- ホワイトホール宮殿の寝室で、王は砕いた頭蓋骨を飲んでいた
- 「ムミア」はもともと死体ではなかった
- 誤訳が三段階で人肉に着地するまで
- パラケルススが屍薬に理屈をつけた
- 『バシリカ・キミカ』一六〇九年、赤毛の二十四歳という指定
- 頭蓋骨に生える苔「ウスネア」は正式な商品だった
- 人間の脂は処刑人の副業だった
- 薬局方に堂々と載っていた、という事実
- 「王の点滴薬」の製造元と、王自身の実験室
- エジプトから船倉まで――ミイラが商品になる道すじ
- 「ミイラが足りない」――アレクサンドリアの倉庫での告白
- 処刑場に集まる病人たち
- 目撃者たちの言葉
- 反対派もちゃんといた
- 部位ごと、国ごとに用法が違った
- 十九世紀、ミイラは応接間の余興になった
- 絵の具になったファラオ――マミー・ブラウン
- 屍薬はいつ、どうやって死んだのか
- 東アジアにも人体薬はあった、が理屈が違う
- なぜこれは「野蛮」ではなく「医学」だったのか
- 薬棚の奥にいたのは、いつも誰かの体だった
ホワイトホール宮殿の寝室で、王は砕いた頭蓋骨を飲んでいた
一六八五年二月二日の朝、イングランド王チャールズ二世は、ひげを剃らせている最中に様子がおかしくなった。寝室係の証言だと「灰のように青ざめて、ぞっとする顔色」だったという。次の瞬間、王は言葉を失い、悲鳴とも呻きともつかない声をあげてのけぞり、痙攣を起こした。そこからの五日間が、ヨーロッパ医学史でもっとも有名な地獄になる。
医師が呼ばれた。一人や二人ではない。最終的にロンドン中の名医が集まり、処方箋の一枚には十四人の署名が並んだ。彼らはまず王から十六オンスの血を抜いた。次に吸角をあてて皮膚を切り、さらに血を出した。吐き気を起こさせる薬を飲ませ、下剤を入れ、浣腸をかけた。午前中だけでもう一度瀉血した。午後には苦味の粉末、シャクヤクの水、ブリオニアの調合、白ヘレボルス。翌日また痙攣。また瀉血、また発泡剤で皮膚を焼く。
黒サクランボの水にシナノキの花、スズラン、シャクヤク、ラベンダー、そして粉にした真珠を混ぜた甘い水薬。
そして二月四日、水曜日の夜。医師たちは酒石とワインとセンナとマンナとカモミールとリンドウとナツメグを与えたあと、最後にもうひとつ投与している。「人間の頭蓋骨の精」だ。
これは比喩ではない。文字どおり、人間の頭蓋骨を砕いて蒸留した液体である。しかも王にとっては見知らぬ薬ではなかった。チャールズ二世はホワイトホール宮殿に自前の実験室を持っていて、そこで自分の手でこの薬を作っていた。「キングズ・ドロップス」、王の点滴薬と呼ばれた代物だ。翌日の木曜日にも同じものが投じられ、王の喉には一日四十滴が流し込まれたと伝わる。
六日の金曜、王は医師たちに向かって「ずいぶん長いこと死にかけていて、申し訳ない」と詫びた。「私はとても苦しんだ。あなたたちの想像以上に。私の仕事はもうすぐ終わる」とも言った。昇る朝日を見せてくれと頼み、それからまた十二オンス抜かれ、呼吸が荒くなり、言葉が消え、正午前に死んだ。
これを読んで「十七世紀の医者はひどいな」で終わらせると、いちばん面白いところを取り逃がす。ここで注目すべきは瀉血ではない。人間の頭蓋骨を蒸留した液体が、イングランド王の枕元に、まったく違和感なく置かれていたという事実のほうだ。呪術師が持ってきた怪しい壺ではない。国王本人が化学者として調合し、王立協会の会員が製法を売り、薬局方に系譜が載っていた「正規の薬」だった。
ヨーロッパは、およそ三百年にわたって人間を食っていた。しかもこっそりではなく、堂々と、処方箋つきで。
「ムミア」はもともと死体ではなかった
話の出発点は死体ではない。石油だ。
イランの南部、ダーラーブジェルド周辺の山中に、岩の裂け目からじわじわと黒い粘りけのある物質がしみ出す洞窟があった。天然のアスファルト、いまでいう瀝青である。ペルシャ語でこれを「ムーミヤー」と呼んだ。語源は蝋を意味する「ムーム」で、「蝋のようなもの」という意味の「ムーム・アーイーン」あたりが元の形らしい。
十一世紀の博学者アル・ビールーニーは、この物質が王の専有物であり、洞窟の入口は封印され、年に一度だけ高官立ち会いのもとで開かれ、ざくろ一個ぶんほどの量が採取されて王に届けられた、という記録を引いている。市中に出回っているものは全部にせもの、というわけだ。
薬としての評価は高かった。骨折にはこれ、というのが定番で、毒消しにも使われた。ギリシャの医師ディオスコリデスは一世紀の『薬物誌』で瀝青とピッサスファルトス(瀝青とアスファルトの中間物)を扱っており、プリニウスも白内障、痛風、ハンセン病、咳、開いた傷にきくと書いている。アラビア医学はこの知識を受け継ぎ、アル・ラーズィー、イブン・シーナーといった巨匠たちが自分の著作でムーミヤーを推した。
イブン・シーナーの『医学典範』はヨーロッパの大学で一六五〇年ごろまで教科書として使われつづけたから、この評価はそのまま西へ流れ込んだ。
つまり、十字軍の兵士や商人がオリエントで聞きつけた「ムミア」という薬は、本来ただの天然アスファルトである。人間はどこにも入っていない。
ところが供給が追いつかなくなる。もともと年に一度ざくろ一個ぶんしか採れないという触れ込みの品だ。需要が跳ね上がれば、当然、代用品探しが始まる。そして代用品として最悪の候補が、すぐそこに大量にあった。エジプトの砂の下に。
誤訳が三段階で人肉に着地するまで
ここからが本題だ。「黒くてねばつく薬」が「人間の死体」にすり替わるまでに、はっきり三段階の飛躍がある。
第一段階は、エジプトのミイラの黒さを瀝青と取り違えたこと。ミイラの表面や内部が黒ずんでいるのは、実際には樹脂が酸化したせいであることが多い。だが中世の人間はそれを見て「あの高価なムーミヤーが詰まっている」と考えた。
バグダードの医師アブド・アッラティーフ・アルバグダーディーは十三世紀初頭、エジプトの死体の腹と頭蓋には「ムンミヤーと呼ばれるものが大量に見つかる」と記し、しかも「本来この語は瀝青を指すが、鉱物のムーミヤーが手に入らないときは代用してよい」と親切に付け加えている。彼は一三〇〇年ごろカイロで、瀝青の詰まったミイラの頭を三つ、半ディルハムで買った、とも書き残している。
第二段階が、翻訳の事故だ。十二世紀、クレモナのゲラルドゥスはアラビア語のムーミヤーを「アロエとともに埋葬された土地で見つかる物質。死者の体液がアロエと混ざって変質し、海のピッチに似たものになる」と訳した。同じころサレルノの医師マテウス・プラテアリウスは「ムミアは死者の墓所で見つかる香料である。黒く、悪臭を放ち、つやがあり、塊状のものが最良」と書いた。
十二世紀のサレルノ医学書『キルカ・インスタンス』にも、ムミアは香料とともに防腐処理された人の墓から採れ、脳と脊椎のあたりに見つかる黒くて臭う物質で、止血や赤痢や過多月経に効く、と載る。ビザンティン帝国の巨大な薬物書、十三世紀末の『デュナメロン』にいたっては、ムミアを「死者の血。イタリア人はこれをムーミアと呼ぶ」と定義している。もう鉱物ではない。
第三段階が、いちばん雑な飛躍。死体の空洞から採れる黒い塊を集めるのが面倒になり、死体の肉そのものを黒い塊の代わりにしてしまった。イタリアの外科医ジョヴァンニ・ダ・ヴィーゴ(一四五〇年ごろ生まれ、一五二五年ごろ没)は、ムミアを「防腐処理された死体の肉」とはっきり定義し、必需薬のリストに入れている。ここまで来ると、もはや誰も瀝青の話をしていない。
言葉ひとつがずれただけで、鉱物の薬が人肉の薬になった。しかもその誤訳は訂正されないまま、数百年ぶん増刷されつづけた。
パラケルススが屍薬に理屈をつけた
誤解だけでは三百年もたない。屍薬が広がった本当の理由は、そこに「理論」が与えられたからだ。それをやったのが、スイス生まれの毒舌医師、パラケルスス(本名フィリップス・アウレオルス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム、一四九三年から一五四一年)である。
パラケルススはムミアという言葉の意味をもう一段ずらした。彼にとってムミアはエジプト土産ではない。人体そのものに宿る生命力の呼び名だった。人間の中には自然界のあらゆる薬草の力が含まれている、と彼は考えた。そしてここからが重要なのだが、彼は「死ぬこと」と「殺されること」を厳密に区別した。
天寿をまっとうして死んだ人間の体は、もう使い道がない。虫にくれてやれ、と彼は書いている。だが剣で斬られた者、暴力的に死んだ者は違う。生命の霊はすでに去っていても、体には「バルサム」が残っている。そこには生命が潜んでいて、他人の体を保存する力さえある、と。金属が錆びて完全に灰になれば二度と金属に戻らないが、石灰化しただけの金属は元に戻せる。
人間の死体も同じで、まだ「死にきっていない」段階があるのだ、という理屈である。
だから最高の材料は、健康な若者が、病気ではなく、突然の暴力によって死んだ体になる。これがどこにあるか。処刑場だ。
パラケルススはこう書いている。「もし医師やその他の人々が、このムミアで何ができるか、何に効くかを知っていたなら、いかなる罪人も絞首台や車裂きの上に三日以上とどまってはいまい」。要するに、絞首台に吊るされた死体は、みんなが薬として持ち去るから残らないはずだ、と言っているのだ。
この理論は当時の生理学とがっちり噛み合っていた。当時の医学では、血の中でもっとも熱く精妙な部分が「生気霊」を作り、それが朽ちる肉体と不滅の魂をつなぐ、と考えられていた。つまり血と魂は地続きだ。だから他人の生気を飲むことは、比喩ではなく物理的に「生命そのものを取り込む」行為になる。
頭蓋骨が特別扱いされたのも同じ理屈で、もっとも精妙な霊は脳に宿ると考える者が多く、死後、霊は頭蓋の中に立ちのぼって閉じ込められる、と説明された。絞首された者の霊は最長七年、頭蓋の中に留まるという説まであった。
野蛮な迷信ではない。当時の最先端の物理学であり、生理学であり、しかも神学と矛盾しなかった。そこがこの話のいちばん気味の悪いところだ。
『バシリカ・キミカ』一六〇九年、赤毛の二十四歳という指定
パラケルススの後継者たちは、師匠のふわっとした理論を、恐ろしいほど具体的な調剤法に落とし込んだ。その代表がドイツの医師オズヴァルト・クロル(一五六三年ごろから一六〇九年)の『バシリカ・キミカ』、日本語にすれば『化学の王宮』である。一六〇八年から一六〇九年にかけて刊行され、以後何度も版を重ねた、当時のベストセラー処方集だ。
そこに記された「ムミー製法」の記述は、いまだに引用されつづけている。要求される材料は、赤毛の男の遺体。年齢は二十四歳。傷や汚れのない体で、死後一日以内。死因は絞首、車裂き、あるいは串刺しであること。それを晴天の日に一昼夜、日と月の光にさらす。そのあと肉を細く切り、苦みを抑えるために没薬の粉と少量のアロエをふりかけ、酒精に数日漬け、乾かす。
乾いたものは燻製肉に似ていて、臭わない、とクロルは書いている。ムミーは服用すると胃にひどい湿りを起こすので、油と一緒に処理するとよい、という注意書きまでついている。
なぜ赤毛なのか。当時の理屈では赤毛の人間は血が薄く、そのぶん肉が優れているとされた。なぜ二十四歳なのか。生命力が頂点にある年齢だからだ。なぜ絞首か車裂きか串刺しなのか。パラケルススの理屈そのままで、暴力的な死こそが生気を体内に封じ込めるからである。逆に失血死は最悪とされた。霊が血とともに流れ出てしまうからだ。
同じ趣旨の記述は、ドイツの薬学者ヨハン・シュレーダーの著作にもほぼそのままの形で現れる。クロルの本には、ムミーとは「エジプトの墓所で見つかる液状の物質ではなく、パラケルススによれば、暴力的な死を遂げ、しばらく空気にさらされた人間の肉である」という注までついている。定義が完全に書き換わっている。
同書の一〇一ページには「パラケルススの抗てんかん剤」も載っている。中心となる材料は、埋葬されずに暴力的な死を遂げた三人の男の頭蓋骨。てんかんは当時もっとも屍薬が投入された病気で、これは古代ローマで剣闘士の血を飲ませた療法の直系の子孫だった。剣闘士競技が四世紀ごろに禁止されると、その「正統な後継者」として処刑された囚人が繰り上がった。血統書つきの療法だったわけだ。
念のために書いておくが、こういう記述は歴史的な記録として引いている。実行できる手順として読まないでほしい。というか、読まないでくれ。
頭蓋骨に生える苔「ウスネア」は正式な商品だった
屍薬のカタログでいちばん詩的で、いちばん薄気味悪いのがこれだ。ウスネア、あるいは「ムスクス・エクス・クラネオ・フマーノ」、人間の頭蓋骨から採れた苔である。
処刑された罪人の死体は、しばしば鎖につながれたまま何か月も、何年も、公衆の面前にさらされた。イングランドの「ハンギング・イン・チェインズ」、いわゆるさらし刑がそれだ。頭皮が朽ち落ち、頭蓋骨が石のようにむき出しになると、そこに苔や地衣類が生える。それを採取して薬にした。
理屈はこうだ。絞首された人間の生命力は頭部に押し込められている。しかも星辰の力が種を降らせ、その霊気で満たされた土壌としての頭蓋の上に苔を芽吹かせる。だからこの苔には、大宇宙と小宇宙の力が両方入っている、と。パラケルスス派にとってこれは筋の通った説明だった。
用途は幅広い。鼻血を止める、出血全般を抑える、赤痢を治す、水腫を引かせる、てんかんを鎮める。イングランドの薬学書には、肝臓や脾臓や胆嚢の詰まりを開き、黄疸に効き、産婦のお産を軽くし、外用すれば傷を清め、壊疽と疥癬を治す、とまで書かれた。絹の袋に入れて患部に当てる、という使い方も記録されている。
そして重要なのは、これが趣味人の秘薬ではなく流通品だったことだ。フランスの薬種商ピエール・ポメは『薬物完全誌』の中で、「薬種商たちは外国、とくにドイツから、苔に覆われた頭蓋骨を取り寄せる。クロルが『化学の王宮』で記した同情軟膏の調合に使うためであり、これはてんかんの治療にたいへん有効である」と書いている。国境をまたぐサプライチェーンがあった、ということだ。
ドイツはさらし刑の期間が長く、頭蓋骨が苔むすまで放置される確率が高かったから、良質な原料の産地だった。産地ブランドまであったのである。
このウスネアは「武器軟膏」の主成分としても知られた。傷ではなく、傷をつけた武器のほうに軟膏を塗ると、遠く離れた場所にいる怪我人が治る、という当時の人気理論だ。ナポリの学者ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタの記した処方には、埋葬されていない死者の頭蓋に生えた苔二オンス、人間の脂同量、ムミー半オンス、人間の血、亜麻仁油、テレピン、アルメニア土をそれぞれ一オンス、と並ぶ。
要するに人体パーツの詰め合わせだ。
ロンドン薬剤師会の博物館には、いまも十八世紀のガラス瓶に入った「ウスネア・クラニイ・フマニ」の標本が残っている。紙に包まれて、ちゃんとラベルが貼られて。
人間の脂は処刑人の副業だった
血や骨より地味だが、実は流通量がいちばん多かったのが人間の脂かもしれない。ラテン語で「アクスンギア・ホミニス」または「ピングエド・ホミニス」。ヨーロッパの薬局方には十六世紀から堂々と載っている。ヨーロッパじゅうの薬局に、クマの脂、マムシの脂、ビーバーの脂、ヤマネコの脂、ハゲワシの脂、マーモットの脂などと並んで、人間の脂の壺が置かれていた。
ドイツの薬学博物館には「アクスンギア・ホミニス」と書かれた壺が現存している。
供給元ははっきりしている。処刑人だ。ドイツ語では「アルムズュンダーフェット」、直訳すると「哀れな罪人の脂」と呼ばれた。処刑人はしばしば死体の解体も担当したから、原料に直接アクセスできる立場にいた。彼らは脂を取り出し、溶かして精製し、売った。処刑人によっては、これが主要な収入源になっていた。
これは闇取引ではない。一五七五年、ニュルンベルクの市医ドクター・フォルカー・コイターは、盗人二人を解剖し、その脂を処刑人の医療業に譲る許可を公式に得ている。ミュンヘンでは十八世紀半ばまで、処刑人が市内の薬局に人間の脂を納入していた記録が残る。イタリアでも処刑人が同じ商売をしていた。値段も安くない。
一七六一年のマドリードでは、ある薬局が人間の脂を一ポンド百六十レアル・デ・ベジョンという相当な高値で売っていた。一七九九年、トリノでは人間の脂の販売を禁じられた処刑人に、失われた収入の補償として二十四ソルドが支払われている。禁じるにあたって補償が必要なくらい、公認された副業だったということだ。
用途は骨の痛み、歯痛、痛風、リウマチ、坐骨神経痛。結核のような消耗性の病にも万能薬として使われた。ボローニャの司祭オッターヴィオ・スカルラティーニは一六八四年の論考で、神経が硬くなる病に苦しむ老人が、処刑された罪人の遺体が吊るされた森へ自分を運ばせ、そこから滴り落ちる脂を患部に浴びて、まもなく治った、という話を書き残している。
一七一二年のイタリアのキエーティでは、アゴスティーノ・デ・サンクティスという男が、坐骨神経痛用の膏薬にするため地元の処刑人に「人間の脂を少し」ねだったと自白している。
戦場も供給源だった。一六〇一年十月、オーステンデ包囲戦の凄惨な戦闘のあと、オランダの外科医たちが戦場を回り、袋いっぱいの脂を集めたと伝わる。解剖学者アンドレアス・ヴェサリウスは一五四三年、骨格標本を作るために骨を煮る解剖学者に対して、浮いてくる脂の層を丁寧に集めておけと指示している。「大衆はこれが傷跡を消し、神経と腱の成長を助けると考えているのだから」というのが理由だ。
ヴェサリウス本人が信じていたかはともかく、需要があることは知っていた。
フランス中部ベリー地方の民俗を記録したジェルマン・レネル・ド・ラ・サルは、一八七五年になってもこう書いている。日が暮れたあと村の絞首台のそばにいるのは、呪術師と村の外科医だけである。呪術師は魔術に使う縄を盗みに来ており、外科医のほうは「クリスチャンの脂」を取りに来ているのだ、と。
薬局方に堂々と載っていた、という事実
ここまで読んで「一部の変わり者の話だろう」と思うかもしれない。違う。国家公認の薬のリストに載っていた。
一六一八年五月七日、ロンドンの内科医大学は『ロンドン薬局方』の初版を刊行した。イングランド全土の薬局が従うべき公式の基準として、国王の名で義務づけられた本である。ただ初版は誤植だらけで回収され、同じ年の十二月七日に大幅増補版が出た。この二度目の「初版」は千百九十品目を収録し、そのうち百六十二品目が動物由来の部位や排泄物だった。
その中に、粉末にしたムミアがある。二つの処方で使われている。人間の頭蓋骨、それも暴力的な死を遂げた者のものが望ましいとされる粉末は、てんかんの確実な特効薬として載る。ウスネア・クラニイ・フマニ、つまり人間の頭蓋骨の苔も項目にある。ちなみに同じページ群にはサイの角と一角獣の角も並んでいるので、当時の品質管理の水準は察してほしい。
一六五三年にニコラス・カルペパーが英訳して普及させた版では、「人間の脂」が明記され、「肉が落ちてしまった手足に塗るのにきわめてよい」と説明されている。第二版では、薬剤師が常備すべき生き物のカタログの筆頭に、動物と人間の脂が並べて置かれた。脂の処理法まで書いてある。
イングランドだけの話ではない。十八世紀にはヨーロッパじゅうの薬局でムミアが売られていた。バイエルン地方では十九世紀に入っても「ムミー」あるいは「野人の肉」という名前で、結核の薬として薬局に並んでいた。エルサレムの薬局の在庫目録にも十九世紀半ばまで残っており、ペルシャ産の鉱物ムミアとエジプト産の人体ムミアがちゃんと区別されていた。
さらにえげつないのは、税関の話だ。十七世紀半ばのイングランドでは、ムミアが輸入関税の課税対象品目リストに載っていた。密輸品でも禁制品でもない。関税を払って輸入する正規の商材である。国庫がミイラで潤っていたわけだ。
医学の巨人たちも例外ではない。臨床観察の名手として名高いトマス・シデナムの残した処方には、人間の頭蓋骨を含む抗てんかん水が入っている。神経解剖学の父トマス・ウィリスは、裕福な患者に人間の頭蓋骨とチョコレートを混ぜたものを出していた。
化学の父ロバート・ボイルは血液の医薬品化に本気で取り組み、頭蓋骨の苔については「患部に触れなくても出血を止められる」と主張し、自分も含めて信用のおける人物が何度も目撃していると断言している。近代科学の創設メンバーが、全員そろってこれをやっていた。
「王の点滴薬」の製造元と、王自身の実験室
冒頭のチャールズ二世に戻る。彼が飲んでいた薬の正体を、もう少し詳しく見ておきたい。
もとの名前は「ゴダーズ・ドロップス」。作ったのはジョナサン・ゴダード(一六一七年から一六七五年)。オリヴァー・クロムウェルの侍医であり、グレシャム・カレッジの医学教授、オックスフォードのマートン・カレッジ学寮長、そして王立協会の創設メンバーの一人である。イングランドで最初の望遠鏡を作ったともいわれ、自宅でレンズを研磨できる設備を持っていた。つまり当時の科学界の中枢にいた人物だ。
その処方はこうだ。人間の頭蓋骨五ポンド。ただし絞首刑になった者、あるいは何らかの暴力的な死を遂げた者のものに限る。乾燥させたマムシ二ポンド、鹿角二ポンド、象牙二ポンド。これらを細かくし、蒸留し、振り、濾し、また蒸留する。服用量は七滴か八滴から始め、卒中や昏睡のような差し迫った場合は四十滴、五十滴まで増やす。
なぜ老人の骨ではだめなのか。当時の考え方では、老人の骨には治そうとしている病そのものが含まれているかもしれないからだ。若く健康な体が暴力によって断ち切られた瞬間の生命力こそが欲しかった。だから処刑と戦争が理想的な調達手段になる。
チャールズ二世はこの処方をゴダードから買った。金額は千五百ポンドとも六千ポンドとも伝えられる。当時の貨幣価値でとんでもない額だ。そして王はホワイトホール宮殿に自分の実験室を構え、そこで自らこの薬を蒸留した。アルコールに混ぜ、仕事の合間にちびちび飲んだという。ワインやチョコレートに混ぜるのも流行った。原料の頭蓋骨はアイルランドから来ていた。墓掘り人に裏で金を渡して調達していた、と伝わる。
王が飲むということは、宮廷が飲むということだ。王の私設秘書ウィリアム・チフィンチは、この薬を廷臣たちの飲み物にこっそり混ぜ、酔わせて秘密を聞き出すのに使ったという話まで残っている。効いたかどうかは知らないが、飲ませれば酔うことは確かだったのだろう。
流行は宮廷の外にも出た。一六八六年、アン・ドーマーというイングランド女性が姉妹に宛てた手紙にこう書いている。「私は王の点滴薬をいただき、チョコレートを飲みます。そして魂が死ぬほど沈むときは、走って子どもたちと遊びます」。頭蓋骨の蒸留液は、彼女にとって気分の落ち込みを支える日用品だった。抗うつ薬のポジションに、人間の頭蓋骨が座っていたのだ。
もっとも、全員が幸せになったわけではない。キングズ・リンの国会議員サー・エドワード・ウォルポールはこの薬を飲んだあとに死んでいる。「非常に悪い作用があり、痙攣と麻痺を起こして、見るも無残なありさまだった」と記録された。
エジプトから船倉まで――ミイラが商品になる道すじ
では、その原料はどうやってヨーロッパに届いたのか。ここは丸ごと押さえておきたい。ミイラが薬になるまでには、盗掘、賄賂、船、倉庫、薬局という五つの段階がある。
十五世紀から十六世紀、ヨーロッパから来た旅行者は、カイロ近郊のサッカラの墓地に案内されるのが定番だった。そこで彼らは、現地の人々がミイラを掘り出し、ヨーロッパ向けに船積みしていく光景を見た。ほとんど工業的な規模だったという。ドイツ人旅行者ヨハン・ヘルフリヒは自分でも掘ってみようとして、サッカラで二日間費やして何も見つけられなかった、と正直に書き残している。
いちばん生々しい記録を残したのは、イングランド商人ジョン・サンダーソンだ。彼はレヴァント貿易を担うトルコ会社の駐在員として一五八五年からエジプトにいた。一五八六年四月二十八日、ドイツ人の紳士三人に誘われてピラミッドと「モミア」を見に行っている。
その帰り道の描写がすごい。ピラミッドから五、六マイル離れた場所に、砂の洞窟に埋められた何千という防腐処理された死体があった、というのだ。サンダーソンたちは井戸に降りるように綱で吊り下ろされ、蝋燭を手に、あらゆる大きさの死体の上を歩いた。小さな素焼きの壺に入れられた、形をなさないものもあった。「まったく嫌な臭いはしなかった。折るとピッチのようだ。
私は肉がどのように薬に変わったのかを見るため、体のあらゆる部分を折り取り、いくつもの頭、手、腕、足を見せ物として持ち帰った」。
そして本題の商談。「われわれはトルコ会社のために六百ポンドぶんを断片で買い、まるごと一体とともにヘラクレス号でイングランドへ持ち帰った。彼らは百重にも布で巻かれており、それが腐って剥がれると、皮膚、肉、指、爪がしっかり残っているのが見える。ただ黒く変わっているだけだ」。
この取引、実は違法だった。編者の注にこうある。「友誼によらなければ売買は禁制品扱いである。ウィリアム・シェールズは現地のモール人たちに顔がきき、彼らの言葉を英語同然に話した。言葉と金があれば、モール人は何にでも応じてくれる」。要するに賄賂だ。そして荷揚げ後の行き先まで書いてある。
「このモミアの遺体は、到着後ロンドンのフィルポット・レーンにあるサー・エドワード・オズボーンの屋敷に運ばれ、六百ポンドぶんとともに、薬種商に売られるまでそこに置かれた」。
ロンドンの一等地の商人の屋敷に、エジプトの死体が積まれていて、そこから薬局へ卸されていく。この生々しさが、この話の本質だと思う。金と船と倉庫が動いていた。信仰ではなく商売だ。
消費者側も名前が残っている。イングランドではエドワード四世の宮廷で使われた。フランス王フランソワ一世は、ムミアとダイオウを混ぜたものを常に携帯し、怪我をしたらすぐ使えるようにしていたという。ロシアは長く抵抗していたが、十七世紀後半にはこの流行を受け入れた。
「ミイラが足りない」――アレクサンドリアの倉庫での告白
需要が供給を追い越したらどうなるか。答えは決まっている。にせものが作られる。
この場面の第一級資料が、フランス王アンリ三世の第一外科医アンブロワーズ・パレ(一五一〇年ごろから一五九〇年)の『ムミー論』だ。正式には『ムミーについて、一角獣について、毒について、ペストについての論考』、一五八二年、パリのガブリエル・ビュオン刊行。
きっかけは臨床の現場だった。一五八〇年、パレは落馬して重傷を負った貴族クリストフ・デ・ジュルサンを治療していた。当時、打撲には粉末ミイラを飲ませるのが同業者全員のやり方だったのに、パレはそれを出さなかった。療養中、デ・ジュルサンはなぜあの有名な薬をくれないのかと繰り返し尋ねた。パレは、あれは益より害が大きい、一角獣の角も同じだ、と答え、さらにこう言った。
古代のユダヤ人、アラブ人、カルデア人、エジプト人は、キリスト教徒に食べさせるために死者を防腐処理したのではない、と。驚いたデ・ジュルサンは、それを本に書けと勧めた。それでできたのがこの本だ。
パレはヘロドトスとストラボンを読んで防腐処理の実際を調べ、「なんと結構なお肉だろうね」と皮肉を書いている。そのうえで、エジプトとバルバリアを旅した高名な医師ギ・ド・ラ・フォンテーヌ、ナバラ王の侍医から直接聞いた話を記録した。ここが屍薬史でもっとも有名な証言になる。
一五六四年、ギ・ド・ラ・フォンテーヌはエジプトのアレクサンドリアにいた。ミイラで大きな商いをしているユダヤ人がいると聞き、その家を訪ね、ミイラ化した遺体を見せてほしいと頼んだ。相手は快く倉庫を開けてくれた。中には遺体が何体も積み重ねられていた。三十体か四十体はあった。
ラ・フォンテーヌは尋ねた。これらの遺体はどこで手に入れたのか。古人が書いているように、この国の墓所から出たものなのか。
商人は笑い出した。この四年のあいだに、ここにある遺体は全部自分で作ったものだ、と彼は断言した。材料は奴隷やその他の死者だ。ラ・フォンテーヌはさらに食い下がった。どこの国の者か、ハンセン病や梅毒やペストのような悪い病気で死んだのではないか。商人は答えた。どこの出身だろうと、どんな死に方をしようと、老人だろうと若者だろうと、男だろうと女だろうと気にしない。手に入りさえすればいい。
防腐処理してしまえば誰にも区別はつかないのだから、と。
そして商人はこう付け加えた。キリスト教徒たちが死者の体を食べたがるのが、自分にはまったく不思議でならない、と。
さらに製法まで話した。脳と内臓を抜き、筋肉の深いところに大きな切り込みを入れ、そこにアスファルトを詰め、同じ液に浸した古い布を切り込みに置き、部位ごとに包帯し、最後に全身を同じ液に浸した布で巻いて、二、三か月置く。それだけだ。
ラ・フォンテーヌが、ではキリスト教徒はユダヤ人の古い墓から取り出された遺体だと信じているが完全に騙されていることになる、と言うと、商人は答えた。エジプトがそんな何千という遺体を供給できるはずがない。いまのエジプトに住んでいるのはトルコ人とユダヤ人とキリスト教徒で、誰もあんな防腐処理の儀式などしていないのだから、と。
一五六四年の時点で、供給側が「これは全部にせものだ」と笑いながら証言している。にもかかわらず、貿易はこのあと二世紀近く続いた。
しかも偽造はエジプトだけの話ではなかった。パレの記述によれば、詐欺はパリにも根を張っていた。良心のない商人たちが、夜を待って絞首台から罪人の遺体を降ろしていたというのだ。ポルトガル人の薬種商トメ・ピレスは、商人たちが「ときにラクダの肉を焼いて人肉として売る」と書いている。
ドイツの薬学博物館に残る十八世紀の「ムミア・ウェラ」の壺を化学分析したところ、麻の繊維、木の繊維、杉油、蜜蝋、ピスタチオ樹脂、加水分解した脂肪、植物油、そして死海のアスファルトが検出された例がある。何が入っていたのか、もはや誰にもわからない。
処刑場に集まる病人たち
ここまでは薬局の話だ。もっと直接的なやり方もあった。死体を待たない。生きているうちに現場へ行くのだ。
想像してほしい。ドイツのある町の朝。広場に処刑台が組まれ、周囲に兵士が輪を作っている。見物人は数千人。露店が出て、子ども連れの家族もいる。だが、その最前列、兵士の線のさらに内側、罪人のすぐそばに立たされている数人がいる。彼らは見物人ではない。患者だ。手にコップやタンブラーや壺を持っている。てんかん持ちの若者、くる病の子ども、原因のわからない発作に苦しむ女。彼らは処刑人の許可を得てそこにいる。
場合によっては、これから首を落とされる本人から、署名入りの許可書をもらっている。
刃が落ちる。首が転がる。次の瞬間、彼らは駆け寄る。
一八六一年、アメリカの作家で画家のジョン・ロス・ブラウンは、家族とともにドイツに滞在していた。ある金曜の朝、フランクフルト近郊のハーナウで処刑を目撃している。彼の記述は容赦がない。処刑台の近く、罪人のすぐそばに六人か八人の男が立っていた。てんかんを患っているという。首が落ちた瞬間、彼らはタンブラーを手に遺体へ突進し、まだ湯気の立つ血を胴から受け、狂ったような勢いで飲み干した。
手も顔も胸も、脈打つ死体から流れ出す真紅に覆われていた。ひとりは首から噴き出す血に間に合わず、遺体の肩をつかんで水平に傾け、切り口からタンブラーいっぱいに注ぎ、野生の歓喜のうちに飲み干した、という。
これは孤立した事例ではない。十八世紀末から十九世紀のドイツで十八件ほど、スウェーデンで九件ほど、デンマークで四件、ノルウェーで三件、記録に残る血飲みの事例が確認されている。もちろん記録に残らなかったものはもっと多い。北ヨーロッパで最後に記録されたのは一八六〇年代、そして最後の「不成功に終わった要請」は一九〇八年、ザクセンのフライベルクで、てんかんの女性のために血を求めた女性のものだった。
血を飲むだけでは足りない、とされる場合もあった。飲んだあとは走らねばならない。倒れるまで、意識を失うまで走る。家族や見物人が支えたり、けしかけたりする。一七五五年六月のドレスデン、一八一二年のハノーファーで報告されている方式だ。一八二三年十二月のツヴィッカウでは、主に子どもたちが罪人の血の入った壺から飲み、そのあと鞭で打たれて野原を走らされた。
スウェーデンのスコーネ地方ダールビーでは、七十人もの病人が血を求めて集まり、飲んだ者は二人の見物人につかまえられて後ろ向きにしばらく走らされた。それで治療完了とされた。同じスコーネの民間伝承では、大さじ三杯飲んで後ろ向きに歩き、歩いた歩数のぶんだけ発作が来ない、だから百歩は歩く、とされていた。
うまくいかないこともある。一八一四年、バルト海に面したシュトラールズントでは、二人の騎手が病人らしき男を連れてきて、処刑された者の血を大きめの水差しになみなみと満たした。男がそれを底まで飲み干すと、丈夫な手綱で二頭の馬のあいだに縛りつけられ、猛烈な速度で引かれていった。男は倒れて死んだ。
処刑人はこの流れの管理者だった。一八四四年四月、テニングでの斬首では、処刑人がオルデンブルクから来た農夫の息子に血を飲ませた。一八五七年のハノーファーの斬首では、複数のてんかん患者が名乗り出て、処刑人は「気前よく与えた」と報じられている。一八〇二年のマインツでは、処刑人の助手たちがビーカーで血を受け、群衆の一部が前に出て飲むことを許された。
一八六四年のベルリンでは、助手たちが血に浸した白いハンカチを一枚二ターラーで売っていた。商売だ。
目撃者たちの言葉
この光景を、ちゃんとした知識人たちが記録に残している。三つ、じっくり読んでほしい。
ひとつめ。一六六八年から六九年の冬、イングランドの旅行家エドワード・ブラウンはウィーンに滞在し、複数の処刑を見ている。彼はまず、椅子に座らされた女が処刑人の一撃で首を落とされるのを見た。次に同じやり方で男が処刑された。
「その首が地に落ちるや、体はまだ椅子にあり」、凍てついたウィーンの空気に血と湯気が噴き上がるなか、ひとりの男が壺を手に「すばやく駆け寄り、まだ首から噴き出している血をそれに満たし、その場で飲み干して走り去った」。ブラウンは付け加えている。この男がそうしたのは、「落ちる病に対する治療として」だった、と。淡々とした筆致がかえって怖い。
ウィーンは当時、ヨーロッパでもっとも洗練された宮廷都市のひとつである。
ふたつめ。一七九五年、コペンハーゲン。放火犯の処刑があった。当時デンマークに商用で滞在していたメアリ・ウルストンクラフト、『女性の権利の擁護』を書いたあの人だ。彼女は嫌悪をもって記している。「よく着飾った女たちが、子どもを連れてこの見世物から帰ってくるのに、私は嫌悪とともに背を向けた」。
さらに彼女は、二人の人物が「卒中の確実な治療薬」として「罪人の血をグラスに一杯」飲んだと聞いて、いっそう気分を悪くした。ところが彼女がこれを「自然に対する恐るべき冒涜」だと口にすると、あるデンマークの貴婦人が彼女を厳しくたしなめた。あなたはそれが病気の治療にならないと、どうしてわかるのですか、と。この一言がすべてを語っている。教養も身分もある女性にとって、これは常識の範囲内だった。
おかしいのは外国人のほうだったのだ。
みっつめ。一八二三年、デンマーク。童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンが、自伝の中で書いている。「私は哀れな貧しい者が、迷信深い両親によって、処刑された人間の血を一杯飲まされるのを見た。てんかんを治そうとしてのことだった」。世界じゅうの子どもに読まれる童話を書いた男が、若いころに実際にこれを見ている。距離が近すぎて、ちょっと怖くなる話だ。
もうひとつだけ付け足したい。所有権の話だ。一八五六年八月十八日、デンマークのフュン島アセンス。強盗殺人犯ボイエとオルセンが斬首された。ペーダー・オルセンの首が落ちるや、十五歳と十七歳の農家の娘二人が、武装警官の二重の非常線を突破して駆け寄り、持参したコップに首から噴き出す血を満たし、その場で飲み干した。娘たちは警察の取調べを受けた。
彼女たちは、自分たちは権利のあることをしただけだと主張し、一枚の紙を見せた。そこには「ゲー・オルセン」の署名があり、自分が処刑されることになったら彼女たちが自分の血を飲むことを許可する、と書かれていた。ちなみに判決ではオルセンの首は槍にさらされることになっていたが、上訴で取り下げられている。オルセンは、国家が自分の体を使うことのほうを、民衆が自分の血を使うことより不快に思っていたらしい。
反対派もちゃんといた
全員が納得していたわけではない。ちゃんと怒っていた人がいる。
いちばん激しかったのが、さっきのアンブロワーズ・パレだ。彼の批判は宗教的な嫌悪ではなく、臨床経験に基づいていた。ムミアは効かないだけではない、と彼は書く。自分が処方させられた患者たちを何度も見た経験から言うと、この薬は胃にひどい痛みを起こし、口を臭くし、激しい嘔吐を引き起こす。しかも打撲の血を固めるどころか、逆に血を動かし、血管の外へ余計に出してしまう。
漁師は魚をおびき寄せるのに悪臭のする餌を使う、と彼は皮肉る。ムミアもそういうものだ、ひどく臭いから、と。彼はこう宣言した。「これゆえ私は、決してこれを処方せず、可能なかぎり誰にも服用させないと誓う」。
同時代の探検家アンドレ・テヴェもエジプトでこれを自分に試したが、パレの記述によれば、腹痛、嘔吐、口臭に何度も苦しんだという。ちなみにテヴェ本人の著作にはその副作用の記述がないので、この部分はパレが自分の患者で見た症状を重ねた可能性がある、と現代の研究者は指摘している。それでも、四百年以上前に「これは血液に有害だ」と直感したパレの嗅覚は鋭かった。
近年の分析では、ムミア標本にベンゼン系の成分や、アルミニウム、バリウム、鉛、臭素といった重金属が検出されている。
フランスの博物学者ピエール・ブロン(一五一七年から一五六四年)は、もっと学術的に攻めた。アラブの医師たちが言っていたムミアとは、そもそもディオスコリデスのピッサスファルトスのことであって、翻訳者たちがそれを取り違えたのだ、と正確に見抜いた。そのうえで、ヨーロッパが輸入しているのは死体を削り取った「偽称のムミア」と、埋葬された死体を日光で乾かしてから挽いた「人工のムミア」の二種類だ、と暴いた。
ブロンはこれを無価値で危険な薬だと断じている。ただし彼自身、フランソワ一世が常にムミアとダイオウを携帯していたことも書き添えている。批判者ですら、国王の習慣までは変えられなかった。
ドイツの植物学者レオンハルト・フックスも十六世紀に屍薬を非難している。エジプトを訪れたあるイングランド人は、サッカラを見て「この死体こそが、医師と薬種商がわれわれの意に反して飲み込ませるムミアなのだ」と嫌悪を隠さなかった。
だが、この反対はほとんど効かなかった。理由をパレ自身が書いている。彼は本の末尾で、なぜ医師たちは効かないとわかっている薬、それどころか害があると察している薬を処方しつづけるのか、という問いに答えている。答えはこうだ。「世が欺かれることを欲しているからだ」。そして医師たちは臆病だから、世論に逆らう勇気がない。パレは一五八五年にこう付け加えた。
自分としては、賢者たちと一緒に、いや世界じゅうの全員と一緒に間違えるくらいなら、ひとりで正しくありたい。求め、従い、慈しむべきは真理だけである、と。
七十二歳の外科医のこの啖呵は、いま読んでもかっこいい。そして効果がなかったこともまた、いま読んでも身に覚えがある。
部位ごと、国ごとに用法が違った
屍薬は「人間の体」という漠然としたものではなく、部位ごとに厳密な適応症が割り振られた体系だった。ここが「野蛮な迷信」ではなく「医学」だった証拠でもある。
頭蓋骨は頭の病気。てんかん、痙攣、卒中、めまい、麻痺。パラケルスス流の「似たものが似たものを治す」の応用で、頭の不調には健康な頭を使う、という理屈だ。とくに埋葬されていない頭蓋骨が好まれた。土に入ると力が抜ける、と考えられたらしい。
イングランドの家庭用レシピ集には、頭蓋骨をやすりで細かく削って乳鉢でよく搗く、六ペンス硬貨に乗る量を飲ませる、四ペンス銅貨に乗る量を「マザー」つまりヒステリーに使う、といった記述が山ほど残っている。ある写本には親切にも「死人の頭蓋骨は薬種商で手に入ります」と書いてある。買えたのだ。
血は生命そのもの。てんかん、卒中、くる病、狂犬病。新鮮で温かいことが絶対条件で、だから処刑場が必要だった。処理した血もあり、ロバート・ボイルは血を蒸留して「血の精」を作っている。
脂は外用。痛み、こわばり、リウマチ、痛風、坐骨神経痛、傷跡、産みの苦しみ。皮膚に触れることが効くと信じられていたので、脂そのものを塗るか、脂に触れた布を当てた。
骨は骨に。骨折の接合、腫れ物。ガレノスですら焼いた人骨の煎じ薬がてんかんと関節炎に効くと認めていたから、これは古代からの伝統である。
ミイラ、つまりムミアは打撲と内出血。高いところから落ちた、殴られた、そういうときに血が体内で固まらないようにする薬とされた。だからこそパレの患者デ・ジュルサンは、落馬した自分になぜミイラをくれないのかと訊いたのだ。ほかに潰瘍、結石、ペスト、麻痺、めまい。フランシス・ベーコンは一六二六年に「ムミーには止血に大きな力がある」と書いている。
国ごとの色合いも違う。ドイツと北欧では処刑場の血飲みが目立つ。斬首が長く行われ、血が勢いよく出たからだ。スウェーデンは十九世紀初頭に絞首から斬首へ切り替え、ノルウェーは一八一五年に絞首を廃止して斬首台に移った。皮肉なことに、この「人道的な改革」が民衆医療にとっては新しい供給ラインを開いた。イングランドは絞首中心だったので、血ではなく「絞首された男の手」が主役になる。
一七五八年から一八六三年まで、公開処刑の場で腫れ物や甲状腺腫や瘰癧を治すために、吊るされたばかりの死体の手で患部を撫でてもらう記録が二十七件も新聞に残っている。撫でる回数は三回、七回、九回と決まっていて、九回がいちばん多かった。処刑人はこれを手伝った。
一八二五年のニューゲートでは、老女が処刑台に上がるのを助けられ、処刑人が彼女の首に腕を回して罪人の手でこすりつづけ、老女が気を失いかけたのでいったんやめ、少し置いてもう片方の手で再開している。
フランスとベルギーでは、処刑人自身の手による一撃に力があるとされた。イタリアでは処刑人が脂を精製して売り、ボローニャの司祭が産痛によいと推奨した。ドイツでは苔むした頭蓋骨が輸出品になった。スペインでは薬局が高値で脂を売った。ヨーロッパじゅうに、それぞれのローカルな形で根を張っていたのだ。
十九世紀、ミイラは応接間の余興になった
十八世紀後半、屍薬は医学の主流から追い出されはじめる。だがエジプトの死者はまだ休ませてもらえなかった。今度は娯楽になったのだ。
一七九八年のナポレオンによるエジプト遠征、一八二二年のシャンポリオンによるヒエログリフ解読。この二つで「エジプト熱」が爆発する。一八三三年、フランス出身の修道士フェルディナン・ド・ジェランはエジプト総督ムハンマド・アリーへの手紙にこう書いた。エジプトから帰ってきて、片手にミイラ、片手にワニを持っていなければ、まともな人間とは見なされないだろう、と。冗談としてもひどい。
この流行の主役になったのが、イングランドの外科医で好古家、トマス・ジョセフ・ペティグルー(一七九一年から一八六五年)だ。彼は一八三四年に『エジプトのミイラの歴史』を刊行した。英語圏で最初の、本格的な学術的ミイラ研究書であり、内容はきわめて真面目だ。防腐処理の技法、道具、古典作家との突き合わせ。挿絵十点は風刺画家ジョージ・クルックシャンクが描いた。
そしてこの本の中には「薬としてのミイラ」の章もちゃんとある。
だがペティグルーが有名になったのは本のせいではない。「開封」のせいだ。一八三三年の春から夏にかけて、彼は三回のミイラ開封会を主催した。イギリスの上流社会が集まり、包帯が一枚一枚ほどかれていくのを見物する会である。一八三四年一月十五日、王立外科医師会でのチケットは完売した。会場に入れなかった人の中には、カンタベリー大主教もいたという。貴族、外交官、政治家が押し寄せた。
チャールズ・ディケンズを含む文化人と交流のあったペティグルーは、科学的手続きをそのままショーに変える才能があった。彼が最初の開封者だったわけではないが、開封を「上演」にしたのは彼だ。手袋を脱ぐのも下品とされた社会の人々が、三千年前の死体が衣を剥がれていくのを喜んで見た。
フランスも同じだった。作家テオフィル・ゴーティエは一八五七年の博覧会での開封を書き残している。外は嵐。人類学博物館の中で、ネス・コンスという女性のミイラが、包帯がほどけるにつれて踊っているように見える装置に据えられた。副葬品の宝飾が次々と現れた。
ゴーティエは、脇の下に置かれた花が色を失いながら完璧に残っているのに心を打たれ、同時に、首飾りの「美しい微小なハヤブサ」は時計の飾りにちょうどいい、と書くのも忘れなかった。彼は、この女性が「モーセより五百年前、キリストより二千年前に、日の光の中を歩き、生き、愛した」ことに畏敬を覚えつつ、その目が生者を軽蔑して見ているように感じている。たぶんそれは、うしろめたさだったと思う。
そして重要なのは、この余興が薬と地続きだったことだ。自分でミイラ開封パーティーを開けるくらい裕福なら、ミイラのかけらを取り分けて挽き、客への手土産にできた。粉にして湯に溶かせば茶になり、水で練れば湿布になった。応接間の余興と薬棚が、同じ死体を分け合っていた。
すべてが順調だったわけでもない。包帯が体と癒着して剥がれない回もあった。頭の中身が砂だけだった回もあった。王女とされていたミイラが男だった、という話も残っている。ペティグルーはハミルトン公爵に見込まれ、公爵の遺体を防腐処理する仕事まで請け負った。一八五二年、公爵は生前に手に入れていた名もなき王女の石棺に納められ、いまもそこで眠っている。趣味がそのまま自分の墓になった珍しい例だ。
絵の具になったファラオ――マミー・ブラウン
薬でも余興でもない、第三の使い道がある。絵の具だ。
「マミー・ブラウン」、別名エジプシャン・ブラウン、あるいはカプト・モルトゥム。ラテン語で「死者の頭」を意味するこの名前は、比喩ではなく実態だった。挽いたミイラの肉に、ホワイト・ピッチ(ノルウェートウヒから採れる赤褐色の樹脂)と没薬を混ぜて作る。焼き褐色と生褐色のちょうど中間、透明感のある温かい茶色。影づけ、暗部、そして皮肉なことに肌の色に重宝された。
登場は十六世紀末ごろ、人気の頂点は十八世紀半ばから十九世紀。一七一二年のパリには「ア・ラ・モミー」、つまり「ミイラ亭」と名乗る画材店があって、ムミアと絵の具とワニスと香を売っていた。名前で開き直っている。一八〇九年、イギリスの化学者ジョージ・フィールドは、画家サー・ウィリアム・ビーチーからミイラの納品を受けた記録を残している。その描写がなかなかである。
塊で届き、肋骨などを含み、それが全体に浸透している。ニンニクとアンモニアに似た強い臭い。挽きやすい。やや粘っこく伸びる。湿気や汚れた空気に影響されない。
使った画家の名前も派手だ。ウジェーヌ・ドラクロワ、ウィリアム・ビーチー、ローレンス・アルマ・タデマ、マルタン・ドロリング、そしてエドワード・バーン・ジョーンズ。アメリカでは画家ベンジャミン・ウェストが同業者に、これで画面にグレーズをかけろと勧めていた。ウェストの仲間ジェームズ・フォレスターは「ウェスト氏がグレーズに使う最上の褐色はミイラの肉である」と書いている。
フランス革命のあと、サン・ドニ修道院から持ち出されたフランス歴代王の心臓が絵の具にされた、という話まで伝わる。
そしていちばん有名なのが、一八八一年ごろのバーン・ジョーンズの逸話だ。彼は自分の絵の具のチューブに書かれた「マミー」という名前が、本物のミイラを意味しているとは思っていなかった。単なる色名の借用だろう、と。ところが仲間のアルマ・タデマが、画材屋の工房で挽かれる前のミイラを実際に見た、と保証した。バーン・ジョーンズは動転した。
そして自分の持っていた唯一のチューブに、いますぐまともな葬儀を出すと言い張った。
その場に居合わせた甥が、のちに自伝でこう書いている。「彼は真っ昼間に『マミー・ブラウン』のチューブを手に降りてきて、これは死んだファラオでできているとわかったから、それにふさわしく埋葬しなければならないと言った。それでわれわれは皆で外に出て手伝った。ミツライムとメンフィスの儀式にのっとって、だといいのだが。いまでもあのチューブが埋まっている場所は、三十センチの誤差で言い当てられる」。
この甥の名前はラドヤード・キプリング。『ジャングル・ブック』を書く前の少年だ。
需要が落ちた理由は、道徳心よりも実利だった。まず供給が尽きた。一八八八年の記事は、発掘が公的な監督下でしか許されなくなり、見つかったミイラは保存されるようになったので、色としても薬としてもムミアがどんどん手に入らなくなった、と嘆いている。次に品質。乾きが遅く、耐久性に難があり、経年で予測不能に変色する。いまでも修復家は、過去のミイラが古いカンヴァスの上で何をしでかしているかに頭を悩ませている。
一九一五年には、ロンドンのある画材商が「ミイラ一体あれば顧客の注文を二十年ぶんまかなえる」と言うほど需要が減った。
とはいえ、商品としての最期は驚くほど新しい。ロンドンの画材メーカー、ロバースン商会は一九三三年までカタログに載せつづけ、最後のチューブは一九六四年に作られたとされる。同年、雑誌『タイム』の取材に、同社の常務ジェフリー・ロバースン・パークはこう答えた。「うちはミイラを切らしてしまいました。どこかに手足の切れ端くらいはあるかもしれませんが、絵の具にするには足りません。
最後の一体はずいぶん前に、たしか三ポンドで売ってしまいました。売るべきではなかったかもしれない。もう二度と手に入りませんから」。
三ポンド。ビートルズがチャートを独占していた年に、ロンドンの店先で、人ひとりが三ポンドで売られている。この一文がいちばん背筋に来る。
ちなみにハーヴァード大学美術館のフォーブズ顔料コレクションには、一九〇〇年代初頭にロバースン商会で買われたマミー・ブラウンのチューブが、いまも展示されている。
屍薬はいつ、どうやって死んだのか
では、この三百年の習慣はどこで終わったのか。
まず、宗教的な良心では終わっていない。ここは押さえておきたい。パレもブロンも、「人を食べるのは罪だ」という論法をメインには使っていない。彼らが言ったのは「効かない」「害がある」「そもそも中身が別物だ」である。屍薬をやめさせたのは倫理ではなく、効能への不信だった。
決定的だったのは十八世紀半ばだ。イギリス史でいえばジョージ二世とサミュエル・ジョンソンの時代。ここでようやく、教養ある医師と科学者たちが本気で屍薬を攻撃し、信用を失わせた。それ以前の反対は散発的で、効果がなかった。
同じころ、もう一本の柱も折れている。解剖学が進み、体の中を細かく調べるようになるほど、「魂の座はどこか」という長年の探究が放棄されていった。血の中の生気霊という考えが医学と神学の両方で真剣に扱われなくなると、人体を特別に潜在力のある物質と見なす根拠が消える。理屈が消えれば、材料はただの肉になる。誰も、ただの肉を飲みたくはない。
供給側も変わった。処刑人が医療の担い手だった時代が終わり、死体の管理権は解剖学校と医学部に移る。イギリスでは一八三二年の解剖法が、殺人犯の公開解剖を終わらせ、同時に合法的な遺体供給の仕組みを作った。処刑人から解剖学者へ、非公式な民間医療から制度化された医学教育へ。同じ死体をめぐる主導権が、はっきり移動した。
一七九九年にトリノの処刑人が脂の販売を禁じられて補償金をもらった話は、その移行期の一場面である。一八七二年、フランスの文人マクシム・デュ・カンは処刑人についてこう書いた。「人々はもう彼に、媚薬や不思議な軟膏を作るための死体の脂を求めはしない。だが彼は依然として、暗く、ひどく恐れられた人物である」。
そして公開処刑そのものが消えた。イングランドは一八六八年に公開処刑を廃止した。スウェーデンは一八七六年五月十八日の二件を最後に、三年後に公開処刑を禁じた。舞台がなくなれば、舞台に集まっていた病人もいなくなる。
とはいえ、上から順に消えていったのであって、一斉に終わったわけではない。教養層が屍薬をやめたあとも、民衆のあいだではしぶとく残った。一八四三年、ハノーファーのシュトックハウゼンでは、当局がてんかん患者に血を飲むことを許可せず、「その病には効果がない」と明言している。当局が説明しなければならないくらいには、まだ一般的な要求だったということだ。そして最後の要請は一九〇八年。
ドイツのある町で、女性殺人犯の処刑の日、隣村から来た老女が群衆をかき分けて、警備の役人に死刑囚の血を少し分けてくれと頼んだ。てんかんを患う若い親戚の娘のためだった。
ライト兄弟が飛んでから五年後の話である。
奇妙な尾ひれもある。人間の脂は、十九世紀末から「フマノール」という商品名で、ドイツで注射用の滅菌液として製造された。一九〇九年、傷跡の外科的治療、創傷消毒、創部の再手術に導入されている。治癒成績が振るわず、脂肪塞栓の事故が起きたため、一九二〇年代に廃れた。屍薬の最終形態が、近代的な注射剤として二十世紀に姿を現していたわけだ。
東アジアにも人体薬はあった、が理屈が違う
比較のために東アジアを覗いておきたい。ここに軸足を置くつもりはないので、手短にいく。
中国の場合、決定版は李時珍の『本草綱目』(一五九六年成立)である。その最終巻、第五十二巻がまるごと「人部」、つまり人体由来の薬にあてられている。収録は三十七項目。髪、爪、歯、耳垢、乳、尿とその沈殿物を処理した秋石、胎盤、人骨、天霊蓋(頭蓋の頂部)、人胆、人肉、そして木乃伊、つまりミイラまで並ぶ。ヨーロッパとメニューが驚くほど似ている。
だが決定的に違うのは、著者の態度だ。李時珍は序で「後世の術者たちは骨、肉、胆、血にいたるまで薬と称した。まことに不仁である」と書き、収録はするが、残酷で汚らわしいものは詳述しない、と宣言している。人骨の項では「昔の人は野ざらしの骨を埋めるのを仁徳とした。それなのに術者は利欲のために人骨を集めて薬にする。医の道がそんなものであってよいのか。犬でさえ犬の骨は食わない。
人が人の骨を食ってよいのか」と怒っている。人肉の項では、親が重病だからといって我が子の肉を食えるものか、愚か者のすることだ、と切り捨てた。三十五の人体薬のうち十二については、処方をあえて記していない。
つまり中国には、人体薬を「不仁」として批判する強い倫理的言語が最初から用意されていた。ヨーロッパの屍薬批判が主として「効かない」だったのと対照的だ。日本にも刑死体から採った人胆をめぐる有名な話があるが、ここは別の記事の領分なので深入りしない。ひとつだけ言えるのは、いずれも「刑死者の体には特別な力がある」という感覚を共有しつつ、それを正当化する理屈がまるで違う、ということだ。
ヨーロッパの屍薬を支えたのは、魂と血の生理学、キリスト教の身体観、そして化学者たちの実験室だった。だからこそ、それは民間療法ではなく学問になり、薬局方に載り、関税がかかり、国王が自分で蒸留するところまで行った。同じ材料でも、載る理屈が違えば行き先はまったく変わる。
なぜこれは「野蛮」ではなく「医学」だったのか
ここまで来て、最後に正面から考えたい。なぜヨーロッパ人はこれを人食いだと思わなかったのか。
まず、思っていた人もいる。アレクサンドリアのあの商人は「キリスト教徒が死者の体を食べたがるのが不思議でならない」と言った。パレも「エジプトの最下層の者や絞首された者の腐った肉片を、患者に飲み込ませている」と同業者を罵倒している。だが大多数にとって、これは食事ではなかった。薬だったのだ。
その線引きを可能にしたのが、三つの装置だと思う。
ひとつは加工である。生の肉を噛むのと、乾かして粉にして没薬をまぶして酒精に漬けて蒸留したものを七滴たらすのとでは、行為の意味が違う。パラケルスス派の化学者たちは、手間のかかる錬金術的な工程によって、死体を「素材」から「調剤」へと格上げした。原料の由来は、工程の向こう側に隠される。ここは現代のわれわれもまったく他人事ではない。加工されたものの出所を、われわれは日常的に忘れている。
ふたつめは、新世界という比較対象だ。同じ時代、ヨーロッパ人はアメリカ大陸の「食人族」の話に夢中になっていた。生で食う野蛮人と、調剤して服用する文明人。この対比があったから、自分たちの行為は別物として棚上げできた。リチャード・サグが著書『ミイラと人食いと吸血鬼――ルネサンスからヴィクトリア朝までの屍薬の歴史』(二〇一一年刊、二〇一五年に第二版)で突きつけたのは、まさにこの点だ。
彼の言い方を借りれば、本当の人食いはヨーロッパ人のほうだった、ということになる。しかもヨーロッパの人食いは、科学と出版と交易網と教育された理論という、当時の最強の装備をまとっていた。
みっつめは、宗教である。ここが一番きわどい。カトリックの聖体拝領は、パンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わるという教義のもとで行われる。人の肉を口にすることで、霊的な健康を得る儀式が、社会の中心に堂々と据えられていたのだ。ルイーズ・ノーブルは『初期近代文学・文化における医療的人食い』でこう指摘する。一方は身体の病を、もう一方は魂の病を治すために投与される。
どちらも、過去の生の本質が現在の生に取り込まれることで薬効を発揮するという信念に基づいている。だからカトリック圏では聖体の観念が人肉薬への抵抗を弱めたし、プロテスタント圏では逆に、聖体拝領に参加せずに肉の力を得る方法として屍薬が機能した可能性がある、というのがノーブルの見立てだ。
そして聖遺物がある。聖人の骨、聖人の血。それに触れれば病が治ると信じられ、教会がそれを保証した。処刑された罪人の体を求める行為は、構造としてはこれと同じだった。研究者のウナ・マキルヴェンナは、カトリック地域でもプロテスタント地域でも同じように刑死体の力が信じられていたことを示し、これは「代替の聖遺物」として機能していたと論じている。
ちなみに一六四九年に処刑されたチャールズ一世の血を布に取った人々にも、多くの治癒が起きたと語られた。冒頭のチャールズ二世が屍薬を作り、その父チャールズ一世が屍薬にされた、というのは冗談みたいだが、本当の話である。ついでに言えば、祖父にあたるジェームズ一世は屍薬を拒んでいた。三代でこれだけばらつく程度には、当時の常識だったわけだ。
要するに、屍薬は迷信の暗がりから生えてきたのではない。当時もっとも先端的だった生理学、もっとも権威のあった神学、もっとも発達していた交易網、そして生まれたばかりの実験化学。この四つが交わる、明るい場所に立っていた。ミケランジェロやティツィアーノやシェイクスピアやベン・ジョンソンと同じ時代だ。
人類史上屈指の建築や絵画や彫刻や詩や劇や合唱曲が生まれた数十年に、司祭と医師と君主が、もっとも強力なタブーのひとつをごく普通に踏み越えていた。
ドイツの町でベートーヴェンが鳴り、やがてショパンになり、シュトラウスになっていくあいだじゅう、同じ国の広場では、病人が湯気の立つカップを口に運び、血まみれのハンカチが処刑台から手渡されつづけていた。文明と野蛮が別々の場所にあると思っているなら、この二つが同じ町の同じ週に起きていたことを思い出したほうがいい。
薬棚の奥にいたのは、いつも誰かの体だった
この話でいちばん気味が悪いのは、絞首台でも倉庫でもないと思う。ラベルだ。
「ムミア」と書かれた木の壺。「アクスンギア・ホミニス」と書かれた陶器。「ウスネア・クラニイ・フマニ」と書かれたガラス瓶。ドイツやスイスの薬学博物館に、いまも並んでいる。整った書体で、きちんと分類されて、ほかの薬と同じ棚に、同じ間隔で置かれていた。誰かがそれを毎朝ほこりを払い、在庫を数え、注文書を書き、帳簿につけていたのだ。
制度になった残酷さは、悲鳴をあげない。関税表に載り、薬局方に載り、王立協会の会員が製法を売り、国王が実験室で蒸留し、処刑人が納品書を切る。そのどの段階にも「これはおかしい」と叫ぶ場面がない。おかしいと言ったパレのような人間は、変人扱いされて終わった。世は欺かれることを欲する、と彼が書いたのは、たぶん怒りではなく疲れだったのだと思う。
そして終わり方も静かだった。誰かが人道に目覚めて禁じたわけではない。効かないとわかったから、原料が尽きたから、乾きが遅くて色が変わるから、供給元の制度が変わったから。倫理ではなく、効率と在庫の問題として消えていった。一九六四年にロンドンの画材屋が「ミイラを切らしまして」と言ったあの一言が、三百年の終着点だというのが、いかにもこの歴史らしい。
エジプトの人々は、魂がいつか戻ってくる日のために体を残した。戻る先が薬局の壺と絵の具のチューブとロンドンの倉庫だとは、誰も思っていなかった。トマス・ブラウンは一六五八年の『壺葬論』で、彼らしい冷たく美しい一文を残している。カンビュセスと時が見逃したエジプトのミイラを、いまや強欲が食い尽くしている。ミイラは商品となり、ミツライムは傷を癒し、ファラオはバルサムとして売られている、と。
三百五十年以上前に書かれた皮肉が、いまだにこの話の要約として一番よくできている。それはたぶん、この話がまだ完全には終わっていないからだ。われわれはいまも他人の体を移植し、他人の血を輸血し、他人の細胞から薬を作っている。違いは理屈と同意と制度であって、材料ではない。
屍薬の歴史がぞっとするのは、それが遠い野蛮だからではなく、線の引き直しがどれほど簡単に、どれほど真顔で行われるかを見せてくるからだと思う。
薬棚の奥から、誰かがこちらを見ている。ラベルは、いつもきれいに貼られている。
