八木橋デパートの前の犬屋
熊谷の八木橋デパートの前に、犬を売る店があった。名は「アフリカケンネル」。荒川を挟んで南へ2キロほど行くと、田畑に囲まれた土地に、犬の繁殖と販売を担う万吉の犬舎があった。事件を追った書き手の本は、二つの場所をそう書き分けている。
テレビ局の振り返り記事は、アフリカケンネルが普通の商店街の中にあったと伝え、そこが犯行現場の一部になったと続ける。ここまでは、どこにでもある街の風景だ。風景が変わるのは、1993年の春。
1993年の4月から8月にかけて、店の周りで四人が姿を消し、裁判所が認めた事実では、四人とも毒で殺されている。遺体は解体されて焼かれ、燃え残った骨や所持品まで、群馬の山林と川に捨てられた。正式な名は、埼玉愛犬家等連続殺人・死体損壊・遺棄事件。
先に断っておく。同じころ大阪でも愛犬家が殺される事件があって、よく混ぜて語られる。あちらは1992年から93年にかけて起きた別の事件で、犯人もまったくの別人だ。名前も時期も似ているけど、両者のあいだに関係はない。
「ホラ元」と呼ばれた男
中心にいた男は、関根元という。2017年に亡くなっていて、事件の顔として広く名が出ている。生まれは1942年、秩父。幼いころから嘘がうまく、「ホラ元」のあだ名で呼ばれたと、事件を扱った本の抜粋は書く。
中学時代の指導要録には、「気は小さいが、大きなことを言う」とあったという。紹介した記事が、そう伝える。どちらも後から集められた人物評にすぎず、素顔に近づく手がかりは、それくらいしか見当たらない。
1982年に熊谷でアフリカケンネルを開き、翌年、のちに元妻として並んで裁かれる女と結婚した。商売の手口は悪い。子犬が生まれたら高値で引き取ると言って、犬のつがいを法外な値で売る。いざ子犬が持ち込まれると、難癖をつけて値切り、そんな取引で客とのトラブルが絶えなかったと伝わる。
バブルのころ、高級犬は投機の対象になった。被害者側の元親分が書いた回想記の書評は、夫婦が高級犬の取引で財を成し、バブルの崩壊で負債が残ったと説明している。回想記の見立てだ。裏づけは、確認できなかった。
店の金を握っていたのは元妻で、金の管理に長けていたと事典の項目は書く。一審判決は、男の営業と元妻の経理を、「車の両輪」と評した。元捜査員の本は、元妻の生い立ちを、経済的に恵まれた家庭で寵愛されて育ったと記している。
税務調査のあとに出された離婚届
1992年の暮れ、店に税務の調査が入った。弁護士からは、離婚して不動産の名義を移したほうがいいと助言された。二人は1993年1月に協議離婚し、会社の代表は元妻に移っている。紙の上では、他人になった。
一審の判決は、これを税務対策の偽装離婚と見た。取材した書き手のなかには、元妻のほうは本気で離れるつもりだったと読む人もいて、評価は割れている。離婚後の暮らしも、同居だったとする記述と別居だったとする記述が並ぶんだよな。届け出の紙だけでは、どちらが本当か読めない。
金の面は苦しい。1993年7月には4000万円の抵当権が、11月には3000万円の根抵当権が設定された。元夫婦は、江南町の板井、いまの熊谷市に自宅兼犬舎を持ち、1994年10月に約2億円をかけて新築して店を開いた。その建設費も、重い荷になっていく。
栄養剤だと言って渡したカプセル
最初の被害者は、行田市の会社役員の男性(39歳)。犬の雌雄二匹の代金として1100万円を払い、相場より高いと知人に言われて返金を求めた。4月20日の夕方、男性は熊谷市内の車庫に呼び出された。男は650万円と車で返すと話していたと、判決を踏まえた記事は書く。
渡されたのは、栄養剤だと偽ったカプセルで、中身は犬の殺処分に使う猛毒、硝酸ストリキニーネだった。それが、最初の一人になる。ここから先の細かい手順は、報じられた範囲でも書かない。
翌21日、男性の妻が店に電話をかけた。電話に出た元妻は、男のいる場所をあっさり教えたと、被害者の妻は法廷で証言している。元妻を支援する側は、これを、隠し事をする人間の動きには見えない材料として読む。
4月30日、男性の車が東京の八重洲の地下駐車場で見つかった。県警は事件の可能性を疑ったが、物証がなく、手が出せなかった。車だけが、先に出てきたことになる。
7月21日には、暴力団の組長代行と、住み込みの運転手が狙われた。組長代行は、男性の失踪に気づき、男に金と土地建物の登記済証を求めていた。運転手は、口封じのためとされる。全財産を取られてしまうと恐れた元夫婦が、二人を殺すことで共謀した、というのが判決の認定だ。
この夜は、熊谷のうちわ祭の最中だった。市の案内によれば、祭りは毎年7月20日から22日の3日間で、江戸時代から続く八坂神社の例大祭だという。数万人の人の波が街に出る晩に、さらに二人が消えた。
元妻は、男に夜10時ごろ迎えに来てくれと頼まれ、車で現場へ行って居合わせたと話している。殺しへの関与は否認してきた。遺体の運搬と解体の一部は、認めている。判決は、元夫婦が対等の立場で共謀したと見た。
8月26日、行田市の主婦(54歳)が買い物に出たまま戻らなくなった。息子がアフリカケンネルで働いていた女性だ。出資話で金を渡していたこの女性は、嘘の露見を恐れた男に毒を飲まされた、と判決は認めた。
一審はこの件を男の単独犯と見ている。元妻は、この事件では起訴されていない。被害者は合計4人。事件は、3件に数えられる。
貨車をつないだ家
遺体が運ばれたのは、群馬県利根郡の片品村だった。元従業員が自分で作った住まいがあり、貨車を2両、直角につないだ建物だったと、当時の捜査主任官の本は書く。通称は「ポッポハウス」。
片品村は、尾瀬の玄関口にあたる。関東で唯一、特別豪雪地帯に指定された村で、面積の92%を森林が占める。尾瀬ヶ原が深い雪に覆われる期間は、11月から5月中旬ごろまで続き、半年以上が積雪期になる。
捨てられた先は、片品の山林、塗川、片品川、川場村の薄根川、江南町の荒川と報じられた。筆者の見立てでは、場所を決めたのは地形ではなく、協力者の家がたまたまそこにあったからだ。ただ、結果として人目の届かない山と川が使われることになる。
のちに見つかったのは、焼け残った骨片や歯で、腕時計やお守り、家の鍵、義歯もあった。高温で焼かれて、遺伝子型の鑑定はできなかった。身元の手がかりになったのは、治療痕のある歯、登録番号が刻まれた腕時計、銭形の大黒天のお守りだ。
呼び名は、「遺体なき殺人」。物がほとんど残らない事件で、立証の柱になったのは人の口だった。この点は、あとでもう一度ふれる。
大阪の逮捕のあとに噂が走った
1994年1月26日、大阪で、犬の訓練士を名乗る男が逮捕された。被害者の1人への死体遺棄容疑だった。埼玉の事件とは無関係なのに、同じ愛犬家の失踪として、埼玉でも噂が広まり始める。
2月中旬には報道陣が店に押しかけ、ワイドショーが連日この話を流した。事典の項目は、報道が先行した事件だったと書く。男の映像は、毎日のようにテレビに映った。
この年の2月14日の夜には、日本放送協会が大阪の事件を扱う番組を放送している。紹介文は、犬を接点とした特異な事件と書く。大阪が全国の関心を集めたその週に、熊谷の店へカメラが向いた。筆者の見立てだが、火がついた時期は大阪の逮捕に引っ張られて決まった、と読める。
大阪の事件は、1992年6月下旬から翌年10月にかけて、男女5人が筋弛緩剤で殺された。遺体は長野県塩尻市の農地に埋められて見つかり、2005年12月に最高裁で死刑が確定した。熊谷の事件は、そこが決定的に違うんだよ。
同じ愛犬家の世界でも、片方は埋め、片方は消した。熊谷の最初の被害者は、知人に言われるまで犬の高値に気づけなかった。筆者の見立てだが、外国犬の値段は素人に分かりにくく、店と客の関係も閉じやすい。
男は報道陣に、百パーセント知らないと言い続け、家族が事件性を訴えても、証拠がなければ疑惑の域を出なかった。警察は長く男をマークしながら、決め手を欠いたままだ。
被害者の側も動いていた。殺された組長代行の元親分は、のちに回想記『仁義の報復』を竹書房から出し、子分を失った自分が独自に調べたと書いている。男を組の事務所に呼んだ、との記述もある。死体がないので、事件にはならなかったらしい。
潮目が変わったのは1994年の秋だ。男の知人で、押しかけた報道陣の対応を引き受けていた元自衛官が、9月に詐欺容疑で逮捕された。10月には元従業員への事情聴取が始まる。元従業員は一度行方をくらまし、11月には妻も別の容疑で逮捕された。
追い詰められた元従業員は12月3日に出頭を決め、13日には供述に基づいて片品の山林から遺骨と遺留品が見つかった。事件が、動き出す。捜査員のやり取りは、本で「これ、骨じゃねーか」「焼かれた人骨に間違いない」と描かれる。1995年1月5日、男と元妻は死体損壊と遺棄の容疑で逮捕された。逮捕時の年齢は、男が53歳、元妻が37歳。
元従業員は、3日後に逮捕された。その12日後に阪神・淡路大震災が起き、3月には地下鉄サリン事件が続く。熊谷の事件への報道は、勢いよく燃えたあと、ぴたりと止まったと、あるテレビ局の振り返り記事は伝える。大きな事件の陰に入ったのかもしれない。
密約があったと本人が法廷で言った
1995年4月、検察は最終の起訴を済ませた。男は3件4人の殺人罪、元妻は最後の主婦の件を除く2件3人の殺人罪、元従業員は3件4人の死体損壊と遺棄の罪に問われていた。三人の立場は、ここで分かれる。
元従業員の裁判の初日は、7月7日。起訴された事実をほぼ認め、10月6日の第3回公判では、検察との密約があったから自供したと証言した。検察は密約を否定している。
密約の中身は、元従業員の主張で語られる。証拠を出せば何でも言うことを聞く、すぐに釈放する、と検察官に言われたというものだ。検察が否定すると、元従業員は証言を拒む構えに入った。その後も、証人として出るたびに、検察や警察への批判を口にしたと伝わる。
検察は11月に懲役3年6月を求刑し、12月15日、浦和地裁は懲役3年を言い渡した。1996年6月に確定し、1998年8月28日に満期で出所している。のちに手記『共犯者』を新潮社から出した。
男と元妻の初公判は、7月24日に開かれた。男は罪状認否を留保。元妻は殺人への関与を否認した。法廷では二人が互いに目を合わせようとしなかったと伝えられる。
1998年9月3日は、第57回の公判。男は被告人質問で起訴事実を認めたうえで、主犯は元妻、実行したのは元従業員だと述べた。夫婦の言い分は、真っ向からぶつかった。
第一審だけで、公判は100回を超え、およそ5年かかる。2000年7月に検察は二人に死刑を求め、2001年3月21日、浦和地裁は求刑どおり死刑を言い渡す。事件での役割の重さと、結果の重大さが理由だった。
ここが、判決の核だ。三人の話が食い違うなか、裁判所は元従業員の供述が最も信用できると見た。犯人しか知らない事実が多数含まれ、内容が具体的で迫真性に富み、不自然な点もほとんどないことが、根拠だった。一部に虚偽や誇張があっても、全体としては信用できる、と判断している。
控訴審の初公判は、2003年12月。2004年2月23日、元従業員は証人として、元妻は殺人をしていないと述べる。同じ趣旨の発言を地裁と高裁で計5回しているのに、当時はほとんど報じられなかったと、取材した書き手は書く。
2005年2月、元妻は控訴審で、遺体の解体の一部を手伝ったと初めて認めた。7月11日、東京高裁は控訴を棄却した。2009年3月に最高裁で弁論が開かれ、6月5日に上告が棄却される。判決訂正の申し立ても退けられ、二人の死刑が確定した。
「透明」という言葉の出どころ
この事件を有名にしたのは、「ボディを透明にする」という言葉だ。いまは男の口癖のように語られている。ところが文字になった出どころをたどると、行き着くのは元従業員の供述になる。
「殺しのオリンピックがあれば、俺は金メダル間違いなしだ」という発言も同じだ。事典の項目はこれらを、共犯とされた元従業員の供述として並べている。「死体がなければただの行方不明だ」という台詞も、その並びにある。
事典の項目には、男の「殺しの流儀」も出てくる。世の中のためにならない奴と欲張りな奴だけを殺し、保険金目当てはすぐ足がつくのでやらず、血も流さない。そして、ボディを透明にすることが一番大事。供述の言葉を借りて、そう並べてある。
雑誌が載せた書籍の抜粋には、「遺体があるから捕まる」「ボディを透明にするんだ」という台詞も出てくる。続けて、あとは雨と風が自然に掃除してくれる、と男は言ったという。元従業員が聞いた話として書かれている。男が取調べや公判で自分から口にしたと確かめられる資料は、筆者には見つけられなかった。
事件を紹介するブログの一つは、犯人が語っていたそうだ、と書いて済ませている。筆者が確かめられた範囲で最も早い活字は、1999年6月に新潮社から出た手記『共犯者』だ。それ以前の週刊誌や傍聴記録まで調べ切れたわけではない。筆者の見立てでは、ネットの語りも映画の台詞も、ほぼ同じ場所からの引用で、引用の根は結局一本しかないわけだ。
映画や番組や本が出るたびに、この言葉は新しい読者へ届く。筆者の見立てでは、語られるほど、言葉の出どころは遠くなる。
同じブログは、犯人の恐ろしさは金銭目的ではないところにある、とも書く。ただ、判決が認めた動機は、返金を避けること、財産を守ること、口封じ、嘘の露見への恐れだった。金の問題が、どれにも絡んでいる。
ここからが筆者の見立てになる。遺体がほとんど残らない事件では言葉が証拠の代わりを務め、判決も、その言葉を含む供述を最も信用できると見ている。供述者本人は、密約を言い出し、のちに元妻の無実を訴える側へ回った。
供述が全部うそだと言いたいのではない。骨片や腕時計が、供述どおりの場所から出たことは大きい。判決も供述だけでなく、骨片や所持品、失踪前後の金の動き、関係者の行動を突き合わせて、殺人と死体損壊を認めている。ただ、言葉の一つひとつを確かめる物差しは、いまも見当たらない。
映画のあとで、事件は物語になった
園子温監督の映画『冷たい熱帯魚』は、2010年11月27日にプレミア上映され、2011年1月29日に一般公開された。事件から18年がたっている。舞台は犬の繁殖から熱帯魚店に置き換えられ、18歳未満は観られない区分になった。
映画は報知映画賞やブルーリボン賞など多くの賞を取り、これで事件の名が、犯罪に詳しくない人にまで届いたらしい。元従業員の手記も、題名を変えて文庫になり、のちに別の書き手の名で改題加筆版も出ている。
2020年10月4日の夜には、フジテレビが実録ドラマとして事件を取り上げた。原作は事件を取材した書き手の本『罠』だといい、同じ年には、死刑囚の息子が初めて語ったと題した記事も出た。2025年のテレビ局の特集は、題に「愛犬家も遺体もないミステリー」と掲げている。事件は、何度も別の形で語り直されてきた。
映画は男を、手記は元従業員の体験を、回想記は被害者側の動きを、捜査主任官の本は捜査の内側を、それぞれ中心に据えている。筆者の見立てだが、語り手が変わるたびに、事件の重心も少しずつ動いた。
匿名掲示板や動画解説のコメント欄では、金メダル発言が、男の人物像を表す逸話としてよく引かれる。解体を淡々とこなしていた、という話もセットだ。公判記録に基づく部分と、ネットで盛られた部分が混ざっているかもしれない。念のため、そのつもりで読んでほしい。
元妻は、戦後の日本で12人目の女性死刑囚になり、1981年以降に確定した女性では9人目にあたる。この数字も、ネットの関心が途切れない理由のひとつだ。
2021年5月6日の深夜には、あるテレビ番組で、京都の寺の住職が体験を語った。20歳のころ埼玉の大学に通い、学生寮から店まで直線で約4キロだったという。犬の写真を撮って男に怒鳴られ、そのあと3度、店へ足を運んだ。
住職の話では、男は毎回、缶コーヒーを数本並べて好きなものを選べと言った。のちに知人が拘置所で聞いた話として、男は、1本だけ毒なしであとは毒入りだった、と語ったらしい。住職は3度とも毒のない缶を引き、4本目は断った。
男は埼玉生まれなのに、関西弁で話していたとも住職は語る。ただ、缶に毒が入っていたかを確かめる方法は、男の死後にはもうない。放送で語られた、本人の体験談として受け取るしかない。
2025年6月には、当時の捜査主任官だった元県警捜査員が、『沈黙の咆哮』を毎日新聞出版から出した。この人は新聞の取材に、猟奇性や男の人物像が強調され過ぎている、と感じてきたと話している。2023年夏には片品の川を訪ね、手を合わせたそうだ。
本は、捜査当時のメモと裁判記録を読み直して書かれていて、被害者の遺族が裁判で明かした言葉も引かれている。「大きな石を息子と思い抱いて寝ている」という一節だ。
一人は拘置所で亡くなった
男は、死刑が確定したあとの2016年11月に心臓の発作で倒れ、2017年3月27日、東京拘置所で亡くなった。多臓器不全で、75歳だった。
取り調べでは、元妻が殺人をそそのかしたと話していたと、取材した書き手は書いている。死刑は執行されないままだった。真意を確かめられる人は、もういない。
元妻は、確定後も殺人への関与を認めていないが、遺体の運搬は一審から、解体の一部の手伝いは控訴審で認めた。支援者とともに再審を求め、2012年、2016年、2020年に請求を出している。獄中からの手紙は、雑誌や週刊誌が何度か載せてきた。
さいたま地裁は2017年1月にも棄却の決定を出し、本人は即時抗告の手続きを取ったと手紙で伝えている。2026年に入っても、第3次の請求は続いていると報じられた。確定から、17年。
争点は二つだ。元従業員の供述をどこまで信じるか。弁護側は、供述が変わってきたことと、捜査機関との関係を問題にしている。元妻は対等な共犯だったのか、支配された側だったのか。一審は、ペット事業の経営や金銭の管理を担い、犯行の前後も動いていた点から、元妻を単なる従属者とは見なかった。
男の周りでは、1984年にも、秩父の周辺で3人が行方不明になっている。事典の項目は、男の兄貴分だった暴力団員、トラック運転手、スナックの経営者の三人だと書く。立件はされなかった。遺棄現場とされた橋が1991年に取り壊され、川底の浚渫も済んでいたからだという。
男は元従業員に、30人以上を殺したと話していたと伝わり、被害者側の元親分の回想記にも、似た数字が出てくる。立件されたのは4人で、数字を裏づける物は確認できなかった。
熊谷市万吉の犬舎の建物は、2017年3月の時点でも放置され、事件当時のまま残っていた。
