髪を洗っても、衣を替えても取れない匂い
髪を何度洗っても、匂いが取れない。着ていた衣を替えても、また同じ匂いが立ちのぼってくる。御息所は、背筋がすっと冷えるのを感じた。それは芥子の香。護摩を焚いて加持祈祷をするとき、悪霊を退けるために使われる、あの香だ。
御息所は、光源氏の恋人のひとりだった。亡くなった前の東宮の妃で、娘はこれから斎宮として伊勢へ下る身という、たいへん高い身分の女君だ。気位が高く、教養も深い、都でも名の通った貴婦人。その人が体調を崩し、別の邸へ移って、自分のために御修法をさせていたところだった。
葵の上の病床があるのは、左大臣邸のほうだ。その部屋で焚かれる加持の香が、なぜ離れた場所にいる自分の体に染みついているのか。『源氏物語』の葵の巻は、これを御息所の魂が加持の場へ飛んでいた証拠として置く。
本人に自覚はなかった。思い当たるのは、あの夢。夢の中の御息所は、何度も葵の上のもとへ通っていた。
百科事典の生霊の項目も、まっさきにこの場面を挙げる。生きている人の魂が体を抜け出し、恨む相手に憑いて病ませ、ときには殺してしまう。平安に生きた人たちは、それを物語の飾りとは考えず、病人の枕もとで、いつ誰の身に起きてもおかしくない出来事として本気で怖がった。
賀茂の祭の日、牛車の榻が折られた
話は、少しさかのぼる。賀茂の祭を前にして斎院が賀茂川で禊をする日があり、行列には源氏も加わると聞いて、見物の車が一条大路にあふれかえった。
葵の上は懐妊中で気分がすぐれなかったが、気晴らしを兼ねて、立派な車を何台も連ね、堂々と乗りつけてくる。御息所のほうは、少し使い込んだ網代車に乗り、身分を隠してひっそりと来ていた。源氏の姿をひと目見るだけのつもりで。
場所取りが始まると、葵の上方の若い従者たちは、酒が回って気が大きくなっていた。「あの程度の車に、そんな口をきかせるな」「大将殿の威を借りる気だろう」と言い放つ。御息所の車は押しのけられ、お供の女房車の奥へ追いやられてしまう。目に入るのは、他人の車の壁。
車を支える榻までことごとく折られ、轅はそのへんの車の轂に引っかけられて、見るも無残な姿でさらし者になる。ひどい仕打ちだ。悔しさより何より耐えがたかったのは、忍んで来たことを人に知られてしまった恥のほうだった。
帰ろうにも、車を出す隙間がない。そこへ「源氏の君がお通りだ」と声が上がる。見ずに帰るつもりだったのに、結局その姿を待ってしまう御息所の心弱さまで、語り手は見逃さずに書いている。やがて源氏は、そっけなく通り過ぎていった。
夢の中で、誰かの髪をつかんでいた
それから葵の上は、ひどい物の怪に悩まされて寝込んだ。世間は噂した。あれは御息所の生霊だ、いや亡くなった父の大臣の御霊だ、と。噂は、すぐ御息所の耳にも入った。
身ひとつの嘆きのほかに、人の不幸を願う心など、自分にはない。そう思う一方で、物思いに耐えかねて体から抜け出す魂があるという話が、ふと頭をよぎる。ひょっとして、それは自分のことかもしれない。思い当たる節は、あった。
車争いの日から、少しうとうとするたびに夢を見た。葵の上らしい人が美しく休んでいる所へ行き、あれこれ引き回して、自分でも驚くほど荒々しい心のまま打ちのめしてしまう。うつつの自分とは似ても似つかない、激しい心だ。そんな夢が、何度も重なっていた。
「ほんとうに、身を捨てて行ってしまったのか」。目が覚めた御息所は、うつし心を失いそうになる。死んでから恨みを残すのは世の常だが、それでさえ罪深く不吉な話なのに、自分は生きている身で、そんな噂を立てられてしまう。ただ恨めしい、わが身の宿世。
加持の座で、葵の上の口が歌を詠んだ
出産が近づくと祈祷は数を尽くして行われたが、執念深い物の怪がひとつだけ、どうしても動かない。名のある験者たちも、この物の怪にはさんざん手を焼いた。
ようやく調伏された物の怪は、泣きながら言った。「少しゆるめてください、大将に申し上げたいことがあります」。女房たちは「やはり訳があったのだ」と、源氏を御几帳のそばへ通した。
左大臣も母宮も、少し退く。几帳の内側は、源氏ひとりきり。加持の僧たちは声を落として、法華経を誦んでいた。
源氏は几帳を上げ、腹の大きく張った葵の上の手をとって、「ああ、ひどい。つらい目を見せるのだな」と泣いた。白い衣をまとい、長く豊かな髪を引き結んで添えた姿は、かえって愛らしく見える。ふだんは気後れするほど端正な人だった葵の上が、だるそうに源氏を見上げて、涙をこぼす。
源氏は、親たちを思って泣くのだろうと受け取り、慰めの言葉をかけた。すると、声が返ってきた。
「いえ、違うのです。わが身がたいそう苦しいので、しばらく休ませてほしくて来ました。こうして来るつもりなど、少しもなかったのに。物思いする人の魂は、本当にさまよい出るものなのですね」。
なつかしむような口ぶりで、歌が続く。「嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま」。嘆き疲れて空をさまよう私の魂を、衣の下前の褄を結んで、つなぎとめてください、という意味だ。
魂結びと呼ばれるまじないを踏まえた歌で、古い注釈は『伊勢物語』の歌を引く。思いあまって抜け出した魂が夜更けに見えたら、魂結びをしてくれ、という内容。
声が、違う。気配も、もう葵の上のものではなかった。源氏の目の前にいるのは、御息所その人。
8月の有明、野辺送りの人で野が埋まった
葵の上は、無事に男の子を産んだ。のちに夕霧と呼ばれる子で、8月の中ごろのことになる。ところが数日後、秋の司召で人々が慌ただしかった夜に、容態が急変した。そのまま息を引き取った。
葬送は8月の20日過ぎ、有明の月の残る頃。広い野には、寺々の念仏僧をはじめ、院や后の宮、東宮が遣わした弔問の使者までが詰めかけ、立つ場所もなかった。左大臣は立ち上がることもできず、源氏は涙の中で、経をそっと唱えていた。
訃報は、御息所のもとにも届く。芥子の香の消えない髪を抱えたまま、彼女は血の気を失った。のちに御息所は、源氏との縁を断つため、斎宮になった娘に付き添って野の宮へ入る。野の宮では、訪ねてきた源氏と最後の別れを惜しんだ。行く先は、遠い伊勢。
憑坐を囲んだ屏風と、40人余りの人いきれ
ここで、平安の貴族が物の怪にどう向き合ったのか、少し見ておく。いちばん生々しい記録は紫式部本人の日記にあり、1008年9月、藤原道長の土御門邸で、中宮彰子がお産に臨んだ場面だ。
祈祷の基本は、物の怪を憑坐に移すこと。憑坐とは、物の怪をいったん受け止める人のことで、女房や童が務めた。験者が祈り、病人から憑坐へ霊を駆り移して、調伏を試みる。
日記によれば、陰陽師は世にいる限り召し集められ、山々寺々の験者も、ひとり残らず駆けつける。三世の仏も、さぞ急いで飛んでこられるだろうと思うほどだった、と式部は書く。
御帳の西には、物の怪が移った人たちを屏風で囲い、入口に几帳を立てた局ができていた。験者がひとりずつ受け持ち、大声で祈りたてる。南では僧正や僧都が幾重にも重なるように座り、不動尊の生きた姿を呼び出さんばかりに、頼んだり恨んだりして、声をすっかり枯らしていた。
北の狭い隙間には、あとで数えたら40人余りがいたという。身じろぎもできず、のぼせて息もつまる状態で、遅れて里から戻った者は、中に入ることさえできなかった。
いよいよ産む、という頃合いに、物の怪が悔しがってわめく声が響きわたる。式部は、その恐ろしさを日記に書き留める。憑坐の女房たちにひとりずつ阿闍梨を付けたが、千算阿闍梨は物の怪に引き倒された。気の毒なので、念覚阿闍梨が加えられる。
阿闍梨の験が薄いのではない、物の怪がひどく手強いのだ、と式部は書き添える。憑坐に呼び出された者の中には、霊が移らず、ただ騒がれただけの人もいた。皇子が生まれたのは、正午ごろ。後の後一条天皇になる、敦成親王だ。
どんな霊がわめいていたのか。日記は、その名を伏せている。
目が明いたのは、憑坐に霊を移している間だけ
平安の貴族は、病を医薬と祈祷の両方で治そうとした。藤原実資の日記『小右記』に出る病気治療の記事を整理した研究がある。800件以上の記事をまとめ直して331件にしたところ、いちばん多く使われたのは、加持祈祷にあたる仏法の加護だったという。
1015年、三条天皇は目の病に苦しんでいた。5月4日の条に、実資は、冷泉院の邪気の仕業だという噂を書き留める。邪気とは、物の怪を漢語で言い換えた言葉。
そのあとの記事には、こうある。霊を人に移している間は、帝の目が明いた、と。憑坐に移せば、病人はいったん楽になる、と当時の人は受け止めていたらしい。
7日の条には、律師の心誉が女房に加持をすると、賀静や元方らの霊があらわれた、ともある。
道長自身の病でも同じだった。1018年閏4月24日の条には、叫ぶように苦しむ道長が、僧たちの加持で霊気を人に移され、平らかになったとある。こうした記事は、当時の日記に数えきれないほど出てくる。
1000年の5月には、病床の道長を見舞った藤原行成が、日記『権記』に不思議な場面を書き残した。道長の口を借りて、亡き兄の道兼が、長々と語り出したというのだ。行成はそれを、死者の霊が憑いて語ったものと判断した。
暗い四つ辻に、青い衣の女が立っていた
では、生霊がはっきり人を殺す話はないのか。『今昔物語集』の巻27は、鬼や霊、化け物の話を集めた巻で、まさにそういう話が入っている。近江国の生霊が京に来て人を殺す話、という題だ。
京から美濃や尾張のほうへ下ろうとする身分の低い男が、夜明け前に発とうと、まだ暗いうちに起きて歩き出した。夜更けの四つ辻。青みがかった衣の女房がひとり、裾を取って立っている。
こんな夜更けに女がひとりのはずはない、連れの男が近くにいるに決まっている、と男は思った。そのまま通り過ぎようとすると、女が声をかけてきた。「民部大夫のお屋敷はどこでしょう、道に迷って行けません、連れていってくださいませんか」。
男は急いでいたが、女があまり頼むのでしぶしぶ案内し、7、8町ほど先の屋敷の門まで来ると、女は礼を言った。「近江国の何某の娘です、東国へ行くなら道筋の近くですから、必ず立ち寄ってください」。そう言うなり、目の前でかき消すように姿が失せた。
おかしい。門は閉まっているのに、女はどこへ消えたのか。男が髪の逆立つ思いで立ちすくんでいると、屋敷の中から、突然泣き騒ぐ声が上がった。屋敷の中は、人が死んだ気配。
夜が明けて、屋敷にいた知り合いに尋ねると、近江国にいる女房の生霊に取り憑かれ、ここの殿は何日も病んでいたと教えてくれた。今朝方、その生霊が現れたと口にした直後に、息を引き取ったのだという。生霊とは、こうして人を取り殺すものなのですね、と相手は言った。
男は気分が悪くなり、その日は家へ帰った。3日ほどたって、女の言った所を訪ねてみる。本当に、その家がある。簾越しに会うと、女は「あの夜のうれしさは、どの世でも忘れません」と言い、食事を出し、絹や布まで持たせた。
男はこの上なく恐ろしかったが、品物を受け取って、東国へ下っていった。ぞっとする結末だ。話の結びは、こうだ。生霊とは、魂がただ抜け出して憑くものだと思っていた。実は、本人にもはっきり分かっているものだったのだ、と。
女は民部大夫の妻だったが、離縁されて恨みを抱き、生霊になって殺したのだという。語り手は最後に、女の心は恐ろしいものだと語り伝えた、と添える。
蛍が、自分の身から抜け出た魂に見えた
平安の言葉に、「あくがる」がある。心が体を離れ、さまよい出るという意味だ。あこがれるの語源とされ、恋で心ここにあらずの状態にも、魂が体を抜け出す話にも使われた。
和泉式部に、有名な歌がある。男に忘れられていた頃、貴船に参り、御手洗川を飛ぶ蛍を見て詠んだ。「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」。思い悩んでいると、沢の蛍の光も、自分の体から抜け出た魂に見える、という歌だ。相手の男が誰かは、詞書に書かれていない。
『後拾遺和歌集』には、この歌に続けて返歌が載る。「奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉散るばかり物な思ひそ」。貴船の明神の返事で、男の声となって和泉式部の耳に聞こえたと言い伝える、という注記がある。
2首は、神祇の巻に並んで載る。魂が散るほど思い詰めるな、と神は言った。体から魂が抜け出るほどの思いは、恋する側にも、神さまの側にも、それだけ現実のものだったらしい。
21日間、宇治川に浸かった女
ここからが、怖い。生霊の話は、やがて生きながら鬼になる話へ育つ。『平家物語』の異本に収められた剣の巻に、宇治の橋姫の話が載っている。嵯峨天皇の頃、ある公卿の娘が、嫉妬のあまり貴船の社に7日間籠もった。
「生きながら鬼神にしてください、妬ましいと思う女を取り殺したいのです」。明神は哀れに思ったのか、姿を改めて宇治の川瀬に行き、21日浸かれ、と告げた。
女は都へ戻り、人のいない所にこもって支度をする。長い髪を5つに分けて5本の角に仕立て、顔には朱をさし、身には丹を塗る。鉄輪を頭に載せ、3本の足に松明を燃やし、両端に火をつけた松明を口にくわえた。
夜更けに走り出すと頭から5つの火が燃え上がり、見た者は肝をつぶして倒れ、死なない者はなかったという。そうして宇治川に21日浸かると、女は貴船の計らいで、本当に生きながら鬼になった。これが宇治の橋姫だ、と剣の巻は言う。
鬼になった女は、妬ましい女とその縁者、自分を疎んじた男の親類を、身分も男女も選ばず取り殺した。男を取るときは女に化け、女を取るときは男に化ける。京の住人は、申の刻を過ぎれば人を入れず、門を閉ざして暮らした。
一条の戻橋では、源頼光の家来の渡辺綱が、20歳ほどの美しい女に出会う。送ってほしいと頼まれて馬に乗せると、女は途中で鬼の姿に変わった。綱が太刀を抜いて鬼の腕を切り落とすと、拾った腕は真っ黒で、白い毛が銀の針のように生えていた。
宇治橋には、古くから橋姫の歌が残る。『古今和歌集』の「さむしろに衣かたしき今宵もや我を待つらむ宇治の橋姫」だ。橋の神は嫉妬深い女として語られ、宇治橋では嫁入りの行列が橋姫の祠の前を通ることが、長く禁忌とされた。
丑の刻に神社へ参る習わしは近世以降に広まったといい、橋姫の話は、その原型として語られてきた。能の『鉄輪』では、夫に捨てられた女が貴船へ丑の刻参りを重ねて鬼となり、元の夫を呪う。それでも、夫が頼った安倍晴明の祈祷に阻まれ、鬼女は姿を消す。
舞台に置かれた、1枚の小袖
この車争いと生霊は、のちに能の『葵上』になり、世阿弥が手を入れた曲だと伝わる。舞台に葵の上は出てこない。正面に置かれた1枚の小袖が、病床の葵の上を表す。
物の怪の正体を明らかにするため、照日の巫女が梓弓を鳴らす。弦の音に引かれて現れるのは、破れ車に乗った女の霊。前半の面は泥眼。車争いで壊された車に乗って出てくる姿が、あの日の屈辱をそのまま背負っている。
霊は六条御息所と名乗り、栄華の昔と落ちぶれた今を嘆く。やがて激して、離縁された先妻が後妻の家を襲う後妻打ちの形で、葵の上の小袖を打ち据える。葵の上を破れ車に乗せ、あの世へ連れ去ろうとまで言い放つ。
事態を重く見た臣下は、横川の小聖を呼ぶ。祈りが始まると、御息所は角の生えた般若の面の鬼女になって再び現れる。般若は、怒りと悲しみの両方を映す面。打杖を振るい、足を踏み鳴らして舞うが、数珠の音と祈りの声に押し伏せられていく。
物語と能では、結末が違う。『源氏物語』の葵の上は、命を落とす。能の御息所は、小聖の祈りで心がやわらぎ、成仏していく。
数か月も姿を見せなかった物の怪
御息所の話は、葵の上の死では終わらない。『源氏物語』の若菜下に、それから長い年月を経た場面がある。御息所は、すでに亡くなっていた。それでも、執念は消えない。
源氏の妻の紫の上が、病に倒れる。二条院へ移して看病したがよくならないまま、ある日、紫の上は息絶えたように見えた。源氏は、頭から黒い煙が立つほどの勢いで、験者たちに加持をさせる。
数か月のあいだ、まったく姿を見せなかった物の怪が、ここでようやく小さな童に憑いて、わめき始めた。その騒ぎのうちに、紫の上は少しずつ息を吹き返す。源氏は、うれしくもあり不吉でもあり、心が乱れた。
童の口を借りて、物の怪は言う。「人は皆去りなさい、院おひとりの耳に申し上げたい」。何か月も自分を調伏して苦しめるのが、情けなくつらかった、と訴える。
今でこそ恐ろしい身になったが、昔の思いが残っているから来たのだ、と物の怪は語る。髪を振りかけて泣く様子に、源氏は悟った。正体は、御息所の死霊。
恨みは、はっきり語られた。生きていた頃、自分を人より劣る女と見捨てたことよりも、ふたりきりの睦言のついでに、自分を嫌な女だと語ったことが、いまだに恨めしい。紫の上を深く憎んだのではない。源氏には仏神の守りが強く、近づくこともできず、声をほんの少し聞くだけだ、と物の怪は言う。
修法や読経で大騒ぎしても、自分の身には苦しい炎がまといつくだけで、少しも尊くは思えない。そう告げたあと、物の怪は、中宮になった娘に伝えてくれと頼む。宮仕えで人と争い、妬む心を持つな。斎宮だった頃の罪を軽くする功徳を、必ず積むように、と。
源氏は物の怪と向き合って話すのも居心地が悪く、憑坐を閉じ込め、紫の上を別の部屋へそっと移した。
生霊として現れた時でさえ恐ろしかった物の怪が、今度は死霊になって現れる。源氏は気味が悪くなり、女の身はみな罪深いのだと、世の中がすべて嫌になった。
熱が下がらず、祈祷師が名指しした相手
平安の都だけの話ではない。國學院大學民俗学研究会が1965年にまとめた『民俗採訪』に、高知県幡多郡の旧月灘村で聞いた話が載っている。病名が分からないまま、高熱が続いたことがあった。
祈祷を頼むと、物を貸してもらえなかった者の生霊が憑いていると出た。これからは意地悪をしません、と謝ったら、熱は引いたという。生前に喧嘩したまま死んだ人も同じように恨み言を言い、そのときは千枚流しをするとよい、とも伝わっていた。
死にぎわの魂が、会いたい人のもとへ出歩く話は各地にある。青森県の西津軽では、死ぬ間際の魂が出歩いて物音を立てるのをアマビトと呼び、会いたい人を訪ねるという。秋田県の鹿角では、知人を訪ねる死にぎわの生霊をオモカゲと呼んだ。
岩手県の遠野では、生者や死者の思いが凝って姿になり、人の目に見えることをオマクと言った。『遠野物語拾遺』には、重い熱の病で寝ているはずの娘の姿が、死の前日、土淵村の光岸寺の工事場に現れた話がある。能登では、数日後に死ぬ人の魂が、菩提寺へお礼参りに行くのをシニンボウと呼んだ。
江戸時代には、生霊が現れること自体を、離魂病、影の病、カゲワズライと呼んで恐れた。寛文の頃の奇談集『曽呂利物語』には、女の生霊が抜け首になって歩く話がある。越前の北の庄で、石塔のもとから鶏が道に舞い降りたかと思うと、それは女の生首だった。
男が斬りつけて首を家まで追いつめると、中では眠っていた女房が悪夢から目を覚まし、夫に言った。外で男に斬りつけられて、逃げ回る夢を見た、と。
かつては、夢とは生霊が出歩いている間に見る景色だ、という見方があった。昭和15年の三重県梅戸井村の民俗資料にも、似た話がある。深夜、男たちが火の玉を見つけて追いかけると、火の玉は酒蔵へ入った。中で眠っていた女中が目を覚まし、大勢の男たちに追いかけられて逃げてきた、と話したという。
沖縄県には、自分の生霊を意図して他人や動物に憑かせ、害を与える呪いがあり、イチジャマと呼ばれた。
江戸中期の随筆『翁草』には、京の松任屋の息子に、近所の少女ふたりの霊が取り憑いた話が載る。享保14年か15年のことで、少年は宙に浮くほど暴れ、霊と言葉を交わしたという。高名な僧の折伏で病は治ったが、噂が広まり、家の前には物見高い人が集まった。
