日が暮れて、家々の灯が消えた頃だ。若い男が音もなく戸を開け、娘の眠る寝間へそっと忍び込んでいく。これが夜這い(よばい)になる。乱れた性の風習として面白おかしく語られがちだが、実態はまるで違っていて、もっと冷たい話なんだよな。
正体は掟だった。村という共同体が男女の結びつきを厳しく管理するために張り巡らせた、緻密で恐ろしい決まりごとになる。個人の恋愛とは別物。村が若者の性そのものを制度として握っていた。
好き勝手に忍び込めたわけじゃない
夜這いは無秩序な放縦とは違う。村ごとに細かな作法とルールが決まっていた。多くの村では、男は一定の年齢に達すると「若者組(若衆組)」に加入し、そこで初めて夜這いの資格を得た。入る前の男には、その資格がない。
線引きも細かい。どの娘のもとへ通ってよいか、他村の男を村の娘に近づけてよいか、既婚者はどうか。こうした境目はすべて若者組の統制下に置かれていて、恋の相手選びにまで組の許しが絡んでいたわけだ。
罰もあった。掟を破って勝手をした者や、他村から娘を狙って忍び込んだ余所者は、若者組の私的な制裁を受けることもあった。娘の側にも、来訪を受け入れるか拒むかの意思はあったと伝わる。だから一方的な暴力とは分けて語られる例が多い。
性を、村ぐるみで秩序立てて分配する仕組み。それが夜這いの正体だった。甘い恋の話に見えて、中身は共同体が若者の体と将来をまとめて帳簿へ付けていくような、ひどく事務的な話に近い。
村が消える恐怖が先にあった
事情は切実だ。閉じた村の中で人口を保ち、次の世代を絶やさないためには、男女を確実に結びつけて子を生ませなきゃならなかった。当時の婚姻は当人同士の自由恋愛より、家と村の都合のほうが優先される。
夜這いは、正式な婚姻に至る前段階として、若い男女に出会いと結びつきの機会を与えた。妊娠すれば所帯を持たせる。そういう現実的な生殖のシステムでもあり、恋の自由に見えて、ゴールは最初から村の側に置かれていた。
困ることがもう一つある。狭い村では血が濃くなりすぎるのも困るから、祭りや行事の折に近隣の村と若者を行き来させて、それを避けた。夜這いを、外の血を入れる調整弁として使った土地もあったという。
昭和の戦後まで生きていた
民俗学者の赤松啓介は、自らの体験も交えながら、西日本の村々に残る夜這いの実態を記録した。単なる過去の遺物じゃない。地域によっては、昭和の戦前・戦後までちゃんと生きていた慣習だったことを、この記録が明らかにした。
証言によれば、山間や離島の一部では昭和三十年代頃まで、夜這いに類する風習が細々と続いた地域があったとされる。息の長い話なんだよな。終わらせたのは道徳じゃなく、時代の変化だった。
最初に消えたのは闇だ。夜間の電灯が普及し、警察制度と近代的な貞操観念が浸透していく。若者が都市へ出て若者組そのものが解体し、夜の闇と閉じた村という二つの条件が失われたとき、夜這いは静かに息を引き取った。
寝間の戸が守ってくれない暮らし
今の感覚で見ると、夜這いの怖さははっきりしている。個人の意思より共同体の都合が優先され、性が村の管理下に置かれ、誰が誰と結ばれるかを若者組という集団が差配していた。掟を破れば制裁が待つ。想像するだけで息が詰まる。
プライバシーという概念がない。家の戸締まりも意味をなさない。暗闇に紛れて、誰かが自分の寝間へ入ってくるかもしれない。その前提の上で毎日の暮らしが当たり前に回っていたこと自体が、今の目で振り返ると、どうにも薄ら寒い。
戸に鍵のなかった家
夜這いを好色な風俗として消費すると、肝心なところを見誤る。これは「個人」という概念がまだなかった時代に、共同体が人間を丸ごと管理していた、その一形態だ。恋愛も性も生殖も、すべてが村の存続という大きな目的にぶら下がっていた。甘い話は一つもない。
娘の寝間の戸には鍵がかからず、闇に紛れた訪れを最初から前提にしていたわけで、家の中でさえ個人の聖域はどこにもなかった。近代的なプライバシーもない。性的自己決定権も、もちろんない世界。
同時にこの風習は、閉ざされた村がどれほど必死に世代交代と血の更新を図っていたかの証でもある。人口を維持できなければ村は消える。その恐怖が、性を制度にした。
都市化と近代化は、夜這いを「野蛮な奇習」として葬り去った。見方を変えれば、共同体が個人を丸ごと呑み込んでいた時代の記憶まで、一緒に消したことにもなる。かつての村の夜。闇そのものが掟だった。灯りが闇を追い払ったとき、村が人の一生を握っていた時代も静かに終わった。
化粧品の鞄を提げて村を歩いた男
兵庫県加西郡下里村、今の加西市だ。明治四十二年三月四日、ここで一人の男が生まれている。本名は栗山一夫。のちに赤松啓介と名乗り、村の夜の話でしかなかった夜這いという言葉を、学問の側へ引きずり出した男だった。
十代の頃から化粧品の行商をして歩き、その道々で村の話を聞き集めては、独学で民俗を調べていった。講義は一度も受けていない。戦前は非合法だった共産党に入り、治安維持法違反で検挙されて牢へ入れられた経歴まである。在野という言葉が、服を着て歩いているような人なんだよな。
戦後は神戸市史の編集委員になり、市の埋蔵文化財調査の嘱託も務めている。『非常民の民俗文化』や『非常民の性民俗』の非常民は、柳田國男の言う常民からこぼれ落ちた層を拾うための言葉だった。華族も下層民も、常民の枠には入らない。だから別の器が要った。
『夜這いの民俗学』が明石書店から出たのは一九九四年で、二〇〇四年にはちくま学芸文庫で『夜這いの性愛論』と合本になった。いまも版を重ねている。赤松が死んだのは二〇〇〇年三月二十六日、九十一歳のときだった。自分の聞き書きが広く読まれ出したのを、九十を過ぎてからようやく見たわけだ。
聞き書きの相手は、村の名士じゃなかった。赤松が座り込んだのは記録を残さない側の家の板の間で、文字にならない部分を耳だけで拾い集めていくやり方だった。地味で根気の要る仕事だ。学界から長く無視されたのも、その方法のせいだと言っていい。
赤松の書きぶりだと、村でも町でも性の話は筒抜けだった。隠し事にならない。誰と誰がどうなっているかを村中が把握している、秘密が成立しない社会で、この筒抜けぶりのほうが今の感覚では薄気味悪い。
千二百年前の歌に、もう出てくる
この語、そんなに新しくない。語源は「呼ばう」で、相手の名を呼び続けるという意味になる。名を呼べば魂が寄ってくるという言霊の考え方が、この言葉の底のほうにずっと敷かれていたらしいんだよな。
最古の用例は『万葉集』の巻十二にある。他国によばひに行きて、大刀が緒もいまだ解かねば夜が明けた、という歌だ。よその村へ通って刀の紐も解かないうちに朝になってしまった男の歌が、七五九年までに編まれた歌集にもう載っている。千二百年以上前だ。
古代の婚姻は妻問婚と呼ばれる形で、男が女の家へ通い、人目を憚らず堂々と通えるようになることを結婚と呼んだ。夜這いは、その通い婚の末端が村の制度として生き延びたものと見ていい。特に盛んだった土地がある。房総から西の太平洋側、伊豆、知多半島、渥美半島、瀬戸内、九州あたりだ。
布団を抱えて宿へ出された娘たち
若者組へ入るのは十三から十五歳あたりで、成年式を経て加入する。集まる建物の呼び名は土地ごとに違い、青年宿、若衆宿、若者宿、若勢宿、寝宿、泊り宿、おやしょ、若イ者部屋と並ぶ。呼び名だけで八つ。ただの小屋としか呼ばない所もあった。
組の中にも段がある。小若衆、中若衆、大若衆と年齢で区切られ、段ごとに泊まる宿が割り振られた。仕事も重い。村内の警備に道路の修繕、火事が出れば消火にも走り、祭礼になると子供組を指導して行事の運営そのものを引き受けていた。
娘の側にも宿があった。三重県ではネヤ、ネンヤ、トマリヤド、ワカヤ、アソビヤと呼ぶ。伊勢市有滝、志摩郡畔名村、越賀村、船越村あたりに記録が残っている。十二、三歳以上の未婚の娘たちが、決まった民家や納屋へ、夕飯を済ませたあとにぞろぞろと集まってきた。
縄をない、草履を作り、繕い物をする。夜なべ仕事の場でもあって、遊びの時間とは違う。そこで手が止まれば宿親の小言が飛び、技術を仕込まれながら、村の女たちの序列も自然と覚えていった。まるで厳しい部活だ。
宿親という大人がついていた。娘をしつけるだけじゃなく、相手選びの相談にも乗る。親代わりの世話役が、血のつながらない家にもう一人いた勘定になるわけで、娘の暮らしは、二つの家にまたがる格好になる。
愛媛県の中島町では、学校を出た若者がまるごと若者組へ入った。二十五歳になるか所帯を持つまで、泊まり宿で夜だけの合宿生活を続けた。盆踊りの支度、祭礼の神輿かき、農産物出荷の仲仕役と、奉仕の労働が一年の予定にびっしり詰まっている。休む暇がない。
娘のほうも、小学校を終えると布団を持たされて娘宿へ出される家がほとんどだった。地元の資料には但し書きもある。よばいは若者が娘宿へ遊びに出かける様子を面白おかしく言ったもので、自由奔放な男女関係だけを指す語じゃない、とある。言葉のほうが先に一人歩きした典型。
掟を破れば罰が来る。罰金を取られることもあれば、村八分に近い扱いへ落とされることもあった。他村から無断で入り込んだ余所者には若者組の私的な制裁が待っていて、村の中も村境も十代の若者が実力で守っていた。
答志島では、いまも生きている
三重県鳥羽市、伊勢湾で一番大きい島が答志島になる。東西およそ六キロ、南北一・五キロの細長い島で、この答志地区にだけ寝屋子という慣行が生き残った。ここからが面白い。
男子が十五になると、仲間数人で相談して寝屋親を決める。頼まれた家は自宅の一室を貸してやり、中学を出た長男たちが五、六人で組を作って、毎晩そこへ泊まりに行った。寝屋親の側も大変だ。親は家の広さと人柄を見て選ばれる。
解散は二十六から二十七歳あたり。それでも縁は切れない。寝屋親に頼まれるのは名誉で、同時に相当な負担でもあり、寝屋子どうしは一生、実の兄弟のように付き合っていく。鳥羽市はこの慣行を、昭和六十年十二月十九日に市の指定文化財にした。
村本由紀子と遠藤由美が、二〇一五年の『社会心理学研究』第三十巻三号に報告を書いている。変わり方が面白い。年齢の混ざっていた組は同世代だけの組へ変わり、しつけの場から人間関係を作る場へと機能も移っていた。島という閉じた環境が支えていた仕組みが、条件の変化にもちゃんと耐えて、自前で回り出した格好だ。西日本の漁村に広く見られた慣行のうち、本格的に続くのはここだけ。
燗瓶と魚を持って、母が頭のもとへ行った
次は九州の村。熊本県水俣市の近郊に、深川村という村があった。民俗学者の森栗茂一が一九九三年に発表した論考には、この村の聞き書きが厚く入っていて、明治末から大正初めにかけての話だ。
男は十五で尻染め式という通過儀礼を受ける。大根に墨を塗る。そういう妙な手順の儀式だった。女は十六になると、母親が燗瓶と魚を持って青年頭のところへ行って娘を預け、そこから先は青年頭の差配の下に入った。
男宿が四つ、女宿が三つ。他村の若者が村へ来る時は、赤黒の丸提灯を提げてくる決まりで、それが警察の使うのと同じ形の提灯だった。青年頭がその男を認めなければ、村の娘には近づけない。提灯が通行証を兼ねていたわけだ。
青年頭は村の若者を束ねる責任者で、誰を通し誰を止めるかの判断が、この一人に集まっていた。村境の関所そのもの。娘が身ごもった時は頭が本人と親の双方へ責任を問い、米が一俵五円の時代に、二百円を出すか所帯を持つかを迫られた。逃げ道はほぼない。
村の娘が他村へ嫁いでいく日には、迎えに来た先方の一行へ向けて豚の臓物を投げたり、水をかけたりした。娘を取られる腹いせだ。祝いの席が、半分喧嘩のようになった。
同じ論考は、この仕組みが壊れていった順番も書き留めている。大正の中頃、県の指導で青年宿が青年団へ切り替わると、倶楽部に寝泊まりしなくなって、頭という責任者が消えた。崩れるのは早い。昭和の初めには村に私生児が増え、馴染み子と呼ばれる。
責任を問う相手がいない。だから五十円か六十円を渡して話を終わらせるほかなく、娘は嫁に行きそびれて、行かず後家のまま歳を取った。聞いていて、やるせない話なんだよな。
森栗の見立てだと、崩したのは道徳より貨幣だった。現金が村へ流れ込むと親が決める縁組が主流になり、娘の選択権を守っていた青年頭の権威も同じ速さで薄れていく。制度が緩んだ結果、逆に娘の側が損をした。皮肉な筋書きだ。
「寝屋ニ行カサルコト」と決議された
制度を潰したのは説教じゃなかった。別の組織だ。明治の終わりから大正にかけて村ごとに青年会と処女会ができていき、どちらも国が上から作らせた団体だった。
明治四十四年、志摩の畔名村の処女会が郡長から表彰されている。その時に出された決議実行事業の一覧を見ると、「寝屋ニ行カサルコト」という項目がはっきり並んでいた。身内からの宣告だ。娘宿へ行かせない、と村の組織自身が決めたわけだ。
大正七年には、船越村の処女会が会員へ、寝屋に泊まらず自宅で起き伏しするよう自覚を促している。泊まり宿は、こうして一つずつ閉じられていった。静かな幕引きだ。
愛媛の中島町でも同じことが起きた。地元の女性の証言に、私の娘時代には小浜地域での娘宿はもうなくなっていた、とある。代わりに入ってきたのはスポーツと演劇で、青年団の行事が、村の夜の時間をまるごと埋めてしまった。宿は用済みだ。
月の出ている晩を選んだ、と老人は話した
作家の杉岡幸徳が四国の山奥の村で一九二〇年代生まれの老人から聞いた話で、二〇二四年に書かれた記事の中に出てくる。その村には電気が来ていなかった。夜の娯楽は何もない。
灯りといえば月だけだった。だから月の出ている晩を選んで歩いたという。暗がりで人違いをしない工夫もあって、髷の結い方を手で触って確かめる。娘の側が帯や糸を戸の外へ垂らしておいて、自分がどの部屋にいるかを知らせておく土地もあったらしい。
合図は先に決めておくものだった。聞き書きに出てくるのは情熱よりも段取りの話ばかりで、手順が決まっていて、その通りに体が動いていく。色気がない。怖さがあるとすれば、その事務的な手つきのほうだった。
提灯より先に電灯が来た
国の側の動きは早かった。明治五年十一月八日、東京府がイシキカイイ条例と呼ばれる布達を出す。全九十条で、入れ墨、裸や肩脱ぎ、立小便まで細かく禁じた、外国人の目を意識して作られた法令だった。
翌明治六年七月十九日の太政官布告で、同じものが各地方へ広がっていく。明治十三年に旧刑法の違警罪へ役割が移り、明治四十一年の警察犯処罰令を経て、昭和二十三年の軽犯罪法まで筋がつながる。村の夜の慣行もこの網の下へ順に入れられ、若者が夜に出歩くこと自体が取締りの対象へ変わっていく。逃げ場が減っていく。
明治九年には新潟県が夜這いを名指しで禁じる条例を作り、富国強兵の掛け声のもとで、一夫一婦と純潔の思想が上から降りてきた。わざわざ名指しで禁じたあたりに、県の本気が見えるんだよな。村の側から出た話じゃなかった。
日露戦争のあと、内務省が若者組の近代化に乗り出し、文部省も補習教育の側から加勢する。広島の山本滝之助が始めた青年会がそのまま全国へ広がって、大正の終わりには大日本連合青年団ができあがった。国ぐるみの話だ。若者組は丸ごと青年団へ吸い上げられていく。
戦後の農地改革も効いた。地主と小作という上下が消え、村の中の力関係がそっくり組み替えられる。若者を押さえつけていた側の権威が、田んぼの名義が書き換わるのと一緒に、ぼろぼろと崩れていった。
日本青年団協議会が結成されたのは昭和二十九年。戦前に作られた組織の続きが戦後もしばらく生きていて、団員数は昭和二十年代の後半に四百万人まで膨らんだ。いまは十万人ほど。
高度成長で若者が村から消え、団そのものが空になっていく。電灯が夜の闇を消して、青年団が娘宿と若者宿を消して、都市が村から若者そのものを吸い上げていった。三つが同時に効いた形になる。
貝尾の集落で、一夜に三十人が死んだ
夜這いを怖い話の側へ押し出したのは、一つの事件だった。昭和十三年、一九三八年の五月二十一日。まだ夜の明けきらない未明に、岡山県苫田郡西加茂村行重の貝尾と坂元という二つの集落で、それは起きた。話が一気に重くなる。
犯人は都井睦雄という二十一歳の男。前の年の五月二十二日の徴兵検査で結核を理由に丙種合格となり、病気が知れてから村での扱いが変わっていく。重い一行がある。遺書には、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、と書かれていた。
犯行の前に、送電線を切って村を停電させた。詰襟の学生服に軍用のゲートルを巻き、九連発に改造したブローニングの散弾銃、日本刀、匕首二振りを身につける。準備は周到だった。
午前一時四十分頃から動き出した都井は、およそ一時間半のあいだに十一軒の家へ次々と押し入っていった。死者は三十人。五歳の子も含まれていた。犯行のあと、都井は山へ入って自ら命を絶っている。
事件の直後、大阪毎日新聞はこの村の男女関係を、山奥に残るルーズな因習として報じている。この一行が効いた。夜這いは野蛮で危険なもの、という図式が全国へ刷り込まれていく。事件はのちに横溝正史の『八つ墓村』の下敷きになり、映画にもなって、風習と一続きの物語として流通していく。
事件のあと、別の制裁も動いた。都井の親族で襲撃を受けなかった一家が、前から企みを知っていて隠していたのではないかと疑われた。村八分に近い扱いへ落とされたという話が残る。人を三十人殺した夜のあとで、村がまず始めたのが線引きだった。
裏は取れていない。二〇〇八年に行われた取材で、当時を知る人物は、村に夜這いの風習があったという話そのものを否定した。集落そのものも痩せていく。事件当時は二十三世帯百十一人が住んでいたが、二〇一〇年には十三世帯三十七人まで減った。事件当時から貝尾に住み続けている人は、もう一人もいない。
学者どうしも、この件では揉めている
赤松啓介の記述が、丸ごと信じられているわけでもない。小谷野敦が批判したのは、赤松の描いた村がそのまま世間でフリーセックスとして誤読されてしまう点だった。耳の痛い話だ。女の側から見れば、一方的な性暴力に近い行為が多かったという指摘だった。
森栗茂一は別の角度から刺している。岩田重則のヨバイ論へ突きつけたのは、三点だ。男の視点しか入っていない。過去から現在への連続を前提にする民俗残存主義で、しかも日本中を均質な地域として扱っている、というものだった。
反対向きの評価もある。中世史の服部英雄は、ヨバイはふつうの恋愛だったと書いた。怖い風習でもなければ乱交でもない、昔の通い婚の名残としての、まっとうな求婚行動だという読み方になる。同じ村を見て、真逆の結論。同じ史料から正反対の像が立ち上がるんだから、厄介な話だよな。
柳田國男は、この領域をほとんど書かなかった。常民という概念に階級の目盛りがなく、聞き取りの相手も村の有力者へ偏り、性の話になると頑固な拒否反応が出た。穴があったわけだ。赤松と宮本常一が拾ったのは、その網から落ちた部分だった。
宮本の『忘れられた日本人』は一九五八年から雑誌『民話』に連載され、一九六〇年七月に未來社から本になっている。冒頭の「対馬にて」には、古文書を一冊貸すかどうかを、村の寄合が丸一日かけて決める場面が出てくる。気の長い話だ。誰と誰が結ばれるかを村が差配できたのは、こういう合議の体がそこにあったからだった。
カンヌで金賞を取った村の掟
映画の側で真っ先に挙がるのが、今村昌平の『楢山節考』だ。深沢七郎の小説と『東北の神武たち』を下敷きにして、一九八三年四月二十九日に公開された作品になる。撮影に使ったのは、長野県小谷村の廃村だった。本物の廃村だ。
作中の村には三つの掟がある。所帯を持って子を残せるのは長男だけ。他家から食い物を盗めば、村の総出で制裁が加えられる。七十になれば楢山へ送られる、という掟まであって、性も生殖も老いも村の帳簿に全部きっちり載っていた。
劇中では、長男の嫁の実家が盗みのかどで、村人総出の制裁を受ける。掟は文字どおり執行された。その年の五月にはカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを取って、日本の村の掟がそのまま世界の観客の前へ出たことになる。
戦後の側には、石坂洋次郎の『青い山脈』がある。一九四七年の新聞連載だった。村の古い掟と若い恋愛を正面からぶつけた話で、敗戦直後の日本でよく読まれ、戦後だけで何度も映画になっている。
一番槍、二番槍という作り話
ネットの夜這い話は、だいたい形が決まっている。地名を出さない。プライバシーを理由に伏せるという断り書きが必ず付き、語り手は知り合いの祖父か、昔その土地に住んでいた人だと書かれる。
中身も型通りだ。娘の家へ着いた順に一番槍、二番槍と呼ばれ、同意もなく順番に、という筋。逃げた女が山道を追われ、村中へ詫びを入れさせられる、という筋。どちらにも出典は書かれていないし、学術的な裏付けも付かないまま、ネットの上だけで出回っている。
ネットで検索すれば同じ筋の話がいくつも並ぶのに、元をたどっていくと、行き着く先はほんの数本の記事だけだ。刺激の強い話ほど速く回る。オカルト系のサイト、まとめブログ、都市伝説の一覧記事へ、次々に転載されていった。
そこへ八つ墓村の映像記憶が重なる。村の暗がり、提灯、白装束。事件と風習と映画がひとつの塊になって、田舎には恐ろしい夜這いがあったという定型ができあがった。
本物の民俗資料に当たると、出てくるのは提灯の色の決まりや、身ごもった時に払う金額の話ばかりだ。拍子抜けするほど地味だ。生々しさの質が、まるで違っている。
