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壁から猫が出てくる家――イギリスの家屋に埋め込まれた魔除けの考古学、隠し靴・乾燥猫・魔女瓶・ウィッチマークをめぐる四百年

イギリスの古い家は、壊すと何かが出てくる。これはもう、あちらの改修業者のあいだでは常識に近い。床板を剥がせば片方だけの子どもの靴。煙突の煤棚をかき出せば、乾いて板みたいになった猫。炉床の石をどけて掘れば、栓をしたままの陶器の瓶。振ると中でカチャカチャ鳴る。開けると尿と釘と髪の毛が出てくる。

しかもこれ、ぜんぶ「誰かが意図して置いた」ものだ。落として失くしたのでもゴミが紛れ込んだのでもない。わざわざ壁を開けて、入れて、閉じている。

そして最高に薄気味悪いのは、誰も理由を書き残していないという点だ。十六世紀から二十世紀まで、少なくとも四百年、大量の人間が同じことをやり続けていたのに、当時の日記にも手紙にも教区記録にも、ほぼ何も書かれていない。魔女瓶だけが例外的に文献に残っていて、あとは沈黙。物だけが山のように残っている。

エクセター大学で近世の魔術文学を研究しているマリオン・ギブソンは、この状況をひとことで言い切っている。全部が理論だ、誰も書き残さなかったのだから、と。

その「誰も書かなかったこと」を、物のほうから読み解こうとしてきた人たちがいる。半世紀かけて靴の出土台帳をつくった博物館学芸員。全国の博物館に手紙を出しまくって呪物のデータベースを組んだ独立研究者。教会の壁に懐中電灯を斜めから当てて回るボランティア軍団。この記事は、その人たちが掘り出してきたものの話だ。

解体現場から出てくるもの――どこから、どんな状態で、どれくらい

まず全体像から。イギリスの建物から出てくる「意図的に隠された物」は、おおまかに六種類ある。靴、動物の死骸(とくに猫)、馬の頭骨、瓶、書かれた護符、そして刻まれた印。

独立研究者のブライアン・ホガードは、一九九九年に大規模な郵送調査をやった。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの博物館と考古学組織、個人研究者あわせて六百六十一件に質問票を送りつけている。イングランドだけで五百八件に送って、三百二十八件(六十五パーセント)が返信し、そのうち二百三十七件(四十七パーセント)が「うちにそういう物があります」と答えた。

この調査で報告された建物内出土の呪物は、イングランドだけで七百四十九件。うち千七百年より前が二百三十一件(三十一パーセント)、千七百年より後が百五十九件(二十一パーセント)、そして三百五十九件(四十八パーセント)が年代不明。この「半分近くが年代不明」という数字が、この分野の現状をよく表している。記録がない。まともに調査されていない。物の年代を決める手がかりがそもそも乏しい。

置かれる場所には、はっきりした偏りがある。炉、敷居、そして壁や床下の「空隙」。ホガードの言い方を借りれば、ポータル(出入口)とデッドスペース。つまり、外の世界と家の内側が接触する場所と、家の内側にできてしまった何もない隙間だ。

これがどういう世界観から来ているかは、後でじっくり書く。先に、いちばん数の多い靴の話をしよう。

靴の台帳――ひとりの学芸員が半世紀で二千件を集めた

一九五〇年か五一年ごろ、ノーサンプトン博物館の靴コレクション担当だったジューン・スワンは、展示ケースの中の二件の出土品を見ていた。ひとつは千八百年ごろの女性用の靴が一足。もうひとつは十足のチューダー朝の靴で、男物も女物も子ども物も混ざっている。出所は、ロンドン・ウォールの家の煙突脇にあった、塗り込められた戸棚の中。大火を免れた建物だという触れ込みだった。

スワンはこのとき、深く考えなかったと後年書いている。履き潰した靴だ、引っ越しのときに荷造りする価値がなかっただけだろう、と。

でも、似た報告が続いた。床下から。煙突から。屋根裏から。窓や扉の上から。壁の中から。持ち込まれる頻度が異常だった。値打ちのない、ボロボロの靴が、なぜ毎回そんな場所から出てくるのか。

彼女は記録を取りはじめた。建物の住所。建物の年代と改修の年代。建物の用途(民家か、パブか、農家か)。建物内のどこから出たか。一緒に何が出たか。靴の形状。靴の年代。この七項目のカード式記録は、七十年経ったいまも基本的に変わっていない。

数字の伸びかたが、この習慣の広がりを物語る。一九六九年に彼女が最初に発表したとき、記録は百二十九件だった。一九八六年に七百件。一九九六年には千件を超え、いまでは出土地点でおよそ二千カ所、個別の靴の数で三千足弱に達している。スワンは一九八八年に退職したが、博物館は台帳を引き継ぎ、いまも月に平均で二件から三件、新しい報告が入ってくる。

二〇一六年から二〇一七年にかけて、ノーサンプトン博物館はハートフォードシャー大学と組んだ。オーウェン・デイヴィス教授とケリ・ホールブルック博士のチームだ。一九九〇年代後半まで手書きのカードだった記録を、ボランティア約二十人が一枚ずつデジタル化した。カードも写真も往復書簡もスキャンし、最終的に三千二十足分の靴と、千九百九十四件の別々の発見報告を一枚の表計算ファイルに落とし込んだ。

二〇一七年九月二十三日、両者が共催した「靴の魔術」シンポジウムで、最初の分析結果が発表されている。

デジタル化してはじめて、まとまった統計が出せるようになった。そして出てきた数字が、なかなか業が深い。

出土場所は、煙突と炉と竈のまわりが二十六・二パーセント。床下と天井裏が二十二・八六パーセント。屋根裏がそれに次ぐ。建物の種類は、コテージが四十二・六パーセント、都市部の建物が二十六パーセント、農場の建物が十・九パーセント、マナーハウスや邸宅が九・四パーセント。残りが町役場、パブ、教会など。

そして、有名な二つの数字。ペアで見つかるのは全体の十一・三パーセントしかない。つまり九割近くが片方だけ。さらに、新品同然の靴はわずか二・一九パーセントで、残り九十七・八一パーセントは古くて傷んでいた。

年代でいうと、いちばん古い記録はウィンチェスター大聖堂の聖歌隊席の裏から出たもので、その席が設置されたのは一三〇八年。ただし習慣が本格的に盛り上がるのは十七世紀からで、ピークは十九世紀だ。もうひとつ、目を引く数字がある。子どもの靴が全体の約四十パーセントを占める。大人の男物と女物の比率にはほとんど差がないのに、子ども靴だけが突出して多い。

なぜ片方だけなのか、なぜ履き潰されたものなのか

ここからが面白いところだ。

ケリ・ホールブルックは二〇一七年に「もう片方の靴」という論文を書いている。隠し靴そのものではなく、見つからなかったほうの靴について考える、という切り口だ。無作為に選んだ百件のサンプルを調べたところ、ペアだったのはわずか六件。うち四件は単独のペアで、二件は大量の靴の塊のなかに混ざっていた。

単独ペアの例としては、ロンドンのサヴォイ礼拝堂の祭服室の屋根から出た十九世紀の男物のブーツと、ポーウィスのブレコンにあるスリー・コックス・ホテルの屋根裏から出たアンクルブーツがある。この二件が「珍しい例」として名指しされるくらい、ペアは稀だ。

では、片方だけというのは何を意味するのか。

考古学には「フラグメンテーション」という概念がある。物をわざと壊して、その一部だけを埋める。欠けている部分の不在が、かえって全体を強く指し示す。提喩みたいなものだ。片方だけの靴は、まさにこれに当たる。片方があるということは、もう片方がどこかにあるということを、見る者に必ず思い出させる。

ナショナル・トラストがある発見について出した説明では、片方は火(炉や煙突)に、もう片方は水(川や湖)に置かれたのではないか、という推測が紹介されている。証拠はない。だが、片方だけを置くという行為が数千件のスケールで反復されている以上、それが偶然のはずはない。

「なぜ履き潰したものなのか」については、二つの説が真っ向からぶつかる。

ひとつは、意味づけの説。ジューン・スワン自身の言葉が有名だ。靴は、わたしたちが身につけるもののなかで唯一、履き手の形と個性と本質を保持し続ける衣類である、と。長く履けば履くほど、靴は履き手の複製になっていく。だから新品ではだめで、履き潰した靴でなければ「その人の身代わり」として機能しない。悪意ある何かが家に入り込んだとき、靴のほうに引き寄せられて、人間は無事に済む。囮であり、同時に守り手でもある。

もうひとつは、身も蓋もない経済の説。靴は高かった。当時の一足はだいたい週給一週間分。修理して、譲って、サイズを詰めて、流行に合わせて改造して、それでもうどうにもならなくなってはじめて捨てられた。要するに、儀礼に使ってもいいくらい価値がなくなるまで、靴は捨てられなかった。だから出てくる靴が全部ボロなのは当たり前。そして子ども靴が多いのは、子どもがすぐ足を大きくして、靴が早く「用済み」になるからだ。

この二つは実は排他的じゃない。安く手に入る身代わり素材が、たまたま身代わりとして最適な形をしていた、という話でもある。

そして、いちばん散文的な説も忘れてはいけない。革は燃やすと猛烈に臭い。定期的なゴミ回収がなかった時代、いらない革靴の処分は地味に困る。床板の下に放り込むのはただの合理的な処理だったのではないか。スワン自身、床下工事を見ていて、職人が近くのゴミを(空のタバコの箱ごと)掃き込んでから板を打ちつけるのを何度も目撃した、と正直に書いている。

考古学者のジョアンナ・ブリュックは、この分野の落とし穴を的確に指摘している。非合理的・非機能的に見える行為は、消去法で「儀礼」に分類されてしまう。儀礼は初期設定として同定される、と。隠し靴の研究者たちは、この批判を自分たちの内側に抱えたまま作業している。

発見譚その一――スノードニアの廃屋、暖炉の下から出てきた百足の片靴

二〇一〇年九月、ウェールズ北部の話。

ナント・グウィナントの谷にゲリ・イアゴという名の廃屋がある。建てられたのはおそらく十七世紀。ナント・グウィナントに残る建物のなかでも最古級だ。人が住まなくなって五十年以上。一九九八年の「スノードンを救え」キャンペーンでナショナル・トラストが取得したときには、すでに屋根が落ちていて、煙突と外壁も危ない状態だった。完全に崩れる前に構造だけでも救おう、ということで業者が入った。

外壁と煙突の補強作業のさなか、暖炉の下から靴が出てきた。一足ではない。二足でもない。ほぼ百足。しかも全部が片方だけ。

ヴィクトリア朝のものと見られた。ナショナル・トラストのスノードニア地区マネージャー、リース・エヴァンズは、正直に「困惑している」と言った。なぜこんな片方だけの靴を大量に取っておいたのか。なぜ暖炉の下に隠したのか。

もしこれが隠し靴の習慣によるものだと確定すれば、イギリスで見つかった最大の埋納になる。ノーサンプトン博物館の靴資料担当レベッカ・ショークロスも、話を聞いたかぎりでは隠し靴の事例として台帳に入れるだろう、と応じている。彼女の知るかぎり、これほど大きな単一の発見は前例がない。

ただしトラストは、対抗仮説もきちんと並べた。靴職人が溜め込んでいた在庫かもしれない、と。ただ、それなら普通は左右揃った状態で見つかるはずで、全部が片方というのは説明しにくい。

このケースが示しているのは、この分野の典型的な構図だ。圧倒的に不自然な状況。それでも決定打がない。地元の国勢調査記録や古文書を当たって、誰が住んでいたのかを埋めていくしかない。トラストはボランティアを募集して、靴の洗浄と修復、そして史料調査を始めた。

壁の猫――乾いた死骸はどこから来たのか

靴の次に多いのが、猫だ。

言葉のイメージを正確にしておくと、これは「ミイラ」ではない。防腐処理をしたわけではない。壁の空洞や屋根裏、床下といった、空気の動かない乾いた場所に置かれた死骸が、腐敗する前に水分を失って、そのまま何世紀も残ったものだ。専門用語では乾燥猫。毛が抜け落ちて、皮が革みたいになって、骨と腱が透けて見える。それでいて、皮膚のたるみや肉球のしわ、ときにはひげまで残っている。

イギリスの田舎の小さな博物館には、こういう猫がわりと普通に置いてある。カンブリアのケジック博物館にあるものは、赤いビロード張りのケースに横向きに寝かされ、右の後肢の下に来歴を書いた手書きのメモが挟んである。ペンリス近郊クリフトンの聖カスバート教会の屋根で、スレートと漆喰のあいだから、一八四〇年代の修復中に見つかった。

教会自体は十二世紀の建物だが、猫が入ったのはもっと後の屋根修理のときだろうと考えられている。

マーガレット・ハワードは、一九五一年に王立人類学協会の雑誌「マン」で「乾燥猫」という論文を発表した。この分野の古典だ。彼女はイギリス、アイルランド、スウェーデン、そして南はジブラルタルまでの二十五体を検討した。見つかった場所は、村のコテージの藁葺き屋根、廃業したパブ、厩、学校、ダブリンの大聖堂のオルガンの裏、ロンドンのベッドフォード公爵のブルームズベリー邸。

クリストファー・レンが設計した建物からも二例出ていて、うち一件はロンドン塔だった。階層を問わない。

ハワードが立てた仮説は三つ。基礎供犠、害獣よけ、そして偶然の閉じ込め。

そして、これが議論の火種になった。

ネズミよけ説と偶然混入説――反証の側

まず偶然説から。猫が壁の隙間に入り込んで出られなくなって死ぬ、というのは実際にある。ウスターのレインディア亭(いまはショッピングアーケードの一部)では、床板の下から母猫と子猫たちが見つかっている。おそらく出産のために潜り込んで、そのまま閉じ込められて死んだのだろう。悲惨だが、呪術とは関係ない。

ホガードは二つの反論を挙げる。第一に、レンガの空洞に完全に封じ込められていたり、梁に固定されていたりする例は、猫が自力で到達できない。第二に、家のなかで動物が死ぬと臭いが尋常じゃない。取り除ける状況なら、まず取り除かれたはずだ。

次にネズミよけ説。これはハワードが割と真面目に検討した説で、実際、乾燥猫のうち六体は、口にネズミをくわえていたり、鳥を追いかけている姿勢だったりした。両方とも死んでから配置されているのは明らかだ。狩りの構えのまま固定された猫を空洞に置く。これを「案山子」として理解するのは自然に見える。

ただ、この説には強い反論がある。ホガードの指摘は身も蓋もない。ネズミは、死んだ猫を見て逃げるより、食う可能性のほうが高い。どんなに獰猛な姿勢に固めてあっても関係ない。

さらに決定的なのは配置だ。壁の空洞のあいだ、屋根の中、窓台の下。そんな場所に置いた案山子を、誰が見るのか。ネズミが見るのか。物理的な威嚇として機能させたいなら、見える場所に置かなければ意味がない。

だからホガードは、こういう折衷案に落ち着く。生きているあいだ家からネズミを追い払ってくれた猫に、死んだあとも霊的な次元で同じ仕事をしてもらう。あるいは、魔女の使い魔(そのものが猫の姿を取ることが多かった)を追い払わせる。物理的な害獣よけではなく、霊的な害獣よけ。

ハワード自身の結論も、実は折衷的だった。もともとは実用的な理由で塗り込められた猫が、そのうち迷信の対象になって、幸運をもたらすもの、建物への供犠、そして呪いや疫病に対する守り手として使われるようになった、と。

じゃあ、生きたまま塗り込めたのか。

ここが最大の論点だ。全体としては、生きたまま埋められた証拠はほとんどない、というのが現在の見方である。多くの事例で猫は明らかに死後に操作されている。姿勢を作られ、梁に留められ、ネズミと一緒に配置されている。ウォバーン・アビーで見つかった猫(現在は自然史博物館)にいたっては、保存性を高めるために内臓が抜かれていた。これは死んだあとの処理だ。

その一方で、不穏な例もある。サフォークで出た猫は前肢が縛られていた。生きたまま入れられた可能性を示唆する、と読むこともできるし、猫の霊を縛りつけるための象徴的な処理だ、と読むこともできる。ボスカッスルの魔術博物館の展示解説では、両方の解釈が併記されている。

そしてホガードは、現代の証言についてこう書く。建築工事中に猫が行方不明になり、後になって「絶対に自分では入れない場所」から出てきた、という現代の報告が複数ある。つまり、少なくとも近年の一部の事例では、生きたまま封じられている。ただし過去数世紀の事例に関しては、梁に固定され配置されている状況から見て、すでに死んでいた個体が使われたと考えるほうが妥当だ、と。

数の話もしておく。ホガードの調査でイングランドから報告された乾燥猫の記録は百三十九件。うち千七百年より前が十六件(十二パーセント)、千七百年より後が十七件(十二パーセント)、そして残り百六件(七十六パーセント)が年代不明。四分の三以上が年代不明という数字が、記録の貧しさを物語る。

そして、たぶんこれが最大の問題なのだが、乾燥猫は「見つかっても記録されない出土品」の筆頭である。工務店の人間に聞くと、実際にはかなりの数が出ているという。でも普通は捨てられるか焼かれる。気持ち悪いからだ。ある報告者は、猫の霊を解放してやろうと考えて焼いたという。ホガードの推定では、記録に残っているのは実数のせいぜい十分の一程度らしい。

発見譚その二――ペンドル・ヒルの封じられた部屋

二〇一一年十二月。ランカシャー、ペンドル・ヒルの麓、バーリー村。

水道会社が、ロウアー・ブラック・モス貯水池の改修という、まったく地味な工事をやっていた。草に覆われた土饅頭を掘ったら、建物の上端が出てきた。扉の上枠だった。呼ばれた考古学チーム(エヌピー・アーキオロジーのフランク・ジエッコが率いた)が掘り進めると、十七世紀のコテージがほぼ丸ごと出てきた。ジエッコは「自分だけの小さなポンペイを見つけたようなものだ」と言っている。

そして、その建物のなかに、塗り込められた部屋があった。壁のレンガのなかに、猫の骨が封じられていた。

タイミングが出来すぎていた。ペンドル・ヒルは、一六一二年のペンドル魔女裁判の舞台だ。十二人が告発され、ランカスター城の巡回裁判で審理を受け、十人が絞首刑になった。発見はその四百周年のわずか数カ月前だった。当然、報道は沸騰した。裁判記録に登場する魔女たちの集会場所「マルキン・タワー」ではないか、という説が一気に広まった。

ただ、冷静な検討は別のことを言っている。マルキン・タワーの位置は昔から諸説あって、ニューチャーチ近くのサドラーズ農場周辺だという説も根強い。しかしその農場の権利証書にも当時の地図にも、マルキン・タワーの名は出てこない。文献だけでは特定できない。ロウアー・ブラック・モスの建物についても、考古学的な証拠は決定打に程遠い。おまけに、封じられた猫自体は十九世紀のものらしい、という見方が有力だ。

一六一二年の裁判とは二百年ずれる。

それでも、この発見は重要なことを示している。魔女裁判が終わって二世紀近く経っても、ペンドルの人々は壁に猫を入れていたのだ。裁判は終わっても、恐れは終わっていない。

発見譚その三――顔に落ちてきた猫と、藁葺きのジミー

もっと最近の、生々しい二件。

二〇一七年一月。ロンドン西郊、ステインズのハイストリート。プレコンストラクト・アーキオロジーの現場だった。十九世紀初頭の商店が並ぶ一角の解体で、作業員のひとりが天井を剥がしていたら、埃だらけの乾いた猫が顔面に落ちてきた。

動物骨の専門家ケヴィン・ライリーが検分した。オスであることは確実。そして重要な所見が出た。餓死ならば体を丸めた胎児のような姿勢になるはずだが、この猫はそうではない。何十年、あるいは何世紀にもわたる乾燥で毛と組織は失われていたが、皮膚のたるみと肉球は残り、顔にはひげまで付いていた。

建物の年代からすると、猫が入れられたのは早くても一八六〇年代。これは記録に残る儀礼的隠匿のなかでも、かなり新しい部類に入る。そして面白いのは、その店がもともと魚屋と鶏肉屋だったことだ。守るべき商品がネズミに狙われる商売である。だとすれば、これは霊的な害獣よけとして完璧に筋が通る。地上のネズミと、魔術による霊的なネズミの両方に向けた抑止だったのかもしれない、というのがチームの見立てだった。

もう一件は二〇二四年十一月、ドーセットのミルトン・アバス。絵葉書みたいな藁葺きコテージが並ぶ村だ。

ミシェルとデクランのキーン夫妻は、コロナ禍のさなかの二〇二一年に、一七七三年築のこの家を買った。老後のためだ。改修の許可が下りるまで三年待って、ようやく工事が始まった。藁の葺き替えのために職人が屋根に上がって、六週間ほど経ったころ、電話がかかってきた。

猫が出た、と。

場所は、家の裏側の隅。聖ジェイムズ教会の墓地にいちばん近い角の、藁の軒に作られた「箱状の空洞」のなかだった。屋根職人と一緒に見つけた施工業者のカルヴィン・カーティスは、こう証言している。臭いは一切なかった。残っていたのは骨と、革みたいになった皮だけだった、と。

ミシェルは調べものを始め、担当の保存建築家フィル・イーストンに電話をした。建築家の答えは即座だった。戻してください、と。

そして、ここからがいい。夫妻は猫に「ジミー」と名前をつけて、元の場所に戻した。しかも後になって、過去に葺き替えをした職人たちも同じ猫を見つけていて、同じように戻していたことが判明する。この家では、少なくとも数世代にわたって、藁葺きの職人が同じ猫を見つけて、同じように黙って戻してきたのだ。

ミシェルの言葉が、この記事のテーマを全部言い当てている。この子はずっとこの家を守る仕事をしてきたんだから、捨てるなんてとんでもない。

念のため付け加えると、逆の判断をした例もある。二〇一二年、ノース・ヨークシャーのネアズバラ、キャッスルゲート二十五番地。レストラン改装の初日、作業開始から一時間ほどで、暖炉脇の「明らかに猫のために作られた石室」から乾燥猫が出てきた。共同経営者のスティーヴ・パットンはこの習慣を知っていて、戻すことも検討した。だが工事完了まで七、八週間かかると分かって、近くに丁重に埋葬することにした。

ネアズバラでは壁から猫が出るのは初めてではない、というのが地元の感覚だという。

魔女瓶――尿と釘と、十七世紀の処方文献

呪物のなかで、唯一まともに文献の裏付けがあるのが魔女瓶だ。これだけは、当時の人が実際に書き残している。

物としては、まずベラルマイン瓶(バルトマン瓶)がある。ドイツやオランダで作られた塩釉の炻器で、寸胴で腹が張っていて、首のところに髭面の男の顔が貼りついている。この顔は、対抗宗教改革の論客ロベルト・ベラルミーノ枢機卿(一五四二年から一六二一年)の顔だと言われた。プロテスタント側が「あの醜い枢機卿に似た瓶」とからかったのが名前の由来で、瓶が先で命名が後だ。塩釉のざらついた質感と、腹の張った形と、顔。

要するに、人の形に見える。

イングランドで記録されている魔女瓶は、おおよそ二百から二百五十件。うち百三十件がベラルマイン瓶だ。ホガードの初期調査では百八十七例が集まり、そのうち百八例(五十八パーセント)が千七百年より前、二十一例(十一パーセント)が千七百年より後、五十八例(三十一パーセント)が年代不明だった。十八世紀半ば以降はガラス瓶が増え、十九世紀と二十世紀にはほぼガラスになる。

分布は南東イングランドに偏る。イースト・アングリア、ロンドン、ハンプシャーからケントにかけての南岸地帯。ただし端のほうでは、コーンウォール、ウスターシャー、そして北はヨークシャーまで記録がある。

埋設場所がまた露骨だ。記録が残っているもののうち、五十パーセントが炉の下か炉の内部。十一パーセントが床下。十パーセントが敷居の下。八パーセントが壁の中か壁の下。残りは建物の外の各所で、ロンドンでは石張りの暗渠からまとめて出た例もある。炉と敷居。つまり、家の「穴」だ。

中身は、はっきりした処方性がある。判別できる内容物のうち、圧倒的に多いのが鉄製のピンや釘で、九十パーセントから九十五パーセント。錆の染みしか残っていないものから、状態のいいピンや釘まで、あらゆる段階で見つかる。次が人間の髪で、二十二から二十五パーセント。そして尿。尿は瓶が一度でも漏れていると検出が難しいのだが、内容物のあるもののうち検査された約四分の一は、すべて陽性だった。

ほかに、小動物の骨、棘、木片、そして数例だが、ハート形に切った布。

なぜ尿で、なぜ釘なのか。

十七世紀の文献が、真顔で理屈を書いている。

占星医学者ジョセフ・ブラグレイヴは『占星医術の実践』のなかで、こう書いた。患者の尿を止め、瓶に密封し、そこに三本の釘かピンか針を入れ、少量の白い塩を加えて、常に温めておく。長く瓶に入れておけば魔女の生命を危険にさらすことになる。経験から言うが、魔女はひどく苦しみ、排尿がきわめて困難になる、まったく出なくなることさえある。

月がさそり座にあって、その相手の支配星と九十度か百八十度をなしているときは、なおさら効く。

論理はこうだ。魔女は被害者に呪いをかけるとき、被害者と魔術的につながる。そのつながりは、被害者の身体から出たもの(尿、髪、爪)に残る。だから瓶に尿を入れれば、その瓶は魔女の膀胱の模型になる。そこに釘とピンを突き刺せば、魔女の股間に激痛が走る。耐えかねた魔女は呪いを解くしかない。

つまり魔女瓶は、単なる防御装置ではない。報復兵器だ。攻撃してきた相手を特定しないまま、名指しせずに殴り返す仕掛けである。

一六九一年、大西洋の向こうでコットン・マザーが『近年の記憶すべき摂理』のなかで書いている。釘やピン、拷問の様相を帯びた道具類が瓶に入れられる、と。彼の記述では、夫は妻の尿を瓶に入れ、ピンと針と釘を加えて栓をするよう勧められ、実行したところ妻の体調が回復しはじめた。

一六八二年のオールド・ベイリーの記録には、妻が魔術にかけられたと信じた男が、スピタルフィールズの薬種商から助言を受けた話が残っている。奥さんの尿を一クォート取り、爪の切りくずと髪を少し、その他同様のものを加えて、小鍋でよく煮なさい、と。

一七〇一年には、コーンウォールのセント・メリンの「賢い男」が、身重の女性トムソン・レヴァートンに対して、土曜日に実行すべき瓶の作り方を書き渡している。名前と日付が残っている点で、この習慣が実際に個人へ処方されていたことがよく分かる。

ただし、ここで重要な学術的論争がある。ホガードは近年、こう主張している。文献に出てくる「煮る」処方(当時は尿の実験と呼ばれた)と、考古学的に炉の下から出てくる「埋められた瓶」は、実は別の実践なのではないか。煮る儀式はどこでもできるし、埋められた瓶に入っている材料の多くを必要としない。文献と出土品を安易に重ねてきたのは早計かもしれない、と。

さらに二〇二〇年、アニー・スウェイトは、魔女瓶を「魔術」の枠から外して「医療」の歴史のなかに置き直す論文を書いている。あれは病気を治すための装置であり、当時の医療実践の一部として理解されるべきだ、と。呪物として消費されがちなこの物を、当時の人の合理性の側に引き戻す議論だ。

グリニッジの瓶――中身を断層撮影にかけたら何が出てきたか

二〇〇四年、ロンドン南東のグリニッジ。作業員が地下を掘っていて、瓶を掘り当てた。深さは地表から一・五メートルほど(五フィートの穴に埋められていた、という記述もある)。高さ約九インチ、二十三センチ弱のベラルマイン瓶。栓がされたままで、逆さに埋められていた。

そして、振ると音がした。中で何かがカチャカチャ鳴り、液体がちゃぷんと動いた。

未開封の魔女瓶は、それまで一例も知られていなかった。ほとんどは割れているか空だ。この一本は、研究者にとって宝くじだった。

分析を主導したのは、引退した化学者のアラン・マッシー。この人は以前から魔女瓶の内容物分析を手がけていた古株だ。

まずエックス線。首のところにピンと釘が密集しているのが見えた。これで、逆さに埋められた(つまり、埋めた時点では釘は底のほうにあった)ことが確定する。次にコンピューター断層撮影。瓶の内部はおよそ半分が液体で満たされていた。

そこで、長い針を栓に刺し込んで、液体を吸い出した。プロトン核磁気共鳴とガスクロマトグラフ質量分析にかけた(分析にはレスター王立診療所のリチャード・コールが関わっている)。

結果。人間の尿だった。しかも、ニコチンの代謝産物が含まれていた。つまり作った人物は喫煙者だ。おそらく粘土製のパイプを吸っていた。さらに硫黄が検出された。これは黄泉の硫黄、つまり聖書の「火と硫黄の池」の硫黄である。地獄の物質をわざと入れている。

そして栓を抜いて、中身を出した。相当な悪臭だったはずだ。

内訳はこうだ。鉄釘が十二本。うち一本は、ハート形に切った革を貫いていた。真鍮のピンが八本。髪の毛の塊。手入れの行き届いた爪の切りくずが十枚。そして、へその垢らしき小さな綿くず。

マッシーが目を留めたのは爪だった。労働者のようにささくれて欠けているのではなく、きれいに整えられている。ある程度の社会的地位のある人物だろう、と彼は推定した。

つまりこれは、身分のある喫煙者が、自分の尿と髪と爪と、たぶんへその垢まで入れて、釘とピンを刺し、硫黄をふりかけ、革のハートに釘を打ち込んで、逆さにして地面深くに埋めた、ということになる。魔女に自分の分身を渡し、それを地中で永久に串刺しにしておくために。

この発見は二〇〇九年、雑誌「ブリティッシュ・アーケオロジー」の第百七号(七月・八月号)で発表された。当時の編集長マイク・ピッツは、この発見の何が特別かを二点挙げている。ひとつは、誰かが好奇心に負けて開けてしまわず、科学の手続きに委ねたこと。もうひとつは、単純にその中身の生々しさだ。

マッシー自身のコメントが、当時の人の切実さをよく伝えている。当時、魔女瓶は生死の問題だった。重い病気にかかれば、それが魔女の呪いのせいだと考えることは珍しくなかった。魔女への恐怖は本物だった。瓶は呪いを術者に跳ね返し、排尿のたびに耐えがたい痛みを与えると信じられていた、と。

瓶は現在、グリニッジの旧王立海軍学校の展示施設にある。

ほかの例も並べておこう。一九八三年、ヨークのジャッジズ・ロッジングの拡張に先立ってヨーク考古学トラストが発掘したとき、栓のついた十六世紀半ばの炻器の壺が出た。中には十七世紀の銅合金製のピンと繊維が入っていた。つまり瓶は使われた時点ですでに骨董品だった。埋設場所は、廃絶した聖ウィルフリッド教会の墓地跡らしい。魔女は聖別された地に入れない、という当時の理屈に合致する。

同じ発想で、川のそばに埋めろ(魔女は水を渡れない)という助言も記録されている。ロンドンの魔女瓶がテムズ河岸に集中するのは、これで説明できるかもしれない。

二〇〇一年、ベッドフォードシャーのフェルマーシャムの古いコテージ。炉の下からベラルマイン瓶が出た。中には髪とピン。尿の反応は陽性だった。

サリーのライゲイトでは、ロンドン・ロードの十七世紀の建物の発掘で、白亜の床に隣接した攪乱層から、栓のされた瓶が出た。中に液体と、曲げられたピンが九本。年代は一七〇〇年から一七五〇年ごろとされる。

バッキンガムシャーのロートンにある万聖教会では、若い成人の墓のなかから、十七世紀末か十八世紀初頭のガラス瓶が出た。位置は左上腕骨と胸の上部のあいだ。中に銅のピンが数本入り、栓にもピンが刺してあった。つまり誰かが、死者の遺体と一緒に報復装置を埋めたことになる。

ケントのステイプルハーストにあるクラッパー農場では、炉の下から十八世紀末か十九世紀初頭の炻器の瓶が出た。中身は釘と木片。文献に出てこない材料が加わっている。処方は固定されていたわけではなく、時代とともに動いていた。

ウィッチマーク――梁と石に刻まれた線

物を隠すだけではない。人は建物そのものに印を刻んだ。

「ウィッチマーク」は俗称で、学術的にはアポトロパイック・マークと呼ぶ。ギリシャ語のアポトレペイン(そらす、追い払う)に由来する。

いちばん多いのが六弁花、通称デイジーホイールだ。円をコンパスで描き、半径をそのままにして円周上に順に足を置いて弧を引くと、六枚の花びらが自然にできる。この図形は古代からあり、イングランドでは中世前期から十九世紀まで使われた。大きさはさまざま。ヒストリック・イングランドが二〇一六年のハロウィンに全国から情報を募ったとき、圧倒的に多かったのがこれだった。

次に多いのが、ブイの字を二つ重ねた記号。ラテン語のウィルゴ・ウィルギヌム(処女のなかの処女、つまり聖母マリア)の頭文字だと考えられている。ほかに、ピーとエムを組み合わせた記号をペース・マリア(マリアの平安)と読む解釈もある。宗教改革でマリア崇敬が公式には抑圧されたあとも、この記号は木と石に刻まれ続けた。

そして、悪霊を捕らえるための装置とされる図形群。斜線の束、格子、網目、市松、迷路。理屈はこうだ。悪霊は線をたどらずにいられない。終わりのない線に入り込むと、出口が見つけられなくなる。だから網も迷路も、罠なのだ。

刻まれる場所には、明確な法則がある。扉、窓、炉。つまり、開口部だ。

マシュー・チャンピオンが二〇一〇年に立ち上げたノーフォーク中世グラフィティ調査は、この分野の景色を一変させた。ノーフォークには中世の教会が六百五十以上残っている。イングランドで最多だ。彼はボランティアを組織して、そのうち半数以上を系統的に調査した。

手法は驚くほど単純である。強い光を壁面に対してごく浅い角度から当てる。斜光走査という。それだけで、何百年ものあいだ誰も気づかなかった浅い引っかき傷が、影になって浮かび上がる。ライトを消すとまた消える。

結果は劇的だった。これまでに二万八千件以上の未記録の刻書が見つかった。ノリッジ大聖堂だけで五千件。十二世紀までさかのぼるものもある。そして、記録された刻書のおよそ三分の一が、この種の護符的な印だった。サフォークのカウリンジのように、一つの教会に数十個の印がある例もある。むしろ、一つもない教会のほうが珍しい。

チャンピオンが指摘する重要な点がある。当時の教会の内部は、いまのような素の石肌ではなく、鮮やかな塗料と顔料で覆われていた。刻書はその塗装を削って、下の白っぽい石を見せる形で作られた。つまり作られた当時は、教会に入って真っ先に目に飛び込んでくるものだった。こっそりやった落書きではない。教会当局に黙認され、ときには推奨されていた行為の痕跡だ。

ノウル屋敷の梁――一六〇六年という日付

イギリスのアポトロパイック・マークで、いちばん有名な事例がこれだろう。

ケントのノウルは、英国で最大級の歴史的邸宅だ。部屋数が膨大で、いまも全容が把握しきれていない。ナショナル・トラストが五年がかりの大規模保存事業を進めるなか、ロンドン考古学博物館の建物考古学チームが調査に入った。

そして、上階の「王の間」まわりの床板の下と暖炉の枠から、大量の印が出てきた。

キングズ・ストアと呼ばれる部屋では、長さ五・三三メートルの繋ぎ梁の上に、十三個の記号が刻まれていた。市松模様。網目。ブイの字を二つ重ねた記号。そしてろうそくか紙燭で焼き付けた焦げ跡。

年輪年代学で、この梁と直上の屋根梁の伐採年が特定された。一六〇五年から〇六年の冬。しかも木がまだ緑(生木)のうちに据えられていることから、実際に組み上げられたのは一六〇六年の春か夏の建築シーズンだと分かった。

この日付が、震えるほど生々しい。一六〇五年十一月五日、火薬陰謀事件。国王ジェイムズ一世を議事堂ごと吹き飛ばそうとした計画が発覚し、全国が集団的なパニックに陥った。悪魔の力が働いているという言説と、魔女への告発が渦を巻いた。ジェイムズ一世自身、悪魔学の著書を持つ、魔術の脅威を心底信じていた王だ。

ノウルの改修を進めていたのは、ジェイムズ一世の大蔵卿トマス・サックヴィル。国王の訪問を誘致するために、王のための部屋を整えていた。つまりこの梁は、火薬陰謀事件の直後に、王のための部屋の床下に据えられた梁である。

刻んだのは王でも卿でもない。棟梁マシュー・バンクスの指揮下にいた大工たちだ。記号は木材の接合を示す大工記号と同じレースナイフで、同じ工程のなかで刻まれている。位置的に、据え付けてから彫るのは不可能だ。だから梁が加工場に立てられている段階で、計画的に刻まれた。焦げ跡も、梁に対して水平方向についているから、立てた状態で焼いたことになる。

配置がまた読ませる。暖炉の東側の枠に二重のブイ。その真向かいの床梁に焦げ跡。西側には網目とマリア記号が密集。要するに、煙突から吹き下ろす空気の流れを、記号で塞いでいる。当時、寝ている人間は悪魔の憑依に対してもっとも無防備だと信じられていた。ベッドはこの梁と平行に置かれていた。梁は、ベッドと危険の源(暖炉)のあいだにあった。

このシステムを設計したのは、たぶん誰でもない。大工にとって梁にローマ数字を振るのと同じくらい、保護記号を刻むのは自然な作業手順だったのだろう。ただ、王の部屋を、あの年に作るという状況が、彼らの手を普段より熱心に動かした。

ちなみに、この防御は一度も実戦投入されなかった。サックヴィルは工事完了前の一六〇八年に死に、息子は宮廷での重みが足りず、国王がノウルを訪れることは結局なかった。

クレズウェル・クラッグズ――洞窟の壁の数百個

二〇一九年二月十五日、ヒストリック・イングランドとクレズウェル・クラッグズが同時に発表した内容は、この分野の研究者たちを軒並みひっくり返した。

クレズウェル・クラッグズは、ノッティンガムシャーとダービーシャーの州境にある石灰岩の峡谷だ。人類の利用は六万年前までさかのぼる。イギリス唯一の氷河期洞窟画があることで、国際的に知られている。

その洞窟の壁と天井に、数百個のアポトロパイック・マークが刻まれていた。

問題は、これがずっと「見えていた」ことだ。何百回もツアーが通過し、参加者はその刻書の前を素通りしていた。洞窟に柵が設けられる以前の、たんなる落書きだと思われていたからだ。

二〇一八年の秋、ハロウィンの少し前。地下空間の愛好家団体サブテラニア・ブリタニカのヘイリー・クラークとエド・ウォーターズがツアーに参加した。そして、あの二重になったブイの形に気づいた。

当日のガイドだった遺産解説員ジョン・チャールズワースの言葉が残っている。あの魔女の印は、ずっと丸見えのところにあったんです。その本当の意味が明かされた瞬間にその場にいられたことは、一生忘れません。ここで十七年働いてきて、この場所はまだ何を隠しているんだろうと思わされます、と。

改めて調べたら、洞窟内のあらゆる場所から印が出てきた。壁、天井、割れ目のなか。それも、暗い穴や大きな裂け目の上に集中している。奥のほう、一般には公開されていない区域には、直径約一・二メートルの丸い穴が闇のなかに落ち込んでいて、その周辺で印の密度が最高潮に達する。

つまり、当時の人はあの穴を「下から何かが出てくる場所」と考えていた。冥界への扉か、悪魔の牢か。いずれにせよ、出てこないよう封じたかった。

数の比較で凄まじさが分かる。それまで、イギリスの洞窟で最多とされていたのはサマセットの洞窟の五十七個だった。クレズウェルは、一つの洞窟だけで数百個ある。

印の種類も豊富だ。二重のブイと、ピーエムというマリア記号。斜線、箱、迷路といった「悪を捕らえる装置」。しかも、一度にまとめて刻まれたのではなく、時間をかけて追加されている。予期しない病気、死、不作といった危機のたびに、防御を強化しに人が来た、という読みが有力だ。

十九世紀に考古学者が発掘したとき、洞窟は掘り広げられている。印が一つもない面があるのは、そのせいかもしれない。だとすれば、もともとはさらに多かったことになる。

正確な年代と序列は、レスター大学のアリソン・ファーンによる研究が進行中だ。教会や家屋、厩などに残る同種の刻書は、おおむね十七世紀から十九世紀初頭に収まる。

刻書が集中する区画は立ち入りが危険なので、二〇一九年十月からはシェフィールド・ハラム大学のジェレミー・リーが三次元スキャンと動画化を担当し、デジタル複製で見られるようにした。

ヒストリック・イングランドのダンカン・ウィルソンのコメントが、この記事の核心を突いている。二百年前ですら、イングランドの田舎はまったく違う場所だった。死と病気は日常の道連れであり、闇のなかに邪悪な力を思い描くのは容易なことだった、と。

焦げ跡は事故か、儀式か

アポトロパイック・マークの議論のなかで、いちばん論争的なのが焦げ跡(テーパーバーン)だ。

古い家の梁には、おたまじゃくしのような形の炭化した跡がついていることがある。長らく、これは梁に固定した紙燭が燃え尽きて木を焦がした事故痕だと説明されてきた。実際、いまでもそう主張する研究者はいる。

だが、反論が積み上がっている。

レスターシャーのドニントン・ル・ヒースの中世マナーハウスで、アリソン・ファーンが二〇一六年に斜光による全面調査をやった。ここでいちばん多かった刻書が、まさにこの焦げ跡だった。分布が語る。上階に集中し、東棟と西棟に通じる扉口だけに付いている。この扉口は年輪年代学で一二七二年から一三〇七年の伐採と出ている。しかも焦げの模様が木の乾燥割れをまたいでいる。つまり、木が生木のうちか、完成直後に焼かれている。

そして反証の側の主張が崩れる材料が、いくつも出ている。ノウルでは焦げ跡が床板の下にある。誰も見ない場所にある事故痕とは何なのか。ノウルとシシングハーストでは、焦げ跡が木材に対して水平についている。梁を組む前に、立てた状態で焼かれた証拠だ。ゲインズバラ・オールドホールでは、一本の梁に二十五個以上の深い焦げ跡がある。事故で二十五回はさすがに無理がある。

さらに、シシングハーストなどでは、焦げた部分を削ぎ落としてから再度焼いた跡があり、工具痕と椀のようなくぼみが残っている。何度も焼き直している。

サフォークで長年フィールドワークを続けているティモシー・イーストンは、十九件の物件で焦げ跡を確認し、共通のパターンを見出した。高い格式の寝室に集中している。眠っているあいだの魔術と憑依から、寝ている人を守るための処置だ、と彼は解釈した。あるいは、火をもって地獄の火を制する類感呪術か、火事と落雷に対する予防接種のようなものか。

ただし、イーストン自身は近年、この分野の用語法に強い異議を唱えている。彼は二〇二四年の論文で、こう主張した。これらの記号は十六世紀半ば以降、煙突梁など特定の場所に注意深く反復して刻まれたものであり、無作為ではない。だが、大衆紙と遺産産業が「魔女の警告」「魔女の印」という言葉を広めてしまったせいで、誤解を招く用語が定着した。円形の記号を何でもかんでも「デイジーホイール」と呼ぶのも雑すぎる。

そして、これは落書きではない。落書きは公に見せる個人的表現で、通常は許可なく行われるものだ。刻まれた保護記号はそれとは別物だ、と。

つまり、この分野の内側でも、境界線をどこに引くかで揉めている。ヒストリック・イングランド自身、六弁花について「解釈は分かれている」と明記している。現代異教の側は太陽の意匠と見る。純粋に世俗的で、徒弟の幾何学の練習だという説もある。実際、幾何の練習帳や手引きに同じ図形が出てくる。十七世紀から十九世紀の家具に刻まれた六弁花にいたっては、儀礼か装飾かを判別する手立てがない。

馬の頭骨と、音響説という強敵

もうひとつ、反証がとくに強い呪物がある。馬の頭骨だ。

床下や壁のなかから、馬の頭骨がまとめて出てくる例がイギリス、アイルランド、ヨーロッパ、アメリカで報告されている。ホガードの調査ではイングランドで五十四例。エウリン・ウィリアムはウェールズで二十七例を挙げている。

問題は、これに強力な実用説があることだ。

一九四五年、ショーン・オ・スーラウァンがアイルランド王立古物協会の会員に呼びかけて全国調査をやった。ほぼ全域から報告が来た。多くは炉の前の石の下に埋められていた。そして地元で語られる理由が、ほぼ一致していた。炉の前で踊るときの音がよくなるから。

オ・スーラウァン自身はこの説明を信じなかった。原因が忘れられたあとに後付けされた二次的な説明だ、これは基礎供犠の系譜に連なる習慣だ、と論じた。

これに真っ向から反対したのが、スウェーデンのアルベルト・サンドクレフだ。彼は北欧全域を調査し、南スカンジナビアでは脱穀場の床下に馬の頭骨と壺を埋めるのが一般的だったと突き止めた。理由は、脱穀のときに気持ちのいい響きが出るから。彼の結論は明快で、馬の頭骨は音響目的でのみ埋められた、基礎供犠説は成り立たない、というものだった。

とはいえ、音響説では説明できない事例もある。ノーサンバランドのエルズドン教会では、一八三七年の修復中に、鐘楼の小塔から馬の頭骨三つの入った箱が出てきた。鐘楼の音響のために頭骨を置く理由はない。エセックスのサウス・オッケンドンのリトル・ベルハウスでは、煙突の煙道と二枚の煉瓦壁のあいだの空洞から頭骨が出た。アントリム州カーンローのベイ農場コテージでは、床下から少なくとも十個の頭骨が出ている。

踊るための床ではない。

つまり、同じ物が場所によって別の理由で置かれている。これがこの分野の実像だ。「呪物」という一括りは、たぶん最初から成立していない。

家という体、開口部という傷口

ここまで見てきた物には、共通の論理がある。

家は、外の世界に対して閉じた身体である。壁は皮膚だ。だが、身体には穴がある。扉、窓、煙突、そして敷居。この穴から、外のものが入ってくる。

近世イギリスの人々が想定していた「外のもの」は多彩だった。魔女そのもの。魔女の使い魔(猫、犬、ヒキガエル、ネズミの姿を取ると信じられた)。魔女から放たれた呪いそのもの。悪魔。幽霊。そして妖精。妖精は、いまの感覚とは違い、恐ろしいものだった。

問題は、これらが鍵と閂で止められないという点だ。壁の亀裂から、扉の下の隙間から、窓の縁から入ってくる。そして煙突。煙突はいつも空に向かって開いている。防ぎようがない。

だから人は、穴のところに物を置いた。魔女瓶の半分が炉から出るのは、これで説明がつく。隠し靴の四分の一が煙突と炉から出るのも同じだ。刻まれた印が扉と窓と暖炉に集中するのも同じ理由である。ノウルの梁の記号配置――暖炉から寝床への空気の流れを記号で封鎖する――は、この世界観をほとんど図解している。

ここで面白いのは、対抗手段の「文法」がかなり一貫していることだ。

まず、囮を置く。履き潰した靴は、履き主の身代わりになる。侵入してきた何かは、そこに人がいると勘違いして靴を襲う。人間は無事に済む。ハートフォードシャー大学のケリ・ホールブルックは、この発想を家の周りを歩いて回る境界確認の儀礼から派生したものではないか、とも論じている。

次に、罠を仕掛ける。網目や迷路の記号は、悪霊が線をたどって迷子になるようにできている。靴も「入ったら出られない容れ物」として理解されていた節がある。魔女は靴に染みついた人間の匂いに引き寄せられ、中に入って出られなくなる、という言い伝えが記録されている。

そして、報復する。魔女瓶は、これだ。呪いを跳ね返し、術者を苦しめる。

さらに、生き物を配置する。猫は霊的な狩人として。馬の頭骨は、その用途がいまだに議論されているにせよ、何らかの力の担い手として。

もうひとつ、あまり語られないが重要な要素がある。秘密だ。

この習慣について当時の記録がほとんど残っていないのは、単に文字を書けない人が多かったからではない。魔女瓶だけが文献に大量に出てくるのに、靴と猫と印はほとんど出てこない、という偏りがある。これは、後者が意識的に秘匿されていたことを示唆する。

ジューン・スワン自身が、長年の調査の結果として書いている。情報の欠如と、常につきまとう秘密主義は、この俗信が「明かされると効力を失う」ものだったことを示唆する、と。

つまり、話してはいけないから、書かれなかった。壁の中に隠されているのは物だけではなく、行為そのものだった。

大西洋を渡った習慣

この習慣は、イギリス人と一緒に船に乗った。

ボール州立大学のクリス・マニングは二〇一二年に、アメリカ東部の建築に伴う隠匿物を主題にした修士論文を書いている。魔女瓶、隠し靴、そして猫の三種を軸に、十七世紀から二十世紀初頭までの三百カ所以上の遺跡を洗い出した。

数字を見ると、伝播の様子がよく分かる。アメリカで記録されている隠し靴はおよそ二百五十九件。分布は北東部と中部大西洋岸に偏る。ニューイングランドで多いのは、ピューリタン系イングランド人の移民が持ち込んだ文化的系譜と、核家族を単位とする家観念のせいだとマニングは分析している。逆にチェサピーク湾南部では出土が少ない。同じイギリス人でも、社会構造が違えば習慣の定着度が違う。

さらにマニングが強調するのは、混淆だ。アフリカ系アメリカ人の呪術実践とヨーロッパ系の実践が交差した痕跡が、遺物のレベルで見える。同じ形の物が、別の由来の観念を担っていることがある。

具体例をひとつ。ヴァージニア州アレクサンドリアのカーライル・ハウスは、一七五三年にスコットランド出身の裕福な商人ジョン・カーライルが建てた邸宅だ。一九七〇年代、博物館と公園にするための改修工事が入った。石工のジョン・バティスタが、乾燥した猫を掘り当てた。

最初は、煙突を這い上がって死んだ野良猫だろうと思った。だが、よく見ると猫は煙突の内部に作られた石造りの密閉された壁龕に安置されていて、周囲にハーブが撒かれていた。ローズマリーだった。民間療法に長い歴史を持つ植物である。

そして彼らがどうしたかというと、写真を撮ってから、丸まった猫を元の壁龕に戻した。猫はいまもそこにいて、館のツアーの目玉になっている。

魔女瓶のほうも渡っている。ペンシルヴェニア州デラウェア郡から十八世紀の瓶が報告され、ピッツバーグのマーケット・ストリートからも一例出ている。ただしアメリカで確認されている魔女瓶は、イギリスの約二百件に対して、十件に満たない。

そのうちの一件が、なかなか強烈だ。

二〇一六年、ヴァージニア州ヨーク郡。州間高速道路六十四号線の二百三十八番出口から二百四十二番出口のあいだ、中央分離帯にあたる場所で発掘が行われた。そこには第九堡塁と呼ばれる南北戦争期の砦の遺構がある。一八六一年に南軍が築いた、ジェイムズ川とヨーク川を結ぶ十四の小堡塁の一つで、一八六二年のウィリアムズバーグの戦いのあと北軍が占領した。

出てきたのは、レンガ造りの炉の跡と、その近くにあった青いガラス瓶。高さ十三センチ、幅八センチほど。中に釘がぎっしり詰まっていた。

現場は当初、これを釘入れだと考えた。要塞を修繕するのに釘が要る。瓶に入れておくのは自然だ。

だが、ウィリアム・アンド・メアリー大学考古学研究センターのロバート・ハンターとオリヴァー・ミュラー・ホイバックが別の解釈を出した。炉のすぐそばという位置。釘という中身。これは魔女瓶ではないか、と。

さらに状況証拠がある。瓶はペンシルヴェニア州で一八四〇年から六〇年ごろに作られたものだ。そしてこの堡塁を守っていたのは、ペンシルヴェニアの騎兵部隊だった。

センター長のジョー・ジョーンズはこう言っている。敵地を占領していて、南軍の攻撃が予想され、地元住民は敵意に満ちている。そういう状況で、彼は使えるものは全部使う理由があった。ペンシルヴェニアの故郷の民間伝承を頼りに、仮住まいの我が家を守ろうとしたのだろう、と。

瓶の上部が割れていたので、尿が入っていたかどうかは永遠に分からない。それでもジョーンズは、これは魔女瓶だと確信している、と語っている。

一八六〇年代の話だ。産業革命の真っ只中、電信が引かれ、写真が撮られていた時代に、兵士が炉のそばに釘の瓶を埋めていた。

出土品を元に戻す人たち

さて、いちばん面白い話をする。

現代の家主たちの反応だ。

ノーサンプトン博物館の台帳には約千九百件の隠し靴が記録されている。しかし博物館が実際に所蔵している靴は百九十足しかない。全体の一割だ。

残りの千七百十足は、どこにあるのか。

見つけた人が持っている。あるいは、元の場所に戻してある。

ケリ・ホールブルックは二〇一五年から一六年にかけて、発見者たちに聞き取り調査をした。その記録が、じつに味わい深い。

ジューン・スワン自身が観察している。ほとんどの人は、本能的に靴を見つかった場所に戻すようだ、と。

彼女が紹介するハンプシャーの女性の話。この人は、家から出てきた品を鑑定してもらおうと、何の気なしにロンドンへ送った。その品が留守にしているあいだ、それまで居心地のよかった家の、その品が見つかった屋根裏部屋から、妙な音がするようになった。彼女はそのあと、靴が煙突に入れられるのは、いちばん高いところから入ってくる悪しきものを防ぐためだ、という話を知る。品が返ってきた瞬間、彼女は元の場所に戻した。

もう一人の発見者の証言はもっと直截だ。ブーツが展示のために家を離れているあいだ、悪いことしか起きなかった。ペットが死に、水が漏れ、物置が倒れた。もうブーツにはいっさい触れないでほしい。取材も写真も断る、と。

ノーフォークのゲルデストンのアリソン・ノーマンは、二〇一〇年ごろ、木骨造の農家の煙突の棚から、紙に包まれた柔らかい革の子ども靴を見つけた。彼女はそれを額装して、暖炉のすぐ横に飾った。見つかった文脈を示したかったし、靴を置かせた俗信の反映でもあるから、と説明している。

ところが、村生まれの隣人がそれを見て動揺した。煙突の棚から出したのはよくない、戻したほうがいい、と言う。彼女が博物館に見せに持っていこうかと言うと、隣人は本気で心配して、家の外に出すのは非常に縁起が悪いと止めた。

そして彼女はこう書いている。自分はまったく迷信深い人間ではないと思っているのに、博物館に予約を入れるところまで、どうしてもたどり着けていない、と。

グレーター・マンチェスターのベリーにある十九世紀のパブ「ザ・ラム」では、一九八〇年代の改修中に、煙突の内部から子どもの靴と大量の粘土製パイプが出た。発見者たちは元に戻しはしなかったが、ガラス張りの木製ケースを特注し、暖炉の上のマントルピースに置いた。できるだけ元の場所の近くに、という発想だ。

店主のロジャー・エリオットは、パブを辞めるときに靴を持っていくかと問われて、こう答えた。とんでもない。あれはパブの一部だ。あるべき場所にある。

ヨークシャーのイルクリーのケイト・アーミテッジも同じだ。前の家主が煙突から見つけて、また煙突に戻した靴を、彼女は取り出して暖炉の上の棚に置いた。見えるところに、しかし元の場所のできるだけ近くに。あれが置かれたのには理由がある、その理由は自分には分からないけれど、あれは家の一部だから動かしたくない、と語っている。

ランカシャーのメインズ・ホールのアデル・ヨーマンズは、二〇〇五年から〇六年ごろ、二階の部屋の編み枝と漆喰の壁のなかから、記号の刻まれた木の杖を見つけた。ルーン暦のようなものを素朴に真似たものらしい。彼女はこれを書斎の暖炉に飾っている。戻す気にはならなかった。落ちてきたのだから、もう外に出ていてもいい、と。

ただし、引っ越すときに持っていくかと問われると、たぶん置いていくことになるだろうと答え、次の家主が自分と同じ愛着を持たずに捨ててしまうのではないか、と心配している。そして最後にこう結論した。埋め直してから出ていこうかしら、と。

ダニー・リポンという人は、実際にそうした。二〇一一年、ノルマンディーの農家を出るとき、彼は見つけた瓶と子どもの手袋をその場に残した。捕らえた霊なり、宿っている力なりを、そのままにしておくために。

ホールブルックは、この現象を鋭く整理する。彼らは信者ではない。パブの店主、保存担当官、広報担当、デジタル代理店の経営者。合理的で、科学的な思考の持ち主だ。それでも同じ行動を取る。人は、単一の個人のなかに複数の精神性を同居させられる。魔術を信じていない人間が、それでも、この世ならぬものの存在を、どこかの層では受け入れている。

そして、もうひとつ重要な点。彼らのほとんどは、なぜ靴が置かれたのかを知らない。理由が分からないまま、行為だけを継承している。ミルトン・アバスのジミーもそうだ。何代もの藁葺き職人が、理由を知らずに同じ猫を戻し続けた。

これは、儀礼というものの本質かもしれない。意味は失われても、所作は残る。

なぜ人は家に呪物を埋めたのか

最後に、いちばん大事な問いを扱いたい。

なぜ人は、これほど手間をかけたのか。

まず、手間の量を具体的に想像してほしい。魔女瓶を埋めるには、炉床の石を持ち上げなければならない。台所の中心にある、いちばん重い石だ。それをどけて、穴を掘り、瓶を入れ、埋め戻し、石を元通りに据える。ブライアン・ホガードの問いかけが刺さる。自分の家に超自然的なものが侵入してくることを、どれほど恐れていれば、炉床の石を持ち上げ、穴を掘り、ピンと尿の詰まった瓶を入れようと考えるだろうか、と。

猫にしても同じだ。死骸を集め、姿勢を整え、ときには内臓を抜いて乾かし、壁の空洞を作って安置し、塗り固める。ネズミを一緒に配置した例まである。手間が尋常ではない。

つまりこれは、片手間の願掛けではなかった。切実だった。

では、何が切実だったのか。

答えは、たぶんシンプルだ。当時の人には、不幸を説明する手段がほとんどなかった。

子どもが急に死ぬ。牛が乳を出さなくなる。バターが固まらない。作物が不作になる。原因不明の痛みで動けなくなる。細菌もウイルスも遺伝も統計も知らない世界で、こうした災厄をどう理解すればいいのか。

近隣の誰かの悪意、という説明は、恐ろしく使い勝手がいい。原因が特定でき、対抗手段があり、しかも社会関係のなかの実際の緊張(貸し借り、諍い、施しの断り)と接続する。魔女信仰が近世ヨーロッパで爆発的に広がった背景には、この「説明の需要」がある。

そして、この説明を採用したとき、家という空間は途端に恐ろしい場所に変わる。眠っているあいだが、いちばん危ない。子どもがいちばん脆い。煙突と扉と窓は、防ぎようのない穴だ。

呪物は、この恐怖に対する処方だった。

ここで、社会史的にとても重要な指摘がある。魔女裁判の記録は、基本的に上の階層が下の階層を裁いた記録だ。誰が誰を告発し、誰が何を自白したか。それは支配層の視点で書かれている。庶民が実際に何を信じ、何をしていたかは、そこにほとんど書かれていない。

だが、床下の靴と壁の猫と炉の下の瓶は、彼ら自身が自分の手で置いたものだ。書かれた記録ではなく、行われた行為の直接の痕跡である。ホガードの言い方を借りれば、これらの物は彼らの実際の信仰の一部の物的証拠であり、これまで歴史書ではほとんど扱われてこなかった領域なのだ。

つまり、壁から出てくる猫は、記録の空白を埋める資料である。文字を残さなかった大多数の人間が、恐怖に対して何をしていたかの、唯一の証言。

そして、忘れてはいけないのが、この習慣の終わり方だ。

終わっていない。

隠し靴のピークは十九世紀だ。魔女裁判が終わって百年以上経っている。ステインズの猫は一八六〇年代以降のもの。ペンドルの猫はおそらく十九世紀。ヴァージニアの釘瓶は一八六〇年代。ノーサンプトン博物館には、いまも月に二、三件の報告が入る。二十世紀の事例も記録されている。

信仰が消えたあとも、所作は残った。理由を説明できなくなったあとも、人は靴を戻し続けている。ミルトン・アバスの夫妻は、あの猫をガラスケースに入れてでも保存したいと考えている。あと数百年、同じ場所にいてもらうために。

最後に、この話の本当に怖いところを書いておく。

怖いのは、猫の死骸そのものではない。壁のなかに何かが入っていることでもない。

怖いのは、あれを入れた人たちが、まったく正気だったということだ。彼らは奇矯な狂信者ではない。パン屋であり、農夫であり、大工であり、王の大蔵卿の下で働く棟梁だった。彼らは自分たちの持っている知識の範囲で、目の前の危険に対して、できるかぎり合理的に対処した。因果関係の理解が間違っていただけだ。

そして、その「間違った理解」に基づく行為が、四百年続いて、いまも完全には途切れていない。

もっと言えば、現代の家主たちが猫を壁に戻すとき、彼らもまた、理由を知らないまま同じことをしている。神を信じていないのに、なんとなく戻す。迷信深くないと自認しているのに、博物館に持っていけない。

わたしたちは、彼らを笑えない。

古いイギリスの家を買って、床板を剥がして、そこに履き潰した片方だけの靴が転がっていたとして――あなたは、それを捨てられるだろうか。

たぶん、そっと戻すと思う。

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