教室の空気が、ある日いっせいに湿った
給食のあと、四時間目と五時間目のあいだ。掃除の時間になる前の、あの十五分くらいの空白。あそこで何が起きていたか、覚えている人はけっこういると思う。
女子が三人か四人、机をくっつけて丸くなっている。真ん中に置かれているのは、まっさらな消しゴム。プラスチックのケースは半分だけ残してある。シャープペンの芯を細く出して、誰かが息を止めて、白い側面に名前を書く。周りは黙って見ている。書き終わると、書いた本人が一番あわてて手のひらで隠す。
「見た」「見てない」「絶対見たでしょ」
そんな押し問答が起きて、笑い声が起きて、そこで予鈴が鳴る。この光景、日本中の教室でほとんど同じ台本で上演されていた。地域も学年も関係なく、ほぼ同じ手順で、ほぼ同じ緊張感で。当時の子どもは誰もそれを不思議と思わなかった。おまじないというのは空気中にあるもので、上級生から下級生へ勝手に伝染するものだと思っていたからだ。
でも、当たり前だけど、そんなわけがない。空気は震源を持つ。1979年に創刊された一冊の月刊誌と、1986年から二十年以上にわたって毎年のように書店に並び続けたシリーズ本と、そして学習教材の付録という「学校公認の顔」をした流通路。この三つが噛み合って、日本の小中学校は二十年近く、可愛い顔をした呪術の実験場になっていた。
そして、教師たちはそれをちゃんと怖がった。禁止令が出た。プリントが配られた。学級会の議題になった。没収された。泣いた子がいた。ここではその全部を書く。
震源地は1979年4月にあった
すべての出発点は『マイバースデイ』だ。発行は実業之日本社、編集実務は説話社が創刊から担当した。1979年4月創刊、以後は毎月8日発売。ターゲットは10代の女性、実際の読者ボリュームゾーンは小学校高学年から中学生。定価は長らく390円で、当時の中学生のこづかいで無理なく買える設定だった。
創刊の発想元がまた面白い。編集長の酒井文人は、戦前から戦後にかけて刊行された少女向け生活指導誌『少女の友』を意識していたと語っている。つまり最初から「占いの雑誌」を作ろうとしたわけではない。思春期の女の子が抱える悩みに、希望と答えを与える手段として占いが最適だと判断した、という順序だ。ここ、この記事で一番重要な補助線なので覚えておいてほしい。マイバースデイは、オカルト誌ではなく人生相談誌として設計されている。
誌面は月ごとのホロスコープ、心理テスト、おまじない、白魔術、ティーンズ向けのファッションとビューティー、ダイエット。連載コーナーには「マンスリーホロスコープ」「ココロ・スイッチ」「オフバースディ」「ハローバースデイ」「ハートフルメッセージ」「パンチデリ」といった名前が並ぶ。占い担当としてエミール・シェラザードの名前が知られ、のちにゲームクリエイターとして知られる飯野賢治がコラムを書いていた時期もある。有料会員制度の「エムビーメイト」、誌面に登場する専属モデルの「エムビーフレンド」まであった。読者を囲い込む仕組みが最初から完備されていたわけだ。
部数は公称40万部。戦後第三次と呼ばれる占いブームの波に完全に乗った。40万部という数字は、当時の10代女子人口を考えると異常な浸透率になる。しかも回し読み文化がある。教室で一冊が四人五人に読まれる。実効的な到達人数は百万単位だったと考えて差し支えない。
段ボール箱で届く月一万通という怪物
だが部数以上に効いたのは、読者からの手紙だ。
編集部には毎月およそ一万通の手紙が届いた。封筒でひとつずつ届くのを人力でさばくレベルではないので、段ボール箱で編集部に運び込まれた。中身は占いの依頼だけではない。好きな人のこと、親のこと、友達に無視されていること、進路のこと、家庭の事情。10代の女の子が抱え込める限りのものが、月に一万通ぶん流れ込んでくる。
この構造が何を生んだか。マイバースデイは読者から情報を吸い上げ、それを加工して読者に返す装置になった。「私の知っているおまじない」という読者投稿系のタイトルが後に単行本化されているのがその証拠で、つまり誌面に載るおまじないの相当部分は、編集部の創作ではなく読者からの持ち込みだった。北海道の中学生が投稿したやり方が誌面に載り、翌月には九州の小学生が実行している。全国の教室が一冊の雑誌を介して直結していた。
これ、今の言葉で言えば完全にソーシャルメディアだ。しかも月一回、紙で、逃げ場なしの濃度で回っている。実際に編集部側も、読者が雑誌を「自分たちのもの」として扱っていたと証言している。付録を三十年後まで保存している読者がいる。タロットカード、夢占いの手引き、相性診断のシート。当時の日本ではタロットなんてほぼ知られていなかったのに、それを小学生が付録で手に入れていた。
そして2026年の今、東京の弥生美術館で『マイバースデイ』展が開かれている。会期は7月4日から9月27日まで。表紙原画、当時の誌面、読者投稿ページ、編集部の資料が並ぶ。表紙を手がけた野崎ふみこや松崎あけみの原画も出ている。同じ年の6月には愛蔵版として1979年から2006年までをまとめた一冊も出た。かつての読者が四十代から五十代になって、自分の子ども時代を美術館で見ている。この構図がもう軽くホラーである。
『おまじない大百科』という、二十年走り続けた化け物シリーズ
雑誌が震源なら、爆風を全国に運んだのは単行本のほうだ。
実業之日本社から『おまじない大百科』が出たのが1986年。これが当たった。翌1987年に『妖精おまじない大百科』、1988年に『おまじないお札大百科』。同じ1988年にはマイバースデイ特別編集として『ざ・おまじない1000』という、タイトルで殴りにきているような一冊も出ている。千個だ。千個のおまじないが一冊に入っている。
シリーズはここで止まらない。1996年『最新おまじない大百科』、1997年『大流行!おまじない大百科』、1998年『大人気!おまじない大百科』、2000年『おまじない大百科』、2001年『おまじない大百科最新版』、2002年『ハイパー・パワーおまじない大百科』、2003年『スーパーおまじない大百科』、2005年『人気者になれるおまじない大百科』、そして2008年の『おまじない大百科決定版』。
タイトルの推移を眺めるだけで時代が読める。80年代は妖精とお札。90年代後半は「大流行」「大人気」と煽りにいく。2000年代に入ると「ハイパー」「スーパー」でインフレし、最後は「人気者になれる」という、恋愛から人間関係スキルへの明確な軸足移動が起きて、そして「決定版」で店じまいする。二十二年。ひとつの子ども向けジャンルとしては異例の長寿だ。
同じ流れで『私の知っているおまじない』とそのパート2、2000年8月には『おまじない大集合』も出ている。書名から明らかなとおり、読者投稿を編纂したフォーマットだ。雑誌で集める、本にまとめる、また雑誌で集める。この循環がずっと回っていた。
ここで一点だけ整理しておく。世間の記憶では「学研のおまじない本」という言い方をされることが多いし、実際そう覚えている人が多い。ただ、書誌をたどると『おまじない大百科』を名乗る一連のシリーズはほぼ実業之日本社、つまりマイバースデイ編集部の系譜だ。学研は学研で、学習教材の付録や別冊という別ルートから同じ市場に入っていた。記憶の中でこの二つが混線しているのは、当時の子どもにとって「大きい判型で、表紙がキラキラしていて、中にイラストと手順が並んでいる本」という体験がまったく同一だったからだと思う。出版社なんて誰も見ていない。
学研の付録が持ち込んだ「学校公認の顔」
学研の『科学』と『学習』が果たした役割は、内容よりも流通経路にある。
あの二誌は書店で買うものではなかった。学校を経由して申し込み、教室や校門前で受け渡された。地域によっては販売員が家庭を回った。つまり子どもの感覚では、あれは学校から配られるものだった。国語のドリルと同じ棚に並ぶものだった。
そこに占いや心理テストや、ちょっとした「幸運を呼ぶ方法」の別冊付録が挟まる。これが強い。書店で自分の金を出して買うおまじない本には後ろめたさがあるが、学研の付録には後ろめたさがゼロだ。親も文句を言わない。担任も最初は黙認する。「学研の本に載ってたから」という一言が、教室内での正当性を担保してしまう。
ここが90年代の禁止令が難しくなった理由でもある。教師が「そういうのはやめなさい」と言ったとき、子どもは学習教材の付録を差し出せる。学校が配ったものに載っていることを、学校が禁止できるのか。実際にはねじ伏せられて終わるのだが、あの理不尽さを覚えている人はけっこういるはずだ。
少女漫画雑誌のルートも同時に太くなっていた。90年代の『りぼん』『なかよし』『ちゃお』の付録競争は熾烈で、しかも1992年に『なかよし』で美少女戦士セーラームーンの連載が始まる。変身、魔法、月と星、宝石、天使のモチーフ。おまじない文化と少女漫画のビジュアル言語が完全に地続きになった。子どもの中で「魔法を使う女の子」がフィクションではなく、手順さえ守れば自分にもできる何かに変わっていく。
消しゴムの儀式――全手順を、当時の教室のままに
さて本題。あの消しゴムを、当時の空気ごと再現する。
用意するのは新品の消しゴムだ。ここは絶対に譲れない。誰かが使った消しゴムでは効かない、というのが全国共通の合意事項だった。だから多くの子は、この儀式のためだけに文具屋で消しゴムを一個買う。定番はプラスチック消しゴムの一番小さいサイズ。理由は簡単で、早く使い切れるからだ。
紙のケースは半分だけ残す。全部外すと名前が見えてしまう。全部残すと使えない。この「半分」の絶妙さが儀式の一部になっていた。
書くのはシャープペン。芯はいちばん細いやつ、硬さは濃すぎないもの。鉛筆はダメだと言われていた。理由は誰も説明できなかったが、みんなそう信じていた。今から考えると、単に鉛筆だと線が太くて消しゴムの面に細かい字が書けないからだと思う。実利が信仰に変換された典型例だ。
書く場所は、消しゴム本体の側面のうち、ケースに隠れる側。ここに好きな人の名前をフルネームで書く。ひらがなで書くか漢字で書くかには流派があった。漢字で書けないと効かない、という説と、ひらがなのほうが素直に届く、という説。多くの教室では漢字派が優勢だったが、これは単に「相手の名前を漢字で正確に書けること自体が本気度の証明」という同調圧力だったと思う。
そして最重要のルール。誰にも見られてはいけない。書く瞬間も、書いたあとも。この禁忌が儀式の全エネルギーを供給していた。
ここから先が長い。名前を書いた消しゴムを、普通に使う。テストで、宿題で、漢字ドリルで。ひたすら削っていく。名前が刻まれた部分まで削り切って、消しゴムが完全になくなったら成就する。目安は数か月。丁寧に使う子だと一年近くかかる。
つまりこのおまじないの本体は、書く瞬間ではなく、そのあとの数か月だ。毎日筆箱を開けるたびに、名前を書いた消しゴムが目に入る。使うたびに、少しずつ減っていく。減っていくのを見て、進んでいると感じる。これは願掛けというより、感情のタイマーだ。数か月間、毎日十回以上、好きな人のことを思い出す装置を自分で作って筆箱に入れている。
失敗条件も細かく決まっていた。落として真っ二つに割ったらアウト。誰かに貸してしまったらアウト。名前の部分だけ残して他が減るのは良くない、均等に減らせ。そして最大の禁忌、見られたら終わり。
だから当時の子どもは異常に警戒していた。筆箱の中で消しゴムを裏返して置く。使うときは手のひらで囲う。隣の席の子が覗き込む気配がしたら、机の中に落とす。この一連の動作を、日本中の小学生が誰にも教わらずに完璧に身につけていた。
そして、誰かの消しゴムを取り上げてケースをめくる、という遊びが必ず発生する。これが教室で起きる本物の事件になる。泣く子が出る。ケンカになる。担任が呼ばれる。おまじない禁止令の実際のトリガーは、心霊的なものではなく、この人間関係の破壊のほうだった。ここは後でもう一度書く。
派生その一――シャープペンのノック回数で相性を出す
消しゴムと並んで教室を占領していたのが、シャープペンのノックを使うやつだ。これは机の上で完結するうえに一分で終わるので、休み時間の消費財として大量に流通した。
やり方はこうだ。自分の名前と好きな人の名前を、ひらがなにして音の数を数える。この合計の回数だけシャープペンをノックする。芯がにょきにょき伸びていく。それを折らずに、その状態でノートの端にハートを描く。折れずに描き切れて、さらにハートの内側を塗りつぶせたら両想い。折れたらそこまで。
芯が長く出れば出るほど当然折れる。だから名前の音数が多い相手ほど難易度が上がる。ここに屈折した論理が生まれる。「私と○○くんは名前が長いから、成功したら本物」。難易度の高さが愛の強度に読み替えられる。子どもの発明する論理として、これはかなり洗練されている。
派生も多い。ノックの回数を二人の名前の音数の差にする流派。伸ばした芯で相手の名前を書き切れたら成功にする流派。折れた場合は翌日にもう一度だけ挑戦していい、という救済ルールを設けている教室もあった。この救済ルールの存在が重要で、要するに子どもたちは結果に納得いかないとき、勝手にルールを増改築していた。おまじないは固定された儀式ではなく、その場で交渉可能なゲームだった。
派生その二――下敷きの下に忍ばせるもの
下敷きは、教室におけるもっとも優秀な祭壇だった。
半透明の下敷きの裏側に、好きな人の写真を挟む。定番は卒業アルバムや学級写真から切り抜いたもの。だが実際にそこまでやる度胸のある子は少数派で、多数派は名前を書いた小さな紙を挟んでいた。紙は自分でハート型に切る。四つに折ってから開いてハートになるように切る、あの折り方だ。
そのうえで、授業中にその下敷きを使ってノートを取る。書いた文字が、紙の下に忍ばせた名前の上を通過していく。文字が名前を「なぞる」ことで気持ちが伝わるという理屈だった。誰が考えたのかわからないが、こじつけとしては相当に詩的だと思う。
下敷き系にはもうひとつ強力なやつがあって、それは静電気を使うものだ。下敷きを頭にこすりつけて髪を立たせる、あの遊びの延長線上にある。こすってから好きな人の名前を書いた紙に近づけて、紙が下敷きに吸い付いたら相思相愛。これは科学的にはただの静電気で、湿度が低い冬なら百発百中だ。だから冬に流行した。夏には効かない。子どもたちは「冬は恋が実りやすい季節」という結論を導き出していた。理屈が逆流している。
派生その三――四つ葉のクローバーという、一番罪のない一線
四つ葉のクローバーは、おまじない文化のなかで唯一、大人が全面的に許容していたアイテムだった。
見つける。押し花にする。これだけだ。押し方には流儀があって、まずティッシュか半紙で挟む。それを国語辞典の分厚いところに入れる。分厚ければ分厚いほどよく、辞典が家にない子は電話帳を使った。一週間から二週間放置する。途中で見たら失敗する、という禁忌がここにも付く。
乾いたら透明のテープで挟んで密封し、定期入れか生徒手帳か筆箱の内側に貼る。持ち歩けば幸運が来る。人にあげると、あげた相手に幸運が移る。この「譲渡可能性」が四つ葉の特徴で、好きな人にこっそり渡す、という運用が大量に発生した。渡すという行為そのものが告白の代替になる。おまじないの皮をかぶった意思表示だ。
四つ葉には裏バージョンもあった。五つ葉は見つけると不吉、という説だ。六つ葉はさらに強い幸運、あるいはもっと強い不吉。同じ植物なのに枚数で天国と地獄が切り替わる。この過剰さが当時のおまじない文化の体質をよく表している。何にでも吉と凶を割り振らないと気が済まない。
派生その四――ラッキーアイテムとラッキーカラーという名の課金圧
マイバースデイ系のコンテンツが一番強かったのは、実はこの領域だ。
今月のあなたのラッキーカラーは黄色、ラッキーアイテムは星のモチーフ、ラッキーナンバーは七。これを誌面が毎月出す。すると教室では、黄色い持ち物を持っている子が今月は運がいいことになる。星型の消しゴムが文具屋から消える。七のつく日に告白する計画が立てられる。
ここで発生するのが、地味だが決定的な問題だ。金がかかる。
ラッキーアイテムは基本的に買い物を要求する。ミサンガ、パワーストーンのブレスレット、星や月のモチーフのアクセサリー、キラキラのシール、特定の色のハンカチ。当時の小学生のこづかいで買える範囲ではあるが、家庭によっては買えない。買えない子は「運がない側」に自動的に振り分けられる。
さらに悪いのは、ラッキーアイテムは見せ合うものだったという点だ。持っているかどうかが一目でわかる。これが教室の階層構造とダイレクトに結びついた。おまじないは平等な魔法のふりをして、実際にはかなりはっきりした経済格差の表示装置として機能していた。教師が禁止に踏み切った理由のひとつが、まさにこれだった。
テストの願掛け系――教室でもっとも実用的だった呪術
恋愛系ばかり語られるが、実行回数でいえばテスト系のほうが圧倒的に多い。
定番は、テスト前の晩に消しゴムの側面に問題の答えを書いておく、ではなく、教科書の重要ページを枕の下に入れて寝る、というやつだ。寝ているあいだに内容が頭に入る。翌朝、枕の下から教科書を取り出して、そのページだけ確認してから登校する。これは効くと信じられていた。実際、寝る前に見た内容は記憶に残りやすいので、まあまあ効く。
もうひとつの定番が、テスト用紙が配られた瞬間にやるやつ。用紙を裏返しにしたまま、上から手のひらを乗せて、三回だけ軽く叩く。あるいは指で用紙の四隅に小さく円を描く。これは短時間で完結して、しかも誰にも見られずにできるので、実行率が異常に高かった。監督の教師からは、ただ緊張している子に見える。
鉛筆を転がして答えを決める、という最終手段もあった。六角形の鉛筆の各面に番号を書いて、机の上で転がす。これはおまじないというよりサイコロだが、当時は「鉛筆の神様」という言い方をされていて、ちゃんと神格化されていた。転がす前に鉛筆に息を吹きかける、という追加手順を持つ教室もあった。
そしてテスト系には必ず「効かなかったとき用の言い訳」が用意されていた。手順のどこかを間違えた、途中で誰かに見られた、その日はラッキーカラーを身につけていなかった。失敗しても体系が傷つかないように、あらかじめ逃げ道が組み込まれている。この構造、宗教のそれとまったく同じである。
白魔術、天使、妖精――輸入された意匠が、日本の教室で誤読される
80年代後半から、おまじないの意匠が急速に西洋化していく。
マイバースデイ誌面には「白魔術」という言葉が普通に載っていた。ホワイトマジック。人を傷つけない、善い方向の魔法。これに対して黒魔術がある、という二分法もセットで輸入された。妖精、天使、水晶、キャンドル、ハーブ、月の満ち欠け。1987年に『妖精おまじない大百科』が出ているのは象徴的で、日本の小学生の筆箱に、いきなりケルト系の妖精譚が接続された。
面白いのはここからの誤読の速度だ。輸入された概念は、教室に着地した瞬間に日本の学校文化の文法で作り直される。満月の夜に窓辺で願うという手順が、「満月の夜に窓を開けて、下敷きを月にかざす」に変わる。ハーブを使う手順が、給食に出たパセリでいいことになる。キャンドルを灯す手順は、火を使うので当然できないから、蛍光ペンで描いた炎の絵で代用される。
この代用可能性が、おまじない文化の生命力そのものだった。何を使ってもいい。手元にあるもので必ず再現できる。だから貧富も地域も関係なく、全国の教室で同時に走った。
天使については、もっと直接的な影響がある。90年代に入ると、天使やエンジェルという語が子どものオカルト文化のなかで急に増える。ラッキーアイテムとしての天使の羽、守護天使という考え方、名前を呼びかける形式の儀式。これがのちに、後述するコックリさんの派生形と合流していくことになる。
そして黒いほうの話――「呪いのおまじない」は確実に存在した
ここまで読んで、可愛い話だと思った人もいるだろう。だが当時の教室には、明確に黒い側の系統があった。
まず、名前を赤で書く、という一群がある。相手の名前を赤いペンで書くと呪いになる、と言われていた。理由として語られていたのは、赤は血の色だから、という素朴なものと、死亡通知や墓石の名入れに関係する、というもう少し具体的なもの。だから当時、赤ペンで人の名前を書くのは教室内でかなりの禁忌だった。うっかり赤で名簿を書いた子が本気で謝るような場面が実際にあった。
紙に名前を書いて、それをどうこうする、という形式もあった。切り刻む、水に浸す、燃やす、埋める。ここは記録として書いておくが、当時「そう語られていた」というだけの話であり、実行を勧めるものではない。火を使うものについては、そもそもほとんどの子は実行できなかった。台所で火をつけたら親に見つかる。だから「燃やす」系の呪いは、噂としては全国に流通したのに、実行例は極端に少ないという、いびつな分布をしていた。
人形を使うものもあった。当時の教室でよく語られたのは、家庭科の授業で作ったフェルトのマスコットや、キーホルダーの人形を代用する形だ。誰々の人形を持っていて、夜な夜な何かをしているらしい、という噂が立つ。これは呪いそのものよりも、噂が立った子がどうなるかのほうが重大な問題だった。実際、この手の噂で孤立させられた子は少なくない。
そして最悪の系統が、集団で使われるやつだ。クラスの誰か一人を対象にして、複数人が同じ手順を同時に行う。これは呪術の形をした、まぎれもないいじめだった。おまじないという言葉が持つ無害さが、加害の隠れ蓑として完璧に機能してしまう。「遊んでるだけ」「本気じゃない」と言い逃れができる。ここが、当時の教師たちがもっとも警戒した部分だ。
不幸の手紙という、直系の先祖
呪いの側の系譜をたどると、必ず「不幸の手紙」に行き着く。
この手紙を何人に回さないと不幸が訪れる、という形式のチェーンレター。日本では1970年前後に一気に広まり、郵便局が対応に追われるレベルの社会現象になった。手書きで写して、切手を貼って、封をして、投函する。子どもにとってはかなりの労力とコストだ。それでも回った。回さなかった場合の恐怖のほうが、切手代より重かった。
この構造がそのまま教室内に縮小移植されたのが、90年代のおまじない文化における転送系だ。郵便ではなく、ノートの切れ端で回る。教科書に挟んで渡す。休み時間に手渡す。回す人数は五人とか七人とか、必ず奇数だった。
回された側の心理はきつい。無視すれば不幸が来るかもしれない。回せば友達に同じ思いをさせる。この二択を小学生に突きつける仕組みが、教室のなかで自走していた。しかも誰が最初に始めたかは絶対にわからない。責任者が存在しない加害システムだ。
そして90年代後半、これが電子化される。ポケットベルのメッセージで回るようになり、携帯電話のメールになり、チェーンメールという名前に変わって2000年代を席巻する。今のソーシャルメディアで拡散する「これを見た人は」系の投稿まで、直線でつながっている。不幸の手紙は死んでいない。媒体を乗り換えただけだ。
コックリさんの系譜と、「脱法儀式」の進化史
おまじないブームを語るとき、コックリさんの歴史を外すわけにはいかない。あれは、学校が本気で禁止令を出した最初の事例だからだ。
コックリさん自体の由来は古い。西洋のテーブル・ターニングが原型で、1884年に伊豆半島の下田沖に漂着したアメリカ船の乗員が地元の人に見せたのが日本への伝来だとされる。当時の日本家屋にはテーブルがなかったので、お櫃を三本の竹で支える形に翻案された。こっくり、こっくりと傾く動きから名前がつき、のちに狐狗狸という当て字が定着した。明治期には井上円了が本格的な検証を行っている。
これが子どもの世界に降りてくるのが1970年代前半だ。1973年、つのだじろうの漫画『うしろの百太郎』にコックリさんを扱ったエピソードが登場する。同じ年、同じ作者の『恐怖新聞』も始まっている。1974年には中岡俊哉の『狐狗狸さんの秘密』が出て、これが実質的な入門書として大ベストセラーになった。
結果、1974年後半から全国の学校で禁止令が出る。理由は明確で、実行した子どもに異常な行動が出るケースが相次いだからだ。過呼吸、失神、集団的なパニック。教室で一人が泣き出すと連鎖する。学校としては放置できない。禁止するしかない。
ここから先が、日本の子どもオカルト史でもっとも面白いパートだ。子どもたちは、禁止をかいくぐるために儀式を作り変えた。
関東では1975年頃に「キューピッドさん」が登場する。紙にハートを描き、二人で一本の鉛筆を握る自動筆記の形式。関西では「エンゼルさん」が広まった。文字盤を使う簡易版だ。ほかにも「星の王子さま」、低学年向けに花の絵を使う「フラワーさん」、そして80年代初頭には円盤の絵を使って宇宙人を呼ぶという設定の「ダニエルさん」まで現れる。
これらは全部、コックリさんではないと言い張るために作られている。狐が憑くわけではない。霊を呼ぶわけではない。天使です、キューピッドです、宇宙人です。だから禁止の対象外です、という理屈だ。実際にやっていることは同じなのに。
この「脱法コックリさん」の発想が、そのまま80年代から90年代のおまじない文化に流れ込む。おまじないという言葉自体が、実は最強の脱法用語だった。呪術と言えば止められる。降霊術と言えば止められる。でも、おまじないなら止められない。可愛いから。
禁止令は、こうして出た
さて、学校側の話をする。
おまじないの禁止は、コックリさんのときのような一斉通達の形では起きなかった。もっと地味に、もっと個別に、日本中の学校で同時多発的に発生した。だから全国的な記録が残りにくい。だが当時を経験した人の記憶を集めると、パターンははっきりしている。
第一段階は、担任の口頭注意だ。授業中に消しゴムを見せ合っていた子に、休み時間にしなさい、と言う。この時点では単なる授業妨害の指導であって、呪術への警戒ではない。
第二段階は、持ち物の規制。おまじない本を学校に持ってくるな、という指示が出る。これは「学習に関係のないものを持ってこない」という既存のルールの適用だ。おまじない本は漫画や玩具と同じ扱いになる。ここで初めて、子どもの側に「おまじないは学校から敵視されている」という認識が生まれる。
第三段階は、行為そのものの禁止。学級会の議題になる。「おまじないについて」というタイトルが黒板に書かれる。教師が司会をして、子どもに意見を言わせる。結論は最初から決まっている。やめましょう。誰も反対しない。反対したら自分がおかしい側になる。
第四段階、これがいちばん重い。学年通信や保護者向けプリントに載る。家庭でも注意してください、と書かれる。これで親のルートからも封じられる。おまじない本が捨てられる。四つ葉のクローバーの押し花が机から消える。
なぜここまでやったのか。教師側の理由は、心霊的なものへの恐れではなかった。ほぼ全部、現実的な問題だ。
授業に集中しない。休み時間の人間関係が悪化する。消しゴムを覗いた覗かないでトラブルになる。恋愛関係の噂で泣く子が出る。ラッキーアイテムを買える子と買えない子で差が生まれる。呪い系が回りはじめて特定の子が標的になる。そして、コックリさん系に接続した集団が過呼吸を起こす。
この最後のやつが決定的だった。おまじないの延長線上に、必ず降霊系がある。可愛いほうから入って、気づいたら教室の隅で数人が円になって十円玉に指を乗せている。教師の立場からすれば、消しゴムの段階で止めておかないと、その先が危ない。だから可愛いほうも一緒に禁止するしかなかった。
教育現場の言い分と、そのねじれ
とはいえ、禁止した側にも相当な葛藤があったはずだ。
70年代のコックリさん禁止令のときは、名分が立ちやすかった。実際に子どもが失神している。保護者からも苦情が来る。禁止しない理由がない。
だが80年代から90年代のおまじないは違う。ほとんどの実態は「消しゴムに名前を書いて大事に使っている」だけだ。これを禁止する言葉を、大人は持っていなかった。危険だから、とは言えない。迷信だから、と言うと「じゃあ受験のお守りは何なんですか」と返される。実際、その反論は当時の子どもが本当に口にしていた。合格祈願の絵馬、お守り、だるまの目入れ。学校は初詣にも神社にも一言も文句を言わない。
だから禁止の名目はいつも「授業に関係ないから」「友達とのトラブルになるから」に落ち着いた。呪術の中身については踏み込まない。踏み込めない。ここに大きなねじれがあって、子どもの側はそのねじれをかなり正確に見抜いていた。先生はおまじないが怖いんじゃなくて、教室が乱れるのが嫌なだけだ、と。
その認識が何を生んだか。地下化だ。禁止令のあと、おまじないは消えなかった。見えなくなっただけだ。消しゴムはケースを完全に閉じたまま筆箱の奥に移動し、四つ葉は生徒手帳の内側に貼られ、儀式は放課後の公園や、下校中の道端や、誰かの家に移動した。管理の目が届かない場所に押し出された結果、むしろ危ないほうへ寄っていったという指摘もある。教室でやっている限りは誰かが見ている。見ていないところでやりはじめると、歯止めがなくなる。
体験談その一――「私の消しゴム、先生の机の上にあった」
北関東の公立小学校、1993年頃。当時六年生だった女性の話。
彼女は五年生の三学期から消しゴムのおまじないをやっていた。相手は同じクラスの男子で、体育の時間にだけ話す関係だった。消しゴムは近所の文具店で買った一番小さいやつ。名前は漢字で、フルネームで、シャープペンで書いた。書いた日のことを彼女はよく覚えていて、家の自分の部屋で、机の引き出しを半分開けてその陰で書いたそうだ。誰にも見られてはいけないから、家族にも見られないようにした。
半年かけて、消しゴムは三分の一まで減った。順調だった。そこで事件が起きる。
算数の時間、隣の席の男子が彼女の筆箱から消しゴムを勝手に取った。ふざけただけだ。悪意はない。だがその子はケースをめくって、書いてある名前を大声で読み上げた。教室が一瞬静まって、次の瞬間に爆発した。
彼女は泣かなかった。泣いたら負けだと思ったからだ。そのかわり消しゴムを取り返して、机の中に突っ込んで、五時間目が終わるまで一言も喋らなかった。放課後、担任に呼ばれた。担任は「こういうのはやめようね」と言って、消しゴムを預かった。返してもらえなかった。
彼女が今でも引っかかっているのは、担任がその消しゴムを職員室の机の上に置いていたことだという。翌週、用事で職員室に行ったとき、担任の机の書類の脇に、自分の消しゴムがあった。名前が書かれた面が、上を向いていた。
「呪いより、あれのほうがずっと怖かった」と彼女は言う。「自分の一番隠したいものが、大人の机の上に無造作に置かれてるっていうのが」
その男子とは、卒業まで一度も口をきかなかったそうだ。
体験談その二――エンジェルさまと、保健室の午後
関西の公立中学校、1996年。当時中学一年生だった女性の話。
彼女のクラスでは、おまじない本が回し読みされていた。表紙が水色で、天使のイラストが描かれていたのは覚えているが、書名は覚えていないという。その本の後ろのほうに、名前を呼びかけて答えてもらう形式のページがあった。教室では「エンジェルさま」と呼ばれていた。
昼休み、女子五人で空き教室に集まった。紙に文字と数字とハートを書いて、真ん中に十円玉を置いて、全員で人差し指を乗せた。呼びかけの言葉は、本に書いてあったものを誰かがノートに写してきた。
最初、何も起きなかった。三分くらい、誰も何も言わない時間があった。それから十円玉が動いた。
彼女によれば、動きは「引っ張られる感じではなく、押し出される感じ」だった。文字の上を滑って、止まって、また滑る。最初の質問は「私たちの中で一番早く恋人ができるのは誰ですか」だった。答えは、その場にいた一人の名前だった。全員が笑った。空気が緩んだ。
二問目で崩れた。誰かが「この中で一番早く死ぬのは誰ですか」と聞いた。悪ふざけだった。十円玉は動いた。ある子の名前を綴った。
その子が、指を離した。離した瞬間に泣き出した。おまじないの決まりでは、途中で指を離してはいけないことになっている。離すと帰ってもらえなくなる、と本に書いてあったらしい。残った四人はパニックになって、紙を破って、十円玉を握って、教室を飛び出した。
泣いた子はその日の午後、保健室に行った。過呼吸だった。養護教諭が事情を聞き出して、担任に伝わり、翌日には学年集会が開かれた。学年主任が壇上で「こっくりさんのようなことは絶対にしないように」と言った。誰もエンジェルさまとは言わなかった。生徒たちは「これはこっくりさんじゃないのに」と思っていたが、口には出さなかった。
彼女は今でも、あの十円玉が本当に自分の指で動いたのかどうか、確信が持てないという。「動かした覚えはない。でも、動かしてない証拠もない」
体験談その三――呪いの側に回ってしまった子の話
東海地方の公立小学校、1998年。当時五年生だった男性の話。男子でおまじないに関わっていた例として、これは貴重な証言だと思う。
彼のクラスに、女子のグループから徹底的に無視されている女子がいた。理由は些細なことで、持ち物のことでからかったとか、そんな話だったらしい。無視は数か月続いていた。
ある日、無視している側のグループが、おまじない本を持ち出した。彼が横で見ていたところによると、それは「嫌いな人を遠ざけるおまじない」というページだった。手順は、相手の名前を紙に書いて、それを消しゴムでこすって消していく、というものだったという。名前が消えたら、その人は自分の前からいなくなる。
彼らは実行した。休み時間に、四人で、名前を書いては消していた。標的の女子は、それを教室の反対側から見ていた。何をやっているかは、当然わかっていた。
数週間後、その子は学校に来なくなった。
彼が言うには、教師はこの件を最後まで把握しなかった。不登校の理由は「クラスになじめなかった」で処理された。おまじないの話は誰もしなかった。やった側は「おまじないだから」と思っていて、自分たちが何をしたか本当に理解していなかった節がある、と彼は言う。
「あれがいじめだって、当時の俺らは思ってなかった。紙に名前書いて消してるだけだから。でも、あれを見せつけてたんだよ。あいつに見えるように、わざと教室の真ん中でやってた。だからあれは、呪いじゃなくて、宣言だったんだと思う」
彼は三十年以上たった今も、その子の名前を覚えている。連絡先はわからない。謝る方法もない。
この証言が示しているのは、おまじないの本当の危険性がどこにあったかということだ。呪いが効くかどうかなんて関係ない。効かなくても、標的に「あなたを呪っている」と伝わった時点で、加害は完了している。そして加害者側には「おまじないだから」という完璧な免罪符が渡されている。
同時代の空気――心霊写真、ノストラダムス、そして『学校の怪談』
おまじないブームは、単体で発生したわけではない。当時の子どもの周囲は、オカルトで飽和していた。
1973年、五島勉の『ノストラダムスの大予言』が祥伝社のノン・ブックから出る。副題は、迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日。これが爆発的に売れて、続編が延々と出続けた。1999年に世界が終わる、という前提が、日本の子どもの脳に二十六年間インストールされ続けたことになる。
1974年、中岡俊哉の『恐怖の心霊写真集』。心霊写真というジャンルはここで完成した。以後、テレビの心霊特番が夏の定番になり、視聴者投稿の心霊写真が毎年放送された。子どもは修学旅行の集合写真を必死で確認するようになった。
1979年、月刊『ムー』創刊。同じ年に口裂け女が全国を走る。この二つが同じ年で、しかもマイバースデイの創刊も同じ1979年だ。1979年という年は、日本の子どもオカルト史の分水嶺として、もっと注目されていい。
1985年、細木数子の『運命を読む六星占術入門』。占いが大人の世界でも巨大市場になる。宜保愛子がテレビに出るようになる。
1990年11月、常光徹の『学校の怪談』が講談社から出る。著者は民俗学者で、1993年には学術書『学校の怪談――口承文芸の展開と諸相』も出している。つまりこれは、子どもの噂話を民俗学的に採集した仕事だった。それが児童書として出た瞬間に、逆流が起きる。本に載った怪談が、全国の学校に配布されてしまった。トイレの花子さん、音楽室のベートーベン、動く人体模型。地域限定だった噂が全国共通の教養になった。シリーズは第一期だけで九巻、1995年には東宝で映画化されて、以後シリーズ化する。
1991年、チャネリングが流行語大賞の特別賞を取る。
この密度のなかで、おまじないは「一番安全な入口」として機能していた。心霊写真は怖い。ノストラダムスは絶望的だ。学校の怪談は夜眠れなくなる。でもおまじないは、可愛くて、自分で操作できて、結果が良い方向に出る。同じオカルトの棚に並んでいるのに、これだけが希望の側を向いていた。
だから流行った。当然だと思う。
1995年という断層
だが、この空気は一度で終わる。1995年だ。
1月に阪神淡路大震災。3月に地下鉄サリン事件。特に後者が、日本社会のオカルトに対する態度を一晩で変えた。それまでテレビに出ていた超能力者や霊能者が、急に画面から消えた。心霊特番が減った。ノストラダムスを真顔で語ることが、危険な兆候として扱われるようになった。
教育現場での変化はもっと直接的だ。オカルト的なものへの警戒が「カルトへの入口」という文脈で語られるようになる。それまで「授業に関係ないからやめなさい」だった指導の言葉に、「そういうものにのめり込むと危ない」というニュアンスが混ざる。禁止の温度が上がった。
にもかかわらず、おまじない本のシリーズは止まっていない。1996年に『最新おまじない大百科』、1997年に『大流行!おまじない大百科』、1998年に『大人気!おまじない大百科』。むしろタイトルの煽りは強くなっている。
これは何を意味するか。おまじないは、社会的なオカルト忌避の網から完全に漏れていた、ということだ。カルトの危険性を語る大人は、小学生の消しゴムを問題にしなかった。可愛いものは、規制の網目をすり抜ける。ここまで一貫している。
1999年7の月が、何事もなく過ぎたあとで
そして1999年が来て、何も起きなかった。
これは日本の子ども文化にとって、けっこう大きな出来事だったと思う。二十六年かけて刷り込まれた終末が、不発に終わった。当時十代だった人たちは、7月が過ぎた翌日の教室の、あの気の抜けた空気を覚えているはずだ。ネタとして笑うしかなかった。
ノストラダムスが外れたことで、オカルト全体の説得力が一段下がった。同時に、2000年前後からインターネットが子どもの手に届きはじめる。学校裏サイト、掲示板、テキストサイト。噂の流通経路が紙と口伝えから、ネットに移り変わる。
おまじない大百科のシリーズが、2000年代に入ってタイトルの方向を変えていったのはこの流れと無関係ではない。2002年の『ハイパー・パワー』、2003年の『スーパー』という強度インフレは、コンテンツが飽和したあとの典型的な症状だ。そして2005年、『人気者になれるおまじない大百科』。恋愛成就から、対人関係のスキルへ。この転換は、当時の子どもの悩みの重心が「好きな人」から「クラスでの立ち位置」に移ったことを正確に反映している。ケータイとメールが普及して、人間関係が二十四時間続くようになった時代の悩みだ。
2006年12月号で『マイバースデイ』が休刊する。二十七年半。2008年に『おまじない大百科決定版』が出て、シリーズも幕を閉じる。
スピリチュアルへの継承――消えたのではなく、大人になった
おまじないは死ななかった。読者と一緒に大人になっただけだ。
2000年代前半、テレビでスピリチュアルブームが起きる。ピークは2007年頃。前世、守護霊、オーラ。ここで語られていた語彙は、80年代から90年代のマイバースデイ誌面にすでに全部あった。白魔術、守護天使、前世。読者だった女の子たちが二十代から三十代になり、同じ言語で語る番組に再会した、というだけの構図だ。
宗教学の側からもこれは指摘されていて、堀江宗正の『ポップ・スピリチュアリティ』は、メディアを介して個人的に受容される宗教性という枠組みでこの現象を扱っている。同書によれば、テレビブームが去ったあともスピリチュアリティはインターネットとソーシャルメディアを通じて拡散を続け、東日本大震災以降はパワースポットから神社ブーム、御朱印ブームへと形を変えて生き延びた。
そして、まさにマイバースデイそのものを対象にした研究もある。橋迫瑞穂の『占いをまとう少女たち――雑誌「マイバースデイ」とスピリチュアリティ』だ。青弓社ライブラリーの一冊。少女雑誌が占いとおまじないを媒介にして、思春期の女の子に何を提供していたのかを正面から論じている。
つまり今、あの消しゴムは学術の対象になり、美術館の展示になっている。これはかなり幸福な着地の仕方だと思う。あれだけ大人に禁止されたものが、四十年たって企画展のガラスケースに入っている。
ネットでの再発見と、考察界隈が出した主要な説
2010年代以降、この話題はソーシャルメディアで定期的に再燃する。パターンは決まっていて、誰かが消しゴムのおまじないの話を書く。そこに同世代がぶら下がる。「うちの学校では名前をひらがなで書かないと効かないって言われてた」「こっちは新品じゃなくてもいいことになってた」。地域差と流派差が一気に可視化される。
この現象が面白いのは、当時は誰も自分のローカルルールが特殊だと思っていなかった点だ。全国共通だと信じていた。それが三十年後に照合されて、初めて分岐が見つかる。口承文芸の変異が、リアルタイムで観測できる状態になった。
考察界隈からいくつかの説が出ている。順に紹介する。
一番よく見るのが、雑誌起源説だ。消しゴムを含む主要なおまじないのほとんどは、マイバースデイとその関連書籍から流出したものである、という説。書誌をたどると確かに1986年から『おまじない大百科』が出ていて、時期は合う。1988年の『ざ・おまじない1000』の千個という物量も、教室に流通した種類の多さを説明できる。この説の強みは、全国同時性を説明できることだ。口伝えだけなら、北海道と沖縄で同じ手順になるはずがない。
対抗するのが、口承先行説だ。おまじないは雑誌以前から教室にあり、雑誌はそれを採集して印刷しただけである、という説。根拠は、まさに「私の知っているおまじない」という読者投稿ベースの単行本が出ていること。編集部が作ったのではなく、読者が持ち込んだものが本になっている。となると、雑誌は震源ではなく増幅器ということになる。
現時点でもっとも説得力があるのは、この二つを合体させた循環説だと思う。教室で生まれる。読者が投稿する。誌面に載る。全国に配布される。各地の教室で変形する。また投稿される。この循環が二十年回り続けた。だから起源を一点に特定することは原理的に不可能だし、特定しようとすること自体が的外れだ。
三つ目に、文具産業説というのもある。消しゴム、シャープペン、下敷き、ノート。おまじないの道具はほぼ全部が文房具だ。これは文具メーカーが仕掛けたのではないか、という説。ただしこれには明確な反証がある。おまじないに使われる文具はどれも安価な定番品で、特定の商品を指定するものがほとんどない。もし販促なら、必ず特定商品が指定されるはずだ。実際に売れたのは「小さい消しゴム」というカテゴリであって、ブランドではない。この説は成立しない。
四つ目、教育政策説。ゆとり教育以前の詰め込み教育の反動として、子どもが非合理な逃げ場を求めた、という見方だ。これは魅力的な説明だが、時期がうまく合わない。おまじないブームのピークは80年代後半から90年代前半で、これは受験競争がもっとも激しかった時期と重なる一方、コックリさんブームの70年代前半とも整合しない。要因のひとつではあっても、主因とは言いにくい。
そして反証というか、注意喚起として繰り返し出るのが、記憶の後付け問題だ。ネット上に流通している「当時のおまじない」の手順のなかには、明らかに後年の創作が混ざっている。実際、消しゴムのおまじないに十九世紀ヨーロッパ起源の感動的な逸話をつけた文章がネットに出回ったことがあるが、これは書いた本人が末尾で「今思いついた完全な嘘だ」と明かしている。にもかかわらず前半だけが切り取られて拡散した。近年は生成系の文章も混ざっている。当時を知らない人が書いた「それっぽい手順」が、体験談の形で流通する。三十年後の記憶と、今作られた偽記憶の区別は、もう相当に難しい。
なぜ流行ったのか――可愛い顔をした呪術という発明
ここまでの材料をまとめて、正面から分析する。
まず、おまじないは思春期の女の子にとって、唯一許された能動性だった。
好きな人ができる。でも告白はできない。告白していい年齢だと誰も認めてくれない。親には言えない。先生にも言えない。友達にすら言えないこともある。この完全な手詰まりのなかで、おまじないだけが「何かをする」ことを可能にする。消しゴムに名前を書けば、少なくとも自分は動いたことになる。事態は一ミリも進んでいないのに、進んだ気になれる。
これは無力への処方箋だ。ばかにできない。当時の子どもは、自分の人生の重要事項をほぼ何ひとつ自分で決められなかった。住む場所、通う学校、クラス、席順、部活、門限。全部が他人の決定だ。そのなかでおまじないは、自分の意志だけで開始でき、自分の手順で進行し、自分だけが結果を知る、たったひとつの自主管理領域だった。
第二に、時間の構造がうまい。消しゴムのおまじないは数か月かかる。四つ葉の押し花は二週間かかる。この待ち時間そのものが快楽になっている。すぐ結果が出るものは飽きられる。数か月待たされるものは、待っている期間ずっとコンテンツとして機能する。よくできている。
第三に、共有と秘密の二層構造がある。おまじないは友達と共有される。何をやっているかは知られている。だが中身、つまり誰の名前を書いたかは秘密だ。この設計が絶妙で、同じ儀式を共有することで仲間意識が生まれ、中身を隠すことで個人の尊厳が守られる。全部秘密だったら広がらない。全部公開だったら誰もやらない。
第四に、失敗の処理が組み込まれている。効かなかったときの言い訳が最初から用意されている。手順ミス、見られた、時期が悪い。信仰体系が自己防衛機構を持っている。だから何度失敗しても崩壊しない。
第五に、コストがほぼゼロだ。消しゴム一個、紙一枚、雑草一本。誰でも参加できる。ラッキーアイテム系だけは金がかかったが、本体部分はほぼ無料だ。
この五つが揃っている遊びは、そうそうない。おまじないは、思春期の子どもの心理構造に対して、あまりにも精密に最適化されていた。誰か一人が設計したわけではないのに、二十年かけて自然選択で磨き上げられた結果、こうなった。それが少し不気味でもある。
なぜ怖がられたのか――可愛さが免罪符になる構造
では、なぜ大人はあれほど本気で止めにかかったのか。
表向きの理由は授業と人間関係だ。これは本当だと思う。だが本質はもっと別のところにある。
おまじないの怖さは、それが「意図の表明」だという点にある。
消しゴムに名前を書くのは、好意の表明だ。名前を消しゴムでこすって消すのは、排除の表明だ。手順が同じで、方向だけが違う。そして子どもは、この二つを同じ本の別のページで、同じ気軽さで学んでいた。好きな人を振り向かせる方法の次のページに、嫌いな人を遠ざける方法が載っている。同じイラストのタッチで、同じ可愛い書体で。
大人が怖がったのは、この地続きさだと思う。愛と排除が、同一のインターフェースで操作できてしまう。しかも両方とも「おまじない」という無害な名前で呼ばれる。
そして決定的に問題なのが、免責の構造だ。呪いをかけた側は、いつでも「本気じゃない」と言える。おまじないだから、遊びだから、と。だが呪われた側は、本気で受け取るしかない。教室の真ん中で自分の名前が書かれた紙を消しゴムでこすられているとき、それが遊びかどうかを決める権利は、こすられている側にはない。
これは、可愛い意匠を持つ加害の完成形だ。刃物も暴力も使わない。証拠が残らない。介入しようとする教師は「そんなの迷信でしょう」と自分で言ってしまった瞬間に、被害の重大さを自分で否定することになる。指導が構造的に難しい。
もうひとつ、大人が言語化できなかった恐怖がある。それは、子どもが自分たちだけの掟を持っていることへの恐怖だ。
見てはいけない。人に言ってはいけない。途中でやめてはいけない。指を離してはいけない。これらの禁忌は、学校の校則とはまったく別系統の規範だ。しかも子どもは、校則よりこちらを優先する。教師が「見せなさい」と言っても見せない。おまじないの掟のほうが上位に立っている。
学校というのは、規範を独占することで成立している装置だ。そこに、大人の関与できない別の規範体系が発生している。禁止令の本当の動機は、たぶんここにある。呪いが効くかどうかなんて誰も信じていない。信じていないのに禁止したのは、統治の問題だったからだ。
それで、あの消しゴムはどうなったのか
最後に、実務的な結論をひとつ書いておく。
あのおまじないは、実際にはよく「効いた」。ただし想定とは違う経路で。
数か月間、毎日その人のことを考え続けた子は、行動が変わる。目が合う頻度が上がる。話しかける口実を探すようになる。相手の予定を把握するようになる。そして消しゴムが小さくなる頃には、その子は最初とは別の人間になっている。願いが叶ったケースの相当部分は、たぶんこれだ。呪術ではなく、長期の自己暗示と行動変容。
そして叶わなかったケースでは、もっと重要なことが起きている。数か月かけて、ひとつの感情に区切りをつけている。消しゴムが完全になくなった日、多くの子は「終わったんだな」と思ったはずだ。おまじないは、恋を叶える装置であると同時に、恋を終わらせるための儀式でもあった。
期限のない感情に、自分の手で期限を設定する。あの小さな消しゴムがやっていたのは、結局これだったんじゃないかと思う。
二十年続いた文化の記録が、どこにも残っていない
ここからは総括と、本文に収まりきらなかった追加の考察を書く。
まず、この記事を書きながらずっと引っかかっていたことがある。おまじないブームの一次資料が、驚くほど残っていないのだ。
雑誌は残っている。単行本も、古書市場をあたれば書名と刊行年が確認できる。1986年の『おまじない大百科』から2008年の『決定版』まで、二十二年分の書誌は追える。だが、教室で実際に何が行われていたかの記録が、ほぼ存在しない。学校側の禁止令に至っては、全国的な集計どころか、単一の自治体レベルの記録すら見つけにくい。学級通信も学年通信も、その年度が終われば捨てられる。担任が黒板に書いた「おまじないについて」という議題は、どこにも保存されていない。
つまり、日本中の教室で二十年近く続いた文化が、ほぼ全部、当事者の記憶のなかにしか残っていない。しかもその当事者は今、四十代から五十代だ。記憶は上書きされていく。ネットに流れる「当時の手順」には後年の創作が混ざりはじめている。この記事で紹介した消しゴムの十九世紀ヨーロッパ起源譚のように、明らかな作り話が真顔で流通する。書いた本人が末尾で嘘だと明かしているのに、前半だけがスクリーンショットで拡散していく。
だからこそ、2026年の今、弥生美術館で『マイバースデイ』展が開かれ、愛蔵版が出ていることの意味は大きい。展示されているのは表紙原画や誌面だが、そこには読者投稿ページも含まれている。読者が送った手紙は、教室で何が起きていたかの、数少ない同時代の記録なのだ。月一万通の手紙の、生き残った断片。
次に、この現象を性別の観点から考えたい。
おまじない文化は、圧倒的に女子のものだった。これは疑いようがない。マイバースデイのターゲットも読者も女子だ。おまじない大百科の売り場も少女向けの棚だ。教室で消しゴムを回していたのも、ほぼ女子だ。
では男子は何をしていたか。男子には別ルートがあった。心霊写真、ノストラダムス、超能力、宇宙人。『ムー』の読者層はこちら側だ。同じオカルトなのに、性別で完全にジャンルが分かれていた。
この分岐は、扱っているテーマの違いに対応している。男子向けオカルトは「世界」を扱う。世界の終わり、宇宙、未確認生物、超古代文明。自分の外側にある巨大な何かだ。女子向けオカルトは「関係」を扱う。誰が誰を好きか、誰と誰が合うか、自分が今日どう見られるか。徹底して自分と半径五メートルの話だ。
そして興味深いのは、社会がこの二つをまったく違う扱い方をしたことだ。男子向けの世界系オカルトは、雑誌が出て、テレビ番組になり、映画になり、経済的に巨大化した。大人の男が真顔で語るコンテンツになった。一方、女子向けの関係系オカルトは、産業としては児童書の棚に押し込められ、学校からは禁止され、大人になると「そんなこともあったね」と笑い話にされた。同じ時期に同じ規模で走っていたのに、扱いがまったく違う。
この非対称は今も続いている。世界の終わりを語る言説はいつでも真剣な議論の対象になるが、恋愛成就のおまじないは今日でもネタとして消費される。可愛いものは、真剣に語られない。可愛いものは、規制もされないかわりに、記録もされない。おまじないブームの一次資料が残らなかった理由の半分は、たぶんこれだ。
三つ目に、コックリさんとの関係をもう一度整理しておきたい。
本文で書いたとおり、1974年後半からの禁止令に対して、子どもたちはキューピッドさん、エンゼルさん、星の王子さま、フラワーさん、ダニエルさんという一連の代替儀式を発明した。これらは「コックリさんではない」と主張するために作られている。関東でキューピッドさん、関西でエンゼルさんという地域分布まで記録されている。
この「脱法」の発明が、なぜ女子中心のおまじない文化と接続したのか。答えは意匠にある。キューピッド、天使、星の王子さま、花。これらは全部、少女向けの図像だ。狐や霊ではなく、可愛いものを召喚する形にすれば禁止されない。この判断が、儀式のパッケージを丸ごと少女文化の側に移動させた。
そして1987年に『妖精おまじない大百科』が出る。妖精。これも同じ系譜だ。西洋の可愛い超自然存在を経由することで、呪術は無害な顔を手に入れる。80年代後半から90年代にかけての天使ブームは、少女文化の内側から自然発生したというより、規制を回避する過程で最適化された結果という側面が強いと思う。
四つ目。おまじないと現代のスマートフォン文化の連続性について。
今、十代がやっていることを見ると、構造がほとんど同じだと気づく。誕生日や名前から相性を出す診断アプリ。好きな人のアカウントを別端末で見る行為。特定の投稿をブックマークして毎日見返すこと。プロフィールに好きな人の頭文字を忍ばせること。願いを書いて二十四時間だけ流れる投稿に載せること。全部、消しゴムの子孫だ。
なかでも決定的に似ているのが、待ち時間の構造だ。消しゴムが減るのを数か月待つのと、相手が既読をつけるのを待つのは、心理的にほぼ同じ体験になっている。待たされている時間そのものが感情の燃料になっている。おまじないが提供していた時間設計を、今はメッセージアプリの通知が提供している。
そして加害の側も、そのまま引き継がれている。名前を書いた紙を消しゴムで消す行為は、今ならグループチャットから一人だけ外す行為に相当する。刃物は使わない。証拠も残りにくい。やった側は遊びだと言い張れる。やられた側は本気で受け取るしかない。可愛い意匠を持つ加害という構造は、道具が変わっただけで一ミリも変わっていない。
五つ目。禁止令の評価について、あえて擁護的なことを書いておきたい。
当時の教師を「無粋だ」「夢を壊した」と責めるのは簡単だ。実際、消しゴムを没収された子の傷は本物だし、職員室の机に自分の秘密が置かれていた光景を三十年覚えている人もいる。
だが、教師の側の視野を想像してみると、話は変わる。彼らが見ていたのは、消しゴム一個ではない。学年全体だ。ある教室で消しゴムが回っている。別の教室では名前を消す遊びが始まっている。三組では昼休みに十円玉が動いて一人が保健室に運ばれている。時系列で並べると、これは全部同じ流行の別の段階に見える。可愛い段階と危ない段階を、外から区別する方法がない。
しかも当時の学校は、いじめが社会問題として大きく取り上げられはじめた時期でもある。おまじないの形をした排除が発生していることに気づいた教師は、それを止める言葉を持っていなかった。呪いとして扱えば「迷信を本気にしている」と笑われる。いじめとして扱えば「遊びなのに大げさ」と反発される。だから「授業に関係ないから」という、いちばん弱くて、いちばん角の立たない理由に逃げた。
あの禁止令が下手だったのは事実だ。だが、下手だった理由は無理解ではなく、適切な語彙が社会に存在しなかったからだと思う。可愛い顔をした呪術を名指しする言葉が、当時の日本語にはなかった。
六つ目、最後に。
この記事を書くために、当時の書誌を追いかけた。1986年から2008年まで、ほぼ毎年のように書名を変えながら出続けた『おまじない大百科』の系譜を眺めていて、途中でぞっとした瞬間がある。
タイトルの変遷が、そのまま読者の成長曲線とずれていくのだ。1986年に最初の一冊を買った小学五年生は、1996年の『最新』が出たときには二十一歳になっている。2008年の『決定版』が出たときには三十三歳だ。つまりシリーズは、同じ読者に向かって出続けたのではない。毎年、新しい十歳前後の子どもに向かって、ほとんど同じ内容を出し直していた。
二十二年間、日本の小学校には毎年ぴったり新しい五年生が供給され続けた。彼女たちは前年の五年生が何をやっていたか知らない。だから毎年、初めてのつもりで消しゴムに名前を書く。出版社の側から見れば、これは永久機関だ。読者が卒業しても、教室は空にならない。
その永久機関が止まったのが2008年だった。止めたのは学校の禁止令ではない。ケータイとインターネットだ。子どもの手のなかに、消しゴムより強力な感情の管理装置が入った。相手の情報がいつでも見られる。メッセージが送れる。読まれたかどうかわかる。願うより先に、確かめられるようになった。
おまじないが必要だったのは、確かめる方法がなかったからだ。相手が自分をどう思っているか、知る手段がひとつもなかったから、消しゴムを削るしかなかった。あの数か月の待ち時間は、情報がない時代の副産物だった。
だから今、あの文化は戻ってこない。戻る余地がない。弥生美術館のガラスケースの中にあるのは、雑誌でも原画でもなく、確かめられなかった時代そのものだ。
そして、それを見に行っている四十代五十代の元少女たちは、たぶん展示を見ながら、自分の筆箱の底にあった小さな消しゴムのことを思い出している。名前が書いてあった側面。半分だけ残したケース。誰にも見せなかった数か月。
叶ったかどうかは、この際どうでもいい。あの数か月が本物だったことだけは、誰にも消せない。
