宿舎の廊下で、誰かがもう一度人数を数えている
夏の合宿所というのは、夜になると急に音の質が変わる。昼のあいだ延々と鳴っていた蝉が落ちて、代わりに波の音だけが残る。あれは規則的なようでいて、実はまったく規則的ではない。八回続けて同じ間隔で寄せてきたあと、九回目だけがやたら長く伸びる。布団に入って天井を見ていると、その「九回目」のところで背中がすっと冷える。
臨海学校の怪談は、だいたいこの時間帯に生まれる。昼の遠泳で全員無事に帰ってきたはずなのに、夜の宿舎で先生がもう一度点呼をとっている。廊下をスリッパの音が行ったり来たりして、部屋の外で小さく数を読み上げる声がする。二十七、二十八、二十九。そこで止まる。もう一度戻ってきて、また数える。二十七、二十八、二十九。
翌朝、誰かが言う。昨日の夜、先生ずっと数えてたよね、と。別の誰かが返す。うん、合わなかったんだって。多かったんだって。
この「多かった」が、臨海学校怪談の核心だ。学校の怪談はふつう、足りないことを怖がる。誰かがいなくなる、消える、帰ってこない。ところが海の学校行事だけは逆になる。増える。列に一人多い、点呼が一人多い、写真の端に一人多い。増えたぶんは誰なのか、という問いが宙に浮いたまま、朝食のパンが配られる。
この記事では、その「一人多い」がどこから来たのかを、できるだけ遠回りして追いかける。海水浴が病院の処方箋だった時代の話から始めて、臨海学校という制度が全国に広がった経緯を辿り、遠泳という行事の実際の段取りを分解し、それから怪談の型を一つずつ並べる。さらに戦後の集団水難事故が怪談に落とした影を確認して、最後に「お盆に海へ入るな」という言い伝えの、民俗側の顔と物理側の顔を突き合わせる。長くなる。でも、この話は遠回りしないと本当のところが見えてこない。
そもそも海に入ることは、日本人にとって「治療」だった
まず前提から崩しておきたい。日本人は昔から海水浴を楽しんでいた、というのは嘘だ。江戸時代以前の日本において、海に身を浸したり泳いだりすること自体に娯楽としての価値を見出す文化は、ほとんど存在しなかった。海は漁の場であり、交通路であり、死者が行く方角であって、休日に肌を焼きに行く場所ではなかった。
例外はある。愛知県の知多半島、いまの常滑市にあたる大野には、江戸時代後期から「潮湯治」という習慣があった。これは病気を治すために海水に浸かる行為で、諸病に効くという触れ込みで人が集まった。徳川秀忠が松平忠吉に勧めたという伝えまで残っている。ここで押さえておきたいのは、名前が「湯治」だという点だ。温泉に入りに行くのと同じ枠組みで、海に入りに行っていた。娯楽ではなく療養である。
この「療養としての海」を近代医学の言葉に翻訳したのが明治の医師たちだった。オランダ人医師ポンペに学んだ長与専斎、そして松本順。松本は自身のリウマチ治療のために海に入り、軍部に療養の希望を出している。彼が神奈川県の大磯に海水浴場を開いたのは、そこが医療行為としての海水浴に適した地形だと判断したからだ。遊びに行く場所を作ったのではない。処方する場所を作った。
同じころ、愛知病院長だった後藤新平が『海水功用論』を書いている。刊行は明治十五年、西暦でいえば一八八二年。大野での調査とドイツ医学の知識をもとに、海水浴の医学的効用を一般向けに説いた、日本で最初の海水浴啓蒙書とされる。のちに東京市長にも満鉄総裁にもなるあの後藤新平が、二十代のうちに海水浴の本を書いていたというのは、なかなか気持ちのいい事実だと思う。
そして鉄道が来る。明治二十年、一八八七年に東海道の鉄道が国府津まで延び、大磯は駅から歩ける海水浴場になった。ここで海水浴の性格が一気に変わる。上流階級の療養から、さまざまな階層が参加する余暇へ。医療行為だったものが、レジャーに脱皮した。
だが、脱皮しきってはいなかった。ここが重要だ。海に入ることには「体を鍛える」「病を治す」という目的意識がこびりついたまま残った。だからこそ、それは学校教育に接続できたのである。
一八九一年の学習院から、一九二五年の成城まで
日本における臨海学校の系譜をたどると、最初に出てくるのは一八九一年、明治二十四年の学習院だ。鎌倉の片瀬海岸で、男子生徒を対象に遊泳演習を行った。これが日本の学校が組織的に海で泳がせた最初期の記録とされる。
ここで「遊泳演習」という言葉づかいに注目してほしい。演習である。訓練である。日清戦争、日露戦争を経て、日本の教育には海国思想と海事教育を重んじる空気が濃くなっていった。海に囲まれた国の子どもが泳げないのはまずい、という理屈だ。しかも当時、校内にプールを持つ学校はほとんど存在しない。泳ぎを教えたければ、海まで生徒を連れていくしかなかった。夏に浜辺の宿へ合宿し、そこで集中的に泳がせる。臨海学校という形式は、この物理的な制約から生まれている。
もう一つの系譜が、虚弱児の転地療養だ。一九一七年、大正六年に開設された茅ヶ崎の林間学校は、体の弱い子どもの健康回復を目的とした最初の常設施設とされる。潮風に当てて丈夫にする、という潮湯治の思想が、そのまま制度化されたわけだ。
そして一九二五年、大正十四年七月。成城中学校が神奈川県三浦郡初声村、いまの三浦市初声町で、日本で初めての「臨海学校」を開設したとされる。林間学校のほうは一九一八年、大正七年に長野県の中房温泉で開かれたのが最初とされているから、山が先で海が後だ。
成城の臨海学校は、そこから百年近く続くことになる。会場は逗子、伊豆の三津浜、興津、伊豆の大瀬岬と移り、一九六八年からは千葉県の岩井海岸に落ち着いた。三泊四日、五月末からプールでの事前練習が始まる。生徒は泳力別に初級、中級、上級に分けられ、初級はさらに細かくグループ化される。最初は手をつないで一列になり、そのまま海へ入っていく。海に体を慣らすための儀式だ。それから一直線、等間隔で泳ぐ練習に移る。高校二年から選ばれた補助員が五十人以上つき、ラジオ体操の指導、ブイの設置、海水温のチェック、救助法の実演までを担当する。学校側はこの行事を、中学一年生が成城生になるための通過儀礼だと説明している。
通過儀礼。この言葉が出てくる時点で、怪談が生まれる条件はもう整っている。
大正中期以降、女性の海水浴が社会的に認められるようになると、臨海学校は高等女学校や女子師範学校へ、やがて小学校へと広がった。戦後は自治体単位で実施されるようになり、東京の区立小学校が千葉の岩井や館山に大挙して押し寄せる、という夏の風物詩ができあがる。岩井海岸の民宿群は、いまでもこの需要の上に立っている。
遠泳という行事を、段取りから分解する
怪談を理解するには、まず現実の段取りを知る必要がある。遠泳の怖さは、じつは超常的な部分より、手続きの部分にある。
新潟県長岡市のある小学校では、五年生が二千メートルを泳ぐ。所要時間はおよそ五十分から六十分。五月から練習が始まり、週に二回か三回、九十分の練習を七月まで続ける。顔を上げたまま泳ぐ技術を叩き込み、プールで距離を伸ばし、遅れる子には別枠の練習をつける。本番では二人一組の隊形を組み、顔を水面から出したまま列を保って泳ぐ。先頭に隊長役の児童が立ち、最後尾には副隊長役が入って列の乱れを見張る。まわりを付き添いの船が囲み、監視員がつき、教職員と保護者のボランティアが要所に配置され、教員自身も一緒に泳ぐ。
この構成が、ほぼ全国の遠泳に共通している。細部は学校ごとに違う。太鼓を打って泳ぎのリズムをとる学校、ホラ貝を吹く学校、色の違う旗で進路変更を伝える学校、船から拡声器で号令をかける学校。どれも同じ問題を解こうとしている。すなわち、海の上では声が届かない、という問題だ。
波の音、風、耳に入る水。海面にいる人間の耳は、陸上とは比べものにならないほど聞こえない。だから合図は音の大きなもの、視覚に訴えるものになる。太鼓は水を伝わって体に届く。旗は顔を上げれば見える。合図がこれだけ原始的な手段に退化するというのは、裏を返せば、海の上では言葉が通じないということだ。
そして点呼。文部科学省の水泳指導の資料は、バディシステムを「二人一組をつくり、互いに相手の安全を確かめさせる方法」と定義している。ただ手をつなぐだけでは足りない。組数を数え上げ、記録し、表情や動作を観察することまでが含まれる。笛を吹いて「バディ」と号令をかけ、片手をつないで挙げさせる。そのうえで、入水前、指導の途中、退水後の三段階で確認する。バディだけに頼らず、出席簿や班別の名簿を使った点呼を併用することが望ましい、とも書かれている。
つまり、遠泳という行事は、構造的に「数を数え続ける行事」なのだ。手をつなぐ。挙げる。数える。上がる。また数える。宿舎に戻ってまた数える。一日のうちに何度も何度も、人間の数が正しいかどうかを確認する。
こんなに数えていれば、いつかは合わなくなる。合わなかったとき、そこには二つの解釈が用意されている。誰かが足りない、という現実の恐怖と、誰かが多い、という別種の恐怖だ。臨海学校の怪談は、その後者の側にできた空洞に流れ込んでいく。
型その一・列に一人多い
もっとも広く語られるのが、この型だ。
隊列を組んで沖のブイへ向かう。二列縦隊、あるいは横一列。前を泳ぐ子の足の裏を見ながら、決められた間隔を保つ。息継ぎのたびに顔を上げるから、視界は断続的にしか開けない。開けた視界の中で、列がやけに長いことに気づく。
出発前、班は九人だった。前に四人、後ろに四人。だから自分を入れて九人。ところが、いま数えると十人いる。前に五人いる。誰かが遅れて合流したのかと思って顔を上げる。すると先頭の子が振り返って、口の形だけで何か言う。波の音で聞こえない。もう一度顔を上げたときには、列はちゃんと九人に戻っている。
浜に上がってから、その話をする。すると班の別の子が青い顔で言う。自分も数えた、と。自分は後ろが五人に見えた、と。
この型の肝は、増えた一人が誰なのか最後まで分からないところにある。振り返ると必ず正しい人数になっている。だから確認できない。確認できないから、記憶の中で人数だけが増え続ける。語り手は「見た」とは言わない。「数が合わなかった」としか言わない。学校怪談としては、これは異様に節度のある語り口だ。姿を描写しない怪談は、描写する怪談より長生きする。
型の変奏もある。先頭を泳いでいたはずの子が、上陸後に「自分はずっと三番目だった」と言い張るパターン。誰も先頭を務めていなかったことが判明するパターン。あるいは、泳いでいる最中にずっと隣にいた子の名前が思い出せず、宿舎に戻って名簿を見てもそんな名前がない、というパターン。いずれも「数」ではなく「位置」が壊れる。海の上には目印がないから、自分が列のどこにいるのかは、前後の人間の顔でしか確認できない。その顔が信用できなくなった瞬間、位置は消える。
型その二・足首を掴む手
海の怪談としてはこちらのほうが古い。というより、これは学校が生まれるずっと前からある型だ。
泳いでいる最中、右足首を掴まれる。人間の手だと分かる感触。指の一本一本が分かる。強い力ではないが、確実に下へ引く。振りほどこうと足を蹴ると、掴んでいたものはあっさり離れる。振り返っても水の中には誰もいない。ただ、砂が舞い上がったような濁りが、足首のあたりにゆっくり広がっている。
学校行事の文脈だと、これに「悪ふざけ」という解釈が最初に用意されるのが特徴だ。誰かが潜って引っ張ったんだろう、と。だから語り手はまず全員に確認する。お前やったか。やってない。じゃあお前か。やってない。この確認作業を経てから、話は怪談に変わる。「誰もやってないんだよ」という一言が、この型のスイッチになる。
海の民俗のほうを見れば、この型の親戚はいくらでも見つかる。船幽霊は、水難で死んだ者のなれの果てで、生きた人間を自分たちの仲間に引き入れようとするとされる。柄杓を貸せと言い、貸すと海水を汲み入れて船を沈める。だから底を抜いた柄杓を用意しておく。福島では「いなだ貸せ」と言い、千葉では「モウレン、ヤッサ」と掛け声を上げ、長崎や熊本では「ウグメ」と呼ばれて航行を妨げる。地方によっては海坊主も船幽霊の一種とされる。呼び名は違っても、やろうとしていることは同じだ。数を増やそうとしている。
足首を掴む手は、要するに小型化した船幽霊である。船を沈めるかわりに、子ども一人を沈めようとする。
型その三・点呼が合わない夜
三つめは、水から上がったあとに起きる。
遠泳を終えて浜に整列する。担任が名簿を持って数える。三十七。合わない。定員は三十六のはずだ。もう一度数える。三十七。列を組み直させ、番号を言わせる。イチ、ニ、サン。順に声が上がっていって、最後がサンジュウロクで終わる。声で数えると三十六。目で数えると三十七。
先生の顔色が変わる。全員その場に座れ、と言う。座った頭を、指で一つずつ押さえながら数える。三十六。
その夜、宿舎の廊下で先生たちが小声で話している。声はよく聞こえないが、「浜のときのあれ」という単語だけが漏れてくる。翌朝、遠泳の予定は午前で切り上げになり、午後は貝殻拾いに変更される。理由の説明はない。
この型が強いのは、権威が動揺するからだ。学校怪談の恐怖の多くは、大人が知っていて隠している、という構図に支えられている。トイレの花子さんも、開かずの間も、たいていは「先生に聞いたら怒られた」という尾ひれがつく。点呼が合わない話は、その構図をもっとも純粋に取り出したものだ。子どもは数を数えられる。大人も数を数えられる。両者の数が違ったとき、大人が黙る。その沈黙が怖い。
型その四・宿舎の枕元に残る濡れた足跡
夜。二十人ほどが雑魚寝している大部屋。誰かがトイレに立った気配で目が覚める。畳を踏む音がぺた、ぺたと近づいてきて、自分の枕元で止まる。目を開けるのが怖くて、寝たふりをする。しばらくして音は遠ざかる。
朝になって起きると、枕のすぐ横の畳が、人の足の形に濡れている。かかとから土踏まず、指の跡まではっきりしている。しかも、その足跡は部屋の入口から自分の枕元まで一直線に続いていて、そこで途切れている。戻った跡がない。
宿の人に言うと、いやそれは誰かが海から上がって水着のまま入ったんだろう、と笑われる。でも足跡は自分の枕元でだけ止まっているし、部屋にいた誰も夜中に海へ行っていない。何より、濡れた畳から潮の匂いがした。
この型は「侵入」の型だ。海の怪異が、海から出て宿舎という陸の空間に入ってくる。遠泳の怪談が海の中で完結するのに対して、これは境界を越えてくる。しかも寝ている頭のすぐ横まで来る。子どもにとって修学旅行や合宿の大部屋は、家族の保護から切り離された最初の夜であり、その無防備さがそのまま恐怖の材料になる。
濡れているというディテールも効いている。水は痕跡を残すが、時間が経てば消える。だから朝のうちに見た人しか知らない。証拠が乾いて消えていく怪異というのは、語りとして非常に都合がいい。誰も反証できない。
型その五・浜で拾った石
最後の型は、帰ってからが本番になる。
自由時間に浜を歩いていて、変わった石を拾う。真っ白で、卵のようになめらかで、片面に細い筋が何本か入っている。きれいだから持って帰る。宿の人に見せると、その人は少し黙ってから、置いてきたほうがいいと言う。理由は言わない。子どもだから、余計に持って帰りたくなる。
家に着いてから、夜になると部屋で水音がするようになる。ぽたり、ぽたりと、床に水が落ちる音。電気をつけると止む。石を机に置いていると、朝には位置がずれている。母親が石を触って、この石なんか濡れてるよ、と言う。梅雨でもないのに。
三週間ほど経って、耐えられなくなって石を海に返しに行った。同じ浜まで戻って、拾った場所のあたりに置いてきた。帰りの電車で急に眠くなって、駅を二つ乗り過ごした。それから水音は止んだ。
石にまつわる禁忌は日本各地にある。河原の石を拾ってはいけない、という言い伝えは広く知られているし、海の石についても同様の警告が語られる。合理的な説明もつく。河原や海岸の石を勝手に持ち去る行為は、河川法や海岸法、あるいは自然公園法に触れる場合があり、そもそも法的に問題がある。だが怪談としての石の面白さは、そこではない。石は「持ち帰れてしまう」ところにある。海は持ち帰れない。波も、匂いも、あの深さの感触も持ち帰れない。石だけが物理的に家までついてくる。だから石は、海と家をつなぐ唯一の導線になる。
臨海学校の怪談で石の話が繰り返し語られるのは、行事が終わったあとも怖さを持続させる装置が必要だからだ。三泊四日の恐怖は三泊四日で終わってしまう。石はそれを何週間も延長する。
体験談その一・一九八九年、松林に囲まれた研修寮
これは高校生のときの話として語られているものだ。一九八九年、海岸沿いの研修寮での臨海学校。寮のまわりは松林で、海のほうから風が吹くと松の枝がいっせいに鳴った。その場所には評判があった。溺死体が打ち上がることがある浜だ、というのだ。生徒たちは着いた日からその話を聞かされていて、夜になると誰かが必ず蒸し返した。
二日目の夜、友人がこっくりさんをやろうと言い出した。十人ほどが車座になって見守る中、語り手と友人が二人で鉛筆に指を添えた。始めてすぐに鉛筆が動いた。語り手は友人が動かしていると思い、友人は語り手が動かしていると思っていた。あとで確かめ合ったら、どちらも動かしていなかった。
出てきた相手は、五、六歳の男性だと答えた。死因を聞くと、殺された、と答えた。空気が変わったのはそこからだ。誰かが、もうやめよう、と言った。やめてもいいかと聞くと、いいえ、と返ってきた。何度聞いてもいいえだった。どうすればやめられるのかと聞くと、死ぬことしかない、という答えが出た。部屋の中で誰かが泣き出した。
最終的に、紙を八つに切って松の下に埋めろ、という指示が出た。深夜、懐中電灯も持たずに数人で寮を出て、松林の中で手で土を掘り、切った紙を埋めた。海の音が近かった。埋めているあいだ、誰も一言も喋らなかったという。
話には続きがある。六年後、大学生になった語り手が、同じ施設でアルバイトをしていた。そこへ来ていた女子生徒の一人が、松の木の下に男の人がいる、と訴えた。指さされた松は、あの夜に紙を埋めた木だった。語り手はそこで全部を思い出し、あれは本物だったのだと確信した。
この話が臨海学校怪談として典型的なのは、海がほとんど出てこない点だ。怪異は松林で起きている。それでも語り手にとって、この体験は「臨海学校の話」として記憶されている。海は舞台の外にあって、音だけで参加している。
体験談その二・沖で起きた集団パニック
約三十八年前、中学二年生のときの臨海学校として語られている体験だ。
事前練習は学校の二十五メートルプールで行われた。ぐるぐると何周も回って泳ぎ、遠泳用の平泳ぎを体に叩き込む。当日は泳力に応じてコースが分けられた。初級コースは砂浜近くの浅いところ、中級から上級は岸から大きく離れた沖のブイまで。語り手は運動部で平泳ぎが得意だったので上級に入り、最初のうちは本当に楽しかったという。
一キロほど泳いだあたりだった。誰かが叫んだ。キャー、という声のあとに何かの単語が続いたが、はっきりとは聞き取れなかった。ただ、その単語が海の中の危険な生き物を指すものだと、全員が瞬時に思い込んだ。
そこからが地獄だった。数十人が一斉にボートへ向かって泳ぎ出した。ボートの縁に何人もが取りつき、船体が傾いた。教師が「船につかまるな」と怒鳴った。怒鳴られても誰も離さない。列はもう完全に崩れていて、誰がどこにいるか分からない。沖にいる子と岸へ向かう子がぶつかる。水面は白く泡立った。
結果的に死者は出なかった。だが語り手はこの日以来、深い海が怖くなったと書いている。
この体験談には幽霊が一切出てこない。それでもこれを紹介するのは、遠泳の隊列がどれだけ簡単に崩壊するかを示しているからだ。列に一人多い、という怪談が成立する背景には、この「列は簡単に壊れる」という身体的な実感がある。子どもたちは知っているのだ。あの隊列は、見た目ほど確かなものではないと。
体験談その三・数え直しの夜
これは複数の語りに共通して現れる型を、一つの話としてまとめたものだ。細部は語り手によって違うが、骨格はほとんど変わらない。
三日目の遠泳が終わって、浜で点呼をとった。班ごとに整列して番号を言う。語り手の班は八人で、最後の子がハチと言って終わるはずだった。ところが、ハチのあとに、もう一つ小さな声でキュウ、と聞こえた。
みんなが振り返った。列の最後は確かにハチの子で、そのうしろには濡れた砂と、寄せてくる波しかなかった。誰かが、いま言った、と言った。別の誰かが、言ってない、と言った。担任は聞こえなかったのか、そのまま次の班の点呼に移った。
その日の夜、消灯後に班の八人が集まって、あれは何だったのかを話し合った。八人のうち五人がキュウを聞いていた。三人は聞いていなかった。聞いた五人のうち三人が、声は女の子だったと言い、二人は男か女か分からなかったと言った。全員が一致していたのは、声がとても小さかったこと、そして少し息が上がっていたことだった。泳ぎ終わったばかりの声だった、と一人が言った。
翌日、宿の人にその話をしたら、いやこの浜は昔から人がよく数えられなくなるんだよ、と言われたという。その言い方があまりに軽かったので、かえって怖かった、と語り手は書いている。
この話にはオチがない。誰が死んだとか、誰が消えたとかいう帰結がない。それでも記憶に残るのは、「息が上がっていた」という一点だけが妙に具体的だからだ。怪談のリアリティは、たいていこういう不要なディテールの側から立ち上がる。
一九五五年七月二十八日、中河原海岸で起きたこと
ここで、怪談の背景に置かれ続けてきた現実の事故に触れなければならない。
一九五五年、昭和三十年七月二十八日。三重県津市の中河原海岸で、津市立橋北中学校の女子生徒が集団で溺れた。死者三十六名。意識を取り戻した者が十三名。犠牲者には女性教諭一名も含まれる。
背景にはこういう事情があった。津市教育委員会は、夏季の水泳訓練を正課の授業として実施することを決めていた。橋北中学校は七月十八日から二十八日までの十日間、およそ六百六十名の生徒を訓練する計画を組んでいた。二十八日はたまたま隣接する小学校が訓練をしなかったため、水泳場を広げて使った。女子の水泳場は幅五十メートル、奥行き四十一メートル。参加した女子生徒はおよそ二百名で、その大半が泳ぎの未熟な者だった。
事故は入水からわずか二分から五分のあいだに起きた。女子生徒百名前後が、水泳場の東北の隅付近で一斉に身体の自由を失って溺れた。生存者の証言には「足の裏の砂がすうと動く感じ」「流れで足をさらわれた」といった表現が残されている。救助にあたった女性教諭は、後ろから突き出されるような感じを受けながら生徒を助けた、と述べている。
原因については複数の説が並んだ。異常流説、十三号台風のうねりが沿岸流となったとする説、副振動によるアビキとシケジオの結合とする説、接岸部で秒速五十センチから六十センチの噴流が頻発する水域だとする説、当日沖を通過した一万トン級の大型貨物船の蹴波が一時間後にうねりとなって到達したとする説。津地方裁判所は校長らに有罪判決を出したが、名古屋高等裁判所はこれを覆して無罪を確定させた。控訴審は、入水後二分から三分で大きなうねりと強い北流が発生し、水位が一メートル未満から一メートル四十から五十センチまで上昇したと認定したうえで、その異常流の発生を通常人の注意力で予見することはできなかったとした。判決文には、異常流の科学的解明は当裁判所のよくするところではない、という一節がある。
八月一日に学校葬が営まれ、八月六日には岩田川で灯篭流しが行われた。国会の衆議院と参議院の文教委員会でも取り上げられ、文部大臣から各都道府県へ指導通達が出された。
日本の学校教育に水泳が組み込まれていく流れには、もう一つ大きな契機がある。同じ一九五五年の五月十一日、瀬戸内海で連絡船の紫雲丸が濃霧の中で沈没し、修学旅行中の児童生徒を中心に百六十八名が亡くなった。この二つの事故が同じ年に重なったことで、子どもに泳ぎを教えろという世論が一気に高まる。一九六五年、昭和四十年の学習指導要領改訂で水泳は小中学校の必修になり、高度経済成長期を通じて全国の学校にプールが作られていった。
つまり、学校のプールは慰霊碑のようなものだ。あの水色の四角い箱は、海で死んだ子どもたちの記憶の上に建っている。
「幽霊に引かれた」は誰が言い出したのか
中河原海岸の事故は、事故直後から怪談として語られてきた。もっとも有名なのは、水中で防空頭巾やもんぺ姿の女たちに引き込まれた、という証言である。これが一九四五年七月に津市を襲った空襲の犠牲者と結びつけられ、事故のちょうど十年前の同じ日、同じ浜で焼死体が処理されたのだ、という物語が組み立てられた。水木しげるや松谷みよ子といった書き手がこれを紹介したことで、話は全国区の怪談になった。
しかし、この筋書きにはかなり深刻な問題がある。後年の検証によれば、生存者としてもっとも頻繁に名を挙げられてきた女性は、実際には霊を見たと証言していない。彼女の「手記」として雑誌に載ったものは、取材をもとに編集側が構成したもので、本人の実際の発言とは大きく食い違っていたとされる。さらに、のちに海岸で工事が行われた際、空襲犠牲者の遺骨が埋まっていたという話を裏づける人骨は発見されていない。
ここは冷静に押さえておきたい。怪談としての中河原海岸は、三十六人の死という動かせない事実の上に、後から商業メディアが物語を敷いたものだ。遺族がいて、生存者がいて、その人たちが何十年も同じ話を繰り返し尋ねられてきた。臨海学校の怪談を語るとき、この事故を「元ネタ」として消費することには、それなりの重さがついてまわる。
それでも、この事故が戦後の海の怪談に与えた影響は無視できない。「学校の行事で、海で、集団で、一斉に」というイメージの原型は、ここで完成している。列に一人多い、点呼が合わない、足首を掴まれる。これらの型が臨海学校という舞台に定着したのは、実際にそういうことが起きた浜があるからだ。怪談は真空では育たない。
「お盆に海へ入るな」の民俗側の顔
夏の海にまつわる禁忌のうち、もっとも広く共有されているのがこれだ。お盆に海に入ると引かれる。地域によっては、お盆過ぎに海に入るな、盆の十六日は海へ出るな、という形で語られる。
民俗側の説明はいくつかの層になっている。
第一の層は、盆が死者の帰ってくる期間だという理解だ。祖霊が家に戻ってくる。迎え火を焚き、精霊棚を設え、送り火で送り出す。この期間、あの世とこの世の境界は薄くなっている。ところが、帰ってくる霊のすべてに迎えてくれる家があるわけではない。子孫のいない霊、供養する者のない霊、事故や災害で死んだ霊。そうした無縁の霊が、生者を水中に引き込むことがある、という筋道だ。
第二の層は、水神信仰との習合である。七月七日の七夕はもともと水神を祀る性格をもつ行事で、水浴びや禊の習俗を伴っていた。これが盆の仏事と結びつき、水と死者が同じ季節の枠に入った。海の彼方に祖先が住むという常世の観念も、この結合を後押しした。
第三の層が、施餓鬼だ。施餓鬼会は、飢えと渇きに苦しむ餓鬼道の霊に食べ物や飲み物を施す仏教行事で、『救抜焔口餓鬼陀羅尼経』に基づく。釈迦の弟子の阿難が焔口という餓鬼に出会い、無数の餓鬼に施しをするよう教えられた、という話がもとになっている。盆の盂蘭盆会が、目連が餓鬼道に落ちた母を供養した話に由来するのと対になっていて、この二つは実際の運用でも強く結びついている。五色の施餓鬼旗を立て、水の子と呼ばれる供物を供える地域もある。
そして海と直接つながるのが、川施餓鬼である。これは川べりや舟の上で行う施餓鬼で、その土地で水死した者を供養することを目的とする。灯籠を流し、経木を流し、舟の上で鉦や太鼓を打ち鳴らす。流れ灌頂と呼ばれる、卒塔婆を川辺に立てて水をかける習俗と重なる地域もある。東京のある地区では、関東大震災と東京大空襲で水路に多くの死者が出たことから、毎年七月二十五日に法要が営まれている。
つまり、盆の時期の水辺は、供養の場として明確に指定されているのだ。供養の場に遊びに入っていくな、というのが「お盆に海に入るな」の一番素直な読み方になる。船幽霊の伝承に、盆や大晦日や特定の禁漁日に海へ出てはならないという禁忌が付随しているのも同じ理屈だ。民俗学者の花部英雄は、船幽霊の出現時期に盆が多いのは精霊流しのイメージと重なるためだとしている。
もう一つ、日を限った海の禁忌としては、伊豆諸島の海難法師、あるいは日忌み様の伝承がある。暴虐な代官を殺した若者たちが海で死に、その霊が正月二十四日に海上から島へやってくる。島民はその夕刻から戸を締め切り、光が漏れないようにし、入口に鎌などの刃物を据え、門口に籠をかぶせ、雨戸に柊やトベラの葉を刺して防いだ。日を限って「海から来るもの」を家ごと締め出すという発想は、盆の禁忌と根が同じだと思う。
現実側の答え合わせ
さて、物理の側からも同じ質問に答えてみる。なぜ盆のころの海で人が死ぬのか。
まず離岸流だ。岸に打ち寄せた波の水は、どこかから沖へ戻らなければならない。その戻り道が幅の狭い帯状の流れになったものが離岸流で、条件によっては人が泳いで逆らえない速さになる。厄介なのは、離岸流の上は波が立ちにくく、水面が穏やかに見えることだ。安全そうに見えるところが、いちばん沖へ運んでくれる。泳ぎに自信のある子ほど、その静かな帯を選んでしまう。
次に土用波。夏の土用のころ、遠くの海上にある台風が生み出したうねりが、長い距離を減衰せずに伝わってくる。沖縄付近の台風から出たうねりが、千五百キロ離れた静岡や千葉の沿岸に届くことがある。波頭が丸く波長が長いのが特徴で、届いた先で複数の波が重なると、通常の二倍から三倍の高さの波が突然立つ。空は晴れていて、風もなく、海面も穏やか。それなのに、数分に一度だけ、桁違いの波が来る。土用波の最盛期は海水浴のピークと重なり、しかも大潮の時期とも重なる。
三つめが水温躍層だ。表層の海水は日射で温められて密度が下がり、下の冷たい水と混ざらなくなる。すると、ある深さを境に水温が急激に落ちる層ができる。ダイビングでは、水面が二十八度でも水深十八メートルでは十九度前後、といった差が生じることがある。浅い海水浴場でも、地形や潮の具合によって局所的に冷たい水の塊が入り込むことがあり、腰から下だけが急に冷たくなる、という体験が生まれる。冷たい水に急に触れると、筋肉は容赦なく攣る。足を掴まれた、という感覚の少なくとも一部は、この冷たい層と痙攣で説明がつく。屈折率の違いで水中が陽炎のようにゆらいで見えることもあり、視覚のほうも同時に狂う。
四つめがクラゲ。盆を過ぎるとクラゲが出る、というのは半分正しくて半分違う。クラゲは一年を通して海にいて、繁殖もしている。盆のころに目立つのは、水温が二十度から三十度に上がって活動と成長に適した条件が揃い、それまで肉眼で見えなかった幼体が一気に見える大きさに育つからだ。太平洋側と日本海側では時期がずれ、太平洋側では九月ごろにピークが来る地域もある。ちなみに、クラゲが出るから海に行くなというのは子どもに宿題をさせるための口実だった、という説を紹介している釣り媒体もあって、これはこれで味わい深い。
そして最後に、人が増えること。事故は「危険の量」と「人の量」の掛け算で起きる。盆は日本人がいっせいに休み、いっせいに海へ行く週だ。危険が増える時期と、人が増える時期が完全に重なる。それだけで事故の件数は跳ね上がる。
水難学の研究者は、こうした自然条件を先人が経験的に理解していて、大勢が集まる盆の時期に注意を促すために禁忌を作ったのだろうと指摘している。私はこの解釈がかなり好きだ。「なぜ危ないか」を説明する語彙がない時代に、「危ない」だけを確実に伝える方法として、幽霊は非常に効率のいい発明だった。
溺れる人は、叫ばない
もう一つ、怪談と現実のあいだをつなぐ重要な事実がある。人は静かに溺れる、ということだ。
映画の中の溺れる人は、両手を振り回して大声で助けを求める。実際の溺水はそうならない。呼吸を確保することが最優先になるので、声を出す余裕がない。腕は水面を押さえるように無意識に動くだけで、手を振ることができない。パニックによって状況の把握ができなくなり、適切な行動が取れなくなる。だから、傍から見ると、水遊びをしているようにしか見えない。膝までの深さでも、流れや足元の滑りや方向感覚の喪失で、人は死ぬ。
この事実は、遠泳の怪談を一段深いところで裏打ちしている。列の中で誰かが溺れかけていても、隣の子には分からない。声が聞こえないのではなく、そもそも声が出ていない。海の上では言葉が通じない、と先に書いたが、正確にはこうだ。もっとも切実な言葉こそが、もっとも通じない。
だから点呼を繰り返す。だからバディを組む。だから船が並走する。あの何重にも重ねられた確認手順は、「見ていても分からない」という前提の上に立っている。子どもたちはその手順の異様な厳重さを、理屈より先に肌で感じ取る。これだけ確認するということは、確認しないと消えるということだ。そう思った瞬間、隣で泳いでいる子の存在が、急に頼りなくなる。
ネットでの反応と、その反証
臨海学校怪談は、九十年代の学校怪談ブームでは主役ではなかった。主役はトイレの花子さん、人体模型、音楽室のベートーベン、開かずの間といった校舎内の怪異だ。民俗学者の常光徹が一九九〇年に『学校の怪談』を出し、生徒からの聞き取りをもとにこのジャンルを確立させたが、そこでも中心は校舎という日常空間だった。研究者の吉岡一志は、非日常だから妖怪が出るのではなく、日常的に利用頻度の高い場所に出るのだと分析している。トイレは境界だから怖いのではなく、毎日行くから怖い、という指摘だ。
臨海学校はその逆をいく。年に一度、三泊四日。日常ではない。だからこそ、この怪談はブームの本流から外れて、掲示板時代のインターネットで独自に育った。二〇〇〇年代の匿名掲示板の怖い話スレッドには、海や浜の禁忌をめぐる投稿が定期的に現れる。特定の日に海を見てはいけない、という地域の言い伝えを扱った投稿はいくつも書かれてきたし、伊豆諸島の海難法師を下敷きにした二〇〇五年ごろの投稿は、いまでもネット怪談の代表作の一つとして参照されている。海の禁忌は、ネット怪談と相性がいい。理由は単純で、検証が難しいからだ。校舎の怪談は「その学校に行けば確かめられる」が、海の怪談は確かめようがない。
考察側でよく出てくる説を並べてみる。
一つめは集団心理説。閉鎖的な合宿空間で、疲労と睡眠不足と過度の緊張が重なると、同じ話を複数人が同時に「体験」しやすくなる、というものだ。中河原海岸の事故でも、集団ヒステリーによる説明が持ち出されたことがある。ただしこの説は、証言のばらつきをうまく説明できない。先の体験談その三でも、八人中五人しか声を聞いていない。全員が同じものを見たのではなく、聞いた人と聞かなかった人が混在している。集団心理なら、もっと均質になるはずだ。
二つめは誤カウント説。これは強い。海面で人を数えるのは本当に難しい。波の周期で人の頭は上下し、白波が頭に見え、遠くのブイやゴミが人影に見える。しかも数える側は焦っている。三十六人を三十七人と数え違えることは、統計的にはむしろ当然だ。反証としては、では逆に「一人少ない」という誤カウント怪談がなぜほとんど語られないのか、という点が挙げられる。実際の誤カウントなら多い方向にも少ない方向にも起きるはずだが、怪談として残るのは常に「多い」ほうだ。ここには、単なる計数ミスでは説明できない選択が働いている。
三つめは事故隠蔽説。学校が実際の水難事故を隠しており、点呼の異常はその痕跡だ、という筋書きだ。この説は、聞いていて気分の悪い種類の陰謀論に転びやすい。個別の学校について実際の死亡事故を根拠なく主張するのは、単に人を傷つけるだけだ。ただ、この説がなぜ生まれるかは分かる。学校管理下の水泳事故の記録は実在し、日本スポーツ振興センターの災害事例集にも死亡や障害の事例が積み上がっている。子どもたちは、学校が自分たちに全部を話していないことを知っている。その正しい直感が、間違った方向に伸びるとこの説になる。
四つめが供養不足説。かつてその浜で死んだ者が供養されていないから出る、という理解だ。これは民俗の枠組みそのままで、無縁仏や餓鬼の観念に直結している。反証というより、これは怪談の内部の論理なので、外から真偽を問うても意味がない。ただ、この説が語られる場では、たいてい「じゃあ誰が供養するのか」という話に進まない。そこが少し寂しい。川施餓鬼という行事は、まさにその問いに答えるために存在してきたのだから。
なぜ海は、学校怪談をここまで冷たくするのか
校舎の怪談と海の怪談を並べると、温度がまったく違う。トイレの花子さんは、怖いけれどどこか可愛い。呼べば出てくるし、条件も決まっているし、逃げれば逃げられる。人体模型も、動くというだけで、こちらに何かを要求してくるわけではない。
海の怪談にはその余裕がない。理由をいくつか挙げてみる。
第一に、逃げ場がない。校舎の怪異からは廊下を走って逃げられる。海では走れない。泳ぐしかなく、泳ぐ速度はどうがんばっても遅い。しかも背後を見るには体ごと回らなければならない。人間の身体能力が根こそぎ削られる場所で怪異に出会う、というのが海の怪談の基本設定だ。
第二に、足がつかない。これは物理的な話であると同時に、比喩としても効く。立てないというのは、状況を自分で止められないということだ。プールなら底に足をつけて立てば、そこで話は終わる。海では終わらない。下は無限に続いていて、そこには自分の体重を支えてくれるものが何もない。
第三に、視界が奪われる。海水に顔をつければ、数メートル先で世界は白く濁って消える。何かが近づいてくるとしたら、それは必ず見えない場所から来る。しかも足元、つまり自分から一番遠い方向から。足首を掴む手というモチーフが強いのは、そこが人体でもっとも監視しづらい場所だからだ。
第四に、境界としての海が持つ歴史の厚み。日本の民俗において、海は死者の行く方角であり、常世の入口であり、盆に霊が渡ってくる道でもある。この蓄積の上に立っているぶん、海の怪談はどうしても神話の側に片足を突っ込む。校舎の怪異は学校という近代制度の内側の話だが、海の怪異は近代よりずっと古い。
第五に、これがいちばん大きいと思うのだが、海の怪談は集団に向けられている。校舎の怪談は基本的に個人を襲う。夜のトイレに一人でいる子、居残りで一人だけ教室にいる子。ところが臨海学校の怪談は、三十人の列そのものに異物が混じる。狙われているのは誰か一人ではなく、集団の完全性だ。列に一人多い、という事態が意味しているのは、この集団はもう自分たちが誰なのかを把握していない、ということである。学校が子どもに与えようとしている最大の価値、すなわち「みんなで一つ」という感覚が、そこで裏返る。
そして海は、その裏返しに最適な舞台を提供する。誰も互いを識別できない。同じ水泳帽をかぶり、同じ日焼けをして、同じ苦しそうな顔で息継ぎをしている。名前を呼んでも聞こえない。番号でしか自分を証明できない。番号が一つ余る。
臨海学校の怪談が冷たいのは、水が冷たいからではない。集団の中で、自分が番号でしかないと気づく瞬間が冷たいのだ。
臨海学校が消えていく時代に
近年、臨海学校は各地で縮小され、廃止されている。理由はいくつも重なっている。安全管理の負担が重すぎること。教職員の勤務時間の問題。バスや宿の確保が難しくなったこと。保護者負担の増加。熱中症のリスク。そして、事故が起きたときに誰が責任を取るのか、という問いに誰も答えられないこと。東京の区立小学校でも、大会や五輪関連のバス不足を機に中止となり、そのまま廃止へ向かう動きが議論になったところがある。学校プールそのものを廃止して民間施設に委託する自治体も増えている。
面白いのは、行事が消えると怪談も消える、というほど単純ではないことだ。むしろ、体験する者がいなくなったジャンルの怪談は、体験談から伝説へと格上げされる。「昔はこういう行事があって、そこではこんなことが起きたらしい」という語り方に変わる。検証者が世の中から減っていくので、話は自由になり、細部は誇張され、洗練されていく。
一九九〇年代、常光徹が学校の怪談を記録したとき、教師と子どもはまだ同じ怖い話を共有していた。ところが二〇〇〇年前後から、教師の側が自主規制を始めた。授業時間が足りない、保護者から苦情が来るかもしれない、学級の秩序が乱れるかもしれない。結果として、教師は教師だけで怪談を共有し、子どもは子どもだけで楽しむという分断が生じた、と指摘されている。かつて怪談は世代を超えたコミュニケーションの道具だったのに、いまは教育する側とされる側の関係に押し込められている。
臨海学校の怪談は、この分断のちょうど断層線の上にある。点呼が合わないという話の中で、大人は数を数え、黙り、説明しない。子どもは数を数え、聞き、答えをもらえない。あの怪談は、大人と子どもが同じ現象を前にして、言葉を交わさないまま別々に怖がる話なのだ。
だから、あの話の本当の恐怖は幽霊ではないのかもしれない。列の先頭にいたのが誰だったのか、結局誰も教えてくれないこと。それが怖い。
「間に合わなかった子」の席は、最初から列にあった
ここからは、いままで書いたものを踏まえて、もう少し踏み込んだ話をしたい。
まず整理しておくと、臨海学校という制度には、はじめから三つの異なる目的が混ざり込んでいた。一つめは医療、すなわち潮湯治から後藤新平の『海水功用論』へ、そして茅ヶ崎の林間学校に代表される虚弱児の転地療養へと続く系譜。二つめは軍事的な色を帯びた鍛錬、すなわち一八九一年の学習院の遊泳演習から、日清日露を経て強まった海国思想と海事教育の系譜。三つめが集団生活の訓育で、一九二五年の成城中学校以降の臨海学校が前面に掲げてきた性格だ。三つとも「体に何かをする」という点で共通しているが、目指しているものはそれぞれ違う。治すのか、鍛えるのか、まとめるのか。
この三つが混ざったまま制度が全国化したところに、臨海学校の独特のねじれがある。安全のためにやっているはずなのに、危険な場所へわざわざ行く。個人の健康のためのはずなのに、集団で行動させる。楽しい思い出を作る行事のはずなのに、参加者の多くが泣くほどつらい思いをして帰ってくる。この矛盾は、行事の当事者にもうすうす感じ取られていた。感じ取られてはいたが、言語化されなかった。言語化されなかったものは、怪談として出てくる。
私は、臨海学校怪談の本体は「引率者への不信」だと考えている。ここでいう不信は、あの先生は嫌いだ、というレベルの話ではない。もっと構造的なものだ。子どもたちは、大人が自分たちの安全を完全には保証できないことを、遠泳の最中に身体で理解してしまう。だって、船は一隻しかない。先生は自分も泳いでいる。監視員はずっと向こうにいる。いま自分が沈んだら、誰かが気づくまでに何秒かかるだろう。その計算を、水の中で全員が一度はやっている。
その計算の答えが「たぶん間に合わない」だったとき、子どもは二つの方法でそれを処理する。一つは忘れること。もう一つは物語にすることだ。物語にすると、間に合わなかった誰かが登場人物になる。列に一人多い、というのは、要するに「間に合わなかった子」の席を先に用意しておく行為なのだと思う。まだ誰も死んでいない。でも、死んだ場合の席はもう列の中にある。
この読み方をすると、なぜ怪談が「多い」方向にしか転ばないのかも説明できる。「一人少ない」は現実の事故そのものであって、物語にする余地がない。少なくなったら、それは本当に人が死んだということだ。一方「一人多い」なら、現実の被害はゼロのまま、恐怖だけを取り出すことができる。子どもたちは無意識に、自分たちが耐えられる形に恐怖を加工している。怪談は防波堤なのだ。
もう一つ、時間の話をしたい。臨海学校の怪談で語られる怪異は、たいてい「まだ終わっていないもの」として現れる。足首を掴む手は、掴んだまま何かを言うわけではない。列に加わった一人は、加わったまま何も要求しない。枕元の足跡は、来て、止まって、戻らない。中断されたまま宙に浮いている。
これは、水死という死に方の特徴と対応していると思う。水死は、儀礼的にきわめて厄介な死だ。遺体が上がらないことがある。上がっても、いつ死んだのかが分からないことがある。どこで死んだのかも確定できない。土葬にせよ火葬にせよ、死者を送るには「ここで、このときに死んだ」という座標が要るのに、海はその座標をくれない。
だからこそ、川施餓鬼という行事があるのだと思う。土地の水で死んだ者を、名前が分からなくても、遺体がなくても、まとめて供養する。灯籠を流し、経木を流し、舟の上で鉦と太鼓を打つ。あれは座標を持たない死者に、無理やり座標を与える技術だ。船幽霊が盆に集中して現れるのも、精霊流しの光景と重なるからだと指摘されているが、私はもう少し実際的な理由もあると思っている。盆は、供養が可視化される期間だ。灯籠が流れ、迎え火が焚かれ、送り火が消える。供養されている死者が目に見える形になるということは、供養されていない死者の不在も同時に浮かび上がるということだ。誰の灯籠にもならなかった死者が、いちばん濃く感じられる季節。それが盆である。
さて、離岸流や土用波や水温躍層の話を書きながら、私はずっと少し落ち着かない気持ちでいた。科学的説明を並べると、怪談が「解決」されたような書き方になりがちだからだ。だが実際には、そうはならない。中河原海岸の控訴審判決が、異常流の科学的解明は当裁判所のよくするところではない、と書き残していることを思い出してほしい。一九五五年に三十六人が死んだあの現象について、法廷は最終的に「分からない」と言った。原因説は五つも六つも並んだが、どれも決定打にならなかった。
科学は、なぜ危ないかを説明してくれる。だが、なぜあの日、あの子だったのかは説明してくれない。離岸流は毎日どこかで発生している。土用波も毎年来る。それでも大半の子どもは無事に帰ってくる。三十六人が死んだ日と、何も起きなかった日のあいだにある差は、確率という言葉でしか埋められない。人間は確率で納得できるようにできていない。だから物語が要る。
怪談が続く理由はそこにあると思っている。怪談は「なぜ」に答える。答えの内容が正しいかどうかは、実はあまり関係がない。防空頭巾の女たちに引かれた、という説明が広まったのは、それが真実だったからではなく、それが「なぜあの子たちだったのか」に答える唯一の形式だったからだ。しかも、この説明にはもう一つ機能がある。責任の移し替えだ。教師が悪かったのでもない、市教委が悪かったのでもない、生徒が無謀だったのでもない。海の下にいた誰かが引いた。この構図なら、生き残った人間が自分を責めなくて済む。
ただし、その安堵には代償がついている。あとから検証してみると、その証言をしたとされる生存者本人は、霊を見たとは言っていなかった。雑誌に載った手記は、取材をもとに構成されたものだった。物語は誰かを救うために作られたはずなのに、作られた物語は、名前を貸した人間の人生に何十年も貼りつく。この不均衡は、怪談を書く側が忘れてはいけないところだと思う。臨海学校の怪談を面白がるのはいい。実在の事故を「元ネタ」として軽く扱うのは、たぶん違う。
視点を変えて、遠泳という行為そのものの美しさについても書いておきたい。三十人が等間隔で一直線に並び、同じ速度で、同じ呼吸で、一時間近く泳ぎ続ける。上から見たら、それはきわめて秩序だった光景のはずだ。太鼓が鳴り、旗が上がり、船が並走する。人間の集団が、自然の中に幾何学的な線を一本引く。臨海学校の目的が集団生活の訓育である以上、この線こそが行事の成果物だ。
怪談は、その線に一点の余りを付け加える。線が完璧であればあるほど、余りは目立つ。逆に言えば、隊列が乱れているところに「一人多い」怪談は生まれない。体験談その二で紹介した集団パニックの現場では、幽霊は出てこない。列が壊れているときの恐怖は具体的で、名前がついていて、対処法もある。幽霊が出るのは、すべてがうまくいっているときだ。全員が同じリズムで泳いでいて、事故も起きていなくて、天気もよくて、そういうときに数だけが合わない。
日常の中に一つだけ欠けた歯車がある、という形式は、怪談の王道である。臨海学校の場合、その歯車は「余分な一つ」として現れる。欠けているのではなく、多い。この形式の反転が、私はずっと面白いと思っている。
最後に、この行事が消えていくことについて、もう少し。
臨海学校が減っている理由の中で、いちばん本質的なのは安全管理だと思う。かつての遠泳は、大量の人手と、地元の宿と漁師の協力と、そして「事故が起きても仕方がない」という社会的な合意の上に成り立っていた。その合意はもう存在しない。存在しなくなったのは正しいことだ。三十六人が死んだ事故のあとで、社会がその合意を維持し続けていたら、そのほうがよほど怖い。
ただ、行事が消えると、それに付随していた身体的な学習も消える。海は静かに見えても危ないということ。人は静かに溺れるということ。冷たい層が急に足に当たること。沖から見た浜がどれだけ遠く見えるかということ。これらは、プールでは絶対に学べない。学校プールで距離だけを測る水泳教育に対しては、指導の現場からも、本来の目的である命を守る技術に立ち返るべきだという声が上がっている。
そう考えると、臨海学校の怪談は、消えた行事が残した最後の教材なのかもしれない。列に一人多い、という話を聞いた子どもは、海が数を数える場所だということを知る。足首を掴まれる話を聞いた子どもは、水の中の下方向が死角だと知る。お盆に海へ入るなという言い伝えを聞いた子どもは、時期によって海の顔が変わることを知る。怖い話は、理屈より先に体に入る。近代の学校が百年かけて教えようとしたことを、怪談は三分で教えてしまう。
夏の宿舎で、廊下を行ったり来たりしながら誰かが数を数えている。二十七、二十八、二十九。あの声を布団の中で聞いた子どもは、たぶん一生、海に入る前に自分で人数を数えるようになる。それは呪いだろうか。私は、たぶん違うと思う。数えることを覚えた子どもは、隣で泳いでいる誰かが消えたとき、いちばん早く気づく人間になる。
臨海学校の怪談が、あれほど執拗に点呼にこだわるのは、そのためではないか。列の先頭が誰だったのかは、結局分からないままでいい。大事なのは、誰かが数えていたということだ。数えることをやめない限り、少なくとも、誰かが欠けたことには気づける。海の話としては、それが精一杯の救いだと思う。
