寺の本堂は、夜になると別の建物になる。
昼のあいだは教室だ。畳の上に低い机を並べて、算数をやって、修身をやって、外に出て芋畑を掘る。ところが日が落ちて、灯火管制の黒い布を電球にかぶせて、最後に引率の先生が「消すぞ」と言って紐を引くと、そこはもう教室じゃない。天井の高い、線香くさい、暗い箱になる。
その箱の中に、六十人の子どもが並んで寝ている。全員、親がいない。正確に言えば、親は生きている。ただし百キロ以上むこうにいる。手紙は届く。返事も来る。でも今夜、泣いても誰も来ない。
一九四四年の秋から一九四五年の秋にかけて、日本中の寺と旅館と分教場で、この状況が同時多発的に発生していた。数十万人規模で。
そして当然のように、怪談が生まれた。
怪談の前に、まず「なぜ子どもが寺にいたのか」を押さえておく
学童疎開の話をするとき、いきなり幽霊から入ると足元が抜ける。だからここは面倒くさがらずに史実から行く。というか、史実のほうが先に怖い。
決定的な日付は一九四四年六月三十日だ。この日、東条内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定した。サイパンが陥落する直前、本土空襲がもう時間の問題になっていた時期である。要綱の中身をざっくり言うと、東京、横浜、川崎、名古屋、大阪、神戸、尼崎、門司、小倉、若松、八幡、戸畑といった重要都市の国民学校初等科三年から六年の児童を、親戚を頼って地方に移す「縁故疎開」を原則とし、縁故のない子は学校単位でまとめて地方に送る「集団疎開」に回す、というものだ。
ここで押さえておきたいのは、これが「保護」の顔をした「戦力温存」だったことだ。要綱の文言は子どもを守るためと読める。だが実務上の狙いは、都市の防空要員である大人を身軽にすること、そして次代の兵力である子どもを焼かずに取っておくことにあった。当時の言い回しでは「戦力増強」「将来の戦力保持」である。子どもは避難させられたのではなく、疎開させられた。疎開というのは元来、軍事用語だ。密集した部隊を散らして被害を減らす、という意味の。
第一陣が動いたのは一九四四年八月四日。東京の国民学校の児童を乗せた列車が上野駅などから出発した。夏休みが終わらないうちに、である。子どもたちは名札を胸に縫い付け、雑嚢を斜めがけにし、水筒を下げて、防空頭巾を背負って並んだ。荷物は布団と着替えと洗面具。それを親が駅まで運んで、そこで引き渡す。ホームでの見送りは「めそめそするな」と指導されていた。万歳三唱で送り出された学校も多い。
規模の話をする。大阪市の場合、六月末から九月末までの縁故疎開だけで約十二万人が市外に出た。集団疎開の第一次は九月末時点で約六万六千人が二府十県に散った。第二次集団疎開では二百五十一校七千七百七十八人が動いている。全国で見ると、集団疎開の児童は最盛期におよそ四十五万人前後。縁故疎開まで含めれば数十万人が上乗せされる。
さらに一九四五年三月九日、政府は「学童疎開強化要綱」を閣議決定する。この日付を見て背筋が寒くなる人はけっこういるはずだ。翌日が東京大空襲である。強化要綱では初等科三年以上は原則全員疎開、対象都市も拡大された。要するに、間に合わなかった。
疎開先というのは、具体的にどういう場所だったのか
「寺に疎開した」と一言で言われるが、実際に何が起きていたのかを想像できる人は多くない。だからここも具体的に書く。
受け入れ先として使われたのは、寺院、旅館、温泉宿、教会所、公民館、青年会館、錬成所、分教場。要するに「大きな座敷がある建物」だ。ひとつの宿舎に二十人から五十人、多いところでは百人超が入った。基準としては学校単位、学級単位でまとまるが、実際には学年混合の「班」に組み替えられ、寮長や班長という役職がつくられた。
寺の場合、寝るのは本堂か庫裏の大広間である。畳の上に布団を敷き詰めて雑魚寝。頭の向きまで指定されていることが多かった。長野県飯田市上川路の開善寺には東京都世田谷区の守山国民学校の児童が入っていて、本堂で生活していた記録が残る。本堂には畳一畳ぶんの広さの炉がいくつも切ってあって、そこに枠を置いて掘りごたつにした、という工夫まで伝わっている。冬の本堂というのは、経験がある人ならわかると思うが、暖房のない体育館みたいなものだ。息が白い。
愛知県丹羽郡岩倉町、現在の岩倉市にある龍潭寺には、名古屋市の八重国民学校五年生が集団疎開した。ここでは児童の一人が一九四四年八月十一日から一九四五年三月二十六日まで、二百二十七日間ぶんの疎開日記を一日も欠かさず書き残している。日付と曜日と天候と気温を一行目に書いて、次の行から本文。読むと食べ物の記事がやたら多い。腹が減っていたからだ。
神奈川県横須賀市では梅雲寺や戒善寺が受け入れ先になった。東京都千代田区の場合、麹町地区は山梨県、神田地区は埼玉県というふうに、区ごとに疎開先の県が割り当てられている。港区の竹芝、芝浦、高輪台などの学校は栃木県塩原町、いまの那須塩原市に入り、温泉旅館を宿舎にした。広島市は一九四五年四月から国民学校三年から六年を県内の双三、山県、安佐、高田、佐伯、比婆、世羅の七郡に送り出し、縁故と合わせて二万人以上が動いた。三篠国民学校の児童は高田郡川根村、現在の安芸高田市に入っている。
沖縄はまた事情が違う。県外疎開先は九州で、熊本、大分、宮崎の三県。総数はおよそ五千五百八十六人。熊本が最多の二千六百二人を引き受け、そのうち八代市が千百四十四人。日奈久温泉の旅館が最初の受け入れ場所になり、そこから山間部へ二次疎開していく。東陽村の瑞宝寺、大野村の光勝寺といった寺の名前が残っている。
つまり全国の相当数の寺が、一年ちょっとのあいだ「子どもの寄宿舎」になっていた。そしてその寺には、当然のことながら、墓地がある。位牌堂がある。過去帳がある。戦死者の骨も戻ってくる。葬式もやる。
子どもたちは、死の現場のど真ん中で寝起きしていた。これは比喩ではなく、間取りの話だ。
一日の終わりに何が起きるか
日課はどこも似ている。広島の資料に残る日課表だと、朝五時起床、夜八時三十分就寝。寺の疎開だと、朝は僧侶と一緒に読経から始まるところも珍しくなかった。子どもが般若心経を覚えて帰ってきた、という話はよく聞く。
昼間は勉強と労働が半々くらいだ。地元の国民学校の校舎を借りて二部授業をやるか、寺の本堂で自分たちだけの学級をやる。午後はイモを植える、麦を踏む、落ち穂を拾う、ドングリを集める、イナゴを捕る。全部食糧確保のためだ。名古屋の疎開日記には写生と自習が多かったとある。紙も墨も足りないので、勉強らしい勉強にならなかった宿舎も多い。
食事は、書いていてしんどくなるレベルである。一日に米二合から三合、それが末期には二合を切る。おかずは薄い味噌汁と漬物とサツマイモ。具のない味噌汁を子どもたちは「太平洋」と呼んだ。海しかないからだ。この手のブラックジョークが自然発生するあたり、子どもというのは強い。
横浜市の記録には、消化剤やお手玉の中の豆やクレヨンを食べた子どもが多かった、とある。クレヨンである。兵庫県神崎郡の寺に疎開した子の体験談では、朝は薄い粥を椀に一杯、昼は抜き、夕は大豆九割五分に米五分の雑穀飯と味噌汁だけ。腹の前の皮と後ろの皮がくっつく思いをした、と書いている。畑のものを盗む子が出る。イタドリを噛む。道に落ちている芋の皮を拾って食べる。沖縄から宮崎に行った子の証言にそのままの記述がある。
衛生も壊滅的だ。風呂は週に一度か二度。シラミとノミが常在する。「シラミの釜ゆで」という表題の手記が残っているくらいで、下着を大鍋で煮るのが定例行事だった。疥癬が広がる。凍傷になる。栄養障害による浮腫と脚気が出る。胃腸カタル、急性結膜炎、感冒。伝染病が出れば宿舎ごと隔離される。熊本では六十年ぶりの寒波に見舞われて氷点下七度まで下がった年があり、冬服を持たない沖縄の子どもたちが手足を腫らした。
そして夜が来る。
消灯後は私語禁止。だが六十人の子どもが黙って眠るわけがない。最初に始まるのは、たいてい家の話だ。うちの母ちゃんが作るぼた餅がどうとか、あの店の蜜豆がどうとか。食い物の話は必ず出る。そして誰かが泣き始める。里心というやつだ。里心がついた子は伝染する。ひとり泣くと三人泣く。三人泣くと十人泣く。
だから引率教師と寮母は、里心を敵として扱った。親からの手紙は開封して検閲された。「早く帰っておいで」と書いてある手紙は渡されないことがあった。子どもが書く手紙も検閲された。「ひもじい」「帰りたい」は書かせない。だから疎開先から届いた手紙は、どれも同じような文面になる。元気です。米はたくさん食べています。心配しないでください。親はそれを読んで安心し、後年、真相を知って泣いた。
寝小便をした子への罰も、多くの宿舎で普通に行われた。濡らした布団を庭に干させて全員に見せる。頭を叩く。飯を減らす。今なら一発で問題になる措置が、当時は「たるんでいる」ことへの正当な指導とされた。空腹と寒さと恐怖にさらされた子どもが夜尿するのは生理的にごく自然なことだが、そんな理屈は通らない。
こういう夜だ。腹が減っていて、寒くて、痒くて、親がいなくて、泣くと怒られる。天井が高くて、線香の匂いがして、障子の外に墓がある。
この条件で怪談が生まれないほうがおかしい。
【完全再話】人数が合わない夜
これは戦後、疎開経験者の口から何度も何度も語り直されてきた話の、いちばん骨格がはっきりしている型だ。地域によって寺の名前も学校名も変わる。だからここでは、語られてきた要素を全部拾って、ひとつの夜として再構成する。
その寺の本堂には、六年生から三年生まで五十七人が寝ていた。班は六つ。班長は全員六年生。消灯前に、各班の班長が自分の班の人数を数えて、寮長役の先生に報告する決まりになっていた。「一班、九名、異常なし」というふうに。
これは形式的な儀式ではない。理由があった。夜のあいだに抜け出して家に帰ろうとする子が、実際にいたのだ。線路を歩いて何十キロも歩いて帰ろうとして、翌朝、隣村で見つかる。そういう事件が全国の疎開先で頻発していた。だから点呼は真剣だった。
その晩、三班の班長をやっていた六年生の少年が、いつも通り布団の列を端から数えた。三班は九人。少年を含めて九人。
十人いた。
もう一度数えた。十人。
少年は寝ぼけているのだと思った。灯りは常夜灯の豆電球ひとつ。布団はどれも似た柄で、頭まで潜っている子もいる。数え間違えたのだろう、と。三度目。九人。ほっとした。四度目を数える気にはならなかった。「三班、九名、異常なし」と報告して、自分の布団に入った。
寝つけなかった。廊下側から数えて三つ目の布団のあたりが、ずっと気になっていた。そこは四年生の小さい子が寝ている場所だ。その子は数日前から熱を出していて、その晩は庫裏の別室で寝かされていたはずだった。つまり、そこは空いているはずだった。
だが空いていない。布団が盛り上がっている。誰かが寝ている形に。
少年は、そこにいるのは寝る場所を間違えた誰かだと考えることにした。よくあることだ。夜中に便所に行って、戻ってきて、暗くて自分の場所がわからなくなって、適当なところに潜り込む子はいた。朝になったら笑い話になる。そう思って目をつぶった。
明け方近く、少年は誰かに肩を叩かれて目を覚ました。
その三つ目の布団にいた子が、枕元に座っていた。逆光でも順光でもない、あの、夜が薄まりかけた時間の白っぽい暗がりの中で、その子の輪郭だけがはっきり見えた。三年生か四年生くらいの背丈。丸刈り。着ているのは寝間着ではなく、疎開してきた日に着ていたような、きちんとした国民服だった。胸に名札が縫い付けてある。
その子が言った。
「まだかえらないの」
少年は答えなかった。声が出なかったのではなく、意味がわからなかったからだ。帰る。誰が。どこへ。
その子はもう一度、同じ調子で言った。まだかえらないの。
そして立ち上がって、本堂の裏手のほう、位牌堂につながる暗い廊下のほうへ歩いていった。足音がしなかった、という細部を語る人と、板の間がきしむ音がはっきり聞こえた、と語る人がいる。後者のほうが多い。足音がしたほうが怖い、という理屈ではなく、たぶん本当に聞こえたのだと思う。
朝、少年は誰にも言わなかった。言えば臆病者だと言われる。それより何より、口にしたら本当になる気がした。
その日の午前、寺の住職が本堂に入ってきて、位牌堂の前に新しい白木の位牌を据えた。近隣の村から出征していた兵隊の戦死公報が届いたのだという。子どもたちは並んで頭を下げさせられた。少年は位牌の裏に書かれた年齢を盗み見た。二十一歳。自分が見た子とは、まるで違う。
その晩から、三班の点呼はいつも一人多かった。少年だけがそれに気づいていた。他の班長は何も言わない。少年は毎晩、数えて、十人いて、もう一度数えて、九人になるのを確認して、「九名、異常なし」と報告した。三度目に九人になる。それが決まりのように安定していた。安定していることが、いちばん怖かった。
冬になって、宿舎に麻疹が流行した。三班からも二人、寝込んだ。そのうちの一人、廊下側から三つ目の布団の四年生が、十二月の終わりに死んだ。
村の火葬場で焼いて、骨は先生が箱に入れて持っていた。東京の家に返さなければならないが、そのころ東京行きの汽車はろくに動かず、親も駆けつけられなかった。骨箱は、しばらく本堂の位牌堂に置かれた。
葬式の晩、少年は点呼をした。
九人だった。一度で。
彼は後年、この話をするたびに同じところで言葉を止めたという。増えていたときは怖かった。でも、合ったときのほうがずっと嫌だった、と。
派生と別バージョン
この話は、日本各地の疎開先で、少しずつ違う形で語られている。ひとつずつ見ていく。
まず「布団が一組多い」型。点呼の人数ではなく、布団の枚数が合わないパターンだ。寮母が朝、布団を畳んで押し入れにしまうとき、どうしても一組余る。数えると児童数ぴったりの数しか出していないはずなのに、湿った布団が一組だけ余る。しかもその布団だけ、まん中が人の形にへこんでいて、生温かい。寮母は誰にも言わずに毎朝それを干した。この型では怪異を目撃するのが子どもではなく大人であるところが効いている。子どもは「見た」で済むが、大人は「片付けなければならない」。恐怖に家事の手触りがつく。
次に「便所の子」型。寺の便所は本堂から渡り廊下を通って外に近い場所にあることが多く、夜中に一人で行くのは相当な勇気が要った。だから二人一組で行く決まりの宿舎が多かった。この型では、便所の前に必ず先客が立っている。順番待ちのつもりで後ろに並ぶ。前の子はいつまでも入らない。声をかけると、振り返らずに「先にどうぞ」と言う。中に入って用を足して出てくると、誰もいない。翌朝、同じ班の子が「昨日、便所の前でお前が先にどうぞって言ったろ」と言い出す。自分は言っていない。この型は戦後の学校怪談における「トイレの何か」の系譜に、そのまま接続していく。
三つ目が「面会日の親」型。集団疎開には親の面会日が設定されていた。多くの宿舎で月に一度あるかないか、しかも交通事情が悪化してからは事実上なくなった。この型では、面会日でもないのに宿舎の門のところに親らしき大人が立っている。ある子が「あ、うちの母ちゃんだ」と言って駆け出す。他の子には誰も見えていない。子は門の外まで出て、何かと話して、しばらくして戻ってくる。表情がすっきりしている。そして数日後、その子の家が空襲で焼けた、という報せが来る。母親は死んでいる。死亡推定時刻が、門に立っていた日と同じ。この型はいちばん語られる回数が多い。理由はわかりやすくて、疎開児童のかなりの割合が現実にこの状況を経験しかけたからだ。
四つ目が「増えていく足音」型。夜、本堂の外の廊下を歩く足音が聞こえる。最初は一人ぶん。夜ごとに二人、三人、五人と増えていく。三月十日の東京大空襲の翌々日、足音は数えきれないほどになり、朝まで続いた。この型は明らかに空襲の死者数を音に翻訳している。子どもが死者の量を理解するための装置として、足音というのは非常によくできた比喩だ。数が見えないから、いくらでも増える。
五つ目が「読経が終わらない」型。寺の疎開ならではのバリエーションで、住職が朝の勤行をしているはずの時刻に、本堂から複数の声の読経が聞こえる。子どもたちが起きていって覗くと、住職はまだ庫裏で寝ている。読経の声は本堂から確かに聞こえているのに、本堂には誰もいない。この型を語る人の多くが、その声を「子どもの声だった」と証言する。
六つ目、これはやや地域限定だが「線路の子」型。疎開先から抜け出して家に帰ろうとした子が線路を歩いて命を落とす事故は、実際に各地で起きている。この型では、夜、宿舎の近くを走る線路のほうから、砂利を踏む足音がする。窓から見ると、名札をつけた子が一人、都会の方角に向かって歩いていく。声をかけると振り向く。顔がない、というバージョンと、自分の顔だった、というバージョンがある。後者のほうが圧倒的に嫌な後味を残す。
七つ目が、戦後になってから付け加えられた「跡地」型だ。かつて疎開児童が寝起きした寺や旅館の建物が、戦後に学校の校舎や寮に転用された例は多い。そういう建物で、夜に子どもの列が歩く、点呼の声が聞こえる、廊下の端で名前を呼ばれる、といった話が出る。これは体験者本人ではなく、その後の世代が語り手になっている点が重要で、疎開怪談が地域の土地の記憶に変換された段階を示している。
【完全再話】迎えに来ない親
もうひとつ、骨太な型を丁寧に再話しておく。これは「面会日の親」型を、実際の年表に沿って組み直したものだ。
一九四五年三月十日の未明、東京の下町がB29の大編隊による焼夷弾攻撃を受けた。二時間半で十万人前後が死んだ。下町は文字通り消えた。
その朝、疎開先の宿舎は異様に静かだった、と多くの体験者が語っている。子どもたちは何が起きたか知らない。ただ、教師と寮母の顔つきが違った。ラジオを聞きに行った先生が戻ってこない。朝食の時間がずれる。誰も理由を言わない。
数日後から、宿舎に電報と手紙が届き始める。届く子と、届かない子がいる。届かない子のリストが、そのまま「家がなくなった子」のリストになった。
この時期の疎開先の風景として、体験者が口を揃えて語るのが「面会の日に呼ばれない子」の姿だ。親が来られた子は、宿舎の玄関先で親と会って、持ってきてもらった食べ物を分けてもらう。呼ばれなかった子は、本堂の隅か、裏の墓地のあたりで、じっと待っている。そして呼ばれた子が戻ってくると、平気な顔をして「なんかもらった」と聞く。
その、呼ばれない子の一人が、ある日、平気な顔で言ったという。
「うちの母ちゃん、昨日の晩、来たよ」
みんな驚いて、なんで言わなかった、なんで会わせなかった、と責める。その子は落ち着いていた。夜だったから、みんな寝てたから、と。門のところに立っていて、こっちを見て、笑っていた、と。手は振らなかったけど、笑っていた、と。
その子は、それから数日で急に元気になったという。前より飯を食うようになり、作業も率先してやるようになった。里心がついてぐずぐずしていた子が、突然しゃんとしたので、先生は「あの子はようやく腹が据わった」と喜んだ。
戦後、その子の家族は誰も見つからなかった。三月十日の火の中で全員が死んでいた。母親の遺体は確認されていない。
この話が怖いのは、幽霊が出てくるところではない。幽霊が出てきたあとで、その子が元気になるところだ。
会えたのだ。少なくとも、その子の中では会えた。だから安心して、飯を食って、働けるようになった。何も知らないまま、もう誰もいない家に帰る日を待って、真面目に生きていた。
そして戦後、この子と同じ状況の子どもが、日本中に数万人いた。
疎開先で子どもは実際に死んでいる
怪談の話をしていると忘れそうになるが、疎開先での児童の死は、想像上の出来事ではない。相当な数が現実に起きている。
まず病死。麻疹、百日咳、疫痢、赤痢、腸チフス、結核。栄養状態が最悪の集団生活だから、一人出れば一気に広がる。医者は徴用されていて村にいない。薬もない。宿舎で寝かせて、治るのを待つしかない。宿舎ごと隔離される事例も各地で起きた。児童が死ぬと、親に連絡はするが、汽車が動かないので来られない。地元の火葬場で焼いて、骨は先生が預かる。この「先生が骨箱を持っている」状態が、終戦まで続いた宿舎がある。
事故と災害もある。一九四四年十二月七日午後一時三十六分、東南海地震が発生した。マグニチュード七点九。東海地方を中心に千人以上が死んだ。この地震では、軍需工場に動員されていた学徒が多数亡くなっているが、疎開先の建物の倒壊による児童の犠牲も出ている。愛知県では疎開先の寺が崩れて子どもが死んだ事例が記録に残る。さらに翌一九四五年一月十三日、三河地震が追い打ちをかけた。マグニチュード六点八、死者二千人超。当時これらの地震被害は戦意への影響を理由に報道が徹底的に抑えられた。地元では「隠された地震」と呼ばれた。
つまり、地面が揺れて子どもが死んだ事実すら、国は伏せた。
そして、疎開そのものが最悪の形で失敗した事件がある。対馬丸だ。
対馬丸――疎開船が沈んだ夜
一九四四年八月二十一日、那覇港から長崎に向けて疎開船団が出港した。その中の一隻が、日本郵船の貨物船を転用した対馬丸である。もともとは貨物船で、船齢は三十年近い老朽船だった。船倉に畳を敷いて、そこに人を詰めた。
乗っていたのは合計千七百八十八人。うち疎開者が千六百六十一人、船舶砲兵隊員が四十一人。疎開者の主体は那覇市内の八つの国民学校の児童とその引率教師、そして一般の疎開者だった。
八月二十二日の夜十時十二分ごろ、トカラ列島の悪石島の北西およそ十キロの海上で、アメリカ海軍の潜水艦ボーフィンの魚雷が対馬丸に命中した。船は十分あまりで沈んだ。夜の海である。灯りはない。救命具の数も足りない。
判明しているだけで犠牲者は千四百八十四人。そのうちゼロ歳から十五歳が千四十人を占める。内訳は学童集団疎開者七百八十四人、一般疎開者六百二十五人、引率の訓導と世話人三十人、船員二十四人、砲兵隊員二十一人。生存者はおよそ二百八十人と言われるが、確定した数字はいまだにない。
漂流した人々の一部は悪石島などに流れ着いた。何日も筏や漂流物にしがみつき、真水がないまま日に焼かれ、力尽きて沈んでいく者を見送った。魚雷を受けた直後に四歳の子が泣いて海に落ちた、真っ暗な海の上で母と最期の別れをした。そういう場面が、実際にそこにあった。
そして、ここからが日本の戦争のいちばん陰湿なところだ。
救助された生存者に対し、警察と憲兵から箝口令が敷かれた。撃沈の事実は決して語ってはならない、と。理由は、疎開が進まなくなるから、そして戦意に影響するからである。子どもを失った親も、生き延びた子ども自身も、何が起きたのかを口にすることを禁じられた。学校では「あの子は転校した」ということにされた家もある。
だから対馬丸の遺族と生存者は、二重に苦しんだ。死そのものと、死を語れないことに。
慰霊塔である小桜の塔が那覇市の若狭に建てられたのは、戦後しばらく経ってからのことだ。沈没船の船体が海底で確認されたのは一九九七年で、事件から半世紀以上が過ぎていた。対馬丸記念館が同じく若狭に開館し、生存者の証言とデジタル資料の公開を続けている。
対馬丸に、いわゆる怪談はほとんどついていない。これは重要なことだと思う。話が大きすぎ、遺族が近すぎ、そして何より、長いあいだ語ること自体が禁止されていた。禁止されたものは、怪談にすらならない。怪談というのは、ある程度自由に語れる環境がないと発生しないのだ。
代わりに残ったのは、遺骨のない墓と、名前だけが並んだ碑と、証言の記録である。それで十分すぎるほど怖い。
疎開っ子――もうひとつの、生きている人間による恐怖
疎開児童を苦しめたのは、飢えと病気と幽霊だけではなかった。むしろ日常的に効いていたのは、地元の子どもたちからの差別といじめだ。
兵庫県豊岡市の出石町に疎開した児童の記録がある。五十七人が四か月間、寺で暮らした。疎開してきた側の女性は、後年こう証言している。疎開っ子、疎開っ子、と言っていじめられた、と。
いじめた側の証言も残っている。同じ地域で地元の子どもだった男性が、七十年後に謝罪のためにその場所を訪ねた。彼が語ったいじめの中身は、こういうものだ。渋柿を疎開っ子に渡して、自分たちは甘柿を食べる。栄養失調と皮膚病で肌が荒れているのを指さして笑う。シラミを取っているところを見て、疎開っ子がシラミ取りしとる、と囃す。
この構造は残酷なほどわかりやすい。地元の子から見れば、疎開っ子は突然やってきて、自分たちの学校の教室を占領し、少ない食糧を分け合う相手になった存在だ。しかも都会の言葉を喋る。よそ者である。そして向こうは弱っている。いじめる理由は揃いすぎていた。
沖縄から熊本に来た児童の場合は、さらに厳しい。沖縄の者は泥棒だ、という評判が立った。実際に空腹で畑のものを取った子はいた。だがそれを集団の属性に変換されると、もう逃げ場がない。言葉の壁もあった。標準語はできても熊本弁の授業がわからず、隣の席の子に通訳を頼んだ、という証言がある。疥癬にかかった子は病気そのものとして扱われた。地元の上級生が疎開児童に板を差し出して、これを割ってみろ、と命じた、という話も残る。
いじめは疎開児童の内部でも起きた。日奈久の宿舎では、高等科の生徒が下級生の飯を奪うのが習慣になっていた、という証言がある。竹の椀を探して座る、というところから始まる証言だ。器すら足りていない。
つまり子どもたちは、寺の暗がりの幽霊よりずっと具体的な恐怖に、昼間から囲まれていた。夜の怪談が生まれる土壌は、飢えと寒さだけでなく、この昼間の緊張からも育っている。恐怖の総量が多すぎるとき、人間はそれを物語の形に変えて、いったん外に出す。怪談はそのための容器だ。
証言――三人の記憶
ここからは、公開されている戦争体験の記録に基づいて、疎開の実相が伝わる三つの語りを、読み物の形で厚く書く。
兵庫の寺に送られた子の記憶
播但線の寺前駅で降りて、そこから山のほうへ三里歩いた場所に、その寺はあった。少年は国民学校の高学年で、同じ学校の仲間と一緒だった。
飢えの記憶が、他のすべてを押しのけて残っている。朝は薄い粥が椀に一杯だけ。昼は食べない。腹の前の皮と背中の皮がくっつく、という表現をこの人は使う。実際にそういう感覚があるのだ。野に出てイタドリを見つけて噛む。酸っぱい。それでも噛む。夕食は大豆が九割五分で米が五分の飯と、味噌汁がひとつ。
あるとき畑からジャガイモを掘って食べた。芽の出たものだった。ソラニン中毒で三十六人が腹を抱えて転げ回った。誰も死ななかったのは運がよかっただけだ。
疎開先が安全だったわけでもない。上空を敵機が通り、機銃掃射を浴びた。四十発の弾が撃ち込まれた。子どもたちは伏せた。当たらなかった。
戦後、学校で不発の焼夷弾が爆発する事故が起きた。近くにいたN君は真っ黒な炭になって死んだ、とこの人は書いている。真っ黒な炭、という言い方に、何かを飲み込んだ感じがある。
九月に故郷に帰った。町は焼け野原だった。自分の家は、庭石と井戸だけが昔のまま残っていた。家というのは、燃えると庭石と井戸だけが残る。それを見てしまった人が、後の人生でどういう夢を見るのかは想像するしかない。
そして最後に、この人はもうひとつのことを書いている。友人のSさんは両親を失って孤児になり、その後、自ら命を絶った。戦争は一九四五年の八月十五日に終わったが、この人にとっては終わっていない。
浦添から宮崎へ渡った子の記憶
一九四四年、沖縄県浦添村の少年は十三歳だった。県外疎開に出ることになり、出発の前夜、那覇の旅館で父親と会った。
父親は言った。船の上では、船倉ではなく甲板で寝起きしなさい、と。
理由は言わなかったのだと思う。だがその前の週、対馬丸が沈んでいた。八百人近い子どもが死んだことを、大人は知っていた。語ってはならないことになっていた。だから父親は、理由を言わずに、生き延びる方法だけを息子に伝えた。
少年は宮崎県の岩脇村に入った。約二年七か月をそこで過ごすことになる。食糧については、恵まれていたほうだったと本人が語っている。芋もある、そばもある、と。宮崎の農家が支えてくれた。ここは正直に書いておくべきところで、疎開の受け入れ先には冷たいところも温かいところもあった。九州の農村には、明日食う分を減らしてでも子どもに食わせた家が確かにあった。
だが宮崎にも空襲は来た。少年は伝令の役をやらされ、戦闘機の爆撃を目の前で見た。
終戦後、十五歳になって浦添に戻った。浦添は沖縄戦の最大の激戦地のひとつで、村民のおよそ半数が死んでいる。少年が見たのは廃墟だった。
父は死んでいた。爆撃で後頭部をやられて即死だった、と聞かされた。信じられなかった、と本人が語っている。最後に会ったのは、あの旅館の夜だ。船の上で寝ろ、と言われた、あの夜。
この人の場合、「迎えに来ない親」は比喩でも怪談でもない。
那覇から九州に渡り、集合場所に誰も来なかった子の記憶
浦添国民学校の児童だった少年は、十歳で疎開に出た。一九四四年八月二十七日に本願寺に集合し、九月一日、那覇港から運天丸で出港した。行き先は宮崎県の富高町、現在の日向市。宿舎は第一富高国民学校である。
近くには飛行場があった。少年は上空の空中戦を見た。撃墜された敵機を引き上げる作業も見た。
寒さがこたえた。手も足も凍傷で腫れた。食べるものは、オオバコを入れた雑炊。腹が減りすぎて、道に落ちている芋の皮の切れ端を拾って食べた。上半身裸になると、肋骨が全部数えられた。
戦争が終わって、疎開児童は郷里に戻ることになった。決められた集合場所に行けば、家族が迎えに来ることになっていた。
誰も来なかった。
父は防衛隊に取られて死んだ。兄は学徒隊で死んだ。家族は全員いなくなっていた。
十歳で疎開に出て、帰ってきたら誰もいない。この一行を書くのに何の脚色も要らない。同じことが、沖縄でも東京でも広島でも起きた。集合場所で最後まで立っていた子どもたちのことを、当時の記録は「引き取り手なき者」と書いた。一九四五年十月九日時点で、大阪だけで身寄りのない児童が百四十三人確認されている。全国の戦災孤児は、数え方によるが十二万人前後とされる。
「学校の怪談」という器に、疎開が流し込まれた
さて、ここからが本題の後半だ。疎開の怪談は、どうやって戦後に生き延びたのか。
日本の学校怪談が本格的に研究対象になったのは、意外に遅い。民俗学者の常光徹が一九九〇年に『学校の怪談』を刊行したのが大きな分岐点だ。常光は中学校の教師をしながら、生徒たちから噂話を聞き取っていた。その蓄積が本になり、翌年からポプラ社が同名の児童書シリーズを刊行して大ブームになる。一九九五年からは映画版が作られ、テレビでもアニメになり、日本の子どもは「学校には怪談がある」ということを制度として知るようになった。
その少し前、松谷みよ子が『現代民話考』のシリーズで、戦後日本に流通していた噂話を大量に採集していた。このシリーズの第七巻は「学校・笑いと怪談・学童疎開」という巻立てになっている。学童疎開が、学校怪談と同じ巻に収められているのだ。編者がそう並べた意味は大きい。
この巻に収められた学校の怪談の事例のうち、かなりの割合が第二次大戦以降の話であり、しかも戦争そのものが幽霊の出所になっている。旧日本兵の隊列が校庭を行進する。沖縄の激戦地の学校で、兵隊の列が歩く。爆撃で死んだ少女の霊が出る。古い電話から空襲警報が聞こえる。旧校舎の教室で、教師の霊が空襲で死んだ子どもたちに授業をしている。
最後の話が、個人的にはいちばんこたえる。死んだ教師が、死んだ生徒に、いつまでも授業をしている。これは疎開の引率教師が背負わされた立場そのものだ。彼らは親から子を預かった。全員無事に返すのが仕事だった。返せなかった教師が大勢いる。骨箱を抱えて焼け跡に帰った教師がいる。その罪悪感が、怪談の形をとって戻ってくる。
ただし、ここには興味深いねじれがある。怪談研究者の吉田悠軌が指摘しているのだが、ポプラ社版の学校の怪談では、著者自身が採集した話に戦争ものが多く含まれる一方、当時の子どもたちからの投稿コーナーには戦争怪談がほとんど見られない。講談社版でも、リアルタイムの子どもの投稿が中心の巻では戦争怪談は全体の数パーセント程度しかない。
つまり、戦争怪談を語っていたのは大人だったのだ。
子どもは花子さんと赤い紙青い紙とテケテケを語り、大人は空襲と疎開と兵隊の霊を語る。同じ「学校の怪談」という棚に入っているのに、語り手の世代で中身が完全に分かれていた。
そして戦後八十年が過ぎたいま、子どもたちの語りから戦争の表象はほぼ消えた。落ち武者の霊が減ったのはテレビ時代劇が減ったからだ、という吉田の指摘も同じ理屈で、要するに怪談は語り手の情報環境を映す鏡でしかない。疎開を経験した人が語り部として現役だった時代には、疎開怪談は語られた。その世代がいなくなると、話は棚から静かに消えていく。
それでも消えない、跡地の語り
一方で、完全には消えていない部分がある。土地に紐づいた語りだ。
疎開児童を受け入れた寺は全国にある。その多くは今も同じ場所に建っている。旅館は廃業して建物だけ残っているところもあれば、更地になったところもある。分教場は統廃合で廃校になり、建物だけが山中に残っている例が少なくない。
そういう場所には、いま、別の種類の話がついている。深夜に子どもの声が聞こえる。誰もいない廊下から点呼のような声がする。窓に小さな手形がつく。名札をつけた子が並んで歩く。
これらの話は、体験者の証言ではない。体験者の孫の世代や、その土地とは何の縁もない人たちが語る話だ。出所をたどると、たいていは「ここは昔、疎開の子どもがいた場所らしい」という一行の史実に、後から怪談が接ぎ木されている。
この接ぎ木は、批判されがちだ。実際に人が死んだ場所を娯楽にするな、という批判には理がある。とくに廃校や廃屋への無断立ち入りは、単純に犯罪であり、危険でもある。床が抜ける。所有者がいる。近隣に住んでいる人がいる。行くな、というのは倫理の話であると同時に実務の話だ。
ただ、こういう接ぎ木が起きること自体は、民俗の動きとしてごく自然でもある。土地は記憶を保持しない。人が記憶を保持する。人がいなくなると、記憶は「なんとなく怖い場所」という感触だけを残して抽象化する。怪談は、その抽象化の最終形態なのだ。誰も詳細を語れなくなったあと、「ここは怖い」という一行だけが残る。
だから、疎開跡地の怪談を頭から否定する気にはなれない。あれは、史実が忘れられていく過程で発生する最後の標識みたいなものだ。標識としては雑だが、何もないよりはいい。少なくとも、なんでここは怖いって言われてるんだろう、と調べ始める人が、年に何人かは出る。
なぜ疎開の怪談はこんなに怖いのか
理屈をつけてみる。
第一に、状況設定が完璧すぎる。怪談に必要な条件を挙げていくと、閉ざされた空間、夜、集団、逃げ場のなさ、権威による沈黙の強制、そして死の日常化。疎開先の宿舎はこれを全部満たしている。しかもフィクションではなく、日本中で同時に起きていた。ホラー映画のセットを国が数万か所つくったようなものだ。
第二に、「親がいない」という状態が、子どもにとって最も原始的な恐怖だからだ。学校怪談の多くは学校という場所の怖さを扱うが、疎開怪談は「帰る場所がない」という怖さを扱う。トイレの花子さんは家に帰れば会わずに済む。疎開の怪異からは帰れない。帰る家がそもそも遠い。あるいは焼けている。
第三に、幽霊の正体が「自分かもしれない」からだ。疎開先で出る霊は、たいてい子どもの姿をしている。丸刈りで、名札をつけていて、同じ寝間着を着ている。つまり自分と見分けがつかない。誰が生きていて誰が死んでいるのか、点呼をとらないとわからない世界。その恐怖は、記号としてよくできている。
第四に、この怪談の中では、幽霊が悪いことをしないという点。呪わない。祟らない。ただ、そこにいる。まだかえらないの、と聞く。人数に一人ぶん足す。それだけだ。悪意のない幽霊が、いちばん救いがない。悪意があるなら祓えるが、寂しいだけの霊はどうにもならない。
第五に、これがいちばん効いているのだが、疎開の怪談は「後で本当だったとわかる」構造を持っている。門に立っていた母親は、実はその日に死んでいた。点呼で一人多かった夜は、その子が死ぬ前触れだった。怪異が起きた時点では意味がわからず、後日、事実によって意味が確定する。これは怪談の技法として最強の部類で、しかもこの時代においては、技法ではなく現実の時系列だった。
親が死んでいるのに子はそれを知らない、という状態が、日本中で数か月にわたって続いていたのだ。手紙は焼けた家に届かない。電報は打つ人がいない。情報は追いつかない。その空白期間に子どもが見た夢や幻を、後から「あれは知らせだった」と解釈するのは、あまりにも自然なことだ。
疎開の怪談というのは、要するに、情報が遮断された子どもたちが、自力で真実にたどり着こうとした痕跡なのだと思う。
語り継がれた理由
最後に、なぜこれが語り継がれたかを考える。
答えのひとつは、単純に「語れる形だったから」だ。対馬丸のように箝口令が敷かれた出来事は、語れなかった。空襲で家族を焼かれた話も、当事者が生きているうちは口が重い。だが「疎開先の寺で変なものを見た」は語れる。怖い話という体裁をとれば、笑いながら話せる。合いの手も入れられる。
つまり怪談は、語りにくい経験のための言い訳として機能した。あの寺は怖かったんだよ、と言うとき、その人は同時に、あそこで飢えていたこと、いじめられたこと、母が死んだことを話している。怪談は輸送手段だ。中身は別物だ。
もうひとつは、加害の記憶を薄めるのに都合がよかった、という身も蓋もない理由もあると思う。疎開っ子をいじめた側、飯を減らした側、罰を与えた側にとって、「あの時代は怖かったね」というトーンで話を丸めるのは楽だ。幽霊のせいにすれば、人間の話をしなくて済む。
そしてもうひとつ、いちばん大事だと思う理由。
死んだ子どもに名前を返すため、だ。
疎開先で病死した子は、公式には統計の一行にしかならない。空襲で家族ごと死んだ子は、名簿の中の名前になる。だが怪談の中では、その子は今夜も本堂の三つ目の布団に寝ていて、朝方に肩を叩いて、まだかえらないの、と聞いてくる。役割を持って、動いて、喋る。
死者に喋らせるのは、生きている側の勝手な都合だ。それは間違いない。だが、この八十年、疎開の子どもたちを喋らせ続けてきたのは、教科書ではなく怪談のほうだった。
夜、灯を消して、天井の高い暗い部屋で、誰かが小さい声で言う。前にここで寝てた子がさ。
そこから先を、まだ誰かが続けている。
見る側と見られる側は、いつ入れ替わってもおかしくなかった
ここからは、本編で流したところを掘り直す。数字の背景、語りの構造、そして戦後の受け止め方の変遷まで、もう一段深く踏み込んでおきたい。
まず制度の話をきちんと整理する。学童疎開は一本の法令で一気に始まったわけではない。段階がある。一九四三年十二月二十一日の「都市疎開実施要綱」が出発点で、これは主に建物疎開と人口疎開の話であり、子ども単独の話ではない。子どもを名指しした最初の大きな枠組みが、一九四四年六月三十日の「学童疎開促進要綱」である。ここで縁故疎開を第一に、集団疎開を第二に据える二段構えができた。そして一九四五年三月九日の「学童疎開強化要綱」で対象が拡大され、初等科三年以上は原則全員という段階に入る。この三段階を押さえておくと、体験者の証言の食い違いがかなり解ける。私は最初から集団疎開だった、という人と、最初は親戚の家にいて途中から寺に移った、という人が両方いるのは、制度が動いたからだ。
縁故疎開のほうが幸福だったとは限らない、という点も書いておく必要がある。むしろ縁故疎開のほうがきつかった、という証言はかなり多い。集団疎開なら同じ境遇の仲間がいるが、縁故疎開は親戚の家に一人で放り込まれる。そこは食糧が足りない家であり、突然増えた口をどう扱うかで空気が変わる。歓迎されないまま何年も居候する子どもの心細さは、集団のそれとは質が違う。学校を移るので友達もいない。方言が違えば喋れない。実の親戚から余計者の扱いを受けた記憶は、後々まで尾を引く。集団疎開の記録が大量に残っている一方、縁故疎開の記録が薄いのは、集団疎開が学校の行事として文書に残ったのに対し、縁故疎開が私事として処理されたからだ。史料の偏りには、この構造がある。
配置先の格差についても触れておきたい。どの学校がどこに行くかは、県の割り当てである程度決まるが、具体的にどの宿舎に入るかは、校長や保護者の人脈に左右された面がある。豊かな寺、広い旅館、食糧を融通できる地主の家に入った学校もあれば、隙間風の吹く分教場に押し込まれた学校もあった。同じ市内の隣の学校が驚くほど恵まれていた、という話は珍しくない。この格差が戦後の証言の温度差を生んでいる。疎開は楽しかったと語る人が確かにいるのは、嘘でも美化でもなく、実際にそういう宿舎があったからだ。相撲大会をやり、盆踊りをやり、天竜峡に遠足に行った記録が写真つきで残っている宿舎もある。地元の人が芋を持ってきてくれた、という話も本当だ。
だから疎開の語りは、常に二重になる。楽しかった記憶と、飢えの記憶が、同じ人の中に矛盾なく同居する。人間の記憶はそういうふうにできている。怪談が挟まるのは、たいていこの二つの層の隙間だ。楽しかった昼と、耐えられなかった夜。その落差そのものが、怪談の駆動力になっている。
引率教師の立場についても、もう少し書きたい。集団疎開の宿舎には、訓導と呼ばれた教師と、寮母が配置された。教師は授業をやり、食糧を調達し、地元と交渉し、児童の健康を管理し、親への報告を書き、規律を維持した。夜は交代で寝ずの番をした。空襲警報が鳴れば、暗闇の中で子どもを起こして山に逃がした。医者がいない土地で、麻疹の子を看病した。そして子どもが死ねば、火葬に立ち会い、骨を抱えた。
彼らの多くは二十代である。二十代の人間が、他人の子どもを数十人預かって、一年以上、逃げ場のない環境で命を預かっていた。当時の教師の手記には、自分の判断が子どもの生死を分けたという記述が何度も出てくる。あの日、あの子を医者に連れて行かなかった。あの子を東京に帰さなければ空襲に遭わなかった。そういう後悔が、戦後何十年も残る。
先に触れた、旧校舎で教師の霊が死んだ生徒に授業をしているという怪談は、だから怪談以上のものだと思う。あれは戦後を生きた教師たちの内面の外部化だ。誰かが夢に見て、誰かが語って、誰かが子どもに伝えた。話の出所をたどれば、たぶん本当に眠れなかった人がいる。
食糧の数字にも補足を入れておく。一日二合から三合というのは、当時の成人の配給水準に近い。子どもの配給はもっと少ない。しかも二合というのは玄米や麦や大豆を含んだ換算値で、実際に米が二合出たわけではない。大豆九割五分の飯という証言が示すのはそういうことだ。加えて、宿舎の食糧は地元の農村から現物で調達する部分が大きく、天候と収穫に直結した。凶作の年には子どもの椀が先に減った。地元の農家からすれば、自分たちの子どもも食わせなければならない。善意だけでは限界がある。
そして、この食糧事情が盗みを生んだ。畑の芋を掘る、柿を取る、鶏の卵を取る。見つかれば大問題になる。宿舎の教師は謝りに行く。地元の評判が落ちる。そこから、疎開っ子は泥棒だ、というレッテルが生まれる。レッテルが貼られると、次の盗みは全員の責任になる。この悪循環は、飢えが原因なのに、いつのまにか道徳の問題にすり替えられた。当時の子どもたちが背負わされた恥の感覚は、戦後もかなり長く残ったはずだ。
疎開児童のいじめについて、加害側の証言が残っている例が少ないのは重要な事実だ。七十年後に謝りに来た人の話が記事になるのは、それが例外的だからである。ほとんどの加害は、加害として認識されないまま老いていった。疎開っ子という呼称そのものが差別語として機能していたことも、言った側は忘れる。言われた側だけが覚えている。この非対称は、いじめ一般の性質そのものだが、戦時下という状況がそれを見えなくした。全員が不幸だったのだから、と言えば、個別の加害は溶ける。
戦後の語り直しの流れを、もう少し細かく追う。一九五〇年代から六〇年代にかけて、疎開体験は主に戦争の悲惨さを伝える教育的な語りとして流通した。学校の平和教育の教材になり、体験者が講堂で話をした。この段階の語りは、目的がはっきりしている。二度と繰り返さないため、である。だから怪談的な要素は削られた。教育の場で幽霊の話はできない。
七〇年代から八〇年代にかけて、児童文学の分野で疎開ものが厚くなる。高木敏子の『ガラスのうさぎ』が一九七七年に出て広く読まれ、野坂昭如の『火垂るの墓』が一九六七年の直木賞受賞作を経て、一九八八年に高畑勲の手でアニメーション映画になった。『火垂るの墓』は正確には集団疎開の話ではなく縁故疎開の話だが、親戚の家で居場所を失っていく過程の描写は、縁故疎開の証言と驚くほど一致している。あの叔母は特別に冷酷なのではなく、あの時代の食糧事情の中では珍しくない反応だった、という読み方が近年は広がっている。それはそれで、また別種の怖さがある。
そして八〇年代末から九〇年代にかけて、松谷みよ子の『現代民話考』シリーズと常光徹の『学校の怪談』が、疎開を含む戦争の記憶を、民話と怪談のフォーマットで拾い上げた。この二つの仕事の意味は大きい。教育的な語りが拾えなかった部分、つまり理屈にならない記憶を、そのまま記録として残したからだ。あの寺は怖かった、夜に足音がした、人数が合わなかった。これらは平和教育の教材にはならないが、確かに体験の一部である。
現代の反応についても書いておく。近年、疎開の怪談がネット上で語られるとき、反応は大きく三つに割れる。ひとつは怖いという素直な反応。ひとつは、こんなことが実際にあったのか、という史実側への驚き。そしてもうひとつが、亡くなった人を娯楽にするな、という反発だ。
三つ目の反応は年々強くなっている。これは日本社会全体の傾向で、東日本大震災以降、実際の死者が絡む怪異譚の扱い方に対する感覚が明確に変わった。被災地でのタクシーの幽霊譚が学術的に記録され、真面目な議論の対象になったのは象徴的な出来事だった。あのとき多くの人が気づいたのは、幽霊の話をすることが、死者を軽んじることとは限らない、ということだ。むしろ、死者について語る語彙を失った社会で、怪談だけが死者を主語にできる形式として残っていた。
疎開の怪談も、同じ枠で捉え直せると思う。史実を粗末に扱う語りはよくない。地名を面白半分に晒すのも、跡地に無断で立ち入るのも論外だ。だが、あの寺の暗がりで子どもが何を見たかを、怖い話として語り継ぐこと自体は、たぶん供養の一種として機能している。少なくとも、忘れることよりはましだ。
もうひとつ、深く考えたいことがある。疎開の怪談の主人公は、ほぼ例外なく見る側の子どもだ。生き延びた側である。そして幽霊になるのは、死んだ側の子どもだ。この配役は固定されている。
だが実際には、見る側と見られる側は、いつ入れ替わってもおかしくなかった。麻疹が誰にうつるかは運だ。東京の家が焼けるかどうかも運だ。三月十日に自分の家の区画が燃えたか、隣の区画が燃えたか。八月二十二日に乗った船が対馬丸だったか、同じ船団の別の船だったか。生死を分けたのは、本人の努力でも運命でもなく、ただの割り振りである。
疎開経験者の多くが、戦後ずっと抱えていたのはこの感覚だと思う。なぜ自分が残ったのか、という問い。それに答えはない。答えがない問いを抱えた人が、夜、天井の高い部屋を思い出して、あそこには一人多かった、と語る。その一人は、いなくなった誰かであると同時に、そこにいたかもしれない自分でもある。
最後に、数字を並べ直しておく。学童疎開促進要綱の閣議決定が一九四四年六月三十日。集団疎開第一陣の出発が同年八月四日。対馬丸の撃沈が八月二十二日夜、犠牲者千四百八十四人、うち十五歳以下が千四十人。東南海地震が十二月七日、三河地震が翌一九四五年一月十三日。東京大空襲が三月十日、その前日の三月九日に学童疎開強化要綱が閣議決定。集団疎開児童は最盛期で四十五万人規模、終戦時点でなお五万人以上が宿舎に残っていた。帰京が本格化したのは秋以降で、事務的な疎開の解消は一九四六年三月三十一日まで持ち越された。つまり戦争が終わってからも、半年以上、寺で寝ていた子どもがいる。
その半年、彼らは何を待っていたのか。迎えである。
来た子と、来なかった子がいた。来なかった子のことを、僕らは名前でなく戦災孤児という言葉で呼んできた。全国で十二万人前後と言われる。上野の地下道で冬を越した子どもたちの写真は、いまも残っている。
疎開の怪談を最後まで読んだあとに残るのは、幽霊の怖さではないと思う。残るのは、暗い本堂に並んだ布団の列と、そのうちの何組かに、もう戻ってこない子が寝ていた、という事実のほうだ。
夜の点呼で人数が一人多いのは、たぶん、そういうことなのだ。
数え直せば合う。合ってしまう。
合ってしまうことが、いちばん怖い。
