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体育館のギャラリーから見下ろす影――誰も上がらない二階回廊の怪談

まず、あの場所の名前が決まっていないという話から

体育館に入って、天井を見上げる少し手前。壁の上のほうに、細い通路がグルッと一周しているだろ。手すりが付いていて、幅は人がすれ違えるかどうか。高さはフロアから四メートル弱。この場所、あなたはなんて呼んでいた?この質問を投げると、驚くほど答えが割れる。ギャラリーだと言う人、キャットウォークだと言う人、観覧席と言う人、回廊と言う人、そして一番多いのが「体育館の二階」だ。名前を知らないまま三年間その下でバレーボールやってた、という人が山ほどいる。

これ、実は専門家の間でも使い分けがあるらしい。観覧用の椅子が並んでいれば観覧席。立ち見だけならギャラリー。窓やカーテンの開閉、掃除、建物の点検整備だけに使っていて、人が立つことを想定していないならキャットウォーク。でも建築の図面ではだいたいギャラリーと書かれている。つまり、同じ場所を指しながら、呼び方で「人が入っていい場所」にも「人が入る場所じゃない」にもできる。ここがもう、怪談の苗床なんだよな。用途が確定していない空間って、人間はめちゃくちゃ不安になる。

しかもこの場所、体育館の中で唯一、「常に人を見下ろす位置にあるのに、常に無人であることが前提の場所」だ。ステージは人が立つ。器具庫は人が入る。フロアは言うまでもない。でも二階回廊だけは、数百人が集まる全校集会のときだろうが、卒業式だろうが、ちゃんと空っぽなままだ。人が一番多い日に、そこだけが空いている。式の退屈な時間に、なんとなく上を見上げてしまったこと、ないか?あの瞬間の、背中がすうすうする感じ。この記事は、その感じの話だ。

上がる道が梯子一本しかない、という異常

この怪談を理解する上で絶対に外せないのが、アクセスの話だ。学校の体育館の二階回廊に上がる手段は、多くの学校で「鉄の梯子一本」だ。階段じゃない。壁に直接取り付いた、垂直のハシゴ。しかも体育館の奥の隅とか、ステージ脇とか、普段は目に入らない位置に一つだけある。この仕様を奇妙に思って質問している人は実際にいて、回答はなかなか乾いている。あれはメンテナンスや一時的な作業のための通路として設計されていて、普段出入りする必要がない。だから梯子しかないのはよくある話だ、と。

この一行、怪談的には最高の燃料だ。思い出してほしいんだけど、子どもの頃にあの梯子を登ったことある?ほとんどの人はないと答える。一部の学校では鍵付きの金網で下半分が囲ってあるし、囲っていなくても「登るな」と言われている。つまり、毎日見えているのに、一度も行ったことのない場所が、自分の学校の中にあるということなんだ。教室も廊下も屋上も、実はどこかのタイミングで入ったことがある。でもギャラリーだけは、卒業まで未踏のままで終わる。この「日常の中の未踏区域」という位置付けが、他の怪談スポットと決定的に違うところだ。

もちろん完全に人が上がらないわけじゃない。窓の開閉、暗幕の開け閉め、照明の球替え、換気の調整。このあたりは実際に人が上がってやる。だから年に数回、体育の先生か用務員の人が、あの高さを歩いている。ちなみに体育器具を扱う業者の話では、あの昇降用の梯子には上端を引っ掛けるフックを付けると便利さと安定性が上がるらしい。つまり、フックなしで登るのは結構怖いということでもある。大人が怖がるものを、子どもに登らせるわけがないよな。

使用制限の話も面白い。ある中学校の例で、新築の体育館の二階ギャラリーを練習試合の応援席に使わせてもらおうとしたところ、学校側に断られたという相談があった。幅は二メートルほど、柵の高さは一メートルほどあるのに、だめだと。理由は「大勢乗ると強度に不安がある」。これに対する回答がまた良くて、実際に壊れるかどうかよりも、万が一何かあったときに学校が責任を負えないからだろう、というものだった。身を乗り出して落ちる可能性。自己責任で済ませられない立場。もう一つの回答はもっと単純で、あそこは一人か二人が歩いてカーテンや窓を開け閉めするための通路だ、と言い切っていた。国の学校施設の指針にも、屋内運動場の上部を観覧席にする場合は活動内容に応じた安全対策が重要だ、という意味の記述がある。要するに、制度側も「人を上げるなら相応の覚悟をしろ」と言っている。

「あそこは物置です」――現実の二階に何が積もっているか

では実際にあの上には何があるのか。体育館あるあるを集めたページには、こうある。ギャラリーに生徒が行くことはまずない、というか誰も行かない、専ら物置。で、何が置いてあるかというと、上がっちゃったバレーボール、バドミントンのシャトル、そして虫の死骸。この三つの並び、やたらに生々しいと思わないか。人が上がらないから、上がってしまった物はそのままになる。何年も。だからあの回廊は、学校の中で一番時間が止まっている場所なんだよ。

体育館自体の環境も相当なものだ。多くの学校の体育館には空調がない。夏はサウナ、冬は冷蔵庫。屋根はかまぼこ型か、切妻型か、平らなやつ。天井が高いから、熱も音も上に溜まる。つまりギャラリー付近は、夏はフロアより体感で何度も暑いし、冬は冷気が溜まるフロアよりはマシだったりする。この温度の差が空気を動かす。暗幕がゆらいだり、カーテンの裾がひらひらしたりする。体育館の二階で何かが動いて見えるのは、マジで何かが動いているからだったりするんだよな。

照明の専門的な話もちょっとだけしておく。体育館の照明は、フロアを均一に明るくするために天井から吊るし、壁面側にはあまり向けない。だからフロアが明るいとき、ギャラリーの奥は必ず暗い。さらに人間の目は、明るい場所から暗い場所を見るのが極端に苦手だ。フロアでバスケをやっている人間から見れば、二階はずっと黒い帯だ。でも、二階にいる人間からは、フロアの全員が丸見えになる。この非対称性。一方からは見えないけど、一方からは丸見え。この場所が怪談になるのは、正直建築の段階で決まっていたと言ってもいい。

完全再話――冬の体育館、上から降ってきた視線

さて、一番よく回っている形の話を、頭から丁寧に語り直す。地方の公立中学、女子バレーボール部、二年生を語り手にするバージョンだ。

季節は十一月の末。日が沈むのが早くなって、夕方五時にはもう外は真っ暗。体育館はバレー部とバスケ部が半分ずつ使っていて、間に別々のネットを張って区切っている。バスケ部はその日、合同練習でよその学校に行っていていない。だから体育館は丸々バレー部のもの。部員は十四人。顧問の先生は会議で少し遅れると言われていた。

五時半ごろ、レシーブの練習中だったという。ボールが床を叩く音と、シューズの音と、声出し。体育館の中はうるさい。語り手はコートの奥側、ステージとは反対側の壁寄りにいて、ボールを拾いに壁の方を向いた。拾って、体を起こしたときに、目の端で上の方が動いた。

彼女は反射で顔を上げた。二階の回廊。ちょうど自分の真上よりちょっと左、手すりの向こう側に、胸から上だけが見えていた。体育館の照明は天井吊りだから、その人影は真逆光になっていて、輪郭しか分からない。大きさは大人くらい。肩幅があって、頭が丸い。手すりに手をかけているように見えたけど、腕の線は見えなかったらしい。

最初に思ったのは「先生だ」だったそうだ。遅れて来た顧問が、なんかの用事で上に上がって、コートを見下ろしている。あり得る話だ。だから彼女は一瞬だけ会釈して、ボールを投げ返して練習に戻った。でも、一分もしないうちに、もう一度見上げた。いた。同じ場所に、同じ姿勢で。

ここからの描写が、この話の一番好きなところだ。彼女は、隣でパスを出していた同学年の子に、小声で言った。「ねえ、上、先生いるよね」。相手はボールを抱えたまま、一瞬だけ天井の方を見て、すぐに目を戻してこう言ったらしい。「見ない方がいいよ」。この一言だけで、会話は終わり。相手は何も説明せず、コートの真ん中に戻っていった。彼女はそのとき初めて、自分だけが見えているわけじゃない、ということを知った。

六時十分ごろ、顧問の先生が体育館の入口から入ってきた。下からだ。ジャージを着て、書類を抱えて、普通に入ってきた。彼女はもう一度上を見た。いなかった。手すりの向こうは黒いだけで、何もない。彼女は先生に、今上にいましたかと聞いた。先生は不思議そうな顔で「上って何」と言った。ギャラリーです、と言うと、先生は笑って「あそこの梯子、先週から鍵付いてるよ」と答えた。実際、先週、他の学年が上で騒いで、学年主任が鍵を掛けたばかりだった。

その日の帰り、更衣室で、彼女は「見ない方がいいよ」と言った子にもう一度聞いた。相手は、面倒くさそうにこう言ったらしい。「一年のときからいる。でもこっちが見なきゃ何もしてこない。見ると、現地で目が合うから、やめた方がいい」。現地で目が合う、という言い方。ここがこの話の一番気味悪いところだと思う。写真や面影じゃなく、「現地で」という場所の限定が付いている。

終わり方はバージョンによって違うんだけど、一番多いのはこうだ。その後、彼女は一度も上を見ないようにして三年間を過ごした。卒業式の日、体育館のパイプ椅子に座っていて、式が長すぎて、つい天井を見てしまった。二階の回廊の、ちょうどあの場所に、同じ影があった。今度は正面ではなく、ひとつ下を向いているように見えた。彼女はすぐに目を伏せた。式が終わって、体育館を出るとき、一緒に歩いていた例の子が、前を見たまま小さな声で「もう大丈夫だよ」と言った。彼女は何も言わなかった。体育館の扉が閉まる音がして、それで終わりだ。

派生バージョンを、一つずつ分解する

一つ目は「黒い球バージョン」。これは実際に掲示板系の怪談まとめに残っている型で、人影ではなく、人間の頭くらいの黒い球が二階の通路に浮かんでいるというやつだ。語り手は工業高校の合気道部だったという。受け身を取って、顔を持ち上げた瞬間に目に入った。これが面白いのは、その球の動き方の描写なんだ。グニグニ動いて、平らになったり又膨らんだり、波打ったりする。しかも「妙にソレだけ空間から浮き出してる様に見える」と表現されている。周囲の景色となじんでいない、という感覚だ。語り手は「いけない物を見た気がして無視する事にした」と書いていて、何年も誰にも言わなかったという。オチなし。このオチのなさが逆に生々しい。

二つ目が「人数バージョン」。全校集会や卒業式で、体育館に全校生徒が入っているときに起きる型。写真を後で見ると、二階の回廊に人が並んでいる。一人や二人じゃなく、一列。しかも全員こちらを見ている。でも当日、ギャラリーは閉鎖されていたし、誰も上がっていない。この型は写真という証拠を伴うので強そうに見えるんだけど、実際には、二階の手すりに掛けてある旗や幕、消火器の表示、金網の影なんかが人の列に見えてしまうことがある。体育館の二階には、窓や火災報知器、警報装置の類を守る金網のカバーがたくさん付いているから、影が規則的に並ぶんだよな。それでもこの型が消えないのは、「全員が下を見ている」という絵が強すぎるからだ。

三つ目が「足音バージョン」。これは視覚を使わない。夜の部活や早朝練で、上から歩く音がする。ギャラリーの床はコンクリートや鉄のグレーチングだったりするから、歩くと特有の音が出る。コツン、という硬い音。それが回廊を一周する。一周して、入口の真上で止まる。この型の面白いところは、体育館という空間が反響の場だという点にある。下で鳴った音が天井で跳ね返って、上から降ってきたように聞こえる。実際、体育館では音の出どころを誤ることがめちゃくちゃ多い。だからこのバージョンは一番否定されやすいし、一番体験者が多い。

四つ目が「暗幕バージョン」。体育館の窓には、映像を見るときなどに使う黒い幕が付いている。これを開け閉めするのは二階回廊からだ。話の型はこうだ。映画上映会や進路講演会のとき、暗幕を閉めて体育館を暗くする。何かの拍子に、暗幕の隙間から光が一本差して、その光の中に人のシルエットが切り抜かれて見える。先生が「上に誰かいるのか」と声をかける。返事はない。電気をつけると、暗幕は全部閉まっていて、光の差しこむ隙間なんてなかった。この型は、体育館が暗いという非日常の状態とセットになっているのが上手い。

五つ目が「数え違いバージョン」。これはギャラリーに人を上げていい学校で発生する型だ。試合の応援や、文化祭の照明係で、実際に数人が上に上がる。上がるときに人数を数える。降りるときにも数える。合わない。一人多い。もう一度上がって確かめると誰もいない。この型は山の怪談やトンネルの怪談にもある古典的な形だけど、体育館のギャラリーに移植されると妙な説得力が出る。なにしろ、上は狭いし、一本道だし、抜け道がない。のに一人増える。

六つ目が「日中バージョン」。これが個人的に一番好きだ。怪談の定石は夜や夕方なんだけど、この型は真昼間に起きる。体育の時間、五時間目、体育館は明るい。マット運動で仰向けになったとき、演技中に天井を見たとき、倒立をして逆さまになったとき。つまり、体の向きが普段と違う瞬間にだけ見える。この設定が地味に巧い。暗いから見えるんじゃない、普段の姿勢では見えない位置にいるから見えないだけだ、という話になる。すると、いつもそこにいることになる。これは強い。

七つ目は少数派だけど「入れ替わりバージョン」。ギャラリーを見上げて目が合ったあと、自分の視点が上に移る。一瞬だけ、二階からフロアを見下ろす絵が見えて、そこには自分が立っている。バレーボールを抱えて、上を見上げている自分。これは現代的な異世界系の感覚と混ざってできた型だと思う。古い口伝えの体育館怪談にはこういう視点の入れ替えはあまりない。一人称から三人称に強制的に切り替えられるというのは、相当に新しい恐怖の形だ。

語られてきた体験談を三つ

一つ目。中部地方の工業系の高校に通っていた男性の話。彼は武道系の部活に入っていて、練習は体育館の端に畳を敷いてやっていた。受け身の練習中だったという。倒れて、背中を叩いて、顔を持ち上げる。その瞬間、目の前に二階の通路が入ってきた。そこに、人間の頭くらいの黒い球があった。彼の描写によると、それはグニグニしていて、平らになったり膨らんだり、波打ったりしていた。一番強く覚えているのは形ではなくて、それだけが背景から浮き上がって見えたことだったという。他のものは全部、体育館という景色の一部に収まっているのに、それだけ別の層に貼られているように見えた。彼はそのとき、叫ばなかったし、人を呼ばなかった。見てはいけない物を見た気がしたから、というのが理由だ。そのまま立ち上がって、練習を続けた。二度目は見なかった。以後何十年も、この話を誰にも言わなかったという。思い出すたびに怖い。彼はそれを、幽霊だとも妖怪だとも言わない。ただ「ああいう物」としか呼ばない。名前を付けないことで保っている距離があるんだろうな。

二つ目。これは少し毛色が違って、オチがついている型だ。高校三年生の語り手が、美化委員の仕事で体育館のモップがけをしていた。ペアになったのは、普段あまり喋らない、ちょっと暗い印象の同級生。二人で黙々と床を拭いていると、背中の方でキュッキュッとバスケシューズの音がした。続いて、ダン、ダン、ダンとボールをつく音。振り返っても誰もいない。語り手が固まっていると、同級生が平然とこう言った。バスケ部員の残留思念だ、熱い感じがする、と。生きている人の想いが場所に留まることがあるらしい。その直後、バスケ部の部長が体育館に入ってきて、県大会前だから明日から早朝練を始めると告げた。つまり、まだ起きていない出来事の音が先に聞こえていた、という落ちだ。同級生はピースをした。この話のいいところは、恐怖ではなく納得で終わるところだ。ただし後述するように、この型にはちゃんと反論がついている。

三つ目。これは教える側の話で、中学校で体育を担当していたという女性の回想だ。彼女の学校では、体育館の二階の窓を季節の変わり目に開け閉めするのが体育科の仕事だった。十月のある日の放課後、彼女は一人で梯子を登った。上に出てみると、フロアを見下ろす高さは想像よりもでかくて、手すりが低く感じられたそうだ。床には、バレーボールが二つと、バドミントンのシャトルが十本以上、あとは埃と虫の死骸が散らばっていた。彼女は窓を順番に閉めながら回廊を回った。三分の二ほど回ったところで、下のフロアで音がした。ボールが一度だけ弾む音。見下ろしても、フロアには何もない。器具庫の扉も閉まっている。彼女はなんとなく急いで残りの窓を閉めて、梯子のところまで戻ってきた。降りようとして下を見たとき、一瞬だけ、自分がいま歩いてきたのと反対側の回廊に、人が立っているように見えた。彼女はそこでちゃんと目を凝らした。数秒。そして、それは消えたというより、「最初からカーテンだった」としか言いようがない見え方に変わった。彼女はその後も何度も上に上がっている。何も起きていない。ただ、生徒から「先生、上で何してたんですか」と聞かれることが何度かあった。彼女が上っていない日に。そのたびに彼女は「今日は上がってないよ」と答えて、生徒は「へえ」と言ってそれで終わる。彼女はこのやり取りを、怪談としてではなく、仕事の思い出として話す。その淡々とした感じが、逆に少し怖い。

掲示板と考察界隈の反応、そして反証

この手の話が出ると、まず間違いなく出てくるのが「逆光と付属物説」だ。体育館の照明は天井からぶら下がっていて、フロアを照らすことだけを考えて並んでいる。だから下から二階を見上げると、光源が直接目に入って、その周囲は真っ黒に潰れる。そこにあるのは暗幕の束、カーテンレール、金網のカバー、消火器、スピーカー、床に置きっぱなしのマットやポール。これらが人の形に見えるという説で、それはその通りだろうと思う。人間は、暗い場所で縦に長いものを見ると、まず人だと思うようにできている。

次に強い反論が「音の定位説」だ。体育館は内部が大きな箱で、床は硬い木、壁も天井も反射面。だから音はとんでもない回数反射する。人間の耳は左右の差には敏感だけど、上下の定位は強くない。だから、実際には隣の器具庫で鳴った音や、外の廊下の足音や、屋根の伸縮音が、「上から」として知覚される。これはギャラリー怪談の相当な割合を食ってしまう強い説明だと思う。

三つ目が「周辺視野説」で、これは少しマニアックだけど面白い。人間の視野の端は、色は見えないが動きには異常に敏感だ。しかも、上方向の周辺視野は、元々天敵を見つけるためのものだ、なんて説もある。だからコートで動いているとき、視野の上端に入ってくるギャラリー周辺の微小な変化は、実際以上に「何かがいる」として拾われる。だから部活中の目撃が圧倒的に多い。この指摘は、目撃談の分布をうまく説明してしまう。

一方、話を推す側の反証は主に二つ。一つは「鍵の問題」だ。実際にギャラリーへの梯子に鍵がかかっていた、という報告が結構多い。人影を見たときに確かめて、鍵がかかっていた。だから人ではない。これは一見強いんだけど、反対側からは「ギャラリーにはだいたい二か所以上上がり口がある」「ステージ上や隣の倉庫からもつながっている学校がある」という反論が入る。実際、体育館の二階は建物によって構造がバラバラで、一周しているもの、左右の二本だけのもの、ステージ側だけのものといろいろある。だから「うちの学校ではこうだった」の応酬になって、議論はだいたい決着しない。

もう一つの反証が「複数目撃の多さ」だ。ギャラリー怪談は、トイレや階段の怪談と違って、体育館に大勢いる状況で起きることが多い。だから「あいつも見てた」が成立しやすい。これに対する再反論はもちろん、人間は隣の人が上を見れば自分も上を見るし、「いたよね」と言われれば「いた」と覚えてしまう、というものだ。この応酬はもう何十回と繰り返されていて、新しい展開はあまりない。

ちなみに、先に紹介した「残留思念で終わる話」については、読者側からなかなか鋭い指摘が出ている。毎週掃除していたなら、その後何も起きなかったのはなぜか。もし本当に人の想いが場所に留まるなら、試合会場なんかはもっと騒がしいはずだ。この手のツッコミは、実は怪談の設定を点検するのにとても役に立つ。怪異の説明原理を一つ導入すると、その原理が適用されるはずの場所全部で怪異が起きないとおかしい。だから上手い怪談は、説明をしない。黒い球の話が今でも残っているのは、何も説明していないからなんだよな。

考察好きの間でもう一つよく出るのが、「ギャラリー怪談は、体育館という空間への居心地の悪さの記録だ」という読みだ。体育館ってのは、学校の中で唯一、逆らいようのないスケールを持った建物だ。天井が高すぎるし、声は反響するし、自分の体が小さいと強制的に思い知らされる。しかもそこでは常に誰かに見られている。体育の授業で失敗すると、全員の目に入る。集会でしゃべれば先生に見つかる。つまり体育館は元々「見られる場所」なんだ。その不快感が、一番高いところにいる見えない見張りとして結晶した。この読みはかなり支持されている。

なぜ「上から見下ろされる」はここまで怖いのか

学校の怪談全体の話をしておくと、このジャンルが全国共通のものになったのは、民俗学の研究者が中学校教員時代に生徒から集めた話を一九九〇年に本にしてからだとされている。今から三十六年前だ。翌年には児童向けのシリーズが同名で始まって、九〇年代半ばには映画化して、完全なブームになった。この時期の集計では、怪異の舞台として圧倒的に多いのがトイレ、次が普通教室だった。つまり体育館は、実は主流じゃない。主流じゃないのに、ギャラリーの話だけはしぶとく生き残っている。ここに意味があると思うんだ。

トイレの怪談が強い理由は、使用頻度が高くて、しかも条件をつけやすいからだと分析されている。手前から三番目の個室、四時四十四分、といった具合に。条件をつければ、恐怖は回避可能になる。この回避可能性が、子どもが恐怖を楽しむための安全装置になっている。心理学の整理ではこれを保護枠と呼んでいて、フィクションだと分かっていること、危険から心理的に離れていること、対処できるという自信があること、という三つの条件が揃うと恐怖が楽しさに変わるとする。

で、ギャラリーの怪談をこの枠に当ててみると、奇妙なことになる。まず、回避できない。トイレなら行かなければいいし、階段なら数えなければいい。でも体育館の二階は、体育館に入った瞬間から、すでにあなたの上にある。見なければいいと人は言うし、実際体験談の中でも「見ない方がいいよ」という台詞が出てくる。でも、見ないことは回避じゃない。目を閉じてもそこにある。むしろ、見ないことで「いるかもしれない状態」がずっと続く。保護枠が作れないんだよな。だからこの怪談は、子どもの間では意外と大ヒットしない。花子さんみたいに呼べないし、消し方もないし、友達と共有して盛り上がりにくい。その代わり、大人になってから長く残る。

二つ目の理由は、位置関係そのものにある。人間にとって、真上から見下ろされるというのは特別な意味を持つ。同じ高さで向かい合うのは対等だし、下から見上げられるのは余裕がある。だけど、上から見下ろされていると分かった瞬間、人は自分が監視側ではなく被監視側だと知る。しかもその相手は、こちらが何をしていたかを最初から全部見ていたことになる。ここが厄介なところで、ギャラリーの人影を見てしまった人は、そのあと必ず「じゃあ、さっきの自分の対戦を見ていたのか」「先週の練習も見ていたのか」という方向に思考が伸びる。目撃の瞬間だけではなく、過去全部が遡及的に汚染される。この遡及力は他の怪談にはなかなかない。

三つ目は、「安全なはずの場面で起きる」ことだ。夜の学校の怪談は、正直なところ安心できる。夜に学校にいなければいいからだ。ところがギャラリーの話は、部活中、体育の授業中、全校集会中に起きる。人が山ほどいて、電気はついていて、騒がしくて、完全に安全なはずの状況。その真ん中で、上を見てしまう。安全な場所が安全じゃなかったという型の怖さは、退避先がない。これも保護枠の不在につながる話だな。

四つ目は、ギャラリーが「学校側が自ら禁じた場所」だという点だ。子どもにとって、大人が理由を説明しないまま禁じる場所は、自動的に意味を帯びる。強度がどうとか、責任がどうとか、そんな説明は子どもにはされない。ただ「上がっちゃだめ」と言われる。すると、なぜだめなのかを子どもは自分で埋める。この埋め方が怪談なんだよ。学校の怪談は、大人が説明を省略したところに優先的に発生する。閉め切られたドア、使ってはいけない階段、入ってはいけない二階。全部同じ構造だ。

五つ目、これは広まり方の話になる。この怪談は、固有名詞を一つも必要としない。地名も学校名も年代もいらない。必要なのは「体育館の二階を見上げた」という一行だけ。日本で学校に通った人間なら、ほぼ全員がその絵を自分の母校で再生できる。この再生率の高さが、この型の強さなんだ。読むだけで自分の体育館を思い出してしまう。思い出した瞬間に、自分の思い出の中の二階を、ちょっとだけ確かめてしまう。そこでこの話は完成する。読者の記憶を使って完成する怪談は、強い。

何もしてこない、というのが一番たちが悪い

ここからは、この怪談をもう少し引いた位置から見てみる。ギャラリーの怪談が他の学校怪談と決定的に違うのは、「怪異が何もしてこない」という点だ。花子さんは引きずり込む。テケテケは追いかけてくる。十三段目の階段は違う世界に連れていく。ところがギャラリーの影は、ただそこにいて、見ているだけだ。降りてこないし、声もかけないし、危害を加えない。体験談の多くが「その後何も起きなかった」で終わる。普通ならこれは怪談として弱いはずなんだ。なのに、使い回され続けている。なぜか。答えはたぶん、「何もしてこない」こと自体が一番不気味だからだ。目的が分からない見守りは、攻撃よりも対処のしようがない。

この「見ているだけのもの」は、実は学校という場の構造をそのまま写し取っている。学校というのは、常に誰かに見られている世界だ。授業中も、休み時間も、部活も、登下校も。見られて、評価されて、記録される。しかもその視線は具体的な誰かではなく、もっと抽象的なものになっていって、最終的には自分の中に居座る。ギャラリーの影は、その抽象的な視線に、人の形を与えてしまったものなんだと思う。教室の後ろでも、廊下の端でもなく、体育館の高いところを選んだのは、そこがちょうど「全部見えるけど、誰もいない場所」だからだ。監視の座席は、空いている方が怖い。

地域差にも触れておこう。雪国の体育館は、屋根の雪荷重の関係で内部の骨組みが太く、ギャラリー周りの影が濃くなる。だから北国の話は、影の描写が異様に具体的だったりする。逆に温暖な地域や新しい体育館だと、採光窓が大きくて上の方が明るい。すると、影ではなく「輪郭がはっきりした人影」の話になる。同じ怪談でも、建築の仕様で怪異の解像度が変わる。これはなかなか面白い現象だと思う。また、戦後すぐに建てられた古い体育館だと、二階部分が本当に観覧席として設計されていて、木のベンチが並んでいたりする。こういう学校では「一番前列の座席に座っている」という、もっと具体的で厄介な話になる。

世代差もある。上の世代が語る体育館は、寒さと暑さと毛布の世界だ。冬の朝の集会で倒れる子が出るとか、ストーブが一台だけ置いてあるとか。彼らのギャラリー話は、だいたい集会中の目撃だ。一方、今の若い世代が語る体育館は、エアコンが付いていたり、避難所になる前提で改修されていたりする。彼らの話は、部活の長い時間の中での目撃が多い。だから描写に疲労感が混ざる。疲れているときに、天井を見てしまう。同じ場所の怪談でも、その場所で何をさせられていたかで、怪異の出てくるタイミングが変わる。

語りの形式の話もしておきたい。ギャラリー怪談は、体験談として語られるとき、ほぼ必ず二人以上が登場する。見た人と、「見ない方がいいよ」と言う人だ。この二人組の構造は非常に安定していて、バージョンが違ってもここだけは共通していることが多い。なぜか。一人だと錯覚で終わってしまうからだ。でも三人以上だと大騒ぎになって、話が騒動になってしまう。二人だとちょうどいい。確証は取れているのに、事件にはならない。しかももう一人はだいたい、語り手よりも前から知っている。この「先に知っていた人間」の存在が、話に先行する歴史を与える。上手いよな。

もう一つ、語り手の年齢と視点の高さの関係も面白い。小学生の語るギャラリー怪談は、たいてい「何かがいる」で終わる。中高生になると、「目が合った」が入ってくる。大人になると、「あれは何だったのか分からないままだ」という未解決の重さで語られる。つまり年齢が上がるほど、怪異の正体よりも「分からないままにしてきた自分」の方に怖さの重心が移る。黒い球の話を何十年も黙っていた人の話が、まさにそれだ。見たことよりも、言わなかったことの方が、後から重くなってくる。

最後に、この怪談の今後を考えてみる。学校の体育館は、この数十年で役割が大きく変わった。災害時の避難所に指定され、防災備蓄が入り、バリアフリー化され、空調が入るところも増えた。でも二階回廊だけは、相変わらず梯子の先にある。むしろ、安全管理が厳しくなった分だけ、人が上がる回数は減っているはずだ。鍵はしっかり掛かるし、金網は増えるし、「上がってはいけません」の掲示も増える。つまりこの怪談の土壌は、これからもっと肥える。人が行かなくなる場所は、その分だけ何かの場所になる。これはもう、人間の想像力の仕様みたいなものだ。

だから、今度体育館に入る機会があったら、一度だけちゃんと上を見てほしい。体育館の二階を、端から端まで。たぶん、バレーボールが一つ二つ転がっていて、埃が積もっていて、暗幕の束が黒い柱みたいに見えて、それだけだ。何もないはずだ。何もないのを確かめて、さっさと目を戻せばいい。ただし、一度見てしまうと、次にその体育館に入ったとき、必ずもう一度確かめたくなる。そして三度目からは、見る前に少しだけ迷うようになる。その迷いが生まれた時点で、あなたはもう、この怪談の中に入っている。二階回廊は、そういう風に人を引っ張り込む場所なんだよな。

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