刑罰って、要するに「痛い目に遭わせる」ことだと思われがちだ。殴る、閉じ込める、金を取る、最後は殺す。だいたいそのへんで想像が止まる。でも古代中国が二千年かけて磨き上げた刑罰の中心にあった発想は、そこからズレている。痛みじゃない。
時間でもない。消えない印を体に刻んで、その人間を一生「元・罪人」として歩かせることだった。これを肉刑という。読んで字のごとく、肉に加える刑。額に墨を入れる。
鼻を落とす。足を断つ。生殖の機能を奪う。そして殺す。この五つをまとめて五刑と呼んだ。
並べただけで胃が重くなるが、怖いのは残酷さそのものじゃない。怖いのは、これが思いつきの暴力ではなく、等級があり、条文があり、罪の軽重に応じて番号が振られた、きっちり設計された制度だったという事実のほうだ。
- 三千の罪に、値札が付いていた話
- 疑わしきは罰せず、を三千年前に書いていた
- 顔に前科が書いてある社会
- 鼻がなくなると、人はどこへ行くのか
- 門番はなぜ片足なのか
- 司馬遷が死を選ばなかった理由
- 死刑にも、ちゃんと等級があった
- 秦の法は、人間を作業単位に変換した
- 十五歳の娘の手紙が、法典を書き換えた
- 廃止したのに、死体が増えた
- 肉刑を復活させろ、と真顔で論じた人たち
- 穴を埋めたのは、距離と時間だった
- 開皇律という、刑罰史の切り替えスイッチ
- 唐律疏議が完成させた、痛みの目盛り
- 消えたはずの発想が、いちばん残酷な形で戻ってきた
- 日本は唐の法を丸ごと輸入して、肉刑だけ置いてきた
- 中世日本の耳鼻削ぎは、じつは助命措置だった
- 腕の二本線が語っていたこと
- 江戸の死刑にも階段があった
- 身体から時間へ、最後の切り替え
三千の罪に、値札が付いていた話
肉刑の全体像を伝えている最古級の文献が、尚書の呂刑という篇だ。周の穆王の時代に呂侯が語ったという体裁で書かれている。成立年代については議論があって、実際にはもっと後の時代の理念が混ざっているとみるのが今は主流なんだけど、それでも記述の具体性がすごい。呂刑はこう言う。墨に該当する罪は千条、劓に該当する罪も千条、剕に該当する罪は五百条、宮に該当する罪は三百条、大辟に該当する罪は二百条。
合わせて五刑之属三千。三千の罪状が、五つの刑にきれいに振り分けられていた。ここで注目したいのは、罪状の数が刑の重さと逆相関している点だ。軽い墨と劓に千ずつ、重くなるほど該当罪が減っていく。適当に殴っているのではなく、社会のどんな逸脱をどのレベルの身体損壊で処理するかという、配分の設計が先にある。
さらにえげつないのが贖罪の規定だ。呂刑は、疑わしくて赦す場合の罰金額まで決めている。墨なら百鍰、劓はその倍、剕はさらに差をつけて、宮は六百鍰、大辟は千鍰。鍰は当時の重量単位で、青銅か何かの金属の量だと考えられている。つまり、鼻には値段があり、足には別の値段があり、生殖能力には六百、命には千という相場が公式に定められていたわけだ。
払える人間は体を守れる。払えない人間は体で払う。この時点でもう、身体は通貨として扱われている。
疑わしきは罰せず、を三千年前に書いていた
呂刑を読んでいてもう一つ驚くのが、刑罰の運用について書かれた部分だ。残酷な刑罰リストの隣に、かなり近代的に見える原則が並んでいる。五刑に該当するかどうか疑わしいときは赦す。罰金に該当するかどうか疑わしいときも赦す。よく審査して見極めよ、と繰り返し書かれている。
証拠が足りなければ聞くな、とも言っている。訴える側と訴えられる側の両方が揃ってから五辞を聴け、というのは対審構造の萌芽みたいなものだ。さらに、判断を歪める五つの弊害まで挙げている。権勢に配慮すること、私怨を晴らすこと、身内をかばうこと、賄賂を受けること、口利きに応じること。この五つに当たった裁き手は、犯人と同じ罪だと明言している。
そのうえで、刑罰世軽世重という有名な一句が出てくる。時代によって刑は軽くも重くもなる、という意味だ。刑罰が永遠不変の天理ではなく、社会状況に合わせて調整すべき道具だと、この段階ではっきり書かれている。罰は死なせるためのものではなく、人を病むほど懲らしめて改めさせるためのものだ、という趣旨の文もある。ここまで整理された理念を持ちながら、実際の刑は鼻を落とし足を断つものだった。
理念と手段のあいだにあるこの落差こそが、古代の刑罰を読むときのいちばんの見どころかもしれない。
顔に前科が書いてある社会
五刑のいちばん軽いところにあるのが墨、別名を黥という。額や顔に刃物で傷を付けて墨を入れる。今の言葉でいえば入れ墨だけど、目的は装飾でも信仰でもない。消せない前科の掲示だ。これが実在した証拠は、思いのほか古い層から出てくる。
甲骨文の研究では、殷の時代の卜辞のなかに墨刑を指すとみられる字が読み取られている。文字が生まれてすぐの段階で、すでに顔に印を付ける刑を表す専用の記号が要るくらい、その処罰が日常だったということだ。墨刑の怖さは、実行された瞬間より、その後の人生のほうにある。傷が治って墨が定着すれば、痛みは終わる。でも顔は残る。
市場に行けば見られる。仕事を探しても見られる。結婚しようとしても見られる。誰も本人の言い分を聞く必要がない。顔が先に喋ってしまうから。
戦国時代の秦で法を作り替えた商鞅は、この機能を政治的に使った。法を施行した直後、太子が法を犯した。さすがに次期君主を刑に処すわけにはいかない。そこで商鞅は、太子の傅にあたる公子虔を鼻の刑に、教育係の公孫賈を額への黥刑に処した。要するに、王族の教育担当者の顔に「法は例外を認めない」と書き込んだのだ。
史記の記述によれば、この二人はそれ以来恥じて外出しなくなったという。当たり前だ。顔が政治的メッセージの掲示板にされたのだから。
鼻がなくなると、人はどこへ行くのか
劓は鼻を落とす刑だ。墨の一段上に置かれている。なぜ一段重いのかというと、墨は表面の印であるのに対し、劓は器官そのものを失わせるからだ。取り返しのつかなさの度合いが違う。古代の記録を読んでいて背筋が寒くなるのは、鼻を失った人間がどう扱われたかという部分だ。
彼らは殺されない。殺されないので、社会のどこかに居続ける。労役に回されたり、身分の低い仕事に就いたり、都市の周縁にたまっていく。刑罰が終わったあとも、罰の結果だけがずっと歩き回っている状態になる。商鞅に鼻の刑を科された公子虔は、八年間家に籠もったと伝えられる。
そして孝公が死んだ途端、商鞅を謀反人として訴えた側に回った。商鞅は逃げようとしたが、自分が作った法のせいで身元証明のない者は宿に泊まれず、行き場を失って敗死する。遺体は車裂、つまり複数の車に体を結びつけて引き裂く形で処理された。自分が設計した身体刑の体系に、設計者自身が最後は飲み込まれたわけだ。
話ができすぎているので後世の脚色も混じっていそうだが、当時の人がこの制度をどう感じていたかは伝わってくる。
門番はなぜ片足なのか
剕、あるいは刖と書く。足を断つ刑だ。膝の皿を取るものを臏と呼び分ける場合もあって、文献によって範囲がぶれる。共通しているのは、歩行能力を永久に削るという点だ。この刑については、文字と考古の両側から証拠がある。
甲骨文の刖という字は、刃物を持った手が人の脚に及ぶ形をかたどっているとされ、殷代にこの処罰が現実に運用されていたことを示す。さらに、商代中期の遺跡からは脛から下を失った十五歳前後の男性の遺骨が見つかっており、複数の遺跡で同種の欠損例が報告されている。文献が言っているだけの理念ではなく、骨が残っている。もっと不気味なのは、西周の文献にある刖者使守囿という記述だ。足を断たれた者に、囲いの番をさせる。
逃げられないから見張りに向いている、という発想である。そしてこれを裏付けるように、青銅器の意匠として、片脚を失った姿の門番像が実際に作られている。刑罰を受けた人間を装飾のモチーフにするというのは、その存在が社会の風景の一部として完全に定着していた証拠だろう。戦国期でいちばん有名な受刑者は孫臏だ。同門の龐涓に才能を妬まれ、罪を着せられて足を断たれ、額にも墨を入れられた。
臏という字はもともとの名ではなく、刑を受けたあとの呼び名だったと考えられている。名前が刑罰名に上書きされてしまったわけだ。彼はその後、斉に脱出して桂陵と馬陵で龐涓を破る。刑を受けた体のまま兵車に乗って軍を指揮したという逸話は、彼が奪われたものの大きさを裏返しに語っている。
司馬遷が死を選ばなかった理由
宮刑は生殖の機能を奪う刑で、大辟に次ぐ重刑とされた。腐刑、椓刑とも呼ばれ、受刑後に体を温かく風のない部屋に置いて回復を待たせたことから、蚕室に下すという言い方もある。なぜ腐と呼ぶのかについては定説がない。
傷口が腐敗臭を放つからという説がある。腐った木が芽吹かないことから断種を意味する、という説もある。前漢初期の竹簡に府刑という表記が見えるので、役所での労働刑を指したのだという説。上古音で腐と婦が同音だったことに由来するという説。少なくとも七通りの解釈が並んでいて、どれも決め手を欠く。
語源が分からなくなるほど古く、そして誰も正面から書き残したがらなかったということでもある。
この刑を語るとき避けて通れないのが司馬遷だ。天漢二年、匈奴に敗れて投降した李陵を、彼は武帝の前で弁護した。李陵は親孝行で兵に信義を通し、常に身を顧みず国難に殉じてきた人物だ、と。ところがその弁護は、援軍を出さなかった李広利への批判と受け取られてしまう。翌年、李陵の一族が処刑され、累は司馬遷に及んだ。
彼は死罪を減じられる形で宮刑を受ける。数年後の報任少卿書で、司馬遷は自分の状態を吐き出すように書いている。死ぬのは怖くない、ただ死ねば史記が終わらない、だから生きているのだと。大赦で釈放されたあと与えられたのは中書令という要職だったが、それは宦官が就く職だった。地位は上がり、屈辱は固定された。
そして前九十年ごろ、百三十篇五十三万六千五百字の史記が完成する。肉刑の何が怖いのかを一行で言うなら、これだ。体に刻まれた刑は、刑期が終わらない。司馬遷は罰を受けきったあとも、罰の中で生き続けた。
死刑にも、ちゃんと等級があった
五刑の最上位にある大辟は、単に「殺す」という一項目ではない。実際には殺し方が階層化されていて、そこにも身体をどう扱うかという思想が濃く出ている。いちばん基本にあるのが斬と絞だ。首を落とすか、首を絞めるか。唐律で絞より斬のほうが重いとされたのは、体を親から受けたものとして完全な形のまま返すべきだという儒教的な身体観があったからだとされる。
同じ死でも、体が分かれるかどうかで格が変わる。この感覚は現代人にはピンと来にくいけれど、当時は本気の重大事だった。そこからさらに上がある。腰斬は胴を断つ処刑で、即死しないため苦痛が長い。棄市は市場という公共の場で執行して死体をさらすもので、殺すことと見せることがセットになっている。
梟首は首を高く掲げる方式で、開皇律で廃止対象に挙げられている。族誅になると本人だけでなく血縁ごと処分するので、罰の対象が個人から系統に広がる。秦漢の記録には具五刑という言葉も出てくる。肉刑を順に加えたうえで最後に命を絶つという、五刑の全部盛りみたいな最上級の処刑だ。ここまで来ると、罰というより見せしめの演出装置になっている。
つまり大辟の内部にも、命を奪うだけの死、体を分ける死、公開する死、家系ごと消す死、という段階があった。五刑は五段階ではなく、実際にはもっと細かい目盛りを持った体系だったわけだ。
秦の法は、人間を作業単位に変換した
理念としての五刑と、実務としての刑罰は、けっこう違う。そのズレを見せてくれるのが睡虎地秦簡だ。秦の地方役人の墓から出た大量の竹簡には、実際に運用されていた法の条文と判例が書かれている。そこで目立つのが、肉刑と労役刑の合わせ技だ。黥為城旦、つまり顔に墨を入れたうえで城旦という重労働に就かせる。
城旦は男性向けの土木労働、舂は女性向けの穀物を搗く労働で、いずれも国家に身体を差し出す形になる。鬼薪は宗廟の薪を集める役、白粲は祭祀用の米を選り分ける役で、労役の中でも段階が分かれている。ここで起きているのは、身体損壊による標識付けと、労働力としての回収の同時進行だ。刑を受けた者は市場から排除されると同時に、国家の作業台帳に登録される。
秦の法家的な合理性が気味悪いのは、残酷だからじゃなくて、無駄がないからだ。人を壊しておいて捨てない。壊した状態のまま使い切る。
十五歳の娘の手紙が、法典を書き換えた
前漢の文帝十三年、紀元前一六七年。斉の地で医者をしていた淳于意という人物が、罪に問われて長安へ護送されることになり、刑には肉刑が含まれていた。彼には男子がなく、娘が五人いた。連行される際、彼は嘆いたという。子がいても男でなければ、いざというとき何の役にも立たない、と。
末娘は父に付いて長安まで上り、皇帝に上書した。名はテイエイ、漢字では緹縈と書く。上書の趣旨はこうだ。死んだ者は生き返らず、刑で断たれた体は元に戻らない。過ちを悔いて生き直そうとしても、その道がもう存在しない。
だから自分が官の奴婢となって父の刑を贖いたい。文帝はこれに動かされた、と漢書刑法志は伝える。そして肉刑を除く詔を下す。丞相の張蒼と御史大夫の馮敬が具体案をまとめ、置き換えが決まった。墨に当たるものは、髪を剃り首かせをはめたうえで城旦舂の労役に就かせる。
劓に当たるものは笞三百。左の足を断つ刑は笞五百。そして右の足を断つ刑は、棄市――つまり死刑にする。この最後の一行に気づいた瞬間、話がおかしいことが分かる。
廃止したのに、死体が増えた
肉刑を廃止したはずの改革が、なぜ死刑の適用範囲を広げているのか。理由は単純で、代わりに置く刑がなかったからだ。当時の刑罰体系には、労役刑と死刑の間を埋める中間の重さが、肉刑しか存在しなかった。それを抜くと、真ん中に大穴が空く。穴を埋める道具がないので、重い側は死刑に寄せ、軽い側は笞に寄せるしかない。
設計としては最悪の部類だ。しかも笞三百、笞五百という数字が現実離れしていた。打たれている途中で死ぬ。生き延びても後遺症で動けなくなる。名目上は身体を切らない刑になったのに、実際の死者は増えた。
漢書刑法志はこの矛盾を、外は軽い名を持ちながら内では人を殺している、という趣旨で厳しく指摘している。人道的に見えるほうへ動かしたら、結果として殺す回数が増えたのだ。さすがにまずいということで、景帝が手を入れる。景帝元年に笞三百を二百へ、笞五百を三百へ引き下げた。それでもまだ死ぬ。
そこで中元年間に箠令という規定が出される。笞二百をさらに百へ、笞三百を二百へ減らしたうえで、驚くべきことに、打つ道具の規格まで法定した。竹の長さ、太さ、先端の薄さ、節を平らに削ること、そして打つ部位を臀部に限定し、途中で執行者を交替させないこと。道具の寸法を法律で決めるという発想がどこから来たかというと、現場が加減していたからだ。同じ笞百でも、道具と打ち手次第で生死が変わる。
つまり刑の重さが執行者の裁量で決まってしまう。それを潰すために、国家は鞭のサイズを条文にした。この徹底ぶりは、逆に言えばそれまでどれほど無秩序に人が死んでいたかを示している。
肉刑を復活させろ、と真顔で論じた人たち
肉刑が消えたあと、中間刑の欠落はずっと問題であり続けた。だから何度も蒸し返される。復活させろ、と。いちばん有名なのが三国時代の魏で起きた論争だ。鍾繇と陳羣が復活を主張した。
彼らの論拠は情緒ではなく統計めいた実務論で、肉刑を廃止したせいで死刑になる者が増えている、死ぬよりは体を残して生かすほうがまだましだ、というものだった。加えて、刑を受けた者が街にいることで他の人間が法を恐れるという抑止効果も挙げている。反対したのは王朗、王修、そして夏侯玄あたりだ。
夏侯玄の反論が鋭くて、政治は徳と寛容で民を導くものであって、恐怖で犯罪を防ごうとするのは順序が逆だ、という趣旨のことを言っている。もう一つ現実的な反対理由もあった。肉刑を復活させれば民が逃散する。近隣勢力と人口を奪い合っている時代に、統治への恐怖を煽るのは自殺行為だという計算だ。曹操は荀彧に意見の取りまとめを命じ、広く議論させたうえで結論を保留した。
曹丕の代、曹叡の代にも再燃したが、そのたびに反対が押し切る。結局、魏でも晋でも肉刑は法定刑に戻らなかった。ここが分岐点だった。中国の刑罰史は、身体を切る方向へは戻らず、別の方向に穴を埋めにいくことになる。
穴を埋めたのは、距離と時間だった
代わりに何が入ったか。答えは、流刑と徒刑だ。秦漢の遷刑は、隔離を目的とした措置であって、後世の流刑とはニュアンスが違った。伝染病や親不孝を理由に行われることもあり、罪人を都から山に囲まれた蜀へ移すような運用が中心だった。死刑の代替として辺境へ送る徒遷刑も現れるが、あくまで代替であって主刑ではない。
主刑としての流刑がはっきり立ち上がるのは北魏だ。太和十六年、孝文帝のもとで新しい律が定められ、その翌月に孝文帝自身が詔で流罪の規定を追加した。ここで初めて、死刑の次に重い独立した刑として流刑が置かれる。これは刑罰思想の大転換だ。身体を削る代わりに、生活の場所を奪う。
共同体からの距離で罰の重さを測る。そしてもう一方の徒刑は、時間を奪う。何年その身柄を国家に預けるかで重さを表現する。身体、距離、時間。罰の単位が入れ替わった。
肉刑が退場したのは道徳心が芽生えたからというより、身体以外に測れる尺度を人間社会が手に入れたからだ、と考えたほうがたぶん実態に近い。
開皇律という、刑罰史の切り替えスイッチ
新しい五刑が正式な形になったのは隋だ。開皇元年、文帝は高熲ら十四人に命じて新律を作らせ、同年十月に施行する。三年には刑部の奏上を見て、条文が厳密すぎて罪に落ちる者が多いと判断し、蘇威や牛弘らに繁を削り軽に代える方針で改訂させた。こうしてできたのが開皇律、十二篇五百条だ。旧律と比べて、死罪を八十一条、流罪を百五十四条、徒罪と杖罪を千条あまり削っている。
さらに前代の鞭刑、梟首、轘裂といった処刑法を廃止し、家族を巻き込む連坐の規定も削った。そして確定したのが、笞、杖、徒、流、死の五つ、合計二十等という体系である。死は絞と斬の二等。流は千里、千五百里、二千里の三等で、それぞれ二年、二年半、三年の労役が付く。徒は一年から三年まで半年刻みの五等。
杖は六十から百まで十刻みの五等だ。笞は十から五十まで十刻みの五等。墨、劓、刖、宮という、皮膚を裂き肢体を損なう刑は、ここで法定刑の表から消えた。上古から数えれば二千年近く続いた発想が、条文の書き換え一回で退場したことになる。もちろん現実の運用がすぐ変わったわけじゃないけれど、国家が公式に何を正当な刑と認めるかという線は、この時点で引き直された。
唐律疏議が完成させた、痛みの目盛り
開皇律の枠組みをそのまま受け継いで完成度を上げたのが唐律で、その注釈をまとめたのが唐律疏議だ。東アジアの法制の共通言語になった書物である。唐の五刑も二十等。笞は荊の枝で臀部や脚を打つ刑で五等。杖はより重く、笞杖、常行杖、訊囚杖の三種類の道具が定められていた。
ここで面白いのは、太宗と文宗が背中を打つと死傷しやすいと判断して、背への打撃を禁じた記録があることだ。刑の設計を痛みの強さではなく致死率で調整している。徒は刑具を付けての強制労役で一年から三年まで五等。流は二千里、二千五百里、三千里の三等で、配所では首かせを付けられて一年の居作という労役が課される。三千里のうち特に罪が重い者は居作三年になり、これを加流と呼ぶ。
妻妾は必ず配所へ同行しなければならず、父祖や子孫は希望次第。居作が終われば刑としては終了だが、そのまま現地の戸籍に付けられて、故郷には二度と戻れない。死は絞と斬。斬のほうが重い。首と胴が離れることを、体を親から受けたものとして完全な形で返せなくなる、と捉える儒教的な感覚が背景にある。
ここにも身体観がしっかり効いている。
消えたはずの発想が、いちばん残酷な形で戻ってきた
じゃあ肉刑的な思考が本当に消えたのかというと、そんなことはない。むしろ法定刑の外側で、より極端な形に育ってしまった。凌遅処死がそれだ。少しずつ切りながら長時間かけて死に至らせる処刑で、法制化されたのは唐が滅んだあとの五代十国だとされる。宋では斬や絞と並ぶ死刑の一種として法に載るが、実際の執行は抑制されていた。
それが遼、金、元、明、清と進むにつれて謀反や大逆の常用刑になっていく。明では袁崇煥のように著名な人物が処されている。清では反乱の首謀者に対する定番になり、林爽文が乾隆五十三年、太平天国の李秀成が同治三年、同じ年には十五歳に満たない洪天貴福も処された。公式に廃止されたのは光緒三十一年、西暦一九〇五年。日露戦争が終わった年である。
車裂も同じ系列にある。五馬分屍とも呼ばれ、複数の車や馬に体を結んで引き裂く。開皇律で轘裂として廃止されたはずのこの処刑法も、時代が下ると別の名前で顔を出す。なぜ法定刑から追い出したはずの残酷さが戻るのか。理由ははっきりしていて、政治犯や反逆者を扱う場面では、罰の目的が矯正でも抑止でもなく、見せしめの演出になるからだ。
そこでは身体は罰の対象ではなく、権力の掲示板になる。肉刑の本質――身体に消えない印を残すという発想――は、こういう形で生き延びた。
日本は唐の法を丸ごと輸入して、肉刑だけ置いてきた
さて、日本だ。天武朝以降、日本は唐の律令を本格的に受け入れ、大宝律令と養老律令で法典を整える。五刑もそのまま入ってきた。笞は十から五十の五等、杖は六十から百の五等、徒は一年から三年の五等、流は近流、中流、遠流の三等、死は絞と斬。合計二十等。
唐の枠組みを驚くほど忠実になぞっている。ところが、輸入されなかったものがある。肉刑だ。墨も劓も剕も宮も、日本の律の正刑には入っていない。これは考えてみると不思議な話で、日本が受け入れたのは唐律であって、唐律にはもともと肉刑がない。
だから当然といえば当然だ。でも問題はその先で、日本は唐律を受け入れたあと、中国が何度も繰り返した肉刑復活論のような議論を、法制の中心ではほとんどやっていない。中間刑の欠落に悩んだ形跡が薄いのだ。理由はいくつか考えられる。一つは、日本の律令が贖銅の制度を広く使ったこと。
銅を納めることで刑を免れる仕組みがあり、特に官人層はこれで実刑を回避できた。八虐にあたる重罪でなければ、位階による減免も効く。身体に手を出す前に、財と地位で調整する回路が最初から用意されていた。もう一つは、死や血を穢れとして忌避する感覚が強かったこと。刑の執行そのものが穢れを生むと考えられれば、身体を切る刑は制度として使いにくくなる。
面白い証拠がある。十四世紀の徒然草に、笞打ちの際に罪人を引き寄せて縛り付ける拷器があったが、その構造も縛り方も、今では知っている者がいない、という記述がある。律令の笞刑は、道具の使い方すら忘れられるほど実運用から遠ざかっていたわけだ。法典には書いてある。でも誰も執行していない。
この空白が、日本の刑罰史の変な癖を作っていく。
中世日本の耳鼻削ぎは、じつは助命措置だった
法典が肉刑を採らなかったからといって、日本人が身体を切らなかったわけではない。むしろ中世には、耳や鼻を削ぐ処罰が広く行われていた。ただ、その位置づけが中国とはまるで違う。日本中世史の研究が明らかにしてきたところによると、耳鼻削ぎは死刑の代わりに使われる宥免措置だった。本来なら殺されるところを、命は取らずに済ませる。
当時の感覚では、殺されるよりはまし、という理屈になる。つまり刑を重くする方向ではなく、軽くする方向に働く道具だったのだ。もう一つ、日本独特の特徴がある。中世の耳鼻削ぎは女性に対して執行された例が多い。男性の場合は死刑の代わりに髻を切ることが多く、耳鼻を削ぐのは女性向けという認識があったらしい。
背景には、女性を男性と同じように処刑することを避ける心理があったとされる。命は助ける。でも印は残す。優しさと残酷さが同じ動作の中に同居している。記録としては大鏡に、藤原道雅の妻をめぐる件で鼻をかき落としたという表現が見える。
義経記には、法師が耳と鼻を削がれて放免された話が出てくる。一般男性への適用例はきわめて稀だった。戦国期になると意味が変わる。天正十七年、落書きをした者たちに対して秀吉が段階的な処罰を科した記録があり、初日に鼻を削ぐという形が含まれている。文禄慶長の役では、討ち取った敵の首の代わりに耳や鼻を戦功の証として持ち帰る運用が大規模に行われた。
大将級は首、雑兵は耳鼻、という区分だ。持ち帰られたものは塩や石灰に漬けて保存され、京都に塚が築かれた。ただし各地の耳塚や鼻塚が実際に耳鼻を埋めたものかについては、研究上の疑問が出されている。江戸に入ると、耳鼻削ぎは追放刑の付加刑という位置に落ち着き、やがて消えていく。慶長十四年に日経とその弟子たちが耳や鼻を削がれた事件が知られている。
だが、岡山藩は元禄六年、会津藩は元禄十一年に廃止しており、十七世紀末にはもう時代遅れの刑になっていた。
腕の二本線が語っていたこと
江戸の刑罰で肉刑らしい肉刑といえば、入墨刑だ。窃盗の常習者や無宿の詐欺横領犯などに科された。法制化されたのは享保五年、一七二〇年。八代将軍吉宗の時代である。入墨刑の設計思想は、公事方御定書を読むと見えてくる。
この法典は寛保二年に成立し、宝暦四年に確定した。下巻がいわゆる御定書百箇条で、判例を抽象化した刑事法令が並ぶ。窃盗については、初犯は敲、再犯は入墨、三度目で死罪という段階が組まれていた。これは中国の肉刑とは目的が違う。中国の墨刑が「この者は罪人である」という掲示だったのに対し、江戸の入墨は「この者は何回目か」というカウンターだった。
前科記録のデータベースがない社会で、再犯かどうかを判定する方法が他になかったのだ。腕に線を入れておけば、次に捕まったときに一目で分かる。人体を台帳として使っている。だから形にも意味があった。江戸や大坂では腕に二本ないし三本の線を入れる形式が定められていた。
地域によって形は違い、それぞれの支配領域の記号として機能する。線が増えていくというのは、記録が更新されているということだ。吉宗の狙いは、単なる厳罰化ではなかった。それまでの江戸の刑罰は死刑か追放刑に偏っていて、追放された者は法的な居場所も職も失い、結局また罪を犯すという循環が起きていた。懲らして善に進ませる、という発想で、更生の余地を残す段階刑を組んだのが御定書だ。
吉宗は明律をよく研究していたとされ、その思想の影響も指摘されている。孫にあたる松平定信の代には、放免された者の受け皿として人足寄場が設けられる。ただし数字を見ると理想と現実の落差が分かる。幕末の江戸で入墨や敲を科された者のうち、人足寄場に収容されたのは全体で二割弱にすぎない。八割は印だけ付けられて街に戻された。
腕に線が入ったまま、仕事も住所もない状態で。この状態で再犯するなというのは、なかなか無理がある。
江戸の死刑にも階段があった
日本側でも、刑の階層化という発想は江戸で徹底されている。公事方御定書のもとで、死刑は一段のものではなかった。軽いほうから、下手人、死罪、獄門、磔、火罪、鋸挽という順に並ぶ。下手人は首を斬るだけで、遺体は引き取りが許される。死罪になると財産が没収され、刀の試し斬りに遺体が使われることがある。
獄門はさらに首を晒す。磔と火罪は公開処刑で、放火犯には火罪が対応するという、罪と刑を対応させる思想が入っている。鋸挽は最上位に置かれた形式的な刑で、実際の運用は簡略化されていた。ここでも効いているのは、殺したあとに遺体をどう扱うかという線引きだ。引き取れるか、晒されるか、焼かれるか。
死んだ瞬間で罰が終わらない。中国の梟首や棄市と同じ発想が、まったく別の社会でも独立に立ち上がっている。身体は生きているあいだだけの器ではなく、死んだあとも社会的な意味を持ち続ける。だから権力はそこに手を伸ばす。肉刑の思想は、生者の皮膚だけでなく死者の遺体にも及んでいたということだ。
身体から時間へ、最後の切り替え
明治三年十二月、新律綱領が発布される。全六巻、八図十四律百九十二条。中身は大明律と大清律を参考にした、はっきり東アジア法系の刑法典だ。正刑として笞罪、杖罪、徒罪、流罪、死罪の五刑を置いている。開皇律から千三百年近く経って、まだ同じ五刑である。
入墨刑については、この前後で廃止の方針が固まっていく。明治六年の改定律例で笞罪と杖罪が懲役に置き換えられ、身体を打つ刑が正刑から退場していく。ただ実態としてはしばらく残っていて、統計を見ると明治十年前後には年に二万人を超える笞杖刑の執行があった。特に旧陸海軍では受刑者の半数以上が笞杖刑という年もある。制度が変わっても現場は簡単には変わらない。
決定的だったのは明治十三年、フランス刑法を範とした旧刑法の布告だ。ここで刑の単位は完全に、拘禁される時間と財産に切り替わる。中国で凌遅が廃止される二十五年前に、日本は身体刑の系譜から降りた。こうして二千年以上続いた発想は、少なくとも法典の上からは消える。額の墨も、腕の線も、法律の条文からは消えた。
ここまで書いてきて、あらためて引っかかっているのは、肉刑という制度がなぜこれほど長く生き延びたのかという点だ。残酷だから続いたわけじゃない。残酷なだけの刑罰は、たいてい別の方法に置き換えられていく。肉刑が二千年もった理由は、それが当時の統治にとって圧倒的に効率的だったからだ。考えてみてほしい。
古代の国家には、戸籍はあっても写真がない。指紋も声紋もない。人が名前を変えて隣の郡へ移ってしまえば、その人物が過去に何をしたかを知る方法がない。監獄を建てて長期間閉じ込めるには、建物と食糧と看守が要る。財政的に無理だ。
罰金を取ろうにも、貨幣経済が全域に行き渡っているわけでもない。そこで残る選択肢が、身体そのものに情報を書き込むことだった。額に墨を入れれば、その情報は本人が持ち歩いてくれる。維持費ゼロ。改ざん不可能。
誰でも読める。国家が管理コストを一切払わずに、前科情報を社会全体に配布できる。これほど費用対効果の高い記録システムは、近代的な行政機構ができるまで存在しなかった。つまり肉刑は、拷問の一種というより、原始的な身分証明システムだったと考えたほうが正確だ。そう捉え直すと、この制度の本当の怖さが見えてくる。
怖いのは痛みじゃない。自分に関する情報を、自分の体に書き込まれて、消す権利を永久に奪われることだ。現代の言葉に置き換えると分かりやすい。忘れられる権利がない、という状態である。何をしても、どこへ行っても、初対面の相手が自分の過去を先に知っている。
弁明の機会が構造的に与えられない。テイエイが文帝に訴えた核心も、じつはここにあった。彼女は父の無実を主張していない。刑が重すぎるとも言っていない。彼女が言ったのは、刑を受けた体は元に戻らないから、悔い改めて生き直そうとしてもその道が存在しない、ということだ。
処罰の重さではなく、処罰の不可逆性を問題にしている。この論点の立て方は、二千二百年近く経った今読んでも古びていない。刑罰が終わったあとに社会復帰の道があるかどうかという問いは、そのまま現代の刑事政策の中心テーマだ。前科記録の保存期間、少年事件の非公開、報道された名前がネット上に半永久的に残る問題。全部、印が消えるかどうかの話である。
そして文帝の改革が教えてくれる二つ目の教訓が、これまた身につまされる。善意で制度を撤去すると、穴が空く。肉刑を廃止したこと自体は正しかった。でも、廃止したあとに何を置くかを設計しないまま撤去したので、重い側の罪が死刑に流れ込み、軽い側は致死的な笞刑に押し込まれたのだ。名目上は人道的になったのに、死者は増えた。
景帝が笞の回数を二度にわたって減らし、最終的に鞭の寸法まで法定しなければならなかったのは、その後始末である。制度を優しくするというのは、単に厳しい部分を消すことではない。消した分の機能を、別の形で引き受ける仕組みが要る。中国がその穴を埋め終えるまでに、北魏の流刑導入まで六百年以上かかっている。六百年間、中間刑の欠落を抱えたまま運用していたわけだ。
魏で鍾繇や陳羣が肉刑復活を唱えたのも、その空白の痛みを実務者として知っていたからだろう。彼らは残虐趣味で言ったんじゃない。死刑にするしかない現状より、体を残して生かすほうがましだと本気で計算していた。そして夏侯玄たちは、その計算を認めたうえで、恐怖を統治の基盤にすることの危険を指摘して押し返した。この対立は、刑罰思想史の中でもかなり質の高い論争だと思う。
日本の事情も面白い。唐律を輸入しながら肉刑を採らなかったのは、単に唐律に肉刑がなかったからという以上の意味がある。日本の律令は贖銅と位階による減免を厚く用意していて、実刑に至る前に金と身分で処理する回路を持っていた。身体に手を出す必要が制度上あまりず、加えて、血や死を穢れとみる感覚が執行そのものへの忌避感を生んでいた。
徒然草が笞打ちの道具の使い方を誰も知らないと書いているのは象徴的で、法典の条文と現場の実態が完全に乖離していたことを示している。ところがその法典の外側で、中世日本は耳鼻削ぎを行っていた。しかもそれは刑を重くする道具ではなく、死刑を回避するための宥免措置として機能していた。ここが中国と決定的に違う。中国の肉刑は、罪の重さに応じて上から降ってくるものだった。
日本の耳鼻削ぎは、殺すか助けるかの境界線上で、下から手を伸ばして命を拾うものだった。同じ身体損壊でも、制度上の向きが逆なのだ。さらに、日本では女性への適用が多かった。女性を男性と同じように処刑することを避けたい、という感覚が背後にある。命は助ける、でも印は残す。
この配慮は、現代の目から見れば当然ながら容認できるものではないけれど、当時の人々が何を守ろうとしていたかは読み取れる。処罰の思想には、その社会が何を失いたくないと思っているかが必ず反映される。中国が家系の断絶を最悪の恥辱として宮刑を重く置いたのも、同じ構造だ。何を奪えば最も効くかという設計は、その社会の価値観の裏焼きになっている。江戸の入墨刑には、また別の発想が入っている。
あれは掲示ではなく記録だった。何回目の犯行かを腕の線で数える、原始的なカウンターだ。吉宗はそこに更生の余地を組み込もうとした。初犯は敲、再犯は入墨、三犯で死罪という段階を設けたのは、二回目までは戻ってこられるという設計思想である。それまでの死刑か追放かという二択に比べれば、明らかに前進だった。
ただ、この設計には致命的な穴があった。印を付けたあとの受け皿だ。松平定信が人足寄場を作ったのは、まさにその穴を埋めるためだったのに、幕末の統計では収容率は二割弱にとどまる。残りの八割は、消せない線を腕に入れられたまま、身元保証も職もない状態で街に返された。そのうえ入墨は社会的な排除の記号として機能する。
まっとうな雇い主は雇わない。つまり、再犯を減らすために付けた印が、再犯以外の選択肢を奪うという逆流が起きていた。この構造は、現代でもそのままの形で存在している。記録を残すことは、社会の防衛としては合理的だ。でも記録が消えないと、記録された人間の未来が閉じる。
防衛と排除の境目がどこにあるのかという問題は、いまだに誰も解けていない。肉刑の歴史を追っていて最後に残る感触は、これは古代の野蛮な話です、という結論にどうしてもならない、という居心地の悪さだ。墨も劓も剕も宮も、法典からは消えた。物理的に人の体を切ることは、少なくとも近代法の建前としては終わった。でも、消えない印を付けて人を管理するという発想そのものは、一度も廃止されていない。
媒体が皮膚から紙へ、紙からデータへ移っただけだ。刻む場所が体の外に出た、というだけの話かもしれない。呂刑が鼻に値段を付け、命に値段を付けていたことを、僕らは残酷だと感じる。でもその感覚が成り立つのは、身体に価格を付けるのはおかしい、という前提を共有しているからだ。じゃあ、時間に価格を付けるのはいいのか。
名前が検索結果に残り続けることに価格を付けるのはいいのか。単位が変わっただけで、罰の本体――その人の未来のどれだけを国家や社会が取り上げられるか――という問いは、三千年前から一ミリも動いていない。古代中国が二千年かけて出した答えは、身体から距離へ、距離から時間へ、という移行だった。
開皇律の条文一枚で切り替わったように見えるけれど、実際には呂刑からテイエイの上書を経て、魏の論争と北魏の流刑導入を通り、隋唐でようやく形になった。途方もなく長い試行錯誤の結果だ。その途中には、善意の改革が死者を増やした前漢の失敗も、廃止したはずの残酷さが政治犯向けに復活した宋以降の逆行もある。まっすぐ進歩してきたわけじゃない。だから、いま自分たちが立っている場所も、たぶん最終形ではない。
三千年後の誰かが、二十一世紀の刑罰を見て、この時代の人は人間の時間を年単位で取り上げていたのか、と眉をひそめる可能性は普通にある。肉刑の歴史がいちばん強く教えてくるのは、そういうことだ。自分たちが当たり前だと思っている罰の尺度は、たまたま今この瞬間に採用されている一つの案にすぎない。額に墨を入れるのが当然だった人たちも、まったく同じことを思っていなかったはずがない。
肉刑をめぐる議論でもう一つ押さえておきたいのが、贖罪制度の存在だ。呂刑はすでに、刑ごとの贖い金を条文化していた。墨は百鍰、宮は六百鍰、大辟は千鍰。唐律にも贖銅の規定があり、日本の律令はそれをさらに広く使った。八議の対象者や一定以上の官人は減等され、銅を納めれば実刑を回避できる。
つまり、身体に刻む刑を最も重く受けるのは、常に金も地位もない層だった。これは制度の欠陥ではなく、設計だ。財で払える者は財で払い、払えない者は体で払う。呂刑の値札は、そのまま社会階層の目盛りでもある。この構造は肉刑が消えても残った。
江戸の入墨刑は無宿者や軽微な窃盗犯に集中しているし、笞杖刑が明治になってもなかなか消えなかった背景には、罰金が払えない者への換刑として使われ続けた事情がある。明治九年前後の統計を見ると、贖罪金を払えずに笞杖へ換えられた者が年に七百人以上いた。刑罰の近代化というのは、身体を切らなくなることであると同時に、支払い能力によって罰の形が変わる仕組みをどこまで縮小できるかという問題でもあった。
そしてこの点も、まったく解決していない。保釈金、罰金、弁護費用。払える者と払えない者で結果が変わる構造は、形を変えて生き残っている。呂刑が鼻に値段を付けていたことを笑えるほど、僕らは遠くまで来ていない。肉刑の歴史をたどると、結局のところ三つのことが繰り返し確認される。
一つ、罰の単位はその時代が測れるものになる。身体しか測れなければ身体を測り、距離を測れるようになれば距離を測り、時間を管理できるようになれば時間を測る。二つ、制度を撤去するときは穴の設計が要る。文帝の失敗はそこにあり、六百年かけて埋められた。三つ、消えない印を付けるという発想は媒体を変えて生き延びる。
皮膚から戸籍へ、戸籍からデータへ。古代中国の五刑を読むと、ぞっとする。でもそのぞっとする感じの正体は、遠い野蛮への嫌悪じゃない。あれは、うっすら見覚えのあるものを見たときの反応だ。
