水鏡

三沢とは十年来の付き合いになる。ふだんは釣りと車の話しかしない男だ。その三沢から、梅雨の明けきらない晩に電話がかかってきた。

固定電話の受話器を取ると前置きもなく声が飛び込んできた。房総の県道で見てはいけないものを見た気がする。三沢はそう切り出した。いつもより声が低い。

その週、三沢は夜釣りの帰りだった。田んぼの中をまっすぐ貫く県道を走っていたという。両側は用水路で、車一台がやっとすれ違える幅しかない。時刻は午前二時をまわっていた。対向車も街灯もなく、人の気配もない。

ヘッドライトの届く先に女が立っていた。用水路のふちに爪先をそろえ、こちらへ背を向けている。髪から腰のあたりまでが、水を浴びた直後のように濡れて光っていた。

水鏡:固定電話の受話器を取ると前置きもなく声が飛び込んできた

三沢はブレーキを踏みクラクションを鳴らした。女は身じろぎもしない。すれ違いざまに窓から横を見ると、そこにはもう誰もいなかった。

サイドミラーを確かめても用水路のふちに人影はない。残っていたのはアスファルトの濡れた足あとだけだった。それが点々と、三沢の車が走ってきた方向へ一つずつ続いていたらしい。

翌朝、明るくなってから同じ道を戻ってみたという。足あとは消えていた。路面のその一角だけが乾かずに黒く濡れている。前の夜に雨など降っていない。

三沢はそれから、あの県道を避けるようになった。遠回りになっても別の道を選ぶらしい。眠ると水の音がするのだと言う。台所でも風呂場でもない、もっと遠くの水の音だと。

水鏡:サイドミラーを確かめても用水路のふちに人影はない

一度など、朝に玄関のたたきへ濡れた足跡が一つだけ残っていたそうだ。助手席の足元も、気づくと湿っていることがあるという。それを話す三沢の声は笑っていなかった。電話の向こうで、三沢が一度だけ言葉を切る。あの女はこちらを見ていない。背中しか見ていないのに、見られている気がしたのだと言う。

「お前、こういうのを確かめて回ってるんだろう」

十年で、頼みごとをされたのは初めてだ。そう言って三沢は県道の場所の名を告げた。有無を言わせない口ぶりだ。

私は十六の年から、この手の場所を三千は見て回ってきた。詳しいというより、自分の目で確かめないと寝つけない性分なのだ。電話を切ったその晩のうちに、カブのタンクを満たしておいた。

翌日の日暮れを待って千葉の内陸へ向かった。高速には乗れない車体だから、下道を二時間かけて南へ下っていく。田の匂いが濃くなるほどに、対向車は指で足りる数まで減った。途中の商店はどこも灯りを落としている。コンビニの一つもない道がただ暗く伸びている。途中で一度、カブを止めて空を見上げる。星はどこにも出ていない。田の上に、湿った闇がのしかかっている。

水鏡:一度など、朝に玄関のたたきへ濡れた足跡が一つだけ残っていたそうだ

三沢の言った県道に入ったのは、日付の変わる少し前だった。

まず端から端までカブで流してみた。何も起きない。用水路が両側にどこまでも続き、稲の匂いだけが顔に張りつく。同じ区間を、今度はゆっくり引き返す。

用水路は話に聞いていたよりも深かった。コンクリートで固められた溝の底を黒い水が音もなく流れている。稲へ水を引くための水路なのだと、あとで土地の古老から教わった。

その古老は私に一つだけ念を押した。水の中から名を呼ばれても、振り向いて返事をしてはいけない。返事をすれば、呼んだものが岸へ上がってくる。この土地に古くからある決まりごとなのだという。老人は最後に、日が暮れてからあの水路へ近づくものではないと言い添える。忠告の意味は、そのときは分からない。

水鏡:私は十六の年から、この手の場所を三千は見て回ってきた

古い樋門の跡が、少し離れた土手に残っていた。地図を懐中電灯で照らすと、この一帯がかつて低湿地だったと分かる。水にまつわる事故が絶えなかったという記録も郷土史の隅にある。飢えた年に口を減らすため、生まれた子を水へ返したという話も残るらしい。真偽を確かめる術はない。私に言えるのは、そこまでだ。

カブを路肩へ寄せ、エンジンを切った。

虫の声がやんでいた。真夏の田んぼで虫が鳴りやむのは、それだけで一つの合図になる。これまでの経験がそう教えている。

水路に沿って少し歩いた。ヘッドライトを失った代わりに、懐中電灯の輪だけが足元を照らす。風はまったくない。それなのに、稲が根元のあたりだけ小刻みに揺れている。

水鏡:その古老は私に一つだけ念を押した

道路標識の柱には蜘蛛の巣が一つも張っていなかった。夜通し虫の集まる場所に巣がないのだ。

泥と青くよどんだ水の匂いが立ちのぼる。真夏だというのに、吐く息がうっすら白い。二の腕に鳥肌が立っていた。

自分の足音が半拍おくれて背後から返ってくる。歩みを止めても水の面を打つような音がもう一つ、遅れて消えた。

手元の光がふいに弱くなる。電池はゆうべ替えたばかりだ。それでも、光の輪はじりじりと縮んでいった。

落ち葉が一枚、水面をすべっていく。その葉が上流へ向かって流れていた。水の向きがいつのまにか逆になっている。流れの音そのものが、聞こえなくなっている。耳を澄ますほど、あたりは水底のように静まっていく。

水鏡:カブを路肩へ寄せ、エンジンを切った

少し先のふちに白いものが引っかかっていた。懐中電灯を当てると、水を吸って重くなった布のかたまりだ。子供の肌着ほどの小さな大きさだった。すくい上げようとかがんだ拍子に、それは水へ沈んで見えなくなる。波紋も立てずに。

足を止め、水面をのぞき込む。懐中電灯を背にした影の濃い自分の顔がそこに映った。

その隣にもう一つの顔が並ぶ。

前髪の先から水がしたたり、輪郭が小さく崩れている。横へ目をやる。だれもいない。

水鏡:電池はゆうべ替えたばかりだ

水面へ視線を戻すと、二つの顔はまだ並んでいる。私がまばたきをすると、隣の顔も同じ拍子でまぶたを閉じた。

その顔の口がゆっくりと動く。声は聞こえない。何を言ったのかは、読み取らないことにした。

風もないのに、水面がかすかに震えはじめる。二つの顔の輪郭がにじんで一つに溶けていく。

背後で水を分けて上がってくるような音がした。名を呼ばれた気がする。私は振り向かなかった。返事をしないことだけは、あの古老の言葉を思い出して守った。心臓の音が、やけに大きく耳の奥で鳴っている。それでも足だけは、水路の先へ動く。

水鏡:水面へ視線を戻すと、二つの顔はまだ並んでいる

懐中電灯を水路の先へ向ける。

濡れた足あとがコンクリートのふちに点々と続いている。足の指の形まで、くっきりと残っていた。裸足の跡だ。その足あとは私が歩いてきた方向へ、一歩ずつ引き返すように並んでいる。

ひとつずつ数えながら戻った。数が合わない。行きに私がつけた覚えのない足あとが間に混じって増えている。

足あとはカブのあたりでふつりと途切れていた。

シートの上にまだ乾いていない手のひらの跡が一つ押しつけられている。指の長さは、私のものではない。

水鏡:濡れた足あとがコンクリートのふちに点々と続いている

エンジンをかけ、来た道を引き返した。ミラーは見なかった。見たところで意味がないことを、私はもう知っている。

家に着くと、庭にカブを入れ、しばらく座ったまま動かずにいた。洗面所の床は乾いていた。その晩は何も起こらない。

起こらなかった、という言い方は正しくない。

翌週、別の撮影からの帰りに、同じ県道をもう一度通った。用水路のあの区間に差しかかると、カブのライトが一角だけ闇に吸い込まれる。アスファルトを照らしているはずの光が、水路のふちの手前でふつりと途切れる。

水鏡:翌週、別の撮影からの帰りに、同じ県道をもう一度通った

同じ場所で、同じことが起きる。今でもあの県道を夜に通るたび、その一角にだけ光が届かない。何度ライトを替えても、そこだけは同じように暗いままだ。

三沢には女の姿はなかったと伝えておいた。足あとのことも、布のことも話していない。

後日、三沢が電話ごしに一度だけ尋ねてきた。あの道で何か拾わなかったか、と。拾っていない、と答えた。

口にすれば、次は三沢の番になる。そんな気がしてならないからだ。

コメント

奇怪千万からのお願い

この記事が少しでも面白かった、役に立ったと思ってもらえたなら、ひとつお願いがあります。Amazonで何か買う予定があるとき、その前に下のボタンから入ってもらえると、私の調査の足しになります。

ここから入って買い物をすると、金額の数%が紹介料として私に入ります。あなたの支払いが増えることは一切ありません。買う物も何でも構いません。

(*´σー`) いただいた紹介料は、現地調査のガソリン代や撮影機材、古い郷土史料の購入に使います。夜のスーパーカブを走らせ続ける燃料だと思って、協力してもらえたら嬉しいです。

※当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。適格販売により収入を得る場合があります。

タイトルとURLをコピーしました