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「噛まれても救急車を呼ぶな」と彼らは言う――アパラチアのヘビ使い教会、マルコ伝十六章十八節に殺された百年

一時間半で、その牧師は自分の家の床で死んだ

2014年2月15日、土曜の夜。ケンタッキー州ミドルズボロ。人口一万人ほどの、カンバーランド・ギャップのすぐそばにある町だ。裏通りの古い建物を改装した教会で、いつもどおりの礼拝が行われていた。

エレキギターとドラムとタンバリン。異言。祈り。証し。献金。

ここまでは、アメリカ南部のペンテコステ派の教会でごくありふれた光景だ。

違うのは、講壇の足元に木の箱が並んでいたことで、中身はガラガラヘビである。

牧師の名はジェイミー・クーツ。四十二歳。この教会の四代目にあたる。曾祖父のトミー・クーツが1978年にここを建て、祖父のグレッグに渡り、父から彼に渡り、そして彼の息子が次に控えていた。

礼拝の終盤、クーツは箱から三匹のガラガラヘビを同時に取り出した。彼にとっては珍しいことでもなんでもない。二十二年で九回噛まれていて、1998年の一発では右手の中指の先が壊死して落ちた。指を一本半分失っても、彼は医者にかからなかった。

この夜、体長七十五センチほどのティンバー・ラトルスネークが、彼の右手の甲、親指の付け根あたりに牙を立てたのである。

クーツはいったんヘビを落とし、また拾い上げて、しばらく続けた。そのあと便所へ向かった。友人でやはり蛇使いの牧師であるアンドルー・ハンブリンが肩を貸して歩かせたのである。便所で横になり、そこで意識を失った。

午後八時半、教会から救急要請が入った。到着した救急隊は「牧師はもう家へ帰った」と告げられる。一キロか二キロ離れた自宅へ回ると、クーツは噛まれた手を腫らして横たわっていた。隊員たちは四十分近く説得した。血清がある。

搬送させてくれ。

家族は断った。妻のリンダが、治療を拒否する旨の書面に署名した。九時十分ごろ、救急隊は引き上げたのである。

一時間ほどして、また通報が入った。戻ってみると、ジェイミー・クーツは死んでいた。噛まれてから、およそ一時間半から二時間。

警察は事件性なしとして処理した。誰も罪に問われていない。ミドルズボロ警察の広報担当は、死因は「宗教上の信念による治療拒否」だと淡々と説明した。

息子のコーディ・クーツはこのとき二十一歳だった。彼が父の死をどう受け止めたかというと、普段どおりのことだと思っていた、と語っている。何十匹も一緒に扱ってきた。子どものころから父が噛まれるのを何度も見た。

腕が紫色に腫れ上がり、吐き、指の先が落ちるのも見たのである。いつもどおり一晩そばについて祈れば、翌週の水曜には父はまた講壇に立っているはずだった。

ならなかった。

通夜のあと、若い連中は教会へ戻ってヘビを取り出したという。葬儀場でやるのは法律に触れるからやらなかった、とコーディは記者に説明している。父の遺言のひとつは「俺の葬式にはヘビを持ってこい。俺の棺の上で取り上げろ」だった。

一週間後、コーディ・クーツは二十一歳で父の教会の牧師になった。

これがアパラチアの「しるしに従う者たち」の世界だ。百年以上続いていて、いまも止まらないまま、全米でおよそ百二十五の教会に信徒は数千人を数える。彼らを支えているのは、聖書の、たった二行の文章である。

問題の二行は、たぶん後から書き足されたものだ

マルコによる福音書の十六章、十七節と十八節。欽定訳、いわゆるキング・ジェームズ版でこう書かれている。

信じる者にはこれらのしるしが伴う。わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。

彼らはこれを「五つのしるし」と呼ぶ。悪霊追い出し、異言、蛇を取り上げること、毒を飲むこと、按手による癒やし。

ペンテコステ派の教会は世界中にある。異言を語り、病人に手を置いて祈る教会なら、日本にだってある。悪霊を追い出す教会も珍しくない。だが五つのうち三つでやめる。残りの二つ、蛇と毒は、比喩として読むか、「万一そういう目に遭っても守られる」という約束として読む。

アパラチアの一部の教会だけが、五つ全部をそのままやる。

彼らの理屈は単純で、原文は「shall」である。つまり「そうなるであろう」ではなく「そうするのだ」と読む。五つ並んでいて、三つだけ本気にして二つを比喩にするのは、都合のいい切り取りだろう、と。実際、彼らに取材した研究者が繰り返し記録している台詞がこれだ。

「信じるか、信じないかだ。信じるならやる」。

彼らは欽定訳しか読まない。これも大事な点で、他の訳を持ってくると話が通じない。

そして、ここには皮肉なねじれがある。

聖書学の世界では、マルコ福音書十六章の九節以降、いわゆる「長い結び」は、もともとの本文ではないというのがほぼ定説になっている。最も古い写本にはこの部分がない。二世紀初頭ごろ、誰か別人が書き足したものらしい、と考えられている。つまり、蛇をつかめと命じた文章は、イエスの言葉として記録された最初の福音書には載っていなかった可能性が高い。

初期キリスト教徒が実際に蛇を取り上げていた歴史的痕跡も、十九世紀の終わりまで存在しない。

このことを信徒たちが知らないわけではない。学者がわざわざ教えに来たこともあるし、彼らが持っている注釈付き聖書にも書いてある。

それでも彼らは読み方を変えない。ラルフ・フッドという心理学者はこれを「イントラテクスチュアル(内テキスト的)原理主義」と呼んだ。テキストの外側にある知識、つまり写本学や歴史学や考古学を、判断の材料として一切採用しない態度のことだ。聖書は聖書によってのみ解釈される。私の聖書にはこう書いてある。

だから私はこうする。

外から見れば頑迷で、内から見れば一貫している。

そしてこの二行のために、百年で少なくとも七十人から百人が死んだ。

白樫山の岩の上で、密造酒屋は何を見たのか

話を始まりまで戻す。

ジョージ・ウェント・ヘンズリー。1881年5月2日生まれとされる。出生地はバージニア州スコット郡だと長く言われてきたが、公的な出生記録は見つかっていない。後年の書類には西バージニアやテネシーと書かれているものもある。要するに、生まれからしてはっきりしない男だ。

彼は読み書きができなかった。若いころは鉱山で働き、義兄の材木の仕事を手伝い、そして密造酒を作っていた。アパラチアの山間部ではごく普通の生き方である。1901年にアマンダ・ウィニンジャーと結婚し、テネシー州ウールテワの農場に移った。住まいは小屋だった。

転機はホーリネス・ペンテコステ派の礼拝だったのである。ウールテワの教会で、ある巡回伝道者の十代の息子が導く集会に出て、彼は回心する。酒とタバコと「世俗の友人」を捨てた。

問題は、そこから先だ。

その集会でも、他のペンテコステ派の集会でも、マルコ十六章は繰り返し引用されていた。異言を語ること、病人に手を置くこと、悪霊を追い出すことの根拠として。ヘンズリーは引っかかった。五つ書いてある。なぜ三つしかやらない。

伝承として最もよく語られるのは、テネシー州ウールテワ近くのホワイト・オーク・マウンテン、通称レインボー・ロックでの出来事だ。ヘンズリーはマルコ十六章の意味を神に問うために山へ登った。そこにガラガラヘビが現れた。彼はそれを素手でつかみ、噛まれなかったのである。麻袋に入れて山を下り、集会へ持ち込んだ。

聖句を読み上げ、自分で取り上げてみせ、それから会衆に向かって「お前たちも信仰を証明しろ」と迫った。

歴史家はこの話を慎重に扱う。ヘンズリー本人が広めた話であり、信徒が反復した話だからで、そのうえ年号も一定しない。1936年にはタンパの新聞に「1913年のことだ」と語り、二年後には別の新聞に「1911年」と言い、1945年にはチャタヌーガの新聞が「1910年」と報じている。百科事典類も1909年説と1913年説で割れている。

もっと根本的な疑問もある。彼が本当に最初だったのか。

デイビッド・キンブローもラルフ・フッドも、そこは否定的だ。ヘンズリーを「創始者」と断定する記述は、調べていくと裏付けが取れない。むしろ、蛇を取り上げる礼拝は複数の場所でほぼ同時に、独立に発生したと見るほうが自然だという。1909年の時点で、カンザス州ハッチンソンに「蛇を崇拝する奇妙な一派」がいると新聞が報じている。

彼らは自分たちを「イエス・キリストの真の従者」と名乗り、まさにマルコ十六章を根拠に挙げていた。アラバマ州のサンド・マウンテンでは、ジェームズ・ミラーという男がヘンズリーのことを何も知らないまま同じことを始めている。オザークにもいた。

つまり「聖書を文字どおり読む人間が、同じ二行を読んで、同じ結論に達する」という現象が、二十世紀初頭のアメリカ南部で同時多発したわけだ。これはこれで、なかなか怖い話だと思う。

それでもヘンズリーが特別なのは、広めたからであり、しかも当時の主流派ペンテコステ教団のど真ん中で広めたからだ。

1914年9月12日付の「チャーチ・オブ・ゴッド・エヴァンジェル」誌に、匿名の短い記事が載っている。ジョージ・ヘンズリー兄弟がテネシー州クリーブランドの幕屋でリバイバル集会を行っている、八月最終土曜に始まり今も続いている、力が降り、魂が神に叫んでいる、そして「集会中に二度、聖徒たちによって蛇が取り上げられた」。

これがチャタヌーガとクリーブランドの一般紙に拾われ、ヘンズリーは地域的な有名人になった。

当時のチャーチ・オブ・ゴッドの総監督はA・J・トムリンソンである。トムリンソン自身が蛇を取り上げた記録はないが、彼は明確にこの実践を擁護した。1915年、ヘンズリーは伝道者の免許を申請する。字が書けないので、書類は妻のアマンダが代筆した。1917年には正式な試験を通り、1919年に更新している。

つまりこの男は、教団の周縁でわめいていた変人ではない。一時期、南部ペンテコステ運動の制度のかなり内側にいた。

1922年か23年、ヘンズリーは教団を離れる。理由として記録に残っているのは「家庭内の問題」だ。実際、彼の私生活はひどいものだった。生涯に四度結婚し、十三人の子をもうけている。最初の三人の妻はいずれも、酒癖、放浪癖、収入のなさを離婚理由に挙げた。

禁酒法時代には密造酒で逮捕され、労役場に送られ、そこから脱走して州外へ逃げている。

彼の退団は、皮肉にも教団側の転換点になった。チャーチ・オブ・ゴッドは1920年代を通じて蛇から距離を取りはじめ、1928年の総会でついに正式に否認した。ペンテコステ運動が社会的な体面を求めはじめた時期と、ぴったり重なっている。

以後、蛇は独立した小さな教会の中へ沈んでいく。名前にはたいてい「しるしの伴う(ウィズ・サインズ・フォロウイング)」という語がつく。これは仲間内の符丁で、その言葉が名前に入っている教会では、ヘビが出る。

箱が開く夜――礼拝の光景を、できるだけ細かく

彼らの礼拝が実際どういうものなのか。記者や研究者が半世紀にわたって残した記録を重ねると、かなり具体的な像が立ち上がってくる。

まず建物が地味だ。テネシー州ラフォレットにあったタバナクル・チャーチ・オブ・ゴッドは、窓のないコンクリートの箱みたいな建物で、外壁のレンガは剥がれていた。看板は行き止まりの砂利道に立っていて、手描きのステンシル文字である。「タバナクル・チャーチ・オブ・ゴッド、牧師アンドルー・ハンブリン、金曜七時半、日曜一時」。

西バージニア州ジョーロのチャーチ・オブ・ザ・ロード・ジーザスは、谷底へ落ちる崖のそばの細い土地に建つ、白い長方形の建物だ。もとはガソリンスタンドだった、という教会もある。アラバマ州スコッツボロのグレン・サマーフォードの教会がそれだった。

中に入ると、講壇の後ろの壁に手書きの紙が貼ってある。教会の規則で、ジョーロの教会のものはこうだった。噂話をするな。嘘をつくな。

陰口を叩くな。汚い言葉を使うな。タバコを吸うな。女は髪を切るな、装身具をつけるな、化粧をするな。男は長髪、口ひげ、あごひげを禁ずる。

指輪も腕時計も駄目だという教会が多い。結婚指輪もだ。信徒同士は「聖なる口づけ」で挨拶する。

床には木の箱が置かれている。蝶番と留め金がついた、手製の平べったい箱だ。テネシー州ニューポートのエドウィナ・チャーチ・オブ・ゴッドの牧師ジミー・モローは、この箱を作るのを趣味にしていた。ヘビの人形も作る。箱は運搬用で、普段ヘビは小屋のケージやテラリウムで飼われ、週に一度くらい生きたネズミを与えられる。

中身は、ほとんどが地元の山で自分たちが捕まえてきたものだ。ティンバー・ラトルスネーク、ケインブレイク・ラトルスネーク、たまにダイヤガラガラヘビ、コットンマウス、カッパーヘッド。近年はサウスカロライナの爬虫類即売会で買った外来種も混じるようになった。コブラやアジアのクサリヘビを持ち込む者まで出てきた。

講壇の上には、ほかにも道具が並ぶ。オリーブ油の瓶。これは額に塗るためのものだ。可燃性の液体とプロパンのトーチ。そして、蓋つきのメイソンジャーかピクルスの空き瓶に入った、水で薄めたストリキニーネ。

彼らはこれを「救いのカクテル」と呼ぶ。

礼拝が始まる前、牧師はしばしば断りを入れる。ジョーロのボブ・エルキンス牧師の口上が録音に残っている。

「そろそろ始める時間だな。このヘビは新しいヘビだ。誰かが噛まれても我々は責任を負わない。取り上げるなら自分の責任で取り上げろ。噛まれたら自分の責任で噛まれろ。

みんな、祈ろう」

祈りの合図で、信徒は一斉に床に膝をつく。目を固くつぶり、あごの下で手を組み、肘を長椅子に乗せる。そこから、全員が声に出して同時に祈る。かなりの音量になる。

そして音楽が始まる。

ここが外から見ていちばん誤解されるところだと思う。彼らの音楽は陰気ではない。むしろロカビリーに近い。エレキギター、ドラム、タンバリン、ときにピアノ。テンポの速いブルース調のゴスペルで、床を踏み鳴らす。

歌詞は率直だ。「あいつらは俺たちをスネーク・ハンドラーと呼ぶ、それでいい。聖さのうちに生きているなら、それでいい。頭がおかしいと言われる、それでいい」。

一時間近く、ただ音楽が続くこともある。額はオリーブ油で光り、異言のつぶやきが床を這い、ハレルヤの叫びが天井に当たる。腕を広げる者、その場で前後に揺れる者、目を閉じてくるくると回りはじめる者。やがて何人かが飛び跳ねる。

信徒はこの状態を「アノインティング(油注ぎ)が降りている」と表現する。神の霊が体に入ってきている、という意味だ。

そこからだ。

誰かが箱のほうへ踊り寄る。留め金を外し、蓋を開け、手を入れる。出てきたときには、ガラガラヘビを握っている。

儀式化された順序というものはない。牧師が「では次はヘビです」と司会するわけでもない。出さない日もある。箱は祭壇の端に置かれたまま、誰も触らずに礼拝が終わる夜もある。外から見物に来た人間が当てが外れて帰ることも珍しくない。

出す日は、こうなる。男たちが肩を組んで輪になり、擦り足で踊りながら講壇の小さな壇上を織るように動く。ヘビは手から手へ渡される。空中でゆっくり振られる。首に巻きつける者がいる。

頭の上に載せて冠のようにする者がいる。ジョーロのデューイ・チェイフィンは、六匹ほどのガラガラヘビを束にして頭の上でバランスを取り、それを別の男に渡した。渡された男は、その塊をタオル代わりに使って顔の汗を拭った。

火も出る。コーラ瓶に芯を挿して火をつけ、炎を自分の肌や服に当てる。「ファイア・ハンドリング」という。ラフォレットの礼拝では、五世代にわたって蛇を取り上げてきた家系のタイラー・エバンズという十代の少年が、これをやって火傷ひとつ負わなかった。

そのあと彼は、ストリキニーネ入りのメイソンジャーをあおった。咳ひとつしなかったという。

ストリキニーネは殺鼠剤だ。筋肉を強直けいれんさせ、最終的に呼吸を止める。信徒の説明はこうだ。「関節が麻痺するんだ。でも、痛めつけられるはずがない。

痛いなら、どこかが間違っている」

1967年、ピーター・エイデアという監督が、西バージニア州ゴーリー・ブリッジ近くの教会でこの一部始終を撮影した。映画の中では「スクラブル・クリーク」という架空の地名に置き換えられている。『ホーリー・ゴースト・ピープル』という五十三分のドキュメンタリーだ。シネマ・ベリテの古典として今も見られる。

その映画の終盤、音楽と手拍子が高まる中でヘビが出される。激しく踊っていた男が突然崩れ落ちて、床に転がったまま動かなくなる。誰も助けに走らない。音楽が止まり、証しの時間になり、献金が回る。牧師はヘビを手にしたまま献金を促す。

そしてヘビが牧師の手を噛む。

映画は、腫れ上がった牧師の手のカットで終わる。

「アノインティング」――ヘビを取ってよい瞬間と、取ってはいけない瞬間

この信仰を理解するうえで、いちばん大事なのがこれだ。そして、外部の報道がいちばん取りこぼす部分でもある。

彼らは「いつでもヘビを取り上げてよい」とは考えていない。

ラルフ・フッドとW・ポール・ウィリアムソンは、十五年かけてアラバマ、ジョージア、テネシー、ケンタッキー、ノース・カロライナ、西バージニアの教会を回り、何百回もの礼拝に立ち会い、信徒に聞き取りを重ねた。その成果が2008年の『ゼム・ザット・ビリーブ』という本になっている。彼らが整理したところによると、取り上げる根拠には二種類ある。

ひとつは「信仰によって取る」。マルコ十六章十八節にそう書いてあるから取る。それだけだ。取って、噛まれて、障害が残っても、死んでも、それは神の御心である。ある信徒はこう言っている。

「何も感じなくても取れると信じている。神の言葉がそう言っているから取れる。ただし、噛まれたときには、取り上げたときと同じ信仰でその噛み傷を通り抜けないといけない」

もうひとつが「アノインティングによって取る」。こちらのほうが多数派だ。

アノインティングは身体感覚として来る、と彼らは言う。神が自分の上に動いている、という感覚。体のどこかに来る。頭の毛が逆立つ、と表現する人もいる。腹の中がざわつく、と言う人もいる。

電気が走るようだ、とも。そして共通しているのは、「神が自分の制御を引き取った」という感覚だという。神の声が具体的な指示として聞こえる、という証言も多い。

ウィリアムソンたちが十一人の信徒の語りを現象学的に分析した結果はこうだ。まず神が動くのを感じる。次に制御を明け渡す感覚が来る。そこに「守られている」という強烈な確信と、「今この瞬間、神の意志を行うのに十分な力が与えられている」という感覚が重なる。その意志とは、ヘビを取り上げることだ。

そして、周囲から引き剥がされていくような感じになる。時間も場所も日付も意識から落ちる。それでいて、近くにいる人との間には何かが流れている。言葉にならないほど良い感覚が、始まりから終わりまで続き、アノインティングが去ったあともしばらく残る。

コーディ・クーツの説明はもっと素朴だ。

「完全に穏やかなんだ。ただ、ぼうっとしてる。あれほど神を近くに感じることはない」

彼は父とヘビ捕りに行くのが好きだった。四輪バギーで山に入り、棒を持ってしゃがみこみ、岩や倒木の下を覗く。ガラガラヘビと目が合う。「あれは究極のアドレナリンだ」と彼は言う。ところが、教会でヘビを取り上げるときにはアドレナリンを感じないのだそうだ。

外から見ればスリルに見えるだろうが、中身はまったく別物だ、と。

二十一歳の信徒シェルビー・ノーランは、こう言った。「完全に穏やかなまま来ることもある。誰かがドアを開けて銃を向けてきても、どうでもいいと思えるくらいに。かと思えば、電気みたいなときもある。腹がざわつく。

聖霊の動き方次第だ」

ノーランは父を薬物の過剰摂取で十五歳のときに亡くし、自分も酒と大麻と錠剤に沈んだ。高校を中退した。伯母に誘われてハーラン郡の蛇使い教会に行き、そこで薬を断った。十八歳になってからヘビを取り上げはじめたのである。彼の言い方が忘れがたい。

「ドラッグだと、最初のでかいのが来て、あとはずっとそれを追いかける。でも弱くなる。体が慣れる。神のほうは、いつも同じ強さで来る。説明できない感じなんだ。

頭と腕の毛が全部立つ。酒よりも、煙草よりも、錠剤よりもいい」

では、アノインティングがないときに取り上げたらどうなるのか。

危ない、というのが彼らの答えだ。

彼らはよく旧約の「垣根を破る者は蛇に噛まれる」という句を引く。垣根とは聖霊のことだ、と説明する信徒がいた。神が垣根を巡らせてくれていて、それがそこにある間は噛まれない。だが垣根は破れうる。

だから、噛まれたときの説明も体系化されている。研究者が整理したところでは、おおむね四つの理由がある。日常生活の罪への罰である。ヘビが細工されていない本物だと不信者に示すためである。噛まれた本人と周囲の信仰を試すためだ。

そして、神の癒やす力を見せるためである。

そこに、いちばん頻繁に出てくる説明がもう一つ加わる。アノインティングを取り違えたのだ、というものだ。

自分に降りていたのは確かに聖霊だった。だが、それはヘビを取り上げるためのものではなく、別のしるし、たとえば病人に手を置くためのアノインティングだったのに、自分が勝手に箱へ向かった。あるいは、取り上げた瞬間には垣根があったが、途中で神がそれを引いたのである。

この論理は、非常によくできている。どう転んでも信仰が反証されないからだ。噛まれなければ神が守った。噛まれれば人間が読み違えた。死ねば神の御心だったのである。

そしてここを外すと全部わからなくなるのだが、彼ら自身はこれを「試し」だとは考えていない。フッドたちが繰り返し強調しているのはこの点で、信徒たちは「神を試すために」ヘビを取るのではない。従っているだけなのだ、という。試すのは不信仰であり、従うのは信仰である。彼らの中では、この区別は死活的に重い。

ジョーロの教会の女性長老が研究者に言った一言が、この信仰の距離感を一番よく表していると思う。

「あなたの信仰と私の信仰の違いはね、私は教会に行くとき、生きて出てこられるかどうかわからないってことよ」

炭鉱町にしか根づかなかった――分布と、信徒たちの暮らし

分布は驚くほど狭い。

アパラチア山脈沿い、テネシー、ケンタッキー、西バージニア、バージニア、ノース・カロライナ、ジョージア、アラバマ。オハイオやインディアナにもわずかにあるが、それは二十世紀半ばに山から工業都市へ出稼ぎに出た人々が持って行ったものだ。

数の把握は難しい。西バージニアを除くほぼ全州で違法だから、教会は名乗り出ない。研究者の推計は過去二十年で四十から百二十五まで幅がある。よく引かれるのが「およそ百二十五教会」という数字で、信徒は全部合わせても数千人。ペンテコステ派全体の〇・〇〇五パーセント程度という、ざっくりした見積もりもある。

世界のペンテコステ運動は爆発的に拡大した。ラテンアメリカでも、アフリカでも、アジアでも、異言と癒やしの教会は指数関数的に増えている。ところが蛇を取り上げる実践だけは、アメリカ南部からほとんど出ていない。

どういう土地なのか。

ケンタッキー州ベル郡。ジェイミー・クーツの教会があるミドルズボロを含む郡だ。住民はほとんどが白人で、大学を出た者は一割(全米平均は三分の一)、高校を卒業した者は三分の二(全米平均は九割弱)。人口の四十五パーセントが貧困線以下で暮らし、就労年齢人口の六割に仕事がない。オピオイドが蔓延し、メタンフェタミンも回っている。

西バージニア州マクダウェル郡ジョーロ。かつては炭鉱で栄えた町だが、1960年代に炭層が尽きた。いまは引退した鉱夫とトレーラーハウスの町だ。町にあるのは軽食スタンドが一軒、酒場が一軒、そしてスリー・フォークス・ロードの黄色い建物、チャーチ・オブ・ザ・ロード・ジーザス。人口はおよそ千二百人。

1950年代から70年代にかけて、この教会は人であふれ、入れない人が外の窓から覗いたという。その後、郡の人口の五分の四が流出した。

テネシー州ラフォレットの近郊も同じだ。炭鉱の仕事が羨望の的で、トレーラーハウスが点在し、三分の一近くが高校を出ず、世帯収入の中央値は州平均より三割低い。

こういう土地の、二十人か三十人の教会だ。

信徒の顔ぶれも、ステレオタイプとはだいぶ違う。床まで届くスカートに髪を結い上げた祖母世代がいる一方で、薬物依存から立ち直った若者、デニムとラインストーンと白いレザーブーツの女性がいる。ラフォレットの教会に九十マイル走って通っていたミシェル・グレイという女性はこう言った。「ここは『はぐれ者の教会』って呼ばれてるの。過去のある人たちがアンドルーのところに来るのよ」。

彼女の十代の娘は、その日はじめてヘビを取り上げたところだった。感想は「圧倒されて、わくわくした」。次も来ると言ったのである。

教会は完全に独立している。中央組織も、教団本部も、年会も、総会もない。規則はそれぞれの教会が自分で決める。だから細かい部分は教会ごとに違う。子どもに触らせない教会もあれば、そうでない教会もある。

ラフォレットでは十八歳未満と外来者は禁止だった。

教義上の大きな分岐がひとつある。洗礼だ。

ケンタッキーの蛇使い教会は「父と子と聖霊の名によって」洗礼を施す。三位一体派、通称「トリニティ」である。ジョージアやアラバマなど南のほうでは「イエスの名のみによって」洗礼を施す。これが「ワンネス・ペンテコステ」だ。

教会名の違いにも出ていて、前者は「チャーチ・オブ・ゴッド・ウィズ・サインズ・フォロウイング」、後者は「チャーチ・オブ・ロード・ジーザス・ウィズ・サインズ・フォロウイング」を名乗る傾向がある。

この分岐が、のちに「噛まれたとき病院へ行くかどうか」という決定的な問題に直結してくる。デイビッド・キンブローによれば、トリニティ側は医者を拒む傾向が強い。「神がヘビに噛ませたのなら、自然の経過をすべて通るべきだと考える」。ワンネス側は、救急車を呼ぶことにより寛容だという。

1955年、鍛冶屋の廃屋で、創始者は自分の教えに殺された

ジョージ・ヘンズリーの最期は、この物語のいちばん残酷で、いちばん出来すぎた場面だ。

1930年代以降の彼は、南部を転々としながら伝道を続けた。1932年にはケンタッキー州パインビルに移り、自分で教会を建てた。1943年にレイモンド・ヘイズという若い信奉者がウールテワ近辺に現れ、1945年に二人で「ドリー・ポンド・チャーチ・オブ・ゴッド・ウィズ・サインズ・フォロウイング」を興したのだ。テネシー州ハミルトン郡のグラスホッパー・バレー、彼が二十年以上前にいた場所のすぐ近くである。

彼は生涯で四百回以上噛まれたと自称していた。これは誇張だろうが、二桁や三桁では利かないのは確かだ。

1955年7月初旬、ヘンズリーはフロリダ州アルサ近郊で連続集会を始めた。最初の三週間はヘビなしでやっている。

そして7月24日の日曜の午後、彼は一・五メートルほどのヘビを手に入れて集会に持ち込んだ。場所は廃業した鍛冶屋の建物で、数十人が集まっていた。

彼は信仰について大声で説教した。ラードの缶に入れてあったヘビを取り出し、自分の首に巻きつけ、顔にこすりつけたのである。そのまま会衆の間を歩き回りながら語り続けた。

説教を終えて、ヘビを缶に戻そうとしたとき、それが彼の手首を噛んだ。

数分で症状が出はじめた。激痛。腕の変色。血を吐いた。

会衆が病院へ行くよう懇願した。駆けつけたカルフーン郡の保安官も説得したのである。ヘンズリーは拒んだ。

その場にいた一人の証言によれば、彼は自分の苦しみを「会衆の信仰が足りないせいだ」と言ったという。妻のサリーは、あれは神の御心だったと述べている。

翌7月25日の未明、ジョージ・ウェント・ヘンズリーは死んだ。七十四歳だった。

カルフーン郡判事ハンナ・ガスキンは、この死を自殺と認定した。自ら進んで毒蛇を扱い、治療を拒んだからである。チャタヌーガの新聞は「ヘビに噛まれた説教者死亡、投薬拒否で自殺扱い」という見出しを打った。

葬儀にはテネシーから親族が来た。カントリーのバンドが演奏したのである。彼は、噛まれた鍛冶屋から三キロほど離れた墓地に埋葬された。

そして葬儀のあと、参列した信徒たちは集まって、これからもヘビを取り上げ続けると宣言した。

サリー・ヘンズリーは記者にこう言ったのである。信仰は一オンスも減っていない、と。

創始者が自分の教えで死んでも、この信仰は止まらなかった。というより、彼らの論理からすれば止まる理由がない。ヘンズリーは従った。従って死んだ。それは失敗ではなく、完遂なのだ。

ちなみに、同じことが十年前にも起きていた。1945年、ドリー・ポンドの大規模な礼拝で、三十代のトラック運転手が噛まれた。彼は治療を拒み、報道陣の目の前で七十分後に死んだ。名前をルイス・フォードという。

その葬儀で、六匹の生きたヘビが棺に入れられた。フォードの顔の上に置かれたという。そのうち一匹は、彼を噛んだヘビだった。

これを記録したのは、チャタヌーガ・ニューズ・フリー・プレスの記者J・B・コリンズだ。彼は写真を撮り、聞き取りをし、のちに小冊子にまとめた。同時代の記録としては最良の資料のひとつとされている。

コリンズはこんな信徒の言葉も書き留めている。「信徒の中には、あまりに強い力、電気のような力に満たされる者がいて、その手で撫でられたヘビはショックで死ぬのだ」

チャタヌーガの新聞社は、この一連の記事と写真を世界中に配信した。

そしてそれが、法律を呼んだ。

州は次々に禁じ、裁判所は信教の自由を理由には認めなかった

規制の歴史は、死亡事件の歴史とほぼ完全に重なっている。

最初に動いたのはケンタッキー州だ。1940年、州議会が可決した法律は、知事が署名も拒否もしないまま成立した。条文はこうだ。「何人も、いかなる宗教的礼拝または集会に関連して、いかなる種類のヘビまたは爬虫類も、展示し、扱い、または使用してはならない」。罰金五十ドル以上百ドル以下の軽罪である。

この条文は、全米の類似法の中で唯一、宗教という文脈を名指しで狙い撃ちにしている。しかも毒蛇とそうでないヘビを区別していない。

二年後の1942年、トム・ローソンら信徒がこの法律の合憲性を争った。ローソン対コモンウェルス事件である。ケンタッキー州控訴裁判所は法律を支持した。論理はこうだ。ヘビの多くは有毒で、無毒との区別は爬虫類学者や熟練の山人でなければつかない。

宗教集会は爬虫類学者が運営しているわけではない。素人にヘビの選別を任せて参加者の生命を危険にさらすくらいなら、州には実践そのものを禁じる権限がある。

そのうえで裁判所は、決定的な一文を置いた。被告らが取り上げたヘビが無毒だったという主張は成り立たない。なぜなら「ヘビを扱うことによって達成しようとしていた目的そのものが、信仰による免疫、すなわち信仰を持たぬ者なら死に至るはずの結果からの免れを実証することだった」からである。

つまり、無害なら儀式が成立しない。危険であることが要件なのだ。これは、以後すべての判決で繰り返される核心になる。

バージニア州は、もう少し荒っぽかった。

1940年代前半、蛇による死亡事故が続き、コルゲート・ダーデン知事が「この実践を終わらせる」と公言した。1945年7月、知事は州司法長官と対策を協議したが、内容を公表しなかったのである。そして法律が一本もない状態のまま、警察にペンテコステ系教会からのヘビ押収を命じた。信徒側は当然、信教の自由の侵害だと抗議した。

その間にも死者は出続けたのである。1947年には、カーク対コモンウェルス事件がバージニア州最高裁に上がっている。教会の儀式中、夫が持っていたヘビに噛まれて死んだ妻アンナ・カークをめぐり、夫が故殺で有罪となった事件だ。二年の実刑。裁判所は最終的に、陪審への説示に誤りがあったとして判決を覆している。

当時のバージニアには、毒蛇を扱うこと自体を禁じる法律が存在しなかったからだ。

1947年1月、バージニア州議会がついに立法した。条文はこうだ。「何人も、いかなる人の生命または健康を危険にさらすような方法で、毒蛇または危険な蛇もしくは爬虫類を、展示し、陳列し、扱い、または使用することは違法である」。

ケンタッキーと違って、宗教という語がどこにも出てこない。「危険な扱い方」を一般的に禁じる形にした。これを「公共危険アプローチ」という。

その翌月、テネシー州がほぼ同一の法律を通した。1947年公法第八十九章である。現行法では、これはC級軽罪にあたる。

そしてこの法律は、すぐに試されることになる。

1947年8月9日、テネシー州のあるホーリネス教会の礼拝で、十人の信徒が二匹のヘビ、一匹は成熟したガラガラヘビを使って儀式を行った。観客もいた。十人は起訴され、有罪となり、上訴したのである。ハーデン対州、1948年、テネシー州最高裁。

判決文は読む価値がある。

裁判所はまず、彼らの礼拝は聖書朗読も讃美歌も他のキリスト教会と変わらない、と認めている。そのうえでこう記述する。「しかしその礼拝の過程で、いわゆる『アノインティングを受け』『真理の極致』に入った信徒たちが、毒蛇を扱い、首や体に巻きつける。これは彼らの信仰の誠実さの試金石であり証明とされている」

裁判所は、彼らが安全策を取っていたことも記録している。舞台の前にロープを張り、一定間隔で見張りを立てて、観客に近づかせないようにしていた。だが裁判所は言う。「そうした予防措置が不十分であることは、証明を要さず明白である」。実際、この日も観客の一人がロープを越えていた。

そして何より、「そうした予防措置は、実際に毒蛇を扱っている当人たちを一切保護しない」。

信教の自由の議論では、レイノルズ対合衆国、デービス対ビーソン、キャントウェル対コネチカットといった連邦最高裁の判例が引かれた。とりわけ1878年のレイノルズ判決、一夫多妻を禁じる法律を支持したあの判決の有名な一節が引用されている。「人身御供が礼拝に必要不可欠だと信じる者がいたとして、その者が暮らす政府がその犠牲を防ぐために介入できないと、真面目に主張されうるだろうか」

結論はこうだ。テネシー州憲法は、良心の権利に人間の権威が干渉できないと定めている。この法律は、毒蛇を扱うことが礼拝に必要だと「信じる」ことを何ら妨げていない。信じるのは自由だ。だが、信じたとおりに行為する権利は「人類にとって等しく貴重な他の諸権利によって制限される」。

そのひとつが、生命と健康に危険な実践から社会が保護される権利である。

有罪維持。

ノース・カロライナ州は、法律を作らなかった代わりに市が動いた。ダーラム市が、バージニアとテネシーの立法をなぞって、公衆の健康と安全を危険にさらす方法での毒蛇の扱いを禁ずる条例を制定した。ザイオン・タバナクル教会の信徒たちが有罪となり、各人五十ドルの罰金を科され、条例の合憲性を争ったのである。

1949年の州対マッシー事件で、ノース・カロライナ州最高裁は、公衆に危険が及ばない限り公の場でヘビを扱う権利はある。だが、危険が及ぶなら公的不法妨害を構成する、と判じた。公共の安全は宗教的実践に「優越する」と明言している。

決定打はもう少しあとに来る。

1973年7月1日、テネシー州カック郡で蛇使い各派の全国大会が開かれた。地区検事は「カック郡が世界の蛇使いの首都になってしまう」と危惧して、地元の牧師と長老を告発した。一審は差し止めを命じ、控訴審は「危険にさらされることに同意していない者に対して危険となる方法で扱うこと」に限定して命令を狭めたのである。

ところが1975年、スワン事件でテネシー州最高裁はこの「同意」条項を取り払った。判決は前置きとしてこう述べている。「州憲法にも連邦憲法にも、いかなる宗教集団が、その活動が保護されるために慣習的である必要も、数の上で強大である必要も、ない」。そのうえで、州内での毒蛇の扱いを全面的に禁じた。

本人が同意していても駄目だ、ということだ。

結果として、アパラチアの主要六州で宗教的な蛇の扱いは違法になった。

ただし、ひとつだけ例外がある。西バージニア州だ。

同州憲法は、宗教的実践を妨げる法律も促進する法律も禁じている。1961年、ジョーロの教会でバーバラ・エルキンスの娘コロンビア・ゲイ・チェイフィンがガラガラヘビに噛まれた。二十三歳。治療を拒み、四日後に両親の家で死んだ。幼い子を残していた。

この死は全国的な注目を集め、州議会が動いた。1963年2月、州下院は毒蛇の扱いを軽罪とする法案を可決したのである。罰金は百ドルから五百ドル。

バーバラ・エルキンスは、娘を亡くしたあとも、法律ができても取り上げ続けると公言した。信教の自由を掲げる側の支持が集まり、上院司法委員会は法案を審議しないまま棚上げにした。

法案は死んだ。

2012年にマック・ウォルフォード牧師が死んだあと、当時の上院議長ジェフリー・ケスラーが再び規制を求めた。礼拝所を含むあらゆる公の場での危険動物の無規制な使用を禁ずるという案だったが、これも強い反対に遭って進んでいない。

だから今日でも、西バージニアでは合法だ。だからこそ、毎年レイバー・デーの週末にジョーロで開かれる「ホームカミング」には、各州から信徒が集まってくる。十一時間かけて運転してくる者もいる。

他州では、地下に潜っただけだった。多くの場合、蛇を扱うのは信徒の自宅になる。当局はたいてい見て見ぬふりをする。誰かが死ぬまでは。

なぜ医者にかからないのか――治療拒否という教義

ここが、外部の人間がいちばん納得しづらいところだと思う。

ヘビを取り上げるのは、まだわかる。危険な行為を選ぶ自由という話だ。だが噛まれたあと、血清があるのに打たない。腕が壊死していくのを見ながら、部屋に座って祈る。指が黒くなって落ちるまで待つ。

これはなぜなのか。

論理はこうだ。

マルコ十六章十八節は、五つのしるしをひとまとまりで語っている。「蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば治る」。最後の一句が、癒やしの約束である。つまり、噛まれたあとに神に癒やしを求めるところまでが、この聖句の射程なのだ。

途中で医者に駆け込むのは、五つ目のしるしを信じていないと宣言するに等しい。前半を実行して後半で降りるのは、彼らの読みでは筋が通らない。

そのうえで、もうひとつの前提がある。人にはそれぞれ定められた死の時がある、という考え方だ。

ジョーロの信徒ジェフ・ハガーマンの言い方が簡潔だった。「聖書は、人には死ぬべき定めの時があると言っている。車を運転していようが、ヘビを取り上げていようが、ここであんたと喋っていようが、同じことだ」

だから、こうなる。神が癒やすなら生きる。癒やさないなら、それが自分の時だったのだ。

ジェイミー・クーツはこれをはっきり言葉にしていた。「ヘビに噛まれて死にたいわけじゃない。だが、車の事故に遭って周りに罵られながら死ぬくらいなら、祈ってくれる人に囲まれてヘビの毒で死ぬほうがいい。たとえヘビの毒を意味するとしても、私はあの霊的な空気の中で死にたい」

問題は、この教義の下で何が起きるかだ。

ラトルスネークの毒は、血液毒と神経毒を含む。しびれと腫脹、視野のぼやけ、麻痺、呼吸不全。皮膚組織と血球を破壊し、内出血を起こす。血清があれば、二時間以内の投与でたいてい助かる。なければ、六時間から四十八時間で死に至ることがある。

だから彼らの多くは死なない。噛まれても、毒がほとんど注入されない「ドライバイト」が相当な割合であるからだ。弱った蛇は致死量を注入できない。丁重に扱えばそもそも噛まれにくい。だが扱う回数が増えれば、確率は積み上がる。

死ななかった者の体には、記録が残る。

ジョーロのレイ・マカリスターの右手は、何年も前のガラガラヘビの一咬みで、ねじれた鉤爪のような形に変形していた。彼はその手で、壁に貼られた教会の規則を読み上げる役をやっていた。

デューイ・チェイフィンの指は一本、萎びて曲がったまま固まっていたのである。「肉と骨が黒くなっただけさ」と彼は笑って肩をすくめた。

ジェイミー・クーツは右手の中指を半分失った。1998年の咬傷で腕が紫色に腫れ、体中に水疱が出て、指先が壊死して落ちたのである。それでも医者には行かなかった。

そして、助からなかった者もいる。1995年、クーツの教会で噛まれた若い女性が、病院へ行くのを拒み、クーツの家のソファの上で死んだ。周囲の信徒が彼女に手を置いて祈っている間に。クーツはこの件で訴追されかけたが、判事が立件を見送った。

チェイフィンの妻ジェネバは、カトリックだった。結婚してから夫の教会に通おうとしたが、やめたのである。夫が噛まれるのを見ていられなかったからだ。

「最初に見たとき、教会を飛び出して、赤ん坊みたいに泣いたわ。いい気持ちのするものじゃない」

医者を呼ばずにいるのはつらいか、と記者が尋ねた。

「ええ。ええ、つらいわ」

いちばんつらかったのは、夫が絡み合った二匹のガラガラヘビに胸を二度噛まれたときだという。

「あの人は死ぬと思った。本人もそう思ってた」

それで、あなたはどうなったのか。

「痛がっているのに、私にできることが何もないと知るのは……どうなんでしょうね。もっと愛するようになった、のかしら」

三つの証言

百十五回噛まれて、一度も医者に行かなかった男

デューイ・チェイフィン。西バージニア州ジョーロ。1992年に取材を受けたとき、五十九歳だった。塵肺か何かで障害を負った元炭鉱夫で、一族は何世代もこの山にいる。母親はバーバラ・エルキンス、ジョーロの教会を夫と築いた女性だ。

「デューイ・チェイフィンだ、五十九歳。ヘビを扱って三十二、三十三年……いや三十四年か。噛まれたのは百十五回。医者にかかったことは一度もない」

ずいぶんな回数ですね、と記者が言うと、彼はこう返した。

「ああ。痛いのもずいぶんだ」

取材した日は土曜で、彼は記者をカッパーストーン・マウンテンへ連れて行った。ヘビ狩りだ。「今いるのはガラガラヘビの国だよ。この草むらのどこにでもいる」。彼の一番のお気に入りの場所で、ある日一枚の岩の下にカッパーヘッドが二十三匹いたという。

まもなく彼は、岩の上でとぐろを巻いて動かない黒いガラガラヘビを見つけた。自作のヘビ鉤、片端を曲げたゴルフクラブで持ち上げようとして、うまくいかない。ヘビが滑り出そうとしたところを、彼は素手でつかんで麻袋に落とした。

「捕まえた。でかくはないが、こいつでも人は死ぬ」

山を下りながら、記者が言った。あなた、楽しみ方が独特ですね。

「まあな。俺は楽しいと思ってる」

翌日の日曜、ジョーロのチャーチ・オブ・ザ・ロード・ジーザスで、チェイフィンは六匹のガラガラヘビを頭の上に載せてバランスを取った。

彼の自宅には、ガラガラヘビ、カッパーヘッド、ダイヤガラガラヘビ、コットンマウス、それに台湾のハブまでが飼われていた。母親のバーバラは「デューイの小屋はヘビ臭すぎる」と文句を言ったのである。臭うのは認めるが、どうしろというのか、と彼は言った。

なぜヘビを取り上げるのか、と聞かれたときの彼の答えは、他の信徒とまったく同じだった。

「なぜやるかって、聖書がやれと言っているからだ。それが全部だよ」

1987年に別の記者が取材したときには、回数は百二回だった。1989年には百十六回と語っている。1992年には百十五回。彼の言う数字は取材のたびに少しずつ違うが、そんなことはもう誰も気にしていない。

チェイフィンの姉妹コロンビアは1961年に、教会でガラガラヘビに噛まれて死んでいる。彼の母親は、娘を埋めたあとも教会を続けた。

「噛まれるより辛いことは、この世にいくらでもあるんだよ」とバーバラ・エルキンスは会衆に言った。

兄弟のヘビを盗んで殺し、そのたびに逮捕された男

ジョーロの教会に、ジェフ・ハガーマンという二十五歳の信徒がいたのである。ベルトのバックルにイエスの写真を入れていた。

彼には兄弟姉妹が十一人いて、全員がジェフを教会から引き剥がそうとしていた。

姉のシェリーの家には、毎週日曜、ハガーマン一族が集まる。ジェフが教会でヘビを取り上げている間、庭では下の子たちがゴーカートとミニバイクでコースを回り、上の子たちはポーチでジェフの話をしている。

「誰かを愛していたら、その人が自分を傷つけるようなことをするのを見たくないでしょう」とシェリーは言った。「愛している人が命を危険にさらしているのを見たら、止めようとするのが本能じゃない」

別の兄弟が横から言った。「ロシアンルーレットみたいなもんだ。弾の代わりがヘビってだけで」

「そう、同じことよ」とシェリーが引き取った。「ここに銃があります、弾は一発です、さあ今日はどっちが死ぬでしょう。狂ってるわ」

いちばん行動に出たのは、兄のスティーブンだった。彼はジェフの気持ちがわかるとも言う。

「超ハイなんだよ。手を伸ばしてヘビを拾い上げる、そのアドレナリンだ。噛まれるかもしれないと知っている。崖っぷちで生きてるようなもんだ。いつ死ぬかわからない、アドレナリンが体を駆け抜ける速さが、とんでもないハイをくれる」

そのスティーブンにも限界が来た。

「ある日曜の晩、ジェフが噛まれた。カッパーヘッドに、両手に一発ずつ。月曜の朝に電話が来て、ジェフが噛まれたと言われた。すぐ行った。女房のナンシーに言ったよ、俺が入るからドアを開けて押さえてろ、あいつを担ぎ出すって」

ジェフは兄に、病院に連れて行くなら自殺する、と言った。

「俺は信じたね。だから言った。わかった、ジェフ、無理やりは連れて行かない。でも、もう二度とこんなことは起こさせない、と。あいつが『どういう意味だ』と聞いたから、言ってやった。

言ったとおりの意味だ」

次の週末、スティーブンは弟二人を連れてチャーチ・オブ・ザ・ロード・ジーザスの礼拝に押し入り、ヘビを全部つかんで外へ持ち出し、殺した。

会衆は警察を呼んだ。

「連中は俺たちを刑務所にぶち込んだ。次の週末も同じことをやった。その次の週末もヘビを持ち出した。行くたびに、毎回、刑務所行きだ」

やめたのは、効果がないとわかったからだ。週を重ねるごとに、ジェフはかえって教会に傾倒し、ヘビを取り上げたがるようになった。

スティーブンは最終的に、ヘビ二匹の窃盗罪で起訴された。有罪なら二年から二十年の刑になるところだったのである。

陪審は無罪とした。

「あいつを教会から引き離せるなら、明日にでも刑務所に入るよ」と彼は言った。

取材相手が死んでいくのを、カメラ越しに見つづけた写真家

ローレン・ポンドという写真家がいる。ワシントン・ポスト・マガジンの2011年の特集で、西バージニアの蛇使い牧師マック・ウォルフォードを撮った人だ。

翌2012年の5月、彼女はもう一度ウォルフォードを撮りに行った。そして、そこで彼が死ぬのを見た。

彼女が書いた記事の書き出しは、こうだ。

これが、私がレンズ越しに見たものだ。牧師ランディ「マック」ウォルフォードが、西バージニアの義母のトレーラーハウスのソファの上で、その日の午後に受けたガラガラヘビの咬傷の痛みに、のたうち回っている。信徒たちが、息の詰まるような暑さの中で彼を囲んで祈っている。母親が彼の足をさすっている。その表情は、心配と、悲しみと、そしてやがて受け入れに変わっていく。

これが、この人の長男が、地元のペンテコステ蛇使い共同体の伝説だったこの男が、死んでいく形なのだ。

ポンドはこの経験について、記録者としての倫理を長く考えることになる。止めるべきだったのか。カメラを置いて救急車を呼ぶべきだったのか。だが彼女がそこで見たのは、周囲の人々が全員、それが起きることを承知している。それでも誰も電話をかけなかったという事実だった。

母親が足をさすっていた。それだけだ。

1991年、ヘビが凶器になった日

蛇使い教会をめぐる事件の中で、いちばん有名で、いちばん後味が悪いのがこれだ。

1991年10月4日、アラバマ州ジャクソン郡スコッツボロ。サンド・マウンテンのすぐ外れにある、廃業したガソリンスタンドを改装した教会、チャーチ・オブ・ジーザス・ウィズ・サインズ・フォロウイングの牧師、グレン・デール・サマーフォードが逮捕された。

容疑は、妻のダーリーンを毒蛇の入った箱に手を突っ込ませ、二度噛ませたというものだった。ダーリーンは三十六歳。搬送され、一時は危篤になった。グレンは四十六歳。保釈金は二万ドルに設定された。

翌1992年2月、スコッツボロの裁判所で殺人未遂の裁判が始まった。二日半で結審したのである。

法廷でのダーリーンの証言は、通信社の記録に残っている。

「あの人はパイプでケージを思い切り叩いたの。ヘビを本気で怒らせるために。それから私の髪をつかんで、手を突っ込まなければお前の顔をそこに押し込むと言った」

「私は死ななきゃいけない、と言われた。別の女と結婚したいから、って」

検察は、グレンがダーリーンを別の牧師との浮気で責めていたと主張した。ダーリーンはそれを否定した。証言に出てきた二十三歳の女性は、グレンと交際も社会的関係もないと否定したのだ。だが、検察側の証人は、その女性がサマーフォード家に何晩か泊まっていたと述べたのである。

陪審は有罪とした。グレン・サマーフォードには過去に二件の重罪前科があり、常習犯加重の規定が適用された。

量刑は九十九年。

彼は2002年、タラデガ郡の刑務所作業場から逃走している。ゴミ容器の中に隠れているところを発見された。ポケットにはアラバマ州北部三分の二の地図が入っていて、ジョージアとテネシーへ抜ける経路に印がついていた。本人は「出所したあと家に帰る道を覚えるためだ」と説明したのだ。だが、州側は、九十九年刑の十年目にそれはおかしいと反論したのである。

陪審は二分足らずで有罪を評決し、三十年が加算された。

サマーフォードは八十歳を過ぎた今も服役中で、2020年、2021年、2024年、2025年と仮釈放を申請しては却下されている。2025年時点で、九十九年のうち三分の二以上が残っていると報じられた。

この裁判を取材した記者の一人が、ニューヨーク・タイムズのために現地に入ったデニス・コビントンだった。

コビントンはアラバマ州バーミンガム育ちで、彼自身の一族も二世代前にサンド・マウンテンから降りてきて製鉄所で働いた人々だったのである。彼は裁判のあと、被告の教会のホームカミングに招かれる。そして抜けられなくなった。

二年ほどのあいだ、彼は蛇使い教会の巡回集会を渡り歩き、会衆の前で証しをし、最終的に自分でも大きなガラガラヘビを取り上げた。

そのときのことを、彼はこう書いている。

耳を聾するはずの音楽が、聞こえなくなった。空気は静まり、強く均質な光で満たされていた。そして私は、自分もその白の中へ溶けていくのを感じたのである。私は少しずつ自分を失っていった。縮んでいく男のように。

ヘビだけが最後まで残り、私に見えたのは、その鱗が光の中で最後にきらめく様子と、頭が出口を探して左右に動く様子だけだった。そのとき私は、なぜ人がヘビを取り上げるのかを知った。消えるという行為には力がある。自己の喪失には勝利がある。それは、私たちが考える楽園に、生まれる前、あるいは死んだあとの状態に、きわめて近いはずだ。

この本『サルベーション・オン・サンド・マウンテン』は1995年に出て、全米図書賞の最終候補になった。チャールズ・マグロクリン、デイジー叔母、カール・ポーター兄弟、ギター弾きのセシル・エスリンダー、そして伝説的な説教者パンキン・ブラウン。登場人物はいずれも実在の人物で、多くは今も研究者の記録に名前が残っている。

コビントンは最終的に、ジョージア州キングストンで開かれた結婚式で、信仰と自殺のあいだの線が思ったよりずっと細いことに気づき、この世界から降りた。バーミンガムの南部バプテスト教会に戻っている。

ただし、この本の評価は割れている。学術書評の中には、「著者に大量の注目をもたらした。だが、対象の宗教的次元をほとんど照らし出さなかった、著しく自己陶酔的な作品」という辛辣なものもある。歴史学者デイビッド・キンブローの『テイキング・アップ・サーペンツ』のほうが仕事としてまともだ、という評価は一定数ある。

そしてサマーフォード事件自体、まだ決着がついていない。

イースト・テネシー州立大学のトーマス・バートンは、事件の関係者たちの声を、どれも最終的な真実と位置づけずに並べた本を編んだ。ある証言者の言葉がその本の姿勢を要約している。

「あの日に何があったかは、あの二人と、神様だけが知っている」

十時間半――ウォルフォード家の、二つの死

1983年、西バージニア州イーガー近郊のジョロ・ブランチという場所にあるロード・ジーザス・テンプルで、マック・レイ・ウォルフォードという三十九歳の牧師がガラガラヘビに噛まれた。

その場に、十五歳の息子がいた。

息子は後年、ワシントン・ポスト・マガジンの取材に、父の最期をこう語っている。

「父は十時間半生きた。噛まれたとき、教会で死にたいと言った。噛まれてから三時間で腎臓が止まったのである。しばらくして、心臓が止まる。見送るのは辛かったが、父は自分の信じたもののために死んだんだ」

その息子が、マーク・ランダル・ウォルフォード。通称マック。父と同じ名を継いだ男である。

彼は父が死んだあとも蛇を取り上げつづけ、やがて西バージニアで最も名の知れた蛇使い牧師になった。マトアカのアポストリック・ハウス・オブ・ザ・ロード・ジーザスの牧師である。他州でこの実践が違法になっていく中で、それを絶やすまいと各地を回っていた。

彼のやり方は、旧世代とはだいぶ違ったのである。フェイスブックを使った。記者を歓迎した。写真を撮らせたのである。派手だった。

2012年5月、四十四歳の誕生日の翌日にあたる日曜日、彼は野外礼拝を企画した。場所は西バージニア州のパンサー野生生物管理区、ブルーフィールドから西へ百三十キロほどの州立公園である。事前にフェイスブックで何度も告知した。「昔ながらのホームカミングにしよう」。

投稿のひとつが、彼の信仰の気質をよく表している。

「主をほめたたえよ、そしてガラガラヘビを回してくれ、兄弟」

晴れた午後だった。集会は賑やかに始まった。

三十分ほど経ったころ、彼は自分が何年も飼っていた黄色いティンバー・ラトルスネークを回したのである。名前を「シーバ」といった。

姉のロビン・バノバーがのちに語ったところによると、彼はそのヘビを別の信徒に渡し、次に自分の母親に渡し、それから地面に置いた。

「置いたあと、弟はヘビの隣に座ったんです。そしたら太ももを噛まれた」

午後二時ごろのことだ。

集会は中断され、彼はブルーフィールドの親族の家へ運ばれた。いつもそうしてきたからだ。過去の咬傷も、そうやって切り抜けてきた。

午後遅くには、今回は違うということが明らかになりはじめた。フェイスブック上に、祈ってくれという必死の書き込みが飛び交いはじめる。

彼は悪化しつづけた。

救急隊がブルーフィールド地域医療センターへ搬送したのは、午後十時三十分。誰がいつ救急を呼んだのかは、はっきりしていない。

病院で死亡が確認された。噛まれてから、およそ八時間半から十時間。父親とほぼ同じ長さだ。

葬儀はその土曜、マトアカの彼の教会で行われた。埋葬はケンタッキー州フェルプスのヒックス家の墓地である。

そして、この家系の話にはもう一章ある。

2019年のメモリアル・デーの週末、西バージニア州スクワイアのハウス・オブ・ザ・ロード・ジーザス教会で、マックの弟クリス・ウォルフォードがイースタン・ダイヤモンドバックに右前腕を噛まれた。兄が死んでから、ちょうど七年後の、ほぼ同じ日だった。

四十六歳のクリスはその場に崩れ落ちたのである。唇と舌が腫れ上がり、呼吸ができなくなっていった。

このとき、会衆は911に電話した。

地域の病院でクリスの腎臓は機能不全に陥り、医師は腫れが筋肉と神経を圧迫するのを避けるために腕を切開したのである。複数回の手術を経て、十三日後に退院している。

彼はいま、また講壇に立ち、またヘビを取り上げている。

そして、救急車を呼ぶという選択について、彼は何も語らない。

両親を同じ死に方で失った、五人の子どもたち

1981年ごろ、ジョージア州キングストンの教会で開かれたホームカミングに、テネシー州パロッツビルの十代の少年が来ていた。ジョン・ウェイン・ブラウン・ジュニア、通称パンキンだ。

彼はそこで、十四歳のメリンダ・デュバルという娘を見た。

兄のマークによれば、こういうことだったらしい。「パンキンは、あの娘がでかいガラガラヘビを扱って、異言を語って、叫んでいるのを見た。それを見て、その場で参ってしまったんだ。自分の好きなことを好きな女がいたわけだからな」

パロッツビルに帰ってきたパンキンは兄に宣言した。「異言を語ってヘビを扱うホーリネスの女を見つけた。あの子と結婚する」

一年後、二人は結婚した。

パンキン・ブラウンは十七歳から蛇を取り上げていた。父のジョン・ブラウン・シニアもノース・カロライナ州マーシャルで蛇使い教会を持つ牧師である。彼は南部じゅうの小さな教会を回る巡回説教者になり、しばしばガラガラヘビを肩に掛けたまま説教した。信徒の間では「伝説的」と呼ばれる存在だった。

十八年で二十二回噛まれたのである。

1995年8月6日、ケンタッキー州ミドルズボロのフル・ゴスペル・タバナクル・イン・ジーザス・ネーム、のちにジェイミー・クーツが死ぬことになるあの教会の礼拝で、メリンダ・ブラウンが黒いティンバー・ラトルスネークに噛まれた。

二日後、彼女は死んだ。二十八歳。五人の子の母親だった。

スミソニアン協会のアーキビストであるスコット・シュワルツの取材に、パンキンは一年後こう答えている。

「神への信仰を失ったことは一度もない。だがパニックにはなった。あれは俺の妻だったから。俺は彼女を愛していた」

「子どもたちは、主が動かなかったらどうなるかをわかっていたのである。メリンダが死んだと子どもたちに伝えたが、俺のせいだと思っているような態度を、あいつらは一度も見せなかった」

メリンダの死後、子どもたちの親権をめぐって、彼女の実家との争いが起きた。裁判所はパンキンに親権を戻したが、条件がついたのである。家に毒蛇を置かないこと。子どもを蛇使いの礼拝に連れて行かないこと。

パンキンはこの命令を破った。神の法に従っていると彼は考えていた。

1998年10月3日、アラバマ州ジャクソン郡マセドニア地区のロック・ハウス・ホーリネス教会。パンキン・ブラウンが説教をしていた。牧師はビリー・サマーフォード。グレン・サマーフォードの親族にあたる人物の教会である。

彼は一メートルほどの黄色いティンバー・ラトルスネークを、五分ほど扱っていた。そして左手の中指、関節と第一関節のあいだを、片方の牙だけで噛まれた。

証言によれば、彼はヘビを箱に戻し、その三、四分後に床に倒れたのである。

倒れる直前、彼が言ったとされる言葉が二つ伝わっている。噛まれた指を見て「神は決して変わらない。大丈夫だ」。そしてもうひとつ、「何が来ようと、神はやはり神だ」。

保安官事務所の捜査官チャック・フィリップスによれば、救急車が呼ばれたのは四十五分後だった。「証言によれば、彼は治療を拒否した。この宗教では普通のことだ」。救急要請が行われたのは、ブラウンの呼吸と心臓が止まってからだった。信徒たちは救急隊が着くまで心肺蘇生を続けたが、間に合わなかった。

三十四歳。噛まれてから一時間以内の死だった。

彼の遺体が葬儀場に安置されている10月7日、テネシー州カック郡の少年裁判所の判事が、祖父母たちを呼び出した。子どもたちを安全に預けられるかを判断する必要がある、と。

パンキンの両親、ジョンとペギー・ブラウンは、すでに命令に違反して孫たちを蛇使いの礼拝に連れて行ったことを認めていた。以後は控えると述べた。

母方の祖母メアリー・ゴスウィックは、かつて自分も蛇を扱っていたが、いまはやめていると証言したのである。

メリンダの父ルイス・デュバルの言葉が、この争いの核心を突いている。

「我々が望むのはただ、あの子たちが学校に落ち着くことだ。そして、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんや叔父さんが、箱に入って帰ってくるんじゃないか、自分たちも噛まれるんじゃないか、とびくびくしながら育たなくてすむようにすることだ」

1999年2月12日、ジョン・ベル判事が結論を出した。ジョナサン十二歳、ジェイコブとジェレマイア七歳、サラ五歳、ダニエル四歳。学年中は母方の祖母のもとで、夏休みと祝日は父方の祖父母のもとで過ごす。ただし父方については、蛇を扱う礼拝には連れて行かないことが条件とされた。

宗教的実践を理由に子どもを親族から引き離すことは、アメリカの裁判所にとって非常にやりにくい。だからこの判決は、妥協の産物だ。誰も禁じられていないが、誰も自由でもない。

この争いは、蛇使い教会の内部にも波紋を残した。ほとんどの教会では、子どもには触らせない。十八歳未満は禁止という規則を明文化している教会もある。だが、礼拝の場に子どもがいることそのものは避けられない。家族の宗教だからだ。

過去には、こんな事件も記録されている。五歳のレイサ・アン・ローワンという女の子が、礼拝でカッパーヘッドが回されているときに噛まれた。母親は三日間、娘を隠して治療を受けさせなかった。別の親族が保安官のところへ連れて行って、ようやく助かったのである。

テレビに出た結果、ヘビを五十三匹持っていかれた

2011年の大晦日、西バージニアの教会で、二十歳の若い説教者がティンバー・ラトルスネークに人差し指を噛まれた。ほぼ真夜中だった。幸い毒がほとんど入らないドライバイトで、彼は無事だったのである。

翌日、その場にいたジャーナリストのジュリア・デューインが彼に会い、感心して、ウォール・ストリート・ジャーナルに彼のプロフィール記事を書いた。

その若者がアンドルー・ハンブリンだ。テネシー州ラフォレットのタバナクル・チャーチ・オブ・ゴッドの牧師である。

記事のあと、ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルから話が来た。

制作側はまず、この分野の第一人者であるチャタヌーガのテネシー大学の心理学者ラルフ・フッドに電話をかけた。ハンブリンはテレビに出る気があると思うか、と。フッドはこの手の問い合わせに慣れていた。三十年以上この研究をしていて、大学の図書館には、白樫山までさかのぼる世界最大の蛇使い映像・写真アーカイブを作っている。

ハンブリンと、彼の師にあたるケンタッキーのジェイミー・クーツは、出演を決めた。

これは、年長の指導者たちと袂を分かつ選択だった。旧世代は、メディアが関われば必ず面倒が起きると考えていたのである。

二人は出演料を受け取り、ホテル代、食事代、ガソリン代は制作側が持った。

『スネーク・サルベーション』は2013年の初秋に始まり、全十六話で一シーズン放送された。

牧師たちの狙いは、誤解を解くことだったのである。ここは蛇の教会じゃない、魂の教会なんだ、と。ハンブリンの言い方はこうだった。「ここに来てヘビを扱って救われたわけじゃない。ここに来て、その人の人生に血が塗られたんだ。

イエスに出会ったんだ。ヘビの話なんか一度もしたことがない連中だっている」

だが、完成した番組は、魂より蛇を映した。

そして2013年11月7日、テネシー州野生生物資源局の職員がタバナクル・チャーチ・オブ・ゴッドに現れた。

押収されたのは五十三匹。ティンバー・ラトルスネーク、カッパーヘッド、それに何種類かの外来種。

ハンブリンはクラス1野生生物、つまり人間に本質的に危険な種の不法所持で告発された。五十三件。一件につき最長十一か月二十九日の拘禁と二千五百ドルの罰金である。

州側の広報担当マット・キャメロンは、教会からヘビを押収した前例を思い出せないと述べた。そして、州が教会にヘビがあることを知った経緯を、はっきり認めた。テレビ番組だ、と。

ハンブリンは11月15日の法廷で無罪を主張した。支持者たちは全員赤い服を着て集まり、彼が入廷すると拍手した。

彼は、これを宗教的自由をめぐる戦いにするつもりだと公言したのである。

「ヘビを取り上げるのは、バプテストから聖書を取り上げるのと同じだ。カトリックから聖体を取り上げるのと同じだ」

彼はこうも続けた。

「神が私に働きかけ、聖霊によってヘビの箱に手を入れよと導かれるなら、私にはそうする宗教的権利があるはずだ」

2014年1月8日、大陪審が開かれた。ハンブリン側の要請で、彼自身が大陪審の前で三十分ほど話す機会が与えられた。異例のことである。

彼の主張は単純だった。あのヘビは自分のものではない。信徒が教会に持ってきたものだ。そして、野生生物局の職員が教会に踏み込む筋合いはない。

大陪審は、起訴しないことを決めた。

支持者たちはこれを奇跡と呼んだ。

ただし、ヘビは返ってこなかった。野生生物局は「禁制品だから返却できない」と述べた。

押収された五十三匹はノックスビル動物園に運ばれていたのである。両生爬虫類担当の学芸員マイケル・オーグルによれば、多くが病気だった。三十二匹が死んだ。残りは後に安楽死させられた。

蛇使い教会が押収された蛇をどう扱っていたかについては、専門家から繰り返し批判が出ている。ケンタッキー爬虫類動物園のクリステン・ワイリーは、押収されてくる個体は衰弱し脱水していることが多いと述べている。

皮肉なのは、それが咬傷を減らしている可能性があることだ。弱った蛇は致死量の毒を注入できない。丁重に扱えばそもそも噛みにくい。

年長の信徒たちが、テレビに出た若い牧師たちに向けた批判も、まさにそこを突いていた。ドラマが欲しいあまり、彼らは「神のアノインティング」を待たずに箱へ走るようになったのではないか、と。

フッドは、共同体の内部で聞こえてくる声をこう要約している。「彼らは、信用の裏づけのない派手さを疑っているんだ。この人たちにとっての根本は、聖く生きることなのだから」

ハンブリンへの不満は具体的だった。よそ者である。若すぎる。蛇の世話が雑だ。婚外子がいる。

煙草を吸う。女性に服装規定を課さない。そして、噛まれた信徒が医療を受けてもよいと考えている。

番組は第二シーズンを作られなかった。

そして最終回の放送から五週間後、ジェイミー・クーツが死んだ。

救急車を呼ぶ側へ――若い世代が起こしている分裂

ジェイミー・クーツの葬儀は、感情的な集まりになった。複数の州から蛇使いが集まり、全国メディアが押し寄せた。

彼らが弔ったのは、医療の介入を拒み、しるしを実践しながら死んだ男である。彼らの価値観からすれば、それはマルコ福音書への忠実さの最終形だ。

ところが、その葬儀で司式を手伝ったアンドルー・ハンブリンにとっては、まったく逆の意味を持った。

「ジェイミーが死んでから」と彼はのちに語っている。「私は誰にもガラガラヘビを差し出していない。私は羊飼いだ。この建物の中で起きることに、私が責任を負っている」

これは、この共同体の中では相当に踏み込んだ発言である。

さらに踏み込んだのが、息子のコーディ・クーツのほうだった。

父の死から三か月後の2014年5月、コーディは自宅で蛇のケージを掃除中に右手を噛まれた。彼は救急車を追い返したのである。「主に、病院には行かないと言ったんだ」。翌日には痛みが引いた。彼は記者に「ガラガラヘビの咬傷としては、大したことはなかった」と言った。

ただし、このとき彼はひとつ留保をつけている。自分が意識を失っているあいだに妻が同意したなら、病院に行くことになるだろう、と。

そして2014年6月、説教の最中にヘビを取り出した彼は、眼窩のすぐそばを噛まれた。引き剥がそうとして、今度は耳を噛まれた。彼はそのまま三分ほど説教を続けたのである。顔から血が流れ、視界がぼやけ、バランスが崩れ、講壇で崩れ落ちた。

倒れている彼に、信徒の一人がこう言った。

「今すぐ病院に行くか、気を失ってから行くかだ」

2015年6月の別の礼拝でも、彼は炭酸飲料の缶ほど太いティンバー・ラトルスネークを背中に掛けている。それが頭に跳びかかり、右のこめかみの動脈を狙って牙を突き立てた。血が薄い水色のシャツに噴き出した。彼は友人たちの腕の中に崩れ落ちたのである。

フッドによれば、その友人の一人が彼にこう尋ねたという。死ぬ覚悟はできているか、と。

コーディは「いいえ」と答えた。

彼はノックスビルの病院へヘリで搬送され、生命維持装置につながれ、そして回復した。医師は、あの一咬みは側頭動脈を切断しかけていた、と説明したのである。

その後の彼は複雑だ。彼は牧師を続けている。ヘビも扱う。だが頻度は落ちた。頭部への咬傷のあと、彼は激しい怒りと猜疑心に苦しんだ。

妻に頼まれて銃を売り払った。そして精神科医にかかった。医師は心的外傷後ストレス障害の症状だと告げたのである。治療を受けると、不安が薄れていったという。

彼自身の言い分はこうだ。マルコ福音書は蛇を取り上げ毒を飲めと言っている。だが、医者にかかるなとはどこにも書いていない。それは父のジェイミー個人の考え方だったのだ、と。

ラルフ・フッドの整理によれば、いま起きているのはこういうことだ。911に電話しないことは「古いやり方」とみなされはじめており、実用主義が優勢になりつつある。若い牧師たちは言う。マルコは蛇を勧めているが、重い咬傷で助けを求めるなとは、どの聖句も禁じていない。

デイビッド・キンブローは、この分岐を教義から説明する。ケンタッキーの三位一体派は医者を拒む傾向が強い。「神がヘビに噛ませたのなら、すべてが自然の経過をたどることを期待する」。南部のワンネス派は救急車を呼ぶ方向に動いている。「人々はより啓かれてきた。

『神は医者に人を治す力を与えた。神はそれを使ってほしいのだ。イエスは医者を非難していない』と言うのを、私は耳にする」

テネシー州ニューポートのジミー・モロー牧師は、旧来の側に立つ。「カッパーヘッドに二度噛まれたが、行かなかった。家にいたら主が癒やしてくれた。死ぬときは福音のしるしを実践しながら死にたい、という立派な兄弟姉妹を、私は大勢知っている」

そしてフッドは、この妥協に対して、外部の観察者としては意外なほど厳しい見方をしている。

蛇使いたちはかつて、神が信じる者を守る力を示すために毒を飲み、毒蛇を扱うのだと言っていた。

「結果について医者にかかってよいのなら、この高リスク行動にどんな意味が残るのか」

意地の悪い問いだが、筋は通っている。この儀式の意味は、危険が本物であることに全面的に依存していた。安全網を張った瞬間、それはただのパフォーマンスに近づく。信徒たちが救われるのは、まさに救われないかもしれないからだった。

若い世代は、いまその矛盾のただ中にいる。

ノース・カロライナ州で育った四十歳のジェイソン・ストーンは、別の道を選んだ。彼は西バージニアの蛇使い家系の出だが、近年は公開の見世物から手を引いて、信頼できる仲間だけの小さな礼拝に絞っている。

「ヘビを扱うのは、霊的な体験に完全に没入するようなものだ。周りのことがまったく意識されなくなる。すべての否定的な感情からの解放でもあって、それが私がやる理由の一部だ」

彼は一度も噛まれたことがない。そして、もし噛まれたら医者に行くことに何の問題もない、と言っている。

二十年通いつづけた研究者たちが、記録したもの

この主題には、質のいい記録が残っている。それは偶然ではなく、何人かの人間が人生の相当な部分を注ぎ込んだからだ。

ラルフ・W・フッド・ジュニアとW・ポール・ウィリアムソンは、十五年をかけて六州の教会を回った。数え切れないほどの聞き取りをし、何百回もの礼拝に立ち会い、咬傷と回復と死を記録した。二十年以上ぶんのデジタル録音アーカイブがあり、研究者に公開されている。

彼らの本『ゼム・ザット・ビリーブ』の目次を見ると、この仕事の射程がわかる。ペンテコステ運動史の中の蛇、メディアとヘンズリー、チャーチ・オブ・ゴッドによる公認、記号と象徴としての蛇、異言とアノインティングのトランス状態、即興説教、蛇を扱う経験、アノインティングの経験、咬傷による臨死体験、蛇使い教会の音楽、そして法律。

音楽の章があるところが、私は好きだ。彼らは音楽を、この宗教の付随物ではなく構成要素として扱った。

フッドの分析でいちばん面白いのは、教団史の書き換えを指摘した部分だと思う。

チャーチ・オブ・ゴッドの公式史を書いたC・W・コンは、初版で蛇の問題を脚注一つに押し込めた。決定版とされる版でも、扱いは渋い。フッドは教団の文書館の資料を使って、チャーチ・オブ・ゴッドとその分派であるチャーチ・オブ・ゴッド・オブ・プロフェシーが、初期には明確にこの実践を承認していた事実を丁寧に立証した。

さらに彼は、かつてドリー・ポンド・チャーチ・オブ・ゴッド・ウィズ・サインズ・フォロウイングが建っていた古い建物が、後の所有者であるチャーチ・オブ・ゴッド・オブ・プロフェシーによって取り壊されるのを、自分の目で記録している。所有者は、その土地が悪名で記憶されることを望まなかった。

なぜ教団は手のひらを返したのか。フッドの説明は、宗教社会学の「教会・セクト理論」に基づいている。ホスト文化との緊張が高いほど、その集団はセクト的で、大規模化できない。信徒を傷つけ殺す儀式より緊張度の高いものはそうそうない。だから、報道が増えれば増えるほど、大きくなろうとする教団は必ずこれを捨てる。

予測可能なことなのだ。

ただし同じ理論は、逆のことも予測する。緊張度の高いセクトは、コミットメントの強い信徒を生む。入るのに犠牲が要るから、ただ乗りする人間がいない。アパラチアの小さな「反逆のチャーチ・オブ・ゴッド」たちは、まさにこれを体現している。

デイビッド・L・キンブローの『テイキング・アップ・サーペンツ――東ケンタッキーの蛇使いたち』は1995年、ノース・カロライナ大学出版局から出た。彼はアパラチアに根を持ち、インディアナ大学で歴史学の博士号を取った独立研究者で、対象と同じ言葉を文字どおり話せる立場から、参与観察と口述史を積み上げた。

彼の理論的な主張は、一行で要約できる。蛇を取り上げる儀式は、親族を軸とする伝統的アパラチア文化と、十九世紀末に山の外から入ってきた採掘産業との衝突を、象徴的に演じ直したものだ。

原初の蛇は、アパラチアという庭に入ってきた具体的な悪と重ねられる。それがもたらしたのは、単なる貧困ではない。無力さと、家族の機能不全だ。

この説には、書評で「もっともらしいが展開が足りない」という批判もついた。だが、蛇使い教会が炭鉱町にばかりあるという事実に、何らかの説明を与えようとした点で、この本は避けて通れない。

歴史の位置づけ自体を書き換える研究も出ている。宗教学の側では、蛇使いを「アパラチアの奥地に閉じ込められた原始的他者」として片づける従来の枠組みへの批判が強い。

『ジャーナル・オブ・サザン・レリジョン』に載った再検討は、二十世紀前半の一次資料を読み直して、こう結論している。蛇を取り上げることは、南部ホーリネス・ペンテコステ運動にとって周縁的な奇習ではなかった。それは運動全体が真剣に処理しなければならない問題だった。

チャーチ・オブ・ゴッドはこれを使ってライバル教団を攻撃し、アセンブリーズ・オブ・ゴッドやペンテコステ・ホーリネス教会は信徒に「あの狂信者たちに気をつけろ」と警告したのである。

そのやりとりの中で、「正当な礼拝」と「極端な礼拝」の境界線が引かれていった。今日「まともなペンテコステ派」と認識されているものの輪郭は、蛇を切り捨てることで作られた、というわけだ。

つまり蛇使いたちは、アメリカの主流ペンテコステ運動にとって、単なる恥ずかしい親戚ではない。境界を引くために必要だった他者なのだ。

そして彼らを「犯罪者」として定義していく法の動きは、教団が彼らを「逸脱者」として定義していく動きと、ほぼ並行して進んだ。

死んだ順に並べ直すと、この信仰の形がもう一度見えてくる

ここまで出てきた死を、起きた順に並べ直してみたい。個々の場面では見えなかったものが、並べると急に立ち上がってくる。

最初は一九四五年、ドリー・ポンドで噛まれた三十代のトラック運転手ルイス・フォードである。彼は治療を拒み、報道陣が見ている前で、七十分後に息を引き取った。その葬儀で六匹の生きたヘビが棺に入れられ、そのうち一匹はフォードを噛んだ当のヘビだった。

次が一九五五年、フロリダ州アルサ近郊の廃業した鍛冶屋で噛まれたジョージ・ヘンズリーだ。彼は自分が広めた作法どおりに治療を拒み、翌未明に七十四歳で死んでいる。カルフーン郡の判事はその死を自殺と記録し、信徒たちは葬儀のあとに集まって続行を宣言した。

一九六一年には、ジョーロの教会でバーバラ・エルキンスの娘コロンビア・ゲイ・チェイフィンが噛まれている。二十三歳、治療を拒み、四日後に両親の家で死に、幼い子を残した。母親のバーバラは、娘を埋めたあとも同じ教会で同じ礼拝を続けた。

一九八三年、西バージニア州イーガー近郊で、三十九歳のマック・レイ・ウォルフォードが噛まれて十時間半後に死んだ。そのとき十五歳だった息子が、二十九年後にまったく同じ死に方をすることになる。

一九九五年八月六日、ケンタッキー州ミドルズボロの教会で、メリンダ・ブラウンが黒いティンバー・ラトルスネークに噛まれた。二日後に二十八歳で死亡し、五人の子が残された。同じ年、同じ教会で噛まれた若い女性が、牧師の家のソファの上で死んでいる。

一九九八年十月三日、アラバマ州のロック・ハウス・ホーリネス教会で、パンキン・ブラウンが左手の中指を噛まれた。救急要請は四十五分後、しかも呼吸と心臓が止まってからだった。三十四歳、五人の子は両方の祖父母のあいだで分けられることになる。

二〇一二年五月、マック・ウォルフォードがパンサー野生生物管理区の野外礼拝で太ももを噛まれた。搬送は午後十時三十分、父親とほぼ同じ、八時間半から十時間の経過だった。

二〇一四年二月十五日、ジェイミー・クーツが右手の甲を噛まれ、二時間足らずで自宅の床で死ぬ。救急隊は四十分そこにいて、血清は車の中にあった。

こうして並べると、いくつかの規則性がはっきりする。第一に、死者の多くが噛まれてから一時間から十時間のあいだに死んでいる。血清が二時間以内に届けば助かる時間帯と、そっくり重なっている。

第二に、死ぬのは決まって「教会の外へ運ばれた後」だ。フォードは会場で、それ以外はほぼ全員が自宅か親族の家で死んでいる。教会から家へ移すという動きが、結果として搬送の時間を食い潰している。

第三に、家族が二世代、三世代にわたって同じ死に方をしている。ウォルフォード家は父と息子、エルキンス家は母と娘、ブラウン家は妻と夫、クーツ家は父と息子である。信仰が家業として継がれる以上、危険も家業として継がれた。

第四に、残されるのはほとんどが子どもだった。コロンビアは幼子を、メリンダとパンキンは五人の子を、クーツは二十一歳の後継者を残している。制度の負担は、儀礼に参加していない人間のほうへ落ちていく。

そして第五に、これらの死のどれ一つとして、外からの介入で止められていない。法律は六州で禁じ、裁判所は二度にわたって信教の自由の主張を退けた。それでも死の間隔はほとんど変わっていない。

ここから引き出せる結論は、あまり気持ちのいいものではない。この信仰を減らしたのは法でも報道でもなく、地域そのものの縮小だった。ジョーロの人口は五分の一に減り、教会に入れなかった時代の会衆は二十人か三十人になっている。

言い換えると、外からの禁止はこの共同体をほとんど動かさなかった。動かしたのは、そこに住む人がいなくなったことのほうだ。だから救急車を呼ぶかどうかという内側の議論のほうが、法律よりずっと実効性を持つ。

クリス・ウォルフォードが二〇一九年に九一一を呼ばせ、腕を切開され、十三日後に退院して、また講壇に立っている。あの一件は、この百年でいちばん静かな転換点だったのかもしれない。

数字の側から見ると、この共同体はとっくに小さくなっている

最後に、この百年を数字の側から眺め直しておきたい。信仰の話をしていると見落としがちだが、背景の地図はかなりはっきりしている。

まず規模だ。全米でおよそ百二十五の教会、信徒は全部合わせても数千人という推計で、これはペンテコステ派全体の〇・〇〇五パーセント程度にすぎない。世界のペンテコステ運動が指数関数的に膨らんだのに対し、蛇を取り上げる実践だけがアメリカ南部の狭い谷から一歩も出ていない。

推計の幅も、そのまま彼らの置かれた立場を映している。西バージニアを除くほぼ全州で違法なので教会は名乗り出ず、研究者の見積もりは過去二十年で四十から百二十五まで開いたままだ。

次に土地だ。ケンタッキー州ベル郡では人口の四十五パーセントが貧困線以下で暮らし、就労年齢人口の六割に仕事がなく、大学を出た者は一割しかいない。西バージニア州ジョーロは一九六〇年代に炭層が尽き、その後の数十年で郡の人口の五分の一まで減ってしまった。

一九五〇年代から七〇年代にかけて、ジョーロの教会は入りきらない人が外の窓から覗くほど混んでいたと伝えられている。いまそこにあるのは、軽食スタンドが一軒と酒場が一軒、そしてスリー・フォークス・ロードの白い建物だけだ。

テネシー州ラフォレットの近郊も同じで、三分の一近くが高校を出ず、世帯収入の中央値は州平均より三割低いという数字が残っている。同じ土地に、同じ時期に、同じ規模の縮小が起きている。

法の側の数字も並べておきたい。ケンタッキーが一九四〇年、バージニアとテネシーが一九四七年、ノース・カロライナのダーラム市が一九四九年に、それぞれ蛇を扱う行為を禁じる規定を作っている。

テネシー州最高裁は一九四八年のハーデン事件で有罪を維持し、一九七五年のスワン事件では「同意していれば構わない」という控訴審の逃げ道まで塞いだ。それでも死者の間隔は、法律ができる前とできた後でほとんど変わっていない。

西バージニアだけは例外で、一九六三年の法案が上院司法委員会で棚上げされたまま、いまも合法のままになっている。だから毎年レイバー・デーの週末には、十一時間かけて車を走らせてくる信徒がジョーロに集まる。

押収の数字も象徴的だ。二〇一三年十一月にテネシー州野生生物資源局が持ち去った五十三匹のうち、三十二匹は動物園で死に、残りは後に安楽死させられている。

そして最後に、いちばん効いている数字が人の側にある。二〇〇一年の後任探しで娘を候補に出すと言った親は五人しかおらず、一世代前には数百人が名乗りを上げていた役目だった、という対比だ。

ネパールの話ではない、アパラチアの話である。信仰が減ったのは禁じられたからではなく、その信仰を担う家が土地から出ていったからだ。

ここまでの数字を通して見ると、蛇使い教会の百年は、宗教の物語であると同時に、炭鉱町の人口動態の物語でもあったことがわかる。谷が空になれば、谷の宗教も空になる。それだけの話だと言えば、あまりに身も蓋もないが。

数字を並べ終えたところで、もうひとつだけ付け足しておきたいことがある。この共同体を外から数えるという作業そのものが、そもそも成立しにくいという問題だ。西バージニアを除けば教会は違法な集まりなので、名簿も届け出も存在しないまま礼拝が続いている。だから研究者が数えられるのは、取材を受け入れてくれた教会と、事故や訴訟で表に出た教会だけということになる。

フッドとウィリアムソンが十五年かけて六州を回り、何百回もの礼拝に立ち会ったのは、その空白を少しでも埋めるためだった。二十年以上ぶんのデジタル録音を残し、研究者に公開したのも、同じ目的から出ている。キンブローが東ケンタッキーに腰を据えて口述史を積み上げたのも、外から数えられないものを内側から記録する作業だった。

そして皮肉なことに、その記録がいちばん厚くなった時期と、教会そのものが縮んでいった時期は、きれいに重なっている。誰かが真面目に数えはじめたときには、数えられる対象がもう減りはじめていた、というわけだ。これは蛇使い教会に限った話ではなく、小さな信仰共同体の記録全般につきまとう構造でもある。

だから彼らの数字を引くときには、いつも「わかっている範囲では」という但し書きを頭のなかで付け足しておいたほうがいい。

なぜこの信仰は、百年たっても消えないのか

最後に、この話のいちばん厄介なところを書いておきたい。

蛇使い教会は、もう百十年以上続いている。創始者とされる男は自分の教えで死んだ。有名な牧師が何人も死んだ。夫婦揃って死んだ例もある。六つの州が法律で禁じ、最高裁が二度にわたって信教の自由の主張を退けた。

教団本部は全部逃げた。テレビに出れば蛇を押収されたのである。

それでも消えない。なぜか。

第一に、彼らの読み方の内部では、やめる理由が一つも生じないからだ。

これはくだらない指摘に見えるかもしれないが、実は決定的だと思う。外部から来る反証は、すべて内部の論理で処理できるようにできている。噛まれなければ神が守った。噛まれれば人間がアノインティングを読み違えた。死ねば、その人の時が来たのだ。

法律で禁じられれば、それは信仰が本物である証拠になる。世間に嘲笑されれば、それも証拠になる。

聖書学者が「その二行は後世の加筆です」と告げても、彼らの判断基準の中にはテキストの外側の権威を置く場所がない。

反証不可能な体系は、非常に壊れにくい。

第二に、この儀式が実際に強烈だからだ。

信徒の証言に共通するのは、単なる恐怖でも興奮でもない。時間と場所の感覚が落ちる。自分が消えていく。そして、言葉にならないほど良い感覚が残る。デニス・コビントンは「消えるという行為には力がある。

自己の喪失には勝利がある」と書いた。シェルビー・ノーランは「ドラッグだと最初の一発が一番強くて、あとは追いかけるだけだ。神のほうはいつも同じ強さで来る」と言った。

薬物依存から立ち直った若者がこの教会に流れ込むのには、たぶん理由がある。

フッドは、この儀式の力を象徴の水準で説明する。キリスト教の中心的な物語は死と復活だ。蛇はその象徴であると同時に、死ぬ確率そのもの、つまり記号でもある。象徴と記号がひとつの行為の中で重なり、しかも成功するたびに、死が実際に一度ずつ乗り越えられる。

外部の人間は、蛇の危険性が彼らの意識の中心にあることを、しばしば見落とす。彼らは蛇を安全なものとして扱っているのではない。危険なものとして扱っている。だからこそ意味がある。

第三に、土地の問題がある。

キンブローの説を厳密に検証するのは難しい。だが、事実として、この信仰は炭鉱と貧困と過疎の地図の上にきれいに載っている。ベル郡の四十五パーセントが貧困線以下で、就労年齢人口の六割に仕事がない。ジョーロの人口の五分の四は流出した。

こういう土地で、教会は共同体そのものだ。祈りの依頼が回覧板のように読み上げられる。「ババ・ボビーが入院した。おぼえておいてくれ」「腸の調子が悪い。火曜に医者へ行く。

祈ってくれ」「娘のために祈ってくれ。あの子はまともに生きていない。この前、刑務官に殴りかかった」。

そういう場所で、外の世界から「後進的だ」「無知だ」「ヒルビリーだ」と言われ続けてきた人々が、世界中の誰にも真似できないことをやっている。この誇りの構造を無視して、この現象は説明できないと思う。信徒の一人が説教の中でこう言っている。「世間は俺たちを何も知らないヒルビリーの群れだと思っている。神の言うことを聞くやり方のせいで、俺たちが遅れていると思っている」

そしてもうひとつ。

これは、死を選ぶ自由という問題に、アメリカ社会が本気で向き合わされた数少ない事例なのだ。

テネシー州最高裁は1975年に、「同意していれば構わない」という控訴審の逃げ道を潰した。本人が納得していても駄目だ、と。理屈はこうだ。個人の生命と健康を守ることは、州の正当な利益である。だから禁じられる。

一方で、彼らの側の主張も、実は単純ではない。彼らは死にたいのではない。むしろ逆で、永遠の生命を求めている。従順であることが救いの条件であり、従順には蛇が含まれている。危険は目的ではなく、条件なのだ。

だから「自殺」と呼ぶのは、外側からの命名だ。1955年、カルフーン郡の判事はヘンズリーの死を自殺と記録した。彼の信徒たちは葬儀のあとに集まって、これからも続けると宣言した。名前のつけ方が食い違ったまま、七十年が過ぎたのである。

いま起きている変化は、彼らの歴史の中でおそらく最大のものだ。

救急車を呼ぶ蛇使い、というものが現れた。血清を打たれて生き延びた牧師が、また講壇に立っている。フッドはそれを見て、「結果について医者にかかってよいのなら、この高リスク行動にどんな意味が残るのか」と問うた。

私は、この問いに答えが出ないほうに賭けたい。

救急車を呼ぶようになった教会は、それでも蛇を出し続けるだろう。矛盾を抱えたまま、規模を縮めながら、どこかの谷の奥で続くだろう。その矛盾は、彼らを弱くするかもしれないし、逆に、この信仰が生き延びるための唯一の道かもしれない。

ただ、ひとつだけはっきりしていることがある。

ジェイミー・クーツが自宅の床に横たわっていたあの夜、救急隊は四十分そこにいた。血清は車の中にあった。二時間以内に打てば、たいていは助かる。

そして妻が、書面に署名した。

あの署名を、外の人間は悲劇と呼ぶ。彼らは従順と呼ぶ。

その二つの言葉の距離が、この百年の全部である。

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