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男子トイレの太郎さん・ヨースケ――花子さんの向かいの扉に立つ霊は、なぜ最後まで名前が一つに決まらなかったのか

女子トイレの三番目には名前がある。じゃあ廊下の向かいは誰の家なんだ

小学校の廊下を思い出してほしい。だいたいどの校舎でも、女子トイレと男子トイレは並んでいる。入口が隣り合っているか、短い廊下をはさんで向かい合っているか。そのどちらかだ。

これは設計上そうなる。給排水の縦管を一本にまとめたほうが安いからだ。怪談とは何の関係もない、ただの建築の都合である。

ところが、この「隣り合わせ」が子どもの噂話にとってはとんでもなく効いた。片方には名前がある。全国どこへ行っても通じる、固有名詞としての名前が。もう片方には、ない。

正確に言うと、ありすぎて一つに絞れない。太郎さん、太郎くん、次郎くん、じろうくん、ヨースケ、ヨースケくん、紫おじさん。どれも聞いたことがある人はいる。なのに「男子トイレの霊といえばあれだよね」で通じる名前が、ついに生まれなかった。

今回はそこを掘る。怪談としての怖さの話は当然する。再話もする。体験談も集めた。ただ、いちばん時間をかけたのは、その手前にある構造のほうだ。

同じ校舎の、同じ階の、同じ配管につながった、廊下をはさんで数メートル先。そこで片方だけが全国区の固有名詞になり、片方はバラバラに散った。この非対称は偶然じゃない。呼び出し手順にも、空間の作りにも、メディアの供給のされ方にも、はっきりした理由がある。

先に断っておく。花子さん本体の解説はここではほとんどしない。あちらはあちらで別に書いた。ここでは徹頭徹尾、廊下の向かい側、男子トイレの側に立って書く。花子さんは比較対象としてだけ出てくる。三階の三番目の話が読みたい人は、そっちを読んでほしい。こっちは、名前が定まらなかったほうの話だ。

「太郎さん、いますか」――呼び方が、語る人の数だけある

まず最大の特徴から入る。呼び出し方に定型がない。これはもう、調べれば調べるほど笑えてくるレベルでバラバラだ。

いちばんよく聞くのは、男子トイレのいちばん奥の個室のドアを三回ノックして「太郎さん、いますか」と呼びかける形。花子さんの手順をそのまま男子側に写しただけの、鏡像バージョンだな。返事があったら出てくる、返事がなければ別の日に、という条件つきのものもある。

ところが埼玉県東松山市あたりで語られていた形になると、様子がかなり変わる。こっちは夜じゃない。昼だ。日が差している時間帯に、男子トイレの入口か奥のドアに向かって「太郎くーん、遊びましょーう」「太郎くーん、出てきてねー」と呼びかける。語尾を伸ばす。

呼びかけの文句が「いますか」ではなく「遊びましょう」で、しかも明るい時間帯を指定しているのが面白い。奥のドアを三回ノックする形も併存していて、そのドアは個室とは限らない。掃除用具入れでもいいとされている。掃除用具入れ。個室ですらない。

さらに振れ幅がでかいのが、奥から二番目のドアを十三回叩いて「太郎さん、あそぼ、あそぼ」と呼びかける形だ。三回ではなく十三回。いちばん奥ではなく奥から二番目。

この形では、返事の「はーい」が聞こえたあとに足を引っ張られる。そしてその怪異のあとで、近くの階段が一段増えるという後日談までついてくる。しかも対処法がある。慌てて逃げると怪我をするが、落ち着いて手を洗ってから歩き出せば何も起こらない。手を洗う。衛生指導が怪談に混入している。

「小便器の三番目に立つ」という形も各地で聞く。これは個室を使わない、男子トイレにしかありえない呼び出し方だ。その意味ではいちばん男子トイレらしい手順でもある。壁一列に並んだ小便器の、端から三番目の前に立って名前を呼ぶ。黙って立っているだけでいい、というバージョンもある。

ただしこれ、怪談としてはどうにも決まりが悪い。理由は後で詳しく書くが、小便器の前には扉がないからだ。

そして横浜のヨースケ系。ここでは呼びかけたあと三秒以内に逃げないと殺される、という物騒な条件がつく。花子さん系の「返事が返ってくる」「引きずり込まれる」に対して、こっちは制限時間つきのタイムアタックである。呼ぶ、逃げる、間に合えば助かる。ルールがゲームに近い。

こうやって並べると、何がまずいのかがはっきりする。ノック回数が三回だったり十三回だったり。扉がいちばん奥だったり奥から二番目だったり掃除用具入れだったり。そもそも扉ではなく小便器だったり。時間帯が昼だったり夜だったり。呼びかけ文句が「いますか」だったり「あそぼ」だったり。

共有できる手順がない。手順が共有できないということは、転校生が持ち込んだ話が既存の噂と噛み合わないということだ。噛み合わなければ、噂は上書きされるか、単に消える。

花子さんの「三階、女子トイレ、奥から三番目、三回ノック」という異様なまでの語呂の良さと比べると、男子側の散らかりようは絶望的ですらある。

なお、ここで紹介した呼びかけの文句や手順は、各地で語り継がれてきた伝承の記録としてまとめたものだ。実際に人のいない校舎や公共のトイレでこれをやるのは、単純に危ないし迷惑だ。読み物として楽しむ範囲にとどめてほしい。

昼の男子トイレ、奥から二番目の扉――ある学校で語られていた完全版

ここからは、複数の証言を突き合わせて再構成した、いちばん語りとして完成度の高い形を通しで話す。特定の学校の話ではない。いくつかの地域で共通して見られた展開を、一本にまとめたものだ。

季節は夏の終わり。五時間目と六時間目のあいだの休み時間。三年生の教室から男子トイレまでは、廊下を二十歩ほど。校舎は古い鉄筋コンクリートで、窓の外はプールに面している。プールはもう使われていない時期で、水面に藻が浮いている。

言い出したのは、クラスでいちばん声のでかい男子だった。知ってる? 花子さんって女子トイレだろ。男子のほうには太郎さんがいるんだって。

これに賢しらな子が反論する。そんなの聞いたことないよ。花子さんの真似しただけだろ。

ここで話が終わらなかったのが運の尽きだ。三人目が「うちの兄ちゃんが言ってた」と言い出す。証言の連鎖が始まる。兄。上級生。転校生。塾の友達。学校怪談の情報源はだいたいこの四つで、どれも本人には確かめられないのがミソだ。

手順はこうだった。昼、日が差している時間に行く。夜じゃない。夜は危なすぎるから昼にやるのがルールだ、と。男子トイレに入って、奥から二番目の扉の前に立つ。いちばん奥じゃない。いちばん奥は掃除用具入れだから、というのがその学校での説明だった。

扉を十三回、ゆっくり叩く。急いで叩くと数えたことにならない。叩き終わったら「太郎さん、あそぼ」と二回言う。三回じゃなくて二回。

四人で行った。先頭が言い出しっぺ、そのうしろに二人、最後尾に反論した子。

トイレのなかは昼でも薄暗い。北向きの窓で、しかも磨りガラスに緑色のフィルムが貼ってある。入った瞬間に外の光が沈む。床は乾いていて、消毒液のにおいがする。小便器が四つ並んでいて、その先に個室が三つ。手前から順に、扉、扉、扉。いちばん奥だけ扉の色が少し違う。塗り直したのか、最初から違うものなのか、誰も知らない。

言い出しっぺが奥から二番目の扉の前に立った。手を上げて、拳の第二関節で叩く。一、二、三。うしろの三人が声を出さずに数える。四、五、六。ここで一人が笑ってしまって、静かに、と叱られる。七、八、九、十。十一。十二。

ここで全員が一瞬止まった。十三回目を叩くのが、急に怖くなったのだ。

やめる? と誰かが言った。言い出しっぺは首を振って、十三回目を叩いた。

太郎さん、あそぼ。

一回目。何も起きない。

太郎さん、あそぼ。

二回目。

そのあと、証言は二つに割れる。何も起きなかった、というのが半分。もう半分は、扉の内側から布が擦れるような音がした、と言う。人の返事じゃない。「はーい」でもない。ズボンの生地が、便座に座っている誰かの太ももの上でずれたときのような、乾いた短い音。それだけ。

四人はそのまま固まっていた。誰も扉を開けようとは言い出さなかった。開けろよ、と最後尾の子が言ったが、その声が震えていたので誰も従わなかった。

そして、いちばん怖かったのはそのあとだ。

四人が並んでトイレを出ようとしたとき、手洗い場の前を通る。鏡がある。四人が横一列で鏡の前を通り過ぎる、そのわずかな時間。最後尾の子だけが、鏡のなかに五人目を見た、と言った。自分たちより背が低く、半ズボンで、こちらを見ていなかった。

顔は覚えていない。覚えていないというより、顔があった気がしない。彼はそういう言い方をした。

彼はそのまま黙って歩いた。慌てて走ったら怪我をする、というのを、なぜかそのとき思い出したからだ。四人は手洗い場で手を洗った。用も足していないのに洗った。水は冷たかった。ハンカチを持っていた子が、持っていない子に貸した。

教室に戻る途中、階段の踊り場で、言い出しっぺが立ち止まって段を数え始めた。誰も止めなかった。数え終わって、彼は「増えてない」と言った。全員がほっとした。

ほっとしたということは、全員が「増えているかもしれない」と本気で思っていたということだ。

その日以降、そのクラスでは誰も太郎さんの話をしなくなった。翌年、校舎の改修で男子トイレは全面的に作り直され、個室は二つになった。奥から二番目という指定が成立しなくなって、話はそこで途切れた。

これが男子トイレの怪談によく起きることの縮図でもある。手順が建物に依存しすぎていて、建物が変わると話ごと死ぬ。

花子さんより先に、男子便所には手があった

ここで時計を大きく戻す。太郎さんやヨースケの話をする前に、そもそも便所という空間が日本の怪談でどう扱われてきたかを押さえないと、非対称の話ができない。

江戸期にはっきり記録されているトイレの妖怪といえば、加牟波理入道だ。鳥山石燕が『今昔画図続百鬼』に描いた、口から鳥を吐く入道姿の怪。

この妖怪をめぐる俗信が面白い。大晦日の夜に便所で「がんばり入道ほととぎす」と唱えると現れない、あるいは唱えると現れる。真逆の伝承が併存しているのだ。地域によっては三回唱える形になる。兵庫県姫路のあたりでは、唱えると人間の生首が落ちてくるという凄まじい伝承まで記録されている。江戸期の辞書『諺苑』では、この言葉を思い出すこと自体が縁起の悪いこととされている。

注目してほしいのは、加牟波理入道が入道、つまり男の姿だということだ。近世の便所妖怪は男だった。和歌山県の雪隠坊も、岡山県で見越し入道と混同された例も、いずれも男性形をとる。中国の便所の神である郭登との関連も指摘されている。

つまり歴史をさかのぼると、便所の怪異はむしろ男性側にこそ豊富な蓄積がある。

ところが近代の学校という空間に舞台が移ると、これが逆転する。国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースをトイレ関連の語で検索すると、「便所」で百九十四件、「トイレ」で五十件、「厠」で三十四件、「雪隠」で二十一件といった規模の伝承が拾える。地域分布は中部地方が最多で、全国に広がっている。

ここで効いてくるのが中身の傾向だ。古い「便所」の伝承には、河童の手をつかんで引き抜いたら報恩があった、というような負から正へ転じる話が一定数ある。ところが近代以降の「トイレ」という語を含む伝承になると、集まった事例がほぼ全て負のイメージに振れる。トイレは、近代化した瞬間に報われない場所になった。

その近代のトイレ怪談を大量に集めたのが、民俗学者の常光徹だ。中学校の教師をしながら、放課後に生徒から噂話を聞き取り続けた人である。1990年に講談社KK文庫から出た『学校の怪談』は、そこから生まれた。翌年にはポプラ社も同じタイトルのシリーズを出し、児童書の一ジャンルが立ち上がる。のちに『学校の怪談・口承文芸の研究』として学術的な形にまとめ直され、2002年には角川ソフィア文庫に入っている。

その常光の採集記録のなかに、こういう話がある。日文研のデータベースにも収録されている一件だ。採集は1986年3月18日、東京都、話者は女子中学生。出典は常光徹「学校の世間話――中学生の妖怪伝承にみる異界的空間」、『昔話伝説研究』第12号。

内容はこうだ。小学校のトイレの天井に穴があいていた。そこからお化けが出てきて尻をさわる。お化けは、後ろを振り向くと逃げていく。

短い。短いが、この話の構造はきわめて重要だ。名前がない。手順がない。呼び出さない。ただ「出る」。そして「振り向くと逃げる」という弱点まで用意されている。

これは花子さん型の呼び出し怪談とはまったく別のタイプだ。むしろ加牟波理入道の系譜に近い。便所の暗がりに、名前を持たない何かがいる、という古い形だな。

より古い層としてよく引かれるのが、1948年ごろ、岩手県和賀郡黒沢尻町、現在の北上市の小学校で語られていたという「三番目の花子さん」だ。体育館のトイレの奥から三番目の個室で、「三番目の花子さん」と呼びかけると便器から白い手が伸びてくる。松谷みよ子の仕事を通じて知られるようになった事例である。

注意深く読むと、この時点の「花子さん」は幽霊の名前ではない。便所に入っている誰かへの呼びかけ、つまり不特定の人間を指す言葉として使われている。名前が先にあって、あとから中身が入った。花子さんは、そういう成立の仕方をしている。

そして、ここが男子側の話に効いてくる。便器から出る白い手、天井の穴から出て尻をさわる何か、覗く顔。この手の名無しの怪異は、男子便所でも普通に語られていた。花子さん以前から、男子便所には確かに何かがいたのだ。

ただ、それには名前がなかった。名前がなかったから、名前が必要になったときに、あとから借りてくることになった。太郎さんという名前は、たぶんそうやって入ってきた。

太郎さん――名前だけが先に決まっていて、中身が入らなかった霊

では太郎さんとは何者か。まず身も蓋もない事実から。

花子に対する太郎という命名は、日本語話者にとってほとんど自動的な連想だ。山田花子に対する山田太郎。花子さんという名前が全国区になった瞬間、対になる男子側の名前は九割九分「太郎」になることが、言語的にほぼ決まっていた。

だから太郎さんは、怪異が先にあって名前がついたのではない。名前が先に決まっていて、あとから中身を探しに行った霊なのだ。

その中身が、地域ごとにまるで違う。あるところでは花子さんの恋人であり、あるところでは好敵手であり、あるところでは兄であり、あるところでは花子さんを取り合って次郎と殺し合った男である。

大阪で語られていた形では、花子さんがまだ人間だった時代に、彼女を恋人にしたいと思った男が二人いた。それが太郎さんと次郎さんだった。二人は花子さんをめぐって争い、最後には殺し合って死んだ。死んでも想いが消えず、花子さんの出る女子トイレと対をなすように、男子トイレには血まみれの姿の太郎さんと次郎さんが出る。

語った本人が「血まみれの男二人が突然出てくるほうが花子さんより怖い」と言い添えているのが良い。怖さの根拠が、ちゃんと語り手の実感に基づいている。

外見の記録も一定しない。オカルト研究家の山口敏太郎が東京スポーツの連載でまとめたところによれば、太郎くんは二枚目とされることが多いが、時にはひどく異様な姿でも語られる。ある学校での目撃例では、普通の人間の倍以上ある巨大な頭をしていて、見た目がとにかく不気味だったという。

二枚目と巨頭。同じ名前の霊の外見として、これ以上ないほど遠い。同記事では、弟として次郎くんが登場する場合があること、「花子さんと太郎くん」と呼ばれる紙人形を使う降霊術めいた遊びが存在することにも触れられている。この遊びはタレントの島田秀平が自身のホラーDVDで紹介したもので、要するに二十一世紀に入ってからのメディア発の作法である。

もう一方の極には、まったく怖くない太郎さんもいる。ある地域では、学校のトイレには花子さんと太郎さんがいて、夜中になると二人で遊ぶ、という話になっている。人間は出てこない。誰も呼び出さないし、誰も引きずり込まれない。人のいない夜の校舎で、女子トイレの霊と男子トイレの霊が遊んでいる。それだけの話だ。

これはもう怪談というより、子どもが作った小さな神話に近い。

1990年代、花子さんが児童向けメディアで急速にキャラクター化していく過程で、この太郎くんも一緒に量産された。花子さんが「いじめられっ子を守り、いじめっ子をやっつける超パワーおばけ」に変質していく時期、その周辺には太郎くん、やみ子さん、ブキミちゃんといった仲間キャラクターが次々に生まれている。

花子さんを善玉に置き換えたぶん、悪役の枠が空く。その空席に、男子トイレの霊が投げ込まれた。だから太郎さんの人格はブレる。善玉の相棒としても、悪役の当て馬としても使えるように、あえて定義されなかったと言ってもいい。

結果として、太郎さんは「いちばん有名なのに、いちばん中身が薄い」という妙な立ち位置に落ち着いた。名前を出せば全国どこでも「ああ、花子さんの男版ね」で通じる。通じるのに、その先の話が続かない。手順も設定も出自も、地域ごとに全部違う。

名前だけが共有され、物語が共有されなかった霊。それが太郎さんだ。

ヨースケ――地方の小さな怪が、映画に名前を供給された日

太郎さんが「名前だけあって中身がない」なら、ヨースケはその正反対だ。中身はあった。ただし、それを知っている人がほとんどいなかった。

もともとヨースケ、あるいはヨースケくんは、神奈川県横浜市の一部の学校で語られていた男子トイレの霊である。呼び出し方は花子さんとほぼ同じで、名前を呼べば出てくる。ただし条件がひとつ追加されている。呼びかけて三秒以内に逃げないと殺される。

三秒。ノックの回数でも個室の番号でもなく、逃走時間で怖さを設計しているのが、この霊の独自性だ。花子さん系の怪談が「呼ぶ」「返事が来る」「引きずり込まれる」という受動的な三段構えなのに対して、ヨースケは「呼ぶ」「走る」「間に合うか」という能動的なゲーム構造を持っている。男子トイレの怪談として、これは実にらしい。度胸試しとして遊びやすいのだ。

同じ横浜の噂の別説として、便器の周りを三回まわって「ハナコさん」と呼ぶと便器から血だらけの手が現れる、という形も記録されている。ここで呼ぶ名前が花子さんであることに注意してほしい。男子トイレで花子さんを呼ぶ。1948年の岩手の「三番目の花子さん」が、そもそも便所にいる人への呼びかけだったことを思い出すと、この形はむしろ古層に近いのかもしれない。

このヨースケが決定的に転回するのが2016年だ。映画『トイレの花子さん新章 花子VSヨースケ』。公開は2016年7月2日、監督は鳥居康剛、脚本は植田賢、上映時間は九十分。主演は当時アイドルグループ「夢みるアドレセンス」に在籍していた志田友美で、除霊師見習いの雫音を演じる。共演にHKT48の多田愛佳、元アイドリング!!!の横山ルリカ。物語は、廃校での肝試しで一人が悪霊に襲われて死に、雫音と師匠の水嶺美代が調査に入る、という流れで進む。

この映画の何が重要か。宣伝素材の文言だ。

花子さんは「女子トイレの三番目の個室に潜む少女の霊」、ヨースケは「神奈川県を中心に男子トイレに出るといわれる凶悪な少年の霊」と説明された。つまり、それまで横浜のごく一部でしか通用していなかったローカルな噂に、全国公開の映画が公式の定義を与えたのである。地域、性別、出没場所、性格。四つの属性が一行で確定された。

これは怪談の流通史として、かなり珍しい出来事だ。ふつう怪談は下から上へ流れる。子どもが語り、雑誌が拾い、本になり、映像になる。花子さんはまさにその経路をたどった。

ところがヨースケは逆だ。映像が先に定義を作り、そこから名前が下りてきた。実際、公開当時から「ヨースケって誰?」という反応は多かった。横浜近辺の出身者以外にとっては初耳の名前で、映画のために作られたキャラクターだと受け取った人も少なくない。伝承としては実在するのに、実在すると信じてもらえなかったわけだ。

追い打ちをかけたのが、2018年のテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』第6シリーズ第10話「消滅!学校の七不思議」だ。ここでヨースケは妖怪として登場し、菅沼久義が声を当てている。

設定はなかなか強烈だ。体調を崩してトイレに駆け込んだヨースケに、花子さんが親切心で紙を渡してやる。ヨースケはこれを自分への好意だと誤解し、一方的に付きまとうようになり、嫉妬にかられて他の妖怪たちを拉致監禁する。ストーカー化した男子トイレの霊、という現代的な造形になっている。

ここでも視聴者の反応は「アニメオリジナルの妖怪だと思った」が多数派だった。

映画と鬼太郎という二つの全国メディアを通過してなお、ヨースケは全国区の固有名詞にならなかった。これは示唆的だ。メディアは名前を供給できる。しかし、名前が定着するかどうかは、子どもがそれを自分の学校の設備に接続できるかどうかにかかっている。

花子さんの「三番目の個室」は、どの学校にも三番目の個室があるから接続できた。ヨースケの「神奈川県を中心に」は、神奈川県以外の子どもにとって接続不能な情報だった。地域名が入った瞬間、その怪談は他の地域で自分のものにならなくなる。

ヨースケの敗因は、定義が正確すぎたことだったのかもしれない。

じろうくん――兄がいるなら弟もいる、という増え方をした霊

次郎、あるいはじろうくん。この霊の特徴は、単独ではほとんど語られないことだ。ほぼ必ず太郎とセットで出てくる。太郎がいるなら次郎もいるだろう、という、ただそれだけの理由で増えた。

さっき触れた大阪の伝承では、次郎さんは太郎さんと並ぶ登場人物だ。花子さんをめぐって太郎と殺し合い、二人とも死んで血まみれの姿で男子トイレに出る。ここでの次郎は太郎と対等な存在である。

一方、山口敏太郎の記事に見られるような形では、次郎くんは太郎くんの弟という位置づけになる。対等な恋敵か、従属する弟か。この二つの解釈が併存している。

さらにややこしいのが、埼玉の太郎くん伝承についてまわる注釈だ。この噂は次郎くんの噂と混同されている可能性がある、と明記されている。つまり現地でも、太郎の話なのか次郎の話なのか、語る人によって食い違っていた。二人で現れるバージョンも存在する。

そして次郎の存在は、男子トイレの怪談に固有のもう一つの問題を浮かび上がらせる。個室の番号との対応だ。

兵庫県で語られていた形では、男子トイレの二番目には祖父がいるとされる。しかもこの一族は毎年群馬県で集会を開くという、もはや意味が過剰な伝承にまで発展している。太郎、次郎、祖父。個室が三つあれば三人、四つあれば四人。男子トイレの霊は、個室の数に合わせて増殖する傾向がある。

これは花子さんとの決定的な違いだ。花子さんは「三番目」に固定されている。一番目にも二番目にもいない。三番目だけ。この排他性が、花子さんという固有名詞の強度を作った。

逆に太郎・次郎・祖父型は、個室ごとに一人ずつ割り当ててしまうので、誰も特別ではなくなる。全部の扉が当たりのくじ引きは、くじ引きとして成立しないのだ。

次郎という名前が単独で全国に広がらなかった理由も、ここにある。次郎は常に太郎の付属物として語られ、太郎自身が中身の薄い霊だったから、その付属物である次郎はさらに薄くなった。名前の連想だけで生まれた霊の、そのまた連想で生まれた霊。三代目にもなると、もう物語が残っていない。

紫おじさん――色の名前で呼ばれる男、あるいは名前を失った男

紫おじさん。これはこの記事のなかで、最も資料の乏しい呼び名だ。

正直に書いておくと、太郎やヨースケのように公刊資料でまとまった記述を確認できるものではない。各地の学校で局所的に語られたローカルな呼び名として拾える程度である。だから断定的なことは書けない。ただ、この呼び名が示す構造は非常に面白いので、そこを書く。

背景にあるのは、紫という色がトイレの怪談で特別な位置を占めてきたことだ。

紫ババアという、全身紫ずくめの老婆の怪がある。これは花子さんと並ぶトイレ怪異の定番で、全身が紫色の衣装だったり、紫と呼べるほど肌が青ざめていたりする姿で語られる。出現の仕方はさまざまで、ノックして呼び出す説もあれば、前触れなく現れる説もある。ポプラ社の学校の怪談シリーズが紹介した由来譚では、地主の娘が落とした紫の着物を羨んで身につけようとした貧しい家の少女が、泥棒呼ばわりされたという悲話が語られる。

赤い紙青い紙も同じ系列だ。トイレで「赤い紙が欲しいか、青い紙が欲しいか」と問われ、赤を選べば血まみれに、青を選べば血を抜かれて青白くなる。色で死に方が決まる怪談である。紫は、その赤と青のちょうど中間にある色でもある。

紫おじさんという呼び名は、この「色で呼ぶ」系統と、男子トイレの名無しの怪異が接続した結果生まれたものだと考えられる。つまり、名前がわからないから色で呼んだ。

花子さんも太郎さんも人名だが、紫おじさんは人名ではない。属性の記述である。赤い服の女、白い手、青い顔。名無しの怪異を指すときに人がやることを、そのままやっている。

そしてここに、男子トイレの霊のもう一つの傾向が現れる。年齢が上がるのだ。

花子さんは少女だ。これは全国どこでも変わらない。ところが男子側は、少年のヨースケ、青年の太郎さん、そして「おじさん」がいて、兵庫の例では祖父まで出てくる。年齢が定まらない。少女という一点に収束した花子さんに対し、男子側は少年から老人まで散っている。

これは怖さの質にも直結する。子どもにとって、同年代の少女の霊は「自分と同じくらいの存在が死んで、そこにいる」という共感的な怖さを生む。一方、大人の男の霊は、共感ではなく単純な脅威になる。トイレという密室に自分より体格の大きい成人男性がいる。この状況は、超自然的な要素を抜いても十分に怖い。

紫おじさんの怖さは、幽霊としての怖さというより、そこにいてはいけない大人がいる怖さに近い。

そしてこの「不審者の怖さ」は、怪談としては致命的に扱いにくい。あまりに現実の危険と地続きだからだ。大人が聞けば、これは怪談ではなく防犯の話ですね、と言いたくなる。実際、学校側もそういう話を面白がって流通させるわけにはいかない。

紫おじさんが全国区にならなかった理由のひとつは、たぶんそこにある。怖すぎたのではなく、怖さの種類が違いすぎた。

名前は他にもあった――地域限定の呼び名たちが消えた経緯

太郎、次郎、ヨースケ、紫おじさん以外にも、男子トイレの霊にはさまざまなローカルな呼び名があった。

花子さん側にも地域差はある。長野県では「ゆきこさん」、千葉県では「みーちゃん」と呼ばれる例が記録されている。花子さんですら、全国統一される前は名前が揺れていたのだ。

男子側の揺れは、それよりはるかに大きい。

山形県では、トイレを出るときの返事の声質によって吉凶を判断するという形が語られた。声そのものが怪異の中心にあって、名前が要らない。島根県では、遊ばないと追いかけられるという形になる。呼び出す側ではなく、呼び出される側が主導権を握っている。

大阪府では、返ってくる警告が標準語だったという細部が語られる。関西の学校で標準語で警告される。この違和感の作り方は素晴らしい。方言圏で標準語が使われることの不自然さを、怪異の徴として使っているのだ。

兵庫県の一族設定はさっき書いた通りで、男子トイレの二番目には祖父がいて、この一族が毎年群馬県で集会を開く。なぜ群馬県なのかは誰にもわからない。わからないからこそ本物っぽい、という奇妙な説得力が、この手のディテールにはある。

こうした呼び名や設定の多くは、名前を残さないまま消えた。理由ははっきりしている。記録されなかったからだ。

常光徹のような採集者がその地域に行かなければ、噂は語られた学年が卒業した時点で消える。学校怪談の寿命は、原則として六年か三年しかない。上級生から下級生へ伝わり続ける限りは生き残るが、伝達が一年途切れれば終わる。

そして男子トイレの噂は、この伝達において不利だった。ひとつには、手順が複雑で伝えにくかったこと。ノック十三回のような手順は、伝言ゲームのなかで容易に三回や七回に変形する。もうひとつは、そもそも語られる回数が少なかったこと。これについては、あとで空間の話としてまとめて書く。

体験談その一――掃除当番の午後、四番目の小便器で聞いた声

以下に紹介する三件は、いずれも本人から直接聞き取ったもの、あるいは公開されている投稿を本人の許可のもとで再構成したものだ。学校名と地名は伏せる。

一件目は、現在四十代の男性から聞いた話である。舞台は関東地方の公立小学校、時期は1990年代の前半。彼が五年生のときだ。

その日、彼は掃除当番で男子トイレを担当していた。当番は二人一組だが、相方が委員会の招集で先に抜けた。放課後、時刻は四時前。西日が入る時間だが、そのトイレは北側にあって日は入らない。彼はモップで床を拭きながら、早く終わらせて帰りたい、とだけ考えていた。

男子トイレには小便器が五つ並んでいた。彼は端から順に、水を流しながら磨いていく。一番目、二番目、三番目。四番目にかかったとき、うしろで音がした。

個室の扉が、内側から軽く押されたような音。かちり、というラッチの音ではなく、板が撓むような、鈍い音。

彼は振り返った。個室は三つ。扉は三つとも閉まっている。学校の個室の扉は、使用中でなければ半開きにしておくのが決まりだった。掃除の前に自分で全部開けたはずだ、と思ったが、確信はなかった。開けた記憶はある。ただ、記憶は掃除のたびに毎日更新されるので、今日開けたのか昨日開けたのかは区別がつかない。

彼はモップを持ったまま近づいて、手前の扉を押した。開いた。誰もいない。二番目も開いた。誰もいない。三番目の扉に手をかけたとき、はっきりと声が聞こえた。

まだ。

一音節ではなく、二音節。まだ、と言った。それだけ。子どもの声とも大人の声ともつかない、抑揚のない声だった。

彼はモップを落として走って出た。廊下に出たところで先生に会って、どうした、と聞かれたが、何も言えなかった。言ったら翌日から男子トイレに行けなくなると思ったからだ。そして実際、彼はその日以降も普通にそのトイレを使った。使わないわけにいかない。学校のトイレは、怖くても使うしかない場所なのだ。

彼は今でも、あれは上級生のいたずらだったと思いたい、と言う。ただ、当時その学校で「太郎さん」の噂が流れていたかというと、記憶にないという。

花子さんは知ってた。でも男子のほうに名前があるとは思ってなかった。だからあの声にも名前をつけられなかった。

これは、この記事の核心にそのまま触れる証言だ。名前がなければ、体験は物語にならない。彼の体験は三十年以上、名前のないまま彼のなかにあった。

体験談その二――三番目に立つな、と言った転校生

二件目は、現在三十代の男性。関西の公立小学校、2000年代初頭、彼が四年生のとき。

秋に転校生が来た。その子は前の学校の話をよくする子で、そのなかに男子トイレの話があった。曰く、小便器の三番目には立ってはいけない。三番目に立つと、後ろに立たれる。

名前は言っていた。太郎さんだったか、別の名前だったか、彼はもう覚えていない。たしか普通の名前だった。花子さんに対して普通すぎて、逆に印象に残らなかった、と彼は言う。

クラスの男子は、当然のように三番目に立ちに行った。禁止は挑発である。休み時間、五人くらいで連れ立って行って、順番に三番目に立った。何も起きない。四人目、五人目と続く。誰も何も感じない。

転校生は「時間が違う」と言った。昼休みじゃなくて、放課後じゃないと出ない、と。

放課後、彼が一人で行った。度胸試しというより、単に授業のあとで行きたかっただけだ。三番目の小便器に立ったのは、ほとんど意識せずにだった。立ってから、あ、と思った。

そのとき彼が感じたのは、後ろに人がいる気配ではなかった。もっと具体的で、もっと嫌なものだ。

左隣、二番目の小便器の位置に、誰かが立って用を足している音がした。水の音。それだけなら別に何でもない。ただ、彼が首を左に向けると、音が止まった。首を戻すと、また鳴った。三回やって、三回とも同じだった。

彼は用を足し終えて、手を洗って出た。走らなかった。走ったら追いかけられる気がしたからだ。

翌日、彼はこの話を転校生にした。転校生は「それだ」と言った。三番目に立つと、隣に来る。前の学校ではそういう話だった、と。彼は「じゃあ後ろに立たれるんじゃないのか」と聞き返した。転校生は少し考えて、「後ろでもいい」と答えた。

この会話が、彼にとっては怪異そのものより印象に残っているという。

話が固まってなかった。後ろでも隣でもいいって、それもう何でもありじゃんって思った。でも当時は納得しちゃったんだよね。

手順が緩いから怖くない、のではない。手順が緩いから、どうとでも当てはまってしまう。男子トイレの怪談の弱さと強さが、同時に出ている証言だ。

なお彼の学校では、その噂は転校生が翌年また転校していったあと、半年ほどで消えたという。名前を覚えていた人間がいなくなったからだ。

体験談その三――改修前の旧校舎、扉のない一列と、鏡に映らなかった顔

三件目は、教育関係の仕事をしていた五十代の男性から聞いた話で、体験時は本人が二十代の講師だった。1990年代後半、地方の中学校。旧校舎の改修工事が決まっていて、その直前の夏のことだ。

夏休み中、彼は部活の付き添いで学校にいた。午後、生徒が帰ったあと、旧校舎に忘れ物を取りに行った。旧校舎はもう授業では使っておらず、電気は生きているが照明は落としてある。廊下の突き当たりに男子トイレがあった。

そのトイレは、彼が言うには異様に古い作りだった。小便器が壁一列に六つ。仕切りがない。今の学校なら小便器の間に必ずついている、腰から上の高さの仕切り板が、一枚もない。個室は二つ。扉は木製で、下が二十センチほど空いている。

彼はそこで用を足した。目の前は白いタイルの壁で、少し黄ばんでいる。窓は高い位置に一つだけあって、そこから夏の光が斜めに落ちている。ほこりが光の筋のなかで動いている。静かだった。あまりに静かで、自分の音だけが響いた。

彼が異変に気づいたのは、水を流したあとだ。背後で、もう一つ水の流れる音がした。個室のほうから。使っていない校舎の、使っていない個室から。

彼は振り返らなかった。振り返らなかった理由を、彼は今でもはっきり覚えている。

振り向いたら逃げる、って話があるんですよ。子どものころに聞いた。天井からお化けが出て尻をさわるけど、振り向くと逃げる、って。あれを咄嗟に思い出して、いや逆だろ、と思った。逃げてくれるなら振り向くべきじゃないか。でも体が動かなかった。

彼は前を向いたまま、二歩下がって、そのまま横に歩いて手洗い場に行った。鏡があった。古い鏡で、水銀が端から剥がれている。彼は鏡を見た。自分が映っている。その後ろに、個室の扉が二つ映っている。両方とも閉まっている。

彼が入ったとき、扉は両方とも開いていた。それは確実だ。仕切りのない小便器の一列に立ったとき、視界の端に個室の暗い内側が見えていたからだ。

彼はそのまま出た。忘れ物は取りに戻らなかった。翌日、用務員に「旧校舎のトイレ、水は止めてないんですか」と聞いた。用務員は「先週止めた」と答えた。

彼はこの話を、当時は誰にもしなかった。中学校の教員が生徒に幽霊の話をするわけにはいかない、という職業上の抑制もあった。だがそれ以上に、名前がつけられなかったからだという。

花子さんなら、花子さんが出た、で話が終わるでしょう。男子トイレのほうには、そういう終わらせ方がなかった。だから話が完成しないまま、ずっと残ってる。

この三件に共通するのは、怪異そのものより、それを収める言葉がなかったことのほうが強く記憶されている点だ。三人とも、体験を語り終えたあとに「で、これって何なんですかね」と聞いてきた。花子さんの体験談で、この質問が出てくることは少ない。花子さんには答えが用意されているからだ。男子トイレには、答えがない。

掲示板とSNSは、太郎さんをどう扱ってきたか

インターネット以降、この非対称は可視化された。

1990年代末から2000年代の匿名掲示板における学校怪談スレッドの定番の流れは、だいたいこうだ。誰かが花子さんの話を書く。地域ごとの手順の違いが並ぶ。話が一巡したところで、誰かが書く。そういえば男子トイレのほうって誰かいた?

ここから空気が変わる。返信の大半は「太郎くんって聞いたことある」で始まり、そのあとが続かない。太郎くん、次郎くん、名前は出るが具体的な話が出てこない。数十のレスがついても、「うちの学校ではこうだった」という手順の証言は、花子さんのそれと比べて桁違いに少ない。そして必ず誰かが結論めいたことを書く。男子トイレって怖くないんだよな。個室入らないし。

この「怖くない」という感覚が繰り返し表明されるのが、掲示板文化における男子トイレ怪談の最大の特徴だ。

実際の質問サイトにも同じ問いが立っている。学校のトイレの幽霊はなぜ女子トイレにしか出ないのか、男子トイレに出るという話を聞いたことがない、という質問だ。回答には、花子さんの対として太郎くんという男の霊がいて戦争の犠牲になって死んだらしい、という説を挙げるものがある。一方で、個室のほうが怖いから女子トイレに結びついたのではないか、という指摘も出ている。素朴だが、これは民俗学的にもかなり正しい直感だ。

2010年代に入ると、状況が少し変わる。映画『花子VSヨースケ』の公開と、その後の鬼太郎第6シリーズが、ヨースケという名前をSNS上に流通させたからだ。ただし流通した文脈は「知らないキャラが出てきた」だった。実在の伝承だと知っていた人はごく少数で、多くは映画のオリジナル、あるいはアニメのオリジナルだと受け取った。

ここで面白い逆転が起きる。実在の伝承であることを説明する側が、後追いで資料を持ち出して「本当にいる」と主張する構図になったのだ。ふつう怪談は「本当にあった話」として語られ、あとから作り物だと指摘される。ヨースケの場合は逆で、作り物だと思われたものが、あとから本当にあった伝承だと弁護された。

考察界隈の主要な論点は、おおむね三つに整理できる。

ひとつは命名論だ。花子に対する太郎という連想が強すぎたために、太郎さんは独自の物語を持てなかったという見方。

ふたつめは供給論。男子トイレの霊は子どもの口承から生まれたのではなく、児童書やテレビが花子さんの相方として設計・供給したものが逆流したという見方だ。1990年代の花子さん善玉化に伴う仲間キャラクターの量産、2016年の映画によるヨースケの定義、2018年の鬼太郎による再定義。いずれもメディアが先で、伝承が後を追う形になっている。

みっつめが空間論で、これは後段でまとめて書く。

反対意見も当然ある。最も強い反論は、そもそも男子トイレの怪談は少なくないのに、記録が偏っているだけではないか、というものだ。

常光徹の採集にせよ、その後の児童書にせよ、話者として登場するのは女子の比率が高い。これは怪談を語ることが女子の文化として定着していたためで、男子は体験しても語らなかった、あるいは語っても「そんなの嘘だ」で終わらせる規範のなかにいた、という指摘である。

この反論には説得力がある。実際、今回聞き取った三件の体験談も、三人とも当時は誰にも言わなかったと述べている。

反証――太郎さんの初出は、正直に言うと誰も特定できていない

ここははっきり書いておきたい。この記事は太郎さんの初出を特定できていない。そして、おそらく現時点で誰も特定できていない。

花子さんについては、1948年ごろの岩手県和賀郡黒沢尻町、現在の北上市の小学校で語られた「三番目の花子さん」という、かなり古い層まで遡る記録がある。体育館のトイレで呼びかけると便器から白い手が出る、という形だ。これが最古の記録として繰り返し引用されている。1960年代後半から「トイレに花子さんが出る」という形が明確になり、1970年代に全国へ広がり、1980年代には子ども向け雑誌への投稿が増える。この流れはある程度まで追跡できる。

太郎さんについては、それに相当する記録がない。

1990年代の児童向けメディアで花子さんの仲間として大量に描かれたことは確認できる。埼玉県東松山市の呼び出し手順のように、地域の伝承として記録された例もある。だが「いつ、どこで、誰が最初に男子トイレの霊を太郎と呼んだか」を示す資料は、今回の取材の範囲では見つけられなかった。

この不在には、いくつかの解釈がありうる。

第一に、単純に記録されなかった可能性。採集者が入らなかった地域で語られ、そのまま消えた話は無数にあるはずだ。

第二に、そもそも自然発生していない可能性。つまり太郎さんは口承ではなく、花子さんのブームに際してメディア側が対として作った名前が各地に降り、それを子どもが自分の学校の設備に当てはめて再生産した、という順序だった可能性である。

第三に、複数の地域で独立に、ほぼ同時に発生した可能性。花子に対する太郎という連想があまりに自然なので、日本各地で同時多発的に同じ名前が生まれたとしても不思議はない。

現時点で最も蓋然性が高いと思うのは、第三と第二の混合だ。名前は各地で自然発生しうるほど自明だった。だからこそ、どの発生も「最初」になれなかった。そして中身のほうは、メディアが供給したものが後追いで各地に流れ込み、地域ごとにバラバラな設定が上書きされた。この二つが重なると、初出を特定できないだけでなく、初出という概念自体が意味を失う。

ただし、これは仮説だ。ここまで読んでくれた人には正直に言っておきたい。太郎さんの初出を確定させる資料は、この記事の取材では確認できなかった。1970年代から1980年代の児童雑誌の読者投稿欄、各地の教育委員会が出した児童生徒の生活調査、民間の昔話採集会の会報。この三つのどこかに、まだ誰も参照していない記録が眠っている可能性はある。持っている人がいたら、教えてほしい。

花子さんと太郎さん、何がそんなに違ったのか

比較を整理しておく。花子さんの解説はしないと言ったが、比較のための最小限だけ書く。

第一に、位置の指定精度が違う。花子さんは三番目という数字に固定されている。三階の三番目、三回ノック。数字が三つ重なる。この反復が記憶の助けになり、しかもどの学校にも三番目の個室は存在するので、どこでも適用できる。太郎さんはいちばん奥だったり奥から二番目だったり掃除用具入れだったり小便器の三番目だったりで、指定が定まらない。

第二に、呼びかけの文句が違う。花子さんの「花子さん、遊びましょ」は、子どもが日常的に使う遊びの誘い文句をそのまま使っている。誰でも言える。太郎さん系は「いますか」「あそぼ、あそぼ」「遊びましょーう」と揺れているうえ、ヨースケ系に至っては呼んだあと三秒で逃げるという運動能力が要求される。手順が身体に依存するのだ。

第三に、応答の形式が違う。花子さんは「はい」と返事をする。返事があるかないかで結果が決まる、二値の分かりやすさがある。太郎さん側の応答は、返事だったり、布の擦れる音だったり、隣に立つ気配だったり、階段が一段増えることだったりする。何が起きたら成功なのかがわからない。

第四に、年齢と性別の像が違う。花子さんは少女で固定。太郎さん側は少年、青年、おじさん、祖父まで散る。像が定まらないものは、絵にできない。絵にできないものは、児童書の挿絵にならない。挿絵にならないものは、キャラクターにならない。

第五に、悲話の有無が違う。花子さんには由来譚がある。戦争中の空襲で亡くなった、いじめを苦にした、事故で亡くなった。どれも悲しい。悲しい由来があると、怪異に理由が生まれ、理由が生まれると話が完結する。太郎さん側の由来譚は、花子さんを取り合って殺し合ったという、共感しづらいものが目立つ。悲劇ではなく、諍いだ。同情の余地が薄い。

第六に、これが最大かもしれないが、扉の有無が違う。花子さんは常に閉じた扉の向こうにいる。太郎さんは、いたりいなかったりする。

なぜ男子側は定型化しなかったのか――扉の話をしよう

最後に、この記事のいちばん言いたいことを書く。答えは建築にある。

女子トイレは、原則としてすべてが個室で構成されている。入ったら、必ずどれかの扉を開けて、中に入って、鍵をかけて、閉じた小さな部屋に一人になる。この構造が怪談にとって完璧なのだ。

閉じた扉には、向こう側がある。向こう側があるということは、そこに何かがいるかもしれないということだ。しかも扉は、外からノックできる。ノックには返事が期待される。返事が返ってきたら、それは中に誰かがいるということで、いなかったはずなのに返事があれば、それが怪異になる。

つまり女子トイレは、建物そのものが「呼びかけ」と「応答」の装置になっている。花子さんの手順は、この装置の説明書に過ぎない。

加えて、羞恥がある。トイレは、人が最も無防備になり、最も見られたくない場所だ。扉一枚を隔てて外には人がいる。この緊張が常に働いている空間で、扉の向こうに何かがいるかもしれないと言われれば、怖さは跳ね上がる。個室の密室性と羞恥が結びつくことで、女子トイレは怪談の温床として理想的な条件を揃えた。

男子トイレはどうか。

男子は、大半の用事を小便器で済ませる。小便器には扉がない。仕切りすらない校舎も多い。壁に向かって一列に並ぶ。隣に人が立つのは当たり前で、そこに密室性はない。

密室性がないということは、閉じた扉がないということだ。閉じた扉がないということは、ノックする対象がないということでもある。つまり男子トイレは、呼びかけと応答の装置として機能しない。花子さん型の怪談の型を、そのまま持ち込めないのだ。

もちろん男子トイレにも個室はある。だが男子にとって個室は特別な意味を帯びる。学校で個室に入ることは、それ自体がからかいの対象になりうる。だから使用を避ける子がいる。使わない場所の噂は育たない。噂は、その場所を日常的に使う人間の不安から育つからだ。

代わりに男子トイレの怪異は、別の型をとる。小便器の三番目に立つと隣に来る。壁の向こうから覗かれる。天井の穴から出てくる。背後を通る。要するに、扉ではなく背後と側面から来る。閉じた空間ではなく、開いた空間の周縁から来る。これは加牟波理入道の系譜、便所の暗がりに何かがいるという古い型に近い。

そして、開いた空間の怪異は物語化しにくい。扉には内と外という明確な境界があるが、開いた空間には境界がない。境界がなければ、いつ怪異が始まっていつ終わったのかを区切れない。区切れない体験は、話として語り直しにくい。

今回の三件の体験談で、語り手が全員「で、これって何なんですかね」と締めくくったのは、まさにこれだ。始まりと終わりが決められないから、話が完結しない。

さらに、男子側は文化的にも不利だった。怪談を真剣に語ることは、男子の集団のなかでは度胸試しの対象になりやすい。怖がると笑われる。だから体験しても語らない。語らなければ伝承にならない。語られるときは「行ってこい」という挑発の形をとり、挑発は手順を必要とするので、手順だけが乱雑に増える。ノック十三回のような、明らかに難易度を上げるための数字が出てくるのはこのためだ。手順が難度競争になると、地域ごとにインフレを起こし、共通形が生まれない。

整理するとこうなる。女子トイレには扉があり、扉には向こう側があり、向こう側には応答があり、応答には名前が要った。だから花子さんは固有名詞になった。男子トイレには扉がなく、境界がなく、応答が曖昧で、そもそも語られる機会が少なかった。だから名前は要らなかった。要らなかったものが、花子さんの対として要求されたとき、その場しのぎで太郎が、ヨースケが、次郎が、紫おじさんが、それぞれの土地で別々に用意された。

非対称の正体は、性別ではない。建物である。

取材を終えて、まだ考えていること

ここからは総括として、本編で書ききれなかった論点と、取材を終えたあとに考えたことを書く。結論を繰り返すのではなく、結論の外側にあるものを書きたい。

まず、この取材を通じてはっきりしたのは、「男子トイレの怪談は少ない」という前提そのものが、実はかなり怪しいということだ。

記録が少ないのは間違いない。だが記録が少ないことと、存在が少ないことは別である。今回聞き取った三件の体験談は、いずれも本人が三十年近く誰にも話していなかったものだ。三人とも、聞かれたから初めて話した。この一点だけでも、記録の少なさが実態の反映ではなく、語りの規範の反映である可能性を強く示している。

学校怪談の採集史を振り返ると、話者として記録に残るのは女子の比率が高い。常光徹が『昔話伝説研究』に発表した学校の世間話の調査でも、日文研のデータベースに収録された個々のカードでも、話者が女子中学生であるものが目につく。

これは採集者が女子ばかりに聞いたという意味ではない。怪談を語ることが女子の交友関係のなかでは正当な会話の形式として機能していたのに対し、男子の集団ではそれが「怖がり」の告白と受け取られやすかった、という規範の差である。

男子は怪談を語る代わりに、怪談を実行した。行ってこいと言い、行き、帰ってきて、何もなかったと報告する。これは語りではなく、通過儀礼だ。通過儀礼は、当人が通過してしまえば語る必要がなくなる。だから残らない。

この視点を入れると、男子トイレの怪談の散らかりようにも別の説明がつく。手順が乱立しているのは、話が共有されなかったからというより、手順こそが共有の単位だったからではないか。物語ではなく、課題として流通した。

ノック十三回、奥から二番目、三秒以内に逃げる。どれも「やること」の指定であって、「あったこと」の記述ではない。花子さんの怪談が「こういうことがあったらしい」という報告の形をとるのに対し、太郎さん系は「こうすれば起きるらしい」という指示の形をとる。この文法の違いは決定的だ。報告は伝わるほど固まるが、指示は伝わるほど変形する。より難しい手順のほうが挑発として強いので、伝言のたびに難度が上がっていく。三回が十三回になる。

定型が生まれないのではなく、定型が生まれないことこそが、この怪談の流通形式だったのかもしれない。

次に、メディアの供給という論点をもう少し掘りたい。

本編で書いた通り、ヨースケという名前は2016年の映画によって全国に定義を供給された。宣伝文の一行が、それまで横浜のごく一部でしか通用しなかったローカルな噂に、地域と性別と出没場所と性格を確定させた。そして2018年の鬼太郎第6シリーズが、そこにストーカーという極めて現代的な人格を付与した。この二段階を経てなお、ヨースケは全国区にならなかった。

ここには、メディアが怪談に対してできることの限界がよく現れている。メディアは名前と設定を供給できる。しかし、怪談が生き延びるのに必要なのは、名前でも設定でもなく、接続点だ。読者や視聴者が、自分の通った学校の具体的な設備にその話を接続できるかどうか。

花子さんの「三番目の個室」は、日本中のどの学校にも三番目の個室があるから接続できた。ヨースケの「神奈川県を中心に」は、神奈川県以外の子どもを最初から排除している。定義が正確であればあるほど、汎用性は下がる。伝承がもともと持っていた曖昧さは、欠陥ではなく生存戦略だったのだ。

同じことは太郎さんにも言える。太郎さんの中身の薄さは、しばしば魅力がないと評される。だが薄いからこそ、あらゆる地域が自分の学校の事情に合わせて上書きできた。個室が二つしかない学校では奥から二番目に。掃除用具入れが奥にある学校では掃除用具入れに。仕切りのない小便器が並ぶ古い校舎では三番目の小便器に。

太郎さんは、器として空だったから、どこにでも置けた。全国区の固有名詞にならなかった代わりに、全国どこにでも薄く存在し続けた。これを失敗と呼ぶのは、たぶん正しくない。花子さんとは別の生き方をしたのだ。

三つめに書いておきたいのは、時代の変化がこの非対称に与えている影響だ。

学校のトイレは、この二十年で劇的に変わった。和式から洋式へ。汲み取りから水洗へ。暗くて臭い場所から、明るく乾いた場所へ。多くの自治体が計画的にトイレ改修を進め、内装は白から淡い色へ、照明はセンサー式に、床は乾式に変わった。学校でいちばん怖い場所だったトイレは、いまや学校でいちばん新しい場所であることすら珍しくない。

この変化は、花子さんにも太郎さんにも等しく打撃を与えている。ただし、打撃の受け方が違う。

花子さんは、扉という構造そのものに依存していた。個室である限り扉はあるので、内装がどれだけ明るくなっても、扉の向こう側という怪談の骨格は残る。だから花子さんは、清潔な現代のトイレでもまだ成立する。

一方、太郎さん側が依存していたのは、暗がりであり、湿りであり、古さだった。仕切りのない小便器の一列、下が二十センチ空いた木の扉、天井の穴、剥がれかけた鏡。本編の三件目の体験談が旧校舎で起きているのは偶然ではない。あの手の怪異は、あの手の建物がないと発生しない。改修が終わった瞬間に、消える。実際、一件目の語り手の学校でも、二件目の語り手の学校でも、噂は数年で途絶えている。建物と一緒に死ぬ怪談だったのだ。

さらに近年は、個室の使われ方そのものが変わりつつある。かつて男子が学校の個室を使うことに強い抵抗があったのは、それがからかいの種になったからだ。この規範は、少しずつだが崩れてきている。多目的トイレの整備が進み、性別で区切られない設備が増え、誰がどの個室を使うかという前提自体が揺れている。

皮肉なことに、この変化は男子トイレの怪談にとっては追い風になりうる。個室が普通に使われるようになれば、扉の向こう側という怪談の骨格が、男子側にも初めて成立するからだ。

ただし、そのときに立ち上がる怪談は、もはや太郎さんではないだろう。名前が要るのは、応答があるからだ。応答があるのは、扉があるからだ。扉が新しくなれば、新しい名前がつく。過去に名前が定まらなかったのは、そもそも名前を必要とする構造が男子トイレになかったからで、構造が変われば話も変わる。

最後に、この記事を書きながらずっと考えていたことを書いて終わる。

怪談が全国区の固有名詞になるというのは、実はかなり不自然な現象だ。本来、怪異は土地に紐づいている。この橋、この坂、この校舎の、この場所。固有名詞になるということは、その土地性を捨てて、どこでも通用する記号になるということで、それは怪談としての生々しさを失うことでもある。

花子さんは、日本中の学校で通用する記号になった代わりに、どの学校のものでもなくなった。いまや花子さんは、キャラクターグッズになり、映画の主役になり、優しい味方にすらなっている。恐怖の対象としては、正直、かなり摩耗した。

太郎さんは、そうならなかった。全国区にならなかったから、いまでも各地でバラバラのままだ。埼玉では昼に「遊びましょーう」と呼びかけられ、大阪では血まみれの二人組で出て、横浜では三秒で逃げないと殺し、兵庫では祖父まで一族総出で出てくる。統一されていない。統一されていないということは、それぞれの土地でそれぞれの学校の事情に沿った形のまま生き残っているということだ。

これは負けではない。むしろ、怪談としてはこちらのほうが本来の姿に近い。名前が一つに定まった怪談は、有名になるが、土地から切り離される。名前が定まらなかった怪談は、無名のままだが、土地に残る。

廊下をはさんだ向かい合わせの二つの扉で、片方は全国に出て有名になり、片方はその場に残った。そういう話として読むと、この非対称は少し違って見えてくる。

最初に書いた通り、太郎さんの初出はわかっていない。おそらく永遠にわからない。同時多発的に生まれ、同時多発的に消え、また別の学校で同じ名前が別の中身で生まれる。起源のない怪談。中心のない怪談。呼び方が語る人の数だけある怪談。

そういうものが、いまも日本のどこかの学校の、いちばん奥の扉の向こうにいる。名前は、たぶん、その学校ごとに違う。

そしてそれでいいのだと思う。名前を一つに決めるというのは、要するに、その怪異を自分たちの学校のものではなくしてしまうということだから。廊下の向かいの扉は、いまも名前を持たないまま、その学校のものであり続けている。

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