台所の火の前で、二十六歳の女が「本物かどうか」を問われた
一八九五年三月十五日の夜。アイルランド南部、ティペラリー州の小さな集落バリーヴァドリア。スレート屋根の労働者用住宅の台所で、二十六歳の女が床に押し倒されていた。
押さえつけていたのは夫だ。膝を胸に乗せ、片手を喉にかけ、パンとジャムを口に押し込みながら、同じことを何度も聞いていた。
「お前はマイケル・クリアリーの妻ブリジットか。神の名にかけて答えろ」
三度答えろ、と言われた。彼女は二度答えた。三度目が出なかった。それだけのことで、彼女は死ぬ。
部屋にはほかに七人いた。父親がいた。叔母がいた。従姉妹たちがいた。誰も止めなかった。というより、止められなかった。夫が鍵を持っていて、扉は開かなかった。
夫は最後にランプの油を彼女にかけた。燃えている妻を見ながら、こう言ったと法廷で証言されている。
「これはブリジットじゃない。もうすぐ煙突を上がっていくのが見えるさ」
彼が信じていたのは、こういうことだ。妻は妖精にさらわれた。目の前にいるのは妖精が置いていった偽物だ。偽物を火にかければ正体を現して逃げ出し、本物の妻が白い馬に乗って砦から戻ってくる。
正気の沙汰じゃない、と言うのは簡単だ。ただ、その「正気じゃない話」は、当時のアイルランドの田舎ではごく普通に流通していた物語だった。取り替え子――チェンジリング。この記事はその伝承と、それが一人の女を殺すところまで行き着いた一週間の話をする。
先に断っておく。この記事は「判別法」や「追い出しの作法」を紹介する。ただしそれは民俗の記録としてであって、手順書としてではない。実際に十九世紀の子どもたちがこれで死んでいる。面白がって読める話じゃないし、書く側もそのつもりはない。
取り替え子という信仰――「良き人々」がやってくる
そもそも妖精とは呼ばなかった
アイルランドの民間伝承で妖精を指す言葉として一番よく出てくるのは、直接的な名前じゃない。「良き人々」とか「あちらの人たち」とか、そういう遠回しな呼び方だ。名前を呼ぶと来る、と考えられていたからだ。夜に人の名前を大声で呼ぶな、という戒めもあった。名前を呼ばれた人間に対して、あちら側が力を持ってしまうから。
呼びかけに三度目まで応じるな、という言い伝えもある。レトリム州で採集された記録によれば、妖精は二度までは呼べるが三度は呼べないとされた。だから夜、外から名前を呼ばれても、三回繰り返されるまで返事をしてはいけない。返事をしたらもう向こうの持ち物だ。
この「三度」という数がのちのバリーヴァドリアの台所で繰り返されることになる。偶然じゃない。夫は伝承の文法どおりに妻を尋問していた。
誰がさらわれるか
さらわれるのは主に赤ん坊だと言われた。洗礼前の子どもがとくに危ないとされ、洗礼を受けさせるまでは目を離すな、と厳しく言われた。だが子どもだけじゃない。器量のいい人間、気立てのいい人間、産婆はとくに狙われるとされた。レトリム州の採集記録には「誰も本当は安全ではない」とはっきり書かれている。
大人の女もさらわれる。とくに授乳期の若い母親は、あちら側の子の乳母として連れていかれると語られた。詩人のウィリアム・バトラー・イェイツは一八八八年の『アイルランド農民の妖精譚と民話』で、スライゴー州のコロニー村の近くに、若いころにさらわれた老女が住んでいると書いている。七年後に帰ってきたとき、彼女には足の指がなかった。踊りすぎて摩り減らしてしまったからだという。
そして、さらわれたあとに残されるのが取り替え子だ。人間そっくりの見た目をした何か。しなびた老人のような赤ん坊。異様に食う。異様に泣く。育たない。要するに、原因不明の衰弱や障害や病気に、名前と物語を与える装置だった。
この信仰が何をしていたのか
冷たい言い方をすれば、取り替え子の伝承は責任の付け替え装置だ。子どもが育たない。歩けない。喋らない。ある日を境に人が変わったように塞ぎ込む。医学がまだそれを説明できなかった時代、親は自分を責めるしかなかった。そこに「これはあなたの子ではない」という説明が来る。悲しみの矛先が、自分から「あちら側」に移る。
判別法として語り継がれたもの
ここからは伝承として記録された内容の紹介だ。繰り返すが手順ではない。読んで真似する類のものではないし、当時これで人が死んでいる。
もっとも有名なのが卵の殻の話だ。取り替え子は千年も生きた老いた存在だから、見たことのない馬鹿げた光景を見せると思わず口を利いてしまう、という理屈で語られた。卵を割って中身を捨て、殻だけを大鍋で煮る。すると揺りかごの中の赤ん坊が老人の声で「何をしているのか」と聞く。「卵の殻を煮ているんだよ」と答える。すると赤ん坊が叫ぶ。「わしは千五百年この世にいるが、卵の殻の醸造なんぞ見たことがない」。
喋った時点で正体がばれた、というのがこの型の落ちだ。
トマス・クロフトン・クローカーが一八二五年の『アイルランド南部の妖精伝説と伝承』に採ったサリヴァン夫人の話がこの型の代表格で、イェイツも自分の選集に採り、レディ・ワイルドの一八八七年の『アイルランドの古代伝説、神秘の呪文と迷信』にも近い話がある。この「卵の殻の醸造」というモチーフは十七世紀まで遡れるとされ、アイルランドだけでなくウェールズにもドイツにも北欧にもある。
火に関わる判別法も広く記録されている。レディ・ワイルドが伝える文句として、火の上に置いて「燃えろ、燃えろ、燃えろ。悪魔のものなら燃えろ。神と聖人のものなら害を受けるな」と唱える、というものがある。イェイツはこれを「確実な方法が一つある」と紹介したうえで、ジラルドゥス・カンブレンシスの「火はあらゆる幻に対する最大の敵である」という古い言葉を引いている。
シャベルを使う型もある。焼けたシャベルの上に子を乗せる、あるいは戸口でシャベルに乗せて三度外へ振り出す。レトリム州の記録は具体的で、ジギタリスの汁を舌に三滴、両耳に三滴ずつ落とし、それからシャベルに乗せて戸口から三度振り出しながら「妖精なら失せろ」と言う、と伝える。妖精の子ならその夜に死に、そうでなければ快方に向かう、と語られていた。前半と後半がまったく同じ結果を指しているのが恐ろしいところだ。
そして薬草。ジギタリスは各地の記録に繰り返し出てくる。アイルランドではルスモアと呼ばれた。スコットランドでは一六二三年、パースの魔女裁判で被告となったイソベル・ハルデインが、連れてこられた子を見て「これはさらわれた取り替え子だ」と診断し、母親にジギタリスの葉を集めて煎じさせたという記録が残る。
二百年後のスコットランド南部テヴィオットデイルにも、教区牧師がジギタリスを煮て飲ませるよう助言したという話がある。ジギタリスは強心配糖体を含む猛毒だ。当時それを知る者はほとんどいなかった。
採集例その一――ウェックスフォードの「卵の殻を煮る」
国立民俗コレクションの本体資料に、ウェックスフォード州クロンジーン近くの女の話が残っている。語り口が生々しいので、なるべくそのまま紹介する。
その女の子どもが妖精に連れていかれ、代わりに取り替え子が置かれた。子は育たず、歩けず、「本物の年寄りみたいだった」。母親は心が折れかけていた。そこで「妖精男」のところへ行くと、卵の殻を集めてシャベルの上で真っ赤に焼き、赤くなったら首筋に突っ込め、と教えられた。
母親は言われたとおりにした。揺りかごの中から子が見ていた。「今、何をしてるんだ」と子が言う。「卵の殻を煮ているんだよ」と母親が答える。「卵の殻を煮る。そんな話は聞いたこともない」と子が言う。「これから聞くことになるさ」と母親が返す。そして殻が焼けたので振り向いたら、その子はもういなかった。
この語りには続きがある。同じ語り手が、自分の身近な例として、知り合いの女の三歳の子について「まったく年寄りみたいな顔だ」とうっかり口に出してしまった話をする。一緒にいた女も「わたしも同じことを考えていた」と言った。その子はそれ以来、変わってしまった、という。
うっかり誉めたり、じろじろ見たりすると持っていかれる、という「見立て」の禁忌がここに絡んでいる。イェイツも「子どもを妬みの目で見れば、妖精はその子を手にする力を得る」と書いている。噂と視線が人を殺す構造が、この時点でもう完成している。
採集例その二――ウェックスフォードの肥だめの儀
パトリック・ケネディが十九世紀に集めた『アイルランド・ケルトの伝説的作り話』のなかに、ダフリー渓谷のトビンズタウンで採られたという長い話がある。これがまた細かい。
キャティという女が、朝の支度が遅れて夫に小言を言われ、気が立っていて、子に聖水をかけて額に十字を切るのを忘れた。そのあと洗濯石のところで洗いものをしながら、子を草の斜面で遊ばせた。悲鳴がして振り向くと子が痙攣していた。家へ駆け戻り、塩水を飲ませたりして発作は収まったが、子の顔からはしなびた表情が消えず、泣き声が口から絶えることがなくなった。そして大人並みに食うようになった。
家族と近所が炉端で相談し、子どもたちを寝かせてから「式次第」を執り行った。近所の男がシャベルを拭って床に置き、その妻が子をシャベルの刃の上に座らせ、押さえた。男がそれを持ち上げて外の囲いへ運び、肥やしの山の上に敷いた藁の束の上に置いた。集まった者は手をつなぎ、その山を三度まわって囃した。そして呼ばれてきた「妖精男」がアイルランド語で唱えごとをした。
その文句が記録されている。「呼ばれて来い、シーの母よ。来てお前の子を連れていけ。食い物も飲み物も与えた。家の女から優しくもしてもらった。ここにはもう置かない。良き人々のもとへ帰れ。失せた子を返せ、バンシーよ。返してくれたら、刈り入れの野に布を広げるとき、お前たちの分の食い物を置いておこう。食器棚の棚に食い物を置き、炉石は清めておこう」。
やがて空気が羽ばたきのように動き、十分ほど静かにしていて扉を開けると、藁の束はあったが子も取り替え子もいなかった。妖精男がキャティに寝室を見てこいと言い、彼女は自分の健康な子を抱いて出てきた――という結末になっている。
この話が示すのは、追い出しが個人の暴発ではなく、共同体の儀式として構成されていたということだ。近所が集まる。役割が割り振られる。専門家が呼ばれる。唱えごとがある。そして交渉の言葉がある。「お前たちの分は置いておくから返してくれ」という取引だ。バリーヴァドリアの台所で十人以上が集まっていたのも、この延長線上にある。
採集例その三――コークの赤いシャベル
コーク州キンセールの慈悲修道会の学校で、一九三〇年代に子どもたちが集めた話に「シヴォーンの子――取り替え子」という短い記録がある。学校収集事業と呼ばれるもので、一九三七年から三八年にかけて、アイルランド中の小学生が祖父母や近所の年寄りから聞き書きをした膨大な資料群だ。
その記録はごく短い。ある女が助言を受け、シャベルを火にかけて真っ赤になるまで熱し、揺りかごから子を取り出してその上に置いた。すると子は突然煙突を上がっていき、彼女自身の赤ん坊が下りてきた。そして助言者は、これからは赤ん坊のそばに誰かを残さずに戸口の外へ出るな、と言った。
これを子どもが書き取っている、というのが重い。一九三〇年代のアイルランドの教室で、赤ん坊を焼けたシャベルに乗せる話が「うちのおばあちゃんの話」として提出されている。信仰は一八九五年で終わっていない。
各地の異伝――ロングフォード州ブンラヒー
ロングフォード州ブンラヒーで採られた「妖精の子」の話は、防止策のほうに焦点がある。ある女が井戸へ行くとき、揺りかごに火挟みを渡しておくのを忘れた。鉄の火挟みを揺りかごに渡しておけば何物も子に触れられない、というのが土地の決まりだった。忘れたせいで良き人々に子を持っていかれた。母親はしばらく気づかなかった。
夕方、彼女が外にいるあいだに、揺りかごの中のものが上の子にヴァイオリンを取ってくれと頼み、弾き出した。子どもたちは聞き惚れた。母親が戻って誰が弾いていたのかを聞き、事情を知って、自分のせいだと悟った――という筋だ。
同じブンラヒーには別の型の「取り替え子」もある。井戸へ行って戻ったら子が泣き止まなくなり、以後ずっとぐずり続けた。家に来ていた職人が留守番をしていると、揺りかごの中のものが「黙っててくれたら一曲やる」と言い、頭の下からバグパイプを取り出して吹いた。職人は聞いたこともない音楽に時間を忘れた、という。
こちらの型では暴力が出てこない。正体がばれて、それで終わる。音楽が鳴って、聴いた人間が呆然とする。取り替え子の話は必ずしも残酷な結末を持つわけじゃなかった、ということだ。
各地の異伝――キルケニー州ポールズタウン
同じ学校収集事業のキルケニー州ポールズタウン男子校の記録には、はるかに冷たい話がある。フェニスコートに住んでいた女に一人だけ子がいて、朝も昼も夜も泣きわめいて、女は我慢がならなかった。ある日仕立て屋が来たので、井戸へ行くあいだ子を見ていてくれと頼んだ。すると揺りかごの中のものがバグパイプのような不思議な音楽を奏で始めた。女が戻ってそれを聞き、子を井戸に投げ込んだ。
一行で終わる。ロングフォードの同じモチーフが、キルケニーでは幼児殺しの結末になる。同じ話型が土地によって笑い話にも殺人にもなる。これが伝承の恐ろしいところで、笑い話のバージョンを知っている人間と、殺すバージョンを知っている人間が、同じ言葉を喋りながら同じ村に住んでいた。
各地の異伝――クレア州タラ
クレア州タラの男子校の記録には、家族の内側の憎しみが出てくる。ある男の子が良き人々にさらわれ、代わりにしなびて気難しく、大食らいの子が置かれた。親は妖精の仕業と疑わず、病気で寝たきりになったのだと思っていた。母親は家じゅうの食い物をその子に食べさせ、そのことで責められた。
もう一人の息子が、脱穀を手伝わせている男たちの手前で恥をかかされたと逆上し、装填した銃を持って部屋に飛び込み、寝たきりの子に向かって出ていけと怒鳴りつけた――という展開になる。
ここには妖精の話をしているようでいて、実際には「働かない口減らしの対象」への家族の憎悪がむき出しで出ている。取り替え子の語彙は、そういう感情に体裁を与えていた。
各地の異伝――フェルマナ州タリーブラック
フェルマナ州タリーブラックの証言は、話ではなく信仰そのものの手触りを伝えてくる。語り手はこう言っている。「このあたりには取り替え子がずいぶんいたと年寄りが言う。妖精が子を連れていき、代わりに子の形をしたものを置く。それは大きくもならず育ちもせず、数年して『死ぬ』」。カギ括弧が付いているのが凄い。語り手自身が「死んだことになっている」と分かって喋っている。
続けて彼はこう言う。取り替え子は概して弱く、いくらか奇形で、そうなる前には必ず完全な赤ん坊がいた。ここ三十年ほどそういう例は聞かない。子を、とくに砦の近くで外に寝かせておくのは危ないと考えられていた。そして重要なのがこの一言だ。「このへんでは本物の子を取り返す有効なやり方は知られていなかった。取り返す話は本で読んだ話から来たものだ」。
生きた信仰と、読み物としての妖精譚は別ものだった、ということになる。
もう一つ。取り替え子の話をしたのは年寄りたちで、彼らは淡々とした調子でそれを語った、と語り手は言っている。「淡々とした調子で」というのがこの証言の核心だ。怪談として語っていない。天気の話をするように語っている。
各地の異伝――スコットランド
スコットランドでは取り替え子をシャーグ、シャーガー、あるいはゲール語でタハランと呼んだ。細く発育の悪い者を指す言葉で、罵り言葉としても使われた。
十九世紀のスコットランド北東部の民俗を集めたウォルター・グレゴアの記録によれば、子がぐずり衰え始めると火による試しが行われた。炉に泥炭を積み、火が最も強くなったところで疑わしい子を近くに置くか、籠に入れて火の上に吊るす。取り替え子なら煙突から逃げ出し、去り際に嘲りの言葉を投げてよこす、と語られた。
別の型では、細長い籠をハシバミの枝から吊るしてその中に寝かせ、悲鳴を上げたら取り替え子とみなし、四つ辻へ運んでその上を死体で越えさせると本物の子が戻る、とされた。もっとも一般的だったのは、シャベルか鉄板の上に馬糞を置いて子を乗せ、火にかざすやり方だったと伝わる。不快な物質と熱を組み合わせるのがミソだ、と語られていた。
シェトランドには籠から土を撒き、掃き出すときにトロウの取り替え子も一緒に掃き出す、という穏当な型もある。
各地の異伝――ウェールズ
ウェールズでは取り替え子を素直に「取り替えられた子」と呼んだ。もっと露骨な呼び名もいくつもあって、「不器用な」「手足の萎えた」「しわくちゃの」「弱った」といった意味の語が並ぶ。呼び名そのものが罵倒になっている。ウェールズの民俗を集めたウァート・シークスの記録によれば、ここでも試しは火とジギタリスだった。シャベルの上に乗せて火にかざすか、ジギタリスの溶液に浸ける。後者は死ぬ。
カーナーヴォンシャーで一八五七年にこれが実際に行われたとされる事例が伝えられている。ジョン・リースが記録したもう一つのウェールズの話では、卵の殻を煮るやり方のあとに、羽をむしらないまま真っ黒な鶏を丸焼きにする、という奇妙な儀が続く。これは追い出しではなく交換の代償に近い。
各地の異伝――デンマークとドイツ
デンマークでは母親が竈を熱し、パン用の平たいへらに取り替え子を乗せて竈に入れるふりをするか、鞭で打つか、水に投げ込むと伝えられた。スウェーデンでも似た手が語られた。そのスウェーデンのゴットランドには一六九〇年の裁判記録が残っている。育たない十歳の子を取り替え子とみなし、クリスマスイヴの晩に肥やしの山の上に置いた男女が裁かれた。
数年前に取り替えた妖精が、これで本物の息子を返してくれると期待したのだという。子は寒さで死んだ。ドイツではマルティン・ルターがはっきり取り替え子を信じていた。彼の見方では取り替え子は魂を持たない悪魔の子で「ただの肉の塊」であり、アンハルト侯に対して、自分がその国の君主ならモルダウ川に投げ込むだろうと語ったと伝えられている。宗教改革の巨人が言っている。
「無学な農民の迷信」という整理の仕方が、いかに雑かがよく分かる。
バリーヴァドリアという場所
家が九軒、人が三十一人
バリーヴァドリアは村ですらない。家が九軒、住人が三十一人。アイルランド語圏の言い方をすればタウンランド、つまり名前のついた土地の区画にすぎない。ティペラリー州の内陸で、鉄道からは遠い。まともな町といえば南へ十七、八キロほど下ったクロンメルの市場町くらいだ。教区はドランガン。住人は全員カトリックだった。
家の南向きの窓からはアナー渓谷が見渡せ、その向こうにスリーヴナモン山が横たわっていた。「女たちの山」という意味の名を持ち、フィン・マックールとオシーンとオスカルが住んだと語られてきた山だ。一九六〇年にキルケニーの随筆家ヒューバート・バトラーがこの事件について書いたとき、彼はスリーヴナモンを「時間に角を丸められた古い丘の、柔らかく丸い輪郭を持つ淡い青のこぶ」と描写している。
その山の北斜面のカイルアトリーに、デニス・ゲイニーという薬草医が住んでいた。妖精の知識で敬われ、かつ恐れられた男だ。
妖精砦の上に建った家
クリアリー夫妻が住んでいた家は、この土地では飛び抜けて上等だった。飢饉後の救済策として救貧法後見人会が建てた労働者用住宅で、スレート屋根と引き違いのガラス窓を持つ矩形の建物。両側の妻壁に煙突があり、正面の扉は中央よりやや左に開いていて、その両側に窓がある。裏にも同じ窓が二つ。
扉を開けるとすぐ台所だ。右手に一階の寝室が二つ、その上に屋根裏部屋があり、台所から梯子で上がる。左手の西側の妻壁に、暖房と煮炊きのための炉がある。裏には小さな納屋が二つ。低い石垣と門で道路から仕切られていた。
周囲の住人が住んでいたのは、窓のない泥壁の小屋だ。比べものにならない。だからこそ、この家には応募が集まらなかった。建てた場所が悪かったからだ。
ラース、つまり環状の土塁遺構の上に建っていた。考古学者は鉄器時代の環状砦と呼ぶ。土地の人は妖精砦と呼んだ。アイルランド南部にはこれが無数に散らばっていて、耕作の邪魔になっても誰も壊さない。壊すと祟る、というのが理由だ。
一九〇一年に『五年間のアイルランド』を書いたマイケル・マッカーシーは、砦を持つ農場主を二十人ほど知っているが、皆まともで商売上手な連中なのに一人としてこれを壊す度胸がない、と苛立ちまじりに書いている。
最初にこの家に入った借家人は、夜ごとの不可解な物音と叫び声に耐えかねて土地を出ていったと伝えられる。空いた家がクリアリー夫妻に回ってきた。ただしマイケルは労働者ではないので資格がない。そこで六十代の元農業労働者だったブリジットの父パトリック・ボランドが名義人となり、一八九一年に一家は入居した。入居後、夜の物音は止んだ。
近所には、クリアリー夫妻が前の借家人を追い出すために一芝居打ったのではないかと疑う者もいた。
ブリジットという女
ブリジット・ボランドは一八六九年二月十九日、バリーヴァドリアで生まれた。父は土地を持たない労働者パトリック・ボランド、母はブリジット・キーティング。貧しい家だ。
それでも彼女は、四マイルほど離れたドランガンにあった慈悲修道会の学校に通っている。当時この地域の女の子全員が学校に行けたわけじゃない。親が教育に意味を認めていたということだ。読み書きができた。あとで自分の商売をやるときに、これが効いてくる。
そのあとクロンメルで仕立て屋の徒弟になった。一八八七年八月、十八歳のときに、九つ年上の桶職人マイケル・クリアリーと出会い、同月六日にドランガンのカトリック教会で結婚している。
結婚後、彼女はバリーヴァドリアの実家に戻り、マイケルはクロンメルで働き続けた。週末だけ帰ってくる生活だ。この別居期間に彼女の独立性が育った。鶏を飼い、卵を近所や卵の仲買人に売った。そしてシンガーのミシンを手に入れた。当時の農村では相当な高級品だ。仕立て屋として、あるいは帽子屋として、彼女は自分の稼ぎを持った。
稼ぎは服装に出た。土地の女たちがショールとスカーフで済ませているなかで、彼女は金のイヤリングをつけ、羽根飾りのついた帽子をかぶった。裁判で証言した者は「物腰も見た目も感じがよかった」と言い、事件前に彼女を見かけていた男は「はっきり器量よしだった」と語っている。オブライエン判事は判決で「何の害意も抱かず、何の罪も犯していない、行いのすべてにおいて徳の高い、立派な若い既婚女性」と述べた。
家には二十ポンド入った缶があった。当時の農業労働者の年収を軽く超える額だ。それをブリジットが管理していた。
そして八年の結婚生活で、子どもがいなかった。カトリックの農村で八年子どもがいないというのは目立つ。誰もが気づき、誰もが噂した。当時の常識では、子ができない責任は妻に押し付けられた。
さらに、近くの立ち退き農場の管理人ウィリアム・シンプソンとの関係についても噂があった。シンプソン夫妻はブリジットと親しかった。それが何かの線を越えていたのか、単に近所付き合いを妬んだ人間が話を作ったのか、分からない。ただマイケルの耳には入っていた。
一八九四年に母のブリジット・キーティングが死んでから、彼女は妖精砦を訪ねる癖がついたと伝えられている。カイルナグラナ丘の砦だ。母の死と砦通いのあいだに何があったのかは、誰にも分からない。
夫マイケル・クリアリー
マイケル・クリアリーはキラノールの出身で、バリーヴァドリアでは外から来た人間だった。当時二十七歳。桶職人として腕があり、読み書きができ、三つ揃いの背広を好んだ。クロンメルで修業し、農家や工場向けにバターを詰めるファーキン樽や普通の樽を作った。フェザードの練乳工場やクロンメルの醸造所とも取引があった。
デクラン・キバードは書評でこう書いている。この夫婦は「近代化するアイルランドの姿そのもの」に見えた、と。読み書きのできる職人と、ミシンを持ち自分で稼ぐ妻。当局がわざわざ新築のスレート屋根の家の入居者として選ぶだけの、模範的な組み合わせだったわけだ。
そして同時に、マイケルは母親から妖精の話を吸って育った男でもあった。これは事件当夜、ブリジット自身の口から明かされる。
ジャック・ダン
ジョン・ダン、通称ジャック・ダンは五十五歳。パトリック・ボランドの従兄弟にあたる。読み書きはできない。カイルナグラナの妖精砦のすぐそばに妻ケイトと住んでいた。
彼はシャナヒー、つまり語り部だった。伝説も幽霊話も妖精譚も諳んじていて、呪文や魔除けやまじないにも通じているとされた。語り部は土地で敬われ、知りすぎている者として恐れられもした。足が悪く、黒い服の男と白い服の女に家まで追いかけられたことがある、という土地の噂もついて回っていた。「妖精に取り憑かれた爺さん」と言われていた。
ダンのような語り部の権威は、この時期すでに落ち目だった。読み書きが広がり、カトリック教会は組織的に迷信を根絶しにかかっていた。皮肉なことに、同じころダブリンではイェイツたちが印刷という新しい力を使って同じ伝承を再流通させていた。イェイツの『アイルランド農民の妖精譚と民話』が一八八八年、『アイルランドの妖精譚と民話』が一八九四年だ。事件の前年である。
十日間――日付を追って
三月四日、月曜日
雪が降った翌日だった。晴れていたが冷えた。ブリジットは家を出て丘を下り、バリーヴァドリア橋を渡って、卵を届けにジャック・ダンの家へ向かった。カイルナグラナ丘を登っていくと、向こうの山の雪が白く光っていた。
ダン夫妻は留守だった。彼女は戸口でしばらく待った。冷たい風が体を通り抜けた。無駄足に終わり、震えながら家に戻って台所の火にあたったが、体は温まらなかった。震えが止まらず、床についた。
翌朝、彼女は激しい頭痛を訴え、起き上がれなくなった。悪寒の発作が続いた。
のちに彼女は従姉妹のジョハンナ・バークに、カイルナグラナ丘の妖精砦のそばを通ったときに震えが来たのだ、と語っている。熱に浮かされた口だったのかもしれない。ただ、この一言が噂を燃やす燃料になった。
病名は何だったのか
現代の研究者の見立ては割れている。気管支炎、肺炎、結核、インフルエンザ。どれも挙がっている。分かっているのは、彼女が十日間寝ついたということと、一度も自分から誰かに助けを求めなかったということだ。医者にも、司祭にも、近所の人間にも。訪ねてきた者は十人以上いたのに、誰にも言わなかった。
三月九日から十三日――医者が来ない
三月九日の土曜、雨のなか、父のパトリック・ボランドが四マイルを歩いてフェザードへ行った。診療所医のウィリアム・クリーンは留守だった。伝言を残して帰った。医者は来なかった。
日曜も来なかった。月曜の朝、ブリジットは高熱を出していた。午後二時、マイケル・クリアリーが自分でフェザードへ歩いた。また留守だった。またしても伝言を残した。火曜も来なかった。
水曜、三月十三日の午前五時。マイケルはまた家を出た。今度は途中でブルック・ヒルに立ち寄り、救貧法後見人のエドモンド・カミンズのところで医者の職務怠慢を訴えた。カミンズは「遅滞なく往診せよ」という書面の命令を出した。
マイケルはそれを持ってフェザードの診療所に行った。医者は三十分前に別の往診に出たあとだったが、帰りにクリアリー家に寄ると言い置いていたという。マイケルは待つことにした。
数時間後に戻ってきたクリーン医師は、マイケルによれば酔っていた。そして通報されたことに腹を立てていた。診察の結果は「神経性の興奮」と「軽度の気管支炎」。薬とワインを処方し、命令書は履行済みとしてカミンズに返せと要求した。
検死調書に残るクリーンの記述はもう少し正確で、彼は「神経性の興奮」に対して薬を出し、症状を「肺の管の軽い炎症」と書いている。「この症例に死に至りそうなものは何も見えなかった」とも証言した。彼が生きているブリジットを見たのはこれが最後だ。
なおクリーン医師は、この件を含む経緯で、後日不名誉な形で職を解かれている。
三月十三日午後――司祭が来る
同じ水曜の午後三時半ごろ、ドランガンからコーネリアス・ライアン神父が来た。四年半、この一家を教区民として知っていた男だ。
神父はブリジットを見て、ひどく神経質な、ほとんどヒステリー状態だと判断した。精神の錯乱が始まりつつあるのを見ているのかもしれない、と思った。危篤とは思わなかったが、危篤になる可能性はあると考え、祝福ではなく終油の秘跡――臨終の秘跡を授けた。
マイケルが帰宅したのは、まさにそれが行われている最中だった。彼は外で待った。終わって出てきた神父は、妻の死の準備をしたと告げた。そして医者が酔っていたのではないかと尋ね、処方された薬を見て、こう言った。「あの医者がしらふだったためしがない」。
ここを押さえておきたい。この日一日で、マイケル・クリアリーは近代の二つの制度から同じメッセージを受け取っている。医者は「たいしたことはない」と言って酔っていた。司祭は「死ぬ準備をした」と言って医者を貶した。制度が矛盾したことを言い、しかも互いを信用していなかった。
ライアン神父は、この日も、そして翌日呼ばれたときも、家のなかで何が起きているか気づかなかったと証言している。マッカーシーはそれを「あいだに真鍮の壁が立っていたとしても、これ以上遠くはいられまい」と辛辣に書いた。
三月十三日夕――ジャック・ダンが来る
神父が帰ったあと、マイケルは薬とワインとフェザードで買った薬草を持って家に入った。中ではメアリー・ケネディとジョハンナ・バークが洗濯と掃除をしていた。
そこへジャック・ダンが来た。「奥さんはどうだ」と聞く。「まあまあだ、医者と司祭が来た」とマイケルが答える。ダンは寝室へ行ってブリジットを見て、そんなに悪くはなさそうだと言った。マイケルは薬と薬草を見せて「これで良くなるものがある」と言った。
ここでダンが言った。薬草はさしあたりいいだろう。だが相談すべきは山向こうのカイルアトリーのデニス・ゲイニーだ。クリーン医師でもフェザードの女でもない。そして決定的な一言を付け足した。
「医者にできることは何もない。あそこにいるのはあんたの奥さんじゃない」
ダンはあとで、なぜそう分かったのかを説明している。ベッドの中の女は妖精だ。なぜなら片脚がもう一方より長いから。掛け布の下からどうやってそれが見えたのか、誰にも分からない。
その晩、二人は薬草を煮てブリジットに飲ませ、家じゅうを回ってピシローグ――印や仕草によるまじない――を行った。ダンは帰り際、明日は山を越えてゲイニーのところへ行けとマイケルに命じた。
この日の出来事はその晩のうちに近所に広まった。マイケルが医者の薬を捨てて妖精の療法を選んだことに驚いた者はいない。臨終の秘跡が授けられたことのほうが衝撃だった。そしてゲイニーに相談するという判断は、おおむね好意的に受け止められた。ゲイニーは知られた存在で、多くの人を診てきた男だ。明日は自分も顔を出そう、と言う者が何人もいた。
つまり、翌日以降に家に集まってくる人間たちは、野次馬ではなく、支援者のつもりで来ている。これが重要だ。
三月十四日、木曜――「九つの薬効がある草」
朝六時、マイケル・クリアリーは山を越えてカイルアトリーへ向かった。四マイルの道だ。出がけに隣人のウィリアム・シンプソンに、帰るころにジャック・ダンを呼んでおいてくれと頼み、ドランガンへ使いを出して司祭にもう一度来てもらうよう言付けた。メアリー・ケネディの家にも寄って、妻についていてくれと頼んだ。
デニス・ゲイニーは薬草の調合と、その使い方の指示を渡した。マイケルが戻ると、家にはパトリック・ボランド、メアリー・ケネディ、ジョハンナ・バーク、そしてジャック・ダンがいた。司祭は来なかった。前日に終油を授けたばかりだから、そんなにすぐ行く必要はない、というのが理由だった。
ダンを見てマイケルが言った。「これで治せるものを手に入れてきた」
「何を持ってきた」とダンが聞く。
「九つの薬効がある草だ。飲ませるのは骨が折れる。手を貸してくれ、そうすれば治る」
ゲイニーの指示は具体的だった。薬草は、子を産んだばかりの牛の初乳で煮ること。初乳は匂いも味も強く、栄養と抗体に富む。そして妖精をとりわけ惹きつけるとされていた。飲ませるのは真夜中前に「三度の三度」。つまり三回の投与で、それぞれ三度飲み込ませる。
小鍋で煮た。ボランドが見ているところで、二人はいやがるブリジットに飲ませた。苦いと訴えて吐きそうになる彼女に、男たちは脅しをかけた。三度飲み込ませたところで、男たちは火のそばに座って一息ついた。
そして午後、追い打ちが来た。使いが着いて、マイケルの父がキラノールで死んだと告げた。通夜は今夜だという。マイケルは行かなかった。妻を元に戻すまでは、ほかの誰も行かせないと言った。
ここまでの数日で、彼は何日もろくに寝ていない。酔った医者と揉め、司祭には見放され、妻は治らず、父が死んだ。そして耳元では語り部が「あれはあんたの奥さんじゃない」と繰り返している。
二度目の投薬のとき、ジャック・ダンは前もって火掻き棒を火に入れて熱していた。鉄と火は、どちらも妖精に対して効く道具だと伝承では語られていた。ブリジットが抵抗すると、ダンはそれで刺すと脅し、額に押し当てた。彼女の額に赤い跡が残った。
ここは伝承の言葉としてそのまま記録しておく。「食え、この魔女め、神の名において失せろ」と彼は言ったと伝えられる。ブリジットは恐怖で錯乱しながら飲み込んだ。
三月十四日夜――人が集まってくる
二度目の投薬のあと、カイルナグラナから十六歳のウィリアム・アハーンが来た。ダンの近所の子で、母親に様子を見てこいと言われて来た。体の弱い少年だったと記録されている。
九時ごろ、メアリー・ケネディの息子のパトリックとジェイムズが来た。少し遅れて弟のウィリアムが来て、通夜に行くのかと聞いた。田舎の通夜は一晩がかりの社交の場だ。語りがあり、遊びがあり、噂話があり、若い男女が出会う。当然行くつもりだった。
だがマイケル・クリアリーが止めた。妻は良くなってきている、山向こうのゲイニーから貰ってきた薬草をもう一度飲ませる、行く前に手を貸してくれ、と。
四人目の兄弟マイケル・ケネディが来たとき、マイケル・クリアリーは火のそばで最後の一服を煮ていた。マイケル・ケネディは、クリアリーが扉に鍵をかけるのを見ている。
このとき家の中には病人を除いて九人いた。夫マイケル・クリアリー、父パトリック・ボランド、叔母メアリー・ケネディ、従兄弟のパトリック、マイケル、ジェイムズ、ウィリアムの四人のケネディ、ジャック・ダン、そしてウィリアム・アハーン。
クリアリーは火から小鍋を取り上げて、皆に向かって言った。「では、これを飲ませる時分だな」
三月十四日夜十時――扉の外で
同じころ、隣のウィリアム・シンプソンと妻のミニーが、二百ヤードほどの道を歩いてクリアリー家へ向かっていた。ブリジットが病気だと聞いていたからだ。
家の近くで、十一歳の娘ケイティを連れたジョハンナ・バークに会った。ブリジットの従姉妹だ。具合はどうかと聞くと、こう返ってきた。
「山向こうのゲイニーから貰った薬草を飲ませているところ。しばらくは誰も入れてもらえない」
四人は外で待った。窓の鎧戸は閉まっていた。扉には鍵がかかっていた。中から悲鳴が聞こえた。そして怒鳴り声が聞こえた。
シンプソンが法廷で証言した中身の言葉は、報道によって少し違う。「飲め、この畜生、この老いぼれめ、さもないと焼くぞ」と伝えたものもあれば、「飲め、この魔女、さもないと殺すぞ」と伝えたものもある。どちらにせよ、外にいた四人はそれを聞いた。
しばらくして扉が開いた。中から「行った、行った」と叫ぶ声がした。あとでシンプソンが理解したところによれば、扉は妖精が家から出ていけるように開けられ、その掛け声は妖精に向けられたものだった。
混乱に紛れて、シンプソン夫妻とジョハンナ・バーク母娘は家の中に入った。
三月十四日夜――中で起きていたこと
シンプソンが見たのは、四人の男がブリジット・クリアリーをベッドに押さえつけている光景だった。ジャック・ダンと、パトリック、ジェイムズ、ウィリアムの三人のケネディ。彼女は仰向けで、寝間着を着ていた。夫のマイケルがベッドのそばに立っていた。
クリアリーが液体を求めた。「かけろ」と言った。メアリー・ケネディがそれを持ってきた。マイケル・ケネディが小鍋を持った。液体はブリジットに何度もかけられた。それは尿だった。伝承では、尿は取り替え子を逃げ出させる力があるとされていた。
父パトリック・ボランドがそこにいた。ウィリアム・アハーンが蝋燭を持って立っていた。
ブリジットはもがいて「放っておいて」と叫んでいた。
シンプソンは、夫が匙で液体を飲ませるのを見た。そのあと十分間、男たちは彼女を力ずくで押さえ続け、一人は口に手を当てていた。ベッドの両側の男たちは彼女の体を前後に揺すり続け、こう叫んでいた。
「失せろ。ブリジット・ボランド、神の名において帰ってこい」
彼女はひどい悲鳴を上げた。男たちは「帰ってこい、ブリジット・ボランド」と繰り返した。
シンプソンはこの様子から、彼らはブリジット・クリアリーが魔女だ、あるいは魔女が中に入っていると考えていて、体を苦しめることでそれを家から追い出そうとしているのだ、と受け取った。
しばらくして、ダンとパトリック、ウィリアム、ジェイムズのケネディが彼女をベッドから抱え上げ、台所の炉へ運んだ。シンプソンは彼女の額に赤い跡があるのを見た。誰かが「薬を飲ませるのに焼けた火掻き棒を使わなきゃならなかった」と言った。
四人は寝間着姿の彼女を火の上に持ち上げた。シンプソンの証言はここが具体的で、彼女の体が火の燃えている火格子の桟の上に乗っているのが見えた、と言っている。
そのあいだ、家の中ではロザリオが唱えられていた。
夫が火のそばで質問を始めた。三度名前を答えなければ焼く、と言った。彼女は父と夫のあとについて三度名前を繰り返した。
「お前は神の名にかけて、マイケル・クリアリーの妻ブリジット・ボランドか」
「わたしは神の名にかけて、パトリック・ボランドの娘ブリジット・ボランドです」
シンプソンによれば、彼らは十二時前に答えを取ることに異様な焦りを見せていた。ゲイニーの指示が真夜中前だったからだ。
「これは本人だと思うか」と皆が言い合い、「そうだ」と答えが返り、皆が喜んだ。
答えたあと、彼女はベッドに戻された。女たちが清潔なシュミーズを着せた。ジョハンナ・バークがそれを火で温めた。そして部屋にいる一人ひとりを言い当ててみろと言われ、彼女は全員を正しく言い当てた。
一時になって、ケネディ兄弟は家を出た。キラノールで行われているマイケル・クリアリーの父の通夜に行くためだ。ダンとアハーンは二時に帰った。シンプソン夫妻とジョハンナ・バークが家を出たのは、夜明けの六時ごろだった。
その晩、この家には十三人がいた。そして誰一人、外に助けを求めなかった。
夜のあいだの一場面が証言に残っている。ブリジットが言った。「警察が窓のところにいる。わたしの言うことを聞いて」。窓に警官はいなかった。
三月十五日、金曜の朝――家でミサが行われる
夜が明けた家に残っていたのは、マイケル・クリアリー、パトリック・ボランド、メアリー・ケネディ、そして寝ているブリジットだった。
シンプソンによれば、クリアリーはそのあと司祭を呼びに行った。悪霊を追い払うために家でミサを立ててもらいたい、というのが理由だった。
ライアン神父の証言はこうだ。「金曜の朝七時に呼ばれた。マイケル・クリアリーが、家に来てミサを立ててくれと頼んだ。妻がひどい夜を過ごしたと」
神父は八時十五分に着き、ブリジットが寝ている手前の部屋でミサを立てた。前夜、そこで何が行われたかを彼は知らない。「水曜より神経質で興奮しているように見えた」と彼は言い、「ミサの前には夫と父親がいたが、ミサのあいだ誰がいたかは言えない」と付け加えている。彼女は聖体拝領を受けた。
帰り際、神父は聞いた。医者の処方した薬は飲ませているのか。
クリアリーは答えた。あの薬は信用していない。
飲ませるべきだと神父は言った。クリアリーはこう返した。「人には人のやり方があって、医者の薬より効くこともある」
ライアン神父は、それでも何も疑わずに帰った。のちに彼はこう述べている。もし不正や妖術の疑いを少しでも持っていたら、その家でミサを立てることを絶対に拒否し、警察に通報していただろう、と。
彼を責めるのは簡単だ。ただ、マッカーシーが書いたように、彼もまた鉄のように硬直した制度の産物だった。臨終の秘跡は前日に済ませた。だから翌日は行く必要がない。それが手続きだった。
三月十五日、日中
ブリジットは昼まで寝ていた。シンプソンが正午に見たのが最後だ。彼はあとで、木曜の夜に止めなかった理由を「扉に鍵がかかっていて外に出られなかった」と説明している。
この日、大勢が見舞いに来ている。隣の畑で耕していた農夫トマス・スミスが、病気だと聞いて十分ほど顔を出した。ほかにも証言にはミアラ、トビン、アングリン、リーヒといった名前が出てくる。彼女はよほど人に好かれていたのだろう。
そして誰一人に、彼女は何も言わなかった。
ジョハンナ・バークはこの日ほとんど家にいた。彼女の証言にこんな場面がある。クリアリーが枕元に来て缶を渡し、中に二十ポンド入っていると言った。ブリジットはそれを受け取って結わえ、夫に、なくなるまで有り難みが分からないんだからちゃんとしまっておきなさい、と言った。
ジョハンナはこう証言している。彼女は「正気だった。ただ、何もかもに怯えていた」。
もう一つ、この日の記録がある。ブリジットが夫に、警察が窓のところにいる、だからもう放っておいて、と言った。夫は返事の代わりに、そばにあったおまるの中身を彼女と窓にぶちまけた。
三月十五日夜八時――「聖水だ」と言われて
夜八時、クリアリーはジョハンナ・バークと娘のケイティを使いに出し、トマス・スミスとデイヴィッド・ホーガンを呼ばせた。
スミスの証言によれば、二人が着いたとき寝室にはマイケル・クリアリー、メアリー・ケネディ、ジョハンナ・ミアラ、パット・リーヒ、パトリック・ボランドがいた。夫は瓶を手にして、混乱している妻に言った。
「トム・スミスとデイヴィッド・ホーガンが来ているから、これを飲むな。父と子と聖霊の名において」
スミスが中身を尋ねると、クリアリーは聖水だと答えた。
ブリジットは「はい」と言って飲んだ。飲む前に「父と子と聖霊の名において」と自分で唱えさせられ、そのとおりにした。
スミスとホーガンは寝室を出て火のそばに座った。クリアリーは、妻は人が来ているから起きてくると言った。実際、彼女はベッドを出て、上着とショールを身につけ、台所の火のところへ来た。
そこで交わされた話題は、ピシローグ――まじないと呪いのことだった。
スミスは十二時まで居て帰った。彼が最後に見たブリジット・クリアリーだ。残ったのは、夫、父、叔母メアリー・ケネディ、従兄弟のパトリック、ジェイムズ、ウィリアムのケネディ、ジョハンナ・バークと娘のケイティ。
三月十五日深夜――「あんたの母親が妖精と行ってたのよ」
火のそばで妖精の話が続いた。ショールをかぶり、痩せて怯えたブリジットが、夫に向かってこう言った。
「あんたの母親が妖精と行ってたじゃない。だからわたしがそうだと思うんでしょう」
クリアリーが返した。「母がそう言ったのか」
「言ったわよ。二晩、あちらで過ごしたって」
これは決定的な一言だった。バークが解釈するように、この発言はマイケルの家系に泥を塗るものであり、同時に子ができないことの原因が誰にあるのかという、この夫婦が抱えていたであろう争点にも触れていた。
ジョハンナ・バークが茶を淹れ、ブリジットに一杯すすめた。
そこでクリアリーが飛び起きて、パンにジャムを塗ったものを三切れ作った。これを食べてからでないと茶は飲ませない、と言った。そして一切れ渡すごとに聞いた。
「お前は父と子と聖霊の名において、マイケル・クリアリーの妻ブリジット・クリアリーか」
彼女は二度答えて、二切れを飲み込んだ。
乾いたパンを、飲みものなしで、衰弱した体で飲み込む。かつて「パンによる神明裁判」と呼ばれたやり方が、まさにこれだった。多くの者がそれに失敗した。
三切れ目で、彼女は答えられなかった。
クリアリーは「飲まないなら、下へ行け」と言って彼女を床に投げ倒し、膝を胸に乗せ、片手を喉にかけて、パンを押し込んだ。「飲み込め。入ったか。入ったか」
ジョハンナ・バークが言った。「マイク、放してやりなさいよ。そこにいるのはブリジットじゃないの」。彼女はこう説明している。夫は、そこにいるのは妻ではなく妖精だと疑っていた、と。
燃える
ここから先は、法廷でジョハンナ・バークが語ったとおりに書く。史実の範囲を出ないし、出す必要もない。
マイケル・クリアリーは妻の服をシュミーズだけ残して剥ぎ取り、火から燃えている木切れを取り出して、口のそばに近づけた。
「母と、兄弟のパトリック、ジェイムズ、ウィリアムと、わたしは出ていきたかった。だがクリアリーは扉の鍵は自分が持っている、妻が戻ってくるまで開けないと言った」
そのあとクリアリーはランプの油を彼女に投げかけた。
「彼女が燃えているとき、こちらを向いて叫んだ。ああ、ハン、ハン、と」
ハンというのはジョハンナの愛称だ。従姉妹の名前を呼んだ。
「わたしは警官を呼びに外へ出ようとした。兄のウィリアムは奥の部屋に行って気を失って倒れ、母が復活祭の聖水をかけた。ブリジット・クリアリーはそのあいだずっと炉で燃えていて、家じゅうが煙と臭いでいっぱいだった。わたしは耐えられなくて部屋に上がった」
クリアリーが部屋に上がってきて、大きな麻袋を持っていった。そしてこう言った。
「黙ってろ、ハンナ。俺が燃やしているのはブリジットじゃない。もうすぐ煙突を上がっていくのが見える」
兄のジェイムズとウィリアムが言った。「燃やしたけりゃ燃やせ。だから鍵をよこして、俺たちを出してくれ」
そして燃えているあいだに、クリアリーが叫んだ。
「焼けちまった。神様、そんなつもりはなかった」
ジョハンナがもう一度下の部屋を見たとき、ブリジット・クリアリーの遺体はシーツの上に横たわっていた。うつ伏せで、脚が上向きに反り返っていた。焼けて縮んだのだ。彼女は死んでいた。
ウィリアム・ケネディの証言も残っている。部屋から出てきたらブリジット・クリアリーが燃えていた。何をしているのかとクリアリーに聞いた。クリアリーは、お前には関係ないと答えた。出してくれと頼んだ。クリアリーは出さなかった。
ジェイムズ・ケネディは法廷で、金曜の夜、神の愛にかけて奥さんを焼かないでくれと頼んだと述べている。
そしてジャック・ダンは、木曜の夜に火にかざすことを言い出した張本人とされているのに、弁明としてこう言った。「あの晩は焼いていない。ただ火の上に持ち上げただけだ」
埋める
クリアリーはパトリック・ケネディに、遺体を埋めるのを手伝ってくれと言った。母親の隣に葬れるようになるまでの仮の埋葬だ、という理屈だった。
ジョハンナによれば、パトリック・ケネディは最初断った。彼自身が治安判事の前で述べたところでは、殺されると思ったから行ったのだという。彼は焼くことには関わっていない、別の部屋にいて「唸り声を聞いた」だけだと主張し、こう付け加えた。「従姉妹が焼かれるのを見て、俺は頭がおかしくなった」
クリアリーは一度自分だけで外に出て、扉に外から鍵をかけた。中には男四人と女三人が、焼けた遺体とともに残された。彼は場所を探しに行った。選んだのは、家から一マイル以上離れた場所だった。
戻ってきてパトリック・ケネディを連れ出し、二人でシーツに包んだ遺体を運んだ。二時間ほどかかった。
ジョハンナは言っている。「母と兄二人、パット・ボランド、娘、わたしは、二人が戻ってくるまで囚人にされていた」
戻ったクリアリーはジョハンナに口裏を合わせるよう命じた。飲み物を用意しに行って戻ったら扉のところで彼女に会い、彼女がこちらに唾を吐いて出ていった、どこへ行ったかは分からない、と言え、と。
そして自分はクローニーンのほうへ行って、半分気が触れたふりをすると言った。それからこう言った。
「ハンナ、お前は当てにならん。だがな、腐るまで牢に入れられても、絶対に言うな」
ジョハンナは膝をついて、死ぬまで、たとえ遺体が見つかっても決して言わないと神と人の前で誓ったという。
クリアリーは義父のほうを向いて、ジョハンナも視野に入れながら言った。「俺はお前ら二人が怖い」
老ボランドが答えた。「娘が焼かれてしまった今となっては、何を言っても仕方がない。だが、この老いさきの短い身に神の助けがありますように」
土曜の朝、三月十六日。ジョハンナは、マイケル・クリアリーが着ていた薄手のツイードのズボンを洗っているのを見た。脂のような染みがついていた。彼は叫んだ。「ああ、ハンナ、これはブリジットの体の中身だ」
そして彼は、床に落ちていた妻のイヤリングを一つ拾って壊した。証拠になるからだ。
三月十六日から二十二日――砦で夜を待つ
金曜の夜に居合わせなかったジャック・ダンが、土曜の朝に来た。ブリジットがいない。クリアリーは、ジョハンナに言わせた作り話をそのままダンにも語り、妖精と行ってしまったのだと思うと付け足した。
ダンは探そうと言い、二人でカイルナグラナの砦とその周辺をくまなく探した。
歩きながら、クリアリーはこんなことを言った。一マイル半ほど下の道で、彼女は卵の仲買人と会っていた。もしかしたらその男のところへ行ったのかもしれない、と。土地の女たちは卵を持って本道に出て仲買人と会う。ブリジットの勤勉さの証だったものが、この瞬間、疑いの材料に転換されている。
探しても見つかるはずがない。しばらくして、クリアリーが抑えきれなくなって口走った。
「あいつは昨夜焼けた」
ダンは言った。「この畜生、なんでそんなことをした」
「あれは俺の妻じゃなかった」とクリアリーは答えた。「俺の妻にしては上等すぎた。俺の妻より二インチ背が高かった」
ダンは言った。「今すぐ当局と司祭のところへ行って自首しろ。この世に居場所はないぞ」
クリアリーは「一緒に来てくれるなら行く」と答えた。二人はドランガンへ向かい、途中でマイケル・ケネディと会って、彼も一緒に行った。
だが、そこから先の一週間、クリアリーがしたのは自首ではなかった。
彼は妻の親族に、日曜にカイルナグラナの砦へ一緒に来てくれと言った。黒い柄のナイフを持って。妻は白い馬に乗って砦から出てくる。馬に括りつけられているから、その紐をナイフで切れば取り戻せる。
ジェイムズ・ケネディが法廷でこう述べている。「三晩、カイルナグラナの砦へ行った。だが何も見えなかった」
同時代のロンドンの雑誌『スペクテイター』にアイルランドの通信員が寄せた記事が、この場面をより広い伝承の文脈に置いている。焼いたあと、その土地の男たちの多くが黒い柄のナイフを持って砦に一晩座り込んだ。妖精の行列が通り、その真ん中にクリアリー夫人が灰色の馬に乗っている。誰かが飛び出して黒い柄のナイフでその縛めを切れば、彼女はこの世に戻る。そう信じられていた、と。
通信員は、これはバラッドの「タム・リン」でフェア・ジャネットがタム・リンを救った筋そのものだと指摘している。黒馬をやり過ごし、栗毛をやり過ごし、乳白色の馬に走り寄って乗り手を引きずり下ろす、あの歌だ。
つまり彼らは、自分たちが知っている物語のとおりに動いていた。物語には結末がある。妻は帰ってくることになっている。
一方、警察はすでに動いていた。三月十六日には失踪の噂が広まり、地元の警官が捜索を始めていた。証言が集められ、二十二日に遺体が見つかるまでに、夫を含む九人が訴追されることになる。
三月二十二日、荊の下
三月二十二日の金曜、ハリエニシダの茂る荒れ地を横切っていたロジャース巡査部長が、畑の隅で生垣から切り取られたばかりの折れた荊の枝が積まれているのに気づいた。
その下、数インチの浅い土のなかに、ブリジット・クリアリーの遺体があった。家から一マイル以上離れた、水気のある沼地の窪みだった。
遺体の状態は「きわめて凄惨」だった。背中と下半身は焼けていた。だが頭部は保たれ、「顔立ちは完全」だった。
検死は翌二十三日、ティペラリー州検死官ジョン・ジェイムズ・シーのもとで行われた。検死調書は五ページで、クローニーンのサミュエル・サマーズ巡査の報告、フェザードの診療所医クリーンの報告、そしてヘファーナン医師とクリーン医師の共同解剖所見が含まれていた。
解剖所見はこう述べている。右側の焼損がひどく「内臓が焼け穴から突き出していた」。手は「炭化し、拘縮していた」。一方で「体に大きな暴行の跡はなかった」とも書かれた。結論は「同様の腹部の火傷で生きていられる者はいない。火傷の直後に死亡したと考える」。
デニス・ゲイニーの薬草が胃の組織を傷つけた形跡はなかった。
十二人の陪審が出した評決はこうだ。「故ブリジット・クリアリーは、一八九五年三月二十二日金曜、トゥラクサンの土地で死体で発見された。死因は広範な火傷である。ただし、いかにして、また誰によって引き起こされたかを示す証拠を我々は有しない。故人は一八九五年三月十三日には自宅で生存していた」
「誰によって」は刑事事件の管轄だから分かる。だが「いかにして」は検死官の職務範囲であり、証拠もあった。それでも陪審は書けなかった。あるいは書かなかった。
そして検死官シーが口にした一言が、この事件のその後を決定づける。
「ホッテントットのあいだでさえ、こんなことが起きるとは思わないだろう」
彼としては最大限の非難のつもりだった。だがこの言葉は、アイルランドにおいてはきわめて政治的な言葉だった。理由は後で述べる。
遺体を家族が引き取ることはなかった。親族は牢にいた。教会も、これほど迷信にまみれた醜聞に関わることを望まなかった。
ブリジット・クリアリーは、ある晩、二人の警官の手によって静かに埋葬された。ドランガン・アンド・クローニーン教区教会の墓地の、囲い壁のすぐ外側。母親の隣の、印のない場所。今も四つの石が置かれているだけだ。
夫が「母親の隣に葬れるようになるまで」と言っていた場所に、彼女は結局、警官の手で葬られた。
二つの法廷
治安判事の審理
三月二十一日、まだ遺体が見つかる前に、拘束された者たちがクロンメルの法廷に引き出された。この時点で検察の手元にあったのは、シンプソンの供述と、クリアリーに口裏を合わせさせられたジョハンナ・バークの偽りの話だけだった。
遺体が出て、状況が変わった。ジョハンナ・バークは誓いを破って全部話した。彼女が王室側の主要証人になる。娘のケイティ・バークも証言台に立つ。
四月一日から六日にかけて、治安判事コルネル・エヴァンソンとグラブの前で長い予備審問が行われた。当初九人だった被告に一人が加えられ、うち一人が釈放されて、九人が裁判に付されることになった。マッカーシーは、この審問のあいだ被告たちが見せた「抜け目なさと落ち着き」が何度も表に出た、と書いている。
七月三日、クロンメルで大陪審が宣誓した。同じ日、ケネディ家の家が焼かれている。近所の人間が火を放ったのだ。近隣の共感が被告側にあったわけではない。裁判所へ向かう被告たちは野次と罵声を浴びた。
七月四日、ウィリアム・オブライエン判事が七月巡回裁判を開いた。大陪審はマイケル・クリアリー、パトリック・ボランド、メアリー・ケネディ、ジェイムズ・ケネディ、パトリック・ケネディの五人について殺人の正式起訴を認め、九人全員について傷害の起訴を認めた。この日、ジョハンナ・バークの証言が始まった。
七月五日、判決
七月五日、マイケル・クリアリーの裁判。ジョハンナ・バークの証言が続き、娘のケイティも証言した。
この裁判で異例だったのは、陪審が実際に外へ連れ出され、埋葬を待って納屋に安置されていたブリジットの遺体を見せられたことだ。損傷の程度を確認し、顔を見て本人であることを自ら確かめるためだった。陪審がそこで見たものが、彼女がどれほど苦しんだかを彼らに確信させた。
オブライエン判事は陪審に対してこう述べた。
「この極めて異常な事件は、一人ではなく複数の人間の精神における暗黒――道徳的な暗黒、宗教的とすら言える暗黒を明らかにしている。その暴露は多くの人々に驚きをもって受け止められた」
そして彼は付け加えた。「これほどの人間的妄想がありうるとは、ほとんど信じ難い。若い者も年老いた者も、男も女も、これほど多くの人間が、人の苦しみに対する憐れみや共感をこれほど欠きうるとは」。あの晩の犯罪は「文明世界の全体に恐怖と憐憫の物語を広げた」と彼は言った。
そして殺人罪は、王室側の検察官によって取り下げられた。
マイケル・クリアリーは故殺で有罪となり、二十年の懲役刑を受けた。
ほかの者の量刑はこうだ。パトリック・ケネディは傷害で有罪、五年の懲役。オブライエン判事の見立てでは「マイケル・クリアリーを除けば最も罪深い」人物だった。ジョン・ダンは三年の懲役。ジェイムズ・ケネディとウィリアム・ケネディがそれぞれ一年半の重労働刑。マイケル・ケネディとパトリック・ボランドがそれぞれ六か月の重労働刑。ウィリアム・アハーンは訴追を取り下げられて釈放された。
そして老いたメアリー・ケネディの番が来たとき、判事は涙ぐんでこう言った。
「この気の毒な老婆には、いかなる刑も宣告しない」
自分の娘が姪の火刑を見ていた老婆を、法廷は罰さなかった。これが妥当だったかどうかは、今も議論の余地がある。
そして誰も何も失わなかった、わけではない
マイケル・クリアリーは十五年服役し、一九一〇年四月二十八日にメアリーバラ、今のポートレイシャの刑務所を出た。リヴァプールへ渡り、同年七月にカナダへ移住している。同年十月十四日付で、ロンドンの内務省から黒枠の書簡がダブリン城の次官宛てに送られ、彼が六月三十日にモントリオールへ渡ったことが記されている。
彼が向こうでどう生きて、いつ死んだのかは記録に乏しい。
新聞は何を書いたか
検死官の一言が政治になる
「ホッテントット」という言葉が、なぜあれほど問題だったのか。
一八八六年、グラッドストンの第一次アイルランド自治法案をめぐる論戦のなかで、のちに首相となる第三代ソールズベリー侯ロバート・セシルが、アイルランド人には自治に必要な成熟が欠けているという論旨のなかで、こう言い放った。「たとえばホッテントットに自由な代議制度を委ねはしないだろう」
パーネル派は激怒した。以来この語は、アイルランドで自治反対論の記号になっていた。
検死官シーは自分の郡の住民を罵るつもりでその語を使った。だが結果として、彼はユニオニスト側の論理をそのままなぞってしまった。マッカーシーはのちに、シーの発言を「彼の永遠の名誉のために」と紹介している。まったく別の読み方をする人間が、同じ言葉を挟んで並んでいた。
一八九五年三月から七月の政治情勢
事件が起きた時期が悪すぎた。
グラッドストンは前年に引退し、ローズベリー伯が首相だった。ローズベリーは病を得ていて、辞任するという噂が流れていた。さらに悪いことに、彼の名はオスカー・ワイルドをめぐる醜聞に絡めて口にされ始めていた。クイーンズベリー侯が刑事名誉毀損で法廷に立っていたのがまさにこの時期だ。
アイルランド担当大臣ジョン・モーリーは、新しい土地法案を通そうとしていた。三月四日に下院で第一読会にかけられ、ナショナリストはこれを解放と成熟の証と見ていた。モーリーは小作人に同情的で、犯罪法の運用を停止していた。農村の「騒擾」はほぼ止んでいた。ユニオニストは、法の緩和がいかに危険かを描くための材料を探していた。
そこにバリーヴァドリアが降ってきた。
誰が何を書いたか
三月二十三日の『フリーマンズ・ジャーナル』は「女性の謎の失踪、遺体発見、九人が逮捕され勾留」と見出しを打ち、ユニオニスト紙が書かなかった情報を一つ加えた。最重要の証人であるウィリアム・シンプソンは「立ち退き農場の管理人」である、と。ナショナリスト紙にとって、この事件を土地闘争の文脈へずらすための足がかりだった。『コーク・イグザミナー』は「女性の失踪、異常な展開、多数の逮捕」と報じた。
三月二十五日、土地法案の審議開始を一週間ほど後に控えたその日、ユニオニスト系の『ダブリン・イヴニング・メイル』が社説を掲げた。バリーヴァドリアの人々は本質的に無法であり、地元の聖職者と教員は彼らを「ダホメーの道徳的・知的水準に」放置していると論じた。ホッテントットの次はダホメーだ。アフリカの地名が、アイルランドの農民を人間の外側に置くための道具として次々に投入されていく。
『デイリー・エクスプレス』はもっと直截だった。アイルランド担当大臣を名指しでこう問うた。ティペラリーの恐怖が明るみに出た今もなお、アイルランドとその文明のすべて、その将来の希望のすべてを、農民が選んだアイルランド議会に引き渡すつもりがあるのか、と。
プロテスタント系の『スコッツマン』は、標的をカトリック教会に定めた。ブリジット・クリアリーを拷問死させたとされるアイルランドの農民は、疑いなく敬虔なカトリックであろう。彼らがこのような迷信のなかで暮らしていることは、その宗教と司祭に対する非難の材料になりうる、と。
イングランドの『サザン・エコー』は七月十一日に「アイルランド農民のあいだの甚だしい無知」という見出しを掲げた。同年七月十日、アメリカのサウスカロライナ州の『アンダーソン・インテリジェンサー』は「暗黒のアイルランド」とやった。スタンリーのアフリカ探検記『暗黒大陸を横切って』を踏まえた見出しだ。
七月五日の『グラスゴー・ヘラルド』の見出しは「魔女焼き事件」。
キアラ・ブレスナックとアンドルー・スネドンの研究によれば、一八九五年七月から十二月にかけて、イギリス、アメリカ、アイルランドの新聞に六十本を超える記事が出た。メキシコの『ラ・ヴォス・デル・プエブロ』まで七月十三日に報じている。検死調書の大部分が逐語で紙面に載った。読者が凄惨さを求めていたということだ。
「魔女」という言葉のからくり
ここで注意すべき点がある。この事件は取り替え子の事件であって、魔女の事件ではない。ブリジット・クリアリーが悪魔と交わったと言われた記録は一つもない。魔女の告発に不可欠のその要素が、完全に欠けている。
にもかかわらず、新聞はこれを一貫して「魔女焼き」と呼んだ。
ブレスナックとスネドンははっきり書いている。これは巧妙な商売上の判断だ、と。近世の魔女裁判と結びつければ読者が食いつく。大衆の想像のなかで魔女は必ず火あぶりにされる。実際にクリアリーは焼かれた。「妖精焼き」より「魔女焼き」のほうが国際的な見出しとして圧倒的に強い。
十九世紀のアイルランドでは、病弱な子や障害のある子を取り替え子とみなして虐待し殺す事件が、実は珍しくなかった。シモン・ヤングらのデジタル新聞調査は、十九世紀のアイルランドで二十一件の「取り替え子犯罪」を拾い出している。アンジェラ・バークが四件、ショーン・コノリーが四件しか挙げていなかったところから、桁が変わった。
つまりこの手の事件は、新聞を売るほど珍しくはなかった。売れたのは、被害者が美しい若い女で、不倫の匂わせがあり、犯人が夫で、一族ぐるみで、そこに妖精医者や薬草女といった脇役が並んでいたからだ。要するに、話として出来がよすぎた。
アイルランド側の反応
ナショナリスト紙は距離を取った。マッカーシーの見立てでは、これらの事件はアイルランドのナショナリスト系新聞によって「もみ消され、覆い隠され、あるいは部分的にしか報じられなかった」。彼はまた、説教壇からも新聞からも演壇からも、そしてメイヌースの神学校からも、公的な非難の声が出なかったことを強く責めている。
もっとも、教区の現場では非難があった。三月二十四日の日曜、南アイルランド一帯は明け方四時過ぎの激しい雷雨に叩き起こされた。それでも人々は教会に行った。ドランガンからクローニーンの古い礼拝堂に来たコン・ライアン神父は、この暴挙を可能なかぎり強い言葉で非難し、何か知っている者は当局に伝えよと会衆に呼びかけた。ただ、教区司祭マイケル・マグラスの名前がこの件と結びつけて活字になることは許されなかった。
マッカーシーがわざわざそう記録している。
六月二十一日、ローズベリー内閣は無煙火薬の供給問題で七票差の敗北を喫して総辞職した。モーリーの土地法案は流れた。事件がそれを直接引き起こしたわけではない。ただ、一八九五年の春から夏にかけて、アイルランドの自治能力を疑う材料として、この一件が繰り返し持ち出され続けたことは事実だ。
一八九〇年代の農村で、人はどうやって病気になったか
診療所医制度という綱渡り
十九世紀後半のアイルランドの医療は、救貧法体制の上に載っていた。地区ごとに診療所が置かれ、診療所医が任命され、貧しい患者は救貧法後見人が発行する券や命令書で受診する。制度としては先進的だった。
問題は運用だ。医師は広い地区を一人で受け持ち、移動は徒歩か馬だ。バリーヴァドリアからフェザードまで四マイル。往診を頼むには、家族の誰かが四マイル歩いて、留守なら伝言を残して四マイル戻る。それを三回繰り返して、ようやく来た。しかも酔っていた。
クリーン医師の診断が正しかったかどうかは、今となっては分からない。「神経性の興奮」と「肺の管の軽い炎症」。結核だったかもしれないし、肺炎だったかもしれない。ただ、当時の医療にできることは限られていた。抗生物質はない。
家族から見れば、こういう体験になる。三回頼んでやっと来た専門家が、酔って、五分診て、たいしたことはないと言って、薬を置いていった。翌日、司祭が来て、死ぬ準備をさせた。そして薬を見て「あの医者がしらふだったためしがない」と言った。
その状況で、隣に住む語り部が「医者にできることはない」と言う。四マイル歩けば、この地方で長年評判の薬草医がいる。彼は病名も原因も治し方も、全部はっきり言ってくれる。
どちらが「合理的」に見えたか、という話だ。
教会が抱えていた矛盾
十九世紀後半のアイルランド・カトリック教会は、いわゆる信心革命の只中にあった。ミサへの出席を義務化し、家庭での通夜の乱痴気を抑え、聖泉巡りやまじないといった民間の慣行を根絶しようとしていた。
だがそれは半端にしか進まなかった。ブリジット・クリアリーの家では、復活祭の聖水が気絶した男にかけられている。三度の名前の尋問には「父と子と聖霊の名において」が付いていた。薬草を飲ませる場面でロザリオが唱えられていた。夫は悪霊を追い払うために司祭にミサを頼んだ。そして翌日、その同じ台所で妻を焼いた。
キリスト教の語彙と、妖精の語彙が、同じ人間の同じ夜のなかで混ざっている。分けて考えることに意味がない。それが当時の実際の宗教生活だった。
妬みという燃料
もう一つ、身も蓋もない話をする。
九軒しかない集落で、一軒だけスレート屋根の家がある。その家の女は金のイヤリングをして、羽根飾りの帽子をかぶり、ミシンを持っていて、自分で稼いでいる。缶に二十ポンド入っている。八年結婚していて子がいない。そして砦の近くをよく歩いている。
これだけ揃えば噂は勝手に生える。バークが指摘するとおり、妖精の物語は共同体の内部で、逸脱者に圧力をかけるための言語として機能した。「あの人は妖精と行っている」という言い方は、「あの人は普通じゃない」を口にするための、責任を取らずに済む形式だった。
キバードはこう書いている。ジャック・ダンのような語り部の権威が落ちていく一方で、ブリジット・クリアリーのような強い女の力が上がっていた。事件のなかで多くの男たちを掴んだ集団ヒステリーは、新しい女への恐怖と無関係ではないだろう、と。司祭も医者も、介入できたはずの者が揃って動けなかったことも、彼はこの文脈に置く。
研究者は何を言い、何が反論されてきたか
バークの読み
一九九九年に『ブリジット・クリアリーの焼殺』を出したアンジェラ・バークは、ユニヴァーシティ・カレッジ・ダブリンでアイルランド語を教えていた研究者で、妖精伝説を「仮想世界」として読む立場を取ってきた。彼女にとって妖精譚は、弱い立場の人間が厳しい環境と折り合いをつけるための装置だ。ある岩のそばの海から手が伸びて漁師を引きずり込む、という話は、危険な潮流を表現する説得力のある方法である、というふうに。
だから彼女は、マイケル・クリアリーが自分の妻を殺しているという自覚を持っていたとは考えない。古い掟に呼び出されて役割を演じさせられた、孤立して無力な男として彼を描く。妻の一族のなかで居場所のない外来者であり、近代的な訓練を受けながら、より古い烙印と統制の思想に徴用された男だ、と。
そしてブリジットについては、一八九〇年代の典型的な強い女、生意気で反抗的で、古い伝承の残りかすを自分のために使うくらいの機転を持った女として描く。彼女が本当に「白い馬に乗って砦から出てくる」と口にしたのだとしたら、それは束縛された女が手にしうる現実の力であり、夫と男たちを呆然とさせるための一手だった、というのがバークの見立てだ。
バークは「迷信」という語そのものを警戒する。対等な者のあいだで使われるなら非合理な癖への寛容を表す言葉だが、人種的・宗派的な刃を持たされたとき、それは適用される相手を完全な人間とみなさない態度の印になる、と彼女は書いている。
反論その一――それは殺人だ
サロン誌でこの本を評したマーク・ショーンは容赦がない。バークは焼殺にまつわる非難を軽くしようとしている、と彼は書く。ヴィクトリア朝の抑圧者たちが迷信を憎んだのには十分な理由があった。迷信は苦しみを生んでいたからだ。当時の医学はようやく人を救えるようになっていたのに、周囲ではマイケル・クリアリーのような人間が過去の無知で致命的な規則に従っていた。
バーク自身が書いているように、取り替え子の作り話は一八九〇年代にもなお奇形の赤ん坊を殺す口実として使われていた。それのどこが体制への抵抗なのか、と。
カナダの評者キャスリーン・オグレイディは、バークの結び――「誰も完全に責を負わず、誰も完全に無垢ではない」という一節と、ホフとイェーツの「二十世紀末に女性を被害者として書きたがる政治的に正しい風潮には迎合しない」という宣言の、両方を並べて突き放している。もしブリジット・クリアリーが被害者でないのなら、被害者という語にはほとんど用がない、と。
事件を書く人間が民俗学に寄りかかりすぎると、目の前で焼かれている女が背景に退く。この批判は正当だと思う。
反論その二――妖精は口実である
アイルランドの評論ブログ「アン・シオナック・フィオン」の書き手は、より単刀直入だ。この殺しをより厳密に検討すれば、夫婦間の不和、子ができないこと、妻の独立した収入、そして病気が指し示すのは、無知な農民のあいだの非合理な妖精譚よりも、家父長制の農村社会における男性の暴力である、と。既存の民間信仰の影響を否定するわけではない。だが主因はそちらではない、という立場だ。
この読みを裏づける材料もある。一八九四年十二月、つまり事件の三か月前に、ブリジットは夫が自分を焼こうとしたと訴えていたと伝えられている。もしそれが事実なら、三月の狂騒は突発ではなく、既にあった暴力に伝承の衣がかぶさっただけだ。
さらに、シンプソンとの不倫の噂と、「卵の仲買人と会っていたのかもしれない」という夫の一言。「あれは俺の妻にしては上等すぎた」という台詞。ここに嫉妬がないと言うほうが無理がある。
反論への反論
ただ、口実説にも弱いところがある。
イー・エフ・ベンソンが一八九五年六月、裁判の前に『ナインティーンス・センチュリー』誌に寄せた論考が、当時すでにその点を突いていた。ベンソンは弁護側の論理――関係者は本気で妻が霊に憑かれたと信じ、殺意はなく、元に戻そうとしていたのだ、という説明を受け入れたうえで、こう書いている。
クリアリー家の扉は開け放たれていた。行為を隠そうとする試みは一切なかった。「もし殺すつもりだったのなら、扉を開けたままにしておくとは考えられない。叫び声で近所を引き寄せるままにするとも、十人もの人間に立ち会わせるとも考えられない。おぞましく凄惨な事件ではあるが、これを故意の殺人と呼ぶことはできない」。彼はこう結んでいる。彼らは殺したが、殺意をもって殺したのではない。
ならばなおのこと極刑を科すべきではない、と。
ベンソンの論考には別の顔もある。彼は「未開の部族」における類似の信仰の例を並べ、「そうした信仰が無教養な精神に及ぼす巨大な力」を論じた。つまり同情的な論理と人種主義的な枠組みが、同じ文章のなかに同居している。当時の「理解ある」議論の限界がここに露出している。
そして構造的な事実として、この事件は共同体的だった。十三人が居合わせた。誰も逃げ出して通報しなかった。呼ばれた専門家がいた。指示に従う手順があった。真夜中という期限があった。三度という数があった。これは一人の男の私的な暴発では説明がつかない。
たぶん本当のところは、どちらか一方ではない。夫婦の不和も、嫉妬も、経済的な立場の逆転も、睡眠不足も、父の死も、酔った医者も、離れた司祭も、語り部の一言も、全部が同じ台所に集まった。伝承はそれらを一本の物語にまとめる文法を提供した。文法があったから、複数の人間が同じ筋書きを共有できてしまった。
医学からの読みと、その限界
二〇〇六年、オコンネルとドイルは『アイリッシュ・ジャーナル・オブ・メディカル・サイエンス』に、この事件の精神医学的側面についての論考を発表した。彼らの推測は、マイケル・クリアリーが妻の看病の重圧によって短期精神病性障害を発症し、それがカプグラ症候群――親しい人物が瓜二つの偽物に置き換えられたと確信する妄想――として現れたのではないか、というものだ。
そして彼が周囲を説得したことで、複数人に妄想が共有される状態になったのではないか、と。関与者の一部に知的障害があった可能性にも触れている。
説明としては魅力的だ。だが、危うさもある。
カプグラ症候群という現代の診断名は、一八九五年の当事者には存在しなかった。彼らが持っていたのは取り替え子という語彙だ。そして、集落の全員がカプグラ症候群だったわけではないのに、家に集まった十三人はその筋書きを了解した。個人の脳の異常で説明しきると、共同体が共有していた物語の力が消えてしまう。
逆に言えば、文化だけで説明しても足りない。取り替え子の話を知っている人間は何十万人といた。焼き殺したのは一人だ。
数え唄になった
縄跳びの歌
ティペラリーの子どもたちは、今も縄跳びをしながらこう歌う。
「あんたは魔女か、あんたは妖精か。それともマイケル・クリアリーの女房か」
歌としてはよくできている。三行目で韻が決まる。フェアリーとクリアリーだ。跳ぶリズムにも合う。
一九三七年から三八年にかけての学校収集事業に、この歌の背景まで含めて書き取った子どもがいる。その記録では、寝たきりになった女のために妖精医者が呼ばれ、パンを三切れ食べさせろ、食べきればハグは消えてブリジット・クレアリーが戻ってくる、と教えたことになっている。彼女は一切れ目は食べたが、二切れ目と三切れ目に失敗した。そこで妖精だと結論され、毎晩しばらく火の後ろに置かれた。
そのときに言われた言葉として、あの二行が記録されている。
そして子どもは、彼女がなんと答えたかまで書いている。
「わたしは魔女でもない、妖精でもない、マイケル・クリアリーの女房です」
歌には返し文句があった。問いと答えの、二人一組の遊びだったのだ。
被害者が自分の身元を証明する台詞が、遊びの台詞になった。これがこの事件のいちばん薄気味悪いところかもしれない。
なぜ歌になったのか
子どもの遊び歌は、共同体が処理しきれなかった出来事を保存する容器としてよく働く。ペストの記憶が含まれるとされる歌もあれば、処刑の記憶が入っているとされる歌もある。真偽が確かめられないものも多いが、この例だけは出所がはっきりしている。法廷証言だ。
大人が口にできなくなった話が、子どもの口では言える。歌の形になれば意味が抜ける。意味が抜ければ持ち運べる。そうやって百三十年運ばれてきた。
歌っている子どもたちは、たぶん誰のことか知らない。それでいい、とも言えるし、それが怖い、とも言える。
現代における受容
研究書
現在この事件の基本文献とされているのが、一九九九年にロンドンで出て二〇〇〇年にアメリカで刊行されたアンジェラ・バークの『ブリジット・クリアリーの焼殺』だ。目次を見るだけで方法が分かる。
家系図から始まり、労働者と司祭と警官、妖精と妖精医者、読み書きと裁縫と鶏と家、発病、そして「飲め、この魔女」、「ブリジーが焼かれた」、「ホッテントットのあいだでさえ」、葬儀と写真、二つの法廷、裁判と投獄、そして「真実の物語はいつ終わるのか」という終章。
同じ年、ジョーン・ホフとマリアン・イェーツが独立に『桶屋の妻が消えた』を出した。こちらはより厚く、政治史に踏み込む。彼らの主張は、この事件はイギリスの新聞と当局によって、カトリック教会とナショナリスト政治家を貶めるために意図的に利用された、というものだ。
この主張には強い批判がある。ドナルド・アケンソンとカロライン・コンリーの書評は、まず陰謀の証拠がないことを指摘する。夫が自宅の炉で妻を焼いたという事件は、定義からして良い記事だ。妖精を信じていなくても面白いと思える。そもそもマイケル・クリアリーは故殺の答弁を許されており、それは誰かの出世に資する結果ではない。裁判をイギリスの法廷と呼び続けるのも無理がある。
判事は自由主義的なアイルランド人カトリックで、陪審員もアイルランド人で、場所はクロンメルだ。中央当局はむしろ妖精に関する尋問をやめさせ、動機ではなくクリアリーの有責性に集中せよと指示している。そして被告たちは近隣から野次られ、関係者の家は焼かれた。加えてアケンソンは、飢饉前の史料を一八九〇年代の社会の記述に流用している箇所があるとも指摘する。
学術的な関心自体はバーク以前からあり、一九八二年には『スタディーズ』誌に「妖精信仰と取り替え子――一八九五年のブリジット・クリアリー焼殺」という論考が出ている。一九一七年にはすでに「ティペラリーの、あるいはクロンメルの魔女事件」と題した新聞記事の転写集が編まれていた。近年ではキアラ・ブレスナックとアンドルー・スネドンが、デジタル化された新聞と検死記録から新しい層を掘り出している。
演劇
一九七四年、コーク出身の劇作家パトリック・ガルヴィンの『最後の焼殺』がベルファストのリリック劇場で初演された。マイケルとブリジットの関係、そして妻が魔女だという夫の揺るがぬ確信を軸にした作品で、彼の信念を煽る幽玄な架空の登場人物たちが出てくる。二〇一二年にはダブリンのスモック・アリー劇場でも上演されている。
二〇一八年二月十八日、アビー劇場でアイルランドの劇作家マーガレット・ペリーの『ポーセリン』が初演された。バークの著書の影響が濃く、加えてカプグラ症候群とフレゴリの錯覚の説をはっきり取り込んだ作品だ。
小説
イングランドの作家アリソン・リトルウッドが二〇一六年に発表した『ヒドゥン・ピープル』は、この事件を下敷きにした歴史ファンタジー・ホラーだ。
同じ年、オーストラリアの作家ハナ・ケントが『グッド・ピープル』を出した。こちらはクリアリー事件ではなく、一八二〇年代の南西アイルランドが舞台で、一八二六年に妖精を追い払おうとしたと主張して重罪を免れたアイルランド女性の新聞記事に着想を得ている。つまりアン・ローチの事件だ。
ケントは執筆にあたって記録を探したが、ローチの実在を裏づける記述は、州の監獄に三人の女が収監されている、その名はアン・ローチ、オノラ・リーヒ、メアリー・クリフォード、という短い一節しか見つからなかったという。
音楽と放送
二〇一六年、アイルランドのロックバンド、ザ・リップタイド・ムーヴメントがアルバム『ゴースツ』に「チェンジリング」を収めた。二〇一九年十一月二十二日には、アイルランドのシンガーソングライター、マイヤ・ソフィアがアルバム『バス・タイム』を発表している。不当な目に遭った女たちを歌ったアルバムで、そこに「マイケル・クリアリーの妻」が入っている。
ブリジットの一人称で書かれ、「マイケル・クリアリーの妻はもう帰ってこない」という一行が繰り返される曲だ。彼女はインタビューでこう言っている。ギネスとシャムロックの消毒済みのアイルランドと並行して存在する、奇妙で影のような裏側に関心がある。この話は自分を動揺させ、気づいたらほとんど無意識に曲にしていた、と。この曲はラディー・ピートの歌唱により、オクスンのデビュー・アルバム『カーム』でカヴァーされた。
放送では、アーロン・マンキーのポッドキャスト『ロア』が二〇一五年七月二十五日に「ブラック・ストッキングス」の回で取り上げ、これがアマゾンの映像シリーズ化六本のうちの一本に選ばれた。二〇一七年の映像版でブリジットを演じたのはホランド・ローデン、マイケルを演じたのはカハル・ペンドレッドだ。二〇二三年九月四日には『モービッド』が回を割いている。
アイルランド国営放送では一九八三年の『レイト・レイト・ショー』ですでに議論され、一九九五年にはドキュメンタリーが作られた。二〇一九年の書物『デッド・ブロンズ・アンド・バッド・マザーズ』も、女性嫌悪の歴史のなかにこの事件を置いている。
なぜ「最後の妖精殺人」と呼ばれ続けるのか
「最後」という言葉のあやしさ
この事件はよく「アイルランドで最後に焼かれた魔女」と紹介される。二重に間違っている。
まず魔女ではない。悪魔との交わりが一言も出てこないからだ。次に、最後でもない。取り替え子を理由とする暴力は二十世紀に入っても記録されている。一九三〇年代の学校収集事業で子どもたちが書き取った話の生々しさを思い出せばいい。
それでも「最後」という呼び名が離れない理由は、たぶんこの事件が、いろいろなものの終わりに見えるほど記録が濃いからだ。
十九世紀アイルランドの取り替え子事件のうち、被害者が大人だったのはこれだけだとされる。子どもの事例なら二十件以上ある。だが子どもの事件は新聞にならなかった。数が多すぎて商品にならなかったからだ。逆に言えば、大人の女が焼かれたこの一件だけが、詳細な法廷記録と検死記録と何十本もの新聞記事を残した。
つまり「最後」なのではない。「唯一よく見える」のだ。
怖さの正体
この話が怖い理由をいくつか挙げてみる。
第一に、加害者たちが悪意で動いていないこと。彼らは治そうとしていた。取り返そうとしていた。木曜の夜、彼女が三度名乗ったとき、部屋の全員が喜んだ、と証言にある。喜んだのだ。
第二に、正しい手続きが踏まれていること。専門家に相談し、指示を仰ぎ、期限を守り、回数を数え、立会人を集め、祈りを唱えた。何一つ手を抜いていない。手続きが正しいことは、中身が正しいことを何も保証しない。
第三に、逃げ道が制度の側からも塞がれていたこと。医者は来なかった。来たら酔っていた。司祭は来て、死ぬ準備をさせて、翌日は来なかった。三度目に呼ばれてミサを立て、薬を飲ませろとだけ言って帰った。近所は集まったが、集まった人数は歯止めにならず、むしろ確信を補強する装置になった。
第四に、当人が最後まで正しく答えていたこと。ジョハンナ・バークの証言によれば、彼女は正気だった。ただ何もかもに怯えていた。人を全員言い当てた。名前を名乗った。夫に、あんたの母親のほうが妖精と行っていたと言い返した。三切れ目のパンが飲み込めなかっただけだ。
正しい答えを持っていても助からない、という構造がここにある。試験の設計そのものが、失敗を織り込んでいる。乾いたパンを衰弱した体で三度飲み込ませる試練は、必ずどこかで失敗するようにできている。
語り継がれる理由
そして最後に、この話が語り継がれるのは、これが「昔の無知な人々の話」に収まらないからだと思う。
専門家の権威が信用を失う。すると別の説明が来る。その説明はもっと分かりやすく、もっと具体的で、もっと行動を指示してくれる。孤立した人間がそれを掴む。周囲は止めない。むしろ手伝う。全員が善意で、全員が手順を守り、そして最後に人が死ぬ。
この構造は、妖精砦のある村にしか存在しないわけじゃない。
ブリジット・クリアリーが最後に呼んだのは、従姉妹の名前だった。ハン、ハン、と。証言によれば、そのときジョハンナ・バークは外へ警官を呼びに行こうとした。行けなかった。鍵は夫が持っていた。
そのあと彼女は、腐るまで牢に入っても言うなと言われ、神と人の前で誓わされ、それから全部話した。彼女が話したから、この記録が残った。
事件から百三十年たった今も、クローニーンの古い墓地の囲いの外に、印のない場所がある。四つの石が置かれているだけだ。彼女はそこにいる。白い馬に乗って砦から出てくることはなかった。
