「サッちゃんはね、サチコっていうんだ、ほんとはね」。幼稚園か小学校で、たいていの子が一度は意味も考えずに口ずさんだ、おなじみの童謡だ。バナナが大好きで、でも半分しか食べられない、小さな女の子のことを歌った、明るくて少しさみしいあの歌。三番まで歌えば、それで終わり。そのはずだった。
ところが学校には、こう囁く上級生が必ずいた。「この歌にはね、四番があるんだよ。誰も教えてくれない、本当の四番が。それを最後まで歌うと、夜、サッちゃんが会いに来るの。半分の体で」。
上級生が教える「四番」の中身
公式の「サッちゃん」は三番で終わる。一番はサッちゃんの名前、二番はバナナが半分しか食べられないこと、三番は遠くへ引っ越してしまう寂しさを歌う。歌はそれだけだ。ところが子どもたちの間では、この三番の「引っ越し」の裏にこそ恐ろしい真相が隠れている、と声を落として大真面目に語られてきた。
曰く、サッちゃんは引っ越したんじゃない。列車事故に遭って死んだのだ、と。あるいは、バナナを食べながら踏切を渡っていて、電車にはねられ、体が真っ二つになった。だからサッちゃんは「バナナを半分しか食べられない」。あの歌詞は、彼女の死を暗示していたのだ、と。
ここで「幻の四番」が出てくる。学校ごとに歌詞は微妙に違うけれど、どこで聞いても共通する筋だけを抜き出すと、だいたいこうなる。事故で下半身を失ったサッちゃんが、自分の足を、自分の体の残りを探して、夜の中をひとりで彷徨う。
四番以降を最後まで歌い切った者のところへ、サッちゃんは「足をちょうだい」と言いながら、ひたひたとやってくる。あるバージョンでは、四番を歌い終えた夜、枕元でバナナの匂いがして、布団の裾を冷たい手がくいくいと引っ張る。別のバージョンだと、サッちゃんは自分と同じ「半分」にするために、歌った子の足を持っていく。嫌な話だ。
だから「サッちゃん」を歌うときは、どんなに調子に乗っていても、絶対に三番でやめなければならない。四番を口にしてはいけない。これが、幼い歌に貼りつけられた禁忌だ。
歌を作ったのは、実在の詩人と作曲家だ
ここからは事実の話。「サッちゃん」は詩人・阪田寛夫(一九二五―二〇〇五)が作詞した。曲は作曲家・大中恩(一九二四―)がつけた。怪談の出どころを探すまでもなく、作り手の名前がはっきり分かっている、れっきとした創作童謡なんだよな。
モデルは、阪田寛夫が通っていた幼稚園の一学年上のクラスにいた実在の少女だとされる。ただ、しばしば怖いと囁かれる「バナナを半分しか食べられない」という描写は、その少女の話じゃない。幼い頃に体が弱かった阪田自身の体験をもとにしていると説明されている。話の出発点はそこだ。
この歌には、事故死も心霊的な要素も、どこをひっくり返しても一切ない。作者本人の、少し切ない子ども時代の記憶から生まれた、優しい歌なのだ。では「幻の四番」や「事故死説」はどこから来たのか。答えは単純で、歌が世に出てずっと後になってから付け足された、典型的な都市伝説だ。怖さは後から足された。
歌詞には「半分」「遠くへ行ってしまう」「小さい」という言葉が出てくる。もともとは幼さと別れの寂しさを表す言葉だ。それが子どもたちの想像力のなかで、「欠損した体」「死」「消失」へと少しずつ読み替えられていった。言葉は同じなのに。
学校という口承の場で、上級生から下級生へ「本当は怖い歌なんだよ」と声をひそめて伝えられるたびに、四番は増殖し、変異した。トイレの花子さんや呪いのビデオと同じ構図だ。メディアと口承が生んだ、現代の学校怪談ってやつだ。
初出を一点に定めることはできない。それでも平成期のインターネット掲示板や学校の噂に乗って、この「怖いさっちゃん」は全国的に定着した。
電話をかけてくるサッちゃん
派生の代表格が「電話」型だ。四番を歌った夜、深夜に電話が鳴る。受話器を取ると、あどけない女の子の声で「サッちゃんです。今、あなたの家の前にいます」。
次の電話は「今、玄関にいます」。最後は「今、あなたの後ろにいます」。カシマさんやメリーさんの電話怪談と混線した変異で、サッちゃんが一歩ずつこちらとの距離を詰めてくる。逃げ場がない。
「あなたの足、半分ちょうだい」
もう一つは「欠損の分配」型。下半身を失ったサッちゃんは、自分の失った部分を他人から補おうとする。四番を歌った子の夢に現れ、「あなたの足、半分ちょうだい」と微笑む。
断ると全部持っていかれ、あげると言うと膝から下の感覚がなくなる。どっちを選んでも詰み。足売りばあさんやテケテケのような、体の一部が欠けた怪異のモチーフと溶け合った型だ。
学校で拾われた三つの話
ここからは、四番について語られてきた体験談だ。どれも学校で拾われた。裏の取りようはないけれど、三つ並べてみると、話の形はどれも不思議なくらいよく似ている。
一つ目は、放課後の教室で歌ったという話。
「小三のとき、クラスの男子が『四番歌えるぜ』って自慢して、放課後の教室で歌った。歌詞は覚えてないけど、最後が『さっちゃんの、足はどこ』みたいな終わり方だった。その夜、その子が高熱を出して一週間休んだ。戻ってきたとき、二度と四番は歌わなかった。何を見たのか、聞いても絶対に言わなかった」
二つ目は、妹の口から知らない歌詞が出てきたという話だ。
「妹が幼稚園でサッちゃんを覚えてきて、家で三番まで歌ったあと、『四番もあるんだよ』って急に知らない歌詞を歌い出した。誰に習ったのって聞いても『さっちゃんが教えてくれた』って。うちの子、幼稚園でそんな上級生と接点ないのに。あの『さっちゃんが教えてくれた』が今でも怖い」
三つ目は、音楽の授業のあとに起きたという話。
「音楽の授業でサッちゃんを歌ったあと、廊下でバナナの匂いがした。給食にバナナは出てないし、誰も持ってない。そのとき窓の外、二階なのに、女の子が半分だけ、窓ガラスに映ってた。上半身だけ。目が合った気がして、それ以来サッちゃんは歌えない」
怖さは歌詞ではなく余白に宿る
この都市伝説をしばらく眺めていると、怖さは歌詞そのものより、言葉と言葉のあいだにぽっかり空いた余白のほうに宿るものだと分かってくる。改めて読み返すと、「サッちゃん」の歌詞は、どこで何が起きたのかという具体的な情景をほとんど描かない。名前、バナナ、引っ越し。本当にそれだけしかない。
「半分」「小さい」「遠く」。歌のなかで何度も繰り返されるのは、何かが足りない、何かが去っていくという、欠落と喪失の語彙ばかりだ。この抽象性が、子どもの想像力に格好の空白を与える。空白は必ず埋められる。
しかも、幼い頃に無邪気に歌った歌であればあるほど、「実は怖かった」という反転の衝撃は大きくなる。かつての安心が恐怖に裏返る快感。トイレの花子さんや校歌の怪と同じ、学校怪談の王道の構造だ。
「四番」という存在しない続きは、コックリさんの「八つ目の七不思議」と同じように、誰にも止められない自己増殖の装置として働く。誰も本当の四番を知らないからこそ、四番は無限に作られ続ける。終わりが来ない。
怖い意味を貼られた歌は他にもある
「童謡・わらべ歌に隠された怖い意味」という型は、探し始めるときりがないくらい日本に無数にある。「かごめかごめ」には処刑説と遊女説がある。「とおりゃんせ」は神隠し説。「はないちもんめ」は人身売買説で、「てるてる坊主」は斬首説だ。
いずれも、もともとはまるで別の意図で作られた歌に、ずっと後の時代の人間が恐怖の解釈を上から塗り重ねたものだ。さっちゃんはそのなかでも最も新しく、しかも最も学校の口承に密着した例になる。「四番を歌うと来る」という呼び出しと禁忌の構造は、花子さんの三回ノックとまったく同じ遊びの文法でできている。
この都市伝説の核心は、「作者の意図」と「受け手の読み」の完全な乖離にある。阪田寛夫が込めたのは、病弱だった自分と、幼い日に去っていった友達への、淡い喪失の情だった。ところが受け手の子どもたちは、その喪失の語彙だけを取り出し、「死」と「欠損した身体」の物語へ組み替えた。
作者の優しさが、集団の想像力によって恐怖へ精製される。民間伝承が生まれる瞬間そのものだ。確度コード=S4/S6。
「サッちゃん」が阪田寛夫作詞・大中恩作曲の創作童謡であること。モデルの少女がいたこと。バナナの描写が作者自身の体験に由来すること。ここまでは確かめられる事実だ。
「幻の四番」「電車事故で死んだ」「足を探して現れる」などの要素は、どれも根拠のない後付けの都市伝説(S6)だ。実在のモデルの少女とも、作者の人生とも関係がない。どれも後から付いた。実在の人物を事故死・心霊と結びつける記述はしない。
この話は、「怖い歌」ではなく「歌を怖くする文化」のサンプルとして読むのが正しい。
公式の歌詞は、三節で完結する
「サッちゃん」は阪田寛夫が作詞し、大中恩が作曲した童謡で、一九五九年に発表された。小さな女の子の自己紹介、バナナを半分しか食べられない幼さ、遠くへ行く友達を思う寂しさ。三節で描かれるのはそこまでだ。四節以降は、どの楽譜や詩集をめくっても、作者と作曲者が公表した作品には含まれない。
中野区立図書館の阪田寛夫展資料は、大中恩の依頼で阪田が作詞した経緯を紹介している。同じ資料は、遺品から直筆草稿が見つかり、母校へ寄贈されたことにも触れている。紙は嘘をつかない。草稿という物証が残っているため、現在流通する歌詞を「事故後に削られた版」と説明する余地はない。
作曲者の大中恩はJASRACのインタビューで、こう回想している。阪田へモデルを尋ねた際、「天王寺動物園のチンパンジー」と冗談で返された。別の証言では、幼稚園時代の友人がモデルとされる。モデルについて語りが揺れることと、少女が事故死したという話は、どこをどう探してもつながらない。
「幻の四番」は一つじゃない
怪談として流れる四番には、いくつかの筋がある。踏切や列車事故で足を失った、という筋。歌った人の枕元へ現れる、という筋。決められた時刻までに別の人へ教えないと危険が及ぶ、という筋もある。筋は一つに定まらなかった。
ところが文面を比べると、事故の場所、少女の年齢、呼びかけの言葉、避け方のどれもが一致しない。削除された一つの原詩なんかじゃない。結局のところ、子ども同士で作られた替え歌とチェーン怪談が、ばらばらに複数あるだけだ。
「四番を歌うと来る」という話だけでは済まない。十番以上まで続く版、電話をかける版、赤い物を置く版もある。歌詞は際限なく伸びた。長い歌詞が見つかったからといって、作者の未発表稿だとは言えない。著作権のある三節と、出所の分からない替え歌を同じ紙面に並べるときは、どこまでが本物でどこからが後付けなのか、その境界をきちんと示す必要がある。
実在の鉄道事故や、同名の少女の死亡記事をわざわざ探し出して、それを元話とする方法にも無理がある。全国に多数いる「さちこ」という名前と事故の一致だけでは、作詞者がその事件を知って作品へ隠した証拠にはならない。偶然はいくらでも重なる。
優しい歌が怖く聞こえる瞬間
三節には、友達が遠くへ行き、自分を忘れるかもしれないという別れがある。歌はその寂しさを大げさに説明したり泣かせにかかったりせず、幼い子どもの話し言葉のままで、すっと終える。聞き手が「遠く」を転校ではなく死と読み替えると、前の二節の可愛らしさまでが急に不穏に感じられる。この余白が、事故死の後日談を受け入れやすくした。
旋律も明るさ一辺倒でなく、言葉の長短に合わせて細かく動く。ゆっくり、低い声で、短調風の伴奏をつけて歌えば、同じ曲がまるで別物の怖い歌のように聞こえてくる。映像作品や学校怪談番組は、歌い方と画面の作り方で、元の歌には無かった恐怖をたっぷりと足す。後になって、その演出が歌本来の意味だったかのように記憶されてしまう場合もある。
幼い子の言い間違い、食べ物、別れ。覚えやすさが仇になった。どれも身近な材料で、誰でも自分の記憶へ結びつけられる。特定の事故を知らなくても、歌そのものから寂しさを感じ取れる点が、怪談化した理由の一つだと見ている。
実在の人物へ怪談を戻さない
モデルとされる女性について、現在の住所、家族、死亡年月を探し、怪談の真偽判定に使う必要はない。モデルが一人に確定しても、替え歌の事故が実話に化けたりはしない。阿川佐和子がモデルだった、とする説もある。モデル探しは一筋縄でいかなかった。それでも、本人がそう思い込んでいた思い出と、作者が語った幼なじみの記憶は分けて扱いたい。
学校でこの怪談を採録するなら、何年頃に、誰から、どの節を聞いたのかを、できるだけ細かく書き残しておく。その子がもともと歌詞を知っていたか、テレビや児童書で先に見たかどうかも、あとで効いてくる大事な情報だ。同じ四番が広い地域で語られていても、それが古い口承だという保証はない。番組やウェブ記事から一斉に伝わった線もありうる。
「サッちゃん」は、作者の分からないわらべうたとは違う。作者、作曲者、発表時期、草稿が確認できる作品だ。だからこそ、三節の童謡と、後から作られた怖い替え歌とを、はっきり線を引いて分けられる。作品は完成していた。怪談の面白さは、削除された秘密より、完成した歌へ子どもたちが続きを作った過程のほうにある。
怪談が広がった経路を探す
怖い四番をいつ初めて聞いたか。その証言は、年代を確かめるうえで役に立つ。学校の休み時間、児童向け怪談本、テレビ番組、チェーンメール、動画サイト。どれも伝わり方が違う。友達から聞いたという記憶でも、その友達が前夜の番組を見ていた、ということだってありうる。
替え歌の全文がそっくり一致する地域どうしが遠く離れている場合でも、それだけでは古い口承が残った証拠にならない。印刷物や放送から同時に広がった可能性を調べる。伝わり方は一つじゃなかった。旋律だけ同じで歌詞が大きく違う場合は話が別で、子どもがその場で作り替えた版として価値がある。
出典を示すとき、公式歌詞を必要以上に転載しないことも大切だ。作品の成立を確かめるには、作者名、作曲者名、発表年、楽譜や詩集の所蔵情報で足りる。怪談の検証を名目に、著作権のある歌詞全体を載せる必要はない。
