- 青森の営門が開いたのは朝6時55分だった
- 昼を過ぎて天気が崩れた
- 午前2時半の帰営判断と、700メートルの14時間半
- 吹きさらしの第2露営地で人が倒れていく
- 「天は我らを見捨てたらしい」
- 服を脱ぐ者、川へ入る者、木を撃つ者
- 同じ円をぐるぐると歩かされた
- 賽の河原で迎えた4度目の夜
- 後藤伍長はたったひとりで山を下った
- 首まで雪に埋まっていた大尉
- 炭小屋で見つかった生き残りたち
- 生き残ったのは11名だった
- 遺された名前に降りた恩給と碑
- 岩手の兵が144名いた
- もうひとつの隊は全員が帰ってきた
- 案内人たちは何も語らなかった
- 1万人が掘った雪と、最後の遺体
- 後藤伍長の像は照れくさかった
- 新田次郎の小説が史実を塗り替えた
- 怪談として語られる話の出どころ
- 記録に残る不思議と、残らない不思議
- 雪の山は今も人を飲む
- 雪の中に残された問い
青森の営門が開いたのは朝6時55分だった
1902年1月23日の朝、青森の営門が開いた。時刻は午前6時55分。歩兵第5連隊の210名が、雪の積もった道に長い列を作り、八甲田山の奥にある田代新湯をめざして歩き出した。目的は、寒い土地で人がどこまで動けるかを確かめる行軍訓練だった。
行軍を率いたのは、第2大隊長の山口少佐だ。現場の中隊長は神成大尉。この2人の関係は、のちに作られた物語の中で、本来とはずいぶん違う形に描き替えられていく。山口少佐は幕臣の子に生まれ、婿養子に入って姓を改めた人で、士官学校ではなく陸軍教導団の出身だ。
数日前の1月18日にも、予行の演習は行われていた。結果は成功。屯営から田代までなら1日で踏破できると読んだ山口少佐は、1月21日に行軍の命令を出した。
甘い読みだった。予行の日の山と本番の日の山は、まるで別物になる。雪の八甲田は、そういう山なのだ。
昼を過ぎて天気が崩れた
最初の半日は順調だった。小峠を無事に越え、昼食をとるところまでは、長い隊列もきちんと保たれていた。崩れ始めたのは、食事のあとだ。
天候が一気に変わった。昼食のあとの急な崩れが、そりの遅れと露営地の変更につながり、予定の歩みを根こそぎ狂わせていく。荷物を積んだそりの隊が遅れ始め、先頭との距離がじりじりと開いていく。夕方の5時ごろ、隊はそりを待ちながら馬立場のあたりまで進んだ。
午後8時15分、平沢の森で最初の露営に入ると、雪を掘った壕に約40名ずつが詰め込まれ、それが5つ並んだ。夜に入ると、気温は零下20度を下回ったらしい。
眠れば凍傷になる。だから横になれない。1時間半ほどうとうとしただけで、あとは足踏みで夜をやり過ごした。炊いた飯は生煮えで、支給された酒は異臭がして、口にできなかったという。
午前2時半の帰営判断と、700メートルの14時間半
1月24日の午前2時半、大隊本部が決断を下す。田代へは行けない。屯営へ引き返す。判断そのものは正しかったと思うが、帰り道を知る者が隊の中にひとりもいなかった。
案内人を雇っていなかったのだ。その一点が、ここから先の1日ごとに重くのしかかってくる。
隊は鳴沢の近くで、谷に迷い込んだ。道案内を引き受けた特務曹長が誤った方向を指し、一行は駒込川の本流に出てしまう。谷は深く、積雪は場所によって6メートルから9メートルにも達していた。
この日、14時間半かけて進めた距離は約700メートルで、町内をひと回りするほどの道のりに丸1日が消えた。それだけの時間と体力を、雪が音もなく吸い取っていく。
吹きさらしの第2露営地で人が倒れていく
夕方、鳴沢の近くで2度目の露営に入る。今度は壕を掘る余裕さえ残っておらず、吹きさらしの窪地でそのまま夜を迎えるしかなかった。
この夜は風の中で眠り込んだまま起きない者が次々に出て、いちばん大勢が命を落とした。紀伊新宮藩主の長男だった水野中尉も、前日のうちに卒倒して亡くなっている。
記録に残る気温は1月24日の最低で零下12.3度だが、数字だけを見れば耐えられそうな寒さに思える。だが山の上は零下20度から25度以下で、風も秒速29メートル前後だったとされる。
1月25日の午前3時、隊が動き出す時点で、死者と行方不明は70名を超えていた。方位磁針は凍りつき、針がぴくりとも動かない。積雪が谷で6メートルから9メートルに及ぶうえ、方位磁針まで凍りついてしまえば、進む方向を決める手段はほとんど残らない。夜明けは、まだ遠かった。
「天は我らを見捨てたらしい」
1月25日、神成大尉は隊の解散を告げたと伝わる。各自で進路を見つけて帰れ、という意味だ。命令というより、手放しに近い。
そのとき口から出たのが、あの言葉だった。天は我らを見捨てたらしい。映画や小説で広く知られたせりふだが、この一句は事件の記録の側にも残っている。
低体温症が進むと人は判断を失い、寒さを感じなくなって、言葉づかいまで妙に改まってくる。大尉の物言いが文語めいて聞こえるのはそのせいだ、という医学的な見方が示されている。
当人たちにとっては笑える話ではなく、指揮官がそう口にしたことだけが、兵たちの耳に焼きついて離れなかった。
服を脱ぐ者、川へ入る者、木を撃つ者
この日から、隊の中に正気を失う者が出始めた。記録に残る様子は、読むだけで背筋が冷える。服を脱ぎ捨てる者がいて、川に飛び込む者がいて、銃を持ったまま立ち木に斬りつける者までいた。
凍え死ぬ寸前の人が自分から衣服を脱いでしまう現象は、医学では矛盾脱衣と呼ばれる。体の感覚が狂って、熱いと思い込んでしまうからだ。
あとで怪談として語られるものの種は、おそらくこのあたりにある。雪の中で見えたもの、聞こえたもの。幻覚と呼ぶのがいちばん正確だが、現場にいた者にとっては疑いようのない現実だった。
同じ円をぐるぐると歩かされた
視界が閉ざされた雪の中では、人はまっすぐ歩いているつもりでも、大きな円を描いてしまうものだ。この現象は輪形彷徨と呼ばれる。八甲田の行軍では、初日の斥候の道迷いも、2日目の特務曹長の誤った案内も、3日目の鳴沢での迷走も、同じ種類の迷い方として指摘されている。
雪そのものも敵に回った。八甲田の雪は綿雪で、乾いた雪と湿った雪のちょうど中間にあたる。岩手や宮城で育った兵が知っている湿った雪とは、性質が違っていた。
慣れた雪の感覚が、ここでは役に立たない。故郷の常識は通じなかった。足の運びも、休み方も、故郷での常識がそのまま通じなかったことになる。
この25日には、興津大尉以下およそ30名が凍死したと記録される。夜が明けるたびに、名簿の空欄だけが増えていった。
賽の河原で迎えた4度目の夜
1月26日の未明には動ける者が約30名にまで減り、意識を失いかけた山口少佐は兵に背負われて歩いていた。後藤伍長もこのあたりで昏睡から目を覚まし、神成大尉と顔を合わせている。
夕方、隊は賽の河原と呼ばれる場所に出た。4度目の露営になる。三途の川の岸辺を思わせる地名が、そのまま実在の場所だったことになる。逃げ場は無い。
同じ日、青森では村上一等軍医が約60名を率いて山に入ったが、気温が零下14度まで下がって捜索は打ち切られた。
打ち切りはやむを得なかったのかもしれない。それでも、あと数時間粘っていればという思いが、読む側の胸に残り続ける。
後藤伍長はたったひとりで山を下った
1月27日、神成大尉は後藤房之助伍長を呼んだ。田茂木野まで行き、住民を雇って連隊に知らせてくれ。そう命じられた伍長は、単身で雪の中へ入っていく。
仲間に背を向けて歩き出す背中。のちに銅像になる男の、これが最初の一歩だった。
同じ日のうちに、別の悲劇も起きている。今泉見習士官は下士ひとりを連れて川に飛び込み、そのまま流されていった。遺体が下流で見つかったのは、3月9日になってからだ。
1月28日には佐藤特務曹長が正気を失い、数名を引き連れて川へ入って全員が凍死したと記録にはある。山口少佐は川岸にとどまると決め、吾は此処にて死せん、と告げた。
川岸に残った山口少佐のもとへ、水を運び続けた兵がいた。山本徳次郎一等卒だ。この一等卒も、生還した11名のひとりになる。
首まで雪に埋まっていた大尉
1月29日の午前に救援隊が山の中で動き出し、10時半ごろ、大滝平のあたりで後藤伍長が見つかった。夢中で前に進んでいたところを、三神少尉の隊に拾われたという話だ。
伍長の証言から、神成大尉の居場所が割れた。同じ日の捜索で、大尉は帽子も手袋もつけないまま、首まで雪に埋まった姿で見つかる。
体は凍りついていた。軍医が腕に注射を打とうとしたが、皮膚が凍って針が折れたと伝わる。そこで口の中に打ったものの、蘇生はしなかった。何か言いたげに見えた、とも語られている。
この日、賽の河原では中野中尉ら36名の遺体も見つかった。捜索隊は、生きた人に出会うより先に、死んだ人の列に出会っていく。
炭小屋で見つかった生き残りたち
1月31日の午前、鳴沢のそばで炭小屋が見つかった。中には、まだ息のある者がいる。命だ。三浦伍長と阿部一等卒の2名だ。
倉石大尉の隊は駒込川に沿って進み、青岩の近くで崖にはまり込んでいた。大尉は数名を連れて崖の穴に入り、そこで救援が来るのを待ったという。
小屋の周りには16名の遺体が横たわっていた。同じ日の午後3時ごろには、崖の穴にいた倉石大尉ら4名が救出される。夕方になって、死んだと思われていた山口少佐の生存も確かめられた。
倉石大尉が比較的元気だったのは、正月に東京で買ってきたゴム長靴を履いていたからだ。当時は流行の品で、これが凍傷を防いだと伝わる。この大尉は3年後の1905年1月27日、黒溝台の会戦で戦死している。
2月2日にも発見が続いた。大崩沢の炭小屋で4名。午後3時ごろには、田代元湯のそばの小屋で村松伍長が、亡くなった戦友と並んで見つかった。最後の生存者だった。
村松伍長の生き延び方は、読むだけで息が詰まる。小屋のそばに湧く温泉の湯を飲み、30日からは立ち上がれなくなって、そのあとは雪を口に入れて命をつないだという。同じ小屋にいた古館一等卒は、翌日に息を引き取った。
生き残ったのは11名だった
最終的に、青森隊の死者は199名にのぼる。生き残ったのは11名。死者のうち6名は、救出されたあとに亡くなった人たちだ。
山口少佐も、入院して1日しかたっていない2月2日の午後8時半に息を引き取った。公式の死因は心臓麻痺だが、そこに疑いを向ける声は昔からあった。
ピストルで自決したという説も謀殺されたという説も流れ、新田次郎の小説は自決説を採っている。ただ、救出から死までの短さと当時の通信を考えれば、謀殺は成り立たないという評価が一般的だ。
クロロホルムによるショック死という説も唱えられたが、救出から死までの短さを思えば、これも無理のある話だ。
最後まで生きた生還者は小原忠三郎伍長で、1970年2月5日に91歳で亡くなっている。聞き取りに応じたときの言葉に、手袋と靴下の予備が1組あれば半分の兵は助かっただろう、というものがある。聞き取りは1964年12月に陸上自衛隊の渡辺一等陸尉が箱根の療養所で行い、1968年8月には小笠原孤酒が重ねた。事件の細部が分かったのは、この証言のおかげだ。
遺された名前に降りた恩給と碑
遺族には恩給が支給され、皇室からは祭粢料も下された。青森の幸畑には陸軍墓地があり、雪中行軍隊の墓碑が並ぶ。凍死者の英霊堂も建てられた。
金も碑も、帰ってこない人の代わりにはならない。それでも、名前を刻んで残すことだけが、残された側にできる精いっぱいの弔いだったのだろう。
岩手の兵が144名いた
210名の出身地を数えると、岩手が144名で飛び抜けて多い。次が宮城の48名。この2県で、隊の大半を占めていた。
生き残った数を並べると、岩手が5名、宮城が2名にすぎない。山形は3名のうち2名、秋田は2名のうち1名が帰ってきた。人数が少ないので偏りは割り引いて読むべきだが、同じ雪の中でも運命は一様ではなかった。
階級でも差が出る。将校と同相当官は11名のうち2名が生還し、兵卒は148名のうち4名だった。上官のほうが生き残りやすかったことになる。
理由は装備にあるらしい。将校は重い銃剣を担がず、荷物の運搬にも加わらなかった。質のよい外套と長靴を身につけ、懐炉や下着も特別に認められ、野営では焚き火に先に当たることもできた。
もうひとつの隊は全員が帰ってきた
同じ冬の八甲田には、弘前の歩兵第31連隊も入っていたのだ。率いたのは福島泰蔵大尉。1月20日に弘前を出た37名と従軍記者1名は、十和田湖、三本木、田代を回って青森をめざした。
全行程は約224キロ。11泊12日の旅になった。1月29日の午前7時20分、青森駅の前に全員が姿を見せている。福島大尉の遺品241点は、2012年4月12日に陸上自衛隊幹部候補生学校へ寄贈された。親族が生家で大事に保管してきたものだ。
成功の理由は準備にあった。福島大尉は3年がかりで雪中行軍を研究し、木こりやマタギ、農家から防寒の知恵を聞き集めた。靴下を重ね、唐辛子と油紙を仕込み、隊員は麻縄で1列につないだ。
なかでも大きかったのが案内人で、地元の村から7名を頼み、雪を踏み固める役も任せている。一方の青森隊は、案内人をひとりも連れていなかった。この差が、生と死を分けた。
福島大尉は、前の2年のあいだ岩木山でも雪中行軍を重ねてきた人だ。沿線の村々には、食糧と寝具と案内人の手配を前もって頼んである。案内人7名の内訳は、雪を踏み固める役が6名で、残る1名がマタギだ。天候が悪い日には無理をせず、田代には着けないと見て露営を選んでいる。
案内人たちは何も語らなかった
案内人の7名は、のちに七勇士と呼ばれる。だが、その扱いは勇士のものではなかった。
全員が重い凍傷を負い、廃人のようになって16年後に亡くなった人もいる。頬に穴があき、水を飲むのにも苦労した人もいた。支払われた案内料は、1人あたり2円だったという。
弘前隊には、過去2日間のことを口外するなという命令が出たと伝わる。青森隊の遭難者を道中で見かけていたのではないか、という推測もある。ただ、確かな証拠がそろっているわけではない。
七勇士の石碑が建ったのは1931年。事件から30年近くたって、ようやく名前が刻まれた。
1万人が掘った雪と、最後の遺体
捜索は大がかりになった。青森と弘前の連隊に仙台の砲兵隊も加わり、延べ人数はおよそ1万人にのぼる。
幸畑に資材の集積所が置かれ、田茂木野には捜索本部ができた。山には哨戒所が11か所つくられ、幅30メートルの横隊が竹の棒で雪の中を突きながら進む。北海道からはアイヌの猟師と犬も呼ばれた。
見つかった遺体は、鉄板にのせて火で解かされたという。扱いは荒く、関節から砕けてしまう遺体もあったが、それを新しい軍服に着替えさせて棺に収めている。
駒込川には柵が設けられたが、雪解けの水で海まで流れ出た遺体もあり、最後の収容は5月28日までかかった。雪が消えるまで、山は人を返し続けたことになる。
後藤伍長の像は照れくさかった
のちに、馬立場の近くに雪中行軍遭難記念像が建った。作ったのは大熊氏廣で、モデルには、大尉の命を受けて単身で山を下った功績から後藤房之助伍長が選ばれた。
伍長は、両足と多くの指を失って生還している。遭難の話は、あまりしたがらなかったそうだ。伍長ら5名の手術前の写真が見つかったのは、2012年6月のこと。陸上自衛隊衛生学校の史料室に眠っていて、それまで術前の写真があるとは誰も知らなかった。
自分の像を、後藤は長いあいだ見に行けなかった。照れくさかったらしい。英雄に仕立てられた側の居心地の悪さが、この一言にもにじむ。
像の周りには、露営地跡や発見地を示す標柱が県道沿いに点々と立つ。現地を歩く人にとって、史実の手がかりになるのはそこだ。
田代新湯は駒込川のほとりにあり、いまも浴槽や湯小屋の跡が、行軍の目的地だった場所を静かに示している。平沢、鳴沢、中の森の露営地跡にも標識が立ち、地図の上で、隊が歩いた順にたどることができる。
新田次郎の小説が史実を塗り替えた
1971年に新田次郎が小説八甲田山死の彷徨を出し、1977年には映画になって、雪の中を俳優たちが歩いた。八甲田の遭難を知った人の多くは、この映画から入った。
ただし、小説と映画は史実そのままではない。神成大尉は神田大尉と名前を変えられた。2つの隊が行軍の速さを競う設定も、大隊本部が勝手についてくる話も、創作の部分だ。
映画の山口少佐は、無謀な上司として描かれた。作り物の少佐の顔が、実在した人の顔に重なってしまった。
遭難者が靖国神社に合祀されたという話も、小説の終章から広まった誤解だと分かっている。物語が史実を上書きした例のひとつだ。
新田次郎の小説には、寒冷地での人体実験という見方も書き込まれているが、これは作者の側の部分だ。映画の終盤に村松伍長がロープウェイに乗る場面も創作で、実際には、ロープウェイができる前に生還者は全員亡くなっていた。
怪談として語られる話の出どころ
ここからが怪談の側の話で、八甲田山は心霊の噂が立つ山として名前が挙がる。雪の中を進む兵隊の列、軍靴の音、白い息。そういう型の話が、あちこちで語られているらしい。
ただ、細かい中身を確かめようとすると、出どころの分かる話がほとんど見つからない。いつ、誰が、どこで見たのか。そこが抜け落ちたまま、形だけが流れている。
だからこの文章では、噂の細部を並べない。出どころの確かでない話を事件と同じ重さで書けば、199名の死のほうが軽くなってしまう。
代わりに、線を引く。史実として記録に残るものと、後から足された物語を、はっきり分けておくわけだ。
記録に残る不思議と、残らない不思議
記録の側にも、不思議な場面はある。永井軍医が、外から聞こえた声に呼ばれて小屋を出ていき、戻らなかったという話だ。
声の主は誰だったのか。分からない。ただ、凍えて朦朧とした頭が仲間の声を聞いたと考えれば説明はつく。低体温症の幻覚は、こういう形で現れる。
衣服を脱ぐ者、川に入る者、木を撃つ者。これは怪談ではなく記録だ。恐ろしさは本物で、そこに何かを足す必要はない。
怪談の線が引かれるのは、記録に無い場所からだ。死者が歩く、声が聞こえる、列が現れる。そこから先は、物語の領分になる。線はここだ。
雪の山は今も人を飲む
八甲田は、事件のあとも雪の山であり続け、2007年2月14日には、銅像へ向かうスキーコースで雪崩が起きている。亡くなったのは2名で、重軽傷者は8名にのぼった。
像の近くへ行くには、冬の山に入るしかない。その道が、いちばん危険な季節にいちばん人を呼ぶ。皮肉な話だ。
1902年の遭難のあと、日本の軍はスキーの導入に動いた。1910年には外国の将校が来て、新潟や北海道でスキーの指導を始めている。雪の山を歩く道具は、あの冬の死者の上に積まれていった。
30年後の1932年1月にも、同じ八甲田を雪中行軍の隊が踏破している。参加者は全員が無事だった。雪の山を歩く力は、あの199名の代わりに手に入れたものだ。
雪の中に残された問い
八甲田の事件を怪談の題材にしたい人は多い。それ自体は止められない。ただ、書くなら線を引いてからにしたい。
記録に残るのは、予行の成功に気を許した判断、案内人のいない行軍、凍りついた方位磁針、そして単身で山を下った伍長だ。そこに幽霊を置かなくても、十分に怖い。
怖がる前に、名前を数えてみる。山口少佐、神成大尉、倉石大尉、後藤伍長、村松伍長と、名前のある人間が雪の中で何日も生きようとした。
199名のうち、生還者の言葉が残ったのはほんの数名にすぎない。残りの声は、今も雪の下にある。それを怪談と呼ぶのか、記録と呼ぶのか。決めるのは読む側だ。
