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八十五歳の女が、四十五年そこに住んでいる――ガーナ北部「魔女キャンプ」の実像と、大統領が署名を拒んだ法案

泥の小屋の戸口に、四十五年座っている人がいる

ガーナ北東部、ガンバガ。

泥をこねて積み上げた壁に、草を葺いた屋根。その戸口に、小さなプラスチックの腰掛けを置いて、ひとりの女が座っている。裸足の指先が、土の床をゆっくりとこすっている。着ているものは埃と時間でくたびれきっていて、もとの色がよく分からない。

名前をバチャリバノヤ・アナベリという。八十五歳。この集落で最も年長で、そして最も古い住人のひとりだ。

「ここに四十五年住んでいる」と彼女は言う。

四十五年。日本でいえば、昭和の終わりごろに家を追い出されて、令和の今日までずっと帰れていない、ということになる。彼女がここに来た理由はただひとつ、「魔女だ」と名指しされたからだ。

夫が死んだ。それだけのことだった。夫にはもうひとり妻がいて、その妻の子どもたちが、一族に降りかかる不運のすべてをアナベリのせいにした。彼女には自分の子がいなかったのだ。一九九七年からガンバガの女たちを支えてきた長老派教会の牧師グラディス・ラリバ・マハマは、経緯をこう説明する。

共妻の子が病気になるたび、家族はそれを彼女のせいにした。

やがて、そのうちのひとりが死んだとき、彼女が殺したということにされ、ガンバガへ連れてこられた、と。

いま彼女は、同じように家族から切り捨てられた八十人ほどの女たちと暮らしている。朝、水を汲む。料理を分け合う。誰かの孫の面倒をみる。塀はない。

門もない。それでも彼女たちは出ていかない。

これは中世ヨーロッパの話ではない。二〇二〇年代の話だ。そしてガーナという国は、西アフリカのなかでも比較的まともに選挙をやり、経済も回っている。首都アクラには高層ビルもモールもある国だ。その同じ国の北部に、「魔女だ」と言われた人間が逃げ込むための集落が、いまも五つある。

俺はこの話を、最初「そういう風習が残っている地域がある」くらいの温度で読み始めた。読み進めるうちに、だんだん背筋が寒くなってきた。怖いのは呪いじゃない。怖いのは、誰かが見た夢と、鶏が倒れた向きと、隣人が欲しがった土地だ。それだけで人間ひとりの人生が終わる、その手続きの軽さなんだよな。

塀のない集落――「魔女キャンプ」とは何なのか

まず、何がどこにあるのかを整理しておく。

ガーナ北部、ノーザン州と北東州にまたがる地域に、通称「魔女キャンプ」と呼ばれる集落が点在している。現在も機能しているのはガンバガ、ククオ、グナニ、クパティンガの四つ。これらは「伝統的キャンプ」と呼ばれ、いずれもティンダナと呼ばれる土地司祭が所有する土地の上にあり、その司祭が運営している。これに加えて、グシェグにカトリック教会が運営する施設がひとつある。合計で五つだ。

かつては六つあった。ボニャセのキャンプが二〇一四年に、ナブリのキャンプが二〇一九年から二〇二〇年にかけて閉鎖された。どちらも政府とNGOの合同作業による「解散」で、住人は元の共同体や別の共同体に戻されたことになっている。ただ、この「解散」が本当に救いだったのかどうかは、後で書くようにガーナ国内でいまも激しく揉めている論点だ。

キャンプと言っても、有刺鉄線も監視塔もない。アムネスティ・インターナショナルの調査団が現地で確認しているように、そこには境界を示す壁も柵もひとつもない。ただ、地元の人間は、どこからどこまでがキャンプなのかを全員知っている。見えない線が引かれているのだ。

規模も性格もそれぞれ違う。

グナニはノーザン州イェンディ県にあり、四つのなかで最大だ。ここは男性の「魔法使い」が最も多く送られてくる場所でもある。アムネスティが二〇二四年五月に訪ねたとき、大人だけで二百二十九人。うち女性百四十一人、男性八十八人。これに加えて人数の把握できない子どもたちがいた。

住人はダゴンバ、コンコンバ、チェコシといった民族が中心で、ひとりひとりが草葺きの泥小屋を持っている。

ククオはノーザン州ナヌンバ南県。二〇二四年四月の時点で、告発された女性が百七十八人。四十歳未満はひとりもおらず、平均すると六十歳以上だった。ここが少し変わっているのは、女たちが集落の他の住民と物理的に隔てられていないことだ。同じ土地に混じって住んでいる。

見分けがつくのは家の形だけで、告発された女は円錐形の草屋根の小屋に住み、それ以外の住民は角のあるしっかりした屋根の家に住む。

それだけの差で、誰が「そちら側」かが一目で分かる。

ガンバガは北東州東マンプルシ県。最も古く、最も有名だ。二〇二四年四月時点で大人が八十八人、うち女性八十五人と男性三人。それに子どもが三十三人いた。泥と草でできた小屋が八十三、セメント造りで三部屋ずつの棟が二十二。

住人の年齢は四十歳から八十五歳、大半が五十代から六十代半ば。三十五歳くらいで来てそのまま歳をとった女もいる。

ここは町の外れではなく町の真ん中にあり、そのぶん地域社会からの受け入れがましで、家族が会いに来やすい。

クパティンガはノーザン州グシェグ県。四つのなかで最も小さく、最も辺鄙だ。村の中心から車で十五分ほど離れた場所に、三十五ほどの円形の小屋が固まっている。トタン屋根で、電球がついている家もある。二〇二三年十二月にアムネスティが訪ねたとき。

そこにいたのは六十歳から九十歳の女性十五人と、三歳から十五歳の子ども九人だけだった。

子どもたちはたいてい孫だ。

ここで押さえておきたいのは、この「キャンプ」という呼び名が外から付けられたものだという点だ。ガンバガの地元マンプルシ語で、この区画はポアニャーンクラ・フォングと呼ばれている。直訳すれば「年寄り女の一角」。ダゴンバ社会の村は、酋長の一角、イマームの一角、太鼓叩きの一角というふうに機能別の区画に分かれている。「年寄り女の一角」もその並びのひとつにすぎない、という理屈だ。

クパコラフォン、つまり「年配女性の居住区」という呼び方を使う研究者もいる。

現地で調査したある人類学者は、初めてガンバガを訪れたときの自分の驚きを正直に書いている。ジャーナリストの記事で散々ひどい書かれ方をしていたので、さぞ異様な光景だろうと身構えていた。ところが行ってみると、告発された女たちの住まいは他の村人の家と大差なく、囲いも障害物も何もない。違いは、彼女たちの敷地が少し小さいことと、たいてい青い鶏小屋があることくらいだった。

女たちは村のどこでも歩き回れるし、どこででも働ける。

つまり、絵に描いたような「収容所」ではない。もっと厄介な何かだ。アクラにあるサンネ研究所の所長ジョン・アズマーの言い方が、たぶん一番正確だ。

「キャンプは避難所でもなければ監獄でもない。その中間にある何かだ」

三百年前、ひとりのイマームが処刑を止めた

ガンバガのキャンプがいつ始まったのか、正確な年は誰も知らない。ただ、地元に伝わる起源譚はかなり具体的で、しかも意外な話だ。

マンプルシ、ダゴンバ、ゴンジャといった北部の諸民族には、かつて「魔女」に対する死刑があった。公開処刑だ。歴史人類学の研究によれば、マンプルシには魔女を処刑するための場所が複数あり。それは王や王子の妻との姦通と並ぶ、見せしめ型の重罪処理だった。つまり、告発された人間は追放されるのではなく、殺されていた。

そこに、ひとりの男が通りかかる。

ナイジェリアから来たハウサ人のイスラーム法学者、イマーム・ババ。マンプルシの王であるナイリに表敬訪問した帰り道、ガンバガにさしかかったとき、彼は男たちの一団が赤ん坊を背負った女を引き立てて丘のほうへ向かうのを見た。魔女として処刑しに行くところだった。

イマーム・ババは止めたのだ。殺すな、と。自分がこの女に薬を飲ませてやる、そうすれば魔力は無効になり、もう誰にも害を与えられなくなる、と。

女と赤ん坊は彼に引き渡された。彼はクルアーンにもとづく調合薬を与え、自分の家に住まわせた。そして噂が走ったのだ。マンプルシの領土じゅうに、魔女の力を消せるマラム(イスラーム学者)がガンバガにいる、と。以来、人々は疑わしい女を殺すかわりに、ガンバガのイマーム・ババのもとへ送り込むようになった。

やがてイマーム・ババはハウサランドへ帰る。去り際、彼は自分が匿っていた女たちを、ガンバガの首長ガンバラナに引き渡した。ガンバラナは土地司祭でもあったが、クルアーンは読めない。だから彼は自分のやり方、つまり祠を使う方法で、連れてこられた人間が魔女かどうかを判定するようになった。そして受け入れた女たちは、その見返りとして彼の畑で働いた。

この起源譚が史実としてどこまで正確かは分からない。一七三〇年代、マンプルグ王国のナア・アタビアの治世(一七一二年から一七三七年)に成立したという説を採る研究者もいて、それだと約三百年の歴史ということになる。一方で、十九世紀成立説、あるいは「百年以上前」という控えめな表現をとる文献もある。いずれにせよ、植民地化より前からあったことだけは、ほぼ一致している。

面白いのは――というか、皮肉なのは――この集落が、もともと「殺すのをやめさせるため」に生まれた場所だという点だ。処刑の代替として作られた避難所。それが三百年後、国連や国際人権団体から「人権侵害の現場」と名指しされている。避難所が牢獄に見えてくるまでに、三百年かかったわけだ。

イギリス人が禁止して、かえって広がったもの

植民地期に何が起きたかも押さえておきたい。ここが「昔からずっと同じ」ではないことが分かるからだ。

一八七四年、イギリスがゴールドコーストを植民地として支配下に置いたとき、当局は魔女を特定するための二つの占いを禁止した。ひとつは「死体運び」。布でくるんだ遺体を数人で担ぐと、死因が呪術であった場合、死者の霊が担ぎ手をそっと導いて犯人のところへ連れていく、とされた占いだ。もうひとつは毒を用いた神明裁判。イギリスは魔女殺しを起訴し、他人を魔女と告発した者に罰金を科した。

結果はどうなったか。信仰は一ミリも揺らがなかった。そのかわり、植民地じゅうに新しい「魔女探しの祠」が次々と湧いた。サクラブンディ、アベレワといった祠信仰が北部から南へ流れ込み、禁じられた分だけ非公式に膨張したのだ。一九三二年には植民地政府が「魔女・魔法使い発見令」を出して公開占いの一部を犯罪化するが、これも同じだった。

つまり、上から禁止をかけると信仰は地下に潜り、形を変えて広がる。この百年前の教訓は、いまガーナ国会で審議されている法案の議論に、そのまま影を落としている。

何が「魔女の証拠」になるのか

ここが、この話で一番肌が粟立つところだ。

何をもって「あいつは魔女だ」と決まるのか。裁判もなければ証拠法もない。アムネスティ・インターナショナルが四つのキャンプで九十三人から聞き取った内容を読むと、引き金のパターンはだいたい四つに分類できる。

ひとつめ、夢。

「隣人が、夢に三人の人間が出てきたと言った。でも顔が見えたのは私だけで、私が彼を殺そうとしていた、と。あの人は私に村にいてほしくない。だから告発したんだ」。グナニのキャンプの女性が語った言葉だ。

「夫の兄弟の息子に告発された。彼は眠っているとき、私の顔が見える、夢のなかで私が自分を追いかけてくる、と言う」。ガンバガのキャンプの女性。

「ある日、叔母の孫娘が、夢のなかで私が魔女になっているのを見た、と言った」。これはガンバガに住むウニ・コルグという女性の証言だ。彼女の話は後でもう一度出てくる。

誰かが見た夢。それが証拠になる。反証は不可能だ。夢を見たかどうかは本人しか知らないし、夢の中身に反対尋問はできない。

ふたつめ、不幸な出来事。

「兄の娘が病気になった。それで兄が私を告発した。自分の兄が、私が一度も経験したことのないことで私を告発したんだ」

「夫の兄弟が息子を葬式にやった。その帰り道、息子はバイクで事故を起こしたのだ。それで私が事故を起こさせたと告発された」

「兄が言った。霊媒が、おまえが自分の息子を殺したと言っている。だからこの家を出ていけ、さもなければ何かするぞ、と……あれは共同体の長老たちと酋長で仕組んだことだと思う。全員男で、女は私ひとりだった。告発したのが実の兄だったから、みんな兄の側についたのだ。

私の味方はひとりもいなかった」

子どもが病気になる。誰かが事故に遭う。作物が実らない。人が死ぬ。北部のいくつかの共同体では、人が死ぬと霊媒のもとへ行き、「誰のせいで死んだのか」を突き止めるのが習わしになっている。

誰かのせいで死んだ、という前提が先にあるのだ。老衰も、マラリアも、脳卒中も、その前提の中では「犯人がいる死」になる。

みっつめ、妬みと欲。

「弟が霊媒のところへ行って、戻ってきて、霊媒がおまえが兄弟を殺したと言っていると言った……私は弟と揉めていた。私は二人の子どもと自分の家で暮らしが安定していて、ちゃんと食べられていた。弟は苦労していたから、妬んでいたんだ」

「末の息子が私を呪術呼ばわりした……息子は私の財産を売り払い、家から荷物を出せと言った。私の許可なく家を売ったんだ」

「自分の努力で、レンガの五部屋の家を建てた。そこから妬みが始まった。姪のひとりが魔女と告発されたので、私はその部屋のひとつに彼女を住まわせたのだ。すると弟の息子に言われた。なぜ魔女に部屋を貸すんだ、あんたも魔女だからだろう、しかも俺は夢であんたを見た、あんたは魔女だ、と」

「特に働き者で、まだ体が丈夫でうまくやっている女には、いつも何か言いがかりをつける算段をしている……金を借りておいて、返すと言いながら、逆に告発してくる人間もいる」

「酋長が私の娘たちを欲しがった。娘たちはまだ学校に通っていた。私は娘のひとりも酋長にやるのを拒んだ。ある日、共同体で子どもが病気になり、酋長が私を告発した。それで全部が始まった」

告発の相手が、土地や財産や労働力をめぐる争いの相手であることは、ガーナの研究者のあいだでは繰り返し指摘されてきたのだ。アクションエイドが二〇一二年に出した報告では、ククオのキャンプの住人の七割以上が、夫の死後に告発されて追放されていた。夫が死ぬ。相続が発生する。未亡人が「魔女」になる。

そして土地は残った親族のものになる。この順番だ。

よっつめ、「歳をとった女の体」そのもの。

アムネスティの報告書には、読んでいて胸が悪くなる一節があり、黄色っぽい、あるいは赤みがかった目。歯が抜けていること。しぼんだ腹。顔の皺。

曲がった背中だ。垂れた乳房。こうした特徴が「奇形」「異常」とみなされ、魔女の徴として扱われる。全部、ただ歳をとっただけの体だ。

認知症、統合失調症、うつ病の症状も引き金になる。独り言を言う。人をやたらと詮索する。そういう「変わった」ふるまいは、ガーナ保健サービスの元主席精神科医が指摘したように、伝統的な共同体ではうつ病や認知症として理解される枠組みがない。だから別の名前がつく。

魔女、という名前が。

そして最も残酷なのはここだ。ある研究者はこう書いている。「地域経済に貢献しようと努力する高齢女性は魔女の烙印を押される。そして貢献しない高齢女性もまた、魔女の烙印を押される」。

つまり、逃げ道がない。働けば「なぜあの婆さんだけ稼いでいる」と言われ、働けなければ「あの婆さんは家の重荷だ」と言われる。夫に先立たれ、成人した息子がおらず、財産があり、口が達者で、体は老いている。この条件が重なった女性が、北部ガーナでは最も危険な存在なのだ。

ソンタバという北部の女性団体の関係者は、こう言っている。

「魔女告発の脅威のせいで、女たちは自分の共同体で歳をとるのを恐れている。共同体に貢献することさえ、意見を言うことさえ恐れている。規範に逆らったという理由で告発されうると知っているからだ」

名指しされた日に、何が起きるか

告発は、たいてい家族の中から始まる。共同体の誰か、あるいは霊媒、祠の司祭、自称預言者から来ることもあるが、最初の一撃は身内であることが圧倒的に多い。そして告発する側の多くは男だ。

そこから先の展開は速い。アクションエイドのガーナ事務所の元代表は、こう言っている。

「魔女だという申し立ては、たいていあっという間に起きる。多くの女性は、本当に何も持たずに家を出る。足にサンダルすら履いていないこともある。殴られているから、傷や痣があることもある」

殴打、投石、放火、毒。アムネスティの報告書はこう列挙していて、家を焼かれることもあれば、集団で殴られることもある。生き延びた者は共同体から追放される。

ドキュメンタリー映画『ガンバガの魔女たち』の監督ヤバ・バドゥーが二〇〇〇年代半ばにガンバガで聞き取った証言のなかに、アミナ・ウンバラという女性のものがある。彼女はその朝、体調を崩していた。強い十一月の陽射しの下でキビの落穂を拾ってから、早めに小屋へ戻ってきたところだった。震えながら、彼女は普段の間や躊躇なしに、一気に話したのだ。誰かに促されたわけでもなく、言わずにいられないというふうに。

夫が死んだので、実家に戻ることにした。兄たちは受け入れてくれて、部屋をひとつくれた。ある日、雨が降りそうな空模様だったのだ。みんなで走って屋根の下に入った。自分のものだけが取り残されていた。

兄が出てきて――そこから先、彼女は自分が「魔女」と呼ばれながら向こう側に放り出される。まる一日と一晩そこに倒れたまま動けず、ようやく起き上がる力が出てからガンバガまで歩いた、と語っている。

バドゥーはこの話を聞いて、自分が撮るべきものが何かを理解した、と書いている。彼女の分析はこうだ。証言から浮かび上がる「魔女」の像は、しばしば、はっきりとものを言い、譲らず、意志の強い女だ。周囲と衝突することを厭わず、男の権威に逆らうことができる女。「自分の分をわきまえない」女。

そして、その女が正当な怒りを表明した直後に共同体で何か悲惨なことが起きると、集団暴力と追放という最終手段が発動する。異議を唱える声が黙らされ、共同体から取り除かれる。父権的な秩序が、そうやって書き直される。

キャンプまでの道のりも、決して安全な逃避行ではない。ある女性は、生後二か月の乳飲み子を抱えてガンバガに着いたときのことをこう話している。

「赤ん坊にかける布と、自分が着ていたもの。ここへ来たとき、私が持っていたのはそれだけだった」

鶏がどちらを向いて倒れるか

キャンプに着いた人間は、まず「判定」を受けることになる。

やり方は各キャンプでほぼ共通していると記録されている。土地司祭が鶏あるいはホロホロ鳥を屠り、その鳥がどういう姿勢で息絶えるかによって、その人間が魔力を持つかどうかが決まる、とされる。

ここで念を押しておきたいのは、これは俺が「こうやって判定します」と手順を紹介しているのではない、ということだ。あくまで、外部の調査者や記者が現地で聞き取り、記録として残した内容がこうだ、という話にすぎない。

そして、その記録がまた、面白いくらいに食い違っている。

グナニのキャンプを統括する伝統的宗教指導者アラサン・シェイは、アルジャジーラの取材にこう説明している。ホロホロ鳥か鶏が死にかけているとき、その体の向きが結果を決める。仰向けに倒れて頭が上を向いていれば、その女は魔術を持っている。うつ伏せに倒れれば、無実だ。

ところがヤバ・バドゥーがガンバガで聞いた説明は、これと真逆だった。ガンバラナが鶏を屠り、うつ伏せに死ねば魔女、翼が空を向いて死ねば無実で、潔白が認められる。

ナイジェリアの日刊紙ザ・サンがガンバガを取材したときに、現地で何度も判定に立ち会ったという地元関係者が語った内容も、バドゥー版と同じだ。腹ばいに横たわれば魔女、仰向けなら魔女ではない。そしてこの人物はこう付け加えている。ガンバラナが「あんたは魔女ではない」と口で言っても、告発した側が食い下がることがある。そういうときに鶏を屠ると、ちゃんと仰向けに倒れるんだ、と。

アムネスティの報告書は、四つのキャンプに共通する記述として「仰向けに倒れれば魔力を持つとみなされる」と書いている。

つまり、判定の記号の意味すら、場所によって、語り手によって、逆になる。にもかかわらず、その結果は人ひとりの人生を確定させる。バドゥーは映画のなかで、この百年、女たちの運命は「鶏がどう死ぬかによって」決められてきた、と言い切っている。

判定のあと、告発された人間は司祭が用意した飲み物を飲む。「浄め」のためのものだとされる。ただ、その中身や作り方をここで詳しく書くつもりはない。動物の血や土などが混ぜられていると報じられている、という以上のことは、記録としても曖昧だし、再現されるべき類のものでもないからだ。

話の肝は、この儀礼のあとに何が起きるかのほうだ。

まず、判定が「無実」と出ても、大半の人は家に帰らない。帰れない。共同体が受け入れないからだ。グナニのアラサン・シェイ自身が、こう認めている。

「たいていの場合、女が告発された共同体は、彼女を迎え入れる用意がない」

そして、キャンプを正式に出ていくには、もうひとつ別の「浄め」の儀礼を受ける必要がある。これには金がかかる。動物の供犠と、司祭への謝礼。一千ガーナセディを超えることが多い。日本円でいえば一万数千円、ドル換算で九十ドルほど。

たいした額ではないと思うかもしれない。だが、火のない村から着の身着のままで逃げてきて、薪を一束二セディで売って暮らしている人間にとっては、途方もない金額だ。

安全に帰れるはずなのに、金がなくて帰れない女性がいる、とサンネ研究所のアズマーは言う。

そして最悪なのは、金を払って儀礼を済ませても、家族と共同体が受け入れを拒むケースがあることだ。アズマーの言葉がすべてを言い当てている。

「共同体のほとんどは、その悪魔祓いを信じていない。一度魔女になったら、永遠に魔女だからだ。彼らは診断のほうは信じる。でも治療のほうは信じない」

診断は信じるが、治療は信じない。これほど残酷に閉じた論理もそうそうない。

五百三十九人という数字

感情論に流されないために、数字を並べておきたい。

サンネ研究所が二〇二一年五月に五つのキャンプで実施した実地調査によれば、当時そこにいた「直接告発された当人」は合計五百三十九人だった。内訳はこうだ。グナニが百九十六人(女性百五十八人、男性三十八人)、ククオが百三十九人(女性百三十七人、男性二人)、グシェグが九十九人(全員女性)、ガンバガが七十八人(女性七十七人、男性一人)、クパティンガが二十七人(全員女性)。

女性は合計四百九十八人。全体の九十二パーセントを超える。ここに扶養家族や同居する子や孫は含まれていない。

同じ研究所が六つのキャンプを対象に集計した別の数字では、合計五百七十人(男性四十一人、女性五百二十九人)となっている。いずれにせよ、九割以上が女性であるという事実は動かない。

民族構成も偏っている。この調査では、住人の約六割がコンコンバ、約三十七パーセントがダゴンバで、マンプルシとビモバがそれぞれ一パーセント程度。アズマーはこの点にこそ、この問題の不可解さがあると指摘する。魔女告発そのものはガーナの全州、ほぼ全民族で起きていて、北部にかぎっても、告発は広く分布している。

にもかかわらず、キャンプが存在するのは旧ノーザン州だけである。キャンプの住人の九十五パーセント以上はたった二つの民族から来ている。何がそんなに複雑で、国家はこれに手をつけられないのか、と彼は問う。

そして、この数字は減っていない。

アムネスティが二〇二三年から二〇二四年にかけて現地で確認した人数を、二〇二一年の数字と並べると、グナニは百九十六人から二百二十九人へ、ククオは百三十九人から百七十八人へ、ガンバガは七十八人から八十八人へ、それぞれ増えている。減ったのはクパティンガ(二十七人から十五人へ)だけだ。二〇二五年初頭にガーナ国内の報道が使った推計は「五つのキャンプに約六百人」。男女比はおよそ一対十二である。

滞在の長さも、この問題の本質を露わにする。

ガンバガのアナベリは四十五年。ククオのマリアマという八十代の女性は一九九四年ごろから。ガンバガのゼナイブという七十代の女性は二十五年。バドゥーが二〇〇四年に会ったティアという女性は、その時点ですでに二十五年以上そこにいた。クパティンガのラマタという七十代半ばの未亡人は十三年。

これは「一時避難」ではない。終身刑だ。

アクションエイドは二〇一二年の報告書のなかで、この点をきわめて率直に書いている。魔女キャンプは事実上、裁判もなく、控訴の権利もなく、しかし終身刑を言い渡された女たちの刑務所である、と。そしてその同じ報告書が、キャンプは同時に避難所でもある、と書いている。この二重性こそが、この問題を二十年以上こじらせている。

もうひとつ、暗い数字を挙げておく。アクションエイドが二〇〇八年に実施した調査では、共同体に戻された女性の四割が、一年以内にキャンプへ舞い戻っていた。理由は、また告発されたからだ。

キャンプの一日は、水汲みから始まる

では、そこでの生活は具体的にどういうものなのか。

水。ククオのキャンプでは、住人はオティ川まで毎日およそ三マイル、五キロ近くを歩く。行きは空の容器だが、帰りは水を満たした重い甕を担いで坂を登る。八十を超えた女がこれを毎日やる。アムネスティは、山がちな地形を何時間も歩いて川まで水を汲みに行かざるをえない、と報告している。

国には全国民に給水を保証する政策があるが、キャンプに水道は届いていない。

食料。安定した供給は存在しない。多くの女性は他人の畑を手伝い、その報酬として収穫物を分けてもらう。クパティンガでは、収穫期に人の畑で働いて、十五キロほどの盥一杯の食料を得る。収穫が終わった畑に入り、取り残されたものを拾う。

市場の立つ日に行って、袋の詰め替えでこぼれた穀粒を集める。「調子のいい市の日なら、二、三杯分の穀物になる」と語った女性がいる。シアバターの実やダワダワの実を拾う者もいる。

それでも足りないときは、物乞いに回る。

薪。これが現金収入の主力だ。グナニのガリという五十代の女性は、こう話している。

「私はここでひとりで暮らしていて、仕事らしい仕事はない。小さなことをするだけ。酋長の奥さんの畑仕事を手伝う。金を作るのに苦労する。

薪を運んで売る。遠くまで行く。しっかりした薪が欲しければ川を渡らないといけない。片道三時間だ。小さな一束で二セディ。

疲れるから、一度に五束か六束しか取れない……今朝から何も食べていない。お腹は空っぽ。午後と夕方に何か食べるものを探すから、一日二回くらいになる。

酋長のところへ行って食べ物をくださいと言うのは、恥ずかしい」

ガンバガでは、教会の「帰郷プロジェクト」が石鹸やビーズ作りを教え、女性たちがそれを売っている。ただ、それでも足りない。四十五歳くらいのある女性は、複数の仕事を掛け持ちしている。薪を運んで売ると一束五セディ、他人の作った石鹸を二百セディで売れば、自分の取り分は二十セディ。残りは作った人のものになる。

住居。ガンバガ、ククオ、グナニで、女たちが口をそろえて訴えるのは同じことだ。床を直してほしい。雨季になると屋根から水が入ってくる。二〇二二年にグナニに来たマドイブという女性は言う。

「着いたときと同じ小屋にいる。この小屋はよくない。雨が降ると屋根が漏るし、床も直さないといけない。私は床に寝ている」

クパティンガの小屋はトタン屋根で、十年以上前に国際NGOのワールドビジョンが建てたものだが、すでに古びている。二〇二二年には、住人が土地を所有する司祭に家賃を払わされているという報道が出た。サンネ研究所の所長も、二〇二三年末の時点で同じことを証言している。地方自治体はこれを二〇二五年二月に否定していて、どちらが正しいのかは、外からは分からない。

医療。ほとんどの住人は国民健康保険に入っていて、ただ、保険でカバーされない薬は自費だ。アムネスティが聞いた、ある女性の言葉が忘れがたい。

「腰が痛い。立ち上がれない……体に発疹が出ていて、高血圧もある。医者はいる。でも行って処方箋を書いてもらっても、それを買えない。

だから処方箋を持って帰って、家に置いてある」

処方箋を家に置いてある。買えないから。

金銭支援。ガーナには「貧困削減のための生活支援プログラム」という、極貧世帯向けの現金給付制度がある。六十五歳以上で支えのない高齢者も対象だ。キャンプの住人も制度上は受給資格がある。ところが実際には、登録されていないために受け取れていない人が多い。

ククオでは二〇二三年八月になってようやく、キャンプの女性を「キャンプの住人」として個別に登録する作業が行われた。

それまでは、ただの「ククオ住民」としてまとめられていた。しかも支給は二か月ごとのはずが、遅れる。金額も生活を成り立たせるには足りない。二〇一八年には、世界銀行が資金を出すこの制度の受給者名簿から、キャンプの住人と児童養護施設の子どもたちの名前が外されていた、とアクションエイド側が指摘している。

そして、無償労働。キャンプの成り立ちそのものに、これは組み込まれている。一九六〇年代にガンバガで調査した人類学者スーザン・ドラッカーブラウンは、当時のキャンプが、酋長が紛争を調停する情報を集めるあいだ告発された人間を留め置く一種の「拘置所」として機能していたこと。そして女たちがそこで酋長のために労働を提供していたことを記録している。

イマーム・ババの起源譚にも、「かくまう見返りに畑で働く」という一文が入っている。三百年間、構造は変わっていない。

サンネ研究所が二〇二一年に発表した調査は、五つのキャンプで、性的・言語的・感情的な虐待、金銭的な搾取、無給の強制労働があったと報告している。救援物資が個人に流用されていたという指摘もある。アズマーは率直に言う。「キャンプでの虐待はひどすぎる」。無給労働、性的搾取、そして若い娘が結婚を強いられた例まで報告されている、と。

キャンプは避難所であり、同時に搾取の現場でもある。これが同時に成立してしまうのが、この問題の底の抜けているところだ。

一緒に来た子どもたち

見落とされがちだが、キャンプには子どもがいる。

追放されるとき、女は原則ひとりで出ていく。乳飲み子や小さな子だけは一緒に連れてこられる。だが高齢の女性の場合、逆のことが起きる。日々の仕事を手伝わせるために、孫娘がひとり、家から送り込まれてくるのだ。

アムネスティはガンバガとククオで、十六歳と十七歳の少女に話を聞いている。前者は祖母を助けるために送られてきた子。後者は告発された母親と一緒に来た子だった。男性が告発された場合は、家族ごと移ってくることが多い。結果として、キャンプには数百人規模で、女性と少女が本来の共同体から切り離されて暮らしている。

子どもたちは近くの村の学校に通うことを許されていて、ただ実際には、祖母の世話のために中退する子がいる。ガーナでは公立の初等・中等教育は無償だが、文具やノート、時に制服は家庭の負担だ。それが払えない。

ククオの女性はこう言う。

「私の子どもたちは学校に行っていない……あんなことになったとき、私の面倒を見る人間が誰もいなかったから、子どもたちを学校から引き上げるしかなかった。ビンビラで通っていたのに。上の子は中学までは終えたけれど、その先の学費が出せなくて、やめた。下の子は小学校の低学年でやめた。同じ理由で」

別のキャンプの女性は、もっとつらい話をしている。

「娘は学校に通っていたけれど、ここにいることになったので中退した……父親がもういないから自分が助ける、と娘のほうから言い出した。私に学費も何も払えないと分かっていたから。娘は人の畑を手伝って、その報酬に作物をもらってくる。私たちはそれで食べている」

ガンバガでは長老派教会が学校を運営しているので、子どもたちは比較的学校に通いやすい。クパティンガでは十人の子どものうち三人が小学校に在籍していて、高校はない。

そして、ガンバガのキャンプに六歳から住んでいる十六歳の少女に、「他の場所で暮らしたいか」と尋ねたときの答えが、この章の締めくくりとしてはあまりに重い。

「私がどこかへ行って、おばあちゃんを置いていったら、おばあちゃんは何もできない」

五つの声

統計は人を運ばない。ここからは、記録として公開されている証言のなかから、いくつかを読み物として紹介したい。

自転車のチェーンで殴られた女――ウニ・コルグ

ウニ・コルグは六十五歳。ガンバガのキャンプに十一年ほどいる。アムネスティが四つのキャンプで会った九十三人のうち、警察に被害を届け出た唯一の人物だ。

彼女が住んでいたのは北東州ナレリグ近くの村だった。

「あそこの村は完璧だった。でも出ていくしかなかったのだ。リンチされそうになったから。それまでは家族や共同体の人たちと幸せに暮らしていた……ある日、叔母の孫娘が、夢のなかで私が魔女になっているのを見た、と言った」

告発者の兄弟が、自転車のチェーンを持って彼女の家に来て、彼女を殴った。酋長は「キャンプへ行け」と助言したのだ。だが彼女はいったん家に帰った。そして翌日以降、告発者の兄弟による暴行が続いた。

「事件を警察に届けたのだ。でも警察は動こうとしなかった。加害者は私の腕を、肩を、顔を、血だらけになるまで殴った。目撃者が何人もいたのだ。私が泣いているのも見ていた。

娘も泣いていた。助けようとしてくれた人もいたのだ。その日のうちに破傷風のワクチンを打った」

彼女は商売がうまくいっていた。小売りでそれなりの暮らしを立てていたのだ。それでもリンチを避けるために、すべてを置いて村を出た。

彼女の証言で一番重いのは、警察に行った、という事実そのものだ。九十三人のうち、ただひとり。しかもその結果が、これだ。

「息子は後悔している」――アブドゥリア・メイリ

クパティンガのキャンプ。七十七歳の管理人アダム・ムサがニームの木陰に座り、女たちが落花生の殻を割るのを眺めている。女たちの顔から表情が抜けていて、会話も最小限だ。取材者がそう書いている。

彼の視線が届かない場所に移ると、女たちの口はようやく少しほどける。声は小さいままだが、それぞれの話が出てくる。

そのひとりが、六十八歳のアブドゥリア・メイリだ。ここに来て五年近くになる。八人の子を産んだ母親である。

きっかけは、彼女の兄弟が胃潰瘍と診断されたことだった。それで、彼女の息子が彼女を告発した。彼女はまず父親の家に逃げ込んだ。ところが息子はそこまで押しかけてきて、魔女だ、魔女だ、と言い続けた。

「泣いていた」と彼女は言う。

やがて父親が、おまえは出ていかなければならない、と告げた。そして息子が彼女をクパティンガへ連れてきた。

いま、彼女はこう語る。

「息子は私を告発したことを後悔していて、私はここでの暮らしが幸せではない」

息子はいま、母を家に戻そうとしている。しかし彼女は続ける。「でも、もう家族が私を受け入れてくれない」

告発した本人が後悔していても、もう戻れない。共同体の判断は、告発者の私的な感情とは別のところで固まってしまう。

二年会えない息子と電話で話す――フシェイナ・ドクルグ

グナニ村の外れのキャンプに、フシェイナ・ドクルグという女性がいる。未亡人で、五人の子の母だ。ここに来て六年になる。

末子が五歳のときに夫が死んだ。その後、甥が急死した。それで、村の酋長に魔女だと告発された。即日、追放されたのだ。いま彼女はひとりで暮らしている。

このキャンプには約百三十人がいるが、共同の畑はない。食べ物や金を得る手段は、近隣の農家が出す非正規の仕事しかない。日中、女たちは話をして、休んで、長い時間をやり過ごす。

窓のない小さな小屋のなかで、彼女は息子からの電話を受ける。二年以上会っていない息子だ。彼はタマレの大学に通っている。車で三時間ほどの距離だが、その距離と家計が、往復をほぼ不可能にしている。

電話で話しても、離れている痛みはたいして薄まらない。

「私は幸せではない。子どもたちがそばにいないから。ただ家に帰りたい」

でも帰れない。村人に危害を加えられるのが怖いからだ。

「恥をかいたのは向こうのほうだ」――キャンプを出た女

ここまで暗い話ばかりなので、ひとつ、出口のある話を書く。

六十歳くらいの女性が、ククオのキャンプに十一年いた。息子の死の責任を負わされ、故郷から追い出された人だ。

ククオでの暮らしで彼女がいちばん堪えたのは、水だった。胸に痛みがあって、川から水を担いで戻ることができなかった。それに雨季になると屋根が漏り、眠れなかったのだ。

アムネスティが二〇二四年四月に彼女に会ったとき、彼女はもうキャンプにはいなかった。ビンビラという町で一年ほど暮らしていた。故郷から三十六キロほど離れた町だ。兄弟と子どもたちが、ビンビラの酋長と話をつけ、子どもたちが彼女のために家を建てた。

「出られると分かったとき、私はすごく嬉しかった。子どもたちがククオの水の問題から私を引き離してくれたんだから。雨季には屋根が漏って、眠るのも大変だったし」

町の人は、彼女が魔女と告発された人間であることを知っている。それでも敵意は感じない。いまの家には水のタンクがあり、義理の娘や甥と一緒に暮らしている。

自分を告発した人間たちをどう思うか、と聞かれて、彼女はこう答えた。

「あの人たちは私を町から追い出して、私はククオで惨めだった。でも今の私を見てよ。家があって、ビンビラでとても幸せだ。敵に恥をかかせてやった。ざまあみろだ」

この一言に、俺はかなり救われた。ここで紹介してきた証言のほとんどは、諦めの色が濃い。だがこの人は怒っていて、そして勝っている。

「あれは私の子どもたちでもあった」――ガリの沈黙

最後に、なぜ多くの女性が警察に行かないのかを示す証言を挙げておきたい。

ガリという五十代の女性は、二〇二一年ごろグナニのキャンプに来た。共妻の息子を呪術で殺した、と別の共妻の息子に告発されたのだ。

なぜ警察に行かなかったのかと問われて、彼女はこう答えている。

「あの子たちも同じように私の子どもたちだったから。あの子たちに悪いことをしたくなかった。それに、そんなことをしたら夫が悲しむだろうから」

夫はもう味方ではない。告発者は夫の子だ。それでも彼女は、家族を壊すことを選ばなかった。

ガンバガのキャンプに二十五年いる七十代の女性は、もっと乾いた言い方をする。

「警察には届けなかった。夫が酋長で、その夫が私に何もしてくれなかったのに、警察に何ができる」

ククオの八十代の女性は、こう言う。

「三人の有力者に知らせに行った。あのころ、警察は字の読める人のためのものだったから」

別の女性は、単純にこう言う。「私たちは警察が怖い。殴られるか、留置されるかだ。警察とは関わりたくない」

人権行政司法委員会が二〇二二年に国際NGOと共同で実施した調査では、告発後に暴力を受けた百六十六人の女性のうち、百六人(六十三・九パーセント)が誰にも被害を話していなかった。話した六十人のうち、大半(七十六・七パーセント)が村の酋長か長老に話している。警察に届けたのはわずか四人、六・七パーセントだった。

二〇二〇年七月二十三日、カファバ

ここまでは、生き延びてキャンプに逃げ込めた人たちの話だ。逃げ込めなかった人の話をする。

サバンナ州東ゴンジャ郡、カファバという村。ここに九十歳のアクア・デンテという女性が、娘のゼイナブ・マハマと一緒に住んでいた。

事の始まりは、村の若者たちが「村が発展しないのは呪術のせいだ」と考えたことだった。彼らは近隣から霊媒を呼び寄せたわけだ。ヤジという町に住む女性で、自称の占い師だ。この人物は村で、アクア・デンテを含む十七人の女性を魔女だと名指しした。

娘のゼイナブが、母の最後の数日を語っている。

「私は母ととても近かった。カファバの家で一緒に暮らしていたから……あの人たちが母を魔女だと言って、呪術を出せと要求しに来た日は、火曜日だった。日付は覚えていない。家には私たち二人だけだった。午前三時ごろ、扉を激しく叩く音がした。

開けたのだ。暗かったけれど、村じゅうの人間がそこにいるのが見えた。九十人くらいいた。そのときは男だけだったのだ。あんなに人がいるのを見て、怖かった」

呼ばれてきた霊媒が部屋を捜索した。何も出てこなかったのだ。それでも疑いは晴れなかった。ゼイナブと母は、その夜、恐怖で眠れなかった。

翌日、遠方に住む息子のマハマ・サラミがカファバに来て、酋長と話したのだ。酋長は「村の者たちに話をして、問題が起きないようにする」と言った。それを聞いて、マハマは帰った。ゼイナブと母は不安ではあったが、酋長の言葉を信じることにしたのだ。

同じ日、群衆がまた来た。

「私は母と料理を作っていた。正午ごろだったのだ。突然、大勢が家に入ってきた。男も、子どもも、女もいた……家に入ってきて、母を殴った。杖で殴る者もいれば、針金で殴る者もいたのだ。

家の中で殴った……母はただ縁側に座っていて、そこで殴られた。殴られながら叫んでいたのだ。かばおうとしたら、おまえも殴るぞと脅された」

暴行はおよそ一時間続いた。呪術を出せ、と言いながら。アクア・デンテには、自分がなぜ告発されているのか理解できなかった。それまで村で誰かと揉めたことなど一度もなかったのだ。

翌日が七月二十三日。

「共同体の人間が家に来て、母を連れ出した。道路の向かい側の、別の家の縁側に連れていった。私は付いていかなかった……朝食のあとに連れていって、正午ごろ戻してきたのだ。五時間ほど連れ回されていたことになる。今度は傷から血が出ていた。

膝が痛いと言っていた。あの人たちは母を戸口に放り出していったのである。私たちは兄を呼んだ。母を部屋に寝かせた。兄が来て、部屋に入ると、母は兄にこう言った。

『あの鶏を二羽、あんたの奥さんに持っていってやりな』。それが母の最後の言葉だった。そして死んだ」

亡くなったことに最初に気づいたのは、甥のイサクだった。彼は部屋に入り、「おばあちゃん、来たよ、来たよ」と声をかけた。反応がない。彼は顔を祖母の胸に当てて、そして言った。

「おばあちゃんは、もういない」

動画が国を動かした

この事件がガーナ全体を揺さぶったのは、暴行の一部が撮影され、その映像がネット上に拡散したからだ。

映像には、老いた女性が加害者たちに助けを乞う姿が映っている。二人の女が、片方は書物のようなものを手にし、もう片方は鞭を持って、彼女を打ち続ける。そのあいだ、周囲の群衆はただ立って見ており、声を上げていた。誰も止めない。

この映像が出回った瞬間、これは「北部のどこかで起きた遠い話」ではなくなった。全国紙が、テレビが、アクラの市民が、これを見た。怒りが噴き出したのだ。

十七人の女性が霊媒に名指しされていた。そのうち十六人は、これ以上の暴行を避けるために「自分は魔女だ」と認めた。認めた者は解放されたのだ。認めなかったのは、アクア・デンテひとりだった。

彼女が死んだのは、自白を拒んだからだ。

捜査は動いた。警察はまず村の酋長ザカリア・ヤハヤを任意で連行し、翌日保釈した。実行犯とされる者の首に二千セディの懸賞金がかけられ、五人が出頭したのだ。ラティファ・ブマイエが逮捕され、八月三日には主犯とされたハジア・セリナ・モハメドがヤジの潜伏先で逮捕された。複数に分かれていた起訴状はボレ地方裁判所で一本化された。

事件は「共和国対ハルナ・アネスほか十四名」として扱われることになったのだ。

ここから先の展開が、この国の司法の現実を映している。

二〇二〇年九月十八日、ボレ地方裁判所は七人のうち五人を放免した。検察側の法的見解にもとづく措置で、放免直後に警察が再逮捕している。残る二人、セリナ・モハメドとラティファ・ブマイエが殺人共謀と神明裁判の罪でタマレ高等裁判所に送致された。この二つの罪は、当時のガーナでは死刑に相当しうる重罪だった。

二〇二一年一月十八日、タマレ高等裁判所で七人の陪審員を伴う公判が始まったのだ。三月には被告のひとりが妊娠を理由に保釈を求め、裁判所が妊娠の検査を命じるという一幕もあった。両被告は一貫して無罪を主張した。

判決が出たのは二〇二三年七月三日。タマレ高等裁判所は、動画に映っていた二人の女性に対し、殺人ではなく故殺(過失致死に近い扱い)で、それぞれ十二年の禁錮刑を言い渡した。

遺族はどう受け止めたか。息子のマハマ・サラミは、有罪判決が出たこと自体には感謝していた。ただ、こう言っている。傍観していた人間や、暴行を煽った人間も裁かれるべきだった。そして彼は、イェンディから霊媒をカファバに連れてきた若者たちが、いったんは逮捕されながら釈放されたことに失望していた。

彼はまた、動画を見たときのことをこう語っている。

「私はあの動画を見た。あれがどんな気持ちにさせたか、説明できない。説明しようとしたら泣いてしまう。動画に映っていた何人かは分かる。あそこに住んでいる若い連中だ……私の母はいい母親だった。

人を思いやる人だった。七人の子どもを産んで、孫もいたわけだ。子どもたちはみんな悲しんだ。いい母親だった」

サバンナ州の地方行政評議会は、事件を受けて「アクア・デンテ財団」を設立した。魔女告発について住民を教育するための組織だ。

そしてもうひとつ、この事件が生んだものがある。アムネスティ・インターナショナル・ガーナを含むガーナ国内のNGOによる「魔女告発に反対する連合」だ。彼らが照準を合わせたのは、法律だった。

国会は通した。大統領は署名しなかった

ここからは、政治の話になる。俺はこの部分が、この記事でいちばん腹が立ったところだ。

法案の名は「刑法改正法案二〇二二」。通称「反魔女法案」。中身は単純明快だ。他人を魔女だと宣言し、告発し、名指しし、レッテルを貼ることを犯罪とする。そして、魔女医師や魔女発見師として活動することを禁じる。

主唱者は、マディナ選出の下院議員フランシス・ザビエル・ソス。人権派の弁護士でもある人物だ。共同提案者に四人の議員が名を連ねた。プシガ選出のラーディ・アイイ・アヤンバ、ワ東選出のゴドフレッド・セイドゥ・ジャサウ、クラチ西選出のヘレン・アジョア・ントソ、アフラム平原北選出のベティ・ナナ・エフア・クロスビ・メンサだ。

この法案は、もともと第七議会期に持ち出されて成立せず、二〇二一年九月三十日に再び動き出した。そして、これを本気で前に進めたのが、アクア・デンテの死だった。ソス議員自身が、法案は彼女の殺害を受けて息を吹き返したのだ、と語っている。

二〇二三年三月三十一日、法案が議会に上程された。それから百十九日後の二〇二三年七月二十八日、国会は法案を可決した。委員会でも本会議でも、合意によって通っていて、与野党の対立案件ではなかったのである。

あとは大統領が署名するだけだった。

ところが、署名されない。

八月に大統領府へ送られた。動きがない。十一月二十七日、議長のアルバン・バグビンが本会議場で、大統領が法案を放置していると名指しで批判した。同日、大統領府は「法案が正式に提出されたのはまさにその十一月二十七日である」と反論した。与党の院内総務は「大統領は技術的な問題に気づいており、議長と会って調整する予定だ」と説明したのだ。

十一月二十八日、大統領と議長が会談する。そして同日付の書簡が議会に届き、十二月四日、議長自身の口から読み上げられた。

「憲法上の問題を踏まえて熟慮した結果、私はこれらの法案に署名することができない」

理由は憲法百八条だった。

ガーナ憲法百八条は、大統領によって、あるいは大統領の名において提出された法案でないかぎり、議会は、国庫に負担を課す内容の法案を審議してはならない、と定めている。大統領の言い分はこうだった。この法案は議員立法として提出されたが、内容として国庫への負担を伴う。したがって、そもそも議員立法として出されるべきものではなかった。

十二月十八日に議会で読み上げられた二通目の書簡では、論理がより具体的に示された。憲法百八条に加えて、二〇一六年公共財政管理法(法律第九二一号)第百条を挙げ、法案が成立して有罪判決を受ける者が出れば、その収監費用、生活費、医療費が国庫を圧迫する、と述べたのだ。だから財政影響分析なしにこれを議員立法として出すことは許されない、と。

「以上の理由により、私は立法過程の神聖さを守るため、署名を拒否しました。この機会に、法案の内容には私が賛同していること。そして私の名においてこれらを再提出する意向であることを、あらためて申し上げます」

内容には賛成する。でも手続きが違うから署名しない。そう言ったわけだ。

提案者のソス議員は激怒した。彼の反論はきわめて明快だ。

憲法百八条は、議会が議員立法をどう受理するかを規律する条文であって、可決後の法律への署名を規律する条文ではない。法案は上程時に議会の法制局が背景を調査し、百八条に違反しないと判断したうえで受理されている。いったん可決されればそれは議会の制定物である。成立後の執行に財政的な影響があるからという理由で大統領が署名を拒否できる、などという規定は憲法のどこにもない。

そしてこう続けた。あらゆる法律は、成立すれば何らかの財政的影響を持つ。官報に掲載するだけでも金はかかる。その理屈を認めるなら、議員立法という制度自体が成立しない。

「大統領は百八条を誤読していて、後ろ向きで、不幸なことだ。私たちが話しているのは、この社会でもっとも弱い人々――高齢の女性、未亡人、周縁に追いやられた人々――の人生を壊している社会問題なのに」

そして彼は、致命的な一文を付け加えた。

「この法案が可決されてから、大統領の署名を待っているあいだに、魔女告発を理由にさらに三人の女性が死んでいる」

サンネ研究所のアズマー所長も、同じ時期に「反魔女法案が法律にならなければ、さらに多くの女性の命が危険にさらされる」と警告していた。彼が率いる団体は、二〇二三年七月以降、北部で五人の女性が告発がらみの襲撃で死亡したと指摘している。

議長バグビンは、大統領が理由を「悲劇的なまでに」取り違えていると批判した。可決された法案の合憲性を判断するのは大統領の仕事ではないと述べた。

人権行政司法委員会は二〇二四年七月一日に勧告的意見を出し、大統領に署名を求めたのだ。委員会は、二〇二二年の自前の調査で、魔女と名指しされる女性の大半が高齢で、未亡人で、読み書きができず、経済的に困窮していることを確認していた。その調査の勧告のひとつが、まさに「立法による犯罪化」だった。

それでも署名はされなかったのだ。

そして第八議会の任期が終わると、法案は自動的に失効した。ゼロに戻ったのだ。

五年目の再上程、そして現在地

政権が代わった。二〇二五年一月、人権行政司法委員会は新政権に対して法案の再提出を働きかける方針を明らかにした。委員会の狙いは、今度は議員立法ではなく、大統領の名において政府提出法案として出させることだったのだ。そうすれば、前回つまずいた憲法百八条の壁がそもそも立たない。

二〇二五年三月七日、国際女性デーを前に、ソス議員は再び法案を議会に提出した。今度は九人の議員が名を連ねた。

同年七月、政府側も動いたのだ。ジェンダー・児童・社会保護大臣が、政府として法案を出す準備を司法長官府と進めていること。そして大統領は国会を通過すれば署名する用意があることを明言した。政府が自ら提出するほうが望ましい、という判断だ。ソス議員側も、議員立法として出している分とは別に、大臣と司法長官府と協力して閣議に諮り、緊急案件として処理させる道を探っていると語った。

九月には国会の人権特別委員会が、タマレでの記者・関係者向け説明会で、法案を再提出して成立させ、署名まで持っていくと確約した。アムネスティの関係者は議長に対し、緊急案件として審議するよう求めたのだ。

二〇二六年に入っても、押し合いは続いている。三月には、人権擁護団体と議員たちが政府に対して早期成立を求める圧力をあらためてかけた。このとき出た要求のなかに「関連事件を迅速に処理するための専門の裁判所」という具体的な提案が入っている。裁くのが遅すぎることが、そもそもの問題だからだ。

そして二〇二六年七月二十八日、五人の議員が「反魔女告発法案」を再び議会に提出した。提案者の顔ぶれは、二〇二三年に可決されたときと同じ五人だ。第一読会が行われ、法案は憲法・法務委員会に付託された。八月には、政府側が刑法改正案を司法長官府に回していることを明らかにし、アムネスティ側との協議を継続すると表明している。

三年が経った。同じ五人が、同じ法案を、もう一度出している。

ただ、今回の法案には、前回になかった論点が追加されている。報道によれば、現在審議されている内容には、魔女告発の犯罪化と魔女狩り(強制的な悪魔祓いを含む)の禁止に加えて、「いわゆる魔女キャンプの運営の禁止」が含まれている。被害者への心理社会的支援、社会復帰、法的救済の仕組みも盛り込まれている。

そしてこの「キャンプ運営の禁止」こそが、ガーナの支援者たちが二十年以上にわたって割れ続けてきた、いちばん深い断層なんだよな。

「閉鎖しろ」と「閉鎖したら殺される」

ここが、この問題のもっとも知的に厄介な部分だ。

政府の立場は、ずっと明快だった。キャンプの存在は人権侵害であり、国の恥である。だから閉鎖する。二〇一一年には、当時の女性・児童問題省が「二〇一二年中にキャンプを閉鎖する」と宣言した。

実際に閉鎖も行われた。二〇一四年十二月十五日、ナナ・オイエ・リトゥル大臣のもとで、中部ゴンジャ県のボニャセのキャンプが閉鎖されたのだ。四十八歳から九十歳までの五十五人が「解放」され、共同体に戻された。タマレで式典が開かれ、写真も撮られた。二〇一九年には、北東部のナブリのキャンプが閉鎖され、四十四人が出されたのだ。

グシェグのキャンプも閉鎖が約束されたが、実現していない。

ところが、ボニャセの閉鎖式典から三日後に何が起きたか。

現地の団体「反魔女告発キャンペーン連合」が大臣に宛てた書簡に、その記録が残っている。ボニャセを出された五人の女性のうち二人――ジャクパヒ出身の女性とマンクパン出身の女性――が、ただちにイェンディ近くのグナニのキャンプへ移り住んだのだ。連合はこう書いている。「これこそが、拙速な閉鎖は持続しないという我々の主張の証明である」。

この団体の主張は、閉鎖そのものへの反対ではない。閉鎖には賛成する。だが七年から十五年の長期計画として、集中的な公教育と、段階的な手続きと、多方面の協議を伴って行うべきだ、という立場だ。理由は身も蓋もない。受け入れる側の共同体の頭の中が変わっていないのに女性を戻せば、また告発されるからだ。

彼らはもうひとつ、ぞっとする指摘をしている。被害女性の出身地は、警察も法執行機関も届かない極度に貧しい農村部にある。そこへ戻された女性たちの安全は、誰にも保証できない。「もし家族がこれ以上彼女たちを抱えきれなくなったとき、毒殺される可能性を我々は危惧している」

この立場をもっとも先鋭に、そして繰り返し主張してきたのが、ナイジェリア出身の人権活動家レオ・イグウェだ。彼が二〇一六年にアクションエイドに向けて書いた公開の反論は、いま読んでも刺さる。

「このいわゆるロードマップは、戦争がまだ続いているあいだに難民キャンプを閉鎖することだけを目指している。これに意味があるのか」

「もし家にいるほうが安全なら、女たちはとっくに帰っていて、実際、家族が迎えに来ているはずだ。誰かに『社会復帰させて』もらうのを待つまでもなく」

「キャンプの閉鎖が被害女性の利益だと言うが、誰がそう言ったのか。当の女性たちがアクションエイドに、キャンプを解体してほしいと言ったのか。このキャンペーンは、女性たちが自分の利益だと考えていることにもとづいているのか。それとも、アクションエイドが自分の利益だと考えていることにもとづいているのか。彼女たちのなかには、家に帰るくらいならこの場所で苦しんで死ぬほうがいい、と言う人がいるのだから」

「あなた方はキャンプを作っていない。だから閉じるな」

対するアクションエイド側の立場も、単純な理想論ではない。彼らはキャンプを女性の人権侵害だと明確に批判しつつ、同時に「キャンプがなければ、告発された女性はもっと脆弱になる」と認めている。同団体のガーナ事務所代表は、こう言っていた。

「いったんキャンプに入れば、技術的には彼女たちは安全だ。魔女キャンプの中で告発された女性を襲う者はいない。だからリンチされたり殴られたりすることからは守られる。告発された女性を若い男たちから守るために、家族がキャンプへ連れていくケースもある」

そのうえで彼女は、閉鎖には十年か二十年かかると見積もっていた。「牛が柵を飛び越えて何かを倒した、というだけのことで再告発されないようにするには、共同体側の仕事を山ほどやらないといけない。文化や社会の問題であるだけでなく、心理的な次元があり、人々の頭の中を解きほぐすには時間がかかる」

二〇一八年には、この対立が政治的な喧嘩にまで発展した。当時のジェンダー大臣が国会で、閉鎖の努力にもかかわらず多くの女性が「些細なことですぐ告発されるのが怖い」と言って帰りたがらない、と報告した。長老派教会の帰郷プロジェクト側は「帰りたいと言っているのは一割だけだ」と述べたのだ。

これにアクションエイド側が噛みついた。同団体の北部の担当者は、その調査手法自体を疑ってかかったのだ。彼女の言い分は鋭い。

「キャンプで女性たちの世話をしている伝統的司祭たちは、公には言われないにせよ、さまざまな形で彼女たちから利益を得ている。無償の労働力を得ているし、他の便益もある。調査でその力学を理解していなければ、正確な情報は取れない。司祭がすぐそこに座っている状態で女性に『帰りたいですか』と聞いたら、どんな答えが返ってくると思う。司祭にとっては手放したくない権益なんだから、そう簡単に手放させるはずがない」

誰が女性たちの本心を代弁できるのか、という問いに、まだガーナは答えを出せていない。

そしてもうひとつ、無視できないデータがある。ソンタバが二〇二二年に四つのキャンプの女性二百七十七人を対象に実施した調査では、七十三・三パーセントの女性が「共同体に社会復帰したい、キャンプは閉鎖してほしい」と答えている。同じ調査で、五十二・七パーセントがうつ状態にある。六十六・五パーセントが未亡人、八・六パーセントが極度に低い生活の質にあると評価された。

告発された者の九十三・五パーセントが女性だった。

七割以上が「帰りたい」と言っている。それでも帰れない。この落差こそが、キャンプという装置の正体なんだと思う。

心が先に壊れる

二〇二五年十一月に学術誌サイエンティフィック・リポーツに載った研究は、この落差の代償を数字にした。

研究チームは、北部ガーナの二つのキャンプに住む女性百六十八人と、一般人口から集めた女性百人に、ダグバニ語版の不安・抑うつ尺度を使って調査した。

結果は残酷なほどはっきりしている。不安の平均点は、キャンプの女性が十四・七三に対し一般人口の女性が六・一八。抑うつは十七・八五に対し四・一八。統計的に極めて有意な差だ。

補足質問への回答はさらに重い。キャンプの女性の九十五・二パーセントが「時々孤独を感じる」と答えた。九十八・二パーセントが「もとの共同体から切り離されていると感じる」と答えた。七十一・四パーセントが「悩みや心配を話せる相手がいない」と答えたのだ。そして、回答者の百パーセントが「穴に閉じ込められているような感じがする」と答えた。

全員だ。ひとりの例外もなく。

身体的な訴えで多かったのは関節痛と高血圧。キャンプ内に医療施設はなく、多くの女性が薬草に頼っている。体調が悪くても村の診療所に行けば指をさされ、陰口を叩かれる。だから行かなくなる。

アムネスティが聞き取った女性のひとりは、こう言っている。

「ここに来たとき、自殺しようと思った……告発があまりにひどかったから。あまりに苦しかったから。私が、あんなに愛していた息子の死の原因だ、と言われたんだ」

一方で、この研究がついでに拾ってしまった数字もある。比較対象だった「一般人口の女性」のほうにも、相当な不安と抑うつの症状が見られたのだ。北部ガーナの女性の暮らしそのものが、すでに相当に苦しい。キャンプの女性たちの絶望は、その苦しさの延長線上の、さらに先にある。

一本の映画が、鍵をこじ開けるまで

この問題が国際的に知られるようになった経緯には、一本のドキュメンタリー映画が関わっている。『ガンバガの魔女たち』。監督はガーナ出身の作家・映画監督ヤバ・バドゥー、共同製作はアミナ・ママ。五十五分の作品だ。

始まりは二〇〇四年だった。バドゥーは汎アフリカの研究プロジェクトの一環としてガンバガのキャンプの住人を調べ始めた。当時そこには百六十人の女性がいたのだ。

ところが、取材の許可が下りない。

女たちの「管理者」であるガンバガの首長ガンバラナは、面会をきっぱり断った。彼の言い分は、たとえ自分が許可したくても、そういう判断は政治的なもわけだ。決められるのは東マンプルシ県の行政長官だけだ、というものだった。ちなみに彼はその一週間前に、大手米国テレビ局の取材班も同じように追い返していた。そして行政長官は、その日は町を留守にしていたのだ。

だから待て、と。

彼女を助けたのは、長老派教会の牧師だった。牧師が行政長官に話をつけ、ついでにガンバラナのもとへ彼女を連れていった。首長は念のためもう一度自分の同意も重ねたうえで、息子のアブカリに、この人をキャンプまで案内しろと命じたのだ。

そのときにはもう夜だった。ガンバガに電気はなかった。

暗がりのなかで、彼女は三人の女性に話を聞いたのだ。ザビア、ドゥア、ティア。ザビアは三人の子と孫を持つ母親だった。ティアは、その時点ですでにキャンプに二十五年以上住んでいた。案内役のアブカリが横から口を挟んで、女というのは生まれつきそういうものだ、と説明したのだ。

そしてガンバラナには魔女を見分ける力があり、告発された女が連れてこられると神明裁判にかけられるのだ、と。

ティアの裁判は、彼女に不利に出たのだという。

それから九年後、バドゥーはガンバガに戻った。今度はガーナ大学アフリカ研究所の後ろ盾があった。驚いたことに、ガンバラナのヤハヤ・ウニは彼女を覚えていて、今度はすんなり許可を出したのだ。

十九人の女性が、彼女に自分の人生を語った。そのうちのひとりが、さきほど紹介したアミナ・ウンバラだ。

撮影と編集に五年。作品は二〇一〇年七月に完成した。二〇一〇年のブラック国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー、二〇一一年のアフリカ最大の映画祭であるワガドゥグ全アフリカ映画祭でドキュメンタリー部門第二位を獲得している。

ただし、完成後の道のりも平坦ではなかった。バドゥー自身が書いているように、イギリスの放送局はどこも買わなかった。当時、イギリス国内では「アフリカ系の子どもが魔女と告発される」話題への関心が高まっていたにもかかわらず、ガーナの老女たちの映画には誰も乗ってこなかったのだ。彼女の分析はこうだ。

アフリカのイメージは、いまも西側の放送局によって再生産され流通しており、彼らは自分たちの優先順位と枠組みで動いている。アフリカのフェミニストたちの枠組みでは動かない。

その一方で、二〇〇八年十一月にイギリスの放送局が流したナイジェリアの子どもの魔女告発をめぐるドキュメンタリーは大反響を呼び、ナイジェリアのアクワ・イボム州知事にカメラの前で児童権利法を採択させるところまで持っていった。バドゥーはこう指摘する。この作品が引き起こしたのは、まさにアクラの情報省の役人が最も恐れていた反応――恥と当惑――だったのだ、と。

国家は、自国の恥を映されることを何より嫌う。そしてその「恥」の感覚が、ときにキャンプの拙速な閉鎖という形で暴発する。

イマームが作り、教会が守り、預言者が壊す

宗教の話をしておきたい。この問題を「伝統宗教の遅れ」と片づけようとすると、事実のほうが全力で抵抗してくるからだ。

まず、ガンバガのキャンプを事実上作ったのはイスラームの法学者だった。処刑をやめさせるために、彼はクルアーンにもとづく方法を持ち込んだ。

そのキャンプを百年近く支えてきたのは、キリスト教会だ。長老派教会は一九六〇年代からガンバガの運営に関わり、一九九四年に「ガンバガ追放者ホームプロジェクト」――通称「帰郷プロジェクト」――として正式に事業化した。カナダ長老教会の開発機関がセメント造りの部屋を建て、小屋の維持を手伝っている。教会は学校を運営し、食料を配り、国民健康保険に加入させ、カウンセリングを提供している。

グシェグのキャンプにいたってはカトリック教会が運営している。

一方で、告発する側にも宗教はいる。アムネスティの調査によれば、告発された側も告発する側も、イスラーム教徒、キリスト教徒、伝統宗教の信者がまんべんなくいる。どの宗教も免罪されない。

そして、現代のガーナで魔女告発を最も活発に再生産している領域のひとつが、実はペンテコステ派・カリスマ派のキリスト教だという指摘がある。ガーナの宗教研究者は、これを「魔女=悪霊化した告発」と呼んで、そこに象徴的暴力の構造を見出した。悪魔祓い、いわゆる「デリバランス」の場で告発された人が受ける、しばしば暴力的な扱いのことだ。

ガーナのある神学研究者は、もっと踏み込んだことを書いている。現在、ガーナのほぼすべての教会が、何らかの形で「デリバランス」を活動に組み込んでいる。なぜなら、それをやらない教会は、やる教会に信徒を奪われるからだ。宣教師たちは伝統的な神々を悪魔と同一視することで、意図せず魔女信仰そのものを強化してしまった。

そして祈祷キャンプが各地に生まれ、人権団体がそこでの「非人間的な儀礼」を非難する状況が生まれている。

つまり、魔女信仰は近代化によって消えていない。近代の宗教の器に入れ替えて、都市でも生きている。

サンネ研究所のアズマーは、この点を繰り返し強調している。魔女信仰はガーナの農村にも都市にも、生活のすみずみに染み込んでいる。「ガーナだけの話でもない。アフリカでは超自然への信仰がとても強い。ナイジェリアでも、東アフリカでも強い。

ガーナに固有なのは、キャンプがあることだ」

ガーナ南部でも告発はある。ただ、南部では告発された女性は「村八分」で済むことが多く、追放されてキャンプに送られるのは北部なのだ。同じ信仰、違う結末。そこにあるのは信仰の差ではなく、土地と貧困と制度の差だ。

なぜ二十一世紀に、これが続いているのか

ここまでの材料を並べ直すと、この慣行を支えているのは「迷信」という一語ではないことが見えてくる。少なくとも四つの層が重なっている。

第一の層は、説明の需要だ。

ガーナ大学の開発学者ゾジ・チカタは、こう述べている。世界じゅうの伝統的宇宙観は善と悪の信念に支えられていて、魔術の観念もそこから来る。所有する者を助け、他人を害しうる力。人が善と悪を信じるかぎり、あらゆる幸運と不運の説明として、魔女告発はなくならない。そして彼女はこう続ける。

信仰そのものが問題なのではない。それが特定のプロフィールを持つ人間を攻撃するために使われる、その使われ方が問題なのだ。

北部のいくつかの共同体では、人は自然には死なない。誰かが殺したから死ぬ。だから葬儀の前後に霊媒のもとへ行き、「犯人」を特定する。この前提がある共同体では、マラリアも、脳卒中も、乳幼児の死亡も、すべて犯人捜しの対象になる。医療と情報が届いていない場所ほど、この説明様式は強く働く。

北部の農村では成人の四分の三が読み書きできない。全国平均は四十三パーセントだ。

第二の層は、経済だ。

ある研究者は、魔女告発の背後にある社会的緊張を、村や地域が資本主義的市場に不均等に組み込まれていくプロセスと結びつけて論じている。キャンプがなぜ北部にあるのか。それは、北部が植民地期から現在に至るまで開発投資を奪われ、南部中心の経済を支えるために使われてきた地域だからだ、と。

もっと直截な指摘もある。資本主義が浸透するにつれて「伝統的な共同の価値」が富の追求に置き換えられていく。共同体の成員は、より多くの財産と富を得るために連帯を投げ出すようになる。未亡人を魔女として告発し、土地から追い出して所有する、というのはその一形態だ。

ここで、一九六〇年代のガンバガを調べた人類学者の観察が効いてくる。当時、マンプルシの人々のあいだでは、災いや死は魔女ではなく祖先や遠い神格のせいにされることがほとんどだった。マンプルシの女性が公然と魔女と呼ばれるのは「恥」であり、だからキャンプの住人はマンプルシ以外の民族の人々だった。ところが一九九〇年代になると、マンプルシがキャンプの多数派になる。

何が変わったのか。魔女の定義が変わったのだ。かつて魔女は犠牲者を「喰う」ものだった。それが、犠牲者を「罠にかけ、蓄え、そして金のために売る」ものへと変わった。現金の必要と、女性が現金を蓄えるために商売をしているという事実こそが、魔女をめぐる語りの背景になった、と研究者は書いている。

魔女という概念そのものが、貨幣経済に合わせてアップデートされたわけだ。ぞっとする話だと思う。

第三の層は、ジェンダーと年齢だ。

サンネ研究所のアズマー所長の言い方は容赦がない。「魔女告発の問題は、主に男が女をキャンプに押し込めておくために使っている。これは純粋にジェンダーの問題だ。告発されるのは大多数が女だ。女を女の場所に留めておくために、迷信じみた理屈をこしらえているのは男である。

男も魔力を持ちうるが、男の場合はそれは良いことをするためのものと見なされる。女の場合はただ悪いことをするためのものと見なされる」

同じ力を持っていても、男なら守護になり、女なら加害になる。

年齢の軸も無視できない。ある人類学者は、告発の背後に「若い世代の年寄りに対する恨み」を見る。自分の家族の若い者が早死にしているのに、年寄りが長生きしているのは「自然の順序の逆転」だとみなされる、と。別の研究者は、これを家族と共同体の中での世代間の権力闘争として読む。若者が「自分たちの成功を妨げている」として年長者を告発するのだ。

開発学者は、この地域で女性が「年寄り」と見なされる時期をこう説明する。閉経は女性の人生の段階の転換を示すひとつの節目だ。農耕社会では、この年齢は女性が農作業などの重労働を担う体力を失う時期でもある。そして同時に、夫に先立たれる時期でもある。それが特有の脆弱さをもたらす、と。

第四の層は、国家の不在だ。

これがいちばん、日本の読者に伝わりにくいところかもしれない。ナヌンバ南県の警察署長は、就任からの四年間で扱った魔女告発案件は七件だと述べている。七件だ。しかもそのうち女性からの届け出はゼロ。六件は告発された男性本人からの届け出で、残る一件は両親が告発された子どもたちからの届け出だった。

彼はこう説明する。

「女たちは訴え出ない。共同体の人間が女を脅すやり方があるからだ。彼らは女たちを抑え込むことに成功していて、女たちは自分の権利が何なのかも知らない。知っている少数の者も、恐怖のせいで出てこられない。当局ではなく親のところへ帰ってしまう」

そして七件のうち、裁判の直前まで行ったのは一件だけ。それも和解の条件を取りまとめただけで、事件は取り下げられた。残る六件は「円満解決」だった。警察の側にも理屈はある。「件数が多すぎて、全部を起訴するのは不可能だ。

力ずくで行くのは最後の手段だ。その能力も予算もない」。彼は燃料代が足りないことも認めていて、「遠すぎる。治安部隊がたどり着くころには、相手はもうやりたいことをやり終えている」

ソンタバとアクションエイド・ガーナが二〇二〇年から二〇二四年までに記録した、北部三州での魔女告発絡みの暴行事件は十九件。うち七件で死者が出ている。二〇二三年の後半だけで、身体的な襲撃が十五件、殺害が五件。このうち逮捕に至ったのは二件の事件で七人だけ、有罪判決が出たのは一件で二人だけだった。

つまり、ほとんどの加害者は何も問われない。刑罰の恐れがない。人権行政司法委員会の担当者は、法案が国会を通った時期のことをこう振り返っている。「あの期間は問題が起きなかった。このまま続ければ法に裁かれると人々が気づいたからだ。

でも最近また、告発を耳にするようになった」

法律が「通りそうだ」というだけで告発が減った。そして法律にならなかったので、また増えたのだ。

「魔女狩りは中世の話」という嘘

最後に、この話をガーナの特殊事情として消費してしまわないために、視野を広げておきたい。

魔女狩りと人権に関する国際ネットワークが集計したところによれば、過去十年間に、六十か国以上で、魔女告発や儀礼的な襲撃に関連する拷問や殺害を含む被害が二万件以上報告されている。国連人権高等弁務官事務所は、こうした被害の実数はさらに多く、大幅に過少報告されていると見ている。しかも件数は増加傾向にあり、暴力はより激しくなり、新しい形態の被害が生まれている、というのが研究文献の一致した見立てだ。

具体的な数字をいくつか挙げる。アフリカ地域について国連の独立専門家とパンアフリカ議会がまとめた報告書によれば、二〇〇九年から二〇一九年までの十年間に、複数の国で三百件から千件規模の魔女告発と儀礼的襲撃が確認されている。タンザニアでは、二〇〇四年から二〇〇九年までの五年間に、魔女と告発された高齢女性二千五百八十五人以上が殺害されたと報告されている。

ブルキナファソでも高齢女性の追放が報告され、モザンビークでは告発が増加しているとされる。南アフリカでは、高齢女性が高齢男性の二倍、告発されやすいという統計がある。

そしてこれは「南の問題」でもない。国連の文書は、こうした慣行が移民コミュニティを通じて、グローバル・ノースの国々でも課題になりつつあることを指摘している。イギリスで二〇〇〇年代に子どもの魔女告発が社会問題化したのは、まさにその現れだった。

魔女狩りは終わった歴史ではない。いま進行中の人権問題だ。そしてその標的は、圧倒的に、貧しく、年老いて、女である人間だ。

それでも、家に帰った人がいる

暗い話を書き続けたので、最後に別の記録を残しておきたい。

八人の子を持つ、五十代のアマ・ソマニという女性がいる。村では働き者で通っていた人だ。ところが姪が原因不明の病気になり、その責任を負わされた。彼女は伝統的な判定の儀礼にかけられ、「有罪」とされた。かばう者は誰もおらず、事実上別れていた夫も助けなかったのだ。

彼女はガンバガで四年間、家族から切り離されて過ごした。

「死にたかった。あまりにつらかったから」

その四年のあいだ、子どもたちは月に何度も彼女に会いに来ていた。そして子どもたちが帰還を強く求め、教会の人々と地元の人権擁護者が仲介に立ち、資金を出した。その年の四月、彼女はついに、親族のいる近くの村へ移ることができたのだ。

暮らしは相変わらず苦しい。それでも子どもたちと再会できたことを彼女は喜んでいて、いまはガンバガで覚えた石鹸作りで商売を始めることを夢見ている。

アコロポカという女性も、地元の支援者の力で故郷の共同体に戻った。彼女は家族とともに最後の日々を過ごし、昨年亡くなった。ガンバガに残る女性たちに彼女の写真を見せると、みな笑って、彼女のことを懐かしんだ。働き者だった。水を担ぎ、薪を集め、キャンプでの日々の仕事を黙々とこなしていた人だ、と。

マハマ牧師の教会は今年、五人の女性を共同体に帰した。この十五年で、NGOと女性団体は数百人の帰還を実現してきた。

そして、キャンプの中でも声は上がり始めている。五月にソンタバがグナニのキャンプで開いた母の日の集まりで、ひとりの女性が掲げたプラカードには、こう書いてあった。

「歳をとることは犯罪ではない――高齢の女性を標的にするのはやめろ」

一方、ガンバガ。

最年長のアナベリは、二〇一〇年ごろから精神的な不調を抱えている。病院で手当てを受け、薬をもらって、いくらかよくなった。それでも彼女はほとんど口をきかない。ただ静かに、足を引きずって集落を歩いている。

法律が通っても、彼女には間に合わないだろう。四十年以上の追放生活のあと、この八十五歳の女性は、おそらくガンバガの外れの小屋で残りの日々を終える。

俺がこの話を怪異として読めなかったのは、たぶんここだ。

怪談なら、最後に何かが出てくる。呪いか、祟りか、正体不明の何かが。だがガンバガには何も出てこない。出てくるのは、誰かが見た夢と、間違った向きに倒れた鶏と、欲しかった土地と、払えなかった千セディと、届かなかった大統領の署名だけだ。

人間ひとりを四十五年間家に帰さないのに、超自然的なものは一切必要ない。必要なのは、誰かが「あいつのせいだ」と言い出すことと、それを止める人間がひとりもいないこと。それだけだ。

そっちのほうが、よほど怖いと思う。

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