奇怪千万からのお願い

このサイトの記事が面白かった、役に立ったと思って頂けたら、一つお願いがございます。
Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入って頂いて買い物をしていただくと
サーバーの運営費と心霊スポットやパワースポットの取材費になります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。
貴方様の支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。
記事をもっとたくさん増やしたいので、ご協力をお願いします。

当サイトではアマゾンアソシエイト以外のアフィリエイトは使用しません
(記事が見づらくなるから・・・)

校舎の下に何があるのか――御嶽を潰した校庭、ガマの真上の教室、そして「花子さん」が沖縄で名前を失った理由

沖縄の学校の怪談は、ちょっと様子がおかしい。

いや、怖いという意味ではない。怖いのは全国どこも同じだ。おかしいのは構造のほうだ。本土の学校怪談は「学校という建物の中で何かが起きる」話がほとんどで、舞台は校舎に閉じている。三階のトイレ、理科室、音楽室、階段、鏡。全部が校舎の内側だ。ところが沖縄の学校怪談は、必ずと言っていいほど校舎の外側に理由がある。正確に言えば、校舎の下だ。

「あそこは元々ウタキだったから」「昔あそこにガマがあったから」「あの木は切ったらいけない木だから」。沖縄で子どもたちが怪談を語るとき、オチより先に土地の由来が来る。話の順番が本土と逆なのだ。本土では「三番目のトイレで声がする」が先で、理由は後付けか、そもそも無い。沖縄では「ここは拝所を潰して建てた」が先で、怪異はその当然の帰結として語られる。

つまり沖縄の学校怪談は、怪談であると同時に土地の履歴書だ。そしてその履歴書には、琉球王国以来の信仰と、一九四五年の三か月と、アメリカ世の二十七年が、全部まとめて書き込まれている。重い。重いのだが、子どもたちは平然とその上でドッジボールをしている。この記事はその落差の話だ。

校舎の下に何があるのか――土地の履歴を先に読む

まず前提の整理からいこう。沖縄には御嶽がある。ウタキと読む。集落の守り神が降りる聖域で、多くは森や岩、大きな樹の根方にある。中心にイビと呼ばれる最も神聖な場所があり、本来はノロと呼ばれる女性神職しか立ち入れない。建物がないことも多い。鳥居も社殿もない、ただの森。だから外から来た人間には、それが聖域だと分からない。

ここが決定的に重要だ。神社なら誰でも分かる。鳥居がある。しかし御嶽は、知らない人間には藪にしか見えない。加えて集落ごとに拝所が無数にある。井戸のカー、村の始祖を祀る場所、火の神を祀る場所。那覇市内だけで数百単位で存在すると言われるし、正確な総数を誰も把握していない。

そこに戦争が来た。一九四五年、沖縄本島は地形が変わるほど砲撃を受け、集落は焼け、住民は収容所に入れられた。戻ってきたら自分の集落が丸ごと基地の中だった、という人が大量に出た。土地の記憶が一度断ち切られたのだ。

さらに戦後の学校建設が重なる。収容所の中で、住民は半ば自然発生的に学校を始めた。屋根もない。青空教室だ。やがて米軍払い下げの資材でカマボコ型の兵舎じみた校舎が建ち、そこからコンクリート校舎へと更新されていく。ベビーブームも来た。とにかく校舎が要る。急ぐ。用地はどこでもいい、平らで広ければ。

平らで広い土地というのは、沖縄では往々にして曰くつきだ。丘の上の平坦地は昔からの拝み場だったり、旧日本軍が削って陣地にした跡だったり、飛行場の残骸だったりする。一九四三年から翌年にかけて、本島と宮古、石垣に十五か所の飛行場が造られた。読谷の北飛行場、嘉手納の中飛行場、小禄の海軍飛行場、西原、仲西、伊江島。読谷だけで約二百六十六万平方メートルが接収され、五百四十八人の地主のうち土地代を受け取った者は一人もいなかった、という記録が残っている。返す返すと言われて返らなかった土地。その一部が戦後、返還され、学校になった。

だから沖縄の学校の敷地には、しばしば二重三重の履歴がある。琉球王国期の拝み場、旧日本軍の陣地、米軍の接収地、そして学校。子どもがそこで「なんか出る」と言い出したとき、大人は笑い飛ばせない。笑い飛ばせない理由を、大人のほうがよく知っているからだ。

完全再話――丘の上の小学校と「三時十五分の女」

本島中部の、丘を削って造成した小学校の話として長く語られてきたものを、聞き書きの形で再現しておく。細部は語り手によって揺れるが、骨格はおおむね共通している。

その学校は昭和四十年代後半、丘の斜面を削って建てられた。以前は雑木林で、地元の人はそこを「ウガンヌモリ」と呼んでいた。拝みの森、という意味だ。造成の際、林の中にあった石積みと香炉は、敷地の隅、体育倉庫の裏にまとめて移された。移すときにきちんと拝みをしたかどうか、ここが語りの分岐点になる。「区長が立ち会って拝んだ」と言う人もいれば、「工期がなくてブルドーザーが先に入った」と言う人もいる。後者のバージョンのほうが圧倒的に流通している。怪談は理由を欲しがるからだ。

出るのは西校舎の三階、いちばん端の教室だという。時間は決まっている。午後三時十五分。放課後の掃除が終わって、児童がほとんど帰った時間帯だ。

語りはこう続く。ある日、六年生の女子が二人、忘れ物を取りに三階へ上がった。階段を上がりきったところで、片方が足を止める。「ねえ、誰かいる」。廊下の突き当たり、教室の前に女の人が立っている。白っぽい服。うつむいている。髪が長い。二人は先生かと思って会釈した。女は動かない。

近づくと、女は教室の中を覗き込んでいた。窓ではなく、廊下側の壁を、だ。壁には窓がない。掲示板が貼ってあるだけだ。それなのに、女は明らかに壁の向こう側を見ていた。首がわずかに動いて、視線が壁の中を追っている。

一人が「あの」と声をかけた。女がゆっくり振り向く。顔が、ない。ないというより、そこだけ光が入っていないような、輪郭だけの黒。二人は悲鳴も出さずに階段を駆け下りた。踊り場で振り返ると、女は廊下の真ん中に立っていて、まだ壁を見ていた。

ここまでが表の話。裏がある。翌日、二人は担任に言った。担任は怒らなかった。ただ黙って、放課後に用務員のおじいを連れてきた。おじいは三階に上がり、廊下の突き当たりで立ち止まって、しばらく壁を見ていた。それから言った。「ここな、昔、道だったばーよ」。

丘を削る前、そこには林を抜けて拝み場へ向かう細い道があった。おじいは子どもの頃、その道を通って母親と拝みに行ったという。造成でその道は消え、ちょうど道があった高さに、三階の廊下が来た。女は道を歩いているのだ、というのがこの怪談のオチである。壁を見ていたのではない。壁の向こうに、まだ道が続いているのだ。

この「地面の高さがずれた」という発想が、沖縄の学校怪談の核にある。本土の怪談は水平方向に怖い。廊下の奥、階段の下、鏡の中。沖縄の怪談は垂直方向に怖い。真下、あるいは元の地面の高さ。土を盛った分だけ、死者の目線は宙に浮く。だから三階に出る。この理屈はやたらと納得感があって、聞いた子どもは一生忘れない。

派生バージョンその一、香炉が動く

同じ骨格で、主役が女ではなく香炉になっているバージョンがある。体育倉庫の裏にまとめられた石と香炉が、朝になると位置がずれている、という話だ。用務員が直す。翌朝またずれている。ずれる方向は毎回同じで、丘の斜面の上、つまり元の御嶽があった方角を向く。校長が業者を呼んでコンクリートで固定させたところ、その晩、固定したばかりの土台に亀裂が入った。翌日、区の年配者が来て、固定を外させ、香炉の向きを元に戻して線香を立てた。それ以来ずれなくなった、という締め方をする。この派生は怪異の主体が人でなくモノになっているぶん、かえって生々しい。学校というのは物を固定したがる場所だ。名札を固定し、机の位置を固定し、時間割を固定する。その固定の暴力に土地が抵抗する話として読むと、けっこう鋭い。

派生バージョンその二、ソテツと転校生

もう一つ、体育倉庫の裏に生えていたソテツを軸にした派生がある。ソテツは沖縄では飢饉のときに毒抜きして食べた木で、記憶の重さがガジュマルとは別種にある。この派生では、ソテツを切った年から、その学校に毎年ひとりずつ、名簿に載っていない転校生が紛れ込むようになる。学級写真を数えると必ずひとり多い。担任が数え直すと合っている。写真を数えるとまた多い。誰も顔を思い出せない。卒業アルバムの制作段階で、印刷所から「クラス人数が名簿と合いません」という電話が毎年かかってくる。これが延々続く。オチがないのがオチだ。学校という組織が持つ「人数を数える」という強迫的な性質を、そのまま怪異に転化している。よくできている。

派生バージョンその三、ブランコの高さ

三つめは校庭側の派生。校庭のブランコが、夜のあいだに二本とも同じ高さで揺れている、というありふれた話に見えて、沖縄版には条件がつく。揺れるのは旧暦の特定の日の前夜だけだ。多くの語りでは旧暦十二月二十四日の前夜とされる。この日は屋敷の御願の日で、家の四隅の神、門の神、便所の神、中陣の神に一年の礼を言う日だ。つまり神に挨拶をする日の前夜に、挨拶をしてもらえない側が校庭に出てくる、という理屈になっている。日付に土着の暦を噛ませてくるあたりが、本土型の「丑三つ時」と決定的に違う。丑三つ時は抽象だが、旧暦十二月二十四日は生活の日付だ。台所のヒヌカンに手を合わせる祖母の姿とセットで記憶されている。怖さの解像度が上がるのはそのせいだ。

ガマの上に建った学校、という最悪の立地

御嶽の話が信仰の層だとすれば、ガマの話は戦争の層になる。

ガマは沖縄本島南部に無数にある自然の鍾乳洞だ。琉球石灰岩の島だから、地下は穴だらけである。沖縄戦ではこれが避難壕になり、野戦病院になり、そして最悪の場所になった。南城市の糸数壕、通称アブチラガマは南風原の陸軍病院の分室として使われ、内部には火炎放射の跡が残る。糸満市の轟の壕は全長百メートルほどで、最大時には千人以上の住民と兵が詰め込まれ、県庁が解散を宣言した「沖縄県庁最後の地」でもある。八重瀬町のヌヌマチガマは全長約五百メートル、傷病兵の治療施設だった。南城市のターガーガマは約二百五十メートル。読谷のチビチリガマとシムクガマは、同じ集落の二つの壕で生死が分かれた場所として知られる。

問題は、こういう「名前のついたガマ」は一部でしかない、という点だ。石灰岩の島の地下には、名前もなく、記録もなく、戦後に埋め戻されただけの穴が大量にある。学校を建てるとき、地面を掘れば穴に当たる。当たったらどうするか。多くの場合、埋める。工期がある。予算がある。

沖縄の学校怪談で最も数が多く、最も生々しいのがこの系統だ。曰く、体育館の床下に穴がある。曰く、プールの排水口の下は空洞になっている。曰く、あの階段の踊り場は、下に何かあるから他より頑丈に造られている。子どもたちはこの手の建築的な違和感を異様な精度で見つける。床を叩いて音が違う場所、やけに床が冷たい教室、なぜか一段だけ高さの違う階段。それら全部に「下にガマがある」という説明が与えられる。

そして体験談の形はほぼ決まっている。放課後、体育館で部活をしている。誰もいないはずのステージ下、あるいは器具庫のあたりから、複数人が小声で話している音がする。言葉は聞き取れない。方言のような、そうでないような。近づくと止む。離れると再開する。決して悲鳴ではなく、あくまで会話の音だというのがこの系統の特徴だ。ガマの中で息をひそめていた人たちの声、という了解が共有されている。悲鳴のほうが派手なのに、語り手は必ず「小さい話し声」と言う。ここは重要だと思う。悲鳴は演出だが、話し声は記憶だ。壕の中で最も長く続いた音は、悲鳴ではなく囁きだったはずだからだ。

慰霊塔と校庭のあいだ

沖縄には慰霊塔が異様に多い。県が把握しているだけで四百基前後あり、市町村や字が建てたもの、部隊関係者が建てたもの、遺族会が建てたもの、そして学校の同窓会が建てたものが混在する。納骨されているものもあれば、名前だけのものもある。

学校の同窓会が建てた塔、というのが沖縄独特だ。理由ははっきりしている。学校ごと戦場に出たからだ。

一九四五年、沖縄には二十一の男女中等学校があった。そのすべての生徒が動員された。上級生は鉄血勤皇隊、下級生は通信隊、女子は看護要員。法的根拠は無いに等しい。数字を並べると、師範学校男子部は四百十人が動員されて二百三十五人が戦死、第一中学校は二百八十五人中百五十九人、第二中学校は百四十一人中百十五人、工業学校は百四人中九十五人。第二中は八割、工業に至っては九割を超える。女子は師範女子部と第一高等女学校を合わせたひめゆり学徒隊が二百二十二人中百二十三人、白梅が四十六人中十七人、瑞泉が六十一人中三十三人、積徳が二十五人中三人、なごらんが十人中一人。二〇一九年には厚生労働省が保管していた学徒名簿が国立公文書館で公開され、それまで実態不明だった開南中学の学徒七十一人の記録が確認された。七十四年かかったわけだ。

この歴史があるから、沖縄では学校と死者の距離が近い。校門を入ってすぐの植え込みに小さな碑がある。渡り廊下の脇に古い石が据えてある。校庭の隅、フェンス際に囲いがあり、そこだけ草が刈られている。子どもたちは日常的にそれを見て育つ。掃除当番でその周りを掃く。慰霊の日の前には花を供える。

そこから生まれる怪談がある。典型は「碑の前を横切って走ってはいけない」というルールだ。守らないと足が重くなる、転ぶ、その日のうちに怪我をする。上級生から下級生へ、注意という形で伝えられる。これは怪談というより校内の掟に近い。掟であることが、逆にリアリティを補強する。花子さんは信じなくてもいい。しかし碑の前を走るなというルールは、破ると先生に本当に怒られる。だから守る。守っているうちに、なぜ守るのかの説明として怪談が要請される。順序が逆なのだ。

もう一つ多いのが、慰霊の日にまつわる話だ。六月二十三日、沖縄は県全体が半分静止する。学校は多くが休みで、テレビは追悼式を中継する。その前日、二十二日の夕方に部活で学校に残っていた生徒が、誰もいない校舎の窓に人影の列を見た、という形式の話が繰り返し語られる。列であるところがポイントだ。単体ではなく列。行進でもなく、ただ廊下を一方向にゆっくり進んでいる。これも壕から壕へ移動させられた記憶の形と重なる。沖縄の怪談に出てくる死者は、しばしば「移動中」なのだ。

安全のために書き添えておくと、この手の話の舞台とされる場所には、実在の学校名や慰霊塔名を挙げて夜間に立ち入るような真似は絶対にしないでほしい。遺族が今も通う場所だし、そもそも不法侵入である。怪談は語られる場所で聞くのがいちばん怖い。現地に行く必要はない。

ガジュマルとキジムナー――校庭のいちばん厄介な住人

沖縄の学校には、たいていでかい木がある。ガジュマル、デイゴ、フクギ、アカギ。中でもガジュマルは別格だ。気根が幹のように垂れて、何本もの幹が絡み合い、樹齢が読めない姿になる。そしてガジュマルの古木にはキジムナーが住む。

キジムナーの造形は語り手によってかなり幅がある。赤い髪の子ども、全身が赤い子ども、長髪で毛だらけ、大きくて真っ黒いもの、やたらと立派な睾丸を持つ者。手が木の枝のように伸びるとも、跳ねるように歩くとも言われる。地域によって呼び名も違い、大宜味の喜如嘉ではブナガヤーと呼ぶ。ブナンガヤー、ブナガイ、セーマグ、アカガンダー、ハンダンミーといった呼称も記録されている。

性格は一言でいうと「気まぐれな隣人」だ。仲良くなると漁を手伝ってくれる。ただし取れた魚は必ず片目がない。キジムナーは魚の目玉、特に左目が好物だからだ。グルクンの頭が好きだとも言う。夕方になると台所の火を借りに来る。要するに近所付き合いの範疇にいる。

厄介なのは怒らせたときだ。嫌うものがはっきりしていて、タコ、ニワトリ、熱い鍋蓋、そして屁。屁をかまされたキジムナーの報復は容赦がないとされる。住処の古木を切ったり傷つけたりした場合はもっとひどい。家畜を全滅させる、船を沈めて溺死させる、という語りが各地にある。追い出す方法として木に釘を打つという伝承もあるが、実際に追い出した老人が三日後に死んだ、という後日談がセットで語られることが多い。要するに、勝てない相手なのだ。

さて学校である。校庭のガジュマルは、子どもにとって最高の遊び場だ。登れる。中に入れる。秘密基地になる。同時に、それはキジムナーの家でもある。この二重性が沖縄の学校怪談に独特の温度を与えている。

典型的な語りはこうだ。低学年の子が、休み時間にガジュマルの下でひとりで喋っている。友だちができたと言う。赤い服の男の子だと言う。その子の名前を聞いても、はっきりしない。担任が「どのクラスの子?」と聞くと「学校の子じゃない」と答える。ここで担任がどう出るかで話が分岐する。笑って流すバージョンでは、しばらくすると子どもは飽きて何も言わなくなる。ところが別のバージョンでは、その子が急に熱を出して休みがちになり、心配した祖母が事情を聞いて、線香を持って学校に来る。

祖母が校庭のガジュマルの前で拝む。校長は困った顔をしているが止めない。そこが沖縄だ。本土の学校で祖母が校庭で線香を焚いたら大騒ぎになるが、沖縄の学校ではわりと通る。通ってしまう。教頭がそっと灰皿を持ってきたりする。

そして拝んだ翌日から、子どもは元気になる。ガジュマルの話もしなくなる。ただし一点だけ、話の締めに必ず添えられるディテールがある。その日以来、その子はガジュマルの下を通らない。遠回りをして校舎に入る。理由を聞くと「あの子が怒ってるから」と言う。

この「怒っている」で終わるのが良い。祓ったのではなく、こじれたのだ。沖縄の怪異は退治される対象ではなく、交渉相手として扱われる。交渉が決裂することもある。この感覚は本土の学校怪談にはあまり無い。

木を切る、という決断

もっと重い系統もある。校舎の増築や耐震工事でガジュマルを伐らざるを得なくなる、という話だ。これは実際にあちこちで起きる現実の問題で、そのたびに地域で議論になる。台風で倒れた大木の再生に住民から声が上がる、というニュースが現に流れる土地柄だ。

怪談としてのバージョンでは、伐採が決まった時点から前兆が始まる。まず職員室の電話が鳴る。取ると無言。切る。また鳴る。それが伐採の日まで続く。作業当日、チェーンソーが三台続けて止まる。整備したばかりの新品も止まる。作業員のひとりが脚立から落ちる。大した怪我ではない。しかしその晩、作業員全員に同じ夢を見た者が出る。赤い髪の子どもが、木の切り株に座ってこちらを見ている夢だ。何も言わない。ただ見ている。

翌日、区の年配者が来て、切り株の上に酒と塩と米を供え、線香を立てる。作業は再開され、無事に終わる。そして最後の一文が付く。切り株を掘り起こしたら、根の間から古い骨が出た。人の骨か獣の骨か、誰も確かめないまま埋め戻された。

この結末は明らかに二つの層を接続している。キジムナーという琉球伝承の層と、地面から骨が出るという戦後沖縄の現実の層だ。沖縄では住宅工事や道路工事で遺骨が出ることが今も起きる。遺骨収集は八十年経っても終わっていない。だからこの結末は、聞いた人間の背筋を確実に冷やす。ありえない話ではないからだ。

マジムンの分類学と、学校に出てくるやつら

キジムナーが個性豊かな隣人だとすれば、マジムンはもっと事務的な災厄だ。マジムンは沖縄と奄美に伝わる悪霊や妖怪の総称で、種類が異様に多い。

代表格を挙げると、赤ん坊の死霊が四つんばいで近づいてくるアカングヮーマジムン。片脚のないアヒルの姿で現れるアフィラーマジムンは、重病人の生霊が変化したものだとも言われる。真っ黒な牛の姿をしたウシマジムンは、棺を担ぐ台が化けたものとされることが多い。豚の姿のウワーグヮーマジムン。葬具の龕が牛や馬に化けた龕のマジムン。道の辻で人を迷わせるヒチマジムン。古いしゃもじが化けたミシゲーマジムン。宮古島では赤く塗った棺桶が赤い馬に化けるという。奄美には片耳の豚カタキラウワ、耳無しの豚ミンキラウワがいる。

そして共通する最大のルールがこれだ。股をくぐられてはいけない。動物型のマジムンは人間の股の下をくぐろうとする。くぐられた人間は死ぬ。だから沖縄では、夜道で獣が足元に来たら脚を閉じろ、と教える。

防御法も伝わっている。夜道で櫛を挿していたり篩を持っていたりすると狙われる。男はふんどしを鉢巻きにし、女は腰巻きを頭に被れば避けられる。豚型かどうかを見分けたければ「ウワーンタ、グーグーンタ」と囃し立てる。本物の豚の化け物なら逃げ出す。

そして街のあちこちにある石敢當。あれはマジムン避けだ。マジムンは直進しかできず、曲がれない。だからT字路やY字路の突き当たりの家にまっすぐ突っ込んでくる。そこに石敢當を据えておくと、文字を見たマジムンが砕け散る。中国の福建から琉球王国期に伝わった風習で、いまでは石だけでなくプラスチックやガラス、木製、ペンキで直接書いたものまである。ホームセンターで買える。

学校怪談との接続はこうだ。まず「学校の裏門はT字路の突き当たりにある」という指摘から始まる。石敢當がない。あるいは、あったのに工事でどけられた。だから夜、裏門から何かが直進してくる。廊下をまっすぐ進む。曲がれないので、突き当たりの教室に入る。突き当たりの教室で怪異が起きるのは、そういう理屈だ。

この「曲がれないから突き当たりに溜まる」というルールは、学校という建築と相性が良すぎる。学校の廊下は直線で、突き当たりがあり、そこには必ず何かの部屋がある。理科室だったり、資料室だったり、使われていない旧音楽室だったりする。本土の怪談は突き当たりの部屋を「一番奥だから怖い」と扱うが、沖縄の子どもは「直進してきたものが溜まるから」と説明する。説明できてしまうことの怖さがある。

四つんばいのアカングヮーマジムンの学校バージョンも根強い。夕方の廊下を、赤ん坊くらいの大きさの何かが四つんばいで移動している。速い。異様に速い。追いつけない速さで角を曲がる。ここで語り手が必ず注意を付け足す。「絶対に脚を開けて立ってたらいかんよ」。マジムンのルールがそのまま生きているのだ。

ユタに相談する――沖縄だけにある解決編

ここが沖縄の学校怪談の最大の特異点だと思う。本土の学校怪談には解決編がない。花子さんは倒せないし、テケテケからは逃げるしかない。せいぜい「おまじない」があるくらいだ。ところが沖縄には、相談窓口がある。ユタだ。

ユタは霊的な相談を受ける民間の宗教者で、多くは女性だ。神職として制度化されたノロと違い、ユタは公的な位置づけを持たない。カミダーリと呼ばれる激しい心身の不調を経て、その道に入るとされる。サーダカンマリ、つまり「生まれつき霊感の高い生まれ」の人がなりやすい、という了解が広く共有されている。

相談内容は多岐にわたる。墓の移動、家の新築、体調不良、家族の不和、事業の不振。新聞が写真特集を組むくらいには日常に根付いている。「医者半分、ユタ半分」という言い回しが今も生きている。

だから沖縄の学校怪談には、こんな展開が普通に出てくる。子どもが立て続けに階段で転ぶ。同じ場所で、同じ方向に、三人続けて。保健室の養護教諭が「これは多いね」と言い出す。PTAの誰かが「うちのおばあが知ってる人がいる」と言う。そして休日、学校に何人かが集まって、階段の踊り場で拝みが行われる。

学校という公的機関が土着の宗教者を頼るというのは、制度的にはかなり際どい。だから表向きは「PTAの行事」だったり「有志の清掃活動」だったりする。誰も記録に残さない。だが実際にはよくある、というのが沖縄で語られるときの共通認識だ。この「公式には無かったことになっている儀式」という設定が、怪談の信憑性を跳ね上げる。証拠がないことが証拠になるという、あの構造だ。

ユタが下す診断も、話ごとに定型がある。多いのは「ここの下に人がいる」。次に多いのが「この学校の人ではない、通っているだけ」。そして時々出るのが最も怖いやつで、「この子が呼んでいる」。呼んでいるのは怪異ではなく、生きている子どものほうだ、という診断だ。サーダカンマリの子が無自覚に集めている、という理屈になる。

この診断が出た子は、周囲から扱いが変わる。いじめられるという話ではなく、むしろ一目置かれる。「あいつはミーが強いから」と言われる。沖縄の学校には、そういう役回りの子が学年にひとりくらいはいる。少なくとも、いることになっている。この社会的な役割の存在が、本土の学校怪談との差をさらに広げている。本土では霊感の強い子はネタにされるが、沖縄では一種の職能として扱われる場面がある。

マブイを落とす――生きている人間の落とし物

もう一つ、沖縄独自の概念にマブイがある。魂のことだ。人は驚いたり強い衝撃を受けたりすると、マブイを落とす。落ちたマブイは、落ちた場所にそのまま残る。

対処法はマブイグミ。魂込め、である。落とした場所へ行き、そこで小石を拾ったり米粒を握ったりして、「マブヤーマブヤー、ウーティクーヨー」と呼びかけながら本人の胸元に納める。母親や祖母がやる。ユタに頼むこともある。特に幼い子どもはマブイが落ちやすいとされる。

学校はマブイが落ちる場所の代表格だ。転ぶ、殴られる、強く叱られる、跳び箱から落ちる、プールで溺れかける。沖縄の家庭では、子どもが学校で強く驚いて帰ってきた日に、母親が学校まで一緒に行って現場でマブイグミをする、という光景がそう珍しくない。

ここから派生する怪談が秀逸だ。「校庭には、みんなが落としたマブイが溜まっている」というものだ。誰も回収に来なかったマブイが、何十年分も校庭の隅に積もっている。それが夕方になると動き出す。誰の魂でもあり、誰の魂でもないので、姿は定まらない。人の形になりきれない、白っぽい何か。

この発想は本土の幽霊観と根本的に違う。本土の幽霊は死者だ。沖縄のこれは、生きている人間の落とし物である。今も元気に暮らしている大人の、四十年前の一部が、母校の校庭にまだ落ちている。この設定を初めて聞いたときの、あの居心地の悪さを私はよく覚えている。怖いというより、切ない。そして切ないほうが後に残る。

花子さんは沖縄でどう変形したか

さて本題の後半だ。本土の学校怪談が沖縄に入ってきたとき、何が起きたか。

まず花子さんの整理から。原型は一九五〇年頃に流布していた「三番目の花子さん」だとされる。全国的に大流行したのは一九八〇年代で、九〇年代のオカルトブームで映画や漫画に取り込まれ、完全に定番化した。常光徹の調査によって、地域ごとに細部が違うことが記録されている。三階の女子トイレの三番目のドアを三回ノックして「花子さんいらっしゃいますか」と呼ぶ、というのが最大公約数の形だ。

しかし全国は思ったより不統一だ。山形では呼びかけると返事があり、嫌な声で返ってくると何かが起きる。岩手の和賀郡では三番目の個室に入ると声がして、床の穴から白くて大きな手が出る。兵庫には父母や妹弟まで各個室にいるという家族設定がある。長野には「ゆきこさん」、千葉には「みーちゃん」がいる。要するに、花子さんは中央から配られたキャラクターではなく、各地の似た話が事後的に一つの名前に吸収されていった集合体だ。

その集合体が沖縄に来る。復帰は一九七二年。テレビも雑誌も学習誌も本土と同じものが流れ込むようになり、八〇年代には子ども向けの怪談本が全国流通する。沖縄の子どもも当然読む。花子さんを知る。

ところが、沖縄で定着した花子さんはどこか居心地が悪い。語りを集めていくと、面白い傾向が見えてくる。

第一に、沖縄の花子さんは名前が変わりやすい。花子という和名が土地に馴染まないせいか、「三番目のトイレの女の子」という無名のまま語られたり、別の呼称に置き換えられたりする。名前が定着しないというのは、キャラクターとしては致命的に弱い。

第二に、動機が上書きされる。本土の花子さんの背景は曖昧で、いじめや事故など諸説あるが、基本的に理由は空白だ。空白だから全国に広がった。ところが沖縄では、この空白に土地の履歴が自動的に流し込まれる。「あの子は戦争のとき、この場所にあった壕で死んだ子」という説明が付く。付いてしまう。すると、それはもう花子さんではない。沖縄の死者だ。

第三に、対処法が変わる。本土の花子さんは、呼んではいけない、目を合わせてはいけない、という回避の対象だ。沖縄版では、しばしば「拝んであげたら出なくなった」という結末が付く。祓うのでも逃げるのでもなく、供養する。ここに沖縄の宗教文化がはっきり出る。

つまり花子さんは沖縄に上陸した瞬間、外来種として在来の生態系に飲み込まれた。名前を失い、背景を書き換えられ、供養されて成仏した。侵略に失敗したのだ。

テケテケは、実は沖縄から出た可能性がある

もっと面白いのがテケテケの話だ。

テケテケは上半身だけの怪異で、下半身がないまま両手で恐ろしい速さで這って追ってくる。追いつかれると鎌などで体を切断される。定説では北海道が発祥とされ、踏切事故で列車に轢断された女子高生が正体だ、という背景が語られる。

ところがこの北海道起源説には、かなり強い異論がある。都市伝説研究の系統では、テケテケ型の怪異の最初期の記録は一九八〇年頃の沖縄県だという指摘があるのだ。松山ひろしが二〇〇四年に刊行した研究書の中で、沖縄で採集された「上半身だけの少年が音を立てて移動する」という話が取り上げられている。しかも沖縄では「テクタクゥ」「シャカシャカ」といった別の擬音で呼ばれていたという。

同型の怪異は他の地域にもいた。鹿児島にはパタパタさん、滋賀にはコトコトさん、神奈川にはカタカタ。それぞれ独立した名前と設定を持ち、老人だったり男だったりして、悲劇的な過去も持っていなかった。九〇年代の学校怪談メディアブームで、これらが「テケテケ」という一つの名前に統合され、北海道の踏切事故という別系統の都市伝説が起源譚として接着された、という見立てだ。

これが本当なら、話の向きが逆転する。本土から沖縄へ怪談が流れ込んだだけでなく、沖縄から本土へ流れ出したものもあったことになる。しかも流れ出したほうが、全国区の大スターになった。

沖縄起源説を補強するのは、やはり土地の事情だ。上半身だけの人体という像は、沖縄では抽象的な恐怖ではない。一九四五年、島中で人が砲弾に千切られた。その記憶が語りの水位を上げていたとしても不思議はない。もっとも、これは魅力的すぎる説明で、それゆえに慎重にならないといけない。反証もある。上半身だけの怪異は世界中にあり、日本でも「足のない幽霊」という視覚的定型が江戸期の絵画から続いている。轢断事故は全国どこでも起きる。沖縄戦を持ち出さなくても、この像は成立してしまう。

さらに言えば、一九八〇年前後という時期は全国的に学校怪談の採集が本格化した時期でもある。最初に記録された場所が発祥地とは限らない。誰が最初に網を投げたか、という記録の偏りにすぎない可能性は常にある。この点は考察界隈でも繰り返し指摘されていて、沖縄起源説を推す側も「最初期の記録」と慎重に言い、「発祥」と断言しないことが多い。ただ、そういう慎重な言い回しは拡散の過程で削られる。ネットでは「テケテケの正体は沖縄戦」という強い形に変換されて流通している。この変換自体が、怪談の伝播を観察する良い標本になっている。

人体模型と二宮金次郎は、沖縄で伸び悩んだ

本土の定番のうち、沖縄でいまいち根付かなかったものもある。

夜になると動く人体模型は、沖縄でもそれなりに語られる。ただし他の話に比べると弱い。理由はたぶん二つある。ひとつ、人体模型は「学校にしかない奇妙な物」であることが怖さの源泉だが、沖縄の学校には人体模型より遥かに強い異物がすでに立っている。慰霊碑だ。勝てない。ふたつ、人体模型の怖さは無機物が動くという不気味さで、沖縄の怪異はほぼ全て「もと人間」か「もと神」だ。無機物単体の怪異はミシゲーマジムンのように無くはないが、主流ではない。

夜中に走り出す二宮金次郎の像に至っては、そもそも母数が少ない。沖縄の学校に金次郎像が本土ほど普及していないからだ。戦前の分は戦争で吹き飛び、戦後の学校建設は米軍統治下で行われた。勤労と修身の象徴を校庭に立てるという発想が、そのまま復活する土壌が薄かった。怪談は物理的な小道具がないと成立しない。像がなければ、像は走らない。当たり前の話だが、この当たり前が地域差を作る。

代わりに沖縄の校庭に立っているのはシーサーだ。そしてシーサーが夜に動くという怪談は、実はあまり聞かない。シーサーは味方だからだ。味方は怖くない。この「守り神は怪談にならない」という原則は、沖縄の怪談体系をきれいに説明する。石敢當の怪談もほとんど無い。あれは装置であって、キャラクターではない。

体験談その一、旧校舎の階段で数を数える音

ここからは、聞き取った体験談を三つ、なるべく語られたままの温度で置いておく。学校名と地名はぼかしてある。

本島南部の中学校を一九九〇年代半ばに卒業した男性の話。当時、その学校には建て替え前の旧校舎が一棟残っていて、普段は使われず、備品置き場になっていた。夏休みの部活で、顧問から「旧校舎の一階からマットを運んでこい」と言われた。三人で行った。午後四時前、まだ完全に明るい。

一階の廊下は雨戸が閉まっていて薄暗く、埃の匂いがした。マットを引きずり出して外へ運ぼうとしたとき、階段のほうから音がした。数を数える音だったという。子どもの声ではない。大人の男の声で、低く、単調に「ひとつ、ふたつ、みっつ」と続く。方言ではなく標準語だった。それが妙に嫌だった、と彼は言う。

三人は固まった。声は階段を上がりながら数え続けていた。十を過ぎ、二十を過ぎ、まだ数えている。二階に上がる階段は十四段しかない。数が合わない。

顧問を呼びに走った。顧問は面倒くさそうに来て、旧校舎に入り、二分ほどで出てきた。何もいないと言った。ただし顔色が悪かった。そして「あそこはもう入るな」と言った。

その後、彼は卒業まで一度も旧校舎に入らなかった。数年後、旧校舎は取り壊された。彼が大人になってから母親に話したところ、母親はあっさりこう言ったという。「あそこ、うちのおばあが子どものころは兵隊がおったって言ってたよ」。数えていたのは点呼だったのではないか、というのが彼の解釈だ。人数を数える声。二十を超えても終わらない点呼。

体験談その二、ガジュマルの下の弁当

本島北部出身、現在四十代の女性の話。小学三年生のとき、給食のない日に弁当を持参する行事があった。校庭の大きなガジュマルの下で食べていいことになっていて、みんなでシートを広げた。

食べ終わってから、彼女は残ったおにぎりを一つ、木の根元に置いた。理由は自分でもよく分からない。ただ、置いたほうがいい気がしたという。友達に「何してるの」と聞かれ、「あげてるの」と答えた。

その日の帰り、彼女は校門を出たところで転んだ。膝を切って血が出た。祖母が迎えに来ていて、傷を見るなり顔色を変えた。何をしたか、と聞かれた。おにぎりを置いたと答えたら、祖母は「なんで先に断らんかったね」と言ったそうだ。

祖母の理屈はこうだった。何かをあげるという行為は、関係を作るということだ。関係を作るには順序がある。先に名乗って、断って、それから供える。子どもが勝手に食べ物を置くのは、順序を飛ばして相手に貸しを作る行為になる。貸しを作られた側は、返さないといけない。返し方が分からないと、変な形で返ってくる。

翌日、祖母は学校に来て、ガジュマルの下で線香を立てて拝んだ。彼女も横に立たされた。祖母は木に向かって、この子は何も知らずにやったこと、悪気はないこと、これで終わりにしてほしいこと、を延々と話した。話し言葉だった。祈りというより、交渉だった。

それ以来、何も起きていない。ただ、彼女は今でも大きな木の下で食べ物を置く人を見ると止めるという。「あれは軽くやったらいかんことだから」。

体験談その三、慰霊の日の前夜の職員室

本島中部の小学校に勤めていた元教員の男性の話。二〇〇〇年代の初め、六月二十二日の夜、翌日の慰霊の日に向けた資料の準備で職員室に残っていた。残っていたのは彼ともう一人、年配の女性教諭だけだった。

九時を回ったころ、廊下側の窓の外を、何かが通った。人だと思った。用務員かと思って声をかけようとしたら、女性教諭が「いいから」と制した。

窓の外を、続けて何人も通っていた。全員が同じ方向、校庭のほうへ向かっている。速度は歩くより遅い。姿ははっきり見えず、ガラスの向こうに濃さの違う影が流れていくだけだった。彼は数えようとしたが、数えている途中で数が分からなくなった。

十分ほどで止んだ。女性教諭は資料の続きを作っていた。彼が「今の」と言いかけると、彼女はこう答えたという。「毎年よ。二十二日の夜だけ。校庭に集まって、朝には帰る」。

なぜ誰も騒がないのか、と彼は聞いた。彼女は「騒ぐ話じゃないから」と言った。それだけだった。

彼はその後、別の学校に異動した。異動先で同じことは起きなかった。ただ、六月二十二日の夜だけは、いまだに窓の外を見る癖が抜けないという。

ネットではどう扱われてきたか

沖縄の学校怪談は、ネット上でずっと独特の位置にある。

まず、掲示板文化の時代から「沖縄スレ」は別格の扱いを受けてきた。他県の心霊スポットスレが廃墟やトンネルの話で埋まる中、沖縄スレだけは戦跡の話が中心になり、書き込みのトーンも違った。茶化す書き込みが少ないのだ。ふざけると地元の書き手から本気で怒られる、という空気が早くから形成されていた。この自己規制が、結果的に沖縄の怪談の質を上げた面がある。ネタが淘汰され、聞き書きに近いものが残った。

一方で、二〇一〇年代以降の動画プラットフォームの時代になると、話は荒れる。心霊スポット凸動画の対象として沖縄の戦跡や廃校が消費され、実在の学校名を出したタグまで作られるようになった。これに対する地元からの批判は強い。遺骨がまだ収容されていない場所がある土地で、肝試しをするという行為の意味が違いすぎるからだ。この摩擦は今も続いていて、沖縄の怪談を語る書き手の多くが、冒頭に「行かないでほしい」と書く慣習を持つに至った。

考察界隈での主要な論点は三つある。ひとつめは、先に書いたテケテケ沖縄起源説の妥当性。ふたつめは、沖縄の学校怪談が「戦争の記憶の民間伝承的な保存装置」として機能しているのか、それとも単に戦争を素材として消費しているだけなのか、という評価の対立。みっつめは、ユタや御嶽を怪談の文脈で語ることが、生きている信仰への敬意を欠くのではないか、という倫理的な問いだ。

三つめは特に重い。御嶽は観光地ではなく現役の祭祀の場だ。ユタは職業として今も存在する。それを怪談のギミックとして扱うことへの違和感は、当然ある。ただ反論もあって、沖縄の民俗研究の側からは「怪談として語られることで若い世代が土地の由来を知るという回路は現実に機能している」という指摘が繰り返されてきた。実際、自分の学校の下に何があったかを、平和学習の授業ではなく先輩の怪談で最初に知った、と証言する人はかなり多い。

私は後者に寄っている。怪談は不真面目だが、そのぶん届く。真面目な語りは目を逸らされるが、怖い話は聞かれる。八十年前の三か月の話を、二〇二〇年代の中学生に自発的に語らせる装置は、そう多くない。

反証もいくつか置いておく

もちろん、ここまで書いてきた「沖縄の学校怪談は土地に根ざしている」という図式には、いくつも穴がある。

まず、本土の学校怪談だって土地の由来を語る。処刑場跡、墓地跡、池を埋めた場所。この手の説明は全国どこにでもある。沖縄が特別だという言い方は、他県の話を単純化しすぎている可能性がある。

次に、沖縄の学校怪談の中にも、土地とまったく関係ない純粋な学校怪談が大量にある。理科室の骨格標本、開かずのロッカー、鏡の中の人数が合わない話。これらは全国共通で、沖縄版に特別な変形が入っていないものも多い。土地の由来が付く話ばかり取り上げると、選択バイアスがかかる。

さらに、「元は御嶽だった」という説明そのものが、後付けの伝説であるケースは相当あるはずだ。実際に登記や地籍で確認できる例は少ない。むしろ「なんとなく古そうな石が敷地にある」ことから逆算して、御嶽だったことにされる。怪談は理由を欲しがると先に書いたが、その理由は捏造されやすい。

そして最も重要な反証。沖縄戦の記憶を怪談の題材にすることには、当事者の中に強い拒否感を持つ人がいる。祖父母を亡くした人にとって、家族が幽霊のネタにされるのは愉快ではない。これは「野暮を言うな」で流していい話ではない。書く側は、少なくともその不快が正当なものであることを承知した上で書くべきだ。私はそう思って書いている。

なぜ怖いのか、なぜ広まったのか

最後に分析をまとめておく。

沖縄の学校怪談が怖い理由の第一は、垂直方向の怖さだ。真下に何かがあるという恐怖は、逃げ場がない。廊下の奥なら引き返せる。階段の下なら上ればいい。しかし床の下からは逃げられない。学校にいる限り、常にその上にいることになる。この「常時接触している」感覚が効く。

第二に、怪異の理由が説明可能であることだ。普通、説明されると怖くなくなる。ところが沖縄の場合、説明されるほど怖くなる。なぜならその説明が事実に基づいているからだ。この学校の下にガマがあったというのは、怪談の設定ではなく地質と歴史の話でありうる。虚構の中に本物が混じっている構造が、いちばん人間を不安にする。

第三に、対処法が存在することが、逆に怖さを増している。ユタに相談する、拝む、線香を立てる。対処法があるということは、対処が必要な事態が実在するということだ。方法が用意されているという事実そのものが、脅威の実在を保証してしまう。花子さんに対処法がないのは、対処する必要がないからだ。フィクションだからだ。

広まった理由もいくつか挙げられる。ひとつは学校という装置の性質だ。学校は毎年新しい一年生が入ってきて、六年か三年で全員入れ替わる。伝承にとってこれ以上の環境はない。上級生から下級生へ、必ず語り継ぐインセンティブがある。上級生は語ることで優位に立てるからだ。

ふたつめは、沖縄には語りの受け皿があったことだ。もともと祖父母が孫に昔話をする文化が強く、鬼餅の話や識名坂の遺念火、耳切坊主、七つ墓といった民話が生活の中で語られてきた。耳切坊主は子守唄にまで入り込んでいる。悪さをすると耳を切られるぞ、という脅しだ。この土壌があるから、学校怪談も自然に接ぎ木された。

みっつめは、方言と共通語の二層構造だ。沖縄の子どもは、標準語で書かれた怪談本を読みながら、家では祖父母のシマクトゥバを聞いて育った時期が長い。方言札の記憶がある世代もいる。二つの言語層があるということは、二つの怪異体系があるということでもある。花子さんは標準語で来た。マジムンは方言で来た。子どもたちはその両方を持っていて、しばしば混ぜた。混ざったところに、この島にしかない怪談が生まれた。

そして最後に、身も蓋もない理由をひとつ。沖縄の学校は、単純に環境が怖い。夏の午後、スコールで空が暗くなり、蝉が一斉に鳴き止む。ガジュマルの気根が風で揺れる。石灰岩の地面は湿っている。廊下は風が抜けて、夕方には赤くなる。この物理環境の中に立っていると、何かがいてもおかしくないと本気で思えてくる。怪談の半分は、たぶん気候が作っている。

四つの地層は、なぜ混ざらなかったのか

ここからは総括と、本文に入れ切れなかった補助線をまとめて置いておく。

まず、沖縄の学校怪談を一枚の地図として見たときの構造を言語化しておきたい。この島の学校怪談には、はっきり四つの地層がある。いちばん下が琉球王国期以来の信仰層で、御嶽、拝所、火の神、マジムン、キジムナーがここにいる。その上に一九四五年の戦争層があり、ガマ、学徒隊、慰霊塔、遺骨、不発弾が積もっている。さらに上に米軍統治期の断絶層があって、土地の接収、地籍の喪失、青空教室、急造校舎がここに入る。いちばん上が復帰後の本土文化層で、花子さん、テケテケ、人体模型、心霊番組、そしてネットが乗っている。

沖縄の学校怪談の面白さは、この四層が混ざらずに重なっていることだ。混ざらない、というのが肝で、本土型の話が入ってきても、下の層を書き換えることができなかった。むしろ下の層が上の層を吸収した。花子さんが戦争で死んだ子に変換されるのは、上層の弱い設定が下層の強い設定に置換された結果だ。文化的な地下水位が高い土地では、外来の話は沈む。沖縄はまさにそういう土地だった。

次に、「なぜ沖縄の怪異は交渉できるのか」という点をもう少し掘りたい。本土の怪異は基本的に排除の対象だ。祓う、封じる、逃げる。ところが沖縄の怪異は、供える、断る、名乗る、頼む、といった動詞で扱われる。これは信仰の構造の違いから来ている。沖縄の神観念では、神と祖霊と死者の境界が本土ほど固くない。死者は時間をかけて祖霊になり、祖霊は最終的に神の側に行く。三十三年忌をひとつの区切りとする考え方が本島の広い範囲で共有されてきた。つまり死者は、放っておいても格上げされていく存在なのだ。だから怪異が出るというのは、この昇格プロセスのどこかで詰まっている、という診断になる。詰まりを解消してやればいい。排除する必要がない。

この発想は、学校怪談の結末に決定的な影響を与えている。本土の学校怪談は基本的に解決しない。花子さんは今日もトイレにいる。ところが沖縄の学校怪談は、しばしば解決する。拝んだら出なくなった、で終わる。怪談としては物足りないと感じる人もいるだろうが、私はこの終わり方に強く惹かれる。怖い話が、最終的に「ちゃんと弔われた話」に着地する。これは怪談の機能としてかなり成熟している。

三つめの補助線は、学校という制度と土着信仰の衝突についてだ。学校は近代国家の装置そのもので、時間割で子どもを管理し、全員に同じ言語を教え、地面をならして直線の廊下を通す。近代化の尖兵だ。一方の御嶽や拝所は、村落共同体の時間と空間の中心にあった。この二つは本来、両立しない。実際、明治期から戦前にかけての沖縄の教育史は、標準語の強制と土着文化の抑圧の歴史でもある。方言札はその象徴だ。

その学校が、戦後、御嶽の跡地に建った。制度が信仰を物理的に踏み潰したわけだ。だから怪談が生まれるのは、ある意味で必然だった。踏み潰された側は、公的な場では発言権を持たない。職員会議で「拝所を潰したから障りがある」とは言えない。言えないから、子どもの口を借りて出てくる。学校怪談は、公式の言説から排除されたものが子どもの語りとして噴き出す穴だ、と考えるとかなり腑に落ちる。

そしてこの穴は、沖縄では大人がわりと放置してきた。本土の学校なら「くだらないことを言うな」で終わるところを、沖縄の大人はしばしば黙認し、ときには自分から補足する。おばあが線香を持ってきて、教頭が灰皿を用意する。あの光景は、制度が土着に対して行った譲歩の記録だと思う。とても小さい譲歩だが、記録である。

四つめに、数字の話をもう一度したい。第二中学校は動員百四十一人のうち百十五人が戦死した。工業学校は百四人中九十五人。この割合がどれほど異常か、想像してみてほしい。ひとクラス四十人で三クラス。そのうち生き残るのは一クラス弱だ。学年が丸ごと消える、というのはこういうことだ。同窓会が慰霊塔を建てるのは当然で、むしろ建てないほうがおかしい。

だから沖縄の学校の敷地に立つ碑は、他県のそれとは意味が違う。あれは「この学校の生徒」の碑なのだ。無関係な戦没者ではない。同じ校歌を歌った先輩の名前が刻まれている。その前を走ってはいけないという掟が生まれるのは、霊的な理由というより、ごく人間的な理由からだろう。そしてその人間的な掟が、時間が経つにつれて霊的な説明を獲得していく。この変換過程こそが、怪談が生まれる現場だ。私たちは怪談を「作り話」と呼ぶが、実際には掟が説明を求めた結果として、事後的に立ち上がってくることのほうが多い。

五つめ。ネット時代における沖縄の学校怪談の変質にも触れておきたい。二〇二〇年代の子どもは、怪談を先輩から聞かない。動画で見る。すると何が起きるか。まず、話が短くなる。三十秒で成立しないと最後まで見られないからだ。次に、オチが強調される。振り向いたら顔がない、で終わる。土地の由来のような前置きは削られる。

つまり、沖縄の学校怪談の最大の特徴だった「土地の履歴書」の部分が、真っ先に切り捨てられている。残るのは顔のない女だけだ。これは全国どこの話とも区別がつかない。沖縄の怪談が全国標準に均されていく過程が、いま進行中である。

ただし、面白い揺り戻しもある。動画で短く消費された子どもが、コメント欄で「なんでそこに出るの」と質問する。すると地元の誰かが長文で由来を書く。その長文が伸びる。結果として、動画は短くなったのに、由来の解説は以前より広く読まれるようになった側面がある。伝承の器が変わっただけで、中身は生き延びているのかもしれない。この観測はまだ数年分の話でしかないから、断定はできない。しかし私はわりと楽観している。

六つめに、キジムナーの現在について。キジムナーは今や完全にキャラクター化した。ゆるキャラになり、菓子のパッケージになり、観光施設のマスコットになった。赤い髪の可愛い妖精だ。これに対して「本来のキジムナーは怖い存在だった」という揺り戻しの言説も、ここ十年ほどで目立つようになった。実際、伝承を丁寧に読むと、キジムナーは相当に危険だ。祟れば家畜が全滅し、船が沈む。追い出せば追い出した人間が死ぬ。可愛い妖精ではない。

しかしここで面白いのは、キャラクター化と怪談化が同時に進行していることだ。校庭のガジュマルの前で、子どもたちはキジムナーのグッズを持ちながら、キジムナーの怖い話をする。この矛盾を子どもは平気で抱えられる。むしろ、可愛いキャラだと思っていたものが実は怖い、という落差が新しい怖さを生んでいる節さえある。伝承は死なない。形を変えて延命する。

七つめ、そしてこれが最後になるが、私がこの取材で一番印象に残った言葉を書いておきたい。

沖縄で聞き取りをしていると、怪談の話をしているはずなのに、途中から必ず家族の話になる。おばあがこう言っていた、じいちゃんがこの壕にいた、母親がここで拝んだ。怪異の話と家族史が、切れ目なくつながっている。本土で怪談を聞くとき、こういうことはあまり起きない。本土の怪談は個人の体験として閉じているが、沖縄の怪談は必ず誰かの親族に接続する。

ある年配の女性がこう言った。うちの学校に出るのは、うちの誰かかもしれないから、怖くないさ。

これは強烈な一言だと思う。怪異が自分の身内かもしれないと考える文化。それは恐怖の質を根本から変える。得体の知れないものへの恐怖ではなく、身内に対する後ろめたさになる。ちゃんと拝んでいるか、忘れていないか、という自問だ。沖縄の学校怪談が最終的に供養で終わるのは、この構造のためだろう。

そう考えると、沖縄の学校怪談は本当は怖い話ではないのかもしれない。土地の記憶を子どもの言葉で伝えるための、不真面目で有効な装置だ。夏の午後、蝉が鳴き止んだ校庭で、上級生が下級生に囁く。あの木の下は掘ったらいかんよ。あの階段は真ん中を歩けよ。あそこの前は走るな。

なぜかと聞かれたら、上級生はこう答える。昔、ここでいろいろあったから。

その「いろいろ」の中身を、子どもたちは十年か二十年かけて知っていく。知ったときには、もう自分が語る側になっている。学校怪談というのは、そういう仕組みだ。沖縄では特にそうだ。この島の学校の下には、確かに何かがある。それは幽霊かもしれないし、記憶かもしれない。どちらにせよ、まだそこにいる。

タイトルとURLをコピーしました