学校の怪談には、場所に張りついたものと、時間に張りついたものがある。トイレの花子さんや音楽室の肖像画は前者で、深夜に動く人体模型や四時四十四分の鏡は後者だ。で、今回取り上げる「存在しない七時間目」は、その後者の中でもかなり特殊な位置にいる。なにしろ、学校という組織を成り立たせている一番根っこの仕組み、つまり時間割そのものに穴を開けてくる怪談だからだ。今回はこの話を、再話から発祥、派生、体験談、考察、そして実在の制度背景まで、丁寧に見ていく。
## 話の全体を、時系列と情景ごと再話する
一番流布している形は、六時間目の終わりから始まる。場所は公立中学か高校。季節は秋から冬にかけて、日が落ちるのが早くなった頃。六時間目が終わってチャイムが鳴り、帰りの会が終わり、教室から人が引いていく。掃除当番だけが残って、机を後ろに寄せて、箒で床を掃く。窓の外はもう橙色で、グラウンドでは部活が始まっている。金属バットの音と、吹奏楽部のロングトーンが、開いた窓から遠く入ってくる。ここまでは、日本中どこの学校にでもある放課後の風景だ。
異変は、掃除が終わって、当番の何人かが教室に戻ってきたところで起きる。誰かが「あれ、次って何だっけ」と言う。言った本人も、なんでそんなことを言ったのか分からない。次なんてない、今日は六時間で終わりだ、と別の子が返す。それなのに、教室にいた三人か四人が、なんとなく席に着いてしまう。荷物はもう鞄に詰めてあるのに、席に着いて、机の上に何も出さないまま前を向いている。その状態が数分続く。誰も喋らない。外の音が急に遠くなって、教室の中の空気だけが妙に重くなる。
そしてチャイムが鳴る。六時間目の終わりのチャイムはもう鳴ったはずなのに、また鳴る。ただし音が違う。いつもの四音の予鈴ではなく、もっと低くて、途中で少し歪むような鳴り方をする。テープが伸びたときの音に似ている、という描写が多い。鳴り終わると、廊下から足音がして、引き戸が開く。入ってくるのは先生だ。だが誰も顔を思い出せない。この学校の教員ではない、という確信だけがある。年齢も性別も、話によってまちまちで、そこは語り手が毎回変える部分になっている。
先生は黒板の前に立って、何も言わずにチョークを取り、板書を始める。書かれるのは文字ではない。文字のように見えるが、読もうとすると形が崩れる。数式のようでもあり、名簿のようでもある。ある版では、そこに教室にいる生徒の名前が縦に並んで書かれていく。書かれた者から順に、席を立って教室を出ていく。呼ばれてもいないのに、自然に立ち上がって、廊下に出て、そのまま右に曲がって見えなくなる。残った生徒は、体が動かない。声も出ない。ただ、隣の席の子が立ち上がって出ていくのを、目だけで追っている。
終わりの合図もチャイムだ。二度目のチャイムが鳴ると、教室の空気が元に戻る。先生はいない。黒板は真っ白で、チョーク受けの粉すら乱れていない。残った生徒は体が動くようになって、慌てて廊下に出る。廊下は蛍光灯がついていて、いつもどおりで、部活の音もする。時計を見ると、六時間目の終わりから五分しか経っていない。そして、席を立って出ていったはずの生徒が、どこにもいない。
ここからが後半だ。翌日、その生徒は登校してこない。担任に聞いても「休みの連絡は来ていない」と言う。だが数日経つと、話がおかしくなってくる。クラスの誰も、その子の顔を思い出せない。名簿を見ても名前がない。出席番号が繰り上がっている。卒業アルバムにも載らない。残ったのは、あの日教室にいた数人の「いなくなるところを見た」という記憶だけで、その記憶すら、年を追うごとに薄れていく。そして数年後、同窓会で誰かがふと「あのとき、もう一人いなかったっけ」と言い出す。全員が黙る。そこで話は終わる。
## 発祥はどこか、初出は特定できるのか
正直に書いておくと、この怪談の初出を一点に特定することはできない。ネット上のオカルトまとめサイトや動画の解説では「二〇〇〇年代の匿名掲示板発」「洒落にならない怖い話のスレッドが出典」と書かれることがあるが、具体的なスレッド名や投稿日時、レス番号まで示している例をきちんと確認できたことはない。むしろ、この話は複数の系統が合流してできた合成物と見るのが実態に近い。
第一の系統は、口承の学校怪談だ。民俗学者の常光徹が一九九〇年から講談社で刊行した児童向けの学校怪談シリーズ、およびその母体となった口承文芸の研究は、日本の学校怪談を体系的に採集した仕事として知られている。この採集の中には「放課後に誰もいないはずの教室から声がする」「使われていない教室で授業が行われている」といった型がすでに含まれている。誰もいない教室から声がする、というのは学校怪談のもっとも基本的な型のひとつで、これに「時間割」という枠を与えると、七時間目の話にかなり近づく。
第二の系統は、いわゆる異界移動譚だ。ある地点で電車を降りたら知らない駅だった、という有名なネット怪談を筆頭に、日常の交通や生活の枠組みからわずかにずれた場所に迷い込む、という型が二〇〇〇年代以降のネット怪談で大量に生まれている。この型の特徴は、迷い込む先が地獄でも異世界でもなく、「日常とほとんど同じだが微妙に違う場所」であることだ。存在しない七時間目の教室は、まさにそれで、机も黒板も蛍光灯もいつもどおり、違うのは時間割に存在しないという一点だけ。この系統からの影響は間違いなくある。
第三の系統は、名前や記録が消えるという型だ。誰かがいなくなり、同時にその人物の記録も痕跡も世界から消えて、記憶している者だけが取り残される。この型自体は海外の現代伝説にも古い民話にもあるが、日本のネット怪談では二〇〇〇年代後半から二〇一〇年代にかけて非常によく使われた。名簿から名前が消える、卒業アルバムに写っていない、といったディテールはこの系統から来ている。
つまり「存在しない七時間目」は、これら三つの型が学校という舞台で合流したものと考えるのが妥当だ。ピクシブ百科事典やニコニコ大百科の学校の怪談まわりの項目を見ても、この話が単独の見出しとして立っていることはほとんどない。「誰もいない教室」「消える生徒」といった一般項目の一例として言及されるにとどまる。固有の名前を持たないまま、モチーフの組み合わせとして広く流通しているタイプの怪談だ。
もうひとつ、成立時期を推測する手がかりがある。この話が成立するには、聞き手が「七時間目は存在しない」と直感的に分かる必要がある。つまり、六時間で終わるのが普通、という前提が共有されていないと成立しない。日本の小学校は長らく六時間目までが上限で、中学校でも六時間が標準だった。ところが二〇一〇年代後半、学習指導要領の改訂で授業時数が増えたことを受けて、一部の公立小学校で七時間目を設ける動きが出てきて、これが新聞でも報じられた。中学や高校では以前から七時間授業を組む学校もある。この現実の変化が進むほど、「七時間目そのものが異常だ」という怪談の前提は弱くなる。逆に言えば、この話が最も切実に響いたのは、六時間で終わるのが当たり前だった時代、おおむね一九九〇年代から二〇〇〇年代の学校感覚を前提にしていることになる。
## 学校ごとに、違う形で語られている
### 六時間目が二回ある版
七時間目ではなく、六時間目が二度繰り返される、という版。チャイムが鳴って六時間目が終わり、帰りの会も終わったのに、また六時間目のチャイムが鳴って、さっきと同じ授業が始まる。教科も同じ、先生も同じ、板書も同じ。違うのは、教室にいる生徒の顔ぶれが微妙に入れ替わっていることだけだ。この版が怖いのは、異常なものが何も入ってこない点にある。侵入者がいない。ただ同じ時間がもう一度再生されるだけ。だが二回目の六時間目の途中で、先生がふと手を止めて「今日は一人多いな」と言う。そこで語りは終わる。人数が合わない系のモチーフとの接続が見えるところで、学校怪談のモチーフ同士が互いに引用し合っているのが分かる。
### 空き教室で行われている版
自分の教室ではなく、使われていない教室で七時間目が行われている、という版。放課後、忘れ物を取りに戻る途中、普段は施錠されている旧校舎の教室から声が聞こえる。ドアの小窓から覗くと、電気がついていて、生徒が座って授業を受けている。制服が古い。今の学校のものではない、詰襟とセーラーで、鞄も肩掛けの革鞄だ。目を凝らしていると、一番後ろの席の子がゆっくりこちらを向く。そこで我に返って走って逃げる。翌日確認しに行くと、その教室は物置になっていて、机も椅子もない。この版は、時間の断層が学校の建築の古い部分に溜まっている、という発想で、旧校舎という日本の学校怪談の定番装置ときれいに噛み合っている。
### 参加すると戻れる版
珍しく助かる版。七時間目に巻き込まれた生徒が、席に着いて、板書をノートに写し、終業のチャイムまで普通に授業を受ける。すると何事もなく終わり、教室から出られる。逆に、途中で立ち上がったり、逃げようとしたり、先生に話しかけたりした者だけが戻ってこない。つまり「授業を受ける」という学校のルールを守っていれば助かる、という条件が付いている。この版はルールを提示するぶん物語としては閉じてしまうが、教訓譚としては非常に学校怪談らしい。トイレの花子さんに正しい呼び方があるように、七時間目にも正しい過ごし方がある、という発想だ。子どもの怪談は、しばしばこの「正しい作法」を含む。
### ノートだけが残る版
翌日、その生徒の机の中に、見覚えのないノートが残っている、という版。開くと、七時間目の板書が写してある。字は本人のもので、間違いなくその子の筆跡なのに、内容はまったく読めない。文字らしきものが並んでいるが、どの言語でもない。ページをめくっていくと、途中から筆圧が急に強くなり、最後の一ページは同じ形が紙が破れるほど繰り返し書かれている。この版は、物証が残るという点で他の版と違う。物証が残るぶん検証可能性が生まれてしまうので、たいていは「ノートは先生が回収した」「親が持って帰った」といった形で語り手の手元から消える。
### 教師の側から語られる版
語り手が生徒ではなく教員という版。職員室で残業していると、校内放送のスピーカーからチャイムが鳴る。時間外なのでおかしい。校内を見回ると、三階の端の教室だけ電気がついている。行ってみると誰かが授業をしている。窓から見ると、自分が受け持ったことのある、もう卒業したはずの生徒たちが座っている。教壇に立っているのは自分だ。この版は、七時間目が過去の再生である、という解釈を明示する。他の版が曖昧なままにしている「あの先生は誰か」に答えを与えているぶん、怪談としてはやや説明的だが、教員という語り手を使うことで話の信頼性が上がるという効果はある。
### 時間割表が書き換わっている版
教室の後ろの壁に貼ってある時間割表に、七時間目の欄が増えている、という版。ある朝登校すると、時間割表の下に一行足されていて、そこには見たことのない教科名が書いてある。数日後には元に戻っている。この版は視覚的な違和感が強く、ネット怪談の画像投稿文化と相性がいい。実際、時間割表の写真に一行足された画像が出回ったことがあるとする言及も見かけるが、原本を確認できた例はない。日本の学校では時間割表を学級で手書きして掲示する慣行が広くあり、書き足しても分かりにくいという実務的な事情が、この版のリアリティを支えている。
## 実際に「あった」と書いている人たち
### 体験談その一 誰かが黒板を消す音
ネット上の体験談投稿で読んだもので、投稿者は北関東の公立中学の出身を名乗っていた。中学二年の冬、掃除当番で教室に残っていたときの話だという。掃除は終わって、他の当番はもう帰り、投稿者だけが日誌を書くために教室に残っていた。窓際の席で書いていて、外はもう暗く、教室の蛍光灯だけがついていた。書き終えて顔を上げたとき、黒板がやけに白かった。掃除のときに黒板は消したはずなのに、チョークの粉が一面にうっすら乗っていて、消したばかりの状態になっていた。
変だと思っていると、廊下側から黒板消しをはたく音がした。屋外の黒板消しクリーナーではなく、手ではたく音だ。教室の外には誰もいない。音は近づいてきて、教室の引き戸の前で止まった。投稿者は日誌を持ったまま動けなくなり、そのまま何分か経った。そのうちチャイムが鳴った。時間としては、部活終了の予鈴には早すぎるし、下校時刻の放送とも違う。チャイムが鳴り終わると、廊下の音も消えて、黒板は普通に消された状態に戻っていた。投稿者はそのまま職員室に日誌を出しに行ったが、職員室の時計を見たら、教室を出てから五分も経っていなかったという。話としては短いが、「時間の感覚が合わない」という一点だけを残して終わっているのが良い。
### 体験談その二 いない子の机
二つ目は、まとめサイト経由で読んだもの。投稿者は関西の私立高校で、高校一年のときの話だという。クラスに、名前は思い出せないが確かにいた子がいて、ある時期を境に来なくなった。転校したのかと思っていたが、担任は何も言わない。しばらくして、教室の机が一つ余っていることに気づいた。列の数と人数が合わない。誰の席か分からない机が、窓際の後ろにひとつだけあった。
ある日、その机の中に手を入れてみたら、プリントが何枚か入っていた。日付は数か月前のもので、名前の欄は空欄だった。ただ、プリントの端に、鉛筆で細かく落書きがしてあった。時計の絵が並んでいて、全部の針が同じ位置を指している。投稿者はそれを見て気持ち悪くなり、プリントを元に戻した。学期末に机が撤去されて、話はそれで終わる。投稿者は最後に「その子の顔を思い出そうとすると、必ず教室の後ろのドアのあたりに立っている姿になる。席に座っているところを一度も思い出せない」と書いていた。この、記憶の像が固定されてしまっているという描写が妙に生々しくて、読んだあとしばらく残った。
### 体験談その三 職員室の時計
三つ目は、教員を名乗る人物の投稿。中学校で理科を教えていた頃の話として書かれていた。ある日の放課後、職員室で採点をしていて、ふと顔を上げたら、職員室の壁掛け時計と自分の腕時計が七分ずれていた。壁掛け時計のほうが進んでいる。学校の時計は親時計から一括制御されている校舎が多く、教室の時計と職員室の時計がずれることは基本的にない。おかしいと思って廊下に出ると、廊下の時計も同じだけ進んでいた。校内の全部の時計が、七分だけ進んでいた。
翌日、事務職員に聞いたら「昨日の夕方、親時計の点検はしていない」と言われた。時計は元に戻っていた。この投稿者は、これ自体を心霊現象だとは書いていない。むしろ機器の不具合だろうと結論づけている。ただ、そのあとにこう書き足していた。前任校でも同じことがあって、その学校では「たまに時計が進む日は、生徒を早く帰す」という不文律があった、と。理由は誰も説明しない。ただそういう運用になっていた。この、説明されないまま存在する学校のローカルルールという要素が、この手の怪談を一段階リアルにする。
### 体験談その四 放送室の記録
四つ目は短い。放送委員をしていたという投稿者の話。チャイムは自動制御で、放送室の機械に時刻がプログラムされていて、手動で鳴らすこともできる。ある日、日誌を見ると、前日の欄に自分が書いた覚えのない手動操作の記録があった。時刻は十六時台。当番は自分で、その時刻には確かに放送室にいたが、何も操作していない。筆跡は自分のものだった。投稿者はその日誌のページを破って捨てたと書いていた。物理的な記録装置が絡む話は、検証されると弱くなるぶん、こうやって記録が失われる形で終わることが多い。
## 掲示板・SNSでの反応と、主要な考察と反証
この怪談がスレッドやSNSで話題になると、まず出てくるのが「単に居眠りしていたのでは」という指摘だ。掃除当番で疲れて机に突っ伏し、短く眠って、夢と現実が混ざったのではないか。実際、入眠直後には金縛りや幻聴が起きやすく、「体が動かない」「知らない人が入ってくる」「音が歪んで聞こえる」という描写は、睡眠麻痺に伴う体験の典型的な特徴とかなり一致する。教室で体が動かなくなり、知らない人物が入ってきて、声が出ない、という話の骨格は、この説明でほとんど再現できてしまう。
これに対する再反論としてよく出るのが、複数人が同時に体験しているという点だ。ただしこれも弱い。同時に体験したと語られているだけで、実際に複数の独立した証言が突き合わされた例は示されない。というより、この怪談の構造上、「他の目撃者は消えてしまった」ことになっているので、検証しようがない。ここは怪談としてよくできている部分でもあり、同時に検証不可能性を組み込んでいるという批判の的にもなっている。
もう少し踏み込んだ考察として面白いのが、この怪談を「学校が生徒の時間を全部管理していること」への恐怖として読む見方だ。学校というのは、朝何時に来て、何分の授業を何コマ受けて、何分休んで、何時に帰るかを、全部他人が決める場所だ。チャイムという音響信号が、身体の行動を直接支配する。この管理があまりに完璧なので、生徒はいつしか「チャイムが鳴ったら座る」という反射を身につける。存在しない七時間目の怪談は、その反射を逆手に取っている。鳴るはずのないチャイムが鳴ったとき、体が勝手に席に着いてしまう。逃げないのではなく、逃げるという発想が湧かない。この、飼い慣らされた身体こそが罠になるという構図は、かなり批評的だ。
消える生徒の扱いについても議論がある。この怪談では、消えた生徒が悲惨な目に遭ったとは一度も語られない。呼ばれて、立って、出ていっただけだ。苦痛も抵抗もない。そこがむしろ怖い、という意見が多い。学校という場所で、誰かが静かにいなくなり、記録が更新され、出席番号が繰り上がり、翌年には誰も覚えていない。この過程は、実は超常現象を持ち出さなくても現実に起きうる。転校、不登校、退学、そして事故。学校という組織は、いなくなった個人をかなり速やかに処理して、何事もなかったように運転を続ける。この怪談は、その事務的な冷たさに超常のラベルを貼り直したものだ、という読みには説得力がある。
考察界隈でもうひとつよく議論されるのが、「なぜ七なのか」という点だ。日本の学校怪談には七不思議という強力な枠組みがあり、七という数は学校怪談において特別な意味を持っている。七つ揃うと何かが起きる、七つ目を知ると死ぬ、といった形で、七は完結と超過の両方を示す数として使われてきた。六時間目までが日常で、七時間目が超過分だという構図は、六不思議までは知ってもいいが七つ目は知ってはいけない、という七不思議の作法と完全に同型だ。つまり七時間目とは、時間割に翻訳された七つ目の不思議なんだと考えると、この怪談が学校怪談の系譜のど真ん中にいることが分かる。
## 七時間目は、本当は実在する
怪談の土台を理解するには、日本の学校の時間割がどういう仕組みで動いているかを押さえておく必要がある。まず授業時数は、学校教育法施行規則と学習指導要領によって、各学年の各教科ごとに標準授業時数が定められている。学校はこの時数を年間で満たすように年間指導計画を組み、それを週の時間割に落とし込む。一単位時間は小学校で四十五分、中学校と高校で五十分が基本だ。この四十五分と五十分という区切りは、戦後の教育課程の枠組みの中でほぼ固定されてきた。
この標準授業時数が、時代によって増減してきたことが重要だ。一九九〇年代後半から二〇〇〇年代前半にかけては、いわゆるゆとり教育の流れで授業時数が削減され、学校週五日制が完全実施された。ところが二〇〇八年前後の改訂で方針が転換して授業時数が増加に転じ、以降、学校現場は限られた曜日の中に増えたコマ数を押し込む必要に迫られた。その結果、公立小学校でも七時間目を設ける事例が出てきて、これが二〇一〇年代後半に新聞で報じられるまでになった。中学校では以前から、六時間目のあとに補習や総合の時間を置いて実質七コマ目にする運用が珍しくない。高校に至っては、進学校を中心に七時間授業が制度として組まれているところが多数ある。
つまり、七時間目というのは現実に存在しうる。にもかかわらず怪談として成立するのは、この話が「自分の学校の時間割には七時間目がない」という個別の前提に立っているからだ。ここが面白いところで、この怪談は全国一律の常識ではなく、語り手の学校のローカルな時間割に依存している。だから語られる学校ごとに、異常とされるコマ数が変わる。七時間授業がある高校でこの話をすると、異常が起きるのは八時間目になる。怪談が制度の隙間ではなく、制度の端に生えるということがよく分かる例だ。
チャイムについても触れておきたい。日本の学校のチャイムは、多くの校舎で親時計と呼ばれる基準時計から制御される時計システムに連動している。親時計が校内の子時計を一括で制御し、あらかじめ設定された時刻に信号を出してスピーカーからチャイムを鳴らす。手動でも鳴らせる。この構造上、校内の全時計が同時にずれるという事態は、親時計側に問題が起きたときには実際に起こりうる。逆に言えば、一つの教室の時計だけがずれるということは物理的に起きにくい。この怪談で「全部の時計が七分進んでいた」という体験談が出てくるのは、実は機構的にはかなり正しい設定なのだ。怪談が現実の設備仕様に沿っていると、途端に説得力が増す。
建築の話もしておく。日本の公立学校の校舎は、戦後の標準設計の影響で、片廊下型と呼ばれる形式が圧倒的に多い。廊下が片側にあり、教室が一列に並ぶ。この形式だと、廊下の突き当たりや、増築でつながった旧校舎との接続部分に、用途がはっきりしない空間ができやすい。旧校舎の一部が物置になっている、渡り廊下の先の階段が途中で塞がれている、といった状況は珍しくない。校舎は何十年もかけて増改築を繰り返すので、現役の教職員でも建物の全体像を把握していないことがある。図面が事務室の奥に眠っていて、誰も見たことがない、という学校も現実にある。存在しない教室、存在しないコマ、という怪談は、こういう把握しきれない建物の上に立っている。
加えて、学校という組織が持つ記録の性質も見ておきたい。学校には指導要録という公的な記録があり、これは法令上の保存年限が定められている。学籍に関する記録は長期保存、指導に関する記録は比較的短期で廃棄される。卒業アルバムは業者が作る私的な記録だ。名簿は年度ごとに作り直される。つまり、ある生徒の存在を証明する記録は、実際には性質の違う複数の帳簿にばらばらに存在していて、しかもそれぞれ寿命が違う。何年か経つと、ある部分は消え、ある部分は残る。記憶している人間もばらつく。「あの子、いたよね」「いや、いなかったと思う」という会話は、超常現象がなくても十分起こりうる。この怪談は、その現実の記録の穴を怪異に読み替えている。
## なぜ怖いのか、なぜ広まったのか
この話の怖さの正体は、侵入ではなく追加だと思う。多くの怪談は、日常に異物が入ってくることで恐怖を作る。廊下に幽霊が立っている、鏡に知らない顔が映る。だがこの怪談は、日常のフォーマットの中にコマが一つ足されるだけだ。異物は入ってこない。教室も机も黒板もそのままで、ただ時間割が一行増える。増えた一行の中で行われることは、授業という完全に日常的な行為だ。異常なのは、それが存在しないはずだという一点だけ。この、形式の異常だけで押してくるタイプの恐怖は、慣れると効きが遅いぶん、後から効いてくる。
広まった理由も分かりやすい。まず舞台装置が全国共通だ。教室、チャイム、時間割、掃除当番、放課後。日本で学校に通った人間なら誰でも持っている情景で、追加の説明が一切いらない。次に、話の芯が短い。チャイムが余分に鳴って、知らない先生が来て、何人か戻ってこない。これだけで伝わる。細部はいくらでも足せるし、削っても壊れない。怪談が口承で生き延びるための条件を、この話は完璧に満たしている。
そしてもうひとつ、この怪談には現実の不安が乗っている。時間割が増える、放課後が削られる、コマ数が積み上がっていく。これは怪談ではなく、実際に起きた制度の変化だ。授業時数が増え、七時間目が現実になっていく過程を、当の生徒たちは体感していた。増えた一コマが物理的にきついという体感と、増えた一コマから帰ってこられないという怪談は、地続きになっている。怪異は、現実の圧力が形を変えて出てくることが多い。この話が二〇一〇年代以降も語られ続けているのは、たぶんその圧力がまだ続いているからだ。
## 呼ばれて、立って、廊下を右に曲がる
ここまで書いてきて、この怪談の一番の勘所は「呼ばれて出ていく」という動作にあると思っている。他の学校怪談では、怪異は追いかけてきたり、引きずり込んだり、はっきりと敵対的な動きをする。だがこの話では、消える生徒は誰にも襲われていない。名前が書かれ、立ち上がり、廊下に出て、右に曲がる。それだけだ。暴力がない。抵抗もない。むしろ整然としている。学校で毎日繰り返されている「呼ばれたら返事をして立つ」という動作が、そのまま消失の手続きになっている。この静けさが、この怪談を他と分けている。
この構造を、もう少し広い文脈に置いてみたい。日本の学校は、集団を単位として個人を扱う仕組みでできている。出席番号、学級、学年、班。個人は常にこれらの枠の中に位置づけられ、枠が個人の輪郭を決める。だから枠から外れることは、単に場所を移ることではなく、輪郭を失うことに近い。転校生が来た初日のあの落ち着かない感じ、あるいは長く休んでいた子が戻ってきたときの、教室の空気の微妙な硬さ。あれは、枠と個人が一時的にずれることの居心地の悪さだ。存在しない七時間目の怪談は、そのずれを極限まで押し進めて、枠のほうが個人を吸収してしまう話にしている。名簿から名前が消え、出席番号が繰り上がるのは、枠が自分自身を修復する動きだ。組織は空白を嫌う。空白ができれば詰める。この詰める動作こそが、この怪談で一番怖い部分だと思う。
もうひとつ考えておきたいのが、この話における「先生」の位置だ。板書をする人物は、生徒たちに何も要求しない。叱らない、質問しない、名前を呼びさえしない。ただ書く。生徒は書かれたことによって呼び出される。つまりこの怪異は、声ではなく文字によって作動する。学校という場所で、文字が持つ力を考えると、これは相当に鋭い設定だ。学校では、口頭の指示よりも書かれたものが優先される。時間割表に書いてあること、名簿に載っていること、要録に記録されていることが、その人の学校における存在そのものになる。黒板に名前を書かれた者から消えていくというのは、学校という制度の作動原理をそのまま怪異に転用したものだ。だから怖い。ここに幽霊は必要ない。制度がそのまま怪物として動いている。
派生バージョンを並べてみると、この怪談が何を巡って揺れているかも見えてくる。授業を受けきれば助かる版は、ルールに従えば救われるという学校的な倫理を保存している。教師視点の版は、怪異の正体を過去の再生として説明することで不安を鎮めようとしている。ノートが残る版は、物証を求める気持ちに応えている。時間割表が書き換わる版は、視覚的な証拠を提示したいという欲求に応えている。どの派生も、元の話が持っている「何も分からないまま終わる」という不安定さを、それぞれのやり方で埋めようとしている。つまり派生の分布そのものが、この怪談の核心が耐えがたいほど宙ぶらりんであることの証拠になっている。人は、宙ぶらりんな話に必ず何かを足したくなる。足された結果が派生だ。
最後に、この怪談との付き合い方について書いておきたい。これは学校という場所の異物ではなく、学校という場所そのものを描いた話だ。だから、卒業してしばらく経ってから読むと、印象がまるで変わる。在学中に読むと、七時間目が来たらどうしようという単純な恐怖として響く。だが何年か経って、あの頃のクラスメイトの顔を思い出そうとして、何人か思い出せないことに気づいたときに、この話は違う顔を見せる。実際、名前も顔も思い出せない同級生というのは、誰にでも何人かいる。同じ教室で一年間過ごしたはずなのに、輪郭がない。その人が本当にいたのかどうか、確かめる方法もない。卒業アルバムを開いてみても、写真の中の顔と記憶が結びつかない。存在しない七時間目の怪談が本当に語っているのは、たぶんそこだ。誰かが消えたのではなく、自分の記憶のほうが、いくつかの席を空席にしてしまっている。教室に机がひとつ余っているという体験談が妙に効くのは、それが超常現象ではなく、誰もが持っている感覚の言語化だからだと思う。時間割にない授業は、たぶん全員が一度は受けている。ただ、そのとき何を習ったかを覚えていないだけなんだよな。
存在しない七時間目――時間割にない授業が始まる教室と、帰ってこなかった生徒の怪談
