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日本の怖い迷信大全――35項目の検証索引

身内には聞こえないカラスの声

滋賀県の北部、西浅井町(いまの長浜市)での聞き取りが、成城大学の民俗調査報告書の九号に載っている。刊行は1986年。国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースで、いまも誰でも読める。

土地では、カラスが悲しそうに鳴くことを「カラス鳴きが悪い」と呼んだ。そう鳴いたときは人が死ぬという。しかもその声は、他人には聞こえるのに身内には聞こえないのだそうだ。よくできた話だよな。

『宮城縣史』の1956年刊の記録では、近くの丘や森でカラスがよく鳴くと、誰かの死が近いと心配したという。鳴き方にも意味があって、カアカアは雨、カワイカワイは死の知らせだ。死に近い人の家の屋根にカラスがとまるのは、一種の死臭が匂うからだ、という説明まで付いている。

奈良県吉野郡の天川村の記録は、もう少し細かい。1986年刊の『奈良県史』によれば、お寺の大杉で鳴けば「死に烏」で、三声鳴いて止むのを「三声ガラス」と呼び、止んだら人が死ぬ。この声も、死ぬ人の家族には聞こえない。滋賀と奈良で別々に聞き取られた話が、同じ型をしている。

土地ごとの工夫も面白い。愛知の1975年の記録では、カウカウと鳴けば人が死に、コガウコガウと鳴けば人が生まれる。岩手の1988年の記録は、カラス鳴きが悪いと百日のうちに三人が続けて死ぬ、とまで言い切る。高知の1983年の記録では、カラスが鳴いたら枕元で名前を呼んで魂呼びをした。

秋田の1966年の記録は、墓でカラスが鳴くと人が死ぬとする。大分、愛媛、栃木、福岡、新潟にも似た記録があり、日本海側にも太平洋側にもまたがる。どれも短い記録だ。2002年の香川の記録にも、烏鳴きが悪いと人が亡くなる、と出てくる。

同じ鳥が、神の使いでもあった。箱根宮城野の俚諺を調べた論文(1991年)は、土地では鳥は山の神の使いで未来が分かると語られていたと記録する。神武東征の道案内をした八咫烏も、カラスだ。

宮城の記録を見ると、仕掛けが透けて見える。鳴けば雨、鳴けば大風、鳴けば死と、意味の行き先が三つもある。そのうえ鳴き方まで分けて、死の知らせはカワイカワイのときだけにしてある。筆者の見立てでは、これは外れても言い訳が立つ作りだ。

身内には聞こえないという条件も、同じ働きをする。亡くなった家の人が声を聞いていなくても、話は崩れない。あとから「やっぱり鳴いていた」と言えるのは、声を聞いた他人のほうだけだ。ずるいほど便利な仕組み。

もう一つ、宮城の記録の死臭の説明は見逃せない。死に近い家の屋根にカラスが来るのは、においで分かるからだという。筆者の見立てでは、前兆に見えたものの半分は、カラスが先に気づいたことの結果だ。人より先に、カラスが察していた。

断っておくが、カラスを聞いた日に誰も亡くならない、と言いたいわけではない。カラスは朝によく鳴く。人の死も毎日どこかで起きるから、重なる日は必ずある。

夜爪を切ると、何が起きるか

夜に爪を切ると親の死に目に会えない。たいていの人が一度は聞く言い伝えで、この一句を題名に掲げた新書まで出ている。ところが辞書を引くと、脅し文句は一つに決まっていない。

小学館の『故事・俗信ことわざ大辞典』(1982年)には、地域ごとの結果が並ぶ。国立国会図書館のレファレンス事例が引いていて、和歌山では牛の爪になり、山梨では思うことが叶わず、青森では怪我をする。親の死に目は、そのうちの一つにすぎない。

共通するのは、夜に切るなという一点だけで、脅される結果のほうは、土地ごとにまるで違っている。筆者の見立てでは、脅しの中身は取り替えが利いた。肝心なのは夜の爪切りを止めさせることのほうで、脅しは後から付けた飾りに近い。

愛媛県の『伊予市誌』は、実用の面からこれを説明する。第七編の民俗、俗信と風習の章に、夜の明かりは暗く、爪を切りそこねて身を傷つけるおそれがあった、とある。県内はもとより全国各地に同じ戒めがあるという書き方だ。

黒塚信一郎の『茶柱が立つと縁起がいい』(原書房、2005年)は、もう一つ暮らしの理由を挙げる。冬の夜は火鉢が暖房で、飛んだ爪が火に入ると、遺体を焼くようなにおいがした。それが死を連想させた、という説明だ。

不二竜彦の『迷信・俗信大百科』(学研、1996年)は、暗い夜に指を切る危険に加え、爪が魔物に盗まれて呪われる恐れを挙げる。中国の怪鳥、姑獲鳥が夜に爪を食うという伝えが、背景にあったかもしれない。そう読める書きぶりだ。

語呂の説もある。夜爪が「世詰め」に通じて、寿命を詰めるというものだ。一般向けの解説記事でよく見る。戦国の夜詰めの番に結びつける話まで出回るが、文献で裏の取れるものは見つけられなかった。まあ、語呂は後からいくらでも付く。

結果から逆に見てみる。夜に爪を切らない家は、暗い手元で刃物を使う回数が減り、火鉢に爪を飛ばすこともない。迷信を守った家に残るのは、怪我とにおいのない夜だけだ。守らせた側の実務が、そのまま禁忌の中身だったように見える。

夜に口笛を吹くと出るもの

国際日本文化研究センターのデータベースには、「夜、口笛を吹くと」で始まる記録が何件も並ぶ。1939年の記録は、高知、東京、宮崎などで蛇が入ると言い、播磨では泥棒が入り、沖縄では幽霊が出て、鹿児島の坑道ではくずれると整理している。

同じ年の和歌山では、蛇に魔物、貧乏神が来る。1915年の徳島は魔がさす、1964年の滋賀は天狗が現れる、と続き、1931年の沖縄では四辻に幽霊が立つ。1935年の栃木は化物で、1982年の群馬は盗人が来る。1998年の静岡は、鬼か蛇。大晦日や節分の夜に四辻を飛ぶ首のない馬が、口笛でやって来るという1956年の記録もある。

出てくるものはばらばらだ。蛇、鬼、天狗、貧乏神、泥棒と、顔ぶれに統一感がない。それでも骨組みは一つしかない。夜に音を立てると、呼んでしまう。

夜爪と夜の口笛は、1993年の静岡の記録で一束になって載っている。夜の禁忌は、まとめて教えられていたらしい。

口笛は古く「うそぶき」と言った。千葉公慈の『知れば恐ろしい日本人の風習』(河出書房新社、2012年)は、その音に神や精霊を招く力があると書く。神聖な行為だから、夜には慎むものになった、という筋道だ。

民俗学者の常光徹も、『しぐさの民俗学』の第一章で、息を吹くしぐさと霊魂の関わりを、うそぶきや口笛まで含めて扱っている。口笛は、ただの音ではなかった。

北海道の1942年の記録は、炭鉱で入坑前や坑内の口笛を忌む。坑内の神様が連れた犬を呼んでしまい、守る者がいなくなるからだとも、口笛好きの神様がそちらへ気を向けて、守りが留守になるからだともいう。先の1939年の鹿児島の坑道では、口笛でくずれると言った。

筆者の見立てでは、ここだけは職場の掟に見える。坑内で無用の音を立てるな、という実務を、神様の機嫌に言い換えたのかもしれない。裏付ける文献までは見つけていない。

近所迷惑を避ける躾だったという説明も、解説記事には出てくる。静かな夜に音を立てるな、で足りる話を、蛇が出る、で済ませたわけだ。子どもには、そのほうが効いたはずだ。

霊柩車より先に、親指があった

霊柩車を見たら親指を隠す。隠さないと親の死に目に会えない。親指の「親」が効いているので、語呂としては一番座りのいい迷信だ。

年号を並べると、話が合わなくなる。日本で霊柩車が使われ始めたのは大正期で、屋根の付いた宮型の形も、1917年に大阪の葬儀屋が考案したと伝わる。ところが親指を隠すしぐさには、それより前の記録がある。順番が合わない。

江戸後期の国学者、小山田与清の随筆『松屋筆記』に、親指の爪のあいだから魂魄が出入りする、という考えが出てくる。だから親指を握って隠す。死霊やけがれから身を守るしぐさだ。国立国会図書館のレファレンス事例が、この本を挙げている。

同じ事例には、常光徹の『親指と霊柩車 まじないの民俗』(歴史民俗博物館振興会、2000年)も載る。全国の伝承を集め、夜道や疫病の場面でも親指を隠す例を扱った本だ。宮田登の『民俗学への招待』(筑摩書房、1996年)は、死の儀礼への不安に立ち向かう呪いの手段として読んでいる。

井上理津子の『葬送のお仕事』(解放出版社、2023年)は、親指を親に見立てる説を紹介する。そのうえで、霊柩車が現れる前から、葬列に親指を隠せという伝承があったと指摘する。常光の『しぐさの民俗学』の目次には、「霊柩車に出合うと縁起がよい」という章まで立つ。土地によっては、見かけたことを幸運と受け取った。

筆者の見立てでは、順番はこうだ。最初に親指を隠すしぐさがあった。そこへ大正期に霊柩車が現れて、葬列の代わりに道を走り出し、しぐさは新しい乗り物に乗り換えた。「親の死に目」の脅しは、そのあとに付いた語呂だろう。

宮型の霊柩車は、いま急に減っている。2016年の取材記事で、霊柩車会社の役員は、保有する232台のうち宮型は約35台だと語った。理由は三つ。葬儀に金をかけない人が増えたこと、火葬場が乗り入れの自粛を求めること、目立ちたくない遺族の気持ち。

外から見て霊柩車と分からない車で出棺する家も多くなった。親指を握る相手が、見えなくなった。

北枕は誰の向きか

北枕を嫌う家は多い。ところが葬儀の場では、遺体を北枕に寝かせる。同じ向きが、生きている人には凶で、死んだ人には作法になる。妙な話だ。

由来は釈迦の入滅だと説明される。釈迦は頭を北に、顔を西に向けて横たわった。涅槃経のこの場面が、頭北面西の形で伝わり、法華宗は、北枕ができないなら西枕でもよいと説いている。神道でも、遺体の頭を北へ向ける作法は枕直しと呼ばれ、北が上座だからだと説明される。

日本では、釈迦の故事を理由に、死を忌むところから北枕は縁起が悪いとされた。死者の極楽往生を願うときだけ、遺体の安置に許された。向きそのものに罪はない。使う相手を間違えたことが禁忌になった。

北を死者の向きとする感覚は、仏教より古い可能性もある。都出比呂志の『王陵の考古学』(岩波新書、2000年)によれば、古墳時代の初めに「生者南面、死者北面」の考えが西日本へ伝わった。畿内、吉備、出雲の古墳の被葬者に流行した、という。

健康の話も付いてくる。地球の磁力線に体が沿うから血行がよくなる、という説だ。京都大学の地磁気の資料センターの説明では、京都付近の磁力線は水平面から約50度も下を向く。水平に北枕で寝ても、体は磁力線に沿わない。

風水では逆に、北枕は頭寒足熱の運気が上がる寝方になる。仏教の故事から見れば忌み、風水から見れば吉だ。筆者の見立てでは、北そのものに良し悪しはなかった。決めたのは、そのとき誰の物差しを借りたかだ。

ご飯に立てた箸と帰りの塩

枕飯、一膳飯とも呼ぶ供え物がある。茶碗にご飯を山盛りにして真ん中に箸を立て、仏式の葬儀で故人の枕元に置くものだ。

弔事には、日常と逆の形にして死を区別する作法があり、逆さごとと呼ぶ。葬儀の解説では、立て箸もその一つだ。出棺のとき故人の茶碗を割る風習も、この世との別れを告げる意味づけで語られる。

浄土真宗は、亡くなった人がすぐ極楽へ往生すると考えるので、一膳飯を供えないのが一般的らしい。茶碗割りも、近年は安全のため行わない例が増えている。

叱る側の事情を考えてみてほしい。死者の膳は日常と異なる形にして区別するのだから、食卓でその形を作れば、その区別が崩れてしまう。禁忌が守らせているのは、生と死のあいだの線そのものだ。

葬儀の帰りには、小袋の塩を渡される。家に入る前に体へ振るもので、神道では死や血をけがれと見て、神はそれを嫌うと考える。相撲の土俵に塩を撒くのも、同じ発想から来ている。

浄土真宗は、これをやらない。本願寺派の寺院の解説は、はっきりしている。塩を撒く行為は、真宗はもとより仏教の教えに何の関わりもない民間の伝承だという。亡くなった人は阿弥陀如来の力で往生して仏になるのだから、清める相手ではない。

その解説は、塩の出どころにも触れる。塩漬けにすれば腐らないと人は昔から知っていて、死体を塩に漬ければ傷まないという実感が、まじないとして残った。腐る体への恐れが神道のけがれの観念と結びついた、とも書く。神棚を白い紙で覆う慣習も、同じ源流だそうだ。

近年は、宗派を問わず清め塩を使わない家が増えている。葬儀社でも、提供をやめたところが多いという。葬儀用の塩は食用ではない。

筆者の見立てでは、清め塩は信仰の話に見えて、起点は実務に近い。腐る体への恐れが先にあって、あとから宗教の言葉が貼られた、という筋を、寺院の側が自分で説明している点が、いちばん面白い。

丑の刻参りは最初、赤かった

丑の刻参りと聞いて思い浮かべるのは、白装束に藁人形だろう。ところが古い記録をたどると、その姿は最初から揃っていたわけではない。

古いほうの形は、鎌倉後期の成立と見られる屋代本『平家物語』の剣の巻に出る。宇治の橋姫の話。嫉妬に狂った女が貴船の社に籠もり、鬼になりたいと願う。神のお告げは、宇治川に21日間浸かれ、というものだった。装いは赤で、白ではない。

室町期の能「鉄輪」も、橋姫の話を作り替えた。女は赤い衣をまとい、陰陽師の晴明は、茅で人形を作って夫婦の名を込め、祈祷する。人形を使う祈りは、このころ別の筋から入ってきた。

1779年、鳥山石燕が『今昔画図続百鬼』で丑の刻参りを描いた。添え書きは、胸に鏡を隠し、頭に三つの燭をともし、丑三つのころ神社に参って杉の梢に釘を打つ、という内容だ。藁人形には触れていない。

白装束、五徳、藁人形。いま知られる姿が揃うのは江戸時代と見られる。橋姫の鬼女に、陰陽道の人形の祈祷が結びついた結果だという考察がある。足し算で数百年かけて出来上がった姿。

貴船神社には別の伝承もある。貴船明神が降りたのは、丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻で、その時刻に参れば願いが叶う、という信仰があった。丑の刻に神仏へ参る祈願のほうが、呪いよりも古い言葉だったらしい。

そもそも貴船は水の神の社だ。祭神はたかおかみの神で、平安の文献『類聚符宣抄』は、日照りには黒い馬、長雨には白か赤の馬を献じたと伝える。やがて生きた馬は板の馬に替わり、絵馬の原形になった。現在の本宮は、1046年の水害で奥宮が被災したため、1055年に移されている。

呪いの人形そのものは、もっと古い。奈良時代の木製の人形代に、胸へ鉄の釘を打ち込んだものが出土している。8世紀の話。人を形で呪う発想は、丑の刻参りよりずっと前にあった。

現実の事件が起きたのは2022年。千葉県松戸市の神社で、神木に釘で藁人形が打ち付けられた。確認された最初の被害は5月19日。10か所以上の神社で似た被害が確認され、人形の頭には外国の政治指導者の顔写真、胸の紙には「抹殺祈願」の文字があったという。6月15日、72歳の男が器物損壊などの疑いで逮捕された。

釘を打つ先が神木だった点は、石燕の添え書きの杉の梢と重なる。筆者の見立てでは、昔の呪いが生き延びたのではなく、古い絵の姿が借りられた。剣の巻は鎌倉後期、鉄輪は室町、石燕は1779年。語り直されるたびに足された姿を、令和の人が一式まとめて借りたのだ。

四号室のない病棟

四は死と同じ音で、九は苦に通じる。42は死に、49は死苦や始終苦と読める。病院、ホテル、マンションでは、一の位が4の部屋を作らない例がしばしばある。車のナンバープレートも、下二桁が42と49の番号は、希望がなければ割り振られない。

看護師向けのサイトが、2020年1月から2月にかけて読者に聞いた。自分の病院に、4、9、13の数字はあるか。1,688票が集まって、ある、が65%で1,108票。ない、が24%で417票。その他が9%だった。

欠番が多数派と思われがちだが、この数字では逆だ。使っている病院のほうが多い。意外な数字だ。もちろんネットの読者アンケートで、病院全体の統計ではない。数字の部屋は、案外ふつうにある。

では、いつから避けられたのか。年号を探すと、1604年に行き当たる。宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本大文典』(土井忠生の訳で読める)は、四は死と同音で嫌われる、と書いた。だから四度はヨド、四日はヨッカ、四人はヨッタリと言うのだという。安土桃山から江戸の初めには、すでに避ける言い方があった。

ただし、話はそう単純でもない。日本語の数詞の変化を調べた城岡啓二の論文(2011年)は、死への連想で説明するのが現代まで続く言い方だと断る。そのうえで、シバンという言い方が明治期でも使われていた点を挙げる。死に通じるから避けた、という理由は一般性を持ちにくい、というのが結論だ。

ニッセイ基礎研究所のレポートも、古来の日本や神道には四を忌む考えがなかったようだと書く。出雲大社の参拝は、二礼四拍手一礼だ。四の忌避は、古い禁忌というより、避ける理由が後から揃った習慣に近い。これは筆者の見立てになる。

避けるコストが安いから、習慣は生き延びる。四号室を欠番にしても、病院は損をしない。番号が一つ飛ぶだけで、気にする人が一人安心する。消える理由が見当たらない。

迷信を批判した井上円了は、哲学館の電話番号に、余っていた444を選んだと伝わる。

真ん中に写った人

三人で写真を撮ると、真ん中の人が早死にする。昔から聞く話だが、出どころを探すと行き止まる。解説記事で読める説明は三つある。

ひとつは、初期のカメラのせいだという説だ。ピントが真ん中の人に合い、両脇がぼける。次に、年長者を敬って真ん中に座らせたから、早く亡くなる人が真ん中に写るという説。最後が、三を忌む数字の文化から、三人撮りを避けさせるために作ったという説だ。

どれにも文献は添えられていない。この記事の調べでも、明治や大正の資料でこの話を確かめられなかった。三つ目は、そもそも三を忌む習慣が日本にあったのかを示す根拠もない。

仮に年長者を真ん中に座らせる習慣が本当にあったなら、真ん中の人が先に亡くなりやすいのは当たり前になる。迷信と呼ぶより、ただの年齢の話だ。

墓に植えられた赤い花

彼岸花は、墓地や田の畦によく咲く。死人花、幽霊花、地獄花、火事花と、別名の多くが不吉で、その数は500とも1000とも言われる。子どもが触るのを戒める言い伝えもあったらしい。

東京都の食品衛生の窓は、この花の危険を具体的に書く。全草にリコリンという毒があり、とくに地下の鱗茎に多い。吐き気、嘔吐、下痢、中枢神経の麻痺が報告されている。

毒は、田と墓で役に立った。田の畦に植えたのは、ネズミやモグラが鱗茎の毒を嫌って避けるからだ。墓地では、土葬のあとに動物が遺体を荒らすのを防ぐためだったという。江戸の百科事典『和漢三才図会』には、蔵の壁土に混ぜてネズミの侵入を防いだ、という記述があると紹介される。

埼玉県深谷市の公式ページは、さらに踏み込む。球根をすりおろして貼る外用薬は利尿の薬として知られ、飢饉の年には食べ物にもなった。子どもが花を摘むことさえ禁じられていた、とも言う。嫌われるどころか、昔の暮らしに役立つ花だった。

筆者の見立てでは、ここに禁忌の実務がある。毒のある球根を子どもが掘って口に入れたら取り返しがつかないが、幽霊の花、死人の花と呼べば、子どもは近づかない。怖い名前は、毒の看板。

念のため言っておくが、毒を抜いて食べた話を真似していいわけではない。リコリンは水に溶けるので、すり潰して長く水にさらせばデンプンが取れる、と説明される。江戸の飢饉では団子にして食べたともいう。それでも中毒の危険は消えない。

日本の彼岸花は、種ができない。染色体を三組持つ三倍体で、球根の分かれ目でしか増えない。山の中に一輪だけ咲いていたら、誰かが植えたものだ。墓のそばの赤い花は、勝手に咲いたのではなかった。誰かが球根を、手で埋めた。

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