十二月の朝、列の中に一人だけ真っ白な背中があった
持久走大会の朝って、なんか独特の空気があるよな。十二月の上旬、朝の七時半ごろ。吹きさらしの校庭に霜が降りていて、白線の上に薄い影が伸びている。子どもたちは体操服の下に長袖のシャツを着ていいことになっているけど、体操服だけでいる子もいる。ゼッケンを安全ピンで四隅とめて、胸に番号をぶら下げて、並んで準備体操をする。先生がハンドマイクで「無理をしないこと、でも歩かないこと」という矛盾したことを言う。周囲のフェンスの向こうに、保護者がカメラを構えて並んでいる。
コースは学校によって違う。校庭を何周もするところもあれば、校門を出て川の堤防を往復するところもある。この怪談でよく語られるのは後者だ。校門を出て、住宅街を抜けて、土手の上に上がる。川風が真横から吹いてくる。折り返し地点にはコーンが置いてあって、保護者の係の人が旗を持って立っている。そこで回って、同じ道を戻る。行きと帰りで、必ず一度、先頭集団と最後尾がすれ違う。このすれ違いが、話の重要な仕掛けになる。
スタートのピストルが鳴って、二百人近い子どもが一斉に走り出す。最初の百メートルくらいは団子状態で、足音がドドドドと地面を叩いて、自分の心臓の音が聞こえない。そのうちにばらけて、一人一人のペースになっていく。話の主人公はだいたい、クラスで中の上くらいの順位につける子だ。一位を狙うタイプでもないし、歩いてしまうタイプでもない。自分の前に何人かいて、後ろにも何人かいる。この位置だからこそ、あれに気づける。
土手に上がってしばらく行ったところで、前を走る一人に目がいく。白い。全身が白い。上も下も真っ白な体操服で、長袖を着ていない。十二月の朝なのに半袖半ズボンだ。しかも、ゼッケンがない。背中に何も着いていない。この大会は全員がゼッケンをつけているはずなのに。
距離は、十メートルくらい。抜けそうな距離だ。だから少しペースを上げる。抜けない。相手が速くなったわけではない。足の回転は全く変わっていない。なのに、一向に距離が縮まらない。もう一段上げる。自分の周りの子はどんどん後ろに流れていく。なのに白い背中だけは、さっきと完全に同じ位置にいる。十メートル。
抜けそうで抜けない、あの十メートル
この怪談の味は、この「抜けそうで抜けない」の描写に全部集中している。完全に手の届かない相手なら、人は追うのをやめる。でも十メートルというのは、もう少しと思ってしまう距離だ。しかも相手は逃げていない。振り向きもしない。こちらを意識している素振りが一切ない。協力もしないけど妨害もしない。ただ、十メートル先を走っている。
やがて主人公は、自分がとんでもないペースで走っていることに気づく。肺が痛い。口の中が鉄の味がする。でもやめられない。やめたらいけない気がする。この「やめてはいけない気がする」という部分を丁寧に語るのが上手い語り手だ。追い抜くことが目的じゃなくなっていて、抜けなかったら何かが終わる、という確信だけが膨らんでいく。
折り返し地点で、初めて白い走者の正面が見える。コーンを回る瞬間に体が傾くからだ。でも見えない。ここの描写にもバリエーションがあって、「顔が白すぎて、のっぺりして見えなかった」というパターンと、「ちょうど山の尾根から出た朝日が目に入って見えなかった」というパターンがある。後者のほうが、後から思い返したときの心地悪さが強い。自分で自分をごまかした可能性が残るからだ。
帰り道で、主人公は自分のクラスの子とすれ違う。声をかけられる。「がんばれよ」。息も切れ切れのまま、すぐ後ろを指さして、「あの白い人、誰?」と聞こうとする。でも声が出ない。息が上がっていて、喉が張り付いている。この、「聞こうとしたのに聞けなかった」という一行が入るバージョンは、すこぶる出来がいい。確認のチャンスが一回だけあって、それを逃す。
ゴールテープを切ったのは、一人だけだった
校門が見えてくる。グラウンドに入ると、拍手と歓声が一気に背中を押してくる。ここで主人公は、最後の力を振り絞る。白い背中はまだ十メートル先だ。トラックの最後のカーブで、ついに距離が縮まる。五メートル。三メートル。手を伸ばせば届く。目の前で、白い体操服の背中に、汗のシミが一つもないのが見える。この寒さでも、これだけ走ったら背中は濡れる。なのに乾いている。
ゴールの白いテープが見える。保護者が両端を持って張っている。主人公は目をつぶって、飛び込む。テープが胸に当たって、切れる。倒れ込んで、顔を上げる。テープはちゃんと切れている。つまり、自分の前に誰もテープを切っていない。さっきまで十メートル先を走っていたはずの白い走者は、どこにもいない。
係の先生が驚いた顔で言う。「すごいな、ダントツだぞ」。主人公は一位になっている。学年で一番だったはずの陸上部の子は、二十秒遅れて入ってくる。タイムは自分の自己ベストを三分以上更新している。周りは大騒ぎで、先生は肩を叩いてくれて、保護者が写真を撮る。でも主人公は、さっきの白い背中のことしか考えていない。
締めはいくつかある。いちばん多いのは、後日、保護者が撮った写真の中に、ゴール前の最後のカーブを回る主人公の、その右肩のすぐ先に、白い布のようなものが写っていた、というやつ。ブレていて人の形には見えないけど、肩のラインだけがやけにはっきりしている。もう一つは、その年の大会の記録表を見たら、一位の上に一行分の空白があった、というやつ。なぜか名簿の都合で消せない行が一つだけ残っていて、毎年印刷される。
この話、どこから来たのか
正直に言うと、これも初出は特定できない。ただ、系統はかなりはっきりしている。この怪談には、少なくとも三つの先行する話が流れ込んでいる。
一つ目が、学生寮を舞台にした「走る幽霊」の話だ。茨城の大学の男子寮で、真夜中にランニング姿の霊が壁をすり抜けて寮の端から端まで走り抜けていく。寝ている学生を踏んでいくので迷惑していたところ、ある寮生がテープを用意して待ち構え、霊に切らせてやった。そこで霊は両手を上げてゴールし、出なくなった。マラソンのゴール直前で亡くなった陸上部員だったから、テープを切らせてやれば成仏する、という理屈だ。後日、別の寮生がふざけて「よーい、スタート!」と叫んだのでまた走り出した、というオチがつく。この話は学生の間で全国に広がっていて、自分の学校に置き換えて語られることも多い。ゴールできなかった走者は、永遠に走り続ける。この基本アイデアが、今の白い走者の話の背骨になっている。
二つ目が、「ゴールして倒れた子」の話。体の弱い生徒が、周囲の反対を押し切ってマラソン大会に出る。必死に走り、ゴールに飛び込んだ直後に倒れて、そのまま亡くなる。後日、ゴールの瞬間を撮った写真を見たら、応援していた全員が同じ瞬間に目をつぶっていて、しかも全員の手が合わさっていた。拍手していたはずなのに、写真の中では全員が合掌している。これは意味が分かると怖い話の定番として、二千年代の掲示板やブログで何度も回っている。芸人が語るバージョンもあるし、北海道のある高校でマラソン大会が廃止になった理由として語られるバージョンもある。ここから「マラソン大会には死者がつきものだ」という前提が供給されている。
三つ目が、もっと古い層の「ついてくる足音」の話だ。これは学校とは限らない。夜道を走っていると、後ろから自分と同じリズムの足音がついてくる。振り返ると誰もいない。やめると止まる。走り出すとまた追ってくる。日本の怪異でいうところのベトベトさんなどに近い骨組みで、非常に古層。このアイデアの向きをひっくり返して、後ろではなく前に置いたのが今の話だ。この反転がでかい。背後の怪異は逃げればいいが、前方の怪異は、自分から近づいていくしかない。
この三つが混ざって、「白い体操服の抜かせない走者」という形に固まったのは、おそらく二千年代の後半から二千十年代にかけてだと見ている。掲示板の学校怪談スレッドで、持久走大会の話題が出るたびにこの手の書き込みがついていた。初期のものは「見知らぬ子に抜かされた」程度のあっさりしたもので、白い体操服という意匠はついていない。白が強調されはじめるのは、体操服がハーフパンツ中心になって、下が紺や黒に変わってからだと思う。上下真っ白という格好が、現代の子どもの目には「古い」と映るようになって、はじめて異物として機能しはじめた。
白い体操服が「古い」になった日
この話を支えているのは、体操服の歴史そのものだ。一九六〇年代、学校の運動着は上下白が主流だった。丈夫な綿で、男子はショートパンツ、女子はブルマ。それが一九七〇年代から八十年代にかけて、学年色という発想が入って色付きのラインが入り、九十年代には膝上のハーフ丈が主流になる。二千年代に入ると、白いシャツの透け対策として紺などの濃い色が採用されるようになり、速乾素材や立体裁断が入って、見た目もすっかりスポーツウェアらしくなった。
つまり、上下真っ白の体操服は、今の子どもから見ればごく自然に「この学校のものじゃない」と判定できるサインなんだよな。制服と違って体操服は学校ごとの差が小さいからこそ、シルエットと色のズレが目につく。黒い服を着た霊より、白い体操服の霊のほうが怖いのは、そこに「制度のズレ」があるからだ。服装規定から外れた人間が、学校行事の列に並んでいる。学校という管理の中では、それだけで十分に異常なんだ。
さらにゼッケンだ。校内マラソンでは、番号をつけさせるのが普通だ。これは順位とタイムを記録するためだけじゃなくて、コース上で具合が悪くなった子を特定するためでもある。番号をつけていないというのは、管理の外にいるということだ。何かあっても誰も拾えないし、そもそも拾う対象になっていない。このディテールは、大人になってから読み返すと妙に重い。
持久走大会という行事の、意外と短い歴史
校内マラソンや持久走大会は、実は学習指導要領に「大会をやれ」と書いてあるわけではない。体育の内容としては、無理のないペースで五分から六分程度走る、というあたりが想定されている。つまり、全力で順位を争う大会という形式は、学校が地域ごとに勝手に育ててきた行事なんだ。だから実施の形もばらばらだ。低学年九百メートル、中学年千二百、高学年千五百というように学年ごとに距離を変える学校が多いけれど、中学高校になると十キロを超える大会をやるところすらある。
現場の教師が書いたものを読むと、この行事の問題点がかなり露骨に並んでいる。練習は校庭の百二十メートルトラックでやるのに、本番は三百メートルのコースなのでペース感覚が使えない。保護者が「何位以内に入ったら何を買ってやる」というご褒美をぶら下げるので、子どもは自分の記録ではなく順位しか見なくなる。そして最後尾の子への「励まし」が、実際には「歩きたいのに歩けない状況」を強制している。この三つ目が、この怪談を読むときにじわじわ効いてくる。
実際にこの行事は、ここ二十年ではっきり減っている。順位をつけない形式に変えたところ、学年全体でのリレーに付け替えたところ、そもそも廃止したところもある。公立学校の教員の中には、校内マラソンは学習指導要領の趣旨とずれている上に危険だと公に主張する人もいる。選手でもない子どもが、倒れそうな顔で息を切らしながら走っている。あの光景を「心地よいペースでの運動」とは呼べないだろ、という指摘は逸らせない。
そして、実際に事故は起きている。一九九〇年の二月、大阪府の小学六年生が、翌日のマラソン大会に向けた練習中、ゴール手前八十メートルで倒れて急性心不全で亡くなった。今から三十六年前の出来事だ。裁判になって、一九九三年に学校側の責任は認められないという判断が出ている。教諭らは個人のペースで走るよう指導していたし、事前に体調確認もしていた、というのが理由だった。この件を論じる人たちが口を揃えて言うのは、誰の過失かを探すより、倒れたときに命を拾う手段がその場にあったかを問うべきだ、ということだ。
この手の事故は、母校で実際に起きていなくても、子どもの間では「昔この大会で人が死んだらしい」という噂として必ず回る。事実である必要はない。自分が息を切らして倒れそうになっているとき、その噂は完全にリアルに感じられる。この怪談は、そのリアルさの上に乗っている。
抜いてしまった子はどうなるのか、というバージョン
派生の中でもっとも有名なのが、「抜かないほうがいい」というルールを明示する型だ。この型では、白い走者を抜いてしまった子は、その年のうちに必ず体を壊すとされている。骨を折ったり、長い病気をしたり。だから上級生が下級生に「白い人には追いつけないから、見えても追うな」と伝える。この形になると、話は一気に学校の七不思議らしくなる。禁忌として定式化されて、先輩から後輩へ伝達される。
この型の面白いところは、実際には抜けないのに、抜くなと言われている点なんだよな。抜けない相手を抜くなと言うのは矛盾している。だからこのルールは実質的には、「全力を出しすぎるな」という意味になっている。自分の限界を超えて追いつこうとするな、という警告だ。怪談が、子どもに対する安全教育の役割を背負いはじめている。古い地方の伝承で、淵や沼に化け物がいることにして子どもを近づけないやり方と、構造は全く同じだ。
声をかけてくる型
二つ目の派生は、白い走者がしゃべるバージョンだ。これは十メートルではなく、すぐ隣に並ばれるところから始まる。苦しい区間で、隣に気配ができる。見ないままでいると、「もう一周だよ」と言われる。あるいは「まだ行けるよね」。声は同じ学年の子どもの声なのに、少しだけノイズが乗っている。ラジオの雑音のような、と形容されることが多い。
返事をしたらどうなるのか。ここも分かれていて、「返事をしたらコースから外れる」というパターンと、「返事をしないとすっと隣を走り続ける」というパターンがある。後者のほうが圧倒的に嫌な感じで、話の中では主人公がゴールして休んでいるときも、翌日の登校時も、隣に気配がある。一週間くらい続いて、ある朝、ふと消える。なぜ消えたのかは説明されない。
記録係が気づく型
三つ目は、視点がコースの外にあるバージョン。ゴールの記録係をやっていた保健委員の子が、ストップウォッチと名簿で順に番号を控えていく。全員ゴールして、集計してみると一人分多い。番号の欄が空白のまま、タイムだけが書き込まれている行がある。自分の字だ。覚えがない。しかもそのタイムは、学年の歴代記録を大幅に上回っている。
この型は、学校怪談に古くからある「数が合わない」系と完全に同じ骨格をしている。学校という場所は常に何かを数えて記録している。出欠、体重、身長、視力、タイム、点数。その記録の列に一行だけ余分なものが混ざる。学校怪談の中でも極めて現代的な形式で、二千十年代以降のネット怪談で伸びているタイプだ。
一周多い型
四つ目は、周回コースの学校で語られるバージョンだ。校庭を五周するというルールなのに、白い体操服の子は六周目に入っていく。先生が止めようとするのに、声が届かない。あるいは、周回を数える係の子の手元のカードが、どうしても一枚余る。この型は少しやるせない味があって、白い子はいつまでも走っている。大会が終わって子どもが教室に引き上げても、窓から見るとまだ校庭を回っている。五時限目にはもう見えない。
終わらない周回というイメージは、さっきの寮のランニング霊の話と直結している。ゴールできない限り走り続ける。だからこの型では、ときどき「ゴールテープを張り直してやれば消える」という解決策がついてくる。何十年も前の寮の話のオチが、小学校の校庭に移植されている。怪談の部品が世代をまたいで使い回されているのが見えて、こういうのは追っていて楽しい。
白ではなく、ブルマやジャージになる地域
五つ目は、服装の違いで変形したもの。女子校や、かつて女子がブルマだった世代の語り手が伝えるバージョンでは、白い上着に紺のブルマという、その学校ではすでに廃止されているはずの格好で登場する。これは「古い服装だからこそ霊だとわかる」という識別方法が、より露骨に出ている例だ。
逆に、寒い地方では全員がジャージで走るので、白い半袖半ズボンはさらに異質になる。雪のちらつく中を、一人だけ白い半袖で走っている。北の地方で語られるとこの絵になって、はっきり言ってこっちのほうが怖い。同じ話でも、土地の気候と服装規定だけで恐怖の濃度が変わるというのが、学校怪談の面白いところだよな。
語られてきた体験談を、いくつか
一つ目。関西の中学校で、二年生のときのマラソン大会の話。語るのは現在五十代の男性。コースは市街地を抜けて小さな山の麓に入る五キロで、毎年同じだった。中盤で、坂を上がっているときに、前を白い体操服の子が走っていた。ゼッケンは覚えていない。ただ、坂なのにフォームが一切崩れないのが気になった。自分は肩が上がって、首が振れている。相手は頂から糸で引っ張られているみたいに真っ直ぐだった。山を抜けて下りになり、一気にペースを上げたところで、目の前の背中が消えた。隠れる場所なんてない一本道だった。ゴールしてから友達に話したら、「お前、さっきだいぶふらふらだったよ」と言われた。自分では人生で一番ちゃんと走っていたつもりだった。そのギャップが気持ち悪くて、今でも覚えているという。
二つ目。関東の小学校で、六年生の女子が体験したという話。こちらは抜けないのではなく、抜いてしまったパターン。校庭を回る形式の大会で、四周目で白い体操服の子に追いついた。インコースから抜こうとして、肩が触れそうになった。そのとき相手がこちらを見た。目が合った。相手は少し笑って、体を引いて道を譲った。抜いた。そのあと、彼女は段違いに速くなって、学年三位でゴールした。ところがその夜から高熱が出て、十日間学校を休んだ。因果関係なんてないと思っていたけれど、卒業直前に別のクラスの子から「白い子を抜いたら病気になるって知ってた?」と言われて、背筋が凍ったという。彼女はその件を誰にも話していなかった。
三つ目。教員側の話として回っているもの。中学校で体育を担当していた男性が、持久走大会の係をやっていたときの話。彼は折り返し地点に立って、通過した生徒の番号を順に記録していく役目だった。その日、番号のない子が一人通った。白い体操服で、完全に無表情で、一定のリズムで走っていった。彼は「ゼッケンは?」と声をかけたけど、反応がない。途中参加の子かと思って、一応メモに「番号なし一名」と書いた。学校に戻って他の教員に確認したら、そんな子はいないと言われた。ゴール地点では番号なしの子は確認されていない。つまりその子は、折り返しを回ったあと、どこにも到着していない。彼はそのメモを何年も捨てられなかったという。
四つ目。二千十年代に掲示板に投稿されたものとして知られている話。投稿者は当時高校一年生で、学校の持久走は十キロというなかなかの長さだった。七キロ地点あたりで完全に足が止まりかけて、歩こうかと思っていたときに、隣に白い体操服が並んだ。声はかけられなかった。ただ、完全に同じピッチで足を揃えてきた。不思議と足が前に出た。そのまま二キロ以上一緒に走って、ゴール直前で、隣がすっと遠のいた。逆に助けられた形なので怖くはないけれど、投稿者は「あれは自分の自己ベストを出すためのペースメーカーだったのか、それとも自分をどこかに連れていこうとしていたのか、今でも決められない」と書いていた。この、良い霊なのか悪い霊なのか判定しない締め方は、この怪談の中では少数派だけど、すごく印象に残る。
ネットでは何が言われてきたか
この話が回るとき、コメント欄はだいたい二つに割れる。一つは「それランナーズハイだろ」派。もう一つは「いや、自分も見た」派。後者の書き込みを読むと、面白いことに内容がかなりバラバラだ。白い体操服だったという人もいれば、黒いジャージだったという人もいるし、服装は覚えていないけど抜けなかった人がいた、という人もいる。共通しているのは服装ではなく、「どうしても距離が縮まらなかった」という感覚のほうだ。この感覚の共有率の高さが、この怪談の強さを作っている。
考察側でよく出るのが、「先輩の霊説」だ。昔その学校で持久走にめちゃくちゃ入れ込んでいた子が一人いて、何かの事情で大会に出られなかった、あるいは出たけど完走できなかった。だから毎年参加している。抜かせないのは意地悪さではなくて、これが彼のベストなのだ、という解釈もある。この解釈は妙に人気があって、相手を悪意のない存在にすることで、かえって後味が悪くなる。
もう一つ、人気のある考察が「自分自身説」。白い体操服の走者は、未来の自分か過去の自分で、だからどんなに頑張っても抜けない。自分を抜くことはできないからだ。この読みは少し文学的すぎる気もするけど、持久走という競技が本質的に自分との勝負だというところとひっかかっていて、支持者が多い。
ちゃんとした反証もある
冷静な反論は、この怪談に関してはかなり強力だ。まず、長時間の有酸素運動中には、人間の知覚は相当ないい加減になる。視野が狭くなり、周辺視野が落ち、時間の感覚も狂う。この状態で前方の一点を見つめ続ければ、距離感の判定は簡単に壊れる。実際には少しずつ離されていても、本人には「ずっと同じ距離」に感じられる。
次に、人は前を走る人に引っ張られると、無意識にピッチを合わせてしまう。これは集団走行で広く知られている現象で、だから「ペースを上げたのに追いつけない」というのは、実はこちらが上げた分だけ相手も上がっている可能性が十分にある。前を走っているのが同じ学校の、同じくらいの実力の子であれば、十メートルの差が何キロも維持されるのはむしろ自然だ。
白い体操服についても反論がある。地域によっては、周辺の別の学校の陸上部が同じ堤防や公園を練習コースにしている。持久走大会のコースは公道や堤防を使うことが多いから、完全に封鎖していない限り、一般の人や他校の生徒が混ざる余地はある。白い体操服でゼッケンなしの子がいても、別の学校の子だったと考えれば何も不思議ではない。
そして、ゴールのテープが切れていなかったというクライマックスも、実は弱い。学校の大会では、テープは一位の子のために一回張って、あとは張らないことが多い。つまり、自分がテープを切ったなら自分が一位なのは当たり前で、それは怪異の証拠にはならない。この指摘はちょいちょいネットで見かけるし、正しい。ただし、その通りの指摘をされてもこの怪談は全然弱らない。なぜなら怖さの中心はオチじゃなくて、抜けなかった十メートルのほうにあるからだ。
なぜこの話はこんなに嫌な感じなのか
この怪談のいちばんの肝は、恐怖と痛みが区別できないところにある。持久走というのは、それ自体が苦しい。胸が苦しくて、足が重くて、やめたいと思っている。その苦しさの真っ最中に怪異が現れるから、怖いのかしんどいのか、本人も分からない。この混濁が、話を聞いている側にも伝染する。学校の怪談の多くは、主人公が普通の状態で怪異に遭遇する。この話は違う。主人公は最初から限界に近い。判断力が落ちている。だからこそ、逃げるという選択肢が最初からない。
二つ目に、この怪異は主人公を「頑張らせる」。普通の幽霊は人を逃がすか、追いかける。こいつは人を引っ張る。しかも良い方向に引っ張っているように見える。自己ベストが出る。一位になる。でもその代償として、体を壊す。この取引っぽさが、子どもにとっては非常にリアルな恐怖になる。学校は日々「頑張れ」と言ってくる。頑張って、でも無理はするなとも言ってくる。どこまでが頑張りで、どこからが無理なのか、誰も教えてくれない。白い走者は、その境目のちょうど向こう側に立っている。
三つ目、これは大人になってから効いてくるやつなんだけど、持久走大会という行事は、学校が子どもの身体をもっとも露骨に序列化する場面だ。学力の順位は人前で発表されないけど、マラソンの順位は全校生徒と保護者の目の前でゴール順に可視化される。しかも遅い子は、遅いというただそれだけの理由で、長い間人前にさらされる。全員がゴールしたあとのグラウンドを、一人で走っている子の情景。あれを思い出せる人は多いと思う。白い走者の話は、その情景の反対側、つまり「どこまでも抜かせてくれない一人」を置く。学校という場の序列の、いちばん残酷な部分を怪談がさわっている。
四つ目に、この怪異は、完全に日常の中にいる。体育館のうらとか、夜の校舎とか、そういう非日常の場所にいない。真昼間の、保護者がカメラを構えている公道にいる。これは学校怪談としてはかなり異例で、だからこそ後味が悪い。暗い場所に入らなければ会わない存在なら、入らなければいい。でもこいつは、行事に参加しているだけで会う。回避不能なんだよな。
広まった理由は、話が短くて、全員が主人公になれるから
この怪談は、語るのに二分しかかからない。白い人がいて、抜けなくて、ゴールしたらいなかった。これだけだ。しかも日本の学校に通った人間の大半が、持久走かマラソン大会を経験している。ということは、聞いた瞬間に自分の体験を上書きできる。あの堤防、あの坂、あの折り返しのコーン。全部自分の記憶で埋められる。これは怪談にとって最強の条件だ。
そして、この話には死体も血も出てこない。子どもに語っても大人に叱られないし、教室でも集会でも語れる。実際、持久走大会の前の週になると、この手の話がクラスで回りはじめる。大会が嫌だという気持ちと、怪談を語りたいという気持ちが、ちょうど同じ時期にピークを迎える。行事の前の不安を、子どもは怪談に変換して処理しているところがあると思う。
もう一つ、この話はオチを自由に差し替えられる。テープで終わってもいいし、写真で終わってもいいし、記録表で終わってもいい。オチの在庫が多い話は長生きする。語り手が自分の学校に合わせて部品を交換できるからだ。周回コースの学校なら一周多い型に、堤防コースなら折り返し型に、自由に組み換えられる。
怖いのは幽霊じゃない、「ペース」のほうだ
ここまで書いてきて改めて思うのは、この怪談の核にあるのは幽霊ではなく、「ペース」という概念そのものだ、ということだ。持久走は、子どもが人生で初めて「自分のペースを配分する」という概念に出会う場面だ。短距離走にペースはいらない。とにかく全力で走ればいい。でも千五百メートルを走るとなると、最初に飛ばしすぎればあとがないし、温存しすぎれば順位が下がる。この配分という行為は、子どもにとってかなり高度で、しかも失敗すると身体が直接苦しむ。白い走者は、その配分を壊しに来る存在だ。自分のペースを守っていれば会わない。一度でも「抜けるかも」と思ってペースを乱した瞬間に、この怪異は発動する。人間の欲をトリガーにする怪異というのは古来多いけれど、「もう少しで抜けそう」という極めてスポーツ的な欲を使うのは、かなり新しい発明だと思う。
もう一つ掘っておきたいのは、この話が死を直接描かないにもかかわらず、死の匂いがする理由だ。体育の行事の怪談には、もう一つ有名な系統がある。ゴールの瞬間の写真で、応援していた全員の手が合掌していた、というやつだ。これは拍手と合掌という、形はほとんど同じだけど意味が正反対の二つの動作を重ねるという、極めて優秀なアイデアでできている。祝福と弔いが同じ手の形をしている。この強烈なイメージが先にあるから、白い走者の話は何も説明しなくても、聞いている側が勝手に「この学校で昔何かあったんだな」と補完してくれる。怪談というのはこういう、既存の話の貯金を使って説明を省略する技術の上に成り立っている。
実在の背景をもう一度押さえておくと、校内マラソンという行事はいま大きな転換点にいる。順位をつけない、距離を短くする、リレーにする、あるいはやめる。実施している学校でも、体調確認の手順は昔とは比べ物にならないほど厳しくなっているし、コースには救急の備えを置くのが当たり前になってきた。三十年以上前の、倒れた子をすぐに助ける手段がその場になかった時代とは、現場の風景が違う。その変化はもちろん良いことなんだけど、怪談の側から見れば、土壌が失われていくということでもある。人が倒れるかもしれないという緊張感がなければ、白い走者はただの先行者になってしまう。
だからこの怪談は、あと十年二十年で形を変えるはずだ。すでに兆候はあって、記録係型のように、コースを走る体験ではなくデータの矛盾で怖がらせる型が伸びている。位置情報を記録する道具を使う学校もあるから、そういう機器の記録に一人分余分な軌跡が残っていた、という型もすでに出てきている。白い体操服というビジュアルは弱まるかもしれないけれど、抜かせない何かがいるという骨格は残るだろう。なぜなら、人間は何をやっても自分の先を行く何かを見てしまうからだ。
最後に、この話を人に語るときのコツを書いておきたい。白い走者の描写に時間を使わないこと。顔を描かない、服装は一行で済ませる、声も出させない。代わりに、主人公の苦しさの描写に全重量をかける。肺の痛み、口の中の鉄の味、耳の奥の拍動、吐きそうなのに吐けない感じ。ここを密にするほど、聞いている人の体が勝手に思い出す。自分もこれを知っている、と思った瞬間に、白い背中は相手の記憶の中に入り込む。そして、オチのあとに余計な考察を足さない。テープが切れた、と言って、黙る。聞いている側が「あれ?」となるまでの一秒が、この話のいちばんいいところだ。
もし自分がこの先の人生で、堤防を走っていて前に白い体操服を見たらどうするか。自分ならペースを下げる。この怪談の中で、ペースを下げて白い走者を見送った子の話は、あまり語られない。抜こうとした子の話ばかりが残っている。考えてみれば当たり前で、ペースを下げて何も起きなかった子は、そもそも自分が何かに会ったことに気づいていない。抜こうとした人間だけが、あの十メートルの異常さを知る。この怪談は、頑張った人間にだけ見えるようにできている。そこが一番意地が悪いところで、一番よくできているところだと思う。
