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⚰️ 両墓制――遺体を埋める墓と、参る墓が別にある村

墓が二つある。そう聞いたら、たいていの人は首をかしげると思う。ところが昔の日本には、一人の死者のために墓を二つ設けるのが当たり前だった土地が、あちこちにあった。一つは遺体を実際に埋める「埋め墓(うめばか)」で、もう一つは花を供えて手を合わせるための「参り墓(まいりばか)」だ。

この二つを使い分ける葬送のしきたりを、「両墓制(りょうぼせい)」と呼んでいる。ここまでは民俗の話。怖いのはこの先で、家族が普段せっせとお参りしている墓の下には、亡骸がひとつも埋まっていないのだ。

遺体は、村はずれの「捨て墓」へ

両墓制の村で人が死ぬと、遺体は集落から離れた山裾や川べり、村境の一角へ運ばれて、そこへ埋められた。行き先は村はずれ。集落の真ん中に死体を置く村は、ひとつもなかった。

この埋め墓は「捨て墓」とも「三昧(さんまい)」とも呼ばれた。見た目はひどく粗末だ。土を饅頭のかたちに盛り上げて、そこへ竹や木を挿しただけのものがほとんどで、立派な石が載ることはまず無かった。

埋葬が済むと、人はもうこの墓へ足を運ばない。草に埋もれ、荒れるにまかせて放っておかれるうちに、どこに誰が埋まっているのかも分からなくなっていく。参られることのない、忘れられるための墓。それが埋め墓の正体だった。

参るのは、遺体のない「石塔」

参り墓のほうは、集落の内側や寺の近くに建てられた。行き来しやすい場所だ。人は盆や彼岸になるとそこへ出かけ、立派な石塔に花を手向け、線香をあげて、先祖として拝んできた。

ところが、その石塔の下に遺体はいない。参り墓は死者の霊を祀って記憶を留めておくための「魂の依り代」で、亡骸の在処とはまったくの別物だった。私たちが「お墓参り」と呼んでいる行為の相手が、遺体から切り離されていた。この分裂こそ両墓制の芯。

穢れた体は遠くへ、清い魂は近くへ

根っこにあるのは、死に対する二重の考え方だ。腐っていく亡骸は「死穢(しえ)」と呼ばれた。忌み避けるべき穢れそのもの。不浄の肉体は生活の場から何としても遠ざけなければならないから、遺体は村はずれの埋め墓へ隔離された。

霊魂のほうは話が別。死者の魂はけがれたものとは見なされず、時がたてば浄化されて先祖神になり、子孫を見守る存在になると考えられた。その清らかな霊を祀るために、参り墓は暮らしのすぐそばに置かれたわけだ。

肉体と霊を、空間ごと切り分ける。この発想が墓を二つに割った。土葬が前提だったことも大きい。忌明けとともに死者が「個」から「先祖」という集合体へ移っていく死生観も、この習俗を下から支えていた。

近畿から瀬戸内、伊豆の島まで

中心は近畿地方だった。両墓制は瀬戸内や伊豆諸島、そのほか西日本の広い範囲で確認されている。とりわけ瀬戸内海の塩飽(しわく)諸島などの島々では、埋め墓と参り墓をくっきり分ける形がよく残った。民俗調査の対象にもなってきた土地だ。

呼び方も土地ごとにまちまち。参り墓を「詣り墓」と呼ぶ村もあれば、「性根墓」と呼ぶ村もあった。作法にも細かな差がある。火葬が全国に行き渡って、骨壺を一つの石塔に納める今の墓へ移ると、遺体と参る先を分ける必要は消えた。両墓制はみるみる姿を消した。

手を合わせている石の下には、誰もいない

この話がぞっとするのは、墓の下には亡骸がある、という当たり前をひっくり返すからだ。石の下は空っぽ。本物の亡骸は、誰も来なくなった草むらの土饅頭の下に埋まっていて、名前も分からないまま静かに朽ちていく。

この空間のねじれは生々しい。日本人が死体というものにどれほど強い畏れと嫌悪を抱いていたかを、ありのまま突きつけてくる。愛する者の亡骸は「穢れ」として遠ざけておきながら、霊のほうだけは清め、飾り、拝み続けたのだから。

愛情と忌避が真っ二つ。もっと不気味なのは、埋め墓がわざと「忘れられるため」に置かれていた点だ。参られず、荒れて、場所すら失われていく墓からは、死体を早く自然へ還して記憶からも消したい、という願いが透けて見える。生きている側の、切実な願いだ。

骨壺を一つの墓に大事に納める今の私たちとは、死との距離の取り方が正反対。怖い話だよね。夜、村はずれの草むらで古い土饅頭を見つけたら、それは誰かが「忘れるために」埋めた、参り手のない埋め墓なのかもしれない。

名前をつけたのは、弟子のほうだった

柳田國男がこの墓を論文で取り上げたのは、昭和四年のことだ。題は「墓制の沿革に就いて」。面白いことに柳田は、両墓制という言葉を論文のどこにも使っておらず、選んだのは「葬地」と「祭地」という呼び方だった。

三文字の呼び名を作ったのは、大間知篤三だ。柳田のもとで山村調査を回っていた若い民俗学者で、師匠の用語より弟子の造語のほうが世間に広まった。弟子の勝ち。

柳田の見方は単純だ。埋め墓は死穢を避けるために掘った穴にすぎず、本当の墓は石塔の建つ参り墓のほうだと考えていた。遺体を一度どこかへ置いてから骨を改めて葬る改葬や、風に晒す風葬の名残がこの二重の墓を生んだ、と柳田はさらに踏み込んで見ていた。

大間知の見立ては少し違う。穢れを恐れる古い習いが先にあって、そこへ石塔を建てる新しい作法が外から流れ込み、二つがうまく噛み合ったという考え方だ。どちらが先なのか。後の研究者たちはこの問いで長く揉めてきたけれど、決着はいまだについていない。

戦後に旗を振ったのは、最上孝敬。全国の事例を片っ端から集めて『詣り墓』という一冊に詰め込み、その本は昭和五十五年に名著選書として版を重ねた。以後の論文は、たいていこの本を踏み台にして始まる。いわば土台の一冊。

柳田の『葬送習俗語彙』は、昭和十二年に民間伝承の会から出た。二三三ページの薄い本。そこに並ぶ葬送の方言を順に追いかけていくだけで、村ごとの死の扱いがぼんやりと見えてくるらしい。埋め墓と参り墓の呼び分けも、その語彙の底に沈んでいた。

サンマイ、ミハカ、ヒキバカ、ラントウ

埋め墓の呼び名は、土地ごとにばらばら。ミハカ、サンマイ、ヒキバカ、それに単にボチと呼ぶ村まであった。元は仏教の言葉。三昧はもともとサマーディから来た言葉で、火葬場や墓所を指す古くからの言い回しとして使われてきた。

関西ではこのサンマイが圧倒的に多い。贅沢三昧の三昧と同じ字だ。毎日のように耳にするあの言葉が、じつは墓場と同じ字でつながっていたと知ると、なんだか妙な気分になってくる。

参り墓のほうは、ラントウバ、ラントウ、タッチョウバと呼ばれた。卵塔場が縮んだのがラントウで、語源が禅僧の卵形の墓塔だから、寺と結びついた呼び名だと分かる。困ったことに、参り墓のほうをサンマイと呼ぶ土地もある。ここがややこしい。

大阪府阪南市の和泉鳥取や黒田では、埋め墓をサンマイ、ミハカと呼んだ。参り墓はラントウ、マイリバカ。埋め墓に置かれたのは木の卒塔婆と目印の石、それに獣除けの竹囲いだけで、ほかには何も無かった。

参り墓は菩提寺の境内に建てられた。型はいろいろ。石塔は角塔墓に五輪塔、宝篋印塔とまちまちで、家の格や時代によって選ばれ方ががらりと変わった。境内の石は一基ずつ顔つきが違う。

下出に火葬場ができたのは、昭和三十五年だった。それを境に、この一帯の葬り方は今のかたちへ切り替わっている。看板も案内も無し。和泉鳥取や黒田には、埋め墓の面影を残した墓地が今もあって、知らずに通りかかれば荒れた空き地にしか見えない。

滋賀で六十、奈良で五十九

民俗調査で拾われた集落の数を並べてみると、地域の偏りがはっきり出てくる。滋賀が六十、奈良が五十九。三重が四十五、京都が四十二と続いて、兵庫と福井が三十九ずつ、静岡は二十二という数字になった。近畿の突出ぶりは明らか。

関東と中部、中国、四国には点々と散らばる程度。東北や北海道、九州ではほとんど確認されていない。理由はまだ謎のまま。この分布の穴が何を意味するのかはまだ説明しきれていなくて、研究者の誰もはっきりした答えを出せていないのが現状だ。

人口密度のせいなのか。寺の勢力の差なのか、あるいは単に調査する人の足がそっちへ向かなかっただけなのか。どれもありそうに見えて、どれも決め手に欠けているから、この話はいつまでたってももどかしいままだ。

奈良で濃いのは大和高原だ。柳生と都祁のあたりには、土葬と両墓制がずいぶん長く生き延びた。柳生といえば、剣豪の里として誰でも一度くらいは名前を聞いたことがあるはずの、あの柳生のことだ。

埼玉県新座市の大和田にも例がある。普光明寺が参り墓。岾上と三本木が埋め墓で、この組み合わせが江戸の初めから続いていたというから、関東の平野にも根を張っていたことになる。

福井の若狭なら、犬熊、大谷、大戸、小村、加茂、志積の集落が並ぶ。三重の志摩なら、相差、石鏡、今浦、国崎、坂手、菅島。長野の佐久地域にも。海辺にも山あいにも例が散っていて、両墓制が土地の形をまるで選んでいなかったことがよく分かる。

福井と塩飽、志摩の二十二集落を調べた研究もある。二つの墓が村の軸に対してどんな角度をなしているかを測って、そこからAからEまで五つの類型が立てられた。墓の置き方にまで型があったらしい。なかなか細かい。

佐柳島の浜に、墓がせり出していた

香川県多度津町の佐柳島は、多度津港から北西へ十四・八キロの海に浮かぶ細長い島だ。面積は一・八三平方キロ。南に本浦、北に長崎という二つの集落があって、そのどちらにも埋め墓と参り墓が揃ったまま、最後まで残った。

長崎の埋め墓は、昭和四十年四月三日に香川県の有形民俗文化財に指定された。場所は海沿いの狭い平地。墓が浜へ向かってせり出すように並んでいて、写真で見ただけでも思わず息をのむような光景になっている。

形は一様じゃない。青竹を立てて囲うイガキ型があれば、石をうずたかく積み上げる積み石型もある。海浜にそのまま並ぶ埋め墓まであって、風波が打ち寄せたら今にも流れ出しそうだと、取材で書かれたこともあった。

志々島の屋根つきの小屋

隣の志々島には、屋根をつけた木の小屋が建ち並んでいる。霊屋と呼ばれる覆い。簾を垂らした小屋たちがまるで肩を寄せ合っているようだと、ある取材記者は墓の上に並ぶその眺めを書き残した。

島を訪れたある旅行者は、船を降りて数歩でそれを見つけた。その人の記録によると、小屋の屋根は色とりどりだったという。墓場なのに華やか。墓地があるのは海沿いの道のちょっとした空き地で、参り墓のほうは坂を少し上がった寺の近くに置かれていた。

壊れたもの、傾いたものが多い。最盛期には千人いた島民が、今では二十人まで減ってしまった。そんな島では墓に参りに来られる者がもういないから、手入れの手が回らなくなるのも当然の成り行きだ。

香川県歴史博物館の田井静明は、純粋な両墓制が残っている地は皆無に近いと語った。時間切れは近い。火葬の普及と過疎、それに衛生面と景観の問題がいくつも重なって、あちこちの島で墓のかたちが崩れていく。

高見島、粟島、本島の笠島や甲生にも、似た墓地が点在している。土葬を経験した世代がいなくなれば、二つの墓をどう使い分けていたかを聞ける相手も一緒に消えてしまう。残された時間は長くない。

四十九本の塔婆で囲む

土葬の埋め墓には、地面の上に据える仕掛けがあった。名前は四十九院。地下に埋めた寝棺の長方形の輪郭に位置を合わせて、四十九本の小塔婆を立て、埋めた場所をぐるりと囲う造りだ。

元になったのは兜率天にある四十九の内院で、それを地上にそのまま写し取った。願いは一つ。弥勒菩薩の浄土へ死者がちゃんと往けるように、という祈りを込めて組まれた、墓の上の小さな装置だった。

関東では屋根のついた家の形に作られる。寝棺をすっぽり覆うほどの大きさで、正面や四面に鳥居門を付け、野辺送りの輿の役まで兼ねていた。関西型には屋根が無い。墓標を囲む柵のように、小塔婆がずらりと並んだ。

新潟では、堂や小祠のかたちをした四十九院が各地に散っている。埼玉と群馬では十七世紀から十八世紀にかけて、石で造った四十九院がずいぶんたくさん建てられた。奈良では六十歳を超えて死んだ者にだけ設けたという。若死には何も無し。

高野山の大名霊屋も同じ発想。四十九本の石の長足卒塔婆と木の角柱卒塔婆でぐるりと囲み、正面には鳥居を建てるという、ずいぶん大がかりな形式をとった。大名も百姓も、最後は四十九という数字に頼っていたわけだ。

その塔婆が倒れきったころ、埋め墓は草に呑まれる。四十九という数は、死者が次の生を得るまでの四十九日とも重なって、村の誰もが体で覚えていた区切りになった。忘れようのない数字。

百三十メートルと、三百七十メートル

福井の若狭と塩飽諸島、三重の志摩。この三地域の二十二集落で、住まいから墓までの距離を実測した研究がある。参り墓は平均百三十メートル。そのうち八割強が二百メートル以内に収まっていて、暮らしのすぐ隣に置かれていたことがよく分かる。

手ぶらで行って帰れる距離だ。盆や彼岸に花を提げて歩くとなると、このくらいがちょうど限度だったのかもしれない。家から墓までの道のりの長さが、そのまま村の暮らしにとっての、ひとつの物差しにもなっていたわけだ。

埋め墓のほうは、平均で三百七十メートル前後まで離れる。倍以上の遠さ。二つの墓のあいだは、百メートル以下から九百メートル超まで幅があった。埋め墓は決まって村のシモ側、ケの側へ寄っていて、カミとシモという民俗の方位に沿って死体の置き場が先に決められていた。

この距離の差が、両墓制の肝になる。ところが全国の事例を見渡すと、二つの墓がすぐ隣り合っている例も相当に多い。隣接両墓と呼ばれる型。こうなってくると、墓が一つだけの普通の単墓制との線引きが、とたんにひどく怪しくなってくるから困る。

じゃあ両墓制って、どこまでが両墓制なのか。距離で切るのか。参るか参らないかで切るのか、研究者のあいだで基準が揃わないうちに、現地の墓のほうが先に消えていった。問いだけが、ずっと残されている。

墓を守っていたのは、村の外の男だった

埋め墓には、管理する者がいた。三昧聖という。墓所の庵室に住み込んで、火葬と埋葬、それに墓地の手入れまでを一手にまとめて引き受けた、俗聖と呼ばれる人たちのことだ。村人からは墓守とか隠坊と呼ばれていた。

文献での初見は十五世紀の初め。聖聡の『浄土三国仏祖伝集』に名前が見える。それより前から、行基集団や民間の念仏聖が葬送に関わった形跡もあり、近世には行基系の三昧聖が畿内近国に数多く住みついた。根っこはかなり古い。

五畿内と近江、丹波の三昧聖は、東大寺勧進職竜松院の配下に置かれていた。れっきとした組織。地域ごとに組頭と聖総代を立て、俗体の者と法体の者がいて、法体は阿弥号を名のり、直綴を着ていた。

死体を扱う仕事は、こうして村の外側へ括り出されていった。怖さの出どころはここ。穢れを引き受ける人間を村の縁に置き、その人の住む場所まで縁に置いたことと、埋め墓が怖くなったことは無関係じゃない。

子どもには、あそこへ行くなと言い聞かせる。理由は説明されない。行くな、それだけだった。死体を扱う者と死体の埋まる場所をまとめて縁へ追いやったから、そこは村の内側からは見えない領域になっていった。

稗田の埋め墓で見たもの

奈良の真言宗の僧が、県の北部の埋め墓を歩いて回った記録を残している。行き先は三か所。郡山駅に近い稗田地区と七廻り峠、大保町の尾羽根だ。道の入口に立つ六地蔵が、まるで呼ばれでもしたかのように自分を迎えてくれたと、その僧は書き留めている。

稗田の埋め墓には、棺を置くための場所があった。石机には村の名前。奥の石机に「稗田村」の三文字が刻まれ、そばには枕石と呼ばれる自然石と草刈り鎌、木の塔婆、野位牌が置かれていた。埋め墓でおなじみの顔ぶれだ。

墓標は、平成二十年代のものから令和三年のものまで並んでいた。昔話どころじゃない。この村は、ついこの間まで人を土に埋めていたわけで、埋め墓はまだ現役の場所として、そこにちゃんと息をしていたのだ。

四十九日の塔婆が立ち、竹を組んだ供物の机が置かれる。机は朽ちるまでそのまま。誰かが片付けに来ることもなく、そのうち倒れて土に返っていくけれど、埋め墓の道具はそれでいい。最初から消えるように作られている。

この僧は、かつてチベットで鳥葬を見た。自分もそうしてほしいと強く思ったそうで、自然に還れるから、という理由らしい。気持ちは分かる。石塔の前で手を合わせるより、草に埋もれた土饅頭のほうが死者に近いと感じる人は、昔も今も一定数いる。

二メートルの穴を掘る役

ルポライターの高橋繁行が『土葬の村』を出したのは、二〇二一年二月だった。歩いた先は、奈良の大保町、柳生の里、月ヶ瀬、田原地区。京都府の南山城村と、三重県の島ヶ原にも足を運び、土葬がまだ生きている集落を自分の足で回って書いている。力の入った一冊。

村で人が死ぬと、穴掘り役が三人から四人選ばれた。掘る深さは二メートルほど。棺を収めて土をかぶせたら、上を土饅頭のかたちに盛り上げ、墓標を立てて、四十九本の塔婆で井垣のように囲った。

島ヶ原には棺割りの風習が伝わる。ただし両墓制ではなかった。土地が狭くて、墓を二つ構える余裕がなかったからで、同じ土葬でも地形が違えば墓の数まで変わってくる。村の墓は、土地の写し絵みたいなものだ。

村人の言葉も書き留められていた。死んだら故郷の土に還りたい、それだけや。理屈じゃない。この本のなかでいちばん重く響くのは、学者の説明でも統計の数字でもなく、ぽつりとこぼれたこの一言のほうだ。

大保町では、ほぼ百パーセントが土葬だという。火葬率が九十九パーセントを超えた国の内側で、集落ひとつぶんの例外がしぶとく生き残っていたわけだ。埋め墓は過去の遺物じゃない。

今も使われている場所が、確かにある。自分の番はいつか来る。穴掘り役は当番で回ってくるので、村の男はたいてい一度は、他人の墓穴を掘った経験を持っていた。

昭和二十三年五月三十一日、法律第四十八号

締め上げたのは法律と設備。両墓制の息の根を止めにかかったのは、怪談のほうじゃなく、墓地、埋葬等に関する法律だった。昭和二十三年五月三十一日に法律第四十八号として公布され、同じ年の七月十三日には厚生省令第二十四号で施行規則まで出ている。

この法律は、土葬そのものを禁じてはいない。埋葬できる場所を、墓地として許可を受けた区域に限っただけだ。これで三昧は使えない。村はずれの墓所を勝手に使えなくなったうえ、条例で土葬を締め出す自治体も増えて、実質的に土葬を選べない土地が広がった。

日本で最初に火葬された記録は、七〇〇年の道照だ。三年後には持統天皇。それでも火葬は長く支配者層のものにとどまっていて、近世に入ると、秀吉も家康も結局は土葬のほうへ戻っている。

決定的だったのは、火葬場の普及。骨壺に納まった遺骨は腐らない。腐らないものは穢れないし、穢れないなら、暮らしの場からわざわざ遠ざけておく理由もきれいに消える。肉体と霊を空間ごと切り分ける必要が、根こそぎ無くなった。

佐柳島で土葬をやめたのは、一九九〇年代あたりだという。阪南市なら昭和三十五年。地域ごとに時期はずれても、どこも似た道をたどった。埋め墓は共同墓地として読み替えられて、土地ごと整地され、石塔の建つ普通の墓地へと変わっていった。

墓じまいの波も重なる。参り墓の石塔を撤去して、寺の永代供養墓へ移す。その手続きの書類をいくら眺めても、埋め墓は一度も出てこない。どこに誰が埋まっているのか、もう誰にも分からないから、書類の上では最初から無かったことにされている。

因習村という言葉が広まってから

両墓制が怪談の道具として扱われだしたのは、そう古い話じゃない。下地は、一九六〇年代から七〇年代の秘境ブームとオカルトブーム。横溝正史の村ものが大量のフォロワーを生み、その手の題材は当時、土着信仰とか民俗学とか、フォークロアと呼ばれていた。時代の空気だ。

二〇〇〇年代の洒落怖ブームで、閉じた村の話がもう一度掘り返される。時代は下って二〇二〇年代。SNSで「因習村」という四文字が一気に定着した。山奥や離島、壊してはいけない祠、理由の説明されない禁止事項と、定番の部品がひとつ残らず出揃っている。

ひぐらしのなく頃に、獄門島、八つ墓村。並べてみれば系譜はちゃんとつながっていて、両墓制はその部品にぴたりとはまった。はまり役だ。墓が二つあって、片方には誰もいなくて、片方には誰も行かないのだから、はまらないほうがおかしい。

しかも創作じゃなく、県の文化財に指定された実物が瀬戸内に建っている。本物は強い。作り話より実物のほうが不気味だ、という反応がよく付く。写真を見た人が、行政が文化財に指定しているところまで知って二度驚く、という流れも毎度おおむね決まっていた。

民俗学に詳しい人たちからは、毎回ほぼ同じ訂正が入った。怪談じゃない、衛生と土地利用の合理的な仕組みなんだ、という指摘だ。どっちも正しい。村の側が合理的に作った仕組みが外から見ると怖い、というだけの話でもあって、どちらの言い分も外れていない。

ネットで出回る画像の多くは、志々島か佐柳島で撮られたもの。まれに本島の笠島や甲生が混じる。撮影地が伏せられたまま画像だけがひとり歩きして、そこへ心霊スポット扱いの書き込みがぶら下がった。見世物じゃない。島の人にとっては、先祖の墓だ。

本島で見えなかったつながり

二〇二二年の十二月、丸亀市沖の本島と三豊市の荘内半島を歩いた取材者がいる。案内役は三宅邦夫。地元のガイドだ。この取材者は、埋め墓と参り墓の対応関係が現地では目に見えるかたちになっていない、と書き残した。

どの土饅頭が、どの石塔に結びつくのか。住民に聞くしかない。外から来た人間がいくら墓地を眺めても、二つの墓をつなぐ糸は見えてこないし、見えないから余計に想像がふくらむ。

二十年前の研究や記事は山ほど出てくるのに、近年の調査記録はほとんど無い。そんな嘆きも添えられていた。土葬を実際に手伝った世代への聞き取りが、いまや最後の窓口になっていて、その窓口も年々細くなっていく。

骨を拾わない村もあった

中央大学の岩田重則は、二〇二五年四月に『火葬と土葬』を出した。副題は「日本人の死生観」。この本で岩田が挙げたのは、両墓制よりさらに極端な例で、墓どころか自宅の位牌すら無い集落が実際にあった。無墓制という。

集落の火葬場で焼いても、骨をほとんど拾わない。納める先も要らない。拾わないのだから当然だ。両墓制が肉体と霊を二箇所へ分けたのだとすれば、無墓制のほうは肉体を最初からあっさり手放していたことになる。

岩田はもう一つ、身も蓋もない指摘をしていた。先祖代々の墓という考え方は、江戸後期に芽が出て明治に広まった、新しい習慣にすぎない。意外と新しい。日本人がずっと一つの石塔を守ってきたと思ったら大間違いで、むしろ両墓制のほうが古い層に属する。

名前が消えるまでの時間

埋め墓への参りを、四十九日で切る村があった。一年で切る村もあれば、三年で切り上げる村もある。あとは草任せ。弔い上げを済ませた死者は個人の名前を失って、先祖という大きな集合の中へ、少しずつ溶けていった。

名前が消えるまでの時間が、村ごとに決められていた。だから埋め墓の土饅頭には、そこに誰が埋まっているかを示すものが、年月とともに何ひとつ残らなくなる。木の墓標は腐る。竹も倒れて、三十三年も経てば墓だったことすら地面から読み取れない。

草の下は、ただの土へ。それを恐ろしいと感じるのは、名前を残すのが当たり前になった、今の私たちの側の感覚だ。埋めた人たちのほうは、忘れられることのほうこそが死者への手向けなのだと、ごく自然に考えていた。

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