放課後の部室に六人しかいない、その一行から全部が始まった
一九九五年八月四日。バンプレストからスーパーファミコン用のサウンドノベルが一本出た。タイトルは『学校であった怖い話』。開発はパンドラボックス。略して学怖。
導入はびっくりするほど事務的だ。主人公は高校の新聞部に入ったばかりの一年生。夏に旧校舎が取り壊される。それを記念して学校の七不思議の特集を組もう、という企画が部で立ち上がる。取材を任されたのが主人公だった。放課後、部室に語り手が七人集まる予定だった。
来たのは六人。
この一行が、実はこのゲームの設計図そのものだ。誰も来ない席がひとつ空いたまま、六人の怪談が始まる。プレイヤーは、誰から聞くか、を選ぶ。それだけ。血まみれの廊下を走るわけでも、懐中電灯で暗闇を照らすわけでもない。ただ椅子に座って、聞く。
なのに、これが三十年たっても語られている。動画サイトのタグには数千本の動画がぶら下がり、原作者は二〇二六年のいまも続編を作っていて、現行機では系譜作が売られている。当時のファミ通クロスレビューは四十点満点で二十五点。売上も振るわなかった。数字だけ見れば凡作だ。その凡作が、なぜ怪談ジャンルの一番おいしい場所に居座り続けているのか。
答えの半分は、たぶん、怖い話は語り手ごとに真相が違う、という当たり前の事実を、このゲームがシステムに翻訳してしまったことにある。残りの半分は、六人のキャラが立ちすぎていたことだ。順番に見ていく。
「主人公が体験しない」という一点で、当時のサウンドノベルから外れた
九〇年代前半のサウンドノベルは、チュンソフトの『弟切草』が一九九二年、『かまいたちの夜』が一九九四年。主人公が自分でペンションに閉じ込められ、自分で犯人を追い、自分で殺される。恐怖は一人称で体験するものだった。
学怖はそこを外した。主人公は体験しない。ひたすら聞き手をやる。六人の語り手から一話ずつ、計七話を聞く。誰の話を何人目として聞くかで、その語り手が出してくる話がまるごと変わる。一人目に指名された新堂誠と、六人目に指名された新堂誠は、別の話をする。単純計算で六人かける七話で四十二通り。そこに選択肢による派生と隠しシナリオが乗って、総数は五十を超える。
ここがミソで、分岐が枝分かれするんじゃない。話を聞く順番そのものが分岐になっている。プレイヤーは怪談の内容を選んでいるのではなく、今日はこの人から聞こう、という座談会の司会をやっている。その司会進行の結果として、聞ける話が変わる。これはもう、怪談の聞き方をゲームにしたと言っていい。
しかも傾向がえげつなくて、一人目に選んだ語り手は様子見のぬるい話を出してくる。六人目に近づくほど話が重く、危なくなる。六人目に誰を選んだかで、七話目が決まる。七話目は語り手の話ではなく、主人公自身の身に起きる出来事だ。ここでようやく主人公が当事者になる。前菜を六皿食べさせられて、最後に自分が皿に載る。構成としてめちゃくちゃうまい。
表示も凝っている。テキストは書籍を模して、右から左への縦書きで流れていく。実写取り込みのグラフィックを背景だけでなく登場人物にまで使ったのは当時としては珍しく、スーパーファミコンでこれをやった作品はほとんどない。ただしスーパーファミコン版で語り手を演じたのは、開発元パンドラボックスの社員たちだった。どう見ても高校生に見えない。この点は当時から批判の的で、翌年のプレイステーション版では年齢の近い役者に差し替えられている。
でも、である。素人がじっと画面からこっちを見ている、あの微妙に落ち着かない質感が、意図せずして怖さの一部になってしまった。作り込まれたCGよりも、寂れた遊園地のお化け屋敷のほうが怖い、というあの感じだ。粗さが不気味さに転化した稀有な例だと思う。
六人の語り手は、それぞれ別の「怪談の流派」を持っていた
語り手を紹介しておく。ここを押さえないと話が転がらない。
新堂誠。三年D組、十七歳。強面で兄貴肌の運動部系。部活の話、ギャンブルの話、根性論の話をよくする。六人の中では一番まともに見える。実際、比較的安全な部類ではある。ただし比較的、だ。ネットではスポーツはいいぞという台詞が独り歩きして、何かにつけて何々はいいぞと言い出すキャラということになってしまった。
荒井昭二。二年B組、十六歳。ずっと俯いている暗い男。淡々と喋る。喋る内容が全部だめだ。自殺、人体実験、人間の負の側面、そういうものを表情ひとつ変えずに置いてくる。ファンの間では作中最恐を争う語り手で、彼の六話目と七話目は本作の代表作扱いになっている。人形に履歴書はないんです、という迷台詞の主でもある。
風間望。三年H組、十七歳。ナルシストで守銭奴で、宇宙人を自称する。怖い話をしない。一人七不思議では金太郎の像が夜中に動くとか、食堂の飯がまずいとか、そういうレベルの話を延々やって終わる。プレイヤーが、それで終わりですか、と突っ込まないと、勝手に話を切り上げてしまう。完全にネタ枠のはずが、彼のふざけた話が後で現実になったり、七話目で全部ひっくり返ったりする。この緩衝材がいるおかげで、他の五人の話の重さに耐えられる。ホラーゲームなのに一周に必ずギャグ話が一本混ざる設計は、地味に優しい。
細田友晴。二年C組、十六歳。大柄で汗っかき、穏やかだが妙に距離が近い。特筆すべきは、彼の話が全部トイレにまつわる話だということ。全部だ。例外がない。同級生にもトイレ野郎としてネタにされている。にこにこしながら、僕たち友達だね、と言ってくる粘着質さと、話の内容のじめっとした湿度が完全に一致していて、キャラ造形として異様に完成度が高い。
岩下明美。三年A組、十八歳。黒髪ロングの美人。男女関係の話をする。そして本人が一番怖い。嘘と裏切りを何より嫌い、プレイヤーが優柔不断な選択肢を選んだり、前の発言と矛盾したことを言ったりすると、容赦なく制裁がくる。懐にカッターナイフを忍ばせている。ネット上ではもう魔王と呼ばれている。プレイステーション版では語り手選択画面のカーソル初期位置が彼女に合っているため、予備知識なしで始めた人が一人目からいきなり地獄を見る、という事故が多発した。
福沢玲子。一年G組、十五歳。明るくて無邪気な同級生。ジャンルを問わずいろんな話をする。癒し枠かと思わせておいて、残酷な話を笑顔のままさらっと置いていく。水泳部の話、桜の木の話、友人の早苗にまつわる話。あっけらかんとした口調と内容のズレが、じわじわ効いてくるタイプだ。
この六人が、それぞれ違う怪談の流派を背負っている。同じ学校を舞台にしているのに、荒井の学校と風間の学校と細田の学校はまるで別の場所に見える。しかもたまに、同じ事件を別々の語り手が別々の真相で語る。桜の木の話がまさにそれで、後述する。
実際に語られる話――旧校舎の鏡から始める
ここからは、作中で語られる怪談を何本か、読み物として再話する。念のため先に書いておくが、これらは全て創作である。実在の学校で起きた事件ではないし、モデルとされる特定の学校もない。
まず新堂誠の代名詞、旧校舎の鏡。
旧校舎の階段の踊り場に、大きな鏡がある。夜中の三時三十三分三十三秒に、その鏡に向かって手鏡をかざし、合わせ鏡をすると何かが起きる。そういう噂がある。新堂のクラスメイトに吉岡という、いつも一人でいる暗い男がいた。この吉岡が、鏡の話に妙に食いついた。
分岐によって、誘ったのが新堂だったり吉岡だったり、あるいは吉岡の彼女だったりする。ここが最初の仕掛けだ。誰が言い出したかで、同じ夜の出来事の意味が変わる。
深夜の旧校舎。二人は懐中電灯を持って階段を上がる。木造の床がぎしぎし鳴る。踊り場に着き、吉岡が手鏡を構える。三時三十三分三十三秒。
何も映らない、という結末がある。この場合、吉岡が手鏡を落とした瞬間、鏡の中から二人の姿だけが消える。以来、二人は鏡に映らなくなった。
恐ろしい顔が映った、という結末がある。よく見ると、それは吉岡の顔だ。鏡は人間の本性を映す鏡だった。新堂は自分の顔を見ないようにして先に帰る。翌日、吉岡が言うには、本ではあの鏡には天使が映ると書いてあったのに、映ったのは悪魔だった。しかも新堂が帰ったら、その悪魔も消えた。以来、吉岡は新堂を避けるようになる。
死ぬときの顔が映った、という結末がある。吉岡は、鏡に映った自分の顔が紫色だったら、それはもうすぐ死ぬ証拠だ、と言う。新堂が鏡を覗くと、そこには紫色をした吉岡の顔が映っている。新堂は吉岡を置いて走って帰った。翌朝、吉岡は旧校舎の前で死んでいた。通夜で棺を覗くと、その顔は鏡に映ったものと同じだった。それ以来、新堂には、もうすぐ死ぬ人間の顔がわかるようになった。
そして新堂は主人公に聞く。お前の顔が、どんな風に見えるか教えてやろうか、と。
ここで、教えてほしい、を選ぶと、新堂は少し黙ってから言う。お前の顔はなあ、やめよう。自分の未来なんて、知らないのが一番いい、と。
この、答えを言わずに引っ込める間合いがうまい。しかもこの選択肢は、後述する最難関の隠しシナリオを開ける四十八本のうちの一本のフラグでもある。何気ない会話の終わり方が、ゲーム全体の到達点に繋がっている。
飴玉ばあさん――もらってはいけないものを、もらってしまう話
新堂の二話目、飴玉ばあさん。学怖の中でも屈指の知名度を持つ一本だ。
五、六年前まで、学校の通用門にひとりの老婆が現れた。フードのついた真っ赤なローブを着ていて、片手に籠を提げている。籠の中には飴玉が入っている。気に入った生徒に、その飴玉をくれる。これがこの世のものとは思えないほどうまい。舐めた者は人生まで変わる、と言われている。
新堂は主人公に聞く。飴玉ばあさんの飴、すごく舐めたいよな、と。
ここで、舐めたい、と答えるか、舐めたくない、と答えるかで、話が完全に分かれる。しかも新堂はしつこくて、彼の望む答えを返さないと同じ質問を何度でも繰り返す。なんべんでも聞くぜ、と。その理由は、あるルートを最後まで進むとわかる。
舐めたい、を選ぶと、佐久間昇という男の話になる。わがままで自己中心的で天邪鬼。飴玉が欲しくて、来る日も来る日も通用門で待ち続けた。そしてついに、飴玉ばあさんが現れる。
ここで佐久間が素直に、会いたかった、と言うと、彼は飴玉を噛み砕いて食べてしまい、以後、何を食べても飴玉の味しかしなくなる。それだけの話だ。それだけの話なのが逆に怖い。
冷たくあしらうルートに入ると、佐久間は飴をひとつ舐めた上で、さらに二個奪って逃げる。家に帰って残りを食べていると、部屋のドアを叩く音がする。飴玉ばあさんが、返せ、と言いに来ている。
ドアを開けると、飴玉の原料を取ってきてくれと頼まれる。開けないと、こちらは書き方に気をつけたいが、佐久間は目玉を失うことになる。飴玉の原料が何だったのか、そこで初めてわかる。
そのあと新堂は主人公に向き直って言う。ところでお前、さっき飴を食べたいって言ったよな、と。
言った、と答えたなら、二日以内に十人に、飴玉ばあさんの飴を舐めたい、と言わせろ、と告げられる。言わなかったと答えたなら、飴玉ばあさんに出会ったとき四つの質問をされる、正しく答えないと目玉をくり抜かれる、と教えられる。
つまり、聞き手であるはずの主人公が、話を聞いた時点で話の当事者にされている。不幸の手紙の構造だ。子どもの頃、怖い話の本の最後に、この話を読んだ人は、と書いてあってぎょっとした、あの感覚を、選択肢というインターフェースで再現している。
一方、舐めたくない、を選ぶと、片桐里子という一年生の話になる。優しいけれど美人とは言えない子だ。彼女は飴玉ばあさんから飴をもらい、日に日に綺麗になっていく。それを妬んだ親友が、秘密を聞き出そうとする。同じ飴玉ばあさんの話なのに、こちらは怪異よりも人間の嫉妬が前面に出てくる。プレイステーション版ではさらに別バージョンが用意されていて、極度の甘党で虫歯だらけの片桐が、痛みのあまり飴玉を投げ捨ててしまい、後から価値を知って必死に探すが二度と見つからない、という救いのないルートもある。
同じ飴玉ばあさんという一つの噂が、聞き方によって、報いの話にも、嫉妬の話にも、間の悪さの話にもなる。これが学怖の基本文法だ。
赤い傘青い傘――梅雨と紫陽花と、消えない染み
岩下明美の四話目、赤い傘青い傘。学怖のシナリオの中で、たぶん一番トラウマと言われている一本だ。
岩下はまず主人公に聞く。雨が降っているとき、傘をさす。それとも濡れるのが好きかしら。ところであなた、学校に置き傘してる、と。
このどうでもいい世間話が、あとで効いてくる。
話の主役は立花ゆかりという女子生徒。とびぬけて目立つタイプではないが、感じのいい子だ。彼女は同じクラスの塚原浩に、ひそかな想いを寄せている。塚原は日本人離れした顔立ちの、ものすごくかっこいい男だ。ただし性格はよくない。
ある梅雨の日、塚原が傘を持たずに校舎の軒下で雨宿りしていた。そこに立花が赤い傘を差し出す。一緒に帰ろう、と。二人はひとつの傘で帰った。それが始まりだった。
ここで岩下が挟んでくる。あなた、この塚原君て奴のことどう思う。ひょっとして、あなたと似てたりしてね、と。
この質問への答えが、後の結末を変える。プレイヤーが塚原を擁護するか、断罪するか、曖昧にごまかすか。岩下は覚えている。彼女は嘘と裏切りを何より嫌う。
雨の日をきっかけに二人は急接近する。だがある日、塚原が突然冷たくなる。よくある話だ。最近時間が取れない、勉強が忙しい、みんなに優しくしてるだけだ、別に好きだとか言った覚えはない。立花は遠くから彼を見るだけになる。
そしてまた雨の日。偶然出会った二人は、また同じ傘で帰ることになる。今度は立花の青い傘だ。歩きながら塚原がキスをしようとして、立花が拒む。彼女は彼が遊びだと知っていた。好きでなければキスなんてできない、と思っていた。
逆上した塚原は立花を突き飛ばし、彼女の青い傘をひったくって帰ってしまう。立花は紫陽花の咲く花壇の前で、雨に打たれながら泣いていた。そのまま、姿を消した。
数日後、雨の降った放課後。塚原がロッカーを開けると、見覚えのある青い傘が入っている。何気なくそれをさして帰る途中、道の向こうに彼女が立っていた。赤い傘をさして、微笑んで。
しばらく歩くと、彼女が言う。キスをしてくれる、と。
ここでキスをするかしないかで、結末が変わる。
キスをすると、立花はものすごい力で塚原の首を掴み、生ぬるい液体を彼の口に流し込む。彼女の顔には赤い染みが浮き出ている。お前のせいだ、全部お前のせいだ、私のこの苦しみを味わえ。そう笑いながら去っていく。
種明かしは、こうだ。立花は酸性雨に長時間当たると体中に赤い染みが出る体質だった。翌日、彼女の染みは綺麗に消えていた。父親の仕事の都合で海外に引っ越していったという。そして塚原の体には、あの日から同じ赤い染みが浮き上がり、何をやっても消えなかった。
死人が出るわけではない。祟りでもない。ただ、消えない染みが残る。この着地がやたらと残る。分岐によっては、もっと直接的で救いのない結末にもなる。傘を武器にした揉み合いの果てに二人とも死に、以来雨の日になると校門の前に傘を持った少女が佇むようになった、という、いわゆる正統派の学校怪談の形に収まるルートもある。
面白いのは、この傘を持った少女バージョンだけが、隠しシナリオへのフラグになっていることだ。もっとも怪談らしい終わり方が、ゲームの奥へ進む鍵になっている。皮肉が効いている。
なお、プレイステーション版ではこの話の一部ルートが削除されている。表現がきつすぎたのだろう。原作の危うさが、移植で少しだけ丸められた例だ。
桜の木――同じ木について、二人が別々の真相を語る
福沢玲子の三話目は、旧校舎の裏に立つ大きな桜の木の話だ。この桜を切ろうとしたり、根を掘り起こそうとしたりすると事故が起きる。周辺では行方不明者が多い。
福沢が主人公に問いを重ねていくと、桜の由来がころころ変わる。
ひとつは、東条深雪という一年生の話。おとなしくて友達の少ない子で、彼女はこの桜の木を友達だと思っていた。だがある日、男の子に告白されて、自分は人間で、桜はしょせん桜の木なのだと気づいてしまう。それから疎遠になった。卒業式の前日の放課後、彼女はそっと桜を見に来た。翌日、桜の根元に彼女の名前が書かれた靴だけが転がっていた。東条は行方不明になり、桜に飲み込まれたという噂が立った。夕刻にあの桜に近づくと、私に気づいて、私はここにいるわ、というささやきが聞こえるという。
ひとつは、戦争中の話。あのあたりは死体置き場だった。死体だけでなく、まだ息があっても助かる見込みのない人間まで容赦なく投げ捨てられた。桜は何百という人間の怨念を吸っている。じっと見ていると、大木の幹に苦しみ悶える人の顔が浮かんでくる。
プレイステーション版ではさらに二つ増える。朝倉という明るくスポーツ万能の生徒が桜に愛されていたが、肺を病んで療養先で死に、桜が全身全霊で彼を呼んだ結果、幽霊の通り道である霊道を引き寄せてしまったという話。そして、この一帯にはかつて小さな湖があり、飢饉の年に村人が水を巡って殺し合い、干上がった湖底に一滴の血も残っていない屍が散乱していたという話。だからここの桜は赤みが少し濃い。
四つの由来が、どれも本当の由来として語られる。矛盾している。にもかかわらず、どれを聞いても筋が通って聞こえる。
そしてここからが本題で、特定の順番と選択肢を通ると、四話目に岩下明美を指名したときに隠しシナリオ「真説・桜の木の伝説」が始まる。福沢の話を受けて、岩下がその桜の本当のところを語り出すのだ。
つまりこのゲームは、同じ怪談について、語り手Aの版と語り手Bの版を、続けて聞かせるという構造を持っている。しかも岩下が語る真説もまた、絶対の真実として提示されるわけではない。彼女が語ると、なぜか彼女自身がその出来事に一枚噛んでいるように聞こえてくる。掲示板でよく言われるのは、桜の木の話の岩下は狡猾すぎて、怪談の内容より語り手のほうが怖い、という感想だ。
学校怪談というのは、本来こういうものだった。同じ音楽室のベートーベンでも、学校が違えば真相が違う。同じ学校でも、上級生と下級生で細部が違う。誰が語るかで話が変わり、どれが本当かは誰にもわからない。学怖は、その性質をシステムで再現してしまった。ゲームだからできたことだ。
トイレの染み、そして人形――細田と荒井の到達点
細田友晴の代表作は、女子トイレの壁の染みだ。旧校舎の女子トイレの壁に、人の顔の形をした染みがある。ただの染みだ。ただの染みなのに、見てはいけないものとして扱われている。ルートによっては、生活指導の先生に相談すると、その先生が、この染みをなめな、と言い出す。理由の説明はない。説明がないのが一番怖い。
細田はもうひとつ、新校舎のトイレツアーという狂った話も持っている。彼はトイレに霊気が集まりやすいと語り、あなたには霊感がある、と主人公に告げる。そして、新校舎のトイレを全部回ってほしいと頼んでくる。プレイヤーは実際に、校舎中のトイレを一つずつ選んで回らされる。どのトイレで霊気を感じるを選ぶかで分岐する。伝聞ではなく、主人公が直接体験する回だ。しかも一緒に入るのが細田とは限らない。条件次第で福沢が付いてきたり、新堂が付いてきたりする。トイレに同級生の女子と入るというシチュエーションの気まずさが、恐怖の前に立ちはだかる。
そして荒井昭二の六話目と七話目。ファンの間で恐怖度一、二を争うと言われる、二部構成の人形の生けにえだ。
荒井は淡々と切り出す。この学校はね、毎年一人、人形に生けにえを捧げているんですよ、と。
去年の犠牲者は金井章一という、荒井のクラスメイトだった。金井はある時期から奇行が目立つようになった。彼にだけ、人形が見えるようになったからだ。この学校の在校生でただ一人、ある一体の人形が見える者がいる。見えた者が、その年の生けにえになる。
荒井の話が終わり、主人公が、じゃあ帰りましょう、と言って部室を片付けていると、入り口に人形が立っている。次は自分らしい。ゲームオーバー。
ここで終わらせないためには、話を打ち切らずに、もう少し金井さんの話を詳しく聞かせてください、と食い下がる必要がある。この、逃げずに聞くという選択が、生死を分ける。怪談を最後まで聞くことでしか助からない、というのは、この作品のテーマそのものだ。
続く七話目で、事態は反転する。翌日、主人公が日野先輩に昨日の顛末を報告すると、日野は妙な顔をする。昨日の集まりに荒井なんて人物は呼んでいない、と。
主人公は昨日の六人を訪ねて回る。福沢は教室で友達と喋っていて、荒井がいたことは認める。岩下は机に手をついて考え事をしていて、この世は人形だらけ、と呟く。風間はゴキブリの形をしたマスクで脅かしてくる。細田はトイレから戻ってくる。そして清瀬尚道という三年F組の生徒、彼が、日野が呼んだもう一人の語り手だった。当日は熱を出して早退したという。
六人を訪ね終えたところで新堂に呼び止められる。新堂は言う。この学校に荒井昭二なんて人物は存在しない、と。
そう言う新堂の背後に、主人公は人形の姿を認める。
その日から主人公は頻繁に人形を見るようになり、日に日に気力を失っていく。ここで、このまま死ぬのを大人しく待とう、や、何をしても無駄な努力だ、を選ぶと、あらゆることへの気力を失って、最後の生けにえになる。抗う選択肢を選ぶと、校長室に辿り着く。
校長室の机の引き出しから、古い日記帳が出てくる。校長は悪魔に魂を売っていた。毎年一人ずつ子どもの魂を捧げることで、十三年後に荒井昭二の魂が人形に宿って蘇る。そういう契約だった。
なぜ校長がそんなことをしたのか。プレイステーション版の分岐のひとつには、この学校の運動部が大会でいい成績を残すことを望んだから、という身も蓋もない動機が出てくる。別の分岐では、荒井が現れて、父さんもういいよ、もうやめましょう、ぼくは父さんにこんなにしてもらってうれしかったよ、と言い、校長が床にしゃがみこんで泣き出す。人形は砂のように風化して空気に溶けていく。
そしてもうひとつ、後味の悪いグッドエンドがある。校長室で見つけた紙を破ることで悪魔は消え、夏休みが明けると新しい校長が赴任してくる。始業式で抱負を述べる。一流の進学校を目指し。
どうやら今度の校長にも、もう手が回っている。
この、終わったように見えて何も終わっていない着地は、学怖のあちこちに顔を出す。怪談は解決しない。語り継がれるだけだ。
語り手が一人ずつ消えていく――仮面をつけた制服の少女
隠しシナリオの中でも別格の扱いを受けているのが、仮面をつけた制服の少女、だ。
出現条件が変わっている。岩下、風間、荒井、新堂、福沢、細田の順に話を聞き、そのそれぞれで語り手がいなくなる結末を選んでいく。一話終わるごとに、部室から人が一人ずつ減っていく。プレイヤーは自分の手で、語り手を一人ずつ消していくことになる。
六人目が消えた後の七話目。旧校舎で、主人公は白い仮面をつけた制服の少女と向かい合っている。彼女専用のBGMが流れる。物悲しくて、少し不安になる綺麗な曲だ。
少女は矢継ぎ早に質問を投げてくる。六人の語り手について。彼らが語った怪談について。主人公はその日に経験した目まぐるしい出来事を思い出しながら答えていく。
嘘をつくと終わる。少女は嘘をついた主人公を罵り、その瞬間、主人公の体は天井へ引きずり込まれていく。地獄で六人の案内人になるべく沈んでいく途中で、仮面を外した少女がこちらを見ている。
別の分岐では、少女が仮面を勢いよく剥ぐ。その下にあったのは主人公自身の顔だ。声も話し方もそっくりな彼女は、嘘をつく主人公を詰り、手にした仮面を主人公の顔に押しつける。仮面はどうやっても剥がれず、命を吸い取っていく。
正しく答え続けると、真相が語られる。補習のために居残りをさせられ、行方不明になった生徒は全部で六人だと言われている。だが本当は七人だった。先生に忘れられて校舎に取り残された不安と苛立ちを、六人は一人の少女にぶつけた。少女は翌日までトイレの個室に閉じ込められた。そればかりか、翌日から連日いじめられ続けた。そして耐えきれなくなった彼女は、あの日閉じ込められたトイレで、自ら命を絶った。
その少女が、いま目の前にいる。消えた六人の語り手は、彼女をいじめた六人の子どもだった。
ここで最後の分岐がある。復讐を遂げた少女が、自らの心が浄化されたと語り、仮面の下から驚くほど美しい素顔を見せる分岐。柔らかく微笑むその顔は、主人公の目の前で溶けるように流れていき、後には完全な闇が残る。溶けたのは顔ではなく彼女の心だと、主人公は感じる。
もうひとつは、罪を犯したとき、それを償うのが自分自身だとは限らない、と少女が告げる分岐。悔やんでも遅いのだから、悔いのない人生を送ってほしい。あなたは良い人だから連れてはいかない。そう言って彼女が仮面を剥ぐと、その下には広がる闇と、輝く星があった。
朝日の差す旧校舎を、主人公は一人で歩いて出る。夢のような数時間が夢ではなかった唯一の証拠を、右手に持って。
このシナリオを特定のルートで抜けてセーブすると、メニューに隠しシナリオ01という項目が現れる。後日談だ。しかもその後日談すら、選択肢でしっかり分岐する。
七人目が来なかったのは、七人目がずっとそこにいたからだ、という反転。空席がひとつあったという冒頭の一行が、ここで回収される。
新聞部の部長という、七人目の顔
語り手は六人。だが、この座談会にはもう一人、ずっと影のように関わっている人物がいる。新聞部の先輩で、七不思議の集会を立案した張本人、日野貞夫だ。三年F組、十七歳。裏表がはっきりしない腹黒い切れ者、と設定されている。
彼は語り手席には座らない。企画を立て、七人に声をかけ、主人公に取材を丸投げして、あとは外側にいる。ところがルートによっては、この日野こそが物語の中心に躍り出てくる。隠された七人目の語り手は、実は取材を命じた側だった、という構図だ。
新堂誠の七話目、殺人クラブとの戦い、がその代表格だ。校内に存在する殺人クラブという集団に主人公が巻き込まれ、職員室、化学室、美術室、宿直室、新聞部の部室、保健室、旧校舎の三階トイレと、校舎中を逃げ回りながら手がかりを集めていく。分量が異常で、選択肢の数だけで他のシナリオ数本分ある。そして最後に対峙する相手が、日野だ。ナイフを持った日野と、主人公の一騎打ちになる。主人公は、騒ぐんじゃねえ、殺したくなるぜ、といった、普段の気弱な口調からは考えられない台詞を吐き始める。プレイヤー分身のはずの主人公が、極限状態で本性を出す瞬間だ。
もうひとつ、隠しシナリオの一分岐では、日野の別の顔が出てくる。ドアが超常的な力で蹴り飛ばされ、首のない学生服の男、神田の怨霊が現れる。主人公の頭の中にだけ声が響く。誰を殺せば俺は救われる、お前が決めろ。誰か一人を差し出さなければ全員が殺される。主人公が名前を挙げた瞬間、部屋の外から日野が現れ、怨霊にすがりつく。神田への歪んだ執着をむき出しにして、誰にも渡さない、と叫びながら、首なしの神田を抱えて走り去ってしまう。異様な沈黙だけが残り、惨劇はひとまず回避される。
一週間後、日野は川で水死体となって発見され、事件は自殺として処理される。主人公は七不思議の記事をまとめる際、七つ目だけは書けない、と記す。あの夜の出来事は、語れば何かが起こる。そう確信してしまったからだ。
新聞部の部長が、書けない記事を残す。取材を命じた人間が、取材されない話になる。学怖の入れ子構造は、ここで一番深いところまで届いている。
ちなみに、六人目の語り手として呼ばれていながら熱を出して早退した清瀬尚道という生徒も、荒井の七話目でだけ姿を見せる。二度訪ねると、彼が何かを隠していると気づいて後を追うことになり、旧校舎で荒井の足元に倒れている清瀬を見つける。荒井は言う。清瀬は自分の正体を知っていたので殺した、と。来なかった七人目には、来なかったなりの理由がある。
そして、四十八本を積み上げないと開かない扉がある
学怖には、さらにその上がある。隠しシナリオ02、主人公の後輩田口真由美、だ。
出現条件が正気ではない。続・仮面をつけた制服の少女を除く四十八本のシナリオを、それぞれ決められた終わり方で終わらせ、同じセーブデータに積み上げる。そのデータをロードすると、初めて項目が出る。
決められた終わり方、というのがくせ者だ。たとえば新堂の一話目は、旧校舎の鏡の話にして、合わせ鏡で死ぬときの顔が映ったを選び、最後に教えてほしいで終える。二話目の飴玉ばあさんは、佐久間昇のルートで冷たくあしらい、ドアを開けず、飴を食べたいとは言わなかったことにして終える。荒井の六話目は、金井の話を最後まで詳しく聞いてから七話目に行く。こういう指定が四十八本ぶん並んでいる。
ネットも攻略サイトも普及していない一九九五年に、これを自力で開けた人がどれだけいたのか。正直、ほとんどいなかったと思う。攻略本の情報を頼りにするしかない。だからこそ、この隠しシナリオ02は長らく、学怖を本当にクリアしたと言える唯一の証明として扱われてきた。到達すると、三年生になった主人公の姿が見られる。
『かまいたちの夜』の金のしおりに相当するやりこみだ、とよく比較される。ただ学怖のほうが厄介なのは、四十八本すべてを特定の結末で通さないといけない点にある。単にたくさん見ればいいのではない。一本ずつ、正しい終わり方を選んでいく。
これはもう、ゲーム側からの、怪談を完全に集めきれ、という要求だ。取材ノートを全部埋めろ、ということでもある。新聞部の取材から始まった物語の到達点が、取材の完遂であるという設計は、地味に徹底している。
「クリーンであるべき主人公」に止められた企画
作ったのは飯島健男。現在の筆名は飯島多紀哉。『ラストハルマゲドン』『BURAI』『ONI』シリーズを手がけてきた人だ。原作、脚本、演出、監督、総指揮を一人で兼ねている。技術は伊藤真也、音楽は渡部陽子。この二人は前年のスーパーファミコン用のロボットアニメゲームを手がけた面々でもある。分岐用脚本には早川奈津子、山田章代、小島早紀子といった名前が並ぶ。
企画の出発点は、実は実写映像ありきだったという。飯島本人が後年のインタビューで語っている。実写でやるなら、キャラクターが生きる内容にしたほうがいい。だったら複数の人間を出して、その人間たちから怪談を集めていく形にすれば、一人一人の個性も生きるし、いろんなタイプのホラーが描ける。あの語り部方式は、そこから逆算して生まれた。
制作期間は、およそ半年。うちシナリオ執筆に四か月。飯島によれば、当時の開発体制は、早く作って早く売る、が前提だった。その中で書かれたテキスト量は、スーパーファミコン版だけで百万文字。文庫本にして十冊分だという。当時のROM容量に収めるのは相当な苦労で、独特のグラフィック表現もその容量調整と無縁ではなかった。
そして、止められた話がある。福沢玲子の七話目は、当初、主人公が殺人鬼となって語り手たちを殺していくという筋だった。新堂誠の七話目にある殺人クラブの、ちょうど逆バージョンだ。これがバンプレストの広報担当に止められて、差し替えを余儀なくされた。飯島は後に、止められた最大の理由は、当時の風潮では主人公はクリーンであるべきとされていたからだろう、と語っている。
この手のご法度は各語り部ごとに存在していて、没になった原稿は後に文庫の小説版としてまとめられた。細田友晴のシナリオだけは没にならなかったため、小説用に新しく書き下ろしたという。この小説版が、二〇〇七年に同人ゲームとして蘇る。飯島はこちらを本当の学怖と呼んでいる。
もうひとつ、有名な逸話。スーパーファミコン版のパッケージとタイトル画面には、いかにも学校の怪談らしい小さな子どもたちの影が描かれている。これは、デザインを担当した外注先にコンセプトが正しく伝わっていなかったせいだ。飯島は異を唱えたが押し通された。そこで彼は、タイトル画面で子どもたちから伸びた影が怪物になるという演出を入れ、表面と内面がまるで違うという本作のテーマを、無理やり表現し直した。本当は影が首を切り落とすなど、殺し合いをしている様を想定していたが、こちらもバンプレストに止められて、苦肉の策で怪物になったという。
タイトルの意味についても、飯島は繰り返し訂正している。学校であった怖い話は学校の怪談という意味ではない。作中で語られるのは幽霊よりも生きた人間の狂気であり、本人の言い方を借りれば、学校で怪談話を聞く集会をやったら遭遇してしまった怖い話、なのだ。であった、は学校であったことではなく、学校で出遭ってしまったという含みを持つ。三十年言い続けているのに、いまだに誤解されている。
飯島はまた、選択肢についての持論も語っている。いろんなアドベンチャーゲームをやっていると、この選択肢に何の意味があるんだと思うことがある。結局どう選んでも最後はひとつの結末にまとまってしまう。物語世界に奥行きがない。あっちをこう選んだから、なるほどこの分岐が生きてくる、そういう選択肢型テキストアドベンチャーとしての仕掛けを、あまりにもやらなさすぎる。学校であった怖い話は、まさにそれの集合体のゲームなんです。本人の弁だ。
矛盾こそがリアルだった、という逆説
ゲームカタログ系の評価を並べると、学怖には昔から指摘されてきた弱点がある。選んでも展開が変わらない意味のない選択肢がある。テキストに誤字や重複がある。ベーシックな怪談が多く展開が読めることがある。隠しシナリオの出現条件が不親切すぎる。そして何より、スーパーファミコン版の実写が高校生に見えない。
その中に、面白い指摘がひとつ混じっている。当事者が死亡または行方不明になるのに、なぜその話を知っているのか、という、筋の通らない怪談が多数ある、というものだ。
これは欠陥として挙げられている。でも、ちょっと待ってほしい。それはむしろ、実際の怪談が持っている性質そのものではないか。
学校の怪談は、たいてい伝聞の伝聞だ。うちのクラスの誰々の兄の友達が、という枕が付く。当事者は死んでいるか、転校しているか、そもそも実在しない。それでも話は語られる。細部が矛盾していても、聞き手はいちいち咎めない。咎めたら話が終わってしまうからだ。
学怖の怪談が矛盾するのは、それが下手だからではなく、怪談として正しいからだ。しかもこのゲームは、その矛盾をプレイヤーの目の前で堂々とやってのける。同じ桜の木に四つの由来がある。同じ荒井昭二が、あるルートでは実在し、あるルートでは、そんな人間はいない、と言われる。同じ主人公が、あるルートでは殺され、あるルートでは殺す側に回る。
そして七話目でプレイヤー自身が当事者になった瞬間、それまで聞いてきた与太話が急に肌に触ってくる。荒唐無稽なほら話として聞き流していたものが、その後、自分の身に実際に起きてしまう。この反転構造こそが、このゲームの恐怖の本体だ。
実況者のRevinは、この作品をホラーではなくコメディだと位置づけている。怖いより笑える、と。その上で彼が挙げた例外が、いじめを題材にしたシナリオだった。他の荒唐無稽な話に比べて相対的にリアリティがあるせいか、妙に生々しくて、そこから生じる怪異は笑って済ませられない。本当に怖いのはやっぱり人間関係なのかもしれず、そこをきちんと組み入れている。彼の結論はそこに落ち着いた。
生きた人間のほうが怖い。これは学怖への評として、ほとんど定型句になっている。
ネットが学怖を掘り返した――実況、コメント、そして語彙
学怖が本格的に再発見されたのは、二〇〇〇年代後半以降のネットだ。
最初は無編集のプレイ動画がぽつぽつ上がっていた程度だった。潮目が変わったのは、Revinによる、学校であった怖い話に屈しない、という実況プレイシリーズだ。二〇〇八年頃から、全六十八パートにわたって投稿された。
このシリーズの成り立ちがまた学怖らしい。一緒に別のゲームを実況していた友人が帰省してしまい、残されたもう片方がやる気を持て余して一人で始めた、というのが発端だ。投稿者コメントには毎回、怖い話に負けないよう、実況で茶化していこうと思います、と書かれていた。タイトルの屈しないはそこから来ている。関西弁で、怪談の矛盾点や無茶苦茶な部分に鋭く突っ込む。ただし本人は怖いものに強いわけではなく、ゲーム内の画像にはしばしば屈していた。
構成も凝っていて、第一期では全ての語り手に全ての順番が割り当たるよう計画表を作って進行し、第二期でバッドエンドの回収と隠しシナリオ探索をやり、第三期で最難関の隠しシナリオ02に挑んだ。五か月かけて、四十八本を決められたルートで通し切って完結している。実況というより攻略ドキュメンタリーだ。
そしてこのシリーズから、大量の語彙が生まれた。
岩下明美は魔王と呼ばれるようになった。冷酷で、平気で殺すと言い、無茶な質問で主人公を圧迫するからだ。この呼び名はいまも生きていて、ネット百科事典の岩下明美の項目には、読み仮名がイワシタアケミコトマオウサマと書かれている。
細田友晴はトイレになった。進行の計画表で、他の語り手が名字で書かれている中、彼だけがトイレと表記されていた。本望だろう、とその百科事典には書いてある。
恐怖体験で精神をやられた教師の桜井が意味不明な言葉を口走る場面はラッパー桜井になった。旧校舎の廊下がぎしぎし鳴る音は、実況者の脳内では別の音に変換されていたらしい。あまりに霊現象が多すぎる学校を指して、霊界には現世に幽霊を派遣する会社があるのではないか、という発想まで生まれた。そして後年の続編シリーズで、本当にそういう組織が幽霊たちの間に存在することが判明する。
校長が主人公に襲いかかる姿は阿波踊りと呼ばれた。旧校舎の下から大量の遺体が出てきた際に工事関係者が漏らす、いったい、なんちゅう学校だ、ここは、という台詞は、視聴者がこのゲームに対して抱き続けてきた気持ちの完璧な代弁として、広く受け入れられた。
宇宙人ネタでは、宇宙人と勘違いされた主人公が窮地で思いつく解決策、とりあえず踊ってみる、が定番になった。彼の踊りは相手にとっては非常に美しいものらしい。
新堂のスポーツはいいぞは、派生動画で口癖として使われたのをきっかけにネタ化し、何でも何々はいいぞと言うキャラに変換された。荒井の人形に履歴書はないんですは、古い人形をむやみに買うなという意味の名言として、使いどころの難しさごと愛されている。
ちなみに、主人公の受け身な態度や、選択肢を選ばずに済ませようとする姿勢を茶化して、無為無策、といった四字熟語で罵るのも、この界隈でよく見る反応だ。もっともこの手のフレーズは、動画のコメント欄やスレッドを転々とするうちに出典があやふやになりがちで、どの動画のどの場面が初出なのかを厳密に辿るのは難しい。ミームというのは概してそういうもので、学怖という作品自体が、出典のわからない話が広まっていくことを扱っているのを思うと、なかなか出来すぎた話ではある。
二〇二〇年には稲葉百万鉄による長期実況が投稿された。こちらは携帯できる据置機の配信版でのプレイで、パート数は百四十を超える。岩下に対して、積極的に好感度を上げたいとは思わないが、嫌われたらそれはそれで地獄が待っていそうなので、常に細心の注意を払って選択肢を選んでいる、という彼のコメントは、学怖プレイヤー全員の心境を要約している。
飯島本人も、この現象を後から知ったという。二〇一八年のインタビューで、コミケに復活してゲームを作るとなったとき、学校であった怖い話がゲーム実況でトップクラスの人気があるとスタッフに知らされたのが嬉しかった、と語っている。テキストアドベンチャーの実況はいろいろあるけれど、なぜか一番人気なんだそうです、と。
そして二〇二二年、稲葉百万鉄と飯島多紀哉のコラボが発表された。稲葉が学怖をプレイする中で感じた、あったらいいな、を伝え、飯島がそれを膨らませる。実況プレイ用のゲームを、原作者が作る。三十年前の一本が、こういう場所まで来た。
語り草になっている、プレイヤーたちの話
ここからは、このゲームの周りで長く語られてきた個人的な体験談をいくつか紹介する。作品の内容以上に、この手の話が学怖という作品の輪郭を作ってきた。
ひとつめ。ゲーム系媒体のコラムに書かれた、あるライターの話。彼が学怖に出会ったのは大学生の頃だった。授業そっちのけで夜までバイトばかりしていて、帰宅して一息つくのはいつも深夜。秋の夜長、眠気が来るまでの数刻を、このゲームで震えながら過ごすのが日課になった。学怖には過剰なCGや音による脅かしがほとんどない。文章力を主体に、簡素な演出でじわじわ恐怖を膨らませる。それが深夜の静けさにぴったりで、額に冷や汗が浮かぶような緊張感があった。プレイ中に急に背後が気になって振り返る。部屋の隅の暗い一角が気になり始める。トイレに行くのさえ怖くなる。翌日はいつも寝不足で授業に出ていた。そして、あまりの怖さに仲間が欲しくなって、バイト先の先輩にこのゲームを勧めた。その半月後くらいに、先輩は、お前、なんてもの勧めてくれたんだよ、と言い残してバイトを辞めていったという。彼にとって一番怖かったのは荒井の人形の話で、見えてはいけない人形が自分にだけ見える絶望感と焦燥は、何十年経ってもたまに思い出すそうだ。
ふたつめ。プレイステーション版で初見プレイに臨んだ人たちの、ほぼ共通した事故の話。プレイステーション版は語り手選択画面のカーソル初期位置が岩下明美に合っている。予備知識がないプレイヤーは、当然そのままボタンを押す。すると、一人目からいきなり岩下の話が始まる。彼女の一話目は、いじめを扱った話だ。学校に悪霊が住みついていて人々に災いをもたらしている、と岩下は語り出す。内山という生徒が、いじめる者だけでなく黙って傍観する者も含めて全員が悪霊に操られているのだと言い出し、誰にも信じられず孤立し、家で無惨な姿で発見される。そして岩下は告げる。内山を追い詰めたのはいじめた者だけではない、見て見ぬふりをしたクラスメイトも、教師も、その場にいた全員だと。さらに彼女は、主人公こそがいじめの主犯格だと断じ、突然カッターを取り出して襲いかかってくる。押さえられた岩下は、これが悪霊に取り憑かれるということなのだ、と言って、何も告げずにふらふらと去っていく。沈黙の中、誰かが呟く。本当にこの学校には悪霊がいるのかもしれない。だって君を襲おうとした時の彼女の顔、あれは間違いなく悪霊が取り憑いた顔だったよ。一人目からこれである。多くの人が、このゲームの温度をここで理解した。
みっつめ。隠しシナリオ02に挑んだ人たちの話。四十八本を特定の結末で終わらせて同じセーブデータに積む、というあの条件だ。攻略サイトが整備された今でこそチャートを追えばいいが、それでも一周に何時間もかかるゲームを何周も回し、そのたびに指定された選択肢を一つずつ確認していく作業になる。Revinの実況では、この挑戦だけで二十三パートを費やしている。しかもその過程で、それまでに見たことのない分岐が次々に見つかる。四十本以上のシナリオを決められたルートで通すという行為そのものが、結果的にこのゲームの全貌を見ることになってしまう設計だ。到達したときの達成感は、隠し要素というより卒業証書に近い。当時ネット攻略が発達していなかった頃、何年も遊んでいるのに全部の話が見られない、と嘆いていた人は珍しくなかった。
よっつめ。二〇二五年から二〇二六年にかけて、あるブログがスーパーファミコン版のプレイ日記を延々と連載していた。ほぼ初見の状態で実際にプレイしながら、各シナリオのあらすじと分岐に必要な選択肢を記録していく、という企画だ。回数は三十回近くに及ぶ。正確を期すために当時の攻略本まで買っている。三十年前のゲームの分岐を、二〇二〇年代の書き手が一本ずつ潰していく。そういうことをやりたくなる作品なのだ。そしてその記録がまた、次に始める誰かのための地図になる。学校怪談が上級生から下級生へ伝わるのと、構造が同じである。
いつつめ。飯島本人が語った、思わぬ副産物の話。バンプレストに止められた話を集めた文庫の小説版は、まったく売れなかったという。いまなら、なるほど、こういう話ね、と受け取られると思うが、二十年前の読者にはピンとこなかったようだ、と彼は振り返る。ところがその小説の中に、遊べば遊ぶほど成長していくゲームを題材にした話があって、その作中ゲームのタイトルがある名前だった。後に同名のゲームが発売されていることをファンから知らされ、一部の人からは、また飯島がパクってるよ、と言われたりした。時間差で誤解されるところまで含めて、この作品の周りには変な逸話が集まってくる。
続編、移植、そして「鳴神学園」という世界が生まれるまで
系譜を追っておく。
翌一九九六年、新シナリオを追加しグラフィックとサウンドを一新した『学校であった怖い話S』がプレイステーションで登場する。主人公の性別が選べるようになり、性別によって筋が変わる。片方の性別でしか聞けない話が二十本追加され、総数は七十話ほどに膨れ上がった。役者はプロに差し替えられ、高校生らしさが出た。分岐点も増え、CGムービーも入った。
ただし賛否が割れた。低解像度ゆえの不気味さが失われた、という声がある。何より音楽が問題で、スーパーファミコン版のBGMが全面的に差し替えられたため、音楽に関しては原作を支持するファンが多い。原作の粗さを丁寧に磨いた結果、粗さの中にあったものが少し逃げた、という典型的な例だ。同じ年、システムを引き継いだ姉妹作『晦-つきこもり-』が出ている。こちらではギャグ担当の語り手が消えたため、緩衝材がなくなって重い、という感想がよく聞かれる。風間望というキャラの機能性が、失ってみて初めてわかったわけだ。
サウンドトラックは一九九六年七月に発売され、ゲーム音楽とともに約二十分の音声ドラマが収録されている。この声の配役が今見ると豪華で、新堂誠に中井和哉、荒井昭二に石川英郎、風間望に関俊彦、細田友晴に石田彰、岩下明美に新山志保、福沢玲子に豊嶋真千子、女主人公に皆口裕子が当たっている。
『学校であった怖い話S』は、その後長らく中古にプレミアが付いていた。評価の点数と値札の付き方が一致しない作品というのは、たまにある。二〇〇七年にダウンロード配信が始まり、ようやく手が届く価格になった。スーパーファミコン版のほうは、二〇〇八年と二〇一四年にそれぞれ当時の据置機の配信サービスで復刻されている。リリース当時は値崩れが早く、そのおかげで多くの人の手に渡った作品でもあった。
同人の側では、二〇〇七年八月十七日に『アパシー学校であった怖い話ビジュアルノベルバージョン』が頒布される。小説版をそのまま読ませる形のゲームで、当時二万本売れた。二〇〇八年には新装版が出て、縦書き表記が横書きになり、原曲が新規楽曲に差し替えられ、新規シナリオ、飴玉ばあさん、が追加された。この頃から舞台は鳴神学園と名付けられ、この世界で展開される物語がまとめてアパシー・シリーズと呼ばれるようになる。一九九五年の一本が、十数年かけて自分の学園を持ったことになる。
漫画版もある。サイドストーリーを描いた作品が電撃系の雑誌で連載され、全二巻で完結している。原作は飯島多紀哉、作画は両角潤香。
そして二〇二二年八月四日、Nintendo Switchで『アパシー鳴神学園七不思議』が発売された。発売日を八月四日に合わせてあるのが憎い。学怖の世界観と登場人物を踏襲しつつ、新シナリオとエンディングを大量に収録した新作だ。後に追加シナリオを収録した拡張版も出ている。二〇二四年十二月にはSwitch版の男子校を舞台にした作品が発売され、二〇二五年七月には両者のセーブデータを連動させることで解禁される書き下ろし新シナリオが配信された。二つの学園の繋がりがわかる内容で、十種類を超えるエンディングが用意されているという。
二〇二六年現在、飯島はアパシー学校であった怖い話の最新作を開発中であることを明らかにしている。公開された実写風の映像に生成AIが使われていることが話題になり、本人が配信で説明する場面もあった。学習データの著作権が問題ないかを確認した上で商用利用しており、自社の著作物を学習させて生成していること、時間をかけてプロンプトを詰めて自分の脳内のキャラクターイメージを作り上げていること、これによって一人か二人で制作できるため千円以下で新作を出せること。そして、こうした試みはインディーの領域でやることであり、メーカーや多くの関係者が関わる家庭用ゲーム機のタイトルではAIを使うつもりはない、と明確に線を引いている。賛否はある。ただ、実写ありきで始まった企画が三十年後に実写風の生成映像へ辿り着いたという事実には、妙な因果を感じずにはいられない。
反証として書いておきたいこと
ここまで散々、怖い、生々しい、と書いてきたが、はっきりさせておく。
『学校であった怖い話』で語られる怪談は、すべて創作である。飯島多紀哉が四か月で書き上げたフィクションだ。作中の高校にモデルとなった実在校はない。旧校舎の下から遺体が出たという事件も、毎年生徒が生けにえにされる学校も、存在しない。
実話取材を下敷きにした、という言い方が、この作品の周りではよく出てくる。実際、飯島は怪談のネタ集めについて語ることがあるし、学校の噂話という素材そのものが現実の伝承から採られているのは間違いない。だが、それは聞いた話の型を借りたという意味であって、実際に起きた事件を再現したという意味ではない。この二つは混同されやすい。
そして、この混同こそが学校怪談というジャンルの燃料でもある。九〇年代前半、常光徹の『学校の怪談』が児童書として大ヒットし、映画版が公開され、テレビでも学校の怪談が繰り返し取り上げられた。子どもたちは本で読んだ話を自分の学校の話として語り直し、それがまた本や番組に吸い上げられていった。どこかで聞いた話が、いつのまにか、うちの学校の話、になる。この循環の中で、実話と創作の境目は最初から曖昧だ。
学怖はその曖昧さを、意図的に増幅する装置として作られている。語り手が実在の人物のように実写で映り、こちらに向かって喋る。プレイヤーの選択に反応する。同じ話が別の真相を持つ。全部が本当らしく設計されている。だからこそ、遊ぶ側は、これは作り話だ、という前提を手放さないほうがいい。手放したときに面白くなるゲームだが、遊び終わったら拾い直したほうがいい。
もうひとつ。作中には自死や暴力を扱った描写が少なくない。当時のレーティングでも十五歳以上、後の版では十七歳以上が対象とされている。娯楽として消費する分には構わないが、それを現実の誰かに向けて反復するようなことは、当然すべきではない。作品が生きた人間の狂気を扱っているのは、狂気を推奨するためではなく、幽霊より人間のほうが厄介だという当たり前の事実を突きつけるためだ。作者本人が学校の怪談ではないと言い続けてきたのは、たぶんそこも含めての話だと思う。
なぜ三十年、語られ続けているのか
理由をいくつか並べてみる。
まず、遊びやすい。一話が短い。区切りがある。だいたいこのくらいで終わるな、と見当がつく。放置していても再開しやすい。サウンドノベル初心者にも入りやすく、ちょびちょび遊んで、良いゲームだったな、とずっと覚えていられる作りになっている。三十年の間、何度でも掘り返せるのは、この入りやすさのおかげが大きい。
次に、キャラが立っている。実写取り込みによって顔の共通認識ができたことで、プレイヤー同士が、あの人ね、と言い合える。しかもその顔が微妙にダサく、生々しい。荒井は根暗そうだし、細田は本当に太っているし、岩下は有無を言わせぬ気迫がある。シルエットではこうはいかない。実写は当時、ドラマと変わらない、と揶揄されかねない手法だったが、結果としてキャラゲー的な愛され方への道を開いた。
そして、システムが怪談の本質を掴んでいる。同じ話に別の真相がある。語り手が違えば違う話になる。誰が語るかで恐怖の質が変わる。矛盾したまま両方が存在する。これは学校怪談の生態そのもので、書籍や映画では再現しにくい。本は一つの版を固定してしまうし、映画は一つの画を確定させてしまう。分岐する伝承を分岐したまま保存できるのは、選択肢を持つメディアだけだ。
九〇年代の学校怪談ブームには、書籍のルートと映像のルートがあった。学怖は、その両方とは別のルートを通った。同じ素材を使いながら、保存の仕方がまるで違う。書籍は話を確定させ、映画は画を確定させ、ゲームは確定しないことを確定させた。三十年経って残ったのは、確定しなかったほうだった。これは偶然かもしれないが、示唆的ではある。
最後に、原作者が生きていて、いまも書き続けていること。これが実は一番大きいかもしれない。飯島多紀哉は自身の配信で当時の内幕を自分の口で語り、シナリオ講座をやり、新作を作り、実況者とコラボし、ファンからの批判にも自分の言葉で答えている。三十年前の作品の作者が、当時の裏話をリアルタイムで補完し続けている状態は、資料的にかなり贅沢だ。怪談は語り手がいなくなると死ぬ。学怖の語り手は、まだ喋っている。
誤解を組み込んで強くなった作品
改めて全体を眺め直して、いくつか腑に落ちたことを書いておきたい。
まず、学校であった怖い話というタイトルの読み違えについて。飯島は三十年間、これは学校の怪談ではないと言い続けてきた。作中で語られるのは幽霊より生きた人間の狂気であり、正確には、学校で怪談話を聞く集会をやったら遭遇してしまった怖い話だ、と。この訂正は正しい。正しいのだが、同時に、この作品が学校の怪談として受容され続けてきたこともまた事実で、そこにこそこの作品の面白さがある気がしてならない。作者の意図と受け手の理解がズレたまま三十年走り続けた作品、という点で、学怖は自作の中身をそのまま体現している。パッケージの子どもの影がまさにそうだった。外注先に意図が伝わらず、まったく違うものが上がってきて、作者はそれを押し通された。そこで彼は、影が怪物に変わる演出を足して、表面と内面がまるで違うというテーマに転用してしまった。誤解を作品の内容に組み込む。これは怪談の伝わり方そのものだ。話は伝言のたびに歪む。歪んだ話は元の話より強くなることがある。学怖の場合、歪みを引き受けて強くなった。
次に、語り部方式という発明の位置づけについて。よく、短編集としての面白さ、と説明される。それは正しいのだが、もう一段踏み込んで考えると、この方式が本当に発明したのは聞き手というポジションだったのだと思う。従来のサウンドノベルで、プレイヤーは主人公と一体化して恐怖を体験していた。学怖のプレイヤーは、体験しない。ただ聞く。聞きながら、相槌に相当する選択肢を選ぶ。信じるか信じないか、怖いか怖くないか、興味があるかないか。この相槌が話の中身を変える。ここに、怪談という営みの核心がある。怪談は語り手だけでは成立しない。聞き手が、うそだあ、と言えば、語り手はもっと怖い話をする。聞き手が青ざめれば、語り手は調子に乗る。聞き手が黙れば、語り手は不安になって話を切り上げる。怪談は語り手と聞き手の共同作業であり、聞き手の態度が話の内容を決める。学怖はそれを選択肢に落とした。岩下明美が優柔不断な相槌に激怒するのも、風間望が突っ込まないと勝手に話を終えるのも、細田友晴が友好的な相槌に喜んで距離を詰めてくるのも、全部同じ原理から出ている。あれはキャラ付けの演出ではなく、怪談の力学のシミュレーションなのだ。
三つめ。同じ話に複数の真相があるという構造について、これがどれだけ異様なことかを改めて考えたい。普通、物語には正解がある。分岐があっても、たいていはどれかが真エンドとして特権的な位置を与えられる。学怖にも隠しシナリオという到達点はあるが、それは全部見たことの証明であって、どれが本当だったかの答えではない。桜の木の由来は四つとも本当のまま並んでいる。東条深雪が消えた話も、死体置き場の話も、飢饉の話も、朝倉と霊道の話も、互いを否定しない。そして真説と銘打った隠しシナリオですら、語るのが岩下明美である以上、彼女が何かを隠していないという保証はない。ここでプレイヤーは、正解を探すのをやめる。やめた瞬間、このゲームは怪談集から、怪談が生きている場所の記録、に変わる。地域伝承の調査報告書を読んでいるときの感覚に近い。同じ峠の同じ地蔵について、集落ごとに違う由来が採録されている、あの感じだ。民俗資料としての誠実さが、意図せずゲームシステムから生まれてしまった。
四つめ。矛盾を欠陥と見るか特徴と見るかについて。攻略系の情報サイトには、当事者が死んでいるのになぜその話を知っているのか、という筋の通らない怪談が多い、という指摘がある。これは真っ当な批評だし、実際、テキストの詰めが甘い箇所は確かにある。誤字も重複もある。四か月で百万文字書けばそうもなるだろう。だが、この作品の場合、粗さと味が切り分けられない。実写のチープさが不気味さになったのと同じことが、テキストの粗さにも起きている。整合性の取れた怪談は、たいてい怖くない。説明がつきすぎるからだ。細田の話に出てくる、生活指導の先生が唐突に、この染みをなめな、と言い出すあの場面が怖いのは、理由が一切説明されないからだ。理由を書き足した瞬間に、あれはただの奇行になる。学怖の粗さは、しばしば説明の不在として機能している。もちろん全部がそうだと言うつもりはない。単に雑なところもある。ただ、雑さと不気味さの境界線がここまで曖昧な作品も珍しい。
商品化が捨てた「揺らぎ」を拾っていた
五つめ。九〇年代の学校怪談ブームとの距離について。常光徹の児童書シリーズが火をつけ、映画が広げ、テレビが拡散した。あのブームで学校怪談は一度、商品になった。商品になるということは、形が固定されるということだ。トイレの花子さんには決まった設定ができ、口裂け女には決まった撃退法ができ、人体模型は決まった時刻に動くようになった。本と映像は、話を確定させる方向に働く。それが悪いという話ではない。確定したからこそ全国の子どもが共有できたし、共有できたから遊びになった。ただ、確定した怪談は、その瞬間から少しずつ死に始める。答えが決まった謎かけは二度目に効かないのと同じだ。学怖が別ルートだったのは、確定させなかった点にある。選択肢というインターフェースは、話を確定させない技術だった。プレイヤーが選ぶまで話は決まらないし、選び直せば別の話になる。この作品は、九〇年代の学校怪談ブームが商品化の過程で捨てざるを得なかった揺らぎを、たまたま拾って保存していた。三十年後にこれだけ語られているのは、たぶんそのおかげだ。書籍のブームも映画のブームもとっくに終わったが、揺らぎは腐らない。
六つめ。ネットとの相性について。学怖が二〇〇〇年代後半に再発見されたのは偶然ではないと思う。実況動画は本質的に、他人が体験しているのを見る、メディアだ。学怖は、他人が語るのを聞く、ゲームだ。構造が入れ子になっている。視聴者は、実況者が語り手の話を聞いているのを聞いている。三重の伝聞だ。しかもコメントが流れる。動画にコメントが重なる機能は、まさに聞き手の相槌を可視化する装置だった。ゲーム内で主人公が相槌を打ち、実況者が突っ込みを入れ、視聴者がコメントを流す。三層の聞き手が同時に存在する。この重なりが、学怖の実況を他のテキストアドベンチャーの実況より面白くしていた。飯島が、なぜか一番人気なんだそうです、と首をひねっていたのは、たぶんこの構造的な相性のせいだ。作った本人にも自覚がなかったところが、また面白い。
七つめ。ミーム化についてもう少し。魔王、トイレ、ラッパー桜井、阿波踊り、とりあえず踊ってみる、いったい、なんちゅう学校だ、ここは。これらのフレーズが十数年生き延びているのは、どれも、作品のある一点を圧縮した名前だからだ。岩下明美の怖さを説明するのに、彼女がカッターを持っていることや、嘘を嫌うことや、選択肢の一貫性を見ていることを全部説明する必要はない。魔王、と言えば済む。ミームというのは要約技術であり、要約が共有されると、その作品は語りやすくなる。語りやすい作品は、語られる。語られる作品は、残る。学怖のミームが優秀だったのは、どれもキャラクターの本質を外していないからだ。細田をトイレと呼ぶのは悪口のようでいて、彼のシナリオ設計を一言で言い当てている。この界隈の要約センスは相当に高い。
八つめ。無為無策のような、出典のはっきりしない言い回しが漂っていることについて。こういうフレーズは、どこで生まれたか誰も正確には言えないまま、なんとなく共有されていく。学怖界隈に限らず、ネットのスラングはたいていそうだ。だがこの作品に関しては、その曖昧さがやけに似合っている。作中の怪談は、ほとんどが誰それから聞いた話として語られる。出典は辿れない。辿ろうとすると当事者が死んでいるか行方不明になっている。作品を語る言葉のほうも同じように出典が消えていくのは、皮肉というより自然な成り行きに見える。一次資料に当たれる範囲では確認したうえで、確認できないものは確認できないと書いておく。それがこの手の題材を扱うときの最低限の礼儀だと思っている。
九つめ。作品の到達点である隠しシナリオ02の性格について。四十八本を決められた終わり方で積み上げろ、という条件は、遊びとしてはほとんど嫌がらせだ。しかしこの条件が要求しているのは、実は取材の完遂である。主人公は新聞部員で、七不思議の特集記事を書くために全員から話を聞いている。プレイヤーが四十八本を集め切るという行為は、その取材を最後までやり遂げるということだ。そして報酬として見られるのが、三年生になった主人公の姿だという。取材を完遂した者だけが、その後の人生を見せてもらえる。ゲームデザインとしては不親切きわまりないが、物語の理屈としては筋が通っている。ちなみに仮面をつけた制服の少女に至る条件も同じ種類の理屈を持っている。語り手が一人ずつ消えていく結末を選び続ける、というのは、取材相手を一人ずつ失っていくということだ。全員失った先に、七人目が待っている。空席に座るべきだった人が。
名作だから残ったのではなく、語りやすかったから残った
十つめ。三十年語られる作品の条件について。学怖を見ていて思うのは、名作だから残ったのではなく、語りやすかったから残った、ということだ。ファミ通の点数は二十五点で、売上も伸びなかった。それでも残った。残るための条件は、たぶん三つある。断片に切り分けられること。断片ごとに名前が付けられること。そして、その断片が誰かの実体験と結びつくこと。学怖は五十本以上の独立した怪談を持ち、そのそれぞれに飴玉ばあさん、赤い傘青い傘、人形の生けにえ、仮面の少女という名前が付き、そのどれかが誰かの深夜の記憶と結びついている。バイト先の先輩が辞めた話も、一人目に岩下を引いてしまった話も、四十八本を積み上げた話も、全部その結びつきの記録だ。作品の内容ではなく、作品と人の間に起きた事件が語り継がれている。それはまさに、怪談が伝わっていくときの形そのものだ。
最後に。旧校舎はゲームの中で取り壊されることになっていた。取り壊しを記念して七不思議の特集を組む、というのが物語の発端だった。つまりこの作品は最初から、消えていく場所の記録を残すという動機で動いている。新聞部員が取材ノートを埋めるのは、旧校舎がなくなった後も話を残すためだ。そして一九九五年のスーパーファミコンというハードも、いまや旧校舎に近い。カートリッジは黄ばみ、バッテリーバックアップのセーブデータは消え、実機で遊ぶ人はどんどん減る。それでも話は残った。復刻配信で、ダウンロード販売で、同人ゲームで、現行機の新作で、実況動画で、誰かのブログのプレイ日記で。媒体を乗り換えながら、語り直されながら、細部を変えながら残っている。
七人目は、来なかった。来なかったから、席はいまも空いている。空いている限り、誰かがそこに座って話を始める。三十年ぶんの語り手が入れ替わり立ち替わりその席に座ってきたのだと思うと、この作品が終わらない理由も、なんとなく腑に落ちる気がする。
