンフィクションや事件を振り返る記事で繰り返し取り上げられ、全容解明につながった力として語られてきた。妹を思う気持ちが、事件を動かしたことになる。
忘れちゃいけない話だ。遺族の行動は、単なる事件記録の一部として片づけられるものではない。被害に遭った女性一人ひとりにそれぞれの人生があり、彼女たちを案じる家族がいたことを、今も静かに思い出させてくれる。
半世紀が過ぎても消えない土地の記憶
半世紀が過ぎた。半世紀という時間でも、薄れないものは薄れない。舞台となった群馬県内の各地は、今もこの事件と切り離せない土地として記憶されている。地元紙は節目の年ごとにこの事件を振り返っていて、当時を知る世代の記憶のなかに生々しく残り続けていることがうかがえる。
被害者は若かった。その多くは、働き始めたばかりの世代だった。仕事を覚え始めたばかりの、これからという年ごろだ。それぞれの人生や将来がこの事件によって断ち切られたことの重さは、時代がいくら移っても軽くなるものじゃない。
問いは今も残る。見知らぬ他人への信頼はどこまで許されるのか。肩書きや外見に惑わされることの怖さとは何か。簡単には答えの出ない問いだ。大久保清の事件は、単なる猟奇的な凶悪事件というだけでなく、時代を超えて人の心に響くそんなテーマを抱え込んでいる。
だから今も語られる。半世紀以上たった今も、ネットの考察コンテンツや個人ブログで繰り返し取り上げられ、新しい世代へ受け渡されているのだろう。車のドアに手をかける前、ほんの一瞬だけ立ち止まりたくなる話だ。
