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33|帝銀事件(1948年、東京都)のその後:2025年現在の状況と未解明の謎

閉店間際にやって来た「防疫班の医者」

1948年1月26日の午後。東京都豊島区長崎の帝国銀行椎名町支店は、閉店の時刻を目前にしてのんびりした空気に包まれていた。時刻は午後3時ごろ、3時過ぎと書く資料もある。そこへ背広姿の男がひとり入ってきて、防疫班の医者だと名乗ったんだ。

肩書きには二通りある。「厚生省防疫班の医者」だったと書く資料があれば、「東京都から派遣された防疫班の医師」と伝える資料もある。どちらにせよ、役所から来た医者という顔で現れたのは同じだ。終戦から間もない混乱期で、進駐軍の衛生行政や感染症対策がしょっちゅう入っていた時代でもあった。

男は「近所で赤痢が出たので、全員に予防薬を飲んでもらう」と切り出した。行員たちは、この男を特に疑わずに迎え入れたと伝わる。無理もない。食糧難も衛生の悪さも深刻な時代で、赤痢の予防と言われれば、それらしく聞こえてしまうんだよな。

赤痢の話は、真っ赤な嘘だった。男が薬だと言って差し出したものの正体は、青酸化合物だ。終戦直後の混乱のさなかに、役所の医者から予防薬を飲めと言われて断れる人は、そう多くなかったと思う。

2回に分けて飲ませた薬

男は持参した薬を、2回に分けて飲ませた。飲まされた人の数は資料で揺れる。行員とその家族ら16人だったと書く資料もあれば、たまたま居合わせた家族を含めて十数名だったとする資料もある。数字がそろわない。

1回目を飲ませたあと、男は「これは毒消しだ」などと説明を足しながら、2回目の薬を差し出したらしい。その直後だ。居合わせた人たちが、次々に苦しみ出した。2回目の服用のあとで全員が苦しみ出した、と書く資料もある。

青酸化合物による中毒だった。亡くなったのは12人。生き残った人については、4人が重傷を負ったと書く資料もあれば、生存者も重い症状を負ったとだけ伝える資料もある。男はその混乱に紛れて、現金と小切手を奪って立ち去った。

銀行の中で起きた大量毒殺。行員だけでなく、たまたま居合わせた家族まで巻き込まれている。背広姿のたった一人の男が、閉店間際の銀行にふらりと現れて、これだけ多くの人の命を奪い去っていった。

奪われた現金は16万円だったと書く資料がある。翌日から新聞各紙が大きく報じ、類を見ないむごい事件として知れ渡った。とんでもない話だ。その大胆で狡猾な手口もあって、この事件は日本の犯罪史でいちばん有名なミステリーのひとつに数えられている。

医者を装った、計画的な犯行だった。犯人の動機も正体もいまだに解き明かされていない、と書く資料もある。ここが肝心だ。それは平沢の冤罪を疑う立場からの評価で、裁判の上では画家の平沢貞通の有罪と死刑が確定している。

2000人の捜査と、名刺から伸びた線

現場に残された薬瓶からは、青酸化合物が検出された。動いた人数がすごい。警視庁はおよそ2000人の体制で捜査に乗り出し、総勢2000人規模ともいわれる布陣だったと書く資料もある。最初に目を付けたのは、医療の知識を持つ人物だった。

それほどの大事件だった。2000人という数は、当時の警察がこの事件をどれだけ重く見ていたかの表れだ。医療の知識や毒物の扱い、現場の名刺の出どころまで、手がかりになりそうなものは次々に洗われていった。

医師や薬剤師を中心に、聞き込みが広がっていった。手がかりは二つ。現場に残された名刺と、青酸化合物という専門知識の要る毒物を使った手口だ。そこから旧陸軍の防疫関係者や医療関係者、さらには細菌の研究者にまで、捜査の目が向けられていったという。

この線は、噂だけの話で終わらない。捜査の初期に、旧日本軍の細菌戦や防疫研究に関わった人物への聞き込みがあったことは、後年の研究や資料で明らかにされている。警察も最初は、軍の線を本気で追っていたわけだ。ここは覚えておいてほしい。

名刺の扱いは厄介だ。現場に残された名刺は、旧陸軍の関係者へ続く線にもなれば、のちに平沢貞通へと続いていく線にもなった。同じ手がかりが、まるで逆の方向を指してしまう。名刺という小さな紙が、ここまで話をこじらせるとはね。

画家・平沢貞通が逮捕されるまで

ところが、捜査は長引いた。時間がたつにつれて、方針は少しずつ画家の平沢貞通へと絞られていく。1948年8月21日、画家で元銀行員の平沢貞通が、当時56歳にして容疑者として警察に逮捕された。医療や軍の関係者を追っていた捜査が、最後はひとりの画家にたどり着いたのだから、意外な展開ではある。

なぜ平沢だったのか。挙げられる理由は、資料によって少しずつ違う。ある資料は、青酸化合物を手に入れられる立場にいたことと、現場近くで目撃された人物に似ているという証言を決め手に挙げる。毒を扱える立場と人相の似かよい、この二つが平沢を疑う大きな根拠として並べられた。

別の資料は、理由を三つ挙げている。現場近くで使われた偽名の名刺の持ち主と名刺を交換したことがあり、目撃者の語る人相とも似ていた。それに、事件のあと出どころのわからない大金を手にしていたという。警察はそう見たらしい。

物的証拠は乏しかった。捜査の柱は、目撃証言と自白だ。それだけに頼った捜査には、どうしても疑問が残った。平沢は一貫して無実を主張し、「警察の拷問で自白を強要された」と訴えていた、と伝える資料もある。

別の資料だと、流れは少し違って見える。平沢は最初こそ否認していたものの、取調べの末に自供へ転じたという。判決は重かった。1950年7月に東京地裁が死刑判決を言い渡し、1955年には最高裁でもその死刑判決が確定している。

一貫して無実を訴えたという話と、途中で自供に転じたという話。平沢本人は、その自白こそが拷問や厳しい取調べで強要されたものだと、最期までずっと訴え続けていた。ここは食い違ったままだ。

物的証拠が乏しいまま、目撃証言と自白を柱にして、裁判は地裁から最高裁まで、死刑という結論を変えなかった。有罪の認定は、最後まで揺るがなかった。背筋が寒くなる話。

法廷で割れた生存者の証言

法廷でも、話はすんなり進まなかった。公判の途中で、生き残った被害者のうち複数の人が、平沢は犯人ではないという趣旨の証言をしたらしい。これは重い。物的証拠の乏しさと重なって、裁判の最初から有罪の認定を疑う声があったことも記録されている。

生存者の証言は、裁判の大きな争点になった。それでも判決は覆らない。死刑が確定したあとも、平沢の無実を信じる声は根強く残り、再審請求が何度も繰り返されていった。無実を信じる人たちにとって、確定した死刑判決は終わりどころか、長い戦いの始まりになる。

死刑囚のまま32年、獄中で絵を描いた男

平沢は死刑が確定したあとも、無実を言い続けた。本人の説明はこうだ。取調べで長い時間にわたって拘束され、厳しく追及されて心も体も弱っていくなかで、自白してしまったというのだ。その自白は強要されたものだという主張を、支援者や弁護団は何度も持ち出してきた。

歴代の法務大臣は、死刑執行命令書への署名を見送り続けた。1987年5月10日。平沢は東京拘置所で、肺炎のため95歳で亡くなった。結局、死刑は最後まで執行されることがなく、平沢は死刑囚のまま拘置所の中でその長い生涯を終えた。

執行もされず、釈放もされない。死刑囚という宙ぶらりんの立場のまま、平沢は拘置所の中でひとつずつ年を重ね、95歳を迎えるまで生き続けた。奇妙な歳月だ。

死刑囚として拘置された期間は、約32年に及ぶ。気が遠くなる長さだ。執行を待つ身のまま、それだけの年月が過ぎていく。この長さは、日本の死刑制度と再審制度の運用を問う論点として、法律家や研究者にたびたび取り上げられてきた。

獄中の平沢は、絵筆を手放さなかった。逮捕後の過酷な取り調べで精神が弱り、そのあと獄中では絵画の制作に打ち込む姿が記録されている。支援者に向けて、たくさんの作品を残したことでも知られる。根っからの画家だったんだよな。

画家、元銀行員、そして死刑囚。平沢の素顔にも触れておこう。画家として活動しながら、家族を養うために銀行員として働いた経験もあった人物だという。事件が起きる前の平沢は、絵と家族のあいだを行き来しながら、穏やかな生活を送っていたと伝わる。

20回を超えた再審請求

平沢が亡くなっても、再審請求は止まらなかった。家族や支援団体、弁護士たちが請求を何度も重ね、2015年前後にはその数が20次を超えていたという。すごい執念だ。平沢本人がこの世を去ってからも、無実を晴らそうとする人たちの動きは、途切れることなく続いた。

それでも、結果は同じだった。どの請求も、裁判所に退けられている。裁判の上では平沢の有罪と死刑が確定していて、その確定判決はいまに至るまで取り消されていない。法的には、事件はもう終結した扱い。

時効の話もある。当時の公訴時効は15年で、1963年にはそれが成立している。2025年の時点で事件からは77年がたっていて、新たな容疑者を逮捕できる見込みは、すっかり消えてしまった。77年という年月。

ここは混同しやすい。時効が成立して閉ざされたのは、新たな容疑者を罪に問う道のほうで、平沢に下された確定判決とはまた別の話になる。裁判の結論そのものは、時効とは関係なく残ったままだ。2025年4月9日の時点の資料でも、この状況は変わっていない。

被害者の遺族のその後は、ほとんど公表されていない。そこが切ない。遺族たちが事件とどう向き合って暮らしてきたのか、外にいる私たちには、ほとんど何もわからないままだ。裁判記録や論争の陰で、その人たちの時間も確かに流れてきた。

「未解決事件」と呼ぶと、話がずれる

帝銀事件は、よく「未解決事件」として紹介される。戦後間もない日本を震え上がらせた未解決事件だ、と書く資料もある。法的には、これは不正確だ。裁判で平沢の有罪と死刑が確定し、その確定判決は再審での無罪によって取り消されたわけでもないからだ。

言葉ひとつの違い。この呼び名のずれは、小さいようで大きい。「未解決」と言ってしまうと、裁判で確定した死刑判決が、まるで最初から無かったかのように聞こえてしまうからだ。

じゃあ、どう呼べばいいのか。有罪判決が確定し、刑が執行されないまま本人が死亡し、その後も冤罪を訴える声と再審運動が続いている事件。法的にも歴史的にも、これがいちばん正確な位置づけになる。法的な確定と、歴史や科学の論争は、同じ欄に混ぜないほうがいい。

話を三つの層に分けると、見通しがぐっとよくなる。一つ目は事件そのもので、犯行の手口、被害、奪われた物、それによく似た先行事件までがここに入ってくる。二つ目は捜査と裁判だ。

名刺の捜査、平沢の自白や目撃者の供述、物証、判決の理由、それから死刑の確定までがこちらに入る。三つ目が再審と異説。自白の信用性、毒物の種類と扱い、旧軍関係者説、GHQの文書、他犯説がこの層に並ぶ。混ぜて読むと、全部が同じ重さに見えてしまう。

層を分けておけば、どこまでが裁判で確定した話で、どこからが論争の途中なのかが、ずいぶん見えやすくなる。迷子にならずに済む。犯人論争も、被害の大きさも、同じ机の上で混ざらない。

言い方にも気をつけたい。「公式には平沢が犯人」という言い方は、ちょっと雑なんだよな。裁判の上で平沢の有罪と死刑が確定し、その確定判決は取り消されていない、と書くのが正確な言い方になる。「真犯人は不明」も、冤罪説に立った評価だと断っておくべきだ。

731部隊とGHQの影を追う説

ここからが本番だ。舞台は占領下の東京。ネットや書籍の一部で、繰り返し語られてきた説がある。当時、旧日本陸軍の防疫研究機関にいた関係者が真犯人で、GHQの意向で捜査がわざと打ち切られたのでは、という説だ。

名刺の話はここでも出てくる。他犯説を支持する人たちは、事件当時の名刺が元帝国陸軍731部隊の関係者を指しているかもしれない、と指摘する。そこから「戦後処理の一環としての強盗殺人だったのでは」という仮説まで出てきた。

たしかに、話としてはよくできている。軍の研究機関と占領期の混乱が一本の線でつながる筋書きは、聞く側の想像をどうしてもかき立ててしまう。ぞっとする筋書きだ。

言いたいことはわかる。青酸化合物の入手経路や犯行の計画性は、個人よりも組織の背景をうかがわせる、と見る人もいる。毒の扱いに精通した人物が、組織を後ろ盾に関わったのでは、という推測だ。手口の専門性と、混乱した占領期という時代が重なって、この推測はそれなりの説得力を持って受け止められてきた面がある。

ただ、肝心の裏付けがない。この説を支える確定的な一次資料や物証は、今日まで確認されていない。裁判所も、捜査が特定の勢力の圧力で打ち切られたことを示す証拠はない、という立場をずっと取ってきた。証拠がないまま語られる説は、どれだけ筋が通って見えても説のままだ。

だから、ここは何度でも強調しておきたい。731部隊や旧軍の関係者が真犯人だという話も、組織的な戦後処理だったという話も、検証を待つ仮説のひとつにすぎない。確定した事実じゃない。資料が出てきたら、出所も作成時期も本物かどうかも、反証も、一件ずつ確かめるしかない。

説を追いかけるのは面白い。でも、それを事実だと言い切った時点で、話は検証から中傷に変わってしまう。疑いの目を向けられた旧軍の関係者たちにも、それぞれの人生や家族があったことは、忘れずにいたいところだ。

掲示板と動画と、松本清張

ネットの時代になって、帝銀事件はまた注目を集めた。未解決事件の象徴扱いだ。YouTubeやSNSのあちこちに、平沢の冤罪説や他犯説を検証するコンテンツがどんどん増えていった。平沢の無実を信じる声も、軍関係者の陰謀説を推す意見も、いまだに議論を呼んでいる。

5ちゃんねるの未解決事件板や、帝銀事件を専門に扱う考察系のYouTubeチャンネルも熱い。話題は決まっている。名刺の入手経路、青酸化合物の種類の特定、目撃証言の信用性、そして平沢の自白の任意性あたりが、何度でも蒸し返される。名刺ひとつ取っても、どこで誰の手に渡ったのかで、推理はいくらでも枝分かれしていく。

小説の影響も大きい。松本清張の『小説帝銀事件』は、事件をフィクションの形で組み立て直した作品だ。平沢の冤罪の可能性をにおわせる内容として知られていて、後年の冤罪論にも少なからず影響したらしい。事件そのものも、映画やドキュメンタリーにたびたび取り上げられてきた。

人気は根強い。帝銀事件は、日本の犯罪史のミステリーとしていまも根強い人気を誇る。冤罪説に立つ人にとっては、誰が真犯人かという問いと、その背後にある戦後日本の闇が、解けないパズルのように映っている。

支援する側の資料を読むときのコツ

資料を当たるなら、読み方にコツがある。平沢貞通氏を救う会が編んだ研究書や、20回目の再審請求で出された鑑定書を扱った本は、国立国会図書館などに所蔵されている。どれも冤罪を訴える側の資料だ。検察や警察の資料、判決文と突き合わせながら読むのが筋になる。

鵜呑みは禁物。書誌として図書館に残っていることと、そこに書かれた中身が正しいことは、まったく別の問題になる。判決文や反対の説とも並べて、見比べてみてほしい。資料の数が多いほど、読む側の目も試される。

閑静な住宅地になった椎名町

現場の支店は、もう残っていない。帝国銀行椎名町支店は1950年に統合閉鎖されている。いまの豊島区長崎のあたりは、西武池袋線の椎名町駅にほど近い、閑静な住宅地として普通の毎日を刻んでいる。拍子抜けするくらいだ。

地味だけど大事な話もある。事件は、社会の仕組みにも跡を残した。事件をきっかけに、金融機関の警備や本人確認が厳しくなり、毒物の管理体制も見直されていったという。戦後社会の混乱を収めるひと押しになった、と書く資料もある。

裁判も宿題を残した。平沢の裁判は、自白に偏った捜査や長い拘置の問題点を浮き彫りにしている。後年の刑事司法改革や再審制度をめぐる議論でも、この裁判は冤罪問題の例として繰り返し引き合いに出されてきた。法廷の外にまで、この事件の影は長く伸びた。

見立ては二つに割れたままだ。平沢の単独犯行とする説と他犯説のあいだで見方は揺れ、真相の鍵は戦後の混乱や捜査の限界に埋もれているのかもしれない。もし冤罪だったなら、当時の強引な捜査や世論の圧力が冤罪を生んだ例になる。平沢が犯人だったなら話は逆で、その狡猾さが歴史に残る犯罪者像をつくった、と見る向きもある。

いまは科学捜査の進歩や、司法の透明性を求める声が強い時代だ。冤罪を防ぐ仕組みを考えるうえで、帝銀事件はその原点として見直されるべき事例だ、と書く資料もある。熱は冷めていない。新しい資料や証言を探す動きもネットで活発に続いている。

昔話では終わらない。この事件のその後を丁寧に追いかけていくことは、過去の過ちから学ぶための、またとない機会にもなってくれる。再審や冤罪の議論は、いまも続いているからだ。真相の解明を願う声も、途切れずに続いている。

12人の命を、謎解きの陰に置かない

帝銀事件を語ると、どうしても平沢の有罪か無実かの論争ばかりに目が向いてしまう。でも、毒を飲まされて命を落とした12人の行員と家族がいて、九死に一生を得た生存者たちもいた。ここを飛ばしてはいけない。

数字で語ると、どうしても12という数だけが残ってしまう。数字の向こうに人がいる。12人にはそれぞれの暮らしがあり、あの日たまたま銀行にいた家族もいた。犯人探しの熱に押されて、亡くなった一人ひとりの存在がかすんでしまうのは、どう考えてもおかしい。

生き残った人の中には、事件のあとも心身に大きな影響を抱えたまま暮らし続けた人がいたと伝わる。その人たちの証言が、法廷の争点にもなった。胸にこたえる話だ。謎解きの材料として消費していいものじゃない。

事件から77年以上がたった。遺族がどんな思いで日々を過ごしてきたのか、その多くはいまも公にされていない。冤罪論も旧軍関係者説も、あくまで誰が犯人だったのかを、法と歴史の面から確かめていくための検証にすぎない。被害者の人生を面白がるための話じゃない。

覆らない判決と、最期まで続いた無実の訴え

平沢貞通というひとりの人間が、32年近く死刑囚として拘置され、無実を訴えながら執行されずに獄死した。日本の刑事司法の歴史でも、ずば抜けて異様な経過だ。問いは三つ残った。

自白の任意性、再審制度の高い壁、そして死刑制度の運用のあり方。この経過そのものが、帝銀事件から今日に至るまで、刑事司法に向けてずっと重い問いを突きつけてくる。どれも古びていない。

旧軍関係者説や陰謀論がどれだけ語られても、確定判決は覆っていない。平沢が最期まで無実を訴えたことも、同じくらい確かな歴史の一部だ。二つは並べて置く。どちらか片方だけを都合よく抜き出して語った瞬間に、帝銀事件はまるで別の事件のような顔をし始める。

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