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👹 鬼の子孫を名乗る家――「鬼は内」と唱え、鬼の血を千年守る

どこの家も豆をまく。節分の夜に「鬼は外、福は内」と声を張るのが決まりごとだ。ところがこの国には、逆に「鬼は内」と唱えて鬼を家へ呼び込む人たちがいる。自分たちこそ鬼の末裔で、追い払われる鬼は我が家の祖先なのだと信じ、千三百年も血筋を守ってきた家が本当にあるんだよな。

伝説の中の話じゃない。奈良の山深くには、鬼の子孫を名乗る当主が今もいる。山奥にこもって暮らしていると語られることもあるけれど、実際は週末ごとに山へ通って宿を開けてきた人だ。

鉄斧を担いだ赤鬼と、水瓶を抱えた青鬼

話は修験道の開祖、役小角(えんのおづの)の時代までさかのぼる。役行者と呼ばれる、あの人物だ。伝承では、人々を苦しめていた二匹の鬼が行者に捕らえられ、調伏された。赤鬼の前鬼(ぜんき)と青鬼の後鬼(ごき)という二匹で、この二匹はじつは夫婦の鬼だったと伝わっている。

改心した二匹は、そのまま行者の弟子になった。前鬼は義覚、後鬼は義玄という名をもらったとも伝わる。前鬼は鉄斧を手に行者の前を歩いて道を切り開き、後鬼は水瓶を携えて行者のすぐ後ろに従っていった。役割分担がはっきりしている。

この夫婦の鬼が、鬼の子孫伝説の祖にあたる。二匹には五人の子があったと伝えられ、その子らが五つの家を興したという。いわゆる「五鬼」だ。行者坊の五鬼継、森本坊の五鬼熊、中之坊の五鬼上、小仲坊の五鬼助、不動坊の五鬼童と、どれも姓に「五鬼」を冠している。

谷の宿坊で、五つの家が山を守った

五つの家が住みついたのは、奈良県吉野郡下北山村の前鬼という土地だった。大峰山で修行する修験者のために宿坊を営み、山を守ってきたと伝わる。時代が下るにつれ、五家の多くは絶えるか山を下りるかして消えていき、小仲坊を継ぐ五鬼助(ごきじょ)家だけが残った。たった一軒だ。

近年伝えられるところでは、当主の五鬼助義之さんがちょうど六十一代目にあたるという。六十代を超えて、鬼を祖とする家が千三百年ものあいだ、血脈を絶やさずにこの谷までつないできたわけだ。正直、ちょっと寒気がする。

追われる側の子孫は「鬼は内」と唱える

鬼を祖先とするなら、節分の「鬼は外」は自分の先祖を追い払う文句になってしまう。呪いの言葉みたいなものだ。だから鬼の子孫を名乗る家や、鬼にゆかりの深い土地では「福は内、鬼は内」「鬼は内、福は内」と唱え、鬼を家へ招き入れる。追われる者を迎え入れるこの逆転の作法は、鬼を悪と決めつけてきたこっちの常識を静かに揺さぶってくる。

岩に押された手形と、「鬼死骸」という地名

鬼の伝説が土地の名前に刻まれた例もある。岩手の県名の由来として語られるのは、悪さをした鬼が二度と来ないと誓い、その証に岩へ手形を押したという話だ。手形を押した岩。だから岩手。

県内には、討たれた鬼の亡骸が埋められたと伝わる「鬼死骸(おにしがい)」という地名が近代まで実在した。鬼退治の英雄譚の裏で、殺された鬼の骸を悼み、その名を地名として残し続けた人たちがいた。鬼はいつも討たれるだけの怪物だったのか。そうでもなかったらしい。

鬼と呼ばれたのは、誰だったのか

民俗学では、鬼はしばしば別の何かの影として読まれてきた。まつろわぬ民、山に生きた異形の人々、中央の支配に逆らった土着の集団の記憶が、鬼という姿に投影されたという見方だ。里から見れば恐ろしい怪物。山の側から見れば、それは自分たちの祖先で、共同体そのものだった。

鬼の子孫を名乗る家が現にある。鬼の骸を悼む地名も残った。二つ並べると、「鬼」という言葉が勝った側から負けた側へ貼られた烙印だったのかもしれない、という線がうっすら見えてくる。

投げた豆が、誰かの祖先の顔に当たる夜

この話が背筋にくるのは、ただの伝説で終わらないからだ。代数は六十一代。当主も現にいる。こっちが毎年当たり前に「鬼は外」と豆を投げるその瞬間、山奥では追われる鬼を祖先として祀り、「鬼は内」と唱えている。この非対称は、歴史の急所を突いている。

鬼退治の物語はいつも英雄の側から語られ、討たれた鬼が何者で何を守ろうとしていたのかは、めったに出てこない。前鬼は違った。前鬼と後鬼の末裔は、討たれ、恐れられ、追い払われる側の記憶を、千三百年かけて絶やさず抱えてきた。敗者の側から見た日本史の、生きた化石みたいなものだ。

考えてみてほしい。節分の夜、あなたが投げた豆は、誰かの祖先の顔にぶつかっているのかもしれない。山の宿坊では、鬼の血を引く当主が外から響く「鬼は外」の声を聞きながら、静かに祖先へ手を合わせている。

鬼は本当に外の怪物か。それとも、こっちが外へ追いやってしまった、誰かの家族だったのか。その谷を実際に訪ねたテレビの取材班や、泊まり歩いた登山者たちの記録を追ってみると、答えは意外なほど地に足がついていた。

障子の向こうから「六十一代目の鬼です」と声がした

奈良県下北山村。国道から分かれた林道を奥へ入り、ゲートの手前で車を降りる。そこから先は山道になり、三十分ほどひたすら歩き続けると、人の気配のない谷にふいに建物が見えてくる。数えて五棟。

二〇二〇年二月二十八日、テレビ東京系の番組「たけしのニッポンのミカタ」が、この山奥の谷をわざわざ訪ねた。手がかりは地名の「前鬼」だけ。取材班が戸口で声をかけた。すると障子の向こうから、返事があった。「六十一代目の鬼です」

出てきたのは五鬼助義之さん。家には千三百年分の系図が伝わっているらしい。番組はその系図を映しながら、鬼の棲家の正体を追いかけていった。たどり着いた答えは拍子抜けするほど素朴なもので、ここは山へ入っていく行者を泊めるための宿だった。

暗峠で悪さをしていた二人に、役行者が土地と役目を与えた

五鬼助という名字の発祥地は、下北山村の前鬼だ。地名のほうが先にあった。そこに住みついた者たちが、地名をそのまま自分たちの名字としてあとから背負った、という順番になる。

前鬼と後鬼は、もともと生駒山の暗峠あたりで悪行を働いていたと伝わる。役行者に教化されたあと、二人は大峰の東の谷へと送られて、そこで山へ入る修験者を受け入れよと命じられた。追放に近い処遇だったとも読める。山奥への左遷みたいなものだ。

土地を与えるかわりに役目を背負わせる。この形は、山の民を体制の内側へ組み込むときの定型でもあった。鬼を退治してそれで終わりにするんじゃなく、鬼を管理者に仕立て直して、その鬼に山を管理させるやり方だ。なかなかうまい。

五人の子が五つの坊を開いた。その子孫が千三百年、同じ谷で同じ仕事を続けてきた。血の物語に見えるけれど、中身をよく見ると、代々の業務をそのまま引き継いできた家業の継承にずっと近い。

明治五年の布告で、四軒が山を下りた

前鬼の集落には、かつて五つの宿坊が並んでいた。行者坊、森本坊、中之坊、小仲坊、不動坊。五鬼継、五鬼熊、五鬼上、五鬼助、五鬼童がそれぞれの坊を守り、田畑を耕しながら大峯奥駈道を歩く修験者を迎えた。五つ並べば、ちょっとした村だ。

崩れ始めた時期ははっきりしている。きっかけは明治五年の修験道廃止令。山伏の組織そのものが上から解体され、前鬼の谷まで登ってくる行者がみるみるうちに激減していった。宿坊は客を失う。

四軒はそれでも粘った。明治の半ばには、五つの坊がまだ揃っていたという記録も残る。ところが昭和四十年頃までに四家が次々と山を下りていき、谷に残ったのは小仲坊ひとつきりになってしまった。

五坊のうち、不動坊や行者坊の建物はとうに失われた。今も谷に立つ五棟は、小仲坊とその付属の建物になる。残った一軒が、消えた四軒の分まで山をまるごと抱え込んできた格好で、その重さは想像するだけで肩にくる。しんどい話だ。

鬼の血が絶えたわけじゃない。食えなくなっただけだ。千三百年を支えていたのは神秘の力なんかじゃなく、行者たちが落としていく宿賃と、山での地道な仕事だった。そこが切れてしまえば、村はあっけなく消える。

築五百年の母屋、自家発電、湧き水の飯

小仲坊の母屋は築五百年を超えるといわれる。電気は自家発電でまかない、水は谷の湧き水を引いている。携帯の電波さえ心もとないこの谷へ、当主夫婦は週末になるたびに山を上がってきて、宿の戸を開けてきた。通いの宿坊なのだ。

五鬼助義之さんが六十一代目を継いだのは、五十四歳のときだった。大阪方面から車で片道三時間半もかかる距離を、毎週往復してきたというから、ちょっと頭が下がる。妻の三津子さんが台所を預かる。

泊まれるのは土日祝。一泊二食付きで八千円、素泊まりなら四千円という値段だった。山奥の宿坊にしては驚くほど安く、その宿に泊まっていく行者の数は、年に百五十人ほどになるという。

予約の要らない素泊まりの小屋は、通年で開いている。ゲートから集落まではおよそ二・五キロで、行者堂の前まで車は入れない。歩くしかない。荷物を自分の背中に担いで歩ける者だけが泊まれる宿で、その条件だけは千三百年ずっと変わらずにきた。

寝屋川市の広報誌も、この夫婦を取材している。令和五年七月号の記事の中でじっくり語られていたのは、鬼の霊験なんかじゃなく、掃除と薪と味噌の話だった。そこがいい。

谷に響いていたのは、薪を割る音だった

登山者の宿泊記も多い。二〇一九年に泊まったという人の記録は、道中から細かい。前鬼口のバス停で降りたあと、前鬼川沿いの林道を三時間ほどかけて、ひたすら歩いて登っていったらしい。水の青さと滝の連なりに、何度も足が止まったそうだ。

たどり着いた集落で最初に耳に入ったのは、薪を割る音。乾いた音が、谷いっぱいに反響していたという。建物は素泊まり用の棟、予約制の棟、テント場、そして行者堂という並びで、どれも掃除が行き届いていた。気持ちのいい宿だ。

夕食は、当主夫婦と同宿の客がひとつの卓を囲む形だった。派手なものは何も出ない。行者堂の中には役行者の像が据えられていて、入口の石の両脇には小さな地蔵がちょこんと並んでいた。

同じ人は、二〇二三年の春にもう一度訪れている。そのときは枝垂れ桜がちょうど満開で、山の斜面のあちこちにまで、ミツマタの花が点々と咲いていた。谷の紙漉きの名残だ。当主は白装束の行者と、縁側で話しこんでいたという。

七年寝かせた味噌で、飯を何杯もおかわりした

別の訪問者の記録には、食卓の場面が残る。ルートは国道百六十九号の南下。途中の上北山村で見たミツマタの群生地が、じつは前鬼の谷から株分けされたものだと、その人は教わったそうだ。

不動七重の滝の前に立ったとき、その人はしばらくのあいだ、その場から動けなかったと書き残している。滝を過ぎると細い林道が続く。慎重にハンドルを切って、ようやく集落へ入った。

飯と味噌汁が、とにかくうまかったらしい。本人いわく、何杯もおかわり。味噌は自家製で七年寝かせたものだと聞かされ、広い部屋と、雨に濡れた山を見下ろす縁側まで用意されていた。

大峯奥駈道を歩き通した人が、会員制交流サイトに上げた投稿もある。書き込みはごく短い。前鬼口の小仲坊ですごい人に会った、六十一代の五鬼助さんだった、という一文だけ。鬼の末裔というその一行に、読んだ人たちからの驚きのコメントがずらりといくつもぶら下がっていた。

三田藩の殿様は「鬼は内、福は内、富は内」と唱えた

「鬼は内」を唱える家の記録で古いものは、江戸の随筆に出てくる。摂津三田藩の藩主は九鬼家だ。姓にそのまま鬼の字が入っているのだから、節分に鬼を追い出す文句を唱えるのは、どうにも具合が悪い。

その作法を書きとめたのが、平賀蕉斎の『蕉斎筆記』だ。三田の医師・内藤慶伯に確かめたところ、家中の侍は確かにそう唱えるが、町人はやらないという返事だったという。侍だけの作法だ。

もっと具体的なのが、松浦静山の『甲子夜話』。静山は九代藩主の九鬼隆国に直接尋ねていて、隆国は怪しげな噂こそ否定したものの、豆まきの文句のほうは認めた。殿様に向かって豆を打つときは「鬼は内、福は内、富は内」、隣の間では「福は内、鬼は内」と唱えていた。富まで呼び込む。

『蕉斎筆記』は大正七年の『燕石十種』第三巻に、『甲子夜話』は平凡社の東洋文庫三〇六に、それぞれ収められている。二百年前の大名家の節分が、そこに一字ずつ残った。ありがたい話だ。

渡辺さんの家は、豆をまかない

節分をやらない家もある。渡辺姓の家では豆をまかない、という言い伝えが各地にあるんだ。理由はもちろん渡辺綱で、腕を斬り落とされた鬼のほうが子孫を怖がって近づかないから、追い払う必要がないという理屈だ。

昭和五十四年に出た『新潟県民俗地図』は、県内の各地でほぼ共通してこの俗信が見られる、と記録した。翌々年の『しただの民俗』は、下田地域で渡辺姓と佐々木姓が豆をまかないと書きとめている。佐々木さんもか。

昭和五十九年の『新潟県史』資料編になると、あの加藤清正の豪胆さを理由に豆をまかない家まで出てくる。清正が相手じゃ、鬼も分が悪い。平成十二年の『都道府県別日本の民俗分布地図集成』は、北海道で同じ言い伝えを拾った。

豆をまかないのは横着じゃない。まく必要のない家だという、静かな自慢でもある。平成十三年、池田貴夫が北海道開拓記念館の紀要に書いた論文には、新潟大学の学生アンケートが引かれている。渡辺姓の学生が、うちは豆をまかないと答えていた。俗信は平成でも現役だ。

窓を一センチだけ開けて、鬼を招き入れる寺

川崎市川崎区中瀬の千蔵寺は、「福は外、鬼は内」と唱える。本尊が厄神鬼王という鬼だからで、この鬼王はのみと小づちを手に、病の根っこを削り取る姿で表される。頼もしい鬼だ。

住職は朝からずっと祈祷を続けていて、夕方になると頃合いを見計らい、本堂正面の窓を一センチほど開ける。よその家で「鬼は外」と追い出された悪い鬼を、そこから入れるためだ。改めさせて世間へ返す。

世の中が平和になるように、昔からこうしているのだと住職は語る。受け皿の寺だ。全国あちこちで響く「鬼は外」の声には、追い出された鬼の行き先をこっそり引き受ける、ちゃんとした裏側があった。

奈良市の元興寺は「福は内、鬼は内」。ここには元興神という、悪者を退治する鬼が住んでいる。鬼が鬼を退治する。吉野にある金峯山寺蔵王堂では「福は内、鬼も内」と唱え、追われてきた鬼を迎え入れて改心させる。

京都府福知山市の大原神社は「鬼は内、福は外」と逆さまに唱え、藩主だった九鬼氏に鬼がついているから、という言い分だ。福を外に出してしまう。東京都台東区の真源寺は鬼子母神を祀るので、「福は内、悪魔外」。名古屋の大須観音と成田山新勝寺に至っては、鬼を追う言葉をそもそも省いて「福は内」だけを唱えている。

鬼が足を洗った砂が、桶に溜まっていた

奈良県天川村の天河大辨財天社も、「鬼は内、福は内」。節分の前夜、二月二日の午後七時から、社家の住まいで鬼迎えの神事が営まれる。前もって用意しておいた桶に、鬼が足を洗ったあとの砂が残っていれば、それが鬼の泊まった証になるという。翌朝、その桶を確かめる。

砂の有無を毎年見届ける人がいる、という一点が生々しい。桶を覗く役は、毎年決まった人が務めてきた。砂があれば鬼が来た、なければ来なかった、というそれだけの確認を、何百年も欠かさず続けてきた家がある。地味だけど重い。

天河の話には続きがある。天河の社家もまた、役行者に従った者の末裔を称してきた家だ。鬼を迎える役目を代々割り当てられてきたわけで、前鬼の五鬼助家とまるで同じ構図が、山ひとつ隔てた村にもあった。

新宿区歌舞伎町の稲荷鬼王神社も「福は内、鬼は内」で、鬼王の名を冠した神社は全国でここだけだという。ここからが怖い。江戸の文政年間のこと、加賀家の屋敷で夜ごと水の音がして、たまりかねた当主が手水鉢を斬りつけた。音は止んだが、以後その家には災いが続いたらしい。

手水鉢を支えていたのは、鬼の像だった。鬼切丸で斬られた肩の傷は今も鉢に残っていて、その鉢を最後に引き取って預かったのが、この神社だった。斬られたのは鬼のほう。

金棒を持った鬼に、受験生が手を合わせる

埼玉県比企郡嵐山町に、鬼鎮神社という社がある。創建は寿永元年。畠山重忠が菅谷館の鬼門除けとして建てた、という由緒が残る。境内はどこを見ても鬼だらけで、本殿のすぐ脇には、びっくりするほど巨大な金棒がどんと据えられている。

節分祭の掛け声は「福は内、鬼は内、悪魔外」。赤鬼と青鬼が年男に混じって豆をまくのだが、鬼が「鬼は内」と叫びながら豆を投げる絵面は、一度見たら忘れられない。参拝者の多くは受験生とその家族だそうで、鬼を強さと勝利の神として拝んでいく。鬼にあやかりに来る場所なんだ。

群馬県藤岡市の鬼石地区でも、「福は内、鬼は内」と唱える。弘法大師が御荷鉾山の鬼を調伏したとき、鬼が投げた石が落ちた土地だという伝説が、そのまま地名になった。鬼石神社はその石を床下に祀る。鬼は町の守り神で、毎年二月には鬼恋節分祭が開かれている。

佐渡では、豆から逃げた鬼が恩を返しにきた

民話の側にも「鬼は内」がある。昭和四十七年に野島出版から出た小山直嗣の『続越佐の伝説』には、佐渡両津の「鬼の田植」が収められている。豆に追われて逃げてきた鬼をかくまった家が、恩返しを受ける話だ。

平成二年にぎょうせいが出した『ふるさとの伝説』第十巻では、同じ話が「鬼は内、福も内」の題で載った。平成十年には、童心社から紙芝居にもなっている。子ども向けにまでなった。

宮城県村田町では「鬼は内、福も内」と唱える。渡辺綱が斬った鬼の腕を取り返された土地だから、鬼を逃がさないようにしなければならない、という理屈らしい。逃がさないための「鬼は内」。栃木県の鬼怒川温泉も、「福は内、鬼も内」で通している。

茨城県つくば市の鬼ケ窪に至っては、掛け声からして変わっている。「あっちはあっち、こっちはこっち、鬼ヶ窪の年越しだ」。逃げ込んできた鬼がどうにも気の毒に思えて、村の人たちはとうとう最後まで追い払えなかったという。やさしい村だ。

鬼という字を背負った名字

愛知県は鬼頭さんが多い。県内では上位百位に入り、三重県北部にも広がっている。この鬼は怪物のことじゃないらしく、集落の外側で、町の人とは別の暮らしを立てていた人々を指す言葉だった。

海の者、山の者。紀伊の海賊を討った功で名字を得たという伝承もあれば、熊野信仰と修験の土地で鬼の字を名乗った家も多い。九鬼、三鬼、そして五鬼助。名字の並びを追っていくと、鬼という字が山と海の境界に貼りついていたのが分かる。

熊野の海には、九鬼水軍の名が残った。その志摩の九鬼氏がのちに三田へ入って「鬼は内」を唱えたのだから、名字ひとつが二百年後の節分の文句を決めた勘定になる。名字は強い。

福知山市にある日本の鬼の交流博物館の館長は、鬼を政敵だと言い切る。朝廷に逆らった者、化外の民と呼ばれた者たちを指すのだという。『日本書紀』を開くと、佐渡に漂着した北方の人を見た当時の人が、魑魅が来たと恐れた記事まで載っている。鬼の中身は、人間の側にいた。

鉱山との縁を指摘する声もある。製鉄の火で目を痛めて、肌が真っ赤に荒れた人の顔が、そのまま鬼の顔になったのかもしれない、という見立てだ。角と虎柄の姿が定まったのは平安期で、艮の方角という鬼門の観念から、鬼の頭に牛の角が生えた。

大江山には、三つ別々の鬼の話が積もっている

同じ大江山の鬼でも、話には層が三つある。いちばん古いのが日子坐王の伝説で、『古事記』と八世紀の『丹後風土記残缺』に出てくる。土蜘蛛の陸耳御笠が人を苦しめ、崇神天皇の弟が討伐に向かうと、土蜘蛛は与謝の大山へ逃げ込んだ。ここが一層目。

二層目は麻呂子親王の伝説だ。聖徳太子の弟が英胡、軽足、土熊という三匹の鬼を追い、白犬の背に載せた鏡の光で土熊を岩壁に封じたという。鏡で鬼を封じるわけだ。

三層目が酒呑童子。いちばん有名なこの話では、安倍晴明の占いで、西山の妖鬼が王法を倒そうとしていると分かった。源頼光ら六人は山伏に化けて山へ入り込み、神から授かった酒で鬼をすっかり酔わせてから、首を落とした。

酒呑童子の側から見ると、山伏を装って酒を運んできた客に、不意を突かれた話になる。だまし討ちだ。鬼が悪いという前提をいったん外してみると、同じ筋書きがずいぶん別の顔を見せてくるから不思議だ。

最古の描写は国宝の『香取本大江山絵詞』で、南北朝期、十四世紀のもの。室町には能「大江山」。江戸で『御伽草紙』が刊行されてからは、浄瑠璃や歌舞伎の舞台を通って、すっかり庶民のおなじみの話になった。討たれる鬼の物語は、そうやって何度も上書きされている。

豆は、鬼への供え物でもあった

話は季節の変わり目から。節分は季節の変わり目で年に四回あるのに、冬から春へ移る二月のそれだけが特別扱いされてきた。季節の変わり目には人も自然も力が落ちるもので、そこへ目に見えない病魔が入り込んで疫病をはやらせる。病魔を鬼に見立てて追い払ったのが、豆まきの出発点だという。

博物館の館長の説明で面白いのは、豆の位置づけのほうだ。豆はもともと散供と呼ばれる奉納の品で、鬼には供えるから出ていってもらい、福には供えるから寄ってもらう。追い払うより先に、まず供える。

そう聞くと、「鬼は内」の側だけが特殊に見えなくなってくる。供え物を差し出した相手を、外へ出すか内に留めるかの違いにすぎない。差は紙一重だ。前鬼の谷で鬼を祀り続けてきた五鬼助の家は、その後者のほうを、千三百年もずっと選び続けてきた家なんだよな。

一夜で積んだ石段と、八月十六日の地獄

鬼が働いた跡もある。大分県豊後高田市にある熊野磨崖仏へ登る石段には、鬼がたった一夜で積み上げたという言い伝えが残る。自然石をそのまま重ねた階段で、今も登るのにひと苦労する。

約束では、一夜で積み終えるはずだった。ところが権現が鶏の鳴き真似をして夜明けを告げ、鬼は最後の一段を残して逃げ出したという筋も伝わる。だから今も段がひとつ足りない。登る側からすると、足りないどころの話じゃない。

千葉県横芝光町虫生の広済寺には、鬼来迎という地獄劇が伝わる。因果応報を演じる全国唯一の仏教劇で、昭和五十年には国の重要無形民俗文化財の第一回指定を受けた。毎年八月十六日の午後三時頃、施餓鬼供養のあとに一時間あまり上演される。真夏の地獄だ。

舞台には、鬼と亡者と地蔵が入れ替わり立ち替わり出てくる。見物するのも集落の人だ。地獄を自分たちでわざわざ演じてみせることで、本物の地獄のほうを遠ざける、そういう仕掛けになっていた。

鬼の面をつけた村人が、地獄の責め苦を演じる。演じ手は虫生の集落の人たち。鬼になるのは、鬼を追う側じゃなく、鬼をまるごと引き受ける側の人間だったわけで、そこがこの劇のいちばん効くところだ。

約束のほうが、血より長く保った

前鬼が千三百年続いた理由を考えると、血脈という言葉はあまり効かない。効いたのは役目のほうだ。行者を泊め、行場を守り、道を絶やさない、五鬼助家が抱え続けてきたのは血じゃなくその約束のほうだった。

二〇〇四年、大峯奥駈道は世界遺産に登録された。前鬼はその道筋にあたる。下北山村は前鬼を「聖地の中の聖地」と呼び、トチノキの巨木が立つ景色は千三百年前と変わらないと説明している。

継ぐ人もいる。五鬼助義之さんの長男の義峰さんが伝統を守っていきたいと語ってきて、彼を六十二代目として紹介する記事も出ている。谷の宿は、まだ続く。

この国のあちこちで豆が飛ぶ。同じ夜、山の谷では戸が開けられ、鬼が招き入れられる。鬼を追う声と鬼を迎える声が、千三百年ぶんずれたまま、同じ国の同じ一夜にちゃんと並んで響いている。

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