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小仏トンネルの暗闇 煤煙の明治から渋滞の令和まで、山の腹を貫いた穴に残る記録

峠には、石の碑が立っている

小仏峠には、石の碑が立っている。刻まれているのは「明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所」という、17字にも及ぶ息の長い名前だ。明治13年、1880年に、明治天皇が山梨を巡幸した折に作られた碑だと、記録は伝えている。すぐ近くには三条実美の歌碑が並んで建ち、この峠は天皇の一行が足を休めた場所でもあった。

峠の標高は548メートル。東京都八王子市と神奈川県相模原市緑区にまたがり、都県境のちょうど上に位置する峠だ。江戸時代以来の甲州街道は、1602年に江戸幕府が整備した五街道の1つで、この峠を越えて甲州へ延びていた。険しさのあまり、街道の最難所とも呼ばれた坂だ。

明治21年、1888年。道の指定が南側の大垂水峠を越える道へ替わり、小仏峠は勾配が急なこともあって、通る人がこの年から激減したと記される。江戸から続いた主役の座を、小仏峠はこの年に降りた。

大垂水峠は高尾山の南側にあり、その道の呼び名は、時代ごとに替わっていく。1885年、明治18年に国道16号に指定され、1888年に道筋が小仏峠から大垂水峠へ移った。1920年、大正9年には国道8号となり、1952年12月4日に、現在の国道20号へ指定された。

峠の下で、次の工事が動き出す。鉄道も高速道路も、曲がりくねった山道を登るより、まっすぐな線を引くことを求めた。越えるより、貫くほうが早い。鉄道に2本、道路に2本、そしていま掘られている1本を数えれば、同じ峠の下に5本の穴が集まる。

小仏トンネルの名を、心霊の話題で見かけたことがある人もいるかもしれない。念のため、先に断っておく。ここから書くのは、年号や長さのように、記録で確かめられたことだけだ。確かめられなかったことは、確かめられなかったと、そのまま書く。それが、この穴を扱ううえでの順番だと考えている。

夜中は通れなかった関所

小仏峠に関所を置いたのは、戦国大名の北条氏照だ。置かれた時期は天正年間で、1573年から1592年のあいだのどこかだと記される。天正8年、1580年に関所は峠の東の駒木野へ移されたが、呼び名は小仏関所のまま残った。駒木野小仏関所という別名も、今に伝わる。

富士参詣の行者がよく通ったことから富士関と呼ばれ、富士見関という別の名もあった。ここは、江戸と甲州を結ぶ街道の関門にあたる。場所は武蔵国と相模国の境、今の八王子市裏高尾町で、甲州街道を行き来する旅人は、ここで足を止めて改めを受ける決まりだ。

関所の構えは、小さくなかった。東と西に門が開き、北側には間口5間、奥行3間の番所が建っていた。番所は、役人が詰めて通る人を改める建物だ。1間をおよそ1.8メートルとすれば、番所はおよそ9メートルと5メートル半の建物になる。門と番所と柵で、峠の道を一まとめに押さえる造りだ。

周囲136メートル余りを、高さ2メートルの栗の丸木の柵がめぐっていた。南側には約216メートルの竹矢来も組まれていた。竹矢来とは、竹を粗く組んだ囲いのことで、柵より80メートルほど長い。山の斜面に柵と竹の線が長く引かれ、旅人が通れる道は、その線のあいだに限られていた。

取り締まりの対象は、女と鉄砲。江戸へ入る女は自由に通れたが、江戸を出る女には、幕府の役職である留守居の証文と、その改めが要った。夜中の通行は、禁じられていた。日が落ちたあとの関所は、通れない場所だ。

警備の番人は、4人の体制だった。元和9年、1623年には、川村帯刀、大久保太郎左衛門、牧口久右衛門、高城与左衛門の4人に警固が命じられた。江戸初期の記録に番人の名が4つ並び、400年がたった今も、その名ははっきりと読める。

1869年、明治2年。太政官布告によって関所は廃止され、1928年、昭和3年の1月18日には、小仏関跡として国の史跡に指定された。駒木野へ移った1580年から廃止まで、数えて289年になり、関所はそれだけの時間を峠道の番人として過ごした。史跡に指定されてからも、2026年で98年になる。

峠を越えてきた別動隊

1569年、永禄12年のこと。甲斐の武田信玄が関東へ遠征し、別動隊を率いた小山田信茂は、大月から八王子へ向かった。目指す先にいたのは滝山城を守る北条氏照で、その氏照がのちに小仏峠へ関所を置いた。

滝山城の守備隊は、奥多摩の方から敵が来るものと見ていたという。ところが小山田隊は、奥多摩の山道を通らず、小仏峠を越えて姿を見せた。読みは外れた。不意をつかれた北条軍は滝山城に籠もるしかなく、この一戦を廿里の戦いと呼ぶ。峠は、地図の上では線でも、軍勢にとっては入口にあたる場所だ。

のちには、滝山城の役目が新しい八王子城へ移る。小仏峠は、甲斐と武蔵、相模をつなぐ要路になり、人も軍勢もこの坂を越えて行き来した。峠の下に穴が通るのは、それから332年後のことで、軍勢が坂を越えた年から鉄道の穴が開くまで、3世紀と少しが流れた。

本陣のない宿場

甲州街道の宿場は、日本橋から順に数えて並ぶ。12番目が駒木野宿、13番目が小原宿で、小仏宿はこの2つのあいだにあった。本陣も脇本陣も置かれなかった、小さな宿だ。

小仏宿は、小仏関所より下った方にあったと記される。峠の坂は最難所と呼ばれ、その近くに関所と宿が重なっていて、関所と宿と難所の坂が、同じ道筋に集まっていたわけだ。江戸の旅人にとって、小仏はそういう場所だった。

明治34年8月1日、汽車は暗闇に入った

1901年、明治34年の8月1日。国が敷いた官営の鉄道が八王子と上野原のあいだで開業し、浅川駅は官設鉄道の駅として旅客と貨物の取り扱いを始めた。与瀬駅も同じ日に生まれた。浅川は今の高尾駅、与瀬は今の相模湖駅にあたる。

浅川駅が高尾駅と名を改めたのは、1961年3月20日だ。開業から60年のあいだ、駅は浅川の名で呼ばれ、貨物の取り扱いは1960年4月20日に廃止された。古い駅名と貨物の跡が、年表の中に並ぶ。

与瀬駅が相模湖駅に改称されたのは、1956年4月10日だ。駅名の元になった相模湖は、相模川を相模ダムでせき止めて作られた人造湖で、ダムは1947年に完成した。同じ1947年の7月17日には、昭和天皇が相模ダムに行幸し、駅にお召し列車が発着した。湖の底には、旧日連村勝瀬の集落が沈んでいる。

その浅川と与瀬のあいだにある山を貫いたのが、小仏トンネルだった。長さは2574メートル。東京タワーを7本あまり横に寝かせて並べた長さにあたる。時速4キロで歩く人の足でも40分近くかかる長さで、汽車が通るには短くない暗闇だった。

1888年に峠の指定が替わってから、鉄道の開業まで13年。人の足が減った山に今度は汽車の穴が開き、鉄道が求めたのは、江戸の街道が選んだ峠のうねりより、まっすぐな線だった。山の腹に穴を開ける道が、ここで選ばれた形だ。

当時の汽車は石炭を焚いて走り、乗客は暗闇の中で熱気と煤煙に悩まされたと伝わる。閉じた穴の中を石炭の煙が通っていき、窓の外は、ただの黒だった。

1000分の25という坂

勾配は40分の1。1000分の25と書けば、その急さが伝わる。1000メートル進むごとに25メートル上る坂で、100メートルなら2.5メートルの上りだ。記録は、この区間を難所と呼んでいる。

2574メートルのあいだ同じ勾配が続くと仮定すれば、およそ64メートルを登り切る計算だ。20階建てのビルに迫る高さになるが、実際の勾配の並び方までは、確かめられなかった。あくまで目安だ。

駅舎に残る弾痕

山のふもとの高尾駅には、1945年の記録が残る。5月25日には米軍艦載機によって貨車などが被害を受け、7月8日には駅舎が機銃掃射を受けた。その弾痕は、現在も残っていると記される。

小仏トンネルの話とは、直接はつながらない。つなげるつもりもない。ただ、この山の入口にある駅には、戦争の跡が実物として残っていて、幽霊の噂より先に、確かな傷がそこにある。

昭和39年、同じ山にもう1本

1909年10月12日、線路名称制定により、この線は中央東線に所属した。1911年からは、中央本線と呼ばれる。鉄道の名前が替わるあいだも、穴は同じ山を抜けていた。

1964年、昭和39年の9月29日。高尾と相模湖のあいだが複線になり、新小仏トンネルが開通した。複線は、上りと下りが別々の線路を持つ形をいう。長さは2594メートルで、古い穴より20メートル長く、複線化に伴う2本目の穴にあたる。

2本の穴は、役目を分けた。新しい穴が下り列車の専用、明治の小仏トンネルは上り列車の専用になった。下りと上りが別々の暗闇を通り、同じ山の腹に、列車用の穴が2本並ぶ形だ。

明治の穴は、断面が小さい。そのため、パンタグラフの最低作用高さや折り畳み高さが大きい電気車は、通過できない。特急のあずさやかいじが走る路線なのに、通れない車両があるわけだ。穴の大きさの差は、今も走る車両を選んでいる。

1901年の開業から複線化まで、63年。その間、山を抜ける列車は1本の穴で受け止められ、2本目が並んだとき、明治の穴はすでに60歳を超えていた。2026年は、その明治の穴が開通してから125年にあたる。

駅の年表に並ぶ数字

高尾駅の年表には、小仏の山へ向かう鉄道の歳月が並ぶ。1967年10月1日に京王帝都電鉄の高尾線が開通し、1969年4月19日には国鉄駅に南口改札口が設けられた。1987年4月1日、国鉄の分割民営化に伴い、高尾駅は東日本旅客鉄道の駅になった。1997年には、関東の駅百選に選ばれている。2003年3月2日には、中央本線の下り通過線が使われ始めた。

相模湖駅にも、同じような年表がある。1962年11月11日に、貨物の取り扱いが廃止された。1986年11月1日には、中央線快速が高尾駅から大月駅まで延長運転を始め、この駅にも停車した。2024年10月13日からは、中央線快速に12両編成の運転が始まっている。2023年度の1日平均乗車人員は、1823人だ。

昭和43年12月20日、道路も山を貫いた

1968年、昭和43年の12月20日。中央自動車道の八王子インターチェンジから相模湖インターチェンジまでが開通し、小仏トンネルはその区間にある。下り線の小仏トンネルは1642メートル、上り線の小仏第二トンネルは2002メートルだ。

上り線は、下り線より360メートル長い。どちらももとは2車線のトンネルで、2001年11月には、上り線の小仏第二トンネルで天井版が撤去された。穴の中身には、時代に合わせて手が入ってきた。

翌1969年3月17日には、相模湖から河口湖までが開通し、小仏トンネルを抜ける道は、河口湖まで一本につながっている。山の腹に開いた穴が、東京と山梨をつないだ。

仮に時速80キロで走れば、下り線は約74秒、上り線は約90秒で抜ける。たった1分半だ。その1分半は車が流れていればの話で、止まれば、穴の中の時間は長く伸びる。

鉄道の旧と新、道路の下りと上り。小仏の名がつく穴は、これで4本になり、鉄道の複線化は1964年、道路の開通はその4年後だ。山の腹に4本の穴が揃うまで、明治の開業から67年かかった。

4本の長さを並べると、2574メートル、2594メートル、1642メートル、2002メートルになる。いちばん長いのは新小仏トンネルの2594メートルで、いちばん短いのは下り線の1642メートルだ。その差は952メートル。鉄道の穴は長く、道路の穴は短い。

年間23万時間が消える坂

トンネルの内側と外側は、上り坂と下り坂をくり返す。サグと呼ばれる地形で、緩やかな下りが上りへ変わる地面の凹みを指す言葉だ。速度が落ちやすい形が、渋滞の構造的な原因になっている。

原因として挙がるのは、サグの地形、観光地の多さ、東名高速からの迂回車両、物流の主要ルートという使われ方だ。季節ごとの景色の変化で、行楽の需要も上がる。要因は1つではない。重なった分だけ、車が詰まる。

相模湖東インターチェンジから八王子インターチェンジまでの区間では、渋滞で失われる時間が年間23万時間という数字が示されている。23万時間は約26年分にあたり、1日にならすと、およそ630時間になる。毎日、26日分の時間が山の中で消えている勘定になる。

交通量の季節変動は平日の1.2倍で、休日の速度は、通常の25%まで落ちる。通常を時速80キロとすれば時速20キロの世界で、その速さで下り線を抜ければ約5分、上り線なら6分かかる。下り線で約74秒だった時間が、約5分へ伸びる。

対策は、少しずつ積まれている。2007年末に登坂車線が設けられ、2012年から3車線での運用が始まった。登坂車線は、上り坂で速度の落ちた車を、本線とは別の車線へ逃がすための車線だ。2019年4月には、スピーカーから速度の回復を促すメッセージが流れるようになった。声が、止まりかけた車の列へ降ってくる。

国の渋滞対策の資料案にも、同じ坂が出てくる。渋滞は主に休日の夕方に深刻になり、小仏トンネルやサグが影響すると書かれている。対策には、付加車線の設置による交通容量の拡大と、速度の回復を促す視線誘導システムが挙がる。

渋滞の名所は、土産の名にもなる。石川パーキングエリアでは、小仏トンネルロールケーキが売られている。正直、うまい名前の付け方だ。

山の腹を、もう1本掘る

新しい穴の名は、また新小仏トンネルで、鉄道の新小仏トンネルと同じ名前になる。ややこしいが、記録の上ではそう呼ばれる。上り線、つまり東京へ向かう側の渋滞を緩めるための穴で、既存のルートから分かれて、また合流する形で造られる。

事業化は2015年。本体工事は2021年3月に始まり、延長は2304メートル、工期は69カ月と示された。別の資料には、全長2300メートルと丸めた数字もある。

69カ月は、5年9カ月にあたり、2021年3月から数えれば、2026年12月に届く計算だ。2304メートルは、上り線の2002メートルより302メートル長い。道路の小仏の穴では、いちばん長くなる。

断面積は、標準で74平方メートル。一辺が約8.6メートルの正方形と、同じ広さだ。既設の小仏トンネルは84から104平方メートルあり、新しい穴は、古い穴よりひとまわり小さい。広さは違っても、通す先は同じ上り線だ。

掘り方は、爆破掘削方式。補助ベンチ付き全断面掘削工法と呼ばれる方法で、まず岩を爆破して崩す。支えにはナトム工法が使われ、アーチ型の鋼材、ロックボルトの打ち込み、モルタルの吹き付けが重なる。ナトム工法は、周りの岩盤が持つ支える力を、トンネルの強さとして利用する工法だ。

発破は、1日に4回。1回で進むのは1メートルだ。1日の進みは、4メートルになる。作業は昼も夜も続けられ、山の中では、時刻に関係なく岩が崩されている。

頭の上の300メートル

東京と神奈川の都県境付近で、トンネルの上に載る土の厚さは約300メートルある。東京タワーの高さに近い数字だ。それだけの山が、天井の上にある。

掘られているのは、小仏層群という地層だ。白亜紀の後期にできた層で、泥岩、砂岩、頁岩からなり、堅く緻密で安定していて、地下水の湧き出しは少ない。層の名が、そのまま穴の名と重なる。白亜紀の後期は、およそ1億年前から6600万年前にあたる。

暗い山の中身は、乾いた石だった。水が少ないことは、掘り手にとって助けになる条件で、そう読める記述が、掘削現場の見学記録にある。

進み具合も、数字で追える。2025年4月の時点で、2300メートルのうち1700メートルが掘られていた。同じ年の11月には、東京側の坑口の貫通が間近と伝えられている。

掘削の完了は、2026年6月までの予定だった。その後の状況は、今回確かめられていない。確かめていないことは、書かない。

橋の工事も、並んで進む。相模湖高架橋は2017年に事業化され、2021年12月に着工した。上下線のあいだに、下り線の高架橋が1本加わる計画だ。すぐ脇を中央本線が走るため、工事は慎重に進められている。

穴の年齢を数える

1569年の合戦から2021年の着工まで、452年。小仏峠が、人と軍勢を通し続けた年月だ。穴の年齢だけを数えても、明治の小仏トンネルは125年、昭和39年の新小仏トンネルは62年、道路の小仏トンネルは58年になる。

新しい穴は、掘り始めてから5年と少しだ。古い穴の背中を、新しい穴が追いかけている。最も古い明治の穴は、今も上り列車の専用として使われている。

関所が峠道を見張ったのは、駒木野へ移ってから289年。明治の鉄道の穴が列車を通してきたのは125年で、道路の穴は58年になる。どの数字も、人が山を通り抜けるために積んだ年月だ。

幽霊の話は、どこにあるのか

ここまで集めた記録は、年号と長さと勾配の話ばかりだった。幽霊の目撃を伝える記述には、1行も出会えなかった。百科事典の項目にも、心霊に触れた箇所は見当たらない。

事故の記録、人柱の記録、怪異の報道。そうした裏づけも、手元には1つもない。裏づけのない話を、特定の事件に結びつけることはしない。それは書き手の側の決まりだ。

あるのは、長い暗闇の記録だった。明治の煤煙があり、昭和の高速道路があり、令和の渋滞がある。それぞれの時代の穴に、確かな数字が残っている。

けれど噂の中身は、誰の記録にもなっていない。だから中身は作らない。作った幽霊を、この穴に住まわせたくない。

トンネルを通るのは、毎日の車と列車だ。渋滞でゆっくり進む上り線。暗い穴の中を過ぎていく電車。そこにあるのは、通過という当たり前の営みだった。

小仏峠の碑は、今も山の中に立っている。その下を、鉄道が2本、道路が2本通る。山の腹には、5本目の穴が通りかけている。

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