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アパラチアのヘビ使い教会――聖句の読み方、治療拒否と救急を選ぶ人々

治療を拒んだ牧師の死と、教会を継いだ息子

二〇一四年二月十五日の礼拝でヘビに噛まれ、治療を拒んで自宅で亡くなったと報じられた牧師が、ジェイミー・クーツだった。ケンタッキー州ミドルズボロ、人口約一万人の町。カンバーランド・ギャップに近い、古い建物を改装した教会の出来事から、この信仰をたどってみたい。

エレキギターやドラム、タンバリンの音に、異言、祈り、証し、献金が続く礼拝は、当時の取材にも描かれている。音楽のなか、講壇の足元に並ぶ木箱。南部のほかのペンテコステ派にも重なる光景へ、その箱が加わると、ずいぶん違う礼拝になるわけだ。

箱の中にいるのは、ガラガラヘビだった。それを取り上げる行為が、神を信じる者に伴うしるしとされる。ジェイミーは当時四十二歳。ヘビを扱う牧師として、テレビ番組にも登場した人物だ。

二〇一四年二月二十六日付のエーピー配信記事は、祖父が始めた教会を継いだジェイミーを、三代目の牧師として紹介した。一九七八年創設と伝えられる、家族の教会。彼の先には成人した息子もいて、ヘビを取り上げる信仰は、一人の牧師の代だけで終わる話ではなかった。

当夜、箱から取り出したのは三匹のヘビ。クーツは二十二年で九回噛まれ、一九九八年には右手の中指の先を失ったと、繰り返し扱ってきた経歴が紹介される。長く続けられた経験が、次の一咬みの安全まで保証するわけじゃないんだよな。

この夜のヘビは、体長七十五センチほどのティンバー・ラトルスネークだったとされる。噛まれたのは右手の甲、親指の付け根近くだ。牧師がこれまでにも扱ってきた毒蛇である。その一咬みが、礼拝の続きを変えた。

落としたヘビを拾い上げ、礼拝を続けたクーツは、その後、便所へ向かったと伝えられる。肩を貸したのは、同じようにヘビを扱う友人の牧師アンドルー・ハンブリン。そこで横になり、意識を失ったという経過だった。

午後八時半の救急要請を受け、隊員は教会から一、二キロ離れた自宅へ回り、四十分近く搬送を説得したという。引き上げたのは九時十分ごろ。車内には血清があったとも記され、細かな時刻や装備とともに、搬送が実現しなかった夜として伝えられてきた。

家族は搬送を断り、妻リンダが治療拒否の書面へ署名したとされるが、その記述だけで、妻がどんな迷いを抱えたかまでは分からない。祈りへ委ねようとする家族の判断。救急隊が求めた医療との隔たりは、この後の教会の歩みを読む時にも残るものだと思う。

戻ってきた救急隊が死亡を確認したのは、一時間ほどして再通報を受けた後だったと伝えられる。咬傷からは、一時間半から二時間ほどだという。自宅での死は当時の報道にも出てくるが、その時間を、毒蛇に噛まれても待てる猶予へ置き換えないでほしい。

事件性はなく、訴追もなかったという警察対応の紹介。広報担当者は、宗教上の信念による治療拒否を死へ結びつけて説明したとされる。捜査での説明と検死の医学的な死因は別であり、宗教や家族そのものが法的な死因とされた、という意味ではない。

コーディ、当時二十一歳。父と何十匹もヘビを扱い、子どものころから咬傷と回復を見てきた息子は、次の週も父が講壇へ戻ると思ったと振り返る。父の死を読む時には、何度も回復を見てきた息子の話も聞いてほしい。

腕が紫色に腫れ、水疱ができ、指先を失った時も父は戻ったので、息子はそばで祈れば次の水曜も説教すると思ったという。この夜は、戻らなかった。通夜の後には若者たちが教会へ帰り、ヘビを取り出したという話が残っている。

コーディは、葬儀場では法律に触れるので扱わなかったと話し、父は棺の上でヘビを取り上げてほしいと望んでいた、とも伝えた。葬儀にも続く、信仰のしるし。もちろん当時の回想であって、今の葬儀場で許される行為を示す案内とは違う。

父の教会を成人したコーディが継いだことは当時の報道にもあり、一週間後、二十一歳で牧師になったと紹介される。残って教会を担う息子の姿。父子を同じ家系として並べる時にも、亡くなった父と、後に医療を選ぶ息子の違いを見てほしい。

しるしに従う者たち、と呼ばれる教会の一部が、この実践を続けてきた。百二十五教会、信徒数千人という推計も紹介されているが、時期や調べた範囲によって数は違う。核になる聖句は、マルコ福音書の十六章だ。同じ文章を信じても、その受け取り方まで一つとは限らない。

マルコ福音書の長い結びをどう読むか

マルコ福音書十六章十七、十八節の、信じる者に伴うしるし。ヘビを扱う教会が重く見るのはキング・ジェームズ版、いわゆる欽定訳で、読むだけでなく、そのとおりに従う姿勢だ。聖句を身体の行為へ結びつけた時、ほかの教会とは違う礼拝になる。

五つのしるしとは、悪霊を追い出すこと、新しい言葉を語ること、ヘビを取り上げること、毒を飲むこと、病人へ手を置いて癒やすことだ。異言や按手の祈りは、ほかのペンテコステ派にもある。違いが大きく表れるのは、ヘビと毒をどう読むか、というところになる。

ヘビや毒の箇所を比喩と読む立場がある。万一そのような目に遭っても守られる、という約束として受け取る人もいる。それを自分で実行する教会もある。同じ聖句があるからといって、どの教会も同じ礼拝をするわけではない。

欽定訳の助動詞を、信じるならそうする、という促しとして読み、五つ全部を行為へ移す教会がアパラチアの一部にある。三つだけ実行するのは、なぜか。そんな疑問から、二つを比喩へ変える読みを選ばず、ヘビと毒も切り離せないものになるのだという。

信じることと従うことを別々にできない読み方を、欽定訳への信頼も支えている。正直、外からの説明とは話がかみ合いにくいところだ。助動詞をどう読むかで身体の安全が決まるわけではなく、文章がいつ成立したかという、もう一つの問題もある。

米国カトリック司教協議会の注釈は、十六章九から二十節の長い結びを、別の書き手に由来する文章と説明している。二世紀の引用にも触れ、同時に教会伝統では正典として受け入れられたことを記す。後から成立したという説明と、聖書として大切にされてきたこと。その二つが、この箇所には重なっている。

二十世紀初頭のアパラチアで広がった運動。聖句の成立年代とは別であり、長い結びの成立を知るだけで、すべての実践の始まりまで決まるわけではない。文章の歴史と、それを読んで行動した人々の歴史が重なっているんだよな。

心理学者ラルフ・フッドは、こうした信仰を内テキスト的原理主義という考え方で説明した。写本学や歴史学など、本文の外にある知識より、聖書を聖書で読む筋道を重く見るという整理だ。注釈付き聖書や学者の説明に触れても、手元の聖句へ従う姿勢が残る。単に何も知らない、では捉えきれない。

自分の聖書に書いてあるから、自分はそうするという読みは、外から頑なに見えても、内側では信仰を通す筋になる。危険があっても、変わらない読み方。百年間の死者を七十人から百人とする推計が語られてきたなかでも、その筋へ従った人々がいた。

ただ、この推計は、一人ずつの死を同じ条件で数えた死亡率ではない。何年の、どの地域の、どの行為まで含めたのかで、人数は変わりうる。聖句の二行だけが人を死なせた、と単純には言えない。危険な動物、医療への判断、家族と教会の関わりも、その間にある。

ヘンズリーに集まった起源譚と、揺れる年次

一八八一年五月二日生まれとされるヘンズリーには、出生地をバージニア州スコット郡とする説明がある。西バージニアやテネシーを記す後年の書類もあるらしい。生まれにも揺れのあるジョージ・ウェント・ヘンズリーという人物へ、この運動の始まりが結びついてきた。

伝記では、ヘンズリーは読み書きができず、鉱山や義兄の材木仕事を手伝い、密造酒も作ったとされる。一九〇一年にアマンダ・ウィニンジャーと結婚し、テネシー州ウールテワの農場へ移った。住まいは小屋だったという。これは彼個人の来歴であって、山間部の暮らしを一括りにする話ではない。

巡回伝道者の十代の息子が導くホーリネス・ペンテコステ派の集会で回心し、酒やタバコ、世俗の友人を捨てたという伝記の筋。そこで読まれたマルコ十六章が、転機になる。異言、按手、悪霊追い出しの三つだけで終わる礼拝を前に、彼は残る二つへ目を向けたのだという。

起源譚の舞台は、ウールテワ近くのホワイト・オーク・マウンテン、通称レインボー・ロック。聖句の意味を神に問うため登ったヘンズリーは、現れたヘビを素手でつかんでも噛まれず、麻袋で集会へ持ち帰ったという。信仰の始まりとして、何度も語られてきた場面だ。

その話では、ヘンズリーは聖句を読み、会衆にも実践を促した。ところが年次は一定しない。一九三六年のタンパ紙では一九一三年、二年後の別紙では一九一一年、一九四五年のチャタヌーガ紙では一九一〇年と紹介される。百科事典には一九〇九年説もあり、一つの年へすんなり収まらない。

そもそも、ヘンズリーが最初なのか。キンブローやフッドは、一人だけを創始者とする見方に慎重で、ほかの土地にも似た実践の集団が現れていることへ目を向ける。一人が始め、全員へ伝えたと考えるより、少しややこしい始まりだったらしい。

比較例の一つが、一九〇九年のカンザス州ハッチンソンの報道だ。そこにも、ヘビを扱う集団の紹介がある。同じ時期に、別の土地でも聖句が行為へ結びついていた。広めた人物の功績と、最初の一人だったかという問いは、分けて考えられる。

ハッチンソンには、キリストの従者を名乗ってマルコを根拠にした集団の紹介があり、サンド・マウンテンのジェームズ・ミラーやオザークの例も挙がる。ヘンズリーを知らずに始めた、という説明だ。同じ聖句を文字どおり読んだ人が、別々に似た結論へ至ったのかもしれない。

独立した発生か、どこかでつながった伝道か。岩の上の出来事へ集めれば分かりやすい物語になるが、その外にも教会があったことは、起源を考えるうえで残る問いだ。起源譚と運動の全体は、ぴったり同じ大きさにはならない。

彼が大きな役割を担ったのは、当時の主流派教団の内部で実践を広めたことだ。一九一四年九月十二日付の教団誌『チャーチ・オブ・ゴッド・エヴァンジェル』には、クリーブランドの幕屋での集会が紹介された。八月最終土曜から続く集会で、二度ヘビが取り上げられたという。小さな匿名記事も、教団との関係を伝える手がかりになる。

一般紙も取り上げて地域的な有名人となった彼を、総監督エー・ジェイ・トムリンソンは擁護したが、自ら扱った記録とは区別される。教団内部とのつながり。一九一五年の免許申請は妻が代筆し、一九一七年に試験、一九一九年に更新と、制度の外だけにいた人物ではなかった。

教団を離れたのは、一九二二年か二三年とされる。理由には家庭内の問題が挙げられ、生涯に四度結婚し、十三人の子を持ったとも伝えられる。最初の三人の妻は、酒癖や放浪、収入のなさを離婚理由にしたという。その私生活を評するだけでは、教団が実践を受け入れ、後に離した経緯は見えてこない。

密造酒で逮捕され、労役場から逃れて州外へ出たという禁酒法時代の来歴。チャーチ・オブ・ゴッドがヘビから距離を取り始めたのも、一九二〇年代だった。一九二八年の総会で正式に否認したとされ、個人の離脱と教団の方向転換が、近い時期に重なっている。

教団が社会的な体面を求め始めた時期、と研究では説明される。大きくなりたい組織にとって、命に関わる儀礼をどう扱うかは重い問題だった。だからといって、ヘンズリー一人の退団がすべてを変えたとは限らない。個人の経歴と、組織の変化が交差している。

小さな独立教会へ移った後、名にはウィズ・サインズ・フォロウイング、しるしの伴う、という言葉が使われるようになった。仲間の実践を示す、教会の名前。でも毎回必ず箱が開くわけではなく、祈りと音楽だけで終えた礼拝も伝えられている。

取材に描かれた礼拝と、箱の中のヘビ

記者や研究者が残した取材には、建物や服装、音楽、手製の箱がそれぞれ登場し、過去の礼拝の姿を伝えている。教会ごとに違う、一晩の進み方。これからたどる場面も、どこでも同じことが起きたように重ねず、各記録の教会の話として読んでほしい。

ラフォレットのタバナクル教会は、窓のないコンクリートの建物として描かれる。外壁のレンガが剥がれ、砂利道に手描きの看板が立っていたという。看板にあるのは牧師ハンブリンの名と、金曜七時半、日曜一時の時刻。当時の取材が切り取った教会の姿で、現在の開催案内ではない。

西バージニア州ジョーロのチャーチ・オブ・ザ・ロード・ジーザスは、谷底へ落ちる崖のそばの細い土地に建つ、白い長方形の建物だ。もとはガソリンスタンドだった、という教会もある。アラバマ州スコッツボロのグレン・サマーフォードの教会がそれだった。

中へ入ると、講壇の後ろの壁には手書きの紙が貼られ、ジョーロの教会が守る規則を示していたという。噂話や嘘を禁じる言葉。ヘビを取り上げるしるしだけでなく、普段から何をしてはいけないかを記すものだった。

陰口を叩くな。汚い言葉を使うな。タバコを吸うな。女は髪を切るな、装身具をつけるな、化粧をするな。男は長髪、口ひげ、あごひげを禁ずる。

指輪も腕時計も駄目だという教会が多い。結婚指輪もだ。信徒同士は「聖なる口づけ」で挨拶する。

床には木の箱が置かれている。蝶番と留め金がついた、手製の平べったい箱だ。テネシー州ニューポートのエドウィナ・チャーチ・オブ・ゴッドの牧師ジミー・モローは、箱作りを趣味にし、ヘビの人形も作ると紹介される。箱は運搬用で、普段ヘビは小屋のケージやテラリウムで飼われ、週に一度くらい生きたネズミを与えられる。

中身は、ほとんどが地元の山で自分たちが捕まえてきたものだ。ティンバー・ラトルスネーク、ケインブレイク・ラトルスネーク、たまにダイヤガラガラヘビ、コットンマウス、カッパーヘッド。元の取材で挙げられたのは、サウスカロライナの爬虫類即売会で買った外来種。コブラやアジアのクサリヘビを持ち込む者まで出てきた。

額に塗るオリーブ油や火の道具とともに、ストリキニーネを飲む実践が取材に登場し、日用品の瓶が宗教的な道具になる。講壇へ並ぶ、暮らしにある物。ただ呼び名を変えても毒の危険が消えるわけではなく、その点は分けて見てほしい。

ストリキニーネ入りの瓶を、救いのカクテルと呼ぶという紹介もある。礼拝の前には、牧師が扱う人の責任について断りを入れることがあった。ジョーロのボブ・エルキンスの口上も、その一例だ。始まりの祈りと、危険を引き受ける言葉が並んでいる。

新しいヘビであること、噛まれても教会は責任を負わず、自分の責任で取り上げること。口上は、そうした趣旨だったと伝えられる。その後に、皆で祈るよう促す。本人が責任を引き受けると言っても、それだけで法律上の免責になるわけではない。

祈りの合図に信徒は膝をつき、目を閉じ、あごの下で手を組んで長椅子へ肘を置いたと、取材は伝える。何人もの声が、同時に響く。一人ずつの静かな祈りとは違い、重なった声から音楽へ移っていく光景だった。

この音楽は、外から抱く陰気な儀式の想像とかなり違う。取材が伝えるのは、活気のあるゴスペルだ。声も手拍子も加わり、床を踏み鳴らす。ヘビの箱だけに目を向けると、礼拝の大きな部分を占める音が抜けてしまう。

ロカビリーを思わせる曲調に、エレキギターやドラム、タンバリン、ときにはピアノが加わり、速いブルース調のゴスペルが続く。重なっていく、会衆の足音。正直、箱だけ見ていては取りこぼすほど、音楽はその前から礼拝を動かしている。

歌には、ヘビ使いと呼ばれても、聖く生きることを誇りにする趣旨のものがある。頭がおかしいと評されても構わない、という外への応答も含まれる。危険な行為を見せるだけの集まりではないと、自分たちの言葉で歌うのだ。信徒の暮らし方への誇りが、音楽のなかにも出てくる。

一時間近く、ただ音楽が続くこともある。額はオリーブ油で光り、異言のつぶやきが床を這い、ハレルヤの叫びが天井に当たる。腕を広げる者、その場で前後に揺れる者、目を閉じてくるくると回りはじめる者。やがて何人かが飛び跳ねる。

神の霊が自分に働いているという受け止めを、信徒はアノインティング、油注ぎが降りていると表現する。音楽と重なる、身体の感覚。そのなかで箱へ向かう人が現れるので、ただ順番が来たから手を伸ばす、という進行とは違ってくる。

誰かが箱のほうへ踊り寄る。留め金を外し、蓋を開け、手を入れる。出てきたときには、ガラガラヘビを握っている。

箱へ誰も触れずに礼拝が終わり、見物に来た人が期待した場面を見ずに帰った夜も、記録には残る。牧師が次の演目として紹介するわけじゃない。ヘビが出るかどうかだけを目当てにすれば、礼拝が何を待つ場なのかを見失うかもしれない。

出す日は、こうなる。男たちが肩を組んで輪になり、擦り足で踊りながら講壇の小さな壇上を織るように動く。ヘビは手から手へ渡される。空中でゆっくり振られる。首に巻きつける者がいる。

頭の上に載せて冠のようにする者がいる。ジョーロのデューイ・チェイフィンは、六匹ほどのガラガラヘビを束にして頭の上でバランスを取り、それを別の男に渡した。渡された男は、その塊をタオル代わりに使って顔の汗を拭った。

火を扱う、ファイア・ハンドリングも行われる。ラフォレットでは、十代のタイラー・エバンズの例が紹介された。ヘビを扱う家系が五世代続き、本人は火傷を負わなかったと伝えられる。ただ、その一例を見て、同じことをしても安全だとは考えられない。

その後、彼はストリキニーネ入りのメイソンジャーをあおったという。咳をしなかったとも記される。これはその場の振る舞いを伝える描写だ。目立った反応が見えないことと、身体に害がないことは同じではない。

信徒の側には、関節が動かなくなる感じを語りながら、神に守られるなら痛めつけられないと受け取る説明もある。痛みを、信仰やしるしの読み方へ結びつけるのだ。本人がどう感じたかという語りは残る。でも、それは毒の作用を打ち消せるという医学上の説明ではない。

一九六七年の『ホーリー・ゴースト・ピープル』は、ピーター・エイデアがゴーリー・ブリッジ近くの教会を撮った作品だ。五十三分のドキュメンタリー。場所はスクラブル・クリークへ置き換えられ、紹介されてきた終盤にも音楽とヘビの関わりが残っている。

映画の紹介では、音楽と手拍子が高まるなか、一人の男が倒れる。倒れた理由そのものは、その描写だけでは決まらない。続くのは、祈りや証し、献金の時間だ。牧師がヘビを持ったまま献金を促す場面も、そこにあるという。

終盤では、そのヘビが牧師の手を噛むと紹介される。最後に残るのは、腫れた手の映像だ。音楽や祈りが続く場面と、身体に残る傷が同じ作品のなかにある。信徒が語る守りと、画面に写る咬傷の隔たりが、ここにも表れている。

アノインティングという、信徒の身体感覚

いつでも取り上げてよいわけではないと語る信徒の理解には、アノインティングという言葉が欠かせず、神から来る感覚が時を選ぶ理由になる。自分の都合とは違う、取り上げる時。その感覚を信じることと、身体の安全を外から評価することの隔たりも、考えてみてほしい。

フッドとダブリュー・ポール・ウィリアムソンの共著『ゼム・ザット・ビリーブ』は、二〇〇八年に刊行された。十五年かけて六州を回り、何百回もの礼拝と聞き取りを重ねた仕事として紹介される。対象はアラバマ、ジョージア、テネシー、ケンタッキー、ノース・カロライナ、西バージニアだ。研究では、取り上げる根拠が二つに整理されている。

一つは、信仰によって取るという立場だ。マルコに書かれているから従い、結果も神の御心として受け止める。何も感じなくても取り上げられると信じ、噛まれたら、その時も同じ信仰で耐えるという。感覚が来たかどうかより、聖句へ従うことが先にある。

取り上げる時だけ信じ、傷を負った後に降りることはできず、障害や死も御心へ委ねる、とこの立場の人は受け取る。信仰の筋では、一続きだ。でも、医療を受けず耐えれば傷が安全に治る、という身体についての説明ではない。

もう一つは、アノインティングによって取るという立場だ。研究で多数派として紹介されたのは、こちらだった。先に神からの働きかけを感じ、その時に取り上げる。人が自分の都合で箱へ向かうのとは違う、と信徒は説明する。

神が自分の上に動いている、という感覚。体のどこかに来る。頭の毛が逆立つ、と表現する人もいる。腹の中がざわつく、と言う人もいる。

電気が走るようだとも表現し、神に自分の制御を引き取られた感覚を、証言の共通点として研究は紹介する。神の声が指示として聞こえる人もいるという。外からの言い方へ単純に置き換えにくい、本人たちの身体感覚。

ウィリアムソンたちが十一人の信徒の語りを現象学的に分析した結果はこうだ。まず神が動くのを感じる。次に制御を明け渡す感覚が来る。そこに「守られている」という強烈な確信と、「今この瞬間、神の意志を行うのに十分な力が与えられている」という感覚が重なる。その意志とは、ヘビを取り上げることだ。

周囲から引き剥がされていくような感じになる。時間も場所も日付も意識から落ちる。それでいて、近くにいる人との間には何かが流れている。言葉にならないほど良い感覚が、始まりから終わりまで続き、アノインティングが去ったあともしばらく残る。

コーディは、穏やかでぼんやりし、神を近くに感じる状態として説明したという。父と四輪バギーで山へ入り、岩や倒木の下でヘビを探す時には、強い興奮があった。でも、教会で取り上げる時には、その興奮は感じないという。本人にとって、山でのヘビ捕りと礼拝の身体感覚は違っていた。

外からは同じスリルに見えても、本人たちは違いを語る。取材当時二十一歳のシェルビー・ノーランは、穏やかな時と、電気や腹のざわつきに似る時の両方を挙げた。危機さえ気にならなくなるような感覚も語ったという。一つの言い方へ収まらないのも、その証言の特徴だ。

ノーランは十五歳で父を亡くした後、酒や薬物へ頼って高校を中退し、伯母に誘われた教会で薬物を断ったという来歴を持つ。扱い始めたのは、十八歳。これは一人の人生と信仰の結びつきであり、教会だけで依存を治せるという話へは広げられない。

ノーランは、薬物の最初の強い刺激を追う経験と、毎回同じ強さで来るという神の力を対比した。頭や腕の毛が立つ、説明しにくい感覚だという。これは本人が体験を伝える比喩だ。アノインティングがない時は危険だと受け止める説明も、こうした身体感覚への信頼とつながっている。

彼らはよく旧約の「垣根を破る者は蛇に噛まれる」という句を引く。垣根とは聖霊のことだ、と説明する信徒がいた。神が垣根を巡らせてくれていて、それがそこにある間は噛まれない。だが垣根は破れうる。

だから、噛まれたときの説明も体系化されている。研究者が整理したところでは、おおむね四つの理由がある。日常生活の罪への罰である。ヘビが細工されていない本物だと不信者に示すためである。噛まれた本人と周囲の信仰を試すためだ。

神の癒やす力を見せるためという説明もあり、さらに頻繁に出てくるのが、アノインティングを取り違えたという受け止めだ。神からの働きかけは、あった。人間の側が何をすべきか読み違えたとすれば、噛まれたことも信仰の否定にはならないという筋になる。

自分に降りていたのは確かに聖霊だった。だが、それはヘビを取り上げるためのものではなく、別のしるし、たとえば病人に手を置くためのアノインティングだったのに、自分が勝手に箱へ向かった。あるいは、取り上げた瞬間には垣根があったが、途中で神がそれを引いたのだ。

この論理は、とてもよくできている。どう転んでも信仰が反証されないからだ。噛まれなければ神が守った。噛まれれば人間が読み違えた。死ねば神の御心だったのだ。

フッドたちが強調するのは、信徒が神を試す行為と神に従う行為を分け、自分たちは従うだけだと受け止めている点だ。試すのは、不信仰。危険が同じように見えても、本人たちには死活的に違う区別になるので、そこを外して読むと分からなくなるんだよな。

この区別は、信徒にとって死活的に重い。ジョーロの女性長老も、礼拝から生きて帰れるか分からないという覚悟を語ったと伝えられる。危険を知らずに集まっている、という話ではない。知りながら従うところに、外から見た理解との隔たりがある。

教会の分布と、取材時点の町の暮らし

ウィリアムソンは、東テネシーから南アパラチアへ広がった、統一した上位組織のない運動として紹介している。大きな教団本部が、全教会の名簿や決まりを管理しているわけではない。炭鉱町との関わりは深いが、そこにしか存在しない、とまでは言えない。人が移れば、信仰も土地の外へ運ばれる。

分布として挙げられるのは、テネシー、ケンタッキー、西バージニア、バージニア、ノース・カロライナ、ジョージア、アラバマだ。オハイオやインディアナの例もある。二十世紀半ば、山から工業都市へ出稼ぎに向かった人々が持ち運んだと説明される。南部を中心としながら、移動の歴史ともつながっている。

教会数は四十から百二十五、信徒数千人、全体の〇・〇〇五パーセント程度とも紹介されるが、調査の年や範囲はそろっていない。幅のある、過去の推計。過去二十年という表現も、その資料の時点から数えた窓であり、現在の総数へそのまま置き換えることはできない。

世界へ広がったペンテコステ運動のなかでは、かなり小さな実践になる。ラテンアメリカ、アフリカ、アジアにも、異言や癒やしを重んじる教会はある。ヘビを扱う運動は、それに比べれば地域が限られてきた。ただ、出稼ぎ先にも教会がある以上、南部から一歩も出ていない、という言い方は合わない。

ミドルズボロを含むベル郡には、厳しい暮らしを伝える地域紹介がある。大学卒一割に対して全米は三分の一、高校卒三分の二に対して全米は九割弱という数字だ。貧困線以下四十五パーセント、就労年齢の六割が無職とも記される。年代と分母がそろわない値を、今の一人ひとりの学歴や所得へ当てはめることはできない。

ベル郡では、オピオイドやメタンフェタミンの広がりも語られる。ジョーロは、一九六〇年代に炭層が減り、引退した鉱夫とトレーラーハウスの町になったと紹介された。軽食店と酒場が各一軒、人口約千二百人、スリー・フォークス・ロードの教会。これらは、当時の取材が伝えた町の姿だ。

1950年代から70年代にかけて、この教会は人であふれ、入れない人が外の窓から覗いたという。その後、郡の人口の五分の四が流出した。ラフォレット近郊では、高校未卒が三分の一近く、世帯収入の中央値が州平均より三割低いという値が紹介されていた。

取材には、炭鉱の仕事へ期待し、トレーラーハウスで暮らす人々が登場するが、郡の統計が信徒個人の暮らしと同じになるわけではない。仕事の減少と、若い世代の移動。小さな教会を囲む環境はあっても、貧しいから信じるの一言では、その人の理由は分からないんだよな。

集まるのは、二十人か三十人ほどの小さな教会だ。長いスカートの祖母世代もいれば、薬物依存から立ち直った若者や、デニム、ラインストーン、白いブーツの女性もいる。九十マイル走って通ったミシェル・グレイは、過去を抱えた人が集まる教会だと説明したという。外からの一つの顔つきには、収まりにくい集まりだ。

グレイの十代の娘は、取材の日に初めてヘビを扱い、圧倒され、わくわくしたと話して、また来ると言ったとされる。一人の若者が入った、信仰の場。同じ実践への入り方も家族や教会で違い、一つの組織が全体を一律に決める形ではなかった。

中央組織も教団本部もなく、年会や総会で全体の方針を合わせる形でもない。細かな規則は、それぞれの教会が決める。子どもに扱わせないところもあれば、そうでないところもある。独立性は、外から数えにくい理由であると同時に、内側の違いが残る理由にもなる。

ラフォレットでは、十八歳未満と外来者に扱わせなかったと取材は伝える。教義上の違いも、ただ細かな作法の話ではない。分かれ目の一つは、洗礼の言葉だ。ケンタッキーの教会には、父と子と聖霊の名によって洗礼を施す例がある。

こちらは三位一体派、通称トリニティと呼ばれる。ジョージアやアラバマなど、南のほうにはイエスの名のみによって洗礼を施す教会がある。ワンネス・ペンテコステと呼ばれる立場だ。同じヘビを扱う教会という括りの内側にも、信仰の分岐がある。

教会名にも、違いが表れる例がある。三位一体派では、チャーチ・オブ・ゴッド・ウィズ・サインズ・フォロウイング。ワンネス派では、チャーチ・オブ・ロード・ジーザス・ウィズ・サインズ・フォロウイングだ。名の違いは、後に治療への向き合い方を読む手がかりにもなる。

キンブローは三位一体派に治療拒否が強く、ワンネス派には救急を呼ぶことに寛容な例があると説明し、自然の経過へ委ねる教えを挙げた。医師の力を認める読みもある。もちろん個々の牧師の対応は違うので、教会名だけで全員の判断まで決まるわけではない。

ヘンズリーの晩年について伝えられたこと

主流教団を離れた後も南部で伝道を続けたヘンズリーは、自分が広めた実践から最後まで離れず、その死も後の信徒に語られてきた。晩年へ、話を戻そう。教会を興して移動を重ねた人物の来歴は、やがてフロリダの集会へつながっていく。

1930年代以降の彼は、南部を転々としながら伝道を続けた。1932年にはケンタッキー州パインビルに移り、自分で教会を建てた。1943年には若い信奉者レイモンド・ヘイズがウールテワ近辺に現れる。

一九四五年、二人はテネシー州ハミルトン郡グラスホッパー・バレーで、ドリー・ポンド・チャーチ・オブ・ゴッド・ウィズ・サインズ・フォロウイングを興した。長い名の、小さな教会。二十年以上前にいた場所のすぐ近くへ戻るところにも、移動を続けた彼の歩みが表れている。

ヘンズリーは、生涯で四百回以上噛まれたと自称していた。数字は本人の申告であり、一件ずつ傷を集計した結果とは違う。それでも、自分を何度も噛まれてきた人として語ったことは分かる。回数の多さは、次の傷の安全や信仰の強さを証明するものではなかった。

一九五五年七月初旬、アルサ近郊で始めた連続集会では三週間ヘビを出さず、二十四日の日曜午後に一・五メートルほどの個体を持ち込んだという。廃業した鍛冶屋が、会場だった。数十人の集まりで、ヘンズリーは信仰について説教を始める。

ラードの缶から出したヘビを首へ巻き、顔へこすりつけて、会衆の間を歩きながら説教したと、その日の経過は伝えられる。話をやめない、牧師の姿。扱いを見せる時間と信仰を語る時間は、ここでも別々ではなかった。

説教を終え、ヘビを缶へ戻そうとしたところで、手首へ噛みつかれたとされる。激痛と腕の変色。血を吐くほどの悪化が、数分で始まったという。

会衆が病院へ行くよう懇願した。駆けつけたカルフーン郡の保安官も説得したのだ。ヘンズリーは拒んだ。

会衆の信仰の不足を苦しみの理由にしたという目撃談と、神の御心と受け止めた妻サリーの言葉が伝えられる。七月二十五日の未明だった。ヘンズリーは、その翌朝を迎えず、七十四歳で亡くなったとされる。

自ら毒蛇を扱って治療も拒んだ死を、カルフーン郡判事ハンナ・ガスキンは自殺と記録した、と伝えられる。妻サリーには、神の御心だった。行政の分類と信徒の理解では、同じ死にも違う言葉が与えられたわけだ。

葬儀にはテネシーから親族が来た。カントリーのバンドが演奏したのだ。彼は、噛まれた鍛冶屋から三キロほど離れた墓地に埋葬された。

葬儀後に集まった信徒が続けると宣言し、妻サリーも信仰は減っていないと記者へ語ったことが、回想には残る。広めた本人の死。その出来事を実践の失敗と受け取らない人々にとっては、やめる理由と同じにはならなかった。

外から見れば、創始者の死は教えへの大きな疑問になる。でも、信徒の論理では、従って死ぬことも御心へ委ねる筋のなかにある。噛まれなかった人だけが信仰を全うした、という理解ではない。だから本人の死と、運動の継続が並んで起きる。

同じ教会に残る、十年前の死亡例。一九四五年のドリー・ポンドの大規模な礼拝では、三十代のトラック運転手ルイス・フォードが噛まれたという。治療を拒み、報道陣の目の前で七十分後に亡くなった、と当時の経過は紹介される。

その葬儀で、六匹の生きたヘビが棺に入れられた。フォードの顔の上に置かれたという。そのうち一匹は、彼を噛んだヘビだった。

チャタヌーガ・ニューズ・フリー・プレスのジェイ・ビー・コリンズは、写真と聞き取りで一連の出来事を記録し、後に小冊子へまとめたという。死亡と葬儀を伝える、同時代の取材。外から事件を見るだけでなく、内側の信徒の言葉を残したところも、その記録の役割だった。

コリンズが記した信徒の説明には、強い力に満たされた人に撫でられると、ヘビがショックで死ぬというものまである。電気のような力、と語られたという。これは信徒が自分たちの力をどう理解したかという話だ。電気的な作用を実験で確かめた結果ではない。

信徒の説明と、動物が死んだ原因の証明は別になる。チャタヌーガの新聞社は、記事と写真を世界へ配信した。死亡が広く報じられ、各州で規制が問題となっていく時期と重なる。一つの配信だけが法律を生んだわけではないが、実践は教会の内側だけの話では済まなくなっていた。

信仰と危険な行為を、裁判所はどう分けたか

死亡が知られるなか、各州は規制を進めたが、宗教集会を名指す法律と、危険な方法での扱いを問う規定では対象も違っている。どこも同じ禁止、とは言いにくい。古い経緯を現在の許可へ読み替えず、何が問題になった争いかを、まず見てほしい。

ケンタッキーでは、一九四〇年に州議会が可決した法律が、知事の署名も拒否もないまま成立したとされる。宗教的な礼拝や集会に関わる、ヘビや爬虫類の展示、扱い、使用を禁じる内容だった。罰金は五十から百ドルと紹介される。宗教という場を明記したところに、特徴がある。

この規定は、毒のあるヘビだけを対象にしたわけではなかった。一九四二年のローソン対コモンウェルスでは、合憲性が争われた。裁判所は、有毒かどうかを素人が選別し、参加者の命を危険へさらす問題を挙げたという。熟練者や爬虫類学者が運営する場とは違う、という理由だった。

信仰による免疫を示すためにヘビを使った、という判決理由の説明では、守りのしるしへ危険そのものが入り込む。無害な物とは、違う。これは行為を評価した裁判所の筋道であって、全信徒が同じ動機で取り上げたと証明する説明ではない。

宗教的な確信と、行為の危険が、同じ場所で争われた。バージニアでは、一九四〇年代の死亡例の後、コルゲート・ダーデン知事が対応を進めた。一九四五年七月に司法長官と協議し、警察へ教会のヘビの押収を命じたと伝えられる。信徒側からは、信教の自由を侵すという抗議が出た。

当時は、毒蛇の扱いを禁じる専用法がないなかでの押収だったとされる。協議の内容自体は、公表されなかったという。危険を止めたい行政と、信仰の実践を守りたい教会の対立だ。その間にも、死亡をめぐる裁判が続いた。

一九四七年のカーク事件は、妻アンナが夫の扱うヘビに噛まれて亡くなり、夫の二年の有罪判決が陪審への説示を理由に覆ったとされる争いだ。妻の死と、夫への判決。起きたことと、法的な責任がどう判断されたかは、同じ一段階では決まらない。

一九四七年一月、バージニアでは危険な扱い方を禁じる法律が作られた。毒蛇などを、人の生命や健康を危険にさらす方法で展示し、扱うことが対象とされる。宗教を名指しする規定ではない。ヘビの存在をすべて禁じる話と、方法を規制する話には違いがある。

ケンタッキーと違って、宗教という語がどこにも出てこない。「危険な扱い方」を一般的に禁じる形にした。これを「公共危険アプローチ」という。

バージニアに続く翌月のテネシーでも、危険な扱い方を規制する似た内容の法律が作られ、後の裁判の争点になった。一九四七年公法第八十九章。罪の分類も条文も時代ごとにあり、この経緯だけを現在の法律案内として使えるわけではない。

一九四七年八月九日の礼拝で、十人が二匹のヘビを扱い、起訴された。一匹は成体のガラガラヘビだったという。有罪となった信徒が上訴し、翌一九四八年、テネシー州最高裁で争ったのがハーデン事件だ。本人の信仰と、周囲を含む危険をどう分けるかが問われた。

判決は、朗読や讃美歌がほかの教会と変わらないことを認めつつ、アノインティングを受けヘビを巻く行為を、危険なものと扱ったという。信徒には、誠実さのしるし。それでも身体への危険は残るという理由は、後のスワン判決でも参照される。

会場ではロープを張り、見張りを置いて観客を遠ざけていたとされる。それでも、一人がロープを越えたという。裁判所は安全策が十分ではなく、扱う本人も守れないと判断した。観客との距離を取るだけでは、実践そのものの危険はなくならない。

信教の自由をめぐる議論では、レイノルズ、デービス、キャントウェルなどの連邦最高裁判例が参照された。一八七八年の一夫多妻をめぐるレイノルズ判決も、その一つだ。信じる自由と、信じたとおりに行為する自由には区別がある。社会が生命と健康を守る権利も、同じ場で考えられた。

礼拝に毒蛇が必要と信じる内容は禁じなくても、実際の行為には、ほかの人の権利や生命、健康のため制限がありうるとされた。有罪が維持された、ハーデン事件。小さな宗教だから自由がない、という判断とは違う筋道になる。

ノース・カロライナでは、ダーラム市の条例も争われた。公衆の健康と安全を危険にさらす方法で、毒蛇を扱うことを規制する内容だ。ザイオン・タバナクル教会の信徒に各五十ドルの罰金が科され、合憲性が問われた。同じ実践でも、州法だけでなく市の規定が関わっている。

一九四九年のマッシー事件では、公衆へ危険が及ぶかどうかが分かれ目になったとされる。危険があれば、公的不法妨害に当たるという判断だ。公共の安全と、宗教的な実践の自由をどう調整するか。ここでも、ヘビを信仰へ結びつける内容と、実際の行為が区別される。

スワン事件は、一九七三年の大会と、牧師や長老への差し止めをめぐる争いだった。一審の命令を、控訴審は同意しない者への危険に限った。本人が同意していれば、扱ってもよいのか。一九七五年のテネシー州最高裁は、その限定を検討することになる。

スワン判決は、小さく非慣習的な宗教も軽く扱わないとしたうえで、当事者らへの差し止めから、成人の同意による限定を外した。危険な方法が、争点だった。専門家の扱いも区別しており、州内の全員へ、あらゆるヘビの扱いを禁じた判断ではない。

本人が同意するだけでこの事件の行為が許されたわけではないが、各州法や条例では対象も仕組みも違い、主要六州の禁止という説明にも幅がある。西バージニアには、別の経緯があった。小さな教会と州のやり取りは、そこでまた違う形を取る。

西バージニアでは、宗教的実践を妨げたり促進したりしないという州憲法の説明が、規制の議論に出てくる。一九六一年、ジョーロでコロンビア・ゲイ・チェイフィンが噛まれた。二十三歳で治療を拒み、四日後に両親の家で亡くなったという。幼い子を残した死が、州の外でも注目された。

一九六三年二月、州下院は扱いを軽罪とする法案を可決したと紹介されている。盛り込まれた罰金は百から五百ドル。娘を亡くしたバーバラは継続の意思を示し、信教の自由を求める支持もあったという。

法案は上院司法委員会で進まず、成立しなかったと伝えられる。二〇一二年の死亡後にも、当時の上院議長ジェフリー・ケスラーが規制を求めた。礼拝所を含む公の場での、危険動物の使用を対象にする案だったという。ここでも強い反対があり、規制を求める声と信教の自由の主張がぶつかった。

専用規制が成立しなかった経緯を背景に、レイバー・デーのジョーロのホームカミングへは、十一時間運転して来た人もいたという。各州から集まる、信徒たち。過去の話で現在のすべての行為が合法とは言えず、開催や入場は今の案内が優先される。

ほかの州で信徒の自宅へ礼拝を移した話もあり、法律で禁じられることと、実践がなくなることは同じではなかった。地下へ移る、集会の形。当局が必ず死者まで見逃すとも限らず、規定、執行、教会の継続はそれぞれ分けて読む必要がある。

治療を拒む理由と、医療の評価の違い

なぜ、噛まれた後にも治療を拒むのか。外から読む時、特に理解しにくいところだと思う。医療へ向かう信徒もいる一方、祈りへ委ねる立場には、癒やしまで一組で受け取る聖句の解釈がある。危険な動物を扱うことと、傷ついた時の判断が、教義のなかでつながっている。

ヘビを取り上げるのは、まだわかる。危険な行為を選ぶ自由という話だ。だが噛まれたあと、血清があるのに打たない。腕が壊死していくのを見ながら、部屋に座って祈る。指が黒くなって落ちるまで待つ。

マルコの五つのしるしの末尾には、病人へ手を置き、癒やすことがある。治療を拒む立場では、ヘビを扱い、噛まれた後に神へ癒やしを求めるところまでが一続きだ。前半で従い、後半だけ医師へ委ねるのは筋が通らない、と読む。信徒には、そのような理解があったという。

医師へ行けば最後のしるしへの信仰を離す、と受け取る考えに、人には定められた死の時があるという教えも重なる。時を先に置く、読み方だ。ジェフ・ハガーマンは、運転中でも礼拝中でも人と話す間でも同じだと語ったというから、外から聞けば戸惑うよね。

だから、こうなる。神が癒やすなら生きる。癒やさないなら、それが自分の時だったのだ。

ジェイミーも、ヘビに噛まれて死ぬことを望んでいるわけではないと語ったとされる。それでも、死ぬなら祈ってくれる人々に囲まれ、霊的な空気のなかにいたいという。死や治療への彼自身の受け止めだ。その言葉から、家族が死を望んだとか、信徒全員に自殺願望があると読むことはできない。

身体には、信仰の説明とは別の危険がある。米国の公的な労働安全衛生案内も、毒蛇の咬傷は重い損傷や死亡につながりうると注意を促している。症状が出るまで待たず、速やかに医療を受けることが勧められる。二時間以内なら助かる、六から四十八時間なら死ぬと、すべての咬傷に同じ境界を引くことはできない。

ドライバイトや飼育で弱った個体を、生存の理由へ結びつける説明はあるが、毒が注入されなかったかどうかは見た目だけでは決まらない。過去の無事は、次の保証でもない。丁重に扱えば安全だと考えるより、次の咬傷は別の結果になりうることを覚えておいてほしい。

死ななかった者の体には、記録が残る。ジョーロのレイ・マカリスターの右手は、何年も前のガラガラヘビの一咬みで、ねじれた鉤爪のような形に変形していた。その手で読み上げた、壁に貼られた教会の規則。チェイフィンの指が曲がったままだという描写と、黒くなった傷についての回想も紹介されていた。

ジェイミー・クーツは右手の中指を半分失った。1998年の咬傷で腕が紫色に腫れ、体中に水疱が出て、指先が壊死して落ちたのだ。それでも医者には行かなかった。

一九九五年には、クーツの教会で噛まれた女性が治療を拒み、彼の家で亡くなったと伝えられる。周りでは信徒が祈っていたという。後でたどるメリンダ・ブラウンの死も、同じ年、同じ教会の出来事だ。ここでは別の死亡例として重ねず、一つの記述に結びつく可能性を残しておく。

チェイフィンの妻ジェネバは、カトリックだった。結婚してから夫の教会に通おうとしたが、やめたのだ。夫が噛まれるのを見ていられなかったからだ。

ジェネバは、最初に夫が噛まれるのを見た時、教会を飛び出し、泣いたと取材で振り返っている。医師を呼ばずに見ているのはつらいか、と問われた。そのつらさを認めたという。教会の内側と外側という分け方だけでは、家族の立場は捉えきれない。

絡み合った二匹に夫が胸を二度噛まれた時が特につらく、二人とも死を予感したと、ジェネバは取材で振り返ったという。何もできない思い。それと愛情が増したように感じる揺れが並び、同じ家にいるから気持ちも一つ、ではなかったらしい。

取材で語られた経験と、家族や記録者の立場

何度も噛まれたと語った信徒

デューイ・チェイフィンは、ジョーロの元炭鉱夫だった。一九九二年に取材を受けた時は五十九歳で、身体に障害を負っていたと紹介される。母は、夫とジョーロの教会を築いたバーバラ・エルキンス。山に根を持つ一族の信仰と、本人の暮らしが重なっている。

三十二年か三十四年扱って百十五回噛まれ、一度も医師にかからず、痛い経験も多かったと、チェイフィンは取材で語ったという。本人の記憶にある傷。診療記録の集計とは違うが、咬傷の回数も自分の来歴として伝えていたのだ。

土曜の取材では、記者をカッパーストーン・マウンテンへ連れていったという。お気に入りのヘビ捕りの場所で、草むらにもいると話した。以前、一枚の岩の下にカッパーヘッドを二十三匹見たという回想もある。続くのは、その同行取材で描かれた場面だ。

まもなく彼は、岩の上でとぐろを巻いて動かない黒いガラガラヘビを見つけた。自作のヘビ鉤、片端を曲げたゴルフクラブで持ち上げようとして、うまくいかない。ヘビが滑り出そうとしたところを、彼は素手でつかんで麻袋に落とした。

大きくなくても人が死ぬことはある、と彼は説明したという。山を下りながら記者が楽しみ方の独特さに触れると、本人は楽しいと答えた。翌日、ジョーロの教会では、六匹のガラガラヘビを頭へ載せていた。山で捕り、教会で扱う、彼の生活の一部が取材に残っている。

自宅には、ガラガラヘビ、カッパーヘッド、ダイヤガラガラヘビ、コットンマウス、台湾のハブまで飼っていたとされる。小屋の臭いを嫌がる、母バーバラ。本人も臭うのは認めつつ、どうしようもないと答えたらしく、信仰の道具も家では世話する生き物だった。

取り上げる理由を聞かれると、チェイフィンは聖書へ従うためだと答えたという。ところが、噛まれた回数のほうは、取材の時期で変わる。一九八七年には百二回とされている。その数字まで信仰と同じように固定されていたわけではない。

一九八九年には百十六回、一九九二年には百十五回と語り、後の年のほうが少なくなっているので、同じ数え方では合わない。回数には、揺れがある。でも話の中心にある聖句へ従う理由は変わらないという対照が、なかなか印象に残るんだよな。

チェイフィンの姉妹コロンビアは1961年に、教会でガラガラヘビに噛まれて死んでいる。彼の母親は、娘を埋めたあとも教会を続けた。バーバラは咬傷よりつらいこともあると会衆へ述べた、と記されていた。

兄弟を止めようとした家族の語り

ジョーロの教会に、ジェフ・ハガーマンという二十五歳の信徒がいたのだ。ベルトのバックルに入れた、イエスの写真。彼には兄弟姉妹が十一人いて、全員がジェフを教会から引き剥がそうとしていた。

日曜には、姉シェリーの家へ一族が集まったという。下の子たちは庭でゴーカートやミニバイクを走らせ、上の子たちはポーチでジェフを話題にした。彼が教会でヘビを扱う間の、家族側の時間だ。当時の取材は、教会の外にも、その行為を心配する人々がいたことを伝えている。

愛する人が自分を傷つける姿は見たくないとシェリーは語り、別の兄弟がロシアンルーレットにたとえると、同意したという。失うかもしれない、家族の命。教会での信仰のしるしとは、ずいぶん違う重さで受け止めていた。

特に行動へ出たのは、兄スティーブンだった。彼は、手を伸ばしてヘビを拾う時の強い興奮なら分かるとも語る。噛まれるかもしれない、崖っぷちのような感覚だったという。弟の気持ちがまったく分からないわけではなくても、見ていられる限界があった。

ある日曜、ジェフがカッパーヘッドに両手を噛まれたと、兄は月曜の朝に聞いたという。スティーブンはすぐに向かい、担ぎ出そうとした。妻ナンシーには、戸口を開けて支えるよう頼んだ。兄にとっては、待たずに弟を運び出したい状況だった。

搬送を強く拒むジェフを無理に運ぶのはやめても、スティーブンは二度と起こさせないと決め、次の週末、弟二人と教会へ押し入ったという。外へ持ち出して殺したのは、教会のヘビすべて。弟の命を守りたい判断が、礼拝へ実力で介入する行為へ向かった。

会衆は警察を呼んだ。スティーブンはその後も週末ごとにヘビを持ち出し、そのたびに拘束されたと語っている。それでもジェフの教会への傾倒は弱まらず、かえって扱いたがるようになったという。効果がないと感じ、兄は持ち出しをやめた。

スティーブンは最終的に、ヘビ二匹の窃盗で起訴されたとされる。有罪なら二年から二十年に当たるという説明だったが、陪審は無罪とした。弟を教会から離せるなら、再び拘束されてもよいと、兄は語ったという。本人の信仰と、止めたい家族の判断は、ここでも一致しなかった。

死の場面を記録した写真家の紹介

二〇一一年のワシントン・ポスト・マガジンでウォルフォードを撮ったローレン・ポンドは、翌年も同じ牧師へカメラを向けた。目の前で弱っていく、取材相手。彼女の記録には、撮る側もその場で無関係ではいられないという、重い問いが残った。

二〇一二年五月、ポンドは再びウォルフォードを撮りに行った。そこで、その日の咬傷の後の姿を目にしたという。記事の書き出しに置かれたのは、親族宅のソファに横たわる牧師だった。後に死亡が伝えられる、その日の取材だ。

彼女の描写では、西バージニアのトレーラーハウスで、ウォルフォードが痛みに苦しんでいた。暑い室内で信徒が囲んで祈り、母親が足に触れていたという。写真に写る表情だけで、誰が何を受け入れたかまで決めることはできない。それでも、家族と記録者が同じ部屋にいた重さは残る。

ポンドは、カメラを置き、救急を呼ぶべきだったかという倫理の問題を考えた。記録することと、そこへ介入すること。その間で、取材者も無関係ではいられない。周囲が祈りながら電話をかけなかったという描写は、その問いを読者の側にも残す。

母親が足に触れていた、という細部が繰り返し心に残る。そこには、そばにいる家族の行為と、それを見ていた記録者がいる。全員が同じ結末を承知していたと、内心までそろえることはできない。止める人、祈る人、撮る人が、同じ死へ違う形で関わっていた。

ヘビを使った殺人未遂事件の紹介

妻の証言や検察の主張、後の本による解釈にはそれぞれ立場の違いがあるが、サマーフォード事件には、一九九二年の殺人未遂の有罪判決がある。ヘビが使われた、家庭内の暴力。文学上の解釈が揺れることを、裁判の結論が出ていない意味にはしないでほしい。

1991年10月4日、アラバマ州ジャクソン郡スコッツボロで、グレン・デール・サマーフォードが逮捕された。サンド・マウンテンの外れにある、廃業したガソリンスタンドを改装した教会の牧師だった。名はチャーチ・オブ・ジーザス・ウィズ・サインズ・フォロウイング。容疑は妻のダーリーンに毒蛇の箱へ手を入れさせ、二度噛ませたというものだった。

ダーリーンは三十六歳。搬送され、一時は危篤になった。グレンは四十六歳。保釈金は二万ドルに設定された。

一九九二年二月、スコッツボロで裁判が始まり、二日半で結審した。ダーリーンは、夫がケージをたたいた後、腕を入れるよう強いたと証言したとされる。顔を押し込むと脅されたという内容も、当時の報道に紹介される。妻が毒蛇へ自ら近づいた、という説明ではなかった。

ダーリーンは、夫が別の女性と結婚するため、自分に死を求めたとも証言したという。礼拝の危険を本人が受け入れる話とは、性質が違う。家庭内での強制と脅迫が、裁判では問題になった。ヘビを宗教に使う共同体のなかで、同じ生き物が妻への暴力の手段になったとされたのだ。

検察は、グレンがダーリーンを別の牧師との浮気で責めていたと主張した。ダーリーンはそれを否定した。証言に出てきた二十三歳の女性は、グレンと交際も社会的関係もないと否定したのだ。だが、検察側の証人は、その女性がサマーフォード家に何晩か泊まっていたと述べたのだ。

陪審は有罪とした。グレン・サマーフォードには過去に二件の重罪前科があり、常習犯加重の規定が適用された。量刑は九十九年。

二〇〇二年、刑務所作業場から逃走した後、ゴミ容器で見つかり、ポケットにはアラバマ北部三分の二の地図があったとされる。州外への道にも、印があった。本人は帰宅の道を覚えるためと説明したが、州側は九十九年刑の十年目でそれはおかしいと反論した。

逃走をめぐる裁判では、陪審が二分足らずで有罪を評決したとされる。加算された刑は三十年だった。妻への殺人未遂で出た九十九年と、その後の逃走への刑は別だ。一つの事件の結末を追っても、後年には別の裁判が重なっている。

二〇二〇年、二一年、二四年、二五年には、仮釈放の申請が却下されたと紹介される。二〇二五年時点で、九十九年のうち三分の二以上が残るとの報道もあった。八十歳を過ぎても服役しているという説明は、その時点のものだ。過去の記事の近況を、そのまま今日の所在へ置き換えることはできない。

この裁判を取材した記者の一人が、ニューヨーク・タイムズのために現地に入ったデニス・コビントンだった。コビントンはアラバマ州バーミンガム育ちで、彼自身の一族も二世代前にサンド・マウンテンから降りてきて製鉄所で働いた人々だったのだ。彼は裁判のあと、被告の教会のホームカミングに招かれる。そこから深まっていく、教会との関わり。

コビントンは二年ほど、教会の巡回集会を渡り歩いた。会衆の前で証しをし、自分でも大きなガラガラヘビを取り上げたという。その体験を書いた文章では、大きな音楽が遠のき、強く均質な光が空気を満たす。記者として入った人が、儀礼を行う側へ踏み込んだ記録だ。

音楽が遠のき、白い光へ自分が溶け、縮みながら失われると書いたコビントンの文章では、感覚が弱まるより強くなる。自分が消える、という体験だ。本人の言葉を一つの症状名に押し込めるより、何を伝えたかったかも読んでみてほしい。

最後まで残ったのは、光る鱗と、出口を探すように動くヘビの頭だったという。自己を失う感覚を、力や勝利、楽園、生まれる前や死後へ近づくものとして表した。彼の文章では、恐怖だけでは語れない没入が中心にある。楽園や死後の世界の比喩を、そこを実証した記録と読むわけではない。

この本『サルベーション・オン・サンド・マウンテン』は1995年に出て、全米図書賞の最終候補になった。チャールズ・マグロクリン、デイジー叔母、カール・ポーター兄弟、ギター弾きのセシル・エスリンダー、そして伝説的な説教者パンキン・ブラウン。登場人物はいずれも実在の人物で、多くは今も研究者の記録に名前が残っている。

コビントンは、キングストンの結婚式で信仰と自殺の境の細さを感じ、この世界から離れたと書いている。戻ったのは、バーミンガムの南部バプテスト教会だった。本には、著者へ注目が集まりすぎ、宗教の理解を十分に照らしていないという批評もあった。体験記の強さと、研究として何が分かるかは、別の評価になる。

記者が自分の体験を書いた本と、歴史や口述を積み上げたキンブローの『テイキング・アップ・サーペンツ』では、焦点が違っている。何が残り、何が見えにくいのか。同じ信仰を扱う仕事でも、並べると、見方の差が浮かんでくるわけだ。

トーマス・バートンは、事件の関係者の声を、一つだけが最終的な真実だとせずに並べた本を編んだ。当事者の経験のすべてを、外から知れるのかという問いがある。ただし、その文学上の問いは、殺人未遂の有罪判決が未決着だという意味ではない。証言の読み方と、裁判の結論は分けられる。

ウォルフォード父子の死亡をめぐる回想

一九八三年、西バージニア州イーガー近郊のジョロ・ブランチで、牧師マック・レイ・ウォルフォードが噛まれた。三十九歳で、会場はロード・ジーザス・テンプルだったという。後に息子が語り直すことになる、父の死だ。その息子自身も、二〇一二年に咬傷の後で亡くなっている。

父が噛まれた時、十五歳の息子がその場にいた。後年のワシントン・ポスト・マガジンの取材で、父は十時間半生きたと回想した。父は教会で死にたいと話したという。息子が信仰と父の最期をどう結びつけたかが、その語りに残っている。

息子の回想には、噛まれて三時間で腎臓が止まったという経過と、父は信じるもののために死んだという受け止めが並ぶ。見送るのは、つらかったという。医学的な時刻の確定とは違うが、家族を失う痛みと信仰を肯定する言葉が一緒に残っている。

その息子が、マーク・ランダル・ウォルフォード。通称マック。父と同じ名を継いだ男である。

彼は父が死んだあとも蛇を取り上げつづけ、やがて西バージニアで最も名の知れた蛇使い牧師になった。マトアカのアポストリック・ハウス・オブ・ザ・ロード・ジーザスの牧師である。他州でこの実践が違法になっていく中で、それを絶やすまいと各地を回っていた。

彼のやり方は、旧世代とはだいぶ違ったのだ。フェイスブックを使った。記者を歓迎した。写真を撮らせたのだ。派手だった。

二〇一二年五月、四十四歳の誕生日の翌日、パンサー野生生物管理区で野外礼拝を企画し、フェイスブックで告知したという。ブルーフィールドから、西へ約百三十キロ。昔ながらのホームカミングを自ら呼びかけるところにも、記者を歓迎した牧師の姿が重なる。

投稿には、主をたたえながらヘビを回すよう促す趣旨の言葉もあった。晴れた午後、集会は賑やかに始まったと伝えられる。三十分ほどたったころ、彼は黄色いティンバー・ラトルスネークを回した。何年も自分で飼ってきた個体だった。

ヘビの名は、シーバ。姉ロビン・バノバーの回想では、弟はそれを別の信徒、次に母へ渡し、地面へ置いた。そのそばに座った時、太ももを噛まれたという。午後二時ごろの出来事として伝えられる。

集会は中断され、彼はブルーフィールドの親族の家へ運ばれた。過去の咬傷も、家でやり過ごしてきたという。家へ戻る対応は、以前からの経過として伝えられる。ただ、前に切り抜けた方法が、この時の結果まで決めることはなかった。

午後遅くには、様子が違ってきたと伝えられる。フェイスブックには祈りを求める書き込みが重なり、本人は悪化していった。救急隊がブルーフィールド地域医療センターへ搬送したのは、午後十時三十分とされる。誰がいつ救急を呼んだかは、はっきりしていない。

父の死から二十九年後、息子も病院で死亡が確認され、咬傷から八時間半から十時間の経過として紹介される。似た長さの、二つの死。でも、時間が近いというだけで、身体の状態や治療の可能性まで同じだったと決められるわけではない。

葬儀はその土曜、マトアカの彼の教会で行われた。埋葬先はケンタッキー州フェルプスにあるヒックス家の墓地。家系の話は、七年後の弟の咬傷へ続く。

二〇一九年のメモリアル・デーの週末、マックの弟クリスが右前腕を噛まれた。ヘビはイースタン・ダイヤモンドバックだった。会場は、スクワイアのハウス・オブ・ザ・ロード・ジーザス教会。兄の死からちょうど七年後、ほぼ同じ日だったと伝えられる。

四十六歳のクリスは崩れ落ち、唇や舌が腫れ、呼吸も難しくなったという。この時は、会衆が救急へ電話した。病院では腎機能の低下があり、腫れによる筋肉や神経への圧迫を避けるため、腕を切開したと伝えられる。父や兄の経過に重なる咬傷でも、医療へ向かう判断は違った。

クリスは複数回の手術を経て、十三日後に退院したという。その後の取材では、再び講壇に立ち、ヘビを扱う姿が紹介されている。救急を呼んだ選択について、その取材では本人の説明がなかった。治療を受けたことと、信仰の実践をやめたことは、同じ結末にはならなかった。

ブラウン夫妻の死亡と、残された子ども

一九八一年ごろ、キングストンのホームカミングへ、パロッツビルから十代の少年が来たという。ジョン・ウェイン・ブラウン・ジュニア、通称パンキンだ。そこで出会った女性と結婚し、後に五人の子を持つ。夫妻の死と、その後の親権の問題は、家族の信仰と安全が重なる話になる。

相手は、十四歳のメリンダ・デュバルだった。兄マークの説明では、パンキンはヘビを扱い、異言を語る彼女に惹かれたという。帰郷後には、好きなことを分かち合える女性を見つけ、結婚するつもりだと兄へ話した。一年後、二人は結婚した。

パンキンがヘビを取り上げ始めたのは、十七歳から。父ジョン・ブラウン・シニアもマーシャルの牧師で、本人も南部を回る巡回説教者になり、ガラガラヘビを肩に説教した。信徒の間では伝説的な存在と呼ばれた、と、その来歴は紹介される。

十八年で二十二回噛まれた、と紹介されていた。1995年8月6日には、ケンタッキー州ミドルズボロの教会でメリンダ・ブラウンが噛まれた。ヘビは黒いティンバー・ラトルスネーク。彼女は二日後に亡くなった。

メリンダは二十八歳、五人の子の母親だった。会場はフル・ゴスペル・タバナクル・イン・ジーザス・ネーム。後にジェイミー・クーツが噛まれることになる、同じ教会だ。別々の家族の話をたどると、同じ場所の名が再び現れる。

スミソニアン協会のスコット・シュワルツの取材で、信仰は失わなくても妻の死に動揺し、愛していたとパンキンは語った。一年後の、父親の言葉。子どもへ伝えても責められたとは感じなかったというが、その受け止めが、子どもそれぞれの内心まで言い当てるわけではない。

メリンダの死後、子どもたちの親権について、彼女の実家との争いが起きた。裁判所はパンキンに親権を戻したが、条件がついたのだ。家に毒蛇を置かないこと。子どもを蛇使いの礼拝に連れて行かないこと。

パンキンはこの命令を破った。神の法に従っていると彼は考えていた。1998年10月3日、アラバマ州ジャクソン郡マセドニア地区のロック・ハウス・ホーリネス教会。

パンキン・ブラウンが説教をしていた。牧師はビリー・サマーフォード。グレン・サマーフォードの親族にあたる人物の教会である。

一メートルほどの黄色いティンバー・ラトルスネークを五分ほど扱った後、左手中指の関節の間を、片方の牙で噛まれたという。箱へは、戻した。証言では、その三、四分後に床へ倒れたとされ、扱いを終えた直後の急な経過が伝えられる。

最期には、神は変わらないという趣旨の言葉を述べたとされる。何が起きても、神は神のままだという受け止めだった。傷を負った直後にも、信仰を手放さない言葉が伝えられたことになる。その後の急な悪化と、この言葉が並んで残っている。

捜査官の説明では、救急要請まで四十五分ほどあったとされる。本人が治療を拒んだという証言も紹介された。呼吸と心拍が止まった後に要請し、到着まで蘇生を続けたという経過だ。これはその場の対応であり、すべての教会で同じことをする決まりではない。

パンキンは三十四歳、噛まれてから一時間以内に亡くなったと伝えられる。遺体が葬儀場に安置されていた十月七日、カック郡の少年裁判所は祖父母を呼び出した。両親を失った五人を、どこで安全に育てられるのか。信仰の場だけでは終わらない判断が始まった。

パンキンの両親、ジョンとペギー・ブラウンは、すでに命令に違反して孫たちを蛇使いの礼拝に連れて行ったことを認めていたという。以後は控えると述べた。母方の祖母メアリー・ゴスウィックは、かつて自分も蛇を扱っていたが、いまはやめていると証言したのだ。

親族とのつながりを保ちながら、学校と暮らしを落ち着かせたい。メリンダの父ルイス・デュバルは、子どもたちが親族や自分の咬傷を恐れずに育つことを望んだとされる。祖父母のどちらかを選ぶだけで終わる争いではなかった。当時の親権の判断には、安全と家族の両方が関わる。

一九九九年二月十二日、ジョン・ベル判事は、学年中を母方の祖母、夏休みと祝日を父方の祖父母と過ごす形に決めた。ジョナサン十二歳、ジェイコブとジェレマイア七歳、サラ五歳、ダニエル四歳。父方には、ヘビを扱う礼拝へ連れていかないという条件もついた。

親族から完全に引き離すのでなく、滞在する時期と礼拝への参加に条件をつける判断だった。血縁を保つことと、危険から守ることを一緒に考えた形だ。単に信仰を禁じれば済む、という結末ではない。これは当時の親権の経過であり、その後の子どもたちの暮らしや意思まで決める話ではない。

子どもに触らせない教会や、十八歳未満は禁止と明記するところもあるが、家族で通う礼拝の場には、子どももいる。内側でも問題になった、参加の範囲。扱わせなければ危険がないとまでは言えず、本人が選んだ自由だけで終わる話ではなくなる。

五歳のレイサ・アン・ローワンが、礼拝で回されていたカッパーヘッドに噛まれた例も伝えられる。母親は三日間、娘を隠して治療を受けさせなかったという。別の親族が保安官のところへ連れていき、助かったとされる。本人が危険を選んだのかという問いだけでは、こうした子どもの立場は捉えられない。

テレビ出演後に報じられた押収

二〇一一年の大晦日、西バージニアの教会で、二十歳の説教者が噛まれた。真夜中近く、ティンバー・ラトルスネークによる人差し指の傷だったという。毒がほとんど入らない咬傷で、無事だったと紹介される。その一件が、テレビ番組へつながる取材の始まりになった。

翌日、その場にいたジャーナリストのジュリア・デューインが彼に会い、感心して、ウォール・ストリート・ジャーナルに彼のプロフィール記事を書いた。その若者がアンドルー・ハンブリンだ。テネシー州ラフォレットのタバナクル・チャーチ・オブ・ゴッドの牧師である。記事のあと、ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルから話が来た。

制作側が出演の相談をした相手は、三十年以上研究し、大学図書館に運動初期まで遡る大規模な映像・写真の記録を築いた人物だった。テネシー大学の心理学者、ラルフ・フッド。取材側と共同体の間へ立つ役割も持ち、ハンブリンが出るだろうかという問い合わせを受けたのだという。

ハンブリンと、その師に当たるジェイミー・クーツは出演を決めた。メディアが関われば面倒が起きると考える年長の指導者とは、違う選択だった。二人は出演料を受け取り、ホテル、食事、ガソリン代も制作側が負担したという。閉じた共同体の姿を、テレビへ開こうとしたのだ。

『スネーク・サルベーション』は、二〇一三年の初秋に始まった。全十六話、一シーズンの番組だった。牧師たちは、ヘビだけでなく魂や救いを扱う教会だと説明したという。ヘビを一度も扱わなくても、教会へ来て人生が変わる人がいる、という思いを伝えようとした。

完成した番組で前面に出たのは、魂より蛇だったらしい。そして2013年11月7日、テネシー州野生生物資源局の職員がタバナクル・チャーチ・オブ・ゴッドに現れた。押収されたのは五十三匹。ティンバー・ラトルスネーク、カッパーヘッド、それに何種類かの外来種。

ハンブリンはクラス1野生生物、つまり人間に危険を及ぼす種の不法所持で告発された。五十三件。一件につき最長十一か月二十九日の拘禁と二千五百ドルの罰金である。

州側の広報担当マット・キャメロンは、教会からヘビを押収した前例を思い出せないと述べた。州が教会のヘビを知った経緯についても説明した。テレビ番組だ、と。

ハンブリンは11月15日の法廷で無罪を主張した。支持者たちは全員赤い服を着て集まり、彼が入廷すると拍手した。彼は、これを宗教的自由をめぐる戦いにするつもりだと公言したのだ。

ハンブリンは、教会からヘビを奪うことを、聖書や聖体を取り上げる行為にたとえて反発した。神から箱へ向かうよう導かれるなら、その宗教的権利があるはずだという主張も伝えられる。行政には危険な野生生物でも、本人には信仰に欠かせないものだった。その違いが、押収への抗議に表れている。

二〇一四年一月八日、ハンブリン側の要請で、本人も大陪審の前で三十分ほど話す機会を与えられたという。異例と紹介された、説明の場。信仰のしるしを語ってきた牧師は、所持と押収について、自分の立場をそこで述べた。

彼の主張は単純だった。あのヘビは自分のものではない。信徒が教会に持ってきたものだ。野生生物局の職員が教会に踏み込む筋合いもない、という主張だ。

大陪審は、起訴しないことを決めた。支持者は奇跡と呼んだが、ヘビは返ってこなかった。野生生物局は、禁制品なので返却できないと説明したという。起訴を見送る判断と、押収した生き物を返す判断は、同じではなかった。

ノックスビル動物園へ運ばれた五十三匹は、学芸員マイケル・オーグルによれば、多くが病気だったという。三十二匹が、死亡。残りも後に安楽死させられたとされ、起訴の判断とは別に、ヘビは戻らない結末になった。

飼育状態には、専門家の批判も寄せられる。ケンタッキー爬虫類動物園のクリステン・ワイリーは、押収される個体は衰弱し、脱水していることが多いと述べた。礼拝での扱いだけでなく、普段の世話も問題になる。生き物を信仰の道具として持ち続ける、その責任が問われた。

弱った個体が、咬傷の結果に関わる可能性を語る説明もある。でも、衰弱しているから命を奪う毒がない、と推測することはできない。動物園で死んだ数から、礼拝で扱った時の安全も計算できない。ヘビの健康と、人が噛まれる危険は、結びついていても別々に確かめる問題だ。

年長の信徒たちが、テレビに出た若い牧師たちに向けた批判も、まさにそこを突いていた。ドラマが欲しいあまり、彼らは「神のアノインティング」を待たずに箱へ走るようになったのではないか、と。フッドは、派手な振る舞いより聖く暮らすことを重く見る声が共同体にある、と要約したという。

年長の信徒の批判には、テレビの前の動きだけでなく、若さやよそ者であること、飼育、日々の聖い暮らしへの見方も重なったという。内側で守りたいもの。派手な場面だけの対立だと思えば、何を規則として求めるかという違いまで、見えにくくなるかもしれない。

喫煙や女性の服装規定、医療を受けることへの立場も、教会ごとに違っていた。ヘビを扱う一点が同じでも、生活と教義のすべてがそろうわけではない。番組の第二シーズンが作られることはなかったという。最終回の放送から五週間後、ジェイミー・クーツは亡くなった。

救急を呼ぶ立場も現れた

ジェイミーの葬儀には、複数の州から信徒が集まり、全国のメディアも訪れた。死を悼み、信仰を続ける人がいる。その一方で、医療へ向かう立場も取材には現れる。すべてが一度に変わったわけではなく、個々の牧師の判断に違いが見え始めた。

彼らが弔ったのは、医療の介入を拒み、しるしを実践しながら死んだ男である。彼らの価値観からすれば、それはマルコ福音書への忠実さの最終形だ。ところが、その葬儀で司式を手伝ったアンドルー・ハンブリンにとっては、まったく逆の意味を持った。

自分は羊飼いで、会場で起きることに責任を負うから、ジェイミーの死後は誰かへヘビを差し出すのをやめた、とハンブリンは語った。本人任せでは、済まない。さらに違う選択へ進んだ息子コーディにも、この変化と重なるところがある。

父の死から三か月後、二〇一四年五月、コーディも自宅のケージの掃除中に右手を噛まれたとされる。この時は救急車を断った。翌日には痛みが引き、大したことはなかったと本人は振り返ったという。父と同じ治療拒否の判断から、彼のその後が始まる。

ただ、その時にも、意識を失っている間に妻が同意すれば病院へ行くことになる、と語っていたという。二〇一四年六月には、説教中に目の近く、続いて耳を噛まれたとの紹介もある。三分ほど続けた後、視界や足元が乱れ、倒れたとされる。自分がその場で選べる状態とは限らなかった。

友人は、すぐに病院へ向かうよう強く促したという。二〇一五年六月の別の礼拝でも、太いティンバー・ラトルスネークを背中へ掛け、頭部を噛まれたと伝えられる。薄い水色のシャツへ血が流れ、友人の腕のなかへ倒れたという。動脈の傷も紹介されるが、ヘビが狙ったと意図まで決める話ではない。

フッドによれば、その友人の一人が彼にこう尋ねたという。死ぬ覚悟はできているか、と。本人はその時には断ったという。

ノックスビルの病院へヘリで搬送され、生命維持装置につながれた後、コーディは回復したとされ、医師の動脈の傷の説明も紹介された。息子は、戻ってきた。亡くなった父と医療を受けた息子を同じ家系へ並べても、その違いは小さくないんだよな。

その後も牧師を続ける一方、ヘビを扱う頻度は落ちたと取材は伝える。頭部の咬傷後には、強い怒りや猜疑心に苦しんだという。身体の傷が治れば、気持ちもすぐ元に戻るとは限らなかった。これは、その時期の本人の経験として語られた話だ。

妻の求めで銃を手放し、精神科を受診して、不安が薄れたとも伝えられる。取材では、心的外傷後ストレス障害に関する医師の説明も紹介された。一人の牧師が経験した、咬傷の後の暮らしだ。同じ信仰を持つ人をまとめて診断する話ではない。

コーディは、聖句は医師へ行くことを禁じていないと考えたという。治療を拒むのは、父ジェイミー個人の判断だったと分けた。父の教会を継いでも、医療への立場まで同じとは限らない。聖句へ従いながら、助けを求める道があると受け取ったのだ。

フッドも、救急を呼ばない古いやり方から、実用的な対応へ動く牧師を紹介した。マルコはヘビを扱う行為を語っても、重い傷で助けを求めるなとは書かない、という解釈だ。若い世代の取材で見えた変化だった。ただ、全教会が同じ方向へ動いたことを示す話ではない。

三位一体派とワンネス派の傾向から説明するキンブローは、医師の力を神が与えたと読む立場も、分岐の一つに挙げた。ニューポートのモローには、違う受け止めがある。二度噛まれても医師へ行かず、家で主に癒やされたと語る牧師も、旧来の側にいた。

モローは、福音のしるしを実践しながら最期を迎えたい人々がいる、とも語ったとされる。医療へ行かないことは、本人たちには信仰を貫く判断になる。でも、祈ったから毒の作用が消えたと、そこから確定することはできない。信徒が語る回復と、医学が評価する治療の効果は同じ尺度ではない。

フッドは、この変化にもう一つ問いを向けた。かつて信徒は、神が守る力を示すために毒を飲み、ヘビを扱うと説明してきた。結果について医師にかかってよいなら、高い危険を伴う行為にどんな意味が残るのか。医療を選んだ後に、儀礼をどう理解するかという問いだ。

治療を受ければ、その儀礼はただの演技になるのか。そう言い切ることもできないだろう。本人が従う聖句や、礼拝で感じるものまで、医療で消えるわけではない。救命の手段があることと、信仰が本人に何を意味するかは、なお分かれて残る。

取材当時四十歳のジェイソン・ストーンも、別の立場を語った。ノース・カロライナで育ち、西バージニアのヘビ使いの家系に属する人だ。公開の場から距離を取り、信頼する仲間だけの小さな礼拝へ絞ったという。年齢も活動の範囲も、その取材時点の紹介になる。

ストーンは霊的な体験への没入と否定的な感情からの解放を理由に挙げ、噛まれたことはないが、医師へ行くことにも問題はないと語ったという。世代だけでは、決まらない。続け方にも助けを求める考えにも幅があり、一つの信仰の名前へ押し込めにくいところだ。

研究者の本や録音が残す範囲

この主題には、礼拝へ通い続けた研究者の仕事がある。フッドとウィリアムソンは、危険な瞬間だけでなく、説教、音楽、回復、日々の語りを記録した。記者が訪れた一日の出来事と、長い関わりから考える信仰の構造。その両方が、小さな教会の姿を伝えている。

十五年、六州、何百回もの礼拝を調べた二人の仕事には、二十年以上のデジタル録音を研究者へ公開するという説明もある。何を祈り、どう感じたか。声と音楽は事故の件数だけでは残らず、外から数えるだけで届かない暮らしの部分を伝えている。

共著の目次には、運動史、ヘンズリー、教団の公認、象徴、異言、アノインティング、即興説教、咬傷、音楽、法律が並ぶ。音楽も、付け足しではなく構成要素として扱われるのが面白い。箱が開く瞬間だけでは、礼拝は分からないのだ。教団の公式史と、文書館に残る経過を比べた議論もある。

シー・ダブリュー・コンの教団史では初版の脚注に置かれたヘビの問題を、フッドは文書館資料から、初期の承認へ遡って論じた。チャーチ・オブ・ゴッドと、その分派の歴史。後にどう書き残したかと、当時どう関わったか、その食い違いも研究の対象になる。

かつてのドリー・ポンド教会の建物が、後の所有者である別教団によって壊されたことも、フッドの記録に出てくる。悪名で土地が記憶されるのを避けたという説明だ。建物がなくなると、かつてそこにあった実践も見えにくくなる。教団が距離を取った後の歴史を、場所の変化から読む話でもある。

教会とセクトの緊張という理論も、この過程を説明するために使われる。社会との摩擦が大きいほど、大きな組織へ広がりにくいという考え方だ。人を傷つけ、死へ至らせうる儀礼は、その摩擦を強める。報道が増えるなかで、教団が距離を取る理由を考える見方になる。

犠牲や強い関わりが小さな集団を結びつけ、大きくなれない理由が残る人のまとまりを支える、とも同じ理論から説明される。逆向きに働く、集団の緊張だ。キンブローの別の視点を示す本は、一九九五年、ノース・カロライナ大学出版局から刊行された。

副題は、東ケンタッキーのヘビ使いたち。アパラチアに根を持ち、インディアナ大学で歴史学の博士号を取った独立研究者が、参与観察と口述史を重ねた仕事として紹介される。土地の言葉と、親族のつながりから考える研究だ。聖句の読み方だけでなく、その周りの暮らしへ視野が広がる。

キンブローは、親族を軸とするアパラチア文化と、十九世紀末に外から入った採掘産業の衝突を、儀礼が象徴的に演じると論じた。蛇は、土地という庭へ入ってきた悪と重ねられる。その説明には、貧困だけでなく無力感や家族の機能不全もある。歴史と象徴を結びつける、一つの解釈だ。

土地との結びつきを説明するキンブローの説には、もっともらしくても展開が足りないという書評もあり、その説明が届く範囲は問われた。移住先も含めると、どうか。炭鉱町だけの話として閉じずに研究を比べれば、どこへ焦点を当てたかの違いも見えてくる。

宗教学では、奥地に閉じ込められた原始的な人々として扱う枠組みも批判されてきた。遠い山の奇習、と眺めるだけでは、主流教団が深く関わった歴史が落ちる。信徒が外の世界と無関係だったわけでもない。研究は、見られる側だけでなく、そう描いてきた側の視線も問い直している。

『ジャーナル・オブ・サザン・レリジョン』の再検討も、その流れにある。二十世紀前半の一次資料を読み直し、南部ホーリネス・ペンテコステ運動全体の問題だったと位置づけた研究として紹介される。周縁の一部を除けば終わる話ではなかった。教団自身が、どう扱うかを迫られた実践だったのだ。

チャーチ・オブ・ゴッドは、この実践を取り上げてライバルを批判し、アセンブリーズ・オブ・ゴッドやペンテコステ・ホーリネス教会も信徒へ警告したという。何を礼拝として認めるのか。そのやり取りのなかで、正当さと逸脱の境が作られたと、研究は論じる。

法が危険な行為を規制する動きと並んで、教団も実践から距離を取り、自分たちの礼拝の輪郭を引く時に、ヘビを扱う人々を意識した。単なる恥ずかしい親戚、ではない。でも現在の礼拝の形のすべてが、ヘビの排除だけでできたとまで言い切る説明ではない。

死亡例をたどると見える、継承と生存の違い

ここまでの出来事を、起きた順に眺め直してみたい。個々の場面を離れると、信仰が家族のなかで続いたことや、医療への判断の違いも見えてくる。ただし、これは取り上げた事例の比較だ。完全な死者名簿や、死亡率を示す一覧ではない。

最初は一九四五年、ドリー・ポンドで噛まれた三十代のトラック運転手ルイス・フォードである。彼は治療を拒み、報道陣が見ている前で、七十分後に息を引き取った。その葬儀で六匹の生きたヘビが棺に入れられ、そのうち一匹はフォードを噛んだ当のヘビだった。

次が一九五五年、フロリダ州アルサ近郊の廃業した鍛冶屋で噛まれたジョージ・ヘンズリーだ。彼は自分が広めた作法どおりに治療を拒み、翌未明に七十四歳で死んでいる。カルフーン郡の判事はその死を自殺と記録し、信徒たちは葬儀のあとに集まって続行を宣言した。

一九六一年には、バーバラ・エルキンスの娘コロンビア・ゲイ・チェイフィンがジョーロで噛まれ、二十三歳で亡くなった。治療を拒み、四日後の両親宅での死だったという。幼い子を残した娘を埋めた後も、母は同じ教会の礼拝を続けていく。

一九八三年には、イーガー近郊で三十九歳のマック・レイ・ウォルフォードが亡くなった。十五歳でその場にいた息子も、二十九年後に咬傷で命を落とす。一九九五年八月六日に噛まれ、二日後、二十八歳で亡くなったのがメリンダ・ブラウンだ。家族のなかで、同じ実践が受け継がれている。

メリンダには、五人の子がいた。同じ年、同じ教会の若い女性の死として前に触れた記述を、ここで別の犠牲者へ増やすことはできない。人数を重ねるより、一つの死がどの家族へつながるかを見る必要がある。子どもたちは、三年後には父も失った。

一九九八年十月三日、ロック・ハウス・ホーリネス教会で起きた、パンキン・ブラウンの左手中指の咬傷。救急要請は四十五分後で、呼吸と心拍が止まってからだった。三十四歳で亡くなった後、五人の子は、両方の祖父母と暮らす時期を分けることになる。

二〇一二年五月、息子のマック・ウォルフォードが、パンサー野生生物管理区の野外礼拝で太ももを噛まれた。搬送時刻は午後十時三十分と伝えられる。父の回想と近い、八時間半から十時間の経過だったという。二〇一四年二月十五日には、ジェイミー・クーツの死亡が報じられた。

ジェイミーについては、四十分の説得や妻の署名、車内にあった血清という細部も語られてきた。搬送が実現しなかったことは、医療への判断を考えるうえで重い。でも、時刻を並べるだけで、個別の治療結果が決まるわけではない。必ず助かったはずだという結末を、後から与えることはできない。

死亡までの時間も、一定ではない。七十分という紹介も、十時間半という回想も、四日後という経過もある。選ばれた死亡例だけから、毒蛇に噛まれた後の猶予は計算できない。二時間を安全な境界とせず、症状を待たずに医療へ向かう必要があることは変わらない。

会場から自宅や親族宅へ移った例がある一方、フォードは会場で亡くなったとされる。死ぬ場所が必ず教会の外だった、とは言えない。家へ移る間や祈って待つ間の遅れを考えることはできる。でも、移動したという一点だけで、個々の死因を説明することはできない。

ウォルフォード父子とブラウン夫妻は双方が亡くなったが、エルキンス家では母が礼拝を続け、娘が死んだという経過だった。クーツ家では、息子が生き延びた。家系ごとに見る時も、死亡、生存、継承は別々の出来事として、読んでほしい。

コロンビアは幼い子を、ブラウン夫妻は五人の子を残した。クーツの後継者は、二十一歳の成人だった。残される人の年齢も、立場も同じではない。儀礼を行う本人だけでなく、その家族へも影響が及ぶことが、これらの経過から見えてくる。

法律や裁判があっても、その後に死亡は起きた。ただ、選んだ死亡例だけを見て、規制の前後で危険が変わらなかったと結論づけることはできない。事故を避けられた例は、この並びからは見えないからだ。禁止されたのに続いたことと、禁止に一切効果がなかったことは同じではない。

人口が流出した郡と、かつて満員だった教会、取材時には二十人か三十人の会衆。こうした対比から、暮らしの変化と教会の規模の関わりを考えられる。でも、年の違う数字を並べても、人口だけが縮小の原因だったとは決まらない。法や報道、内部の判断も、それぞれ別に関わっている。

実践を外から規制することと、傷の後で助けを求めることは違う働きかけで、救急を呼ぶ判断には、医療へ向かった事例が残る。治療を受けて戻った人の存在。一件だけで法と内側の変化の効果に順位はつけられないが、その違いは小さくないと思う。

クリス・ウォルフォードは、二〇一九年に医療へ向かい、腕の処置と複数回の手術を経て、十三日後に退院したとされる。その後も講壇へ立った。静かな転換点と読める一件だが、百年間で最大と測れるわけではない。信仰を続けることと、治療を拒むことを切り離せる例として、記憶に残る。

推計の年と、土地の数字の分母

全米の教会数や信徒数は、いつ、どこまで調べた数字かで読み方が変わる。四十から百二十五教会、信徒数千人、全体の〇・〇〇五パーセントという値も、そのような推計だ。現在の国勢調査のような一斉の数ではない。世界の運動の広がりに対する小ささと、各地の教会の存在を分けて考えたい。

規模を把握しにくい理由には、独立した運営や、調査に応じる範囲、規制との関係が考えられる。名乗らない理由を、違法性だけに集めることはできない。土地の数字も、分母が違えば同じには扱えない。ベル郡の貧困、就業、学歴の比率と、郡の人口流出は、別々の指標だ。

約千二百人というジョーロの町の紹介と、マクダウェル郡から五分の四が流出したという値では、年代も数えた範囲も違いうる。同じ単位の、数字ではない。二つを合わせて町の人口を逆算したり、住民一人ひとりの学歴や所得を言い当てたりすることはできない。

一九五〇年代から七〇年代、教会へ入りきれず、窓から覗いた人がいたという回想がある。軽食店、酒場、教会の色も、取材時点の風景だ。ジョーロの建物には、黄色と白の両方の描写が伝わる。時期や塗装の違いまでそろっていないので、現在の色を示す目印には使えない。

ラフォレット近郊の高校未卒三分の一近く、収入の中央値が州平均より三割低いという値も、同じように当時の地域紹介になる。ほかの土地と同じ時期に同じ縮小が起きたと読むには、年代と指標をそろえる必要がある。土地が似ていても、信徒の人生まで一つではない。統計は人格を説明する言葉にはならない。

法の年次も並べてみよう。ケンタッキーは一九四〇年、バージニアとテネシーは一九四七年、ダーラム市の条例と裁判の話は一九四九年へ続く。さらに一九四八年のハーデン、一九七五年のスワンという判断がある。州法、市の条例、個別の差し止めが、異なる形で実践に関わった。

成人の同意の限定を外したスワン事件の差し止めは、その当事者らへのもので、全住民の全面禁止や規制後の死亡率を示すものではない。命じたことと、その後の変化。法律の年表を眺める時にも、別の問いとして考えてほしい。

西バージニアの一九六三年法案と、後年のホームカミングでは、語られる時点も異なる。別の数字として、二〇一三年十一月の押収がある。持ち去られた五十三匹のうち、三十二匹が動物園で死に、残りは後に安楽死させられたという。教会をめぐる歴史には、人の数だけでなく、扱われた生き物の経過も残っている。

炭鉱町の人口動態と、小さな教会の歴史は、並べて読むことができる。仕事が減り、人が移れば、集まる顔ぶれも変わるだろう。でも、人口が減れば信仰も同じ割合で消える、とまでは言えない。残る家族が何を伝え、移った人が何を持っていくかという、数字だけでは決まらない動きがある。

統一した届け出の仕組みがなければ、調査を受けた教会や報道と訴訟で知られた教会が全体と同じ姿か、一度に数えるのは難しい。見え方に偏りは、ないか。それは、どこにも名簿が存在しないという意味でもなく、推計が拾った範囲を考える話になる。

聞き取りや録音、口述史は、外からの集計では拾いにくい声を残す。フッドとウィリアムソンの礼拝の記録も、キンブローの参与観察も、暮らしのなかへ入る仕事だった。何回噛まれたかだけでなく、なぜ続けるのかを聞く。数えた時の教会数と、そこにいる人の理解は、違う形の記録になる。

研究の記録が厚くなる一方、人口の流出や会衆の減少も伝えられてきた。記録する人が増えれば、対象も増えるとは限らない。なくなる前に聞いた声や、後から思い出して語られた場面もある。数字と語りのどちらにも、その年、その土地、その時に会えた人々の範囲があるのだ。

継承の理由を一つに決めない

二十世紀初頭から百十年以上の歴史には、創始者や牧師、夫妻の死、教団の否認、法律と裁判があるのに、なぜ実践は受け継がれたのか。しるしとして残った、信仰の行為。一つの理由へ決めるより、その人が続ける筋と、周りの暮らしも合わせて考えたい。

教団が距離を取り、テレビへ出た後にはヘビの押収もあった。それでも、続ける人々がいた。内側の教義では、外から失敗と見える結果にも、違う意味を与えられる。噛まれたという出来事だけで、信仰を捨てる筋にはならないのだ。

噛まれなければ神に守られ、噛まれればアノインティングの読み違い、亡くなれば定めの時と受け止める説明がある。外の反証を、内側の理解へ取り込める形だ。ただ、全員が同じ理由で続けるわけではない。治療を選び、また教会へ戻った人もいる。

批判や規制を受けても従うことに、信仰の意味を感じる語りもある。聖句の外にある知識より、手元の聖書を判断の中心に置く。それは、内側から継承を支える筋の一つだ。同時に、論理だけでなく、礼拝で得た感覚が続ける理由にもなっている。

時間や場所の感覚が遠のき、自己を失って良い感覚が残るとする信徒の回想には、光のなかへ消えるコビントンの文章とも重なるところがある。恐怖に耐えるだけでは、ないらしい。本人にとっての力の強さを聞くと、戻っていく理由が別の角度から見えてくる。

ノーランは、最初の刺激を追う薬物体験と違い、神の力は同じ強さで来ると表現した。依存を離れた人生と、教会の関わりが、その語りのなかにある。だからといって、誰にも同じ効果があるという治療の証明ではない。本人の比喩は、その人が信仰をどう感じたかを伝えている。

フッドは、死と復活の象徴と、実際の危険が、同じ行為へ重なると説明した。ヘビを扱って生きた経験を、死を乗り越えたしるしとして受け止める読み方だ。危険がただ外から付いた邪魔物ではなく、儀礼の意味へ入り込んでいる。医学的に死を一度回避したと測る話とは違うが、信徒の理解を考える手がかりになる。

安全な物と思い込むだけと見れば、危険だから守りを感じるという儀礼の意味を落とすが、その受け止めが身体を守る保証にもならない。信仰と、現実の危険。どちらかを小さくしてしまうと分かりやすい話にはなるが、本人たちとの距離は埋まらないんだよな。

土地の暮らしも、継承の背景にある。ベル郡の貧困や就業、ジョーロ周辺の人口流出は、教会を囲む環境の一部だ。ただ、炭鉱と貧困の地図に信仰が完全に重なるとまでは言えない。人が教会へ入る理由には、家族、音楽、体験、助けを求める関わりもある。

入院した人や次の通院、娘を心配する親の話など、祈りの依頼を回覧板のように共有する時間も、礼拝の紹介にはある。病気と家族の悩み。危険な瞬間の外で持ち寄る暮らしを、ただの背景へ押しやらずに見てほしい。

外から遅れていると評される一方で、自分たちは聖句へ従っていると誇りを語る人もいる。歌にも説教にも、その応答が表れる。生活を侮られてきた人が、自分の価値を感じる場所という面もあるだろう。ただ、誇りだけで全員の動機を説明するより、一人ずつの来歴が重なる場として考えたい。

生命と健康を守る制度と、本人が従いたい信仰は、どこで折り合うのか。一九七五年のスワン判決は、小さな宗教の自由も軽く扱わないという前提と、危険な行為への差し止めを併せて示した。その事件では、成人の同意だけで命令を狭めなかった。本人が望むならよい、で終わらない問題がある。

永遠の生命を求め、聖句へ従うことを大切にする自己理解では、危険は死ぬための目的より、従う行為に含まれる条件になる。死にたい人々と、まとめられるだろうか。外から見た無謀さと内側で求める救いは、同じ出来事を前にしても食い違っている。

ヘンズリーの死は、自殺と記録されたと伝えられる。その葬儀の後、信徒は続けると宣言した。片方の名づけだけでは、もう一方の受け止めが消えない。長い年月がたっても、死をどう呼ぶかの隔たりが、この歴史のなかに残っている。

そこへ、救急を呼ぶ人々が現れた。治療を受けて戻った牧師の姿は、従うことと拒むことを切り離す道を示している。フッドが向けた、医師を頼る時に儀礼の意味はどう変わるかという問いも残る。教会ごとに違う実践には、一つだけの答えがあるとは限らない。

続ける人、離れる人、治療を受けて戻る人がいて、同じ名の教会でも、何に従い、どこで助けを求めるかは違っている。矛盾を抱えたまま、変わる道。旧来の側に立つ道もあり、過去の例だけで、どの谷で何が続くかまで言い切ることはできない。

ジェイミーの死へ戻ると、この隔たりがもう一度見える。治療を拒み、自宅で亡くなったという報道があり、救急隊の説得や妻の署名も伝えられてきた。医療へ向かえたかもしれない時間と、祈りへ委ねた判断が同じ夜にあった。でも、別の選択なら必ず助かったという結末までは、書き込めない。

妻の署名だけを、家族全員の気持ちの象徴にすることもできない。外からは悲劇と読まれ、内側では従うこととして語られる。同じ咬傷の出来事に、別の言葉が与えられてきたのだ。父の教会を継ぎながら医療へ向かった息子の姿は、その言葉の間にも変化がありうることを伝えている。

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