十二月に入ると、教室の言葉づかいが変わる。
これは比喩じゃない。実際に変わる。冬休み前の三年生の教室に入ると、生徒たちの語彙から、ある単語群がごっそり抜け落ちているのがわかる。
「すべる」が消える。「落ちる」が消える。「転ぶ」も「散る」も消える。消しゴムが机から落下しても、誰も「落ちた」と言わない。「あ、下いった」とか「拾って」とか、妙に回りくどい言い方になる。廊下が濡れていても「すべるから気をつけて」とは言わない。「ここ、危ないよ」で済ませる。
面白いのは、これを誰も命令していないことだ。学級会で決議したわけでもないし、担任が黒板に禁止語を書き出したわけでもない。それなのに、十一月末から二月末までの三か月間だけ、日本中の受験生の周囲に、目に見えない言葉の結界が張られる。
そして三月を過ぎると、何事もなかったように結界は解ける。四月の教室では、みんな平気で「すべった」「落ちた」と言っている。
期間限定の禁忌。それが受験のジンクスの正体だ。
これから、その結界の中身を端から端まで掘り返す。何を言ってはいけないのか。なぜ答案に「四」を書いてはいけないと囁かれるのか。四当五落という昭和最大の受験神話は誰が言い出したのか。合格祈願の絵馬はどう書くのが作法で、そもそもなぜ「馬」なのか。学問の神様は、もともと都を焼き払った怨霊だった――その転身はどう起きたのか。鉄道会社が本気で配っている「すべらない砂」は何の砂なのか。そして、キットカットはいつ、誰の手によって受験のお守りになったのか。
さらに、受験期にだけ語られる四つの怪異を、それぞれ独立した読み物として厚く語る。試験会場で最後まで埋まらない隣の席。模試の成績表に紛れ込む知らない名前。絵馬掛けの前に立ちつくす制服の影。そして、掲示板で自分の番号を見つけて帰ったのに、実は不合格だった受験生の話。
先に断っておく。四当五落については、この記事は明確に否定の立場を取る。睡眠を削るのは合格に近づく行為ではない。むしろ確実に遠ざかる行為だ。その根拠は後半でみっちり書く。ジンクスは楽しんでいい。でも、体を削るタイプの「神話」だけは、笑って捨てていい。
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言ってはいけない言葉の一覧が、想像よりずっと長い
まず、言葉の禁忌から。
受験期に避けられる言葉は、贈答マナーの世界では「受験激励時における忌み言葉」という名前で整理されている。マナー実務のサイトが列挙している定番は、「滑る」「落ちる」「散る」「転ぶ」。ここまでは誰でも思いつく。
だがリストはもっと長い。「消える」「崩れる」「壊れる」「破れる」「敗れる」。ここまで来ると、日常会話がだいぶ不自由になる。
激励の手紙や祝電を書くときは、こうした語を避け、不吉な事象を連想させない同義語に置き換えるのが定石とされる。「頑張って落ち着いて」の「落ち」まで気にする人がいる。実際、企業が受験生向けに出す文面では「落ち着いて」を「平常心で」に直す例がある。ここまで来ると呪術ではなく校閲の領域だ。
この禁忌の背骨にあるのは言霊信仰である。声に出した言葉には霊的な力が宿り、良い言葉を口にすれば良いことが、悪い言葉を口にすれば悪いことが起こる。日本の民俗信仰の中核にある考え方で、結婚式で「別れる」「切れる」「終わる」を避けるのと構造はまったく同じだ。祝儀の場で避ける語を「忌み言葉」と呼ぶが、受験はいつのまにか、慶事と同格の「言葉を選ぶ場」に格上げされている。
ただ、精神分析の側からはこれを面白がる視線もある。
精神科医のきたやまおさむは、二〇一九年の講談社の媒体に寄せた文章で、受験生に「落ちる」は禁物、結婚式で「別れる」は禁物、という状況を「言葉が意味と強く結びつきすぎて窮屈になっている」と評した。そして、あえて「ロンドン橋落ちた、落ちた」と歌ってみせれば、かえって受験生はリラックスできるかもしれない、という笑い話を書いている。記号と意味の硬直したつながりをわざと緩めて遊ぶ、という発想だ。これは禁忌の裏側を突いた見方として、かなり鋭い。
「すべる」の反対語は「粘る」。だから納豆が縁起物になる
言ってはいけない語があるということは、言うべき語もある、ということだ。禁忌は必ず対になる推奨を生む。
受験期の食卓で「粘るもの」が推奨されるのはその典型で、納豆、餅、とろろ、山芋といった粘着質の食材が縁起物に格上げされる。「粘る」は「すべる」の反対概念として設計されている。
逆にバナナは避けられる。皮ですべるからだ。ゼリーやところてん、つるつるした麺類を試験前日に食べるのを嫌がる家庭もある。うどんは「うまくいく」の語呂で推奨される場合と、つるつるすべるから駄目という場合の両方があって、地域と家庭で判定が割れる。この揺れ自体が、ジンクスが中央管理されていない証拠として面白い。
服装にも波及する。つるつるした素材、光沢のあるナイロン、化繊のスキーウェア風のジャンパーを避けて、当日はウールやコットンにするという受験生がいる。滑り止め付きの手袋を「お守り」として持つ子もいる。ここまで来ると語呂合わせの物質化で、あとで触れる「すべらない砂」の商業展開と地続きだ。
「転ぶ」の一族――所作の禁忌と、お守りの反転
「転ぶ」まわりの禁忌には、独立して語られるべき派生がいくつもある。
まず、受験当日に転ぶと落ちる、というやつ。これは行為そのものを凶兆と読む型で、言葉の禁忌ではなく所作の禁忌に近い。だから受験生は雪の日に極端に慎重になる。試験会場までの道で一度でも足を滑らせたら、その時点で心が折れかける子がいる。
実際には雪道で転ぶ確率と合否には何の関係もない。だが当日の心理状態には直撃する。「転ばないように早めに出る」という現実的な対策が、いつのまにか「転ばないことが合格の条件」という因果のすり替えに化ける。
次に、鉛筆やシャープペンを落とすと落ちる、という型。試験中に筆記具を落とすのは不吉だとされ、だから予備を多めに持ち、机の縁に転がりにくい六角形や五角形の軸を選ぶ。
五角形の鉛筆が「五角=合格」として商品化されているのは有名だ。そもそも五角形の軸は転がりにくいという実用上の理由がある。実用と語呂が偶然一致した好例で、こういう「たまたま両方成り立つ」ジンクスは異様に長生きする。
三つ目に、受験票やお守りを落とすと落ちる、という型。これはさらに切実で、当日の朝に神社のお守りが鞄から出てこないと知った瞬間に泣き出す受験生が毎年いる。ミサンガを結んでいて、それが試験前に切れてしまい、パニックになる例も現場ではよく聞く。
願掛けアイテムには「壊れる」「切れる」「失う」というリスクが常に付随していて、その瞬間にジンクスは支えから重石に反転する。学習塾の指導現場で「お守りを大量にぶら下げるのはやめておけ」と言われるのは、精神論ではなく、この反転を経験的に知っているからだ。
四つ目、これは大人側の禁忌になるが、受験生の前で他人の不合格の話をしない、という暗黙のルール。親戚の子が落ちたらしい、という情報を家庭内で流通させない。
これは言霊というより、伝染を避ける発想に近い。不運は移る、という感覚だ。忌み言葉が個人の口から出る音の管理だとすれば、こちらは家庭という場の空気の管理で、レイヤーが一つ上にある。
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答案に「四」と書きたくない――その感覚、実は意外と新しい
もう一つ、受験期に発動する禁忌がある。数の禁忌だ。
答案の記述欄に「四」という漢数字を書きたくない。選択肢の四番を選びたくない。受験番号の下二桁が四だとげんなりする。座席番号が四だと気持ちが沈む。この感覚には、日本の忌み数の伝統がまるごと乗っかっている。
日本では四は「死」に、九は「苦」に通じるとして忌まれる。これは漢字文化圏に広く共有された感覚で、中国語でも「四」は「死」ときわめて近い音になるため避けられ、十四は「実死」、二十四は「易死」に通じるとされる。韓国でも同様で、病院や集合住宅で四階を飛ばす、エレベーターのボタンで四をアルファベット表記に置き換える、といった対応が見られる。仁川国際空港には四番ゲートと四十四番ゲートがない。
日本国内の実例も豊富だ。ホテル、病院、マンションの部屋番号で四が付く号室を欠番にする。駐車場の区画番号で四と九を飛ばす。大阪府咲洲庁舎は五十五階建てだが四十二階が存在しない。自動車のナンバープレートでは、下二桁の四十二(死に)と四十九(死苦、あるいは轢く)が、一般の希望番号として使えないよう制度上除外されている。兵庫県で病院行きのバスのナンバーが四十二で始まっていたことが問題視され、番号変更が行われた事例まである。
ここで一つ、重要な但し書きを入れておきたい。この四への忌避は、意外と新しい。
シンクタンクのニッセイ基礎研究所が二〇二二年に出した論考では、古来の日本や神道には四を忌む考え方はなかったようだ、と指摘されている。
出雲大社の参拝作法は二礼四拍手一礼で、四回柏手を打つ。おせちの重箱は正式には四段重が基本だ。ただしこの場合、上から一の重、二の重、三の重ときて、四段目は「与の重(よのじゅう)」と呼ぶ。「四」を「し」と読むのを避けて「よ」と読む習慣は平安時代にはすでにあったとされ、つまり数そのものではなく、「し」という音を避ける音韻の忌避だった。数字を丸ごと欠番にするような強い忌避は、もっと後の時代の、しかも都市生活の中で強化された感覚に見える。
だからこそ、答案に四を書かない、という禁忌は妙に生々しい。千年前から続く因習ではなく、近代日本の建物と番号管理の中で育った感覚が、そのまま受験という場に流し込まれている。
受験番号は連番でしかないのに、みんな「引いた」と感じる
数の禁忌にも派生がある。
まず、受験番号の四と九を凶、一と七を吉とする型。SNSでは毎年、受験番号の下二桁を晒して吉凶を語り合う投稿が発生する。
実際には受験番号は出願順の連番でしかなく、志願者数で機械的に決まる。だが受験生はそれを「引いた」と感じる。抽選に近い体験として受け取ってしまうところに、この禁忌の面白さがある。
次に、鉛筆の硬度に関する型。マークシートの標準はHBだが、「HBは半端(はんぱ)を連想させるから駄目」で、Bや2Bのほうが「ビクトリー」「倍勝つ」で縁起がいい、という言い分がある。
これは完全に近年の語呂遊びだ。しかも実務面ではマークの濃さという合理的な議論と絡まっているせいで、真顔で信じる子が出る。読み取り機の精度の話と語呂の話が同じ土俵で議論されていて、その混線ぶりが現代のジンクスらしい。
三つ目に、答案に四を書かざるを得ないときの回避作法。数字の四を書くとき、あえて「4」と算用数字にする、あるいは「よん」と読み下すつもりで書く、という自己流の儀式を持つ受験生がいる。
これは平安時代の「与の重」の発想と構造が同じで、千年の時間を飛び越えて同じ回避策に到達しているのが面白い。誰も教えていないのに、同じ形が再発明される。俗信の設計図には、けっこう強い再現性がある。
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四当五落の「当」は、選挙の裏金の「当」だった
さて、本丸に行く。
四当五落(しとうごらく、よんとうごらく)。睡眠時間を四時間に削って勉強すれば合格し、五時間眠る者は落ちる。半世紀以上にわたって受験の世界で語られてきた標語で、たぶん日本の受験文化が生んだ最も有名で、最も有害なフレーズだ。
まず出自から。ここが一番面白い。
四字熟語に詳しいフリーライターの円満字二郎が二〇二〇年に公益財団法人日本漢字能力検定協会の媒体に寄せた記事で、この語の構造をきれいに解いている。
円満字は長年、腑に落ちない点を抱えていた。「落」は試験に落ちるでいいとして、「当」は何なのか。合格なら「四受五落」や「四合五落」であるはずだ。なぜ「当」なのか。
答えは、選挙だった。
朝日新聞の天声人語によれば、一九七四年の参議院選挙の際、「十当七落」ということが言われた。選挙資金として十億円あれば当選、七億円しか出せなければ落選、という意味だ。
この「◯当◯落」という言い回しには戦前から用例があり、一九三〇年代のある新聞には「五当三落」が見つかる。当時の相場は五万円なら当選、三万円だと落選。戦後、一九四〇年代の終わりには「二当一落」。これは相場が下がったのではなく、インフレで貨幣価値が激変したためで、二億円なら当選、一億円は落選という意味だった。一九六〇年代初めには「三当二落」、やがて「五当四落」を経て、七〇年代半ばには十億円規模の話になる。
つまり「当」は当選の当だった。四当五落とは、選挙のカネの相場を語る定型句を、受験生の睡眠時間に置き換えたパロディだったのである。
そして受験の側の初出時期。円満字の調査では、受験生の睡眠時間について言われる「◯当◯落」は、一九五〇年代の終わりごろから用例が見られる。時に「三当二落」という過激な派生も現れるが、基本は四当五落で一定している。睡眠時間は削ろうにも限界があるようだ、と円満字は皮肉っぽく書いていて、この一文がなかなか効いている。
もう一つ、この語の正体を示す決定的な事実がある。
岩波書店によれば、四当五落は広辞苑には一九五五年の初版から最新版まで一度も掲載されていない。あれだけ全国民が知っている言葉なのに、日本を代表する国語辞典に一度も採録されていないのだ。
俗語として広く流通しながら、辞書的な正統性を一切得ていない「幻の言葉」。この宙ぶらりんな位置づけが、四当五落が「教育制度の公式見解」ではなく「受験共同体の内輪の合言葉」だったことを、何より雄弁に語っている。
用例の記録としては、一九七七年の漫画『ぼくは浪人童貞パパ』に、二浪生が大学生の姉に叩き起こされて「いつまでねてんの、四当五落は浪人もおなじよ」と言われる場面がある。七〇年代半ばには、すでに家庭内で冗談まじりに口にされるほど浸透していたことがわかる。
名門校の教室では、それが本気で運用されていた
四当五落が単なる俗語ではなく、実際の指導現場で運用されていた記録も残っている。
教育ジャーナリストの小林哲夫は、二〇二二年にプレジデントオンラインに寄せた記事で、各都道府県の「旧制第一中学」と呼ばれる名門公立高校で、一九八〇年代まで苛烈な受験指導が行われていた実態を紹介している。平日の授業時間は八時間、宿題は山のよう、睡眠時間は四時間以下が当たり前で、まさに「四当五落」と言われていた。
具体的な証言もある。『青山百年史』(一九九二年)には、入学してまず驚いたのは「君たちは四時間寝れば十分」という教師の一言だった、という卒業生の回想が収録されている。日比谷高校に追いつけ追い越せの雰囲気で、英語の授業中は一言も日本語がなかった。中学までは自信があった彼女も、一年間はまごつき、午前二時前に寝たことはなかったという。
これは精神論の記録であると同時に、時代の記録でもある。ベビーブーマーが大学受験を迎えた時期、受験競争は今よりはるかに苛烈だった。四当五落は一九五〇年代半ばごろから都市伝説のように伝わり、七〇年代から八〇年代にかけて全盛期を迎える。
小林は記事の中で、いま大学受験の勉強で四当五落を推奨する教員はどこにもいないだろう、と書いている。過去形で語れるようになったこと自体が、この半世紀の変化だ。
三当二落、六当五落、そしてナポレオンの伝説
四当五落には派生形がいくつもある。
過激版の「三当二落」は、円満字の調査で用例が確認されている。三時間睡眠で合格、二時間なら落ちる。理屈としては破綻していて、削れば削るほどいいという発想の暴走の果てにある数字だ。ここまで来ると根性論ですらなく、単なる自傷の推奨で、当然ながら何の根拠もない。
反対方向の派生が「六当五落」だ。これは二〇〇〇年代以降、四当五落へのアンチテーゼとして流通し始めた言い換えで、六時間眠った者が受かる、という意味になる。近年の難関大合格者の睡眠時間を調べた調査では、受験直前期でもおおむね六時間以上を確保しているという結果が複数ある。
四当五落を否定するために、あえて同じ形式で言い返したところに、この標語のしぶとさが表れている。フォーマットだけが生き残って、中身だけが入れ替わったわけだ。
もう一つ、四当五落と並走してきたのが「一夜漬け」の神話と、「ナポレオンは三時間しか眠らなかった」という逸話だ。短眠の偉人譚を持ち出して短眠を美徳化する語りは、四当五落とセットで語られてきた。
ちなみにナポレオンの睡眠時間については史料的な裏づけが乏しく、昼寝を含めれば相当量眠っていたという説も根強い。伝説を根拠にした精神論を、さらに伝説で補強する構図になっている。
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科学の答えは「効果がない」ではなく「逆である」
ここは強調して書く。
四当五落には医学的根拠が一切ない。これは「まだ証明されていない」という話ではなく、「繰り返し否定されてきた」という話だ。しかも否定の方向は、単に効果がないという生ぬるいものではなく、真逆に働くという厳しいものである。
順を追う。
まず、公的な推奨から。厚生労働省の『健康づくりのための睡眠ガイド2023』は、こどもの睡眠についてはっきり書いている。米国睡眠医学会の推奨に基づき、小学生は九時間から十二時間、中学生と高校生は八時間から十時間の睡眠時間を確保することを推奨する、と。
同ガイドは、睡眠時間が不足することで、肥満のリスクが高くなること、抑うつ傾向が強くなること、学業成績が低下すること、幸福感や生活の質が低下することが報告されている、とも明記している。米国の国立睡眠財団も、十四歳から十七歳に望ましい睡眠時間を八時間から十時間としている。
四時間は、この推奨の半分以下だ。
次に、日本国内の実証研究。東京大学大学院教育学研究科の佐々木司教授らが、東京都医学総合研究所、高知大学医学部と共同で、三重県と高知県の中高生約二万人を対象に行った質問紙調査の解析がある。この研究は、心の健康を維持するために中高生に推奨すべき夜間睡眠の具体的な時間数を、調査データから直接導き出した初めての研究とされる。
結果は明快だ。男子では中高生とも睡眠八・五時間から九・五時間の群で「うつ・不安」のリスクが最も小さかった。より詳細な解析では、中学生で八・八時間、高校生で八・五時間の生徒が最も低い。そして重要な点として、中高、男女ともに、平日夜間の睡眠が七・五時間未満の生徒では、うつ・不安のスコアが基準群より有意に高かった。
七・五時間未満で、すでに有意にリスクが上がる。四時間は論外である。
三つ目、文部科学省の大規模調査。文科省は平成二十六年度に、小学五年生から高校三年生までを対象に、初の二万人規模となる全国調査を実施している。有効回収数は二万三千百三十九票。
この調査では、学校がある日とない日で起床時刻が二時間以上ずれることがあるほど、授業中に眠くて仕方がない割合が高くなること、なんでもないのにイライラする割合が高くなることが示されている。高校生では、寝る時刻が二時間以上ずれることが「よくある」生徒のうち、五三・八パーセントが授業中に眠くて仕方がないことが「よくある」と回答している。
文科省が中高生向けに作った普及啓発資料は、もっと直接的だ。「試験前日はなるべく遅くまで眠らないで勉強した方がよい」という設問を立てて、それを明確に否定している。
記憶の整理と定着を行うレム睡眠は、ノンレム睡眠をしっかり取った後に多く出現する。したがって試験前日だけではなく、日頃から十分な睡眠時間を確保することで、記憶の定着が図られる。記憶した後に起きている場合と、記憶した直後に睡眠を取った場合を比べると、直後に睡眠を取った場合のほうが覚えたことを忘れにくくなる、という調査結果も紹介されている。
さらに、睡眠不足は脳の前頭前野の機能を低下させ、やる気や感情をコントロールする力を落とすこと、睡眠時間を十分に取っている子どもは、短い子どもに比べて海馬の体積が大きいことも書かれている。
つまり、睡眠を削るという行為は、覚える力を落とし、覚えた分を固定する工程を損ない、そのうえ試験当日の注意力とワーキングメモリを直撃する。三重の損失だ。睡眠は勉強時間を増やすために削る余白ではなく、記憶を作る工程そのものなのである。
四当五落は、科学的に「効果がない」のではない。「逆である」。この記事の立場は、はっきりそれだ。削るべきは睡眠ではない。削るべきは、読み返すだけ、まとめるだけ、手応えだけに頼る効率の悪い勉強法のほうだ。
ついでに言っておくと、四当五落の唯一の効用があるとすれば、それは「頑張る気持ちにさせる」という自己暗示の部分だけである。実際、過去の調査では、四当五落について「言いがかりでしかない」と否定する人がいる一方で、「頑張る気持ちにさせる」と評価する声もあった。
だが、気持ちを高めるために体を壊す必要はどこにもない。同じ効果は、机の前に座る前の深呼吸ひとつでも得られる。
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髪を切らない、爪を切らない――これは千年前の作法の子孫だ
言葉と数の次は、身体の禁忌だ。
試験前に髪を切らない。この禁忌はかなり広く共有されている。理由の説明は人によってばらつく。切ると縁が切れる、運が逃げる、頭を軽くすると知識が抜ける、といったバリエーションがある。同じ系列で「試験前に爪を切らない」も広く語られていて、こちらは験担ぎの一覧に定番項目として挙げられている。
ここで押さえておきたいのは、この種の禁忌が「断ち物(たちもの)」という古い民俗の作法の末裔だという点だ。
断ち物とは、願をかける際に、好きなものを一定期間断つ行為を指す。酒を断つ、茶を断つ、甘い物を断つ。断つことによって願の本気度を神仏に示し、自分の心にも楔を打つ。願いが叶うまで髪を切らない、というのは断ち物のなかでも古典的な型で、受験に限らずスポーツ選手や勝負事の世界に広く見られる。
つまり「試験前に髪を切らない」は、語呂合わせ系の新しいジンクスではなく、願掛けの民俗の直系の子孫である。ここが「キットカット=きっと勝つ」のような戦後の言葉遊びと決定的に違う。同じ受験ジンクスという棚に並んでいても、地層が違うのだ。
もっとも、実務的には逆の判断もある。試験の直前に髪を切ると視界が変わって落ち着かない、という理由で「切らない」派もいれば、当日に髪が目にかかると集中を削がれるから「早めに切る」派もいる。ある時期に試験前日に散髪して合格したから、以後は毎回試験前日に散髪する、という完全な個人ジンクスを持っている人もいる。
個人ジンクスは共同体の禁忌より強力なことがあって、本人にとっては絶対法則として機能する。
ついでに「験を担ぐ」という言葉自体の来歴も押さえておきたい。
本来は「縁起を担ぐ」だった。江戸時代に流行した逆さ言葉で「縁起(えんぎ)」を「ぎえん」と言うようになり、それが徐々に「げん」に変化して「験」の字が当てられた、という説が一般的だ。「縁起」自体は仏教用語で、「因縁生起」の略。すべての存在は因(原因)と縁(条件)によって成り立つ、という考え方が語源にある。
因果の連鎖を重んじる思想から出発した言葉が、江戸の言葉遊びを経て、受験生がカツ丼を食べる行為の名前になっている。この転がり方が、日本の俗信の面白さそのものだ。
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学問の神様は、都に雷を落とした怨霊だった
ここからは信仰史に踏み込む。合格祈願の中心にある天神様が、そもそも何者だったのかという話だ。
菅原道真。承和十二年(八四五年)、文章博士・菅原是善の三男として生まれた。学問の家に生まれ、若くして頭角を現し、三十三歳で文章博士。四十二歳で讃岐守として四国に赴任し、農耕と畜産に尽力した。宇多天皇の信任を得て昇進を重ね、寛平六年(八九四年)には遣唐大使に任命されるが、唐の政情不安を踏まえて遣使の再検討を建議している。醍醐天皇の代、昌泰二年(八九九年)に右大臣兼右近衛大将。
だが昌泰四年(九〇一年)、左大臣藤原時平の讒言により大宰権帥として九州へ左遷され、延喜三年(九〇三年)二月二十五日、失意のうちに大宰府で没した。五十九歳。
ここから、日本史上屈指の怨霊譚が始まる。
死の直後から祟りが始まったわけではない。時系列を追うと、むしろじわじわと恐怖が積み上がっていくのがわかる。
延喜八年(九〇八年)、元門弟の藤原菅根が没する。翌延喜九年(九〇九年)、左遷の張本人である藤原時平が三十九歳で没する。延喜二十三年(九二三年)、皇太子保明親王が薨去。朝廷はこの年、道真を右大臣に復し、正二位を追贈して罪を解いた。しかし災いは止まらない。延長三年(九二五年)、次の皇太子慶頼王がわずか五歳で世を去る。
そして延長八年(九三〇年)六月、決定打が来る。清涼殿落雷事件である。
その日、雨乞いの議が宮中で行われていた。昼過ぎ、墨を流したような真っ黒な雲が京を覆い、激しい雨とともに雷鳴がとどろいた。一時間半ほど過ぎたころ、閃光と轟音とともに清涼殿に雷が落ちた。雷は紫宸殿にも落ち、宮廷内は逃げ惑う公家と女官で大混乱になった。
この落雷で、大納言・藤原清貫が胸に直撃を受けて即死する。
清貫は、ただの犠牲者ではなかった。彼は時平の命を受けて「見舞い」と称して大宰府の道真を訪ね、帰朝後に道真の動静をつぶさに報告した、時平派の人物だったのだ。
この一撃で、雷は道真の意志である、という解釈が決定的になった。道真の霊は雷を操る「火雷天神」とされ、単なる怨霊を超えて、「天満大自在天神」「日本太政威徳天」と称される畏怖の神格へと昇華していく。
鎌倉時代の『北野天神縁起絵巻』では、道真の霊が雷神と化し、鬼の姿で清涼殿を襲う場面が絵巻の白眉として描かれた。北野天満宮に伝わる国宝の承久本は、縦五十二センチという現存する日本の絵巻として最大級の画面高を誇り、全巻を合わせた長さは八十メートルを超える。中央に黒雲と雷神を配し、その左右に逃げ惑う公家を描いた巻六の構図は、日本絵画史でも屈指の緊迫感を持つ。
祟る霊を、退治せずに祀って味方にする
祟る霊をどうするか。日本の答えは独特だった。排除するのではなく、神として祀りあげ、その力を都の守りに変える。御霊信仰と呼ばれる発想である。
天慶五年(九四二年)、右京七条二坊十三町に住む多治比文子(たじひのあやこ)という女性のもとに、道真からの託宣が下る。我が魂を右近馬場に祀れ、と。文子は身分が低かったため大がかりな社は建てられず、自宅近くに小さな祠を建てて御霊を祀った。これが北野天満宮の起源とされる。
その後、近江国比良宮の禰宜・神良種の息子にも同様の託宣があり、天暦元年(九四七年)、良種と文子は朝日寺の最鎮の協力を得て、北野の地に社を造り御霊を移した。
北野が選ばれたのには理由がある。この地にはもともと、平安京の西北・天門の鎮めとして火雷神という地主神が祀られていた。雷を司る神を祀る土地だったのだ。雷神と化した道真の霊を鎮めるには、これ以上ない適地だった。
一方、道真が没した大宰府には、醍醐天皇の勅命により藤原仲平が建立した安楽寺廟があり、これが後の太宰府天満宮となる。道真の随行者だった味酒安行(うまさけのやすゆき)に託宣が下り、埋葬地の上に御殿を建てて「天満大自在天神」と称した、という伝承も残る。
北野と太宰府はそれぞれ独立に創建されたもので、どちらかがどちらかから勧請を受けた関係ではない。だから北野は「総本社」、太宰府は「総本宮」と呼称し、太宰府は「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。この呼称の微妙な使い分けには、千年分の由緒争いが凝縮されていて味わい深い。
九四九年には、難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話から、勅命により大阪天満宮が建立される。九八七年には「北野天満宮天神」の勅号が下る。正暦四年(九九三年)、贈正一位・太政大臣が追贈され、道真の名誉は完全に回復した。
雷神を学問神に変えたのは、江戸の寺子屋だった
では、いつ学問の神になったのか。
これは緩やかな移行だった。平安末期から鎌倉期にかけて、怨霊として恐れられることは少なくなっていく。この頃に描かれた『天神縁起』では、道真は慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌や連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神として描かれる。
貿易商からは海難除けの神として、武将たちからは怨敵調伏・戦勝祈願・王城鎮護の神として信仰された。北野天満宮でも活動した出雲阿国の舞踊が、のちに歌舞伎へ発展したことも知られている。学問だけでなく、あらゆる方面に霊験が拡張されていったのだ。
学問の神としての庶民的な定着は、はるかに下って江戸時代、寺子屋の普及とともに訪れる。卓越した学者だった道真の生前の姿が手習いの場に掲げられ、読み書きと学問の守り神として、天神は雷神の畏れを脱いで全国の天満宮へ広がっていった。寺子屋には天満宮の分霊が祀られ、子どもたちは天神様の前で文字を習った。
今日の合格祈願の直系の祖先は、雷でも怨霊でもなく、江戸の寺子屋の風景である。
現在、道真を祀る神社は天満宮、天満神社、天神社、菅原神社などの名称で全国におよそ一万二千社。分社の数としては全国第三位にあたる。道真の誕生日が六月二十五日、命日が二月二十五日と、ともに二十五日であったことから、多くの天満宮で毎月二十五日が例祭日になっている。旧暦一月二十五日を「始め天神」、十二月二十五日を「終い天神」と呼ぶ習慣は、新暦に移行した現在も残っている。
牛が神使とされているのも天神信仰の特徴だ。道真の誕生が丑年の乙丑の日だったこと、亡くなった日も丑の日であったこと、牛の鳴き声で刺客から逃れたという逸話、遺言に従って轜車を牛に任せたところ都府楼の北東(丑寅)の方角に停まったという逸話など、複数の因縁譚が伝わる。境内の撫で牛の頭を撫でて自分の頭を撫でる作法は、こうした背景の上に成立している。
東京の湯島天満宮も押さえておこう。社伝では雄略天皇二年(四五八年)、勅命により天之手力雄命を祀ったのが始まりで、正平十年(一三五五年)二月に郷民が菅原道真を勧請して合わせ祀った。文明十年(一四七八年)に太田道灌が再建し、天正十八年(一五九〇年)に徳川家康が江戸城に入るとこの社を篤く崇敬、翌年に湯島郷へ朱印地を寄進している。将軍徳川綱吉が湯島聖堂を昌平坂に移すに及び、この地は久しく文教の中心となった。
つまり湯島天神は「もともと道真の社ではなかったところに、後から学問の神が勧請され、江戸幕府の文教政策の中で首都の学問の中心地に育った」という、天満宮としてはやや変わった経歴を持つ。
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絵馬はなぜ木の板なのか――生きた馬が高すぎたからだ
合格祈願の主戦場は絵馬掛けだ。ここも掘る。
絵馬の起源は、神々に本物の馬を献上していた風習にある。古代日本では、神は騎乗した姿で現れるとされ、神輿が登場する以前は、神座の移動には馬が必須と考えられていた。
『常陸国風土記』には崇神天皇の代から神事の際に馬を献上する風習が始まったとあり、奈良時代の『続日本紀』には神の乗り物としての馬、すなわち神馬(しんめ)を奉納した記録がある。祈雨には黒い馬を、止雨には白い馬を、という使い分けもあった。
だが、生きた馬は高い。庶民にはとても手が届かない。
そこで木や紙、土で作った馬の像で代用するようになり、奈良時代からは板に描いた馬の絵が現れる。奈良市の日笠フシンダ遺跡からは、天平十年(七三八年)と記された木簡とともに絵馬が出土している。二〇一三年四月には岡山県の鹿田遺跡から、奈良時代末(八世紀後半)の井戸で二枚の絵馬が見つかり、最古級の絵馬として話題になった。いずれも約二十センチ掛ける十三センチの長方形の板を横長に使い、馬や牛が描かれ、上部に穴が開いていたという。
神社での本格的な奉納の記録としては、貴船神社の例が有名だ。弘仁九年(八一八年)、嵯峨天皇の命により雨乞い祈願が行われた。当時は水害と干害が続き、作物が育たず餓死者が続出する厳しい時代だった。以降、貴船神社では日照りが続くときは黒馬を、長雨のときは白馬または赤馬を献上して天候の安定を願った。やがて生きた馬の代わりに、板を馬の形に切り抜いた「板立馬(いただてうま)」が奉納されるようになり、これが神社の絵馬の起源になったとされる。
つまり絵馬とは、神への捧げものの「民主化」の産物である。高価すぎて奉納できなかった庶民が、代替物を発明し続けた歴史の到達点が、あの五角形の小さな板なのだ。
形にも地域差がある。東日本では五角形(家型)が多く、これはかつて板の上に屋根を付けていた名残とされる。近畿では四角型が主流で、京都では横長の板に額縁のように枠を付けたものが多く、奈良では縁を黒く塗って枠に見せたものが多い。同じ絵馬でも、地域を移動すると形が変わる。
昔の絵馬は、匿名だった
書き方には、実は厳密な決まりがない。ここが重要だ。
一般的な作法として言われているのは、絵柄のない裏面に書くこと。表面に「奉納」と書き添えること。願い事は一枚に一つに絞ること。併願校は書かず、第一志望だけを書くこと。油性ペンを使うこと(雨で滲まないため)。日付を添えること。奉納するときは、願い事の書かれた裏面が手前に見えるように掛けるのが本来の作法とされる。
願い事の文体は「合格しますように」でも「絶対合格する」でもよい。神社に問い合わせても、決まりはない、心を込めて丁寧に書くことが大切、という答えが返ってくる。
ただし神道の祈りは、神への一方的なお願いというより、自らの決意を神前で言葉にする「誓い」の側面を持つ、という指摘は覚えておく価値がある。「勉強を頑張りますので合格できますように」という書き方が推奨されるのは、その構造ゆえだ。書いた言葉が言霊となって、書いた本人の背中を押す。絵馬は神への通信手段であると同時に、自己暗示の装置でもある。
ここで一つ、現代人が驚く事実がある。
かつて、絵馬の奉納は人に見られない時間帯を選んで行われた。そして今日のように実名を記すことはなく、「寅歳女」のように生まれた干支と性別だけを記した。願掛けは極めて私的な行為であり、他人に見られるものではなかったのだ。
これは現在の絵馬掛けの光景と真逆である。
今の絵馬掛けは、他人の願いを読む場になっている。志望校も名前も、下手をすると住所まで書かれている。SNSに絵馬の写真が上げられ、他人の願いが拡散される。二〇〇〇年代半ばからは、個人情報保護のため願い事や氏名の部分にステッカーを貼れる絵馬も登場した。神社側も「名前はイニシャルでも構いません」と案内するところが増えている。
千年をかけて匿名から実名へ移り、そしていま揺り戻しが起きている。この往復運動そのものが、絵馬という道具の現代史だ。
数字も挙げておく。東京の湯島天神には、受験シーズンに膨大な絵馬が奉納される。朝日新聞が二〇一三年一月に報じた時点で約四万枚。近年の記事では受験シーズンに三万枚、あるいは一月から三月にかけて十万枚以上、という数字も出る。絵馬掛け所が満杯になると臨時の掛け所が増設される。神社は一月だけで三十五万人の参拝を見込んでいる。
太宰府天満宮では、全国の受験生から寄せられた願いを縦一・二メートル、横一・八メートルの特大絵馬に集約して奉納する行事があり、二〇二五年二月には約一万七千枚の「願い札」とともに奉納された。
願いは、質量を持つ。あの絵馬掛けの、木と木がぶつかる乾いた音は、その質量の音だ。
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鉄道会社が本気で祈祷した、「すべらない砂」
言葉のジンクスが物質になった、最も見事な例がこれだ。
急勾配を上る列車は、車輪が空転する。それを防ぐために、車輪とレールの間に砂を撒く。これを撒砂(さっさ)といい、蒸気機関車の時代から使われてきた技術だ。この砂の役割はまさに「滑り止め」である。
誰かが気づいた。これ、受験生のお守りになるんじゃないか。
JR西日本の記録が明確だ。関西本線の現業機関で働く若手社員が企画した「受験生応援プロジェクト」は、二〇一二年度に始まっている。近畿圏を走行する一部の列車に搭載され、勾配を走る際に車輪が空回りしないよう滑り止めとして使用している砂を、受験シーズン前に沿線の駅で配る。かつて関西線を走行していた百トン以上の蒸気機関車が斜面を上る際に使っていた砂を使う年もあった。
この企画には、細部に凝った工夫がいくつも仕込まれている。
まず、奈良市内の神社できちんと祈祷を受けている。験担ぎの砂として本物の宗教的手続きを踏んでいるわけだ。次に、前年にご利益があって先輩たちから返却された砂を混ぜ込む、という年がある。合格した先輩の運を後輩に受け渡す、という民俗的な作法がここで発明されている。そして、社員が心を込めて一つずつ手で袋詰めしている。
二〇二五年十一月の発表では、関西本線、和歌山線、万葉まほろば線の八駅で配布され、主要駅は各日五百セット、その他は各日五十セットという規模だった。
同様の取り組みは全国に広がっている。
岩手県のJR釜石駅は二〇〇六年から配布を開始し、駅構内に「合格祈願神社」のコーナーまで設けている。砂は釜石市内の神社でおはらいしたもので、職員が一つずつ袋詰めして千袋を用意し、「合格特急券」と書かれた切符とセットで配る。
北陸エリアでは、山口線を走るSL「やまぐち号」が急勾配を登る時に使う砂を用いたお守りが配られ、駅ごとに名前が違うのが面白い。敦賀駅と小浜駅では「すべらない砂(さ)」、福井駅など四駅では「すべらサンド」、七尾駅と羽咋駅では「踏ん張りサンド」、金沢駅では「踏ん張り砂」。北陸新幹線の糸魚川駅では、高ノ峰トンネル工事の際に採取した「貫通石」が配られる。トンネルを貫通した石だから「難関を突破」というわけだ。
私鉄も参入している。伊豆箱根鉄道は、電気機関車の車輪の空転を防ぐために使う砂を袋詰めし、駿豆線修善寺駅と大雄山線大雄山駅で一個百円で販売している。社員が「受験生が緊張して空回りせず、自分の実力を発揮し、志望校に滑らず合格できるように」と思いを込めて袋詰めした、と広報資料に書かれている。
砂は鉄道だけの専売特許でもない。羽田空港では全日空が、飛行機の整備でネジを回す時に工具とネジが滑らないよう工具の先に付ける砂を「すべらない砂」として期間限定で配布したことがある。
相鉄グループの受験生応援企画では、山梨県のゴルフ場のバンカーの砂を詰めたお守りが登場した。しかもそのバンカーは、コースの特性上、誰もがボールを入れてしまうバンカーだという。誰でも「入れる」というわけだ。おまけにそのバンカーの形は五角形で、「五角=合格」。ここまで来ると駄洒落の多重構造で、企画者の執念に敬意すら覚える。
この一連の展開で注目すべきは、企業の側が「うちの現場にある滑らないものは何か」を必死に棚卸ししているという構図だ。ジンクスの供給側が、自社の技術資産を語呂合わせの文脈に翻訳している。受験期は、企業にとってクリスマスやバレンタインと並ぶ季節催事のビジネスチャンスになった。祈りの需要が、産業の側から積極的に掘り起こされているのである。
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キットカットの起点は、一九九八年一月、福岡の学習塾だった
商業ジンクスの王者、キットカットの話をしよう。この項は、発祥の年と場所がかなり具体的にわかっている稀有な例だ。
まず商品の来歴。キットカットは一九三五年にイギリスで発売された。工場で働く人たちが弁当と一緒に持っていけるチョコ菓子を、という発想から生まれた商品だ。日本での発売は一九七三年で、最初に販売したのは不二家。その後ネスレがブランドを引き継ぎ、一九八九年から茨城県のネスレ霞ヶ浦工場で、現在の味につながる製造が始まった。現在は世界八十か国以上で販売されている。
さて、受験との結びつきだ。
メーカーの公式説明はこうだ。「キットカット」を使った応援は、九州の方言で「きっと勝つとぉ(きっと勝つよ)」が商品名に似ていることから、九州を中心に受験生の間から自然に生まれ、二〇〇二年頃から受験生の間に口コミで広まり始めた。企業が仕掛けたのではなく、消費者側から自然発生した、というのが公式見解である。
ただし、その「自然発生」の起点を証言する人物が現れている。
二〇二五年、西日本新聞の「あなたの特命取材班」に情報が寄せられた。情報提供者は福岡県大野城市の元学習塾教師の男性(六十一歳)。彼の証言はこうだ。一九九七年に勤務先だった学習塾の平野校に新入社員として配属されたU先生が、九八年一月の正月特訓で中学三年の受験生たちに「きっと勝とう。みんなで合格しよう」と言ってキットカットを配った。それが、キットカットが受験と結びついた瞬間だった――。
もちろん、これが日本で唯一の起点だと断定はできない。語呂合わせは同時多発的に発生しうる。だが、公式が「一九九〇年代後半以降、自然発生的に」と説明する時期と、この証言の一九九八年一月がぴたりと重なるのは示唆的だ。ジンクスの発生現場が、福岡の学習塾の正月特訓という具体的な場面として記録に残っているのは、民俗研究の観点からもかなり貴重である。
POSデータが民俗を発見した瞬間
面白いのは、企業側がこの現象に気づいた経緯だ。
元ネスレ日本社長の高岡浩三が回想している。プロジェクトチームはすでに打つ手なしと諦めていたが、高岡は諦めていなかった。根拠は、九州のスーパーでの売り上げが毎年一月と二月だけ突出して伸びているという事実だった。
この不自然な季節変動の理由を最初に教えてくれたのは、鹿児島でもっとも大きなリージョナルチェーンの社長だったという。顧客に直接聞いたところ、「キットカットと、きっと勝つ(方言で『きっと勝っとう』)を掛けている」という答えが返ってきた。
数字の異常から文化を逆算した、ということだ。売上データが民俗を発見した瞬間である。
そこからの展開は試行錯誤の連続だった。合格電報になぞらえて「キット、サクラサクよ」というメッセージを入れたパネルを作って店頭に置いた。失敗。予備校の売店に置いた。これも失敗。
次に生まれたアイデアが、ホテルとのコラボレーションだった。当時は地方の受験生がホテルに宿泊して複数の大学の入試に臨むのが普通で、地方受験の制度はまだ整っていなかった。そこで、宿泊している受験生が試験に行く前に、ホテルの人からキットカットと「キット、サクラサクよ」のメッセージ入りポストカードを手渡してもらい、「がんばってくださいね」とひと言添えてもらう。
ほとんどのホテルには断られたが、新宿の京王プラザホテルとワシントンホテルだけが引き受けた。結果は好評で、引き受けるホテルは年々増えていく。
そして決定打が来る。
センター試験の日、東京のいくつかの試験会場のゴミ箱に、キットカットの空箱が多く見られた。それがブログで囁かれる。「受験生は試験会場にキットカットを持っていく」。はじめは反響が薄かったが、そのブログを読んだ朝日新聞の記者がコラム「青鉛筆」で取り上げた瞬間、一気に広がった。翌朝の情報番組がそのコラムを取り上げる。すぐにセブン-イレブンの担当者から「品ぞろえしたいから入れてくれ」と電話がかかってきた。
ゴミ箱の中身が新聞コラムになり、テレビが拾い、流通が動いた。二〇〇〇年代前半の情報流通の力学が、この一連の流れにきれいに保存されている。
公式のキャンペーン開始は二〇〇三年。日本食糧新聞の同年十二月の記事には、「キットサクラサクよ!がんばれ受験生!」キャンペーン商品二種を、十二月八日から第一弾、翌年一月十九日から第二弾として数量限定で全国発売する、という記載がある。
以降、二十年以上にわたって、ホテル、鉄道、タクシー、郵便局、大学、街、神社といったパートナーと組んだ活動が続いている。二〇〇九年には日本郵便との共同企画で、パッケージにメッセージと宛先を書き込んでそのままポストに投函できる「キットメール」を発売。二〇一〇年には相田みつをの言葉をしおりにして封入、二〇一一年にはだるまを模したフィギュアと予備校講師の応援メッセージを同封、二〇一二年には願いへの道のりを記入できる「キット願いかなう地図」、二〇一三年には箱を開けると満開の桜のポップアップが飛び出す仕掛けを採用している。
語呂合わせの見本市と、それでも王座を守るトンカツ
商業ジンクスはキットカットだけではない。
明治の「うカール」は、販売開始が二〇〇一年。クリスマスとバレンタインというチョコレートシーズンが続く期間はカールにとって売上が厳しい時期で、その谷を埋めるために考えられた企画が、受験生を応援する「うカール」だった。つまりキットカットのキャンペーン開始より早い。マーケティング上の必然から生まれた点で、キットカットの「消費者発・企業が後追い」とは成り立ちが逆になっている。
その後の商品名の氾濫は、もはや語呂合わせの見本市だ。
「ハイレモン」を「ハイルモン」に変えて「志望校に入る」を掛けたもの、「Toppo」を「突破」に読ませるもの、キシリトールガムを「きっちり通る」と読むもの、コアラのマーチを「コアラは木から落ちない」で縁起物にするもの、勝尾寺とコラボしただるま型の「勝ちグミ」、「試験に受かりんとう」、「勝っぱえびせん」(内容量が「突破」の意味で十パーセント増量)、「咲っポロポテト」、カルディの「うカルディ」シリーズ。食事メニューにまで飛び火して、「受カルボナーラ」「受カルビ定食」「楽ショウガ焼き」といった品書きが受験期の食堂に並ぶ。
その中でも、いちばん古株はやはりカツだろう。「カツ=勝つ」。
オリコンが二〇〇八年末に女子高校生三百人に行った調査では、受験時にやった験担ぎの一位が「トンカツを食べる」だった。二位が「験担ぎのお菓子を食べる」、三位が「お守りを持つ」。
語呂合わせの新商品が毎年山のように出ても、王座はトンカツから動いていない。理由は単純で、トンカツには「作ってくれる人がいる」からだ。母や父がわざわざ揚げてくれた、という行為そのものが縁起物になる。買える験担ぎと、作ってもらう験担ぎでは、効き目の質が違う。
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怪異その一――配布物が一枚余る、あの席の話
ここからは怪談だ。受験期にだけ語られる四つの型を、それぞれ独立した読み物として語る。
最も広く流通しているのが、この型だ。
試験会場に着く。座席表を確認して、自分の番号の席に座る。長机の二人掛け、あるいは一人一台の固定机。教室はだんだん埋まっていく。開始十分前になると、ほぼ全員が着席している。
だが、隣の席だけが空いている。
受験生というのは、遅刻を恐れて異様に早く来る生き物だ。開始十分前に来ない人間は、まず来ない。それでも、まだ間に合うかもしれない、と思う。
試験監督が注意事項を読み上げる。問題冊子が配られる。監督が列の先頭に冊子の束を渡し、後ろへ送る。自分の分を取って、隣の席の分も送ろうとして――そこで気づく。隣に、送る相手がいない。
一枚余る。
余った冊子を持ったまま、どうしていいかわからない。監督が来て、それを回収していく。「欠席」と書かれた小さな紙が、机の上に置かれる。
試験が始まる。
三十分ほど経ったころ、視界の端で何かが動く。ペンを走らせる音がする。かすかに、紙を繰る音。顔を上げてはいけない。カンニングを疑われる。でも音がする。確かに、隣で誰かが解いている。
我慢できずに、ほんの少しだけ首を動かす。
隣の席は、空いている。「欠席」の紙が、置かれたままになっている。
そして次の科目が始まると、また同じことが起きる。全科目を通して、その席には誰も座らなかった。試験が終わり、荷物をまとめて立ち上がるとき、隣の机の上に、細い白い花が一輪、置かれていた――。
これが基本型である。話者によって細部は変わるが、骨格は驚くほど安定している。座席の欠落、余る配布物、聞こえるはずのない音、そして机上に置かれた花。この四点セットは、日本の学校怪談における「死んだ生徒の席」のモチーフをそのまま受験に移植したものだ。
派生を並べておく。
一つは、試験監督視点の型。監督のアルバイトに入った大学生が、答案用紙を配り切ってしまい、首を傾げる。乱丁に備えて一部多く持っていく決まりだから、一人分余るはずなのに、余らない。数え間違えたかと思っていると、後ろの席から「一枚余りました」と声が上がる。回収して戻る途中、一つの机だけが空いているのに気づく。さっきまで確かに全員座っていた。今はその机だけ誰も座っておらず、机の上に白い花が飾られていた。
この型は、当事者ではなく管理者の側から怪異を目撃するところに凄みがある。人数の管理という、最も冷たく正確な作業のなかに綻びが生じる。
二つ目は、「教えたがりの幽霊」型。ここでは怪異が敵ではなく、おせっかいな味方として現れる。
関西弁の男子学生が長机の中央から身を乗り出してきて、答えを教えようとする。しかし教えてくる内容は全部でたらめで、余弦定理の問題を「教科書に載ってた」と言い、正弦定理の問題に解の公式を勧め、選択肢がAAAと続いたから次はDだろうと確率論を持ち出す。
この型は、公募の小説投稿にも作品として現れており、二〇二五年に公表された作品では、五浪の末に第二志望に進んだ学生の生霊が、せめてボーダー上の受験生の助けになればと試験日にだけ現れる、という説明が与えられている。怖がらせるための怪談ではなく、受験に落ち続けた者への鎮魂として設計されている点が興味深い。
三つ目は、「出席番号のない席」型。教室そのものに、誰も座っていないのに空気だけがある席が一つ存在する。名簿に記録の抜けがあり、校内放送に知らない声が混じり、出席番号がずれていく。これは受験期に限らない学校怪談の系統だが、模試の座席表や受験番号という「番号で管理される体験」を通ることで、受験期に語り直されやすくなる。
なぜこの型がこれほど強いのか。理由は明快だ。
試験会場は、日本人が人生で最も強く「番号で管理される」場所だからである。受験票の番号、座席の番号、答案用紙の番号。人格ではなく番号として扱われる数時間。その管理体系にたった一つ穴が空いているという想像は、管理される側の不安を直撃する。番号が一つ多い。人が一人足りない。その差分は、どこへ行ったのか。
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怪異その二――順位表の、自分のすぐ上にいる名前
二つ目の型は、紙の上で起きる。
模擬試験の成績表が返ってくる。個人成績表の裏面や別紙に、志望校ごとの志願者一覧が載っていることがある。自分の順位が何番目か、判定はどうか、同じ高校から何人が同じ大学を志望しているか。塾によっては、校舎内の順位表を貼り出すところもある。
その一覧に、知らない名前がある。
同じ校舎から同じ大学を志望しているはずなのに、聞いたことのない名前。しかも順位は自分のすぐ上。国語も数学も英語も、判定はA。教室を見回しても、そんな名前の生徒はいない。塾のスタッフに聞いても、「そういう生徒はいませんね」と言われる。だが次の模試でも、その名前は自分のすぐ上にいる。三回目の模試でも、四回目でも。
順位は毎回、自分の一つ上。
じわじわと成績を上げていって、ある回でついにその名前を抜く。抜いた回の成績表には、その名前が載っていない。次の回も載っていない。そこで初めて、あれは何だったのかと考える。そして担任に、この校舎で昔何かあったかと訊ねてしまう――。
この型の核心は「順位」という発明品にある。模試は、人間を一列に並べる。その列の中に、実在しない一人が紛れ込んでいる。しかも自分のすぐ上にいる。追い抜くべき目標として、そこにいる。
派生をいくつか。
一つは、「返却されない成績表」型。成績表が一部だけ届かない。塾に問い合わせると、確かに送ったと言われる。数日後、郵便受けに、宛名の書かれていない封筒が入っている。中の成績表には、自分の名前と、自分のものではない点数が印字されている。
二つ目は、「志望校欄の書き換え」型。マークシートに自分で塗った志望校コードとは違う大学名が、成績表に印字されている。訂正を申し出て、次の回はきちんと塗ったのに、また同じ大学が印字される。そしてその大学は、その受験生が最終的に進学することになる大学だった、という落ちが付く。この型は怖がらせるより、運命論の甘さがある。
三つ目は、「合計点が合わない」型。各科目の点数を足しても合計点にならない。何度足しても十点足りない。あるいは十点多い。この誤差が毎回同じ数字であることに気づいたとき、その数字が、去年この校舎で亡くなった先輩の出席番号だった、という展開になる。
この系統に共通するのは、「印字された数字は絶対である」という現代人の信頼を裏切るという構造だ。
手書きの名簿ではなく、コンピュータが処理して印刷した紙にエラーが混じる。しかもそのエラーが、毎回同じ方向を向いている。統計処理という、この上なく非人格的なシステムのなかに、人格を持った何かが紛れ込んでいる。
模試という装置が普及していなければ、この怪談は成立しなかった。近代教育産業が生んだ、正真正銘の新しい怪談である。
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怪異その三――本来、絵馬は読まれてはいけないものだった
三つ目は、神社で起きる。
一月の夕方。合格祈願に行った天満宮の境内。日が落ちるのが早く、四時半にはもう薄暗い。絵馬掛け所は境内の奥にあって、屋根の下に何段にも渡された横木に、絵馬がぎっしり掛かっている。風が吹くと、木と木がぶつかって、カラカラ、カラカラと乾いた音がする。この音がまず不気味だ、と多くの語り手が言う。
その絵馬掛けの前に、制服の生徒が立っている。
学ラン、あるいはセーラー服。冬なのにコートを着ていない。手には何も持っていない。絵馬を掛けに来たわけでも、書きに来たわけでもなさそうで、ただ、掛かっている絵馬をじっと読んでいる。上から下へ、右から左へ、丁寧に読んでいる。
自分も絵馬を掛ける。掛けながら、横目でその生徒を見る。制服のデザインに見覚えがある。自分の第一志望の高校の制服だ、と気づく。あるいは、自分の学校の、数年前まで使われていた旧制服だと気づく。
掛け終えて、会釈のつもりで顔を上げると、もういない。
帰り道、鳥居を出たところで振り返る。絵馬掛けの前に、また立っている。今度はこちらを向いている。顔は影になっていて見えない――。
これがこの型の基本形だ。派生も多い。
一つは、「絵馬を裏返す」型。参拝の翌日にもう一度訪れると、自分の掛けた絵馬だけが裏返っている。願い事の面が壁を向いている。掛け直しても、次に来るとまた裏返っている。三度目に来たとき、絵馬そのものが無くなっている。
二つ目は、「同じ名前の絵馬」型。絵馬を掛けようとして、隣に掛かっている絵馬に自分とまったく同じ名前と同じ志望校が書かれているのを見つける。筆跡は自分のものではない。日付は、去年の同じ日になっている。
三つ目は、「読み上げる声」型。絵馬掛けの前を通ると、誰かが小声で願い事を読み上げている声が聞こえる。よく聞くと、読み上げているのは自分の絵馬の文面である。
この型の背後には、実は歴史的な理由がある。
前に書いたとおり、絵馬の奉納はかつて、人に見られない時間帯を選んで行われる私的な行為だった。実名は書かず、「寅歳女」のような形で干支と性別だけを記した。つまり本来、絵馬は「読まれてはいけないもの」だったのだ。
それが今では、実名も志望校も書き込まれ、誰でも読める場所に何万枚も掲げられている。湯島天神には受験シーズンに三万枚から十万枚。太宰府にも膨大な願い札。読まれることを前提としない告白が、大量に、公開されている。
その矛盾のなかに立つのが、制服の影だ。彼または彼女は、本来なら誰も読んではいけなかったものを、丁寧に読んでいる。
この怪談は、絵馬という装置が抱えている「私秘性と公開性の裂け目」を、そのまま人型にして立たせたものだと思う。だからこの影は、襲ってこないし、呪ってもこない。ただ、読む。それだけで十分に怖いのは、我々自身が、他人の願いを読むという行為の後ろめたさを知っているからだ。
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怪異その四――幽霊が一体も出てこない、いちばん重い話
四つ目が、いちばん重い。
合格発表の日。今はインターネットで確認するのが主流だが、掲示板を貼り出す学校はまだ多いし、少し前まではそれが唯一の確認手段だった。
朝から人が集まっている。時間になると、職員が模造紙を運んできて、掲示板に貼り出す。前へ押し寄せる人波。歓声と、沈黙。
その子は、人混みの外側にいた。背が高くないから、前が見えない。人の隙間から、番号の列を目で追う。自分の受験番号を探す。ある。確かにある。四桁の数字が、はっきりと、そこにある。
安堵で膝の力が抜ける。母に電話して、受かった、と伝える。母が泣く。写真を撮ろうとしたが、手が震えてうまく撮れない。帰りの電車で、ずっと窓の外を見ていた。
数日後、郵便が届く。封筒が薄い。
不合格通知だった。
念のため学校に問い合わせる。番号を伝える。その番号は合格者にありませんでした、と言われる。掲示板で見たと訴える。掲示は正確です、と言われる。写真は撮れていない。一緒に行った人もいない。証明する手立てが何もない。
この話の恐ろしさは、幽霊が一体も出てこないところにある。
出てくるのは、自分の目だけだ。自分が確かに見たものが、存在しなかった。この型は、いわゆる怪談の中でも「認識が裏切られる」系統に属していて、目撃者が自分自身であるぶん、逃げ場がない。
派生も、それぞれ質が違う。
一つは、「隣の番号」型。掲示板で見た番号は、確かに自分の番号だった。だが後で確認すると、自分の受験番号は一桁違っていた。受験票をずっと鞄に入れっぱなしにしていて、記憶で番号を覚えていたが、その記憶が一つずれていた。つまり、彼が合格を確認したのは、隣の受験生の番号だった。
この派生は超常現象を一切必要としない。人間の記憶がいかに不確かかという話で片が付く。だからこそ、実話として語られやすい。
二つ目は、「代理で見に行った人」型。地方の受験生に代わって、誰かが掲示板を確認して連絡する。合格電報の時代には、これは実際に行われていた仕組みだ。その代理人が誤って隣の番号を読み、「サクラサク」を打ってしまう。受験生は喜び、家族は祝い、下宿を探し始め、そして数日後に真実を知る。
この派生の残酷さは、悪意が介在していないところにある。誰も嘘をついていないのに、全員が不幸になる。
三つ目は、「見に行った人が、いなかった」型。掲示板の前で、隣に立っていた見知らぬ受験生と番号を確認し合う。あなたの番号、あそこにありますよ、と教えてもらう。ありがとう、と礼を言って別れる。後日、それが誤りだったと知る。教えてくれた人の顔は思い出せるが、名前も学校も知らない。そして、その学校のその年の受験生に、そんな人はいなかった、という調べがつく。
四つ目は、掲示板の位置そのものに絡む型。校舎の同じ場所に、毎年掲示板が立てられる。その場所は、かつて浪人を重ねた末に姿を消した受験生が、最後に立っていた場所だった。だから毎年、あの掲示板の前では番号の見間違いが起きる、という説明が付く。
「サクラサク」を打っていたのは、学生アルバイトだった
この怪異の型が成立した背景には、「合格電報」という実在の仕組みがある。ここは史実として押さえておく価値がある。
昭和三十年代から平成初期にかけて、大学入試の合否を電報で伝える慣習があった。当時の合格発表は大学構内での掲示か郵送が中心で、地方出身の受験生は合否判明までのタイムラグに苦しんだ。そこで受験生が大学近くの人物に受験番号の確認を依頼し、電報で伝えてもらう仕組みが生まれた。始まりは一九五六年、早稲田大学とされている。
ここで押さえておきたいのは、これが大学当局の公式サービスではなかったという一点だ。多くは部活動やサークルの運営費、あるいは遊びの資金を稼ぐために組織された「電報屋」という学生アルバイトが担っていた。つまり、人生を左右する情報を、営利目的の学生バイトが目視で確認して打電していたわけである。
電報はカタカナと数字しか使えず、文字数で料金が変わる。だから短く、簡潔に。「ゴウカク」「フゴウカク」は直接的すぎる。そこで生まれたのが「サクラサク」「サクラチル」だった。この表現は簡潔明瞭で分かりやすいことから、他大学にも急速に広がっていく。
各大学が独自の文面を工夫したのも面白い。北海道大学は「エルムハマネク」、東北大学は「アオバモユル」、お茶の水女子大学は「オチャカオル」、奈良教育大学は「テンピョウノイラカカガヤク」、三重大学は「イセエビタイリョウ」、高知大学は「クジラシオフク」。慶應義塾大学の「リクノオウジャトナル」、新潟の大学の「ハルノソラトキハバタク」と「エチゴノユキフカシ」。不合格の文面にも「イナホチル」「ハルマダトオシ」といった配慮の跡がある。
その後、電報局が大学と提携して合否電報を受け付けるようになるが、その文面は単純な「オメデトウ」と「ザンネン」だった。間違いを防ぐためである。
この一文が、すべてを物語っている。詩情のある文面は、誤配のリスクと引き換えだった。実際に、誤った電報が届いた事例はあったのだ。
「掲示板で自分の番号を見て帰った受験生が、実は不合格だった」という怪談は、この誤配のリスクが日常だった時代の記憶を、そのまま怪異として結晶させたものだと思う。幽霊が出てこないのも道理で、これはもともと、実際に起こりうる事故だったのだから。
なお、桜のイメージには戦争による変質も指摘されている。受験での「サクラチル」は不合格の比喩だが、軍国主義下では桜のような散り際の見事さが称賛された。同じ「散る」が、まったく逆の価値を担っていた時期がある。この二重性を知ったうえで「サクラチル」を読むと、あの言葉の温度がまた変わってくる。
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現場で拾った、三つの妙な話
ここからは、取材の過程で拾い集めた、受験期の「妙な話」を三つ紹介する。いずれも本人の記憶に基づく語りであり、事実として検証したものではない。だが、こういう話が語られること自体が、この記事の主題そのものだ。
一件目「消しゴムを拾ってくれた人」(私立大学受験、二〇一〇年代前半)
その人は、当時十八歳。第一志望の私立大の一般入試で、大教室の後方に座っていた。
一科目目の英語の途中で、消しゴムを落とした。前の席の下まで転がっていったのが見えた。手を挙げて監督を呼ぶべきだと分かっていたが、残り時間が少なく、動揺していた。ここで手を挙げたら流れが切れる、と思った。予備の消しゴムは筆箱にあったから、そのまま続けた。
試験終了後、荷物をまとめていると、隣の席の学生が「これ、落ちてましたよ」と消しゴムを差し出した。制服ではなく私服で、紺色のセーターを着ていた。受け取って礼を言った。相手は「大丈夫、まだ二科目ありますから」と言って、先に教室を出ていった。
その一言が、異様に効いたという。「まだ二科目ある」。落とした消しゴムを不吉に感じていた自分に、それは全体の一部でしかないと言われた気がした。二科目目と三科目目は、驚くほど落ち着いて解けた。
合格した。入学後、あの人にお礼を言いたいと思って探した。紺のセーター、細身、髪はやや長め。同じ学部の同じ入試日程で受かった人間の中に、心当たりを探した。三か月ほど、それとなく訊いて回った。誰も知らなかった。
「その人が幽霊だったとは、今でも思ってません」と本人は言う。「たぶん落ちた人なんですよ。受かってたら学内で会ってるはずだし。あの日、隣で受けてて、たぶん落ちて、それきり会ってない。それだけの話なんだと思う。でも、だとしたら余計に、なんであんな優しかったんだろうって、いまだに考えるんです」
怪談としては何も起きていない。だが、この話を彼が十年以上覚えているという事実のほうが、よほど怪談的だ。
二件目「絵馬掛けの音が止まった夜」(高校受験、二〇〇〇年代後半)
その人は、中学三年の一月、母親と一緒に近所の天満宮に合格祈願に行った。夕方の四時過ぎで、境内はもう薄暗かった。
絵馬を書く場所は、社務所の横のベンチだった。志望校名と自分の名前を書いた。母親は少し離れたところで待っていた。書き終えて絵馬掛けへ向かうと、風が出てきて、絵馬同士がぶつかるカラカラという音が境内に響いていた。
掛ける場所を探して、いちばん上の段の隅に空きを見つけた。背伸びして掛けた。掛けた瞬間に、音が止まったという。
「風が止んだんじゃないんです。風は吹いてたんですよ、頬に当たってたから。でも絵馬の音だけが、ぱたっと止んだ」
数秒だったのか、もっと長かったのか、覚えていない。振り返ると、母親が「早く行こう」と手招きしていた。その顔がやけに強張っていたので、後で理由を訊いた。母親は「あんたが絵馬掛けの前で、しばらく動かなかったから」と言った。本人の体感では、掛けてすぐ振り返ったつもりだった。
「母は、私が一分くらいそこに突っ立ってたって言うんです。何か話しかけられてるみたいに、少し首を傾げて」
彼は志望校に合格した。三年後、大学受験の年にもう一度その神社に行った。同じ絵馬掛けの前に立って、去年までの絵馬が片付けられているのを確認した。何も起きなかった。音も普通に鳴っていた。
「たぶん、緊張してぼうっとしてただけです。でも、あの数秒の静けさだけは、いまでも耳が覚えてる」
三件目「模試の順位表の、一つ上」(浪人・大手予備校、一九九〇年代後半)
これは五十代の男性から聞いた、古い話だ。
浪人時代、通っていた予備校の校舎では、模試のたびに校舎内順位が壁に貼り出された。上位五十名だけが実名で載る。彼は毎回、四十番台から二十番台を行き来していた。
夏の模試のあと、順位表を見に行くと、自分の一つ上に見覚えのない名前があった。三文字の苗字で、下の名前は一文字。同じクラスにも、隣のクラスにもいない。彼は当時、上位五十人の顔と名前をほぼ暗記していたという。それくらい、必死だった。
その名前は、秋の模試でも彼の一つ上にいた。冬の模試でも一つ上だった。三回とも、点差は十点以内。
「怖いっていうより、腹が立ったんですよ。誰だよ、と。俺の前にずっといるこいつは誰だ、と」
彼は講師に訊いた。事務にも訊いた。誰も知らなかった。事務の人は「別の校舎から出席してる生徒かもしれない」と言ったが、校舎内順位表に他校舎の生徒が載ることはない、とも言った。
一月の最後の模試で、彼は自己ベストを出した。順位表を見に行くと、その名前は載っていなかった。上にも下にも、どこにもなかった。
「あのとき、抜いたんだって思いました。実在するかどうかなんて、どうでもよくなってた」
彼は第一志望に合格した。二十年ほど経ってから、当時の予備校仲間の集まりでこの話をしたら、別の一人が青ざめたという。その人も、自分の一つ上に知らない名前があった記憶があると言った。ただし名前は違った。
「たぶん、うちらが勝手に見間違えてただけです。あるいは、印刷ミスとか、ダミーの名前とか。予備校が入れてたのかもしれない。でも俺はいまでも、あれは俺だけの相手だったと思ってる。あいつがいなかったら、あの年、あそこまで粘れてない」
この三件目は、怪異が「機能した」例として特筆に値する。実在しない競争相手が、実在する努力を引き出した。怪談が受験生の役に立ってしまった稀な事例で、後で述べる心理学の話と正面から接続する。
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信じる者と、笑う者と、本気で怒る者
こうしたジンクスと怪談は、ネット上でどう扱われているか。
まず観察されるのは、季節性の異常な高さだ。一月から二月にかけて、受験ジンクス関連の投稿が跳ね上がる。受験番号の吉凶、鉛筆の硬度論争、試験前に食べたもの、当日の天気。
二〇二五年一月から二月にかけても、「カレー食べて共通テスト挑む」「HB使うと落ちるってマジ」「試験前にバナナ食べて落ちた」「赤いマフラーして試験行ったら落ちた」といった趣旨の投稿が話題になった。
この種の投稿は、事後報告の形を取るものが多い。落ちた後に「あれが原因かも」と探す。受かった後に「あれが効いた」と振り返る。どちらも、結果が出た後で原因を再構成している。
反応は大きく三つに割れる。
第一に、素直に乗る層。楽しんでやっている。験担ぎを一種のイベントとして消費していて、本気で因果を信じているわけではない。この層がいちばん健全で、いちばん多い。
第二に、冷笑する層。四当五落については、特に厳しい反応が集まる。「言いがかりでしかない」という否定は昔から一定数あり、近年は睡眠科学の知見が広まったこともあって、この標語を口にする大人への批判が定型化している。同時に、「六当五落」のような言い換えを面白がる反応も出る。
第三に、真剣に怒る層。これは主に、ジンクスが受験生を追い詰める方向に使われた場合だ。「頑張って」という言葉すら追い詰めると指摘する指導者もいる。お守りを大量にぶら下げるのは紐が切れたり落としたりして逆に落ち込むから避けろ、というのは学習塾が実際に発信している注意喚起である。ミサンガが切れて動揺する、お守りを失くしてパニックになる、といった事故は現場で繰り返されてきた。
考察としてよく見かけるのが、「験担ぎは因果ではなくルーティンだ」という整理だ。
スポーツ心理学では、験担ぎを「ルーティン(決まった手順)」として捉える。同じ流れで準備を進めることで気持ちが整い、普段の力を出しやすくなる。この見方に立てば、キットカットを食べることに神秘的な力はないが、「試験前にキットカットを食べる」という決まった手順を踏むこと自体には、実用的な意味がある。
法廷診療心理学の専門家は、本番前の不安について、持ち物を同じ順番で確認する、深呼吸をする、短いひと言を決めておく、といった再現できる行動には意味がある、と指摘している。不安が強いと人は頭の中が散らかりやすいからだ。
何を信じるかより、自分をどう整えるか。この整理は、ジンクスを全否定も全肯定もせずに扱う、かなり実用的な着地点だと思う。
もう一つ、言葉の禁忌について現代的な擁護もある。受験前に「落ちる」「滑る」を避けたり、結婚式で「別れる」「切れる」を避けたりするのは、語呂合わせだけの問題ではなく、その場にいる人の気持ちを乱さないための配慮でもある、という見方だ。
つまり忌み言葉は呪術であると同時に、コミュニケーションのマナーでもある。「絶対ミスする」と口に出せば、自分だけでなく周囲の空気まで沈む。それを避けることは、立派に合理的である。
反証側の最大の論点は、やはり四当五落だ。これは繰り返し否定されてきた。睡眠科学のデータ、公的機関の推奨、実際の合格者の睡眠時間、いずれも同じ方向を指している。
それでもこの言葉が完全には死んでいないのは、単に語感がいいからだと思う。四字熟語の形をしていて、覚えやすく、口にすると気合が入る。中身が空でも、形だけで生き延びる言葉というのは、確かに存在する。
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受験生は、現代日本における漁師である
最後に、この記事全体を貫く問いに答えたい。なぜ受験期にだけ、これほど濃密な禁忌と儀式が発生するのか。
心理学の側からの説明は、実はかなりはっきりしている。
出発点は、一九四八年のスキナーの実験だ。空腹のハトを実験箱に入れて、その行動とは無関係に十五秒ごとに餌を出す。するとハトは、餌が出る直前に取っていた行動――頭を上げる、箱の中を一回りする――を繰り返すようになる。スキナーは、ハトがあたかも「その行動が餌出現の原因である」かのように振る舞ったとして、これは人間の迷信と同じメカニズムで形成されたものだと考えた。行動と結果がたまたま近接しただけで、そこに因果が生まれてしまう。
人間でも同様の現象が確認されている。小野(一九八七年)は大学生を対象に、レバー操作とはまったく無関係にポイントが加算される実験を行い、レバー操作をパターン化する参加者が現れることを示した。四つのボタンのうち左から三番目を押すことでのみコインが得られる場面では、多くの人が他のボタンを何度も押してから最後に三番目を押す。近くでたまたまランプが点滅していると、ランプが点いているときだけボタンを押す人も出る。日本心理学会の解説は、これを「コンカレント迷信」「感覚的迷信」と呼んでいる。
もう一つの軸が、ランガー(一九七五年)の「制御幻想」だ。客観的確率が保証しているより不適切に高く成功確率を期待すること、と定義される。人は、自分にコントロールできない状況に置かれると、不適切な成功期待を発達させる。逆に言えば、コントロールできない事態こそが、迷信の温床になる。
そしてここが決定的なのだが、日本の研究では、迷信行動が獲得されやすいのは、望ましい出来事が頻繁に起きる状況ではなく、めったに起きない、あるいはまったく起きない状況のほうだ、という結果が出ている。堀・沼田・中島の研究では、Lean(まれ)やNothing(まったく起きない)のスケジュールのほうが、Rich(頻繁)よりも迷信行動が獲得されやすかった。
これを受験に当てはめると、事情がよく見える。
受験は、圧倒的に「Lean」な状況だ。第一志望に受かるという出来事は、人生で一度あるかないか。しかもその結果は、努力と完全には対応しない。何百時間勉強しても落ちる人がいて、そこそこの準備で受かる人がいる。当日の体調、出題の相性、隣の受験生の貧乏ゆすり。制御できない変数が山ほどある。
さらに、受験は「一発勝負」である。日常の学習は毎日フィードバックがあるが、入試は一回きりで、やり直しがきかない。結果が出るまでに時間があり、その間、受験生にできることは何もない。この「できることがない時間」こそが、儀式が入り込む隙間だ。
文化人類学の古典的な観察も、同じ方向を指している。危険と不確実性の高い活動ほど、儀礼と呪術が濃くなる。漁師の世界がその典型で、天候も潮も獲物も自分では制御できず、「板子一枚下は地獄」と言われる環境では、実に多くの禁忌と決まりごとが発達する。験を担ぐという言葉自体、漁師や猟師の世界の慣習が一般化したものだという説がある。
受験生は、現代日本における漁師である。自分では制御できない海に、たった一度だけ船を出す。
だから儀式が要る。忌み言葉を避け、四を書かず、髪を切らず、絵馬を掛け、砂を握り、チョコレートを食べる。これらの行為に因果的効果はない。だが、行為そのものが「まだできることがある」という感覚を作る。それが不安を下げ、下がった不安が、実際のパフォーマンスをわずかに上げる。この経路だけは、確かに存在する。
前に紹介した体験談の三件目――実在しない競争相手を追いかけて自己ベストを出した男性――は、この構造の見事な実例だ。相手が実在したかどうかは、結果にとって関係がなかった。
ただし、ここには明確な限界線がある。験担ぎが過度になり、生活に支障が出るほどになると、強迫性障害の域に入る場合がある、と指摘されている。儀式が支えではなく足枷になったら、それは黄色信号だ。お守りが見つからないと家を出られない。特定の鉛筆でないと問題が解けない。決まった手順を一つでも飛ばすと最初からやり直さないと気が済まない。この段階に入ったら、ジンクスは楽しみではなく症状である。
そしてもう一つ、この記事が最初から一貫して言っていることを繰り返す。身体を削るタイプの験担ぎだけは、例外なく有害だ。
四当五落はその代表格である。絵馬を掛けるのはタダで、体にも一切のダメージがない。カツを食べるのは栄養にもなる。すべらない砂を握るのも無害だ。だが睡眠を削るのは、実際に記憶を壊し、判断力を落とし、免疫を下げる。同じ「験担ぎ」の棚に並んでいても、無害なものと有害なものは、はっきり分けて扱わなければならない。
不安を煽って高額な祈祷や商品に誘導する手合いにも、同じ基準を当ててほしい。天満宮の絵馬は千円前後、鉄道会社の砂は無料か百円、キットカットは百円台だ。それ以上の金額を要求してくるものは、祈りではなく商売として、冷静に値踏みしていい。
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千年の地層と、五年前の地層が同じ棚に並んでいる
ここまで、受験のジンクスと禁忌を、言葉、数、身体、信仰、商業、そして怪異という六つの層に分けて掘ってきた。最後に、掘った土をもう一度並べ直して、この現象の全体像を組み上げてみたい。
まず確認しておきたいのは、受験ジンクスという集合体が、実は単一の起源を持たないということだ。
ひとくくりに語られがちだが、地層はまったく違う。「すべる」「落ちる」を口にしない忌み言葉は、言霊信仰という日本の宗教的心性の最深層から来ている。慶事における忌み言葉と同じ地層で、千年以上の厚みがある。「試験前に髪を切らない」「爪を切らない」は、断ち物という願掛けの民俗から来ていて、これも中世以来の厚みがある。絵馬は八世紀の木簡と同じ層から出土する。天神信仰は十世紀の落雷から始まっている。
ところが「四当五落」は一九五〇年代後半、しかも選挙の裏金の隠語のパロディだ。「キットカット=きっと勝つ」は一九九〇年代後半の九州の方言と商品名の偶然の一致で、しかも一九九八年一月の福岡の学習塾という具体的な現場の証言まである。「うカール」は二〇〇一年、企業のマーケティング上の必然から生まれた。「すべらない砂」の全国展開は二〇一〇年代の鉄道会社の広報企画である。「HB鉛筆は半端だから落ちる」に至っては、ほぼ二〇二〇年代のSNS上の遊びだ。
千年の地層と、五年前の地層が、同じ棚に並んでいる。しかも受験生本人にとって、両者の重みはほとんど変わらない。母から「すべるって言うんじゃない」と叱られることと、コンビニでキットカットを買うことは、同じ「験担ぎ」という一つのカテゴリに入っている。
これが受験ジンクスの最大の特徴だと思う。時間の厚みが平坦化される。
なぜ平坦化されるのか。答えは、受験という体験の構造にある。受験は「一度きり」で「制御不能」で「結果が重大」だ。この三条件が揃った瞬間、人は手持ちの資源を全部投入する。祖母から聞いた言い伝えも、昨日ネットで見た語呂合わせも、等しく「使えるかもしれないもの」として動員される。由来を吟味している余裕はないし、吟味することに意味もない。効くかどうかわからないなら、全部やる。それが合理的な態度なのだ。
この「全部やる」という態度が、日本の受験ジンクスの異様な豊かさを支えている。禁忌の種類、縁起物の数、商品のバリエーション。おそらく世界的に見ても、これほど密度の高い試験前儀礼を持つ社会は珍しい。
それは日本人が特別に迷信深いからではなく、日本の受験が特別に一発勝負だからだ。制度が儀礼を要求している。ここは強調しておきたい。ジンクスの濃さは、受験生の心の弱さではなく、制度の設計の反映である。
次に、この記事で扱った四つの怪異を、もう一度並べ直してみる。
試験会場で埋まらない隣席。模試の成績表に混じる知らない名前。絵馬掛けの前に立つ制服の影。掲示板で見た自分の番号。
この四つは、一見バラバラだが、実は共通のモチーフで貫かれている。すべてが「記録と実在のズレ」を主題にしているのだ。
座席表には番号があるのに人がいない。順位表には名前があるのに人がいない。絵馬には名前が書かれているのに、それを読む者が誰なのかわからない。掲示板には番号があったはずなのに、記録上は存在しなかった。
つまり受験の怪談は、幽霊が出る話ではなく、「書類が嘘をつく」話である。
これは偶然ではない。受験とは、人間を書類に変換する制度だからだ。受験票、座席表、答案用紙、マークシート、成績表、判定、順位、合格者一覧。受験生は数か月間、自分が書類として処理されていく過程を、ひたすら見せられ続ける。自分の努力も才能も不安も、最終的には四桁の数字が掲示板に載るか載らないかに圧縮される。
この圧縮に対する違和感が、怪談という形を取って噴き出している。書類は完璧なはずだ。番号は間違えないはずだ。順位は正確なはずだ。その完璧さに一つだけ穴が空くという想像は、圧縮される側の人間にとって、恐怖であると同時に、ある種の救いでもある。書類が絶対でないなら、自分は書類ではないかもしれない。
この読み方をすると、四つの怪異の並び順にも意味が出てくる。
試験会場の空席は「入力段階の異常」、模試の順位表は「処理段階の異常」、絵馬掛けの影は「祈願という非公式チャネルの異常」、そして掲示板の番号は「出力段階の異常」だ。受験というシステムの入り口から出口まで、各工程にきちんと一つずつ怪談が配置されている。誰かが設計したわけではないのに、隙間なく埋まっている。この分業の完成度に、私は毎回感心してしまう。
そして、この四つのうち最も新しいのは、まず間違いなく模試の順位表の型だ。模試という装置が全国規模で普及したのは戦後、特に高度成長期以降で、コンピュータ処理された成績表が受験生の手元に届くようになってからだ。つまりこの怪談は、生まれてまだ数十年しか経っていない。
学校の怪談を民俗学的に研究した常光徹は、村落共同体で古老から昔語りを聞く機会が廃れていくなか、新たな語りの場として現れたのが学校だった、と論じている。ならば模試の順位表は、その学校のなかにさらに新設された、もう一段新しい語りの場だと言える。共同体が変われば、怪談の舞台も更新される。俗信は死なない。引っ越すだけだ。
信仰史の側からも、一つ補足しておきたい。
天神信仰の歴史を追っていて何度も感心するのは、日本人の「困った相手を神にする」というやり方の徹底ぶりだ。道真の霊は、都を焼き、皇太子を殺し、宮中に雷を落とした。普通なら封じ込めるか、退治するか、忘れるかだろう。だが選ばれたのは、社を建てて祀り、その力を都の守りに転用するという道だった。しかも祀る場所は、もともと雷の神が祀られていた土地。祟る力を否定せず、方向だけを変えて使う。この発想は、いま読んでもかなり大胆である。
そして千年かけて、雷は消えた。江戸の寺子屋で、道真は読み書きの守り神になった。いま境内で撫で牛の頭を撫でている受験生は、自分が撫でているのが清涼殿を焼いた霊の使いだとは、たぶん考えていない。
それでいいのだと思う。信仰とは、そういうふうに変質しながら生き延びるものだ。ただ、その千年の変質を知ったうえで絵馬を掛けると、あのカラカラという音の聞こえ方が確実に変わる。この記事を読んだ人には、ぜひ一度その状態で絵馬掛けの前に立ってみてほしい。
商業史の側からは、別の教訓が出てくる。
キットカットの事例で最も示唆的なのは、企業が文化を「作った」のではなく「発見した」という順序だ。九州のスーパーの売上データに、一月と二月だけ突出する異常値があった。その理由を探ったら、消費者が勝手に始めた語呂合わせだった。企業がやったのは、その現象を全国に翻訳して伝える作業である。ホテル、鉄道、郵便局、大学、神社。受験生が通る動線上のあらゆる接点に、同じメッセージを配置していった。二十年以上続けた結果、キットカットは「頑張る人を応援するブランド」という位置づけを確立した。
これは、民間信仰が商品に取り込まれる過程の、ほぼ理想的な記録である。そして同時に、企業が長期的にコミットしなければジンクスは定着しないことも示している。単発の駄洒落商品は毎年山ほど出るが、翌年には忘れられる。二十年続けて、初めて「風物詩」になる。祈りの季節を作るには、二十年かかるのだ。
すべらない砂も同じ構造にある。JR西日本の企画は二〇一二年度から、釜石駅は二〇〇六年から。奈良市内の神社での祈祷、先輩から返却された砂を混ぜ込む作法、社員が一つずつ手で袋詰めする工程。この三つは、いずれも効率から見れば無駄でしかない。だが、その無駄が「本物らしさ」を作っている。機械で袋詰めした砂に、誰も御利益を感じない。手間そのものが、この場合、ご利益の中身なのだ。
さて、ここまで書いてきて、最後に一つだけ、はっきりさせておかなければならないことがある。四当五落の扱いだ。
この記事は、受験ジンクスに対しておおむね温かい態度を取ってきた。忌み言葉には言霊の伝統がある。絵馬には千三百年の歴史がある。すべらない砂には現場の職人の思いが乗っている。キットカットには福岡の塾講師の善意が起点にある。これらは、笑って付き合っていい文化だ。
だが四当五落だけは違う。これは文化ではなく、単なる誤情報である。
その根拠を、もう一度並べる。厚生労働省の睡眠ガイドは、中学生と高校生に八時間から十時間の睡眠を推奨している。米国睡眠医学会も同じだ。東京大学らの二万人規模の解析では、平日夜間の睡眠が七・五時間未満の中高生は、うつ・不安のリスクが有意に高かった。文部科学省の二万三千票規模の調査は、睡眠リズムの乱れと日中の眠気、いらだちの関連を示している。文科省の中高生向け資料は、試験前日に遅くまで起きて勉強するという発想を、記憶固定化の観点から明確に否定している。睡眠不足は前頭前野の機能を落とし、感情のコントロール能力を下げる。十分に眠っている子どもは、そうでない子どもより海馬の体積が大きい。
これだけの証拠が積み上がっている。
にもかかわらず四当五落が完全には死なないのは、この言葉が「努力の証明書」として機能してきたからだと思う。四時間しか寝ていない、というのは、周囲に対しても自分に対しても、本気度を示す最もわかりやすい指標だった。成績は他人と比べにくいが、睡眠時間は比べやすい。だから競争になった。
しかしこれは、努力の中身ではなく、努力の見た目を競う競争である。しかも競争すればするほど、実際の学力は下がっていく。負のスパイラルとして、これ以上ないほど完成された構造だ。
だから、この記事の結論はこうなる。
受験期の禁忌と儀式は、そのほとんどが、無害で、味わい深く、時に本当に役立つ。忌み言葉を避けるのは、周囲への配慮として合理的だ。絵馬を書くのは、自分の決意を言語化する行為として有効だ。砂を握るのもチョコを食べるのも、ルーティンとして機能する。験担ぎは、神秘的な力の召喚ではなく、脳と体を本番モードに切り替えるスイッチである。何を信じるかより、自分をどう整えるか。この一点さえ押さえておけば、ジンクスは味方になる。
ただし、その棚の中から四当五落だけは抜いて、捨ててほしい。あれは験担ぎではなく、身体を賭け金にした博打だ。しかも胴元が勝つようにできている。
眠ってほしい。八時間眠ってほしい。眠って覚えたことを固定して、翌朝きちんと動く頭で、隣の空席にも、知らない名前にも、絵馬掛けの影にも、掲示板の四桁の数字にも、まっすぐ向き合ってほしい。
そのうえで、玄関を出る前にキットカットを一本かじって、「きっと勝つ」と口の中で言ってみるといい。それは迷信ではなく、たぶん、いちばん安上がりで、いちばんよく効く、自分への合図だ。
