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棺の中で目を覚ましたら――「早すぎた埋葬」の恐怖が生んだ安全棺と死体待機所、そして一度も鳴らなかった鐘の百年

土の匂いがする。まずそれに気づく。

次に、鼻先から数センチのところに板がある、と分かる。手を動かそうとするが、びくとも動かない。腕は胸の上で組まされていて、その上から白い布がきつく巻かれている。指先だけがかろうじて動く。爪が木に当たって、かつ、と鳴る。

その音が、思っていたよりずっと近い。

十九世紀のはじめ、ヨーロッパのどこかの町で、こういう目覚め方をした人間がいたかもしれない。いなかったかもしれない。そこが、この話のいちばん厄介なところだ。ただ、当時の人たちは「いた」と信じた。心の底から信じた。

だから彼らは棺に鐘をつけ、死体に糸を結び、墓地のそばに死体を寝かせておくための建物を建てたのだ。特許まで取った。三十件以上の特許が、ドイツだけで出願された。

そしてその鐘は、記録に残るかぎり、一度も本気で鳴らなかったのである。

これは、そういう百年の話だ。

棺の中で目を覚ますということ

まず、想像してみてほしい。当時の埋葬がどういう手順で進んだかを知らないと、この恐怖の輪郭はつかめない。

十八世紀から十九世紀の西欧では、人が死ぬと、まず家族が呼ばれる。医者が来ることもあるが、来ないことのほうが多い。田舎ならなおさらで、死亡の判定はしばしば医者ですらない人間が行っていた。鼻の下に羽根を置いて、揺れるかどうかを見る。胸の上にコップを載せて、水面が波打つかを見る。

鏡を口元にかざして、曇るかを見る。それで「死んでいる」と決まる。

決まったら、体を洗う。これは近親者の女性の仕事だった。次に、あごが落ちないように布で頭のてっぺんまで縛る。目が開かないようにまぶたの上に硬貨を置く。手足はまっすぐ伸ばして、腕を胸の上で組ませる。

経帷子を着せる。ここまでが数時間。

そのあと、家の居間か寝室に安置される。これが通夜で、アイルランドの通夜が長かったのは、酒を飲みたかったからだけではない。念のため待っていたのであり、ただ、待てる期間には限りがある。夏ならにおうし、伝染病の流行期なら、そもそも当局が待つことを許さない。

翌日か、その翌日には棺に納められる。当時の一般的な棺は松材で、内側に布を張ることもあれば張らないこともあった。蓋は釘で打ちつける。この釘打ちの音が、後の時代の怪談で決まって使われるモチーフになる。それから荷車か肩に担がれて墓地へ運ばれ、穴に下ろされ、土がかけられる。

深さは約百八十センチ。土の重さは、棺の蓋一枚あたりでおよそ数百キロに達する。

さて、ここで目が覚めたとしよう。

まず、真っ暗であり、目を開けても閉じても変わらない。次に、あごが縛られていて口が開かず、手も動かせない。声を出そうとしても、経帷子と土が音を吸う。地上に届く音量ではない。棺の中の空気は、成人一人分でおよそ一時間から二時間ぶんしかないと見積もられている。

つまり、恐怖に駆られて暴れれば暴れるほど、時間は縮む。

十九世紀の人々が本当に怖がったのは、死ぬことではなかった。この一時間のほうだった。

タフォフォビアという名前がつくまで

この恐怖には、ちゃんと名前があり、タフォフォビア。墓を意味するギリシャ語系の語幹に、恐怖症を意味する語尾をつけたものだ。イタリアの精神科医エンリコ・モルセッリが一八九一年に命名したとされる。

ただ、名前がついたのは恐怖のピークを過ぎたあとだ。名前が出てくる百五十年前から、この恐怖はもう西欧を歩き回っていた。

きっかけは、一冊の本だった。

火をつけた本――ヴァンスローとブリュイエ

デンマーク生まれでフランスで活躍した解剖学者、ジャック・ベニーニュ・ヴァンスローという人がいる。一六六九年生まれで、パリの王立庭園で解剖学を教えた、当時の最高級の学者だ。

このヴァンスローが、一七四〇年に「死の徴候の不確実性について」という趣旨の学位論文をラテン語で発表した。中身は、当時の医学に対する痛烈な自己批判だ。要するに「われわれは死を確実に判定できていない」。

なぜそこまで言い切ったのか。伝わっている話では、ヴァンスロー自身が二度、死んだと思われて危うく埋められかけたのだという。子どものころ、意識を失って死亡と判断され、棺に納められた。その時はかろうじて助かり、若い頃にも同じことが起きている。だから彼は、自分の身体で医学の限界を知っていた。

彼の結論は身も蓋もない。確実な死の徴候はひとつしかなく、腐敗だ。腐りはじめるまで、その人が死んでいるとは断言できない。

ここまでならラテン語の学術論文で終わっていた。ところが、この論文をフランス語に訳した人物がいた。ジャック・ジャン・ブリュイエ・ダブランクールという医師だ。一七四二年、彼はヴァンスローの論文を「死の徴候の不確実性と、性急な埋葬および防腐処置の弊害について」という題でフランス語版として世に出した。

問題は、ブリュイエが「訳しただけ」ではなかったことだ。彼は原著の何倍もの分量の注釈と実例を書き足した。生き返った人、棺の中で暴れた人、解剖台の上で悲鳴を上げた人。そういう逸話を何十件も、時には百件を超える規模で並べたのだ。そして版を重ねるたびに逸話は増えた。

英語版も出て、ドイツ語圏にも一気に広がった。

ブリュイエの本がどれほどの勢いで広がったかは、版の増え方を見れば分かる。初版が世に出た一七四二年から数年のうちに増補版が組まれ、収録される逸話は版を追うごとにふくらんでいき、やがて何百ページもの大部の読み物として流通するようになった。ここで起きていたのは、医学の論文が怪談集へと少しずつ形を変えていく過程だったと言っていい。

しかも彼が並べた事例の多くは、教区の記録や医師の診療録ではなく、知人から聞いた話や古い年代記からの孫引きで、日付も場所もあいまいなまま置かれていた。読者はそれを一件ずつ吟味したりはしないし、百件並んでいれば、百件あったと受け取る。恐怖というのは事例の質ではなく事例の数で決まるところがあって、ブリュイエはそこを、たぶん本人も意図しないまま正確に突いてしまった。

これが効いた。効きすぎたのである。ラテン語の専門書なら読むのは医者だけだ。でもフランス語の読み物になった瞬間、それは貴族のサロンでも、市民の居間でも読まれるものになった。ブリュイエの本は、恐怖の配布装置になった。

もちろん反論も出たのだ。フランスの外科医アントワーヌ・ルイは、一七五二年に「死の徴候の確実性についての書簡」を発表して、ブリュイエの集めた逸話は伝聞と誇張の山だと切って捨てている。後世の医学史家も、ブリュイエの事例集は「信頼できる記録というより、面白い話の寄せ集め」と評価している。

でも、遅かった。人は反論より逸話を覚える。今も昔も、そこは変わらない。

死んでいるかどうか、どうやって確かめたか

腐敗が唯一の確実な徴候だと言われても、では実務としてどうするのか。ここから医学は妙な方向に走り出す。

当時、生死の判定のために提案される。実際に試されたものを見ていくと、その必死さと、同時にどうしようもない乱暴さが伝わってくる。

いちばん穏やかなのが観察系であり、羽根、鏡、水を張ったコップ。それから聴診。一八一六年にルネ・ラエネックが聴診器を発明したことで、心音を聞くという発想は広まった。ただ、初期の聴診器は木の筒であり、弱った心臓の音を拾いきれない。だから聴診器の登場は、皮肉なことに「聞こえないから死んでいる、とは言い切れない」という不安をむしろ強めた面がある。

そこから先は刺激系になる。羽根で鼻をくすぐる。くしゃみを起こす粉を鼻に入れる。舌を器具で引っ張る装置まで作られた。舌を強く引けば、まだ生きていれば反射で抵抗するはずだ、という理屈だ。

さらに乱暴になる。爪の下に針を刺す。皮膚に熱した金属を当てる。電気を流す。当時、電気刺激は最先端の医学だった。

カエルの足が電気で動くのだから、人間の体も動くはずだ、と。

十八世紀の蘇生医学では、溺死者を生き返らせるためにたばこの煙を腸に送り込む処置が真面目に行われていた。ロンドンのテムズ川沿いには、この器具を備えた救助設備が置かれていたという。今から見れば奇怪だが、当時としては「体を内側から温めて刺激すれば戻るかもしれない」という一貫した理屈があった。

ドイツ語圏の資料を読むと、仮死状態からの蘇生のために、瀉下薬の浣腸、薬草の湿布、皮膚を発赤させる貼り薬、電気刺激。さらには頭蓋の穿孔まで挙げられている。要するに、生きているなら反応するはずだ、という賭けだ。反応しなければ死んでいる。反応させるための手段は問わない。

こういう時代背景を知ると、なぜ人々が「棺に鐘をつける」というアイデアに飛びついたのかが分かってくる。医者の判定を信じられなかったからだ。医者自身が信じていなかったのだから、当然といえば当然だ。

最初の安全棺――一七九二年、ブラウンシュヴァイクの公爵

はっきり記録の残っている最初の安全棺は、ドイツの貴族が自分のために作らせたものである。

ブラウンシュヴァイク公フェルディナントは、一七九二年に自分専用の棺を注文した。仕様はこうであり、蓋に窓をつけて光が入るようにする。空気を送り込むための管を通す。そして蓋には錠をつけ、その鍵を経帷子のポケットに入れておく。もし目が覚めたら、自分で鍵を取り出して開ける。

この設計には二本の鍵が用意されていたと伝えられている。ひとつは棺の蓋、もうひとつは霊廟の扉のためだ。つまり彼は、地中に埋められるのではなく、地上の霊廟に安置されることを前提にしていた。

その前年、一七九一年にはイギリスのマンチェスターで、ロバート・ロビンソンという人物が動く硝子板と霊廟の点検用扉を備えた設計を示している。番人が中をのぞける、という発想だ。

初期の安全棺には共通の特徴があり、金持ちのためのものだ、ということ。窓、空気管、鍵、霊廟。どれも土に直接埋められる貧しい死者には無関係な装備だった。恐怖は誰にでも訪れるが、対策は買えた者だけのものだった。この構図は、この後の百年ずっと変わらない。

鐘型――タベルガーの糸と鈴

安全棺の設計はいくつかの型に分けられる。まずは鐘型。いちばん有名で、いちばん誤解されている型だ。

一七九八年、ペスラーという医師が、棺から教会の鐘まで管をつなぐという案を出している。同時期にベックという牧師が、腐敗臭を嗅ぎ分けるための管を提案した。管の先に鼻を近づけて、腐っていれば埋める、まだ匂わなければ待つ。異様だが、ヴァンスローの「腐敗こそ唯一の徴候」という結論を素直に実装するとこうなる。

鐘型の完成形は、一八二九年のヨハン・ゴットフリート・タベルガーの設計だとされる。棺の中の死者の手、足、そして頭に、それぞれ紐を結ぶ。紐は棺の蓋を貫いて地上に伸び、地表に立てた鐘につながっている。どこかが少しでも動けば鐘が鳴る。

タベルガーは細部まで考えており、管の上端には雨と雪よけの覆いがつく。さらに、鐘が鳴ったら墓守が管にふいごをつないで空気を送り込めるようになっていた。掘り出すまでのあいだ、窒息させないためだ。

この設計の問題点は、実際に運用してみるとすぐに分かる。人間の遺体は、死後、勝手に動くのだ。腐敗が進むと腹腔にガスがたまり、体が膨れる。膨れれば手足の位置がずれる。関節が緩んで腕が落ちる。

棺の中の遺体は、数日かけてゆっくりと形を変える。

つまり鐘は鳴る。頻繁に鳴る、そして墓守が駆けつけて掘り返すと、そこにあるのは膨れた遺体だ。これが何度か続けば、次に鳴っても誰も走らなくなる。

ちなみに、日本でもよく紹介される「セーブド・バイ・ザ・ベル」という英語の慣用句の語源が安全棺だ、という話がある。あれは誤りだ。この言い回しは十九世紀末のボクシング用語で、ゴングに救われて負けを免れる、という意味だ。一八九三年のアメリカの新聞に、ラウンド終了のベルに救われたボクサーの記事として出てくるのが早い用例とされる。墓とは関係ない。

「デッド・リンガー」や「グレイブヤード・シフト」も同様に、後から棺の話にこじつけられた語源俗説だ。

面白いのは、この俗説自体が「安全棺が実際に使われていた」という誤った印象を強化してきたことだ。語源の話は覚えやすい、だから広まる。広まると、その前提のほうまで本当らしく見えてくる。

空気管型――フェスターの管とはしご

次は空気管型で、地上と棺をつなぐ太い管そのものを主役にした設計だ。

代表格が、アメリカのニュージャージー州ニューアークのフランツ・フェスターによる設計だ。一八六八年八月二十五日に、合衆国特許第八一四三七号として登録されている。番号まで残っているので、これは疑いようがない。

構造はこうであり、棺の蓋から、四角い断面の管が地表まで垂直に伸びており、この管は太い。人が通れる太さであり、管の中には、はしごがかかっている。目を覚ました人間は、はしごを登って自力で地上に出られる。

さらに、管の上端には鐘がついている。棺の中の死者の手には紐が握らされていて、その紐が鐘につながる。まず鐘を鳴らして助けを呼び、それから登る、という段取りだ。

管には空気を取り入れるための穴が開いている。そして管の上部にはガラスの扉がついていて、外から中をのぞける。これが重要な工夫だった。それまでの安全棺は、鐘が鳴るたびに掘り返すしかなかった。フェスターの管なら、まず顔をのぞきに行けばいい。

誤報の確認コストを劇的に下げる設計だ。

もうひとつ実務的な工夫がある。死亡が確定したら、管は取り外して回収し、別の墓で再利用できる。棺そのものは安価なままにして、高価な装置は使い回す。合理的だ。

似た発想に、一八八二年のクリヒバウムの特許がある。潜望鏡のような可動式の管を墓に立て、中の人間が回したり押したりすると、地上の通行人にそれと分かる、というものだ。ガラスを使い、生きていれば呼気で曇るという判定法を組み込んだ設計図も伝わっている。

空気管型の弱点は、地上に管が出ていることそのものだ。墓地の景観を損なうし、管から雨水が入るし、子どもが遊びに来てしまう。そして何より、その墓の主が「まだ死んだと確定していない」ことを、通りがかりの全員に告知してしまう。

バネ型――「疑わしき死の場合の棺」

アメリカで最初期に特許を取った安全棺は、鐘でも管でもなく、バネだった。

メリーランド州ボルティモアのクリスチャン・ヘンリー・アイゼンブラントが、一八四三年十一月十五日に合衆国特許第三三三五号を取得している。題名は「疑わしき死の場合に用いる棺」。

仕組みが賢い。蓋が強力なバネで押さえられていて、ごくわずかな力で跳ね上がるようになっている。中の人間の額のところには板が当てられていて、その板がてこにつながる。頭を少し動かすだけで、てこが留め金を外し、蓋が跳ね開く。

さらに、指に嵌める輪もある。輪から伸びた針金が同じ留め金につながっていて、指を曲げるだけでも蓋が開く。口の真上には穴の開いた板が置かれ、蓋が閉じていても呼吸できるようになっている。外側からも押しボタンで開けられる。運搬中に振動で勝手に開かないよう、安全ピンまでついている。

ここが肝心なのだが、この棺は土に埋めることを想定していない。設計上、遺体は霊廟に安置され、腐敗がはじまるまでそこで待つ。土をかぶせたら、どんなに強いバネでも蓋は開かないからだ。数百キロの土に対して、人間の首の力では勝負にならない。

アイゼンブラントの特許は、この時代のアメリカ人の恐怖がどこにあったかをよく示している。彼らが恐れていたのは「埋められること」というより、「まだ確定していないのに手続きが進んでしまうこと」だった。

ガラス玉型――ル・カルニスと、失敗した実演

そして、最も凝っていて、最も派手に失敗した設計が来る。

ロシア皇帝ニコライ二世の侍従を務めたとされる、ミハイル・ド・カルニツェ・カルニツキ伯爵の作品だ。伝えられているところでは、彼はベルギーで若い娘が生きたまま埋められかけた現場に居合わせ、その悲鳴が耳から離れなくなった。それから四年間、彼は屋敷にこもって装置の開発に没頭したという。

一八九六年に特許を出願し、「ル・カルニス」と名づけられた。一八九七年、パリのソルボンヌで開かれた学会で披露され、大きな反響を呼んだ。

構造はこうであり、棺の中、胸の真上に、ガラスの玉が吊るされている。玉は繊細なバネ仕掛けにつながっている。胸が呼吸でわずかに上下しただけでも、あるいは体がほんの少し動いただけでも、機構が作動する。

作動すると何が起きるか。まず、地上に据えられた鉄の箱の蓋が跳ね上がる。管を通じて空気と光が棺の中に流れ込む、同時に鐘が鳴りはじめる。そして旗が、地表から約百二十センチの高さまで垂直に立ち上がる。夜間用に電灯を組み込んだ型もあった。

管は伝声管も兼ねていて、中の人間は地上に向かって叫べる。

値段も工夫されていた。装置は使い回せるので、遺族が負担するのはわずかな額でよい。伝えられる数字では十二シリング程度。誰でも買える人道的発明として売り込まれた。

しかし、公開実演でつまずいた。装置が期待どおりに作動せず、集まった人々の前で恥をかいたのだ。それだけならまだ挽回できたかもしれない。決定的だったのは、医学者たちの指摘のほうであり、この装置は感度が高すぎる。腐敗によるわずかな体積変化でも、まず間違いなく作動する。

つまり、鐘と旗が墓地じゅうで鳴り響き、立ち上がることになる。

カルニツキはアメリカでも売り込みをかけたが、普及しなかった。彼の四年間は報われなかった。ただ、この装置の設計思想には見るべきものがある。彼は「掘り返す」という重い行動を最後まで先送りできるようにした。空気と光を先に届け、声を通し、そのあいだに人が集まる。

生存を確認する装置ではなく、生存を延長する装置として作られていた。そこだけは、他のどの型よりも一歩進んでいた。

旗と電気と扇風機――その他の型

安全棺の設計は、十九世紀後半のアメリカとドイツで一種の発明競争になったのだ。ドイツだけで三十件以上の特許が出されたとされる。

一八八五年には、チャールズ・ジーバーとフレデリック・ボルントレーガーが合衆国特許第三二九四九五号を取得している。この設計には送風装置と、顔を照らすためのランプが組み込まれていた。電池で動く警報装置もついていた。要するに、この頃には「電気」という新技術が恐怖対策に流れ込んできていたわけだ。

一八二二年には、アドルフ・グーツムートという医師が、地上とつながる管の系統を備えた棺を設計している。この人は自分の設計を自分で実証した。棺に入って地中に埋まり、数時間そこで過ごした。しかも管を通じてスープとソーセージとビールを差し入れさせ、地下で食事をしてみせたのである。宣伝としては満点だ。

ただ、この実演が証明したのは「管があれば地下でも食事ができる」ことである。「死んだと誤診された人間が助かる」ことではない。

いま挙げた設計を並べてみると、共通する構造が見えてくる。どれも、中の人間が「意識を取り戻し」「体を動かせて」「状況を理解できる」ことを前提にしている。

ここが、この装置群の根本的な欠陥だ。仮死状態から戻った人間が、まず自力で紐を引けるか。曲げた指で輪を外せるか。はしごを登れるか。仮死と誤診されるほど深い意識障害から回復した直後の人間に、そんな運動能力があるとは考えにくい。

しかも棺の中は酸素が薄い。設計者たちは、恐怖の物語のほうを設計していたのだ。物語の中の人間は、いつだって目を覚ました瞬間からはっきり動ける。

死体待機所――ヴァイマールの八人部屋

さて、ここからがこの話のいちばん奇妙な部分だ。個人が棺に仕掛けを作るのではなく、街が公共施設として「死体を待機させる建物」を建てはじめる。ドイツ語でライヒェンハウス。英語圏ではウェイティング・モルチュアリーと呼ばれる。

先頭に立ったのは、クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラントという医師だ。一七六二年生まれ。後にベルリンのシャリテ病院を率い、プロイセン王の侍医も務めた、その時代のドイツ医学を代表する人物である。

フーフェラントは一七九一年に「死の不確実性について」という趣旨の論文を発表した。翌一七九二年、ヴァイマールのヤコプス墓地に、ドイツ初とされる死体待機所を実現させた。この施設は、彼が同僚のヨハン・ペーター・ファルクの警告に触発されて構想したものだと伝えられている。

建物の作りが、また凝っており、主室には八体を安置できた。床には温水か蒸気の通る管が敷かれ、部屋は常に温められており、理由は二つある。ひとつは、もし仮死状態なら体を温めることで蘇生しやすくなるという当時の理屈。もうひとつは、そうでないなら腐敗を早めて、死を早く確定させるためだ。同じ設備が、正反対の二つの目的に使われていた。

この施設のねじれた性格が、ここに出ている。

換気のための管も通されていた。主室の隣には番人の詰所があり、そこにはガラスの窓がついていて、番人は座ったまま室内を見張れた。

そして例の仕掛けだ。遺体の手と足には帯が結ばれ、その帯が地上の鐘につながっている。ほんのわずかでも動けば鐘が鳴る。

フーフェラントの徹底ぶりは、この先にあり、彼は番人たちを訓練した。生命の徴候をどう見分けるか、何を見たら知らせるべきかを教え込んだ。さらに、生きている者を発見した番人には報奨金を出すと約束した。動機づけまで設計したわけだ。

そして施設には台所があった。温浴のためだ。もし誰かが息を吹き返したら、すぐに温かい湯につけて体を戻す、というのがその想定だった。

つまりヴァイマールの死体待機所は、蘇生センターとして構想されていた。ここは重要であり、この施設は、死体置き場ではない。回復室のつもりだったのだ。

結果はどうだったか。ナポレオン戦争のころには建物は荒れ、やがて本来の機能を失って倉庫として使われるようになった。一八一八年には、ヴァイマールの新しい中央墓地に二代目の施設が作られている。

ヴァイマールに続いて、一七九五年にベルリン、一八〇五年にマインツ、一八〇八年にミュンヘン、一八二八年にフランクフルト・アム・マイン、一八三〇年にアイゼナハと、ドイツ語圏の主要都市に次々と死体待機所が建てられていった。おおむね一七九〇年代から一八二〇年代にかけてが建設の波で、その後も散発的に作られている。

これらの施設が各地に広がった理由は、仮死への恐怖だけではなかった点も押さえておきたい。当時のドイツ語圏では遺体を自宅の居室に数日置いておくのが普通だった。だが、都市の住宅事情が悪化するにつれて、狭い部屋に家族と遺体が同居する状態そのものが現実的でなくなっていった。

加えて、コレラやジフテリアのような感染症が流行するたびに自宅安置は感染経路として疑われるようになる。当局が遺体の移送を事実上義務づける場面も出てくる。つまり死体待機所は、生き埋めを防ぐ装置であると同時に、都市が遺体を家庭から引き離して公的な管理下に置くための最初の受け皿でもあった。今日の霊安室や斎場の原型が生き埋めの恐怖から生まれているというのは、なかなか皮肉な話だと思う。

ミュンヘンの死の館――見物人が来る場所

ドイツの死体待機所の中でも、ミュンヘンのものは特に大きく、特に有名だった。十九世紀末の英語圏の記事に、内部を訪ねた記録が残っている。

建物はいくつかの部屋に分かれていた。庶民のための部屋。裕福な人と貴族のための部屋。そして自殺者、殺害された人、事故死した人のための部屋だ。最後のものは公開されていなかった。

死に方によって部屋が分かれるというのは、この施設が単なる衛生設備ではなく、社会の秩序を映す装置でもあったことを示している。

庶民の部屋の様子は、こう描かれている。長方形の部屋の両側に、わずかに傾いた台が並ぶ。台の上には黄色い覆いのかかった安価な棺が載る。部屋には二十体から四十体が置かれていた。頭のほうと足のほうに蝋燭が立てられている。

裕福な人の部屋のほうは、花で飾られた小さな四阿のように整えられていた。

天井には電線が張り巡らされていた。そこから紐が垂れていて、紐の先には金属の輪がついている。輪は、すべての遺体の指に嵌められた。線は管理人の部屋につながっており、指が動けば、事務室で警報が鳴る。

そして印象として繰り返し語られるのが、匂いだ。花と消毒薬の匂いが充満していたという。腐敗臭を隠すためだが、その組み合わせ自体が独特の記憶を残したらしい。

遺体がここに置かれる期間は、おおむね三日間とされた。三日たてば埋葬される。

驚くべきことに、この施設は観光地だった。見物のために入場料を取っていた例もある。市民は日曜日に、家族連れで死体を見に行った。現代の感覚だと理解しがたいが、当時の人にとってここは「街が死をきちんと管理していることの証明」だったのだろう。安心を買いに来る場所だったのだ。

ではこの施設は、実際に人を助けたのか。

ここが最大の論点になる。ドイツで十四件の仮死からの蘇生例があったとする同時代の主張は存在する。その中には、五歳の子どもが息を吹き返する。その知らせを聞いた母親のほうがショックで亡くなったという痛ましい話も含まれている。ただ、これらの数字の出所をたどると、たいていは推進派の刊行物に行き着く。

第三者による検証は乏しい。

一方で、当時から「これらの施設で実際に蘇生した記録は見当たらない」という指摘は繰り返されてきた。鳴った鐘の大半は腐敗ガスによる誤報だった、というのが実務者の証言だ。

実際に鳴ったのか――一度も助からなかったという事実

ここで、この記事のいちばん重い結論を置く。

安全棺によって命が救われたことを示す、確認された記録は存在しない。ひとつもない。

これは、この分野を調べた人がほぼ例外なくたどり着く結論であり、特許は取られた。図面は美しい。宣伝は打たれた。学会で発表もされた。だが、実際にその装置が作動して、中の人間が生きて出てきたという、検証可能な事例は見つかっていない。

ではなぜ、これほど手をかけた仕掛けが一件も成功しなかったのか。冷静に条件を並べると、成功のためには相当に都合のよい偶然がいくつも重ならなければならなかったことが分かる。まず、その人が誤診されるほど深い仮死状態にありながら、埋葬後の限られた時間のうちに自然に回復しなければならない。

次に、酸素の乏しい狭い箱の中で意識を取り戻したうえに、状況を理解して正しい方向へ力を加えられるだけの筋力が残っていなければならない。そして地上には、鳴った鐘を誤報だと決めつけずに走ってくる人間が、まさにその瞬間にいなければならない。この三つが同時に成立する確率は、装置の完成度とはほとんど関係なく、もともと限りなくゼロに近かった。

さらに言えば、そもそもこれらの棺が広く使われた形跡すら乏しい。多くは試作品と特許図面のまま終わった。買った人はいたのだろうが、統計に残るほどの規模ではない。

そして死体待機所のほうも同じだ。何十年も運営され、何万体もの遺体が通過したはずのこれらの施設から、確実に検証できる蘇生例は出てこない。

これは、逆から見れば意味のある結果だ。つまり、当時の人々が恐れたほど、誤診による埋葬は多くなかった。あるいは、あったとしても、待機所で三日置く程度では捕まえられない種類の出来事だった。

十九世紀末には、恐怖を煽る側の数字も出ている。一八九五年、ある聖職者はイングランドとウェールズで年間二千七百件以上の誤った埋葬があると主張した。一八三七年のフランスでは、一日に四件という推計が本に書かれた。ウィリアム・テブは一九〇五年の著作で、生き埋め寸前の事例二百十九件。実際の生き埋め百四十九件、生きたまま解剖された例十件、防腐処置中に目覚めた例二件を集めたと述べている。

これらの数字はよく引用される。だが、どうやって数えたのかを問うと、根拠は薄い。多くは新聞記事の切り抜きと、又聞きの寄せ集めだ。テブの本には、後で見るように、明確な作り話として否定された事例まで収録されている。

記録された事例その一――エレノア・マーカムの「生き埋め」

この分野で最も繰り返し語られてきた事例のひとつを、丁寧に追ってみる。

一八九四年七月八日、アメリカのニューヨーク州スプレイカーズという土地で、二十二歳の女性エレノア・マーカムが死亡と診断された、とされる。診断したのはハワードという医師。夏の盛りで、暑さもあり、埋葬は急がれた。

二日後の七月十日、霊柩車が棺を墓地へ運んでいる途中、棺の中から音がした。担ぎ手が止まる。蓋を開ける。中でマーカムが生きていた。彼女は「生きたまま埋めるつもりか」と叫んだという。

その後の彼女の証言が、この話を有名にした。彼女は埋葬の準備のあいだ、ずっと意識があったというのだ。人が話す声が聞こえた。医師が死亡を告げるのも聞いた。運ばれるのも分かった、だが声が出せず、体が動かなかったのだ。

最後の力を振り絞って蓋を叩いた。開けられた直後に気を失い、興奮剤を与えられて回復した。

完璧な物語であり、恐怖のすべての要素が入っている。意識はあるのに動けない。手続きは進む。ぎりぎりで助かる。

そして、二週間後に地元の別の新聞が調査記事を出した。記者が現地に行ったのであり、結論はこうだった。そんな名前の人物は、その地域に住んでいない。

つまり、作り話だった。

ところが話はここで終わらない。この記事が出たあとも、マーカムの話は新聞から新聞へ転載され続けた。そしてウィリアム・テブが一八九六年に出した「早すぎた埋葬とその予防法」に、実例として収録された。テブの本は生き埋め防止運動の聖典になったから、そこに載った話は権威を帯びたのだ。二十一世紀に入ってからも、著名な作家がこの件を「よく知られた事例」として紹介している。

否定は一度きり、地方紙の中で。引用は百年以上、あちこちで。物語の生存能力というのは、こういうものだ。

記録された事例その二――オクタヴィア・スミス・ハッチャー

アメリカのケンタッキー州パイクヴィルには、いまも観光名所になっている墓がある。オクタヴィア・スミス・ハッチャーの墓だ。

伝えられている話は、こうだ。一八九一年、彼女は謎の「眠り病」にかかって昏睡状態になり、死亡と判断されて埋葬された。ところがその後、町の別の住民が同じ症状で倒れ、そして回復した。夫は青ざめたのだ。妻も生きていたのではないか。

墓を掘り返させると、棺の中の彼女は仰向けではなく、髪は乱れ、指の爪は割れ、棺の内側には引っかき傷があった。悲嘆にくれた夫は、妻の像を作らせて墓に立てた。

像は町に背を向けており、命日には彼女の霊が出る。

実に完成度の高い怪談だ、そして、調べた人がいる。

記録に残っている事実のほうは、こうであり、彼女は一八七〇年五月生まれ。一八八九年に十九歳でジェームズ・ハッチャーと結婚した。一八九一年一月四日に息子を出産したが、その子はその日のうちに亡くなった。四月に彼女自身が病に倒れ、意識のない状態が続き、五月二日に死亡したのだ。パイクヴィルの墓地に、先立った赤ん坊のそばに葬られた。

翌一八九二年、記念碑が建てられ、日傘を持つ大理石の像が載せられた。

調査した書き手は、地元紙を徹底的に洗ったのだ。掘り返しについての記事は、一件も見つからなかった。生き埋めだったという記述も、どこにもなかった。一九三九年に亡くなった夫ジェームズの死亡記事にも、その種の言及はない。

像が赤ん坊を抱いていたという話も否定された。一八九二年当時の新聞記事に、日傘を持った像だと書かれている。長年、学生たちが像にいたずらをしてきた事実はある。像の向きの話も、それに近い経緯だろう。

ケンタッキーで発生源不明の「眠り病」が流行したという記録も見つかっていない。嗜眠性脳炎ではないかという推測はあるが、この流行が世界的に確認されるのは、彼女の死から三十年近くあとのことだ。

調査者が立てた仮説が興味深い。夫のジェームズは地元の名士で、鉱山や木材や汽船で成功した実業家であり、歴史好きでもあった。彼が語り伝えていた別の悲劇的な出来事の話と、妻の死の記憶が、長い年月のあいだに人々の記憶の中で融合してしまったのではないか、と。

つまり、生き埋めの物語は、悲しみそのものが後から作り出した形なのかもしれない。若い母親が子どもを産んですぐに子を失い、数か月後に自分も死んだ。この事実はあまりに理不尽で、しかも物語としての起伏がない。人はそこに、より劇的な形を与えてしまう。

記録された事例その三――アンジェロ・エイズ

二十世紀の事例も見ておこう。しばしば「実際に生き埋めから助かった証明済みの例」として紹介されるものだ。

フランスのアンジェロ・エイズ、あるいはアンジェル・エイズという男性が、一九三七年九月一日にオートバイの事故を起こし、頭蓋骨を骨折して死亡と判断された。埋葬された。ところが加入していた保険をめぐって不審な点があり、保険会社の調査員が墓を掘り返させたのだ。すると、彼は生きていた。体はまだ温かく、病院に運ばれてそのまま回復した。

彼はその後、自分で安全棺を設計して各地で展示して回ったのだ。

見事な物語で、しかも二十世紀の出来事だから記録がありそうに思える。だが、検証を試みた結果は芳しくない。

まず、彼自身の説明が時期によって変わる。一九五八年の段階では、棺の中に二日間いて保険の調査員に発見されたという話だった。別の版では、叔父が礼拝堂で彼の体に触れて温かいことに気づいたという筋になっている。さらに後の版では、実際に土に埋められていて、そこから救出されたことになる。

一九七八年にドイツで出た本が、この事件を詳細に描いて広めた。ただ、その本は典拠を示していない。そしてこの本の出版後、ドイツの雑誌の記者が本人に会いに行っている。その取材の場で、彼は事故のあとに埋葬されたとは主張しなかった。

つまり、この事例には検証可能な裏づけがない。事故があったこと自体は事実かもしれないが、生き埋めの部分については記録がない。

有名な三つの事例を並べてみると、構造が同じであることに気づく。誰かが最初に語る。新聞が拾う。運動団体の本に収録されて権威がつく。数十年後、誰かが検証する。

裏づけがない、だが検証結果は物語ほどには広まらない。

それでも消えない話――トマス・ア・ケンピスと、ナポリの女性

もう少し古い層も見ておきたい。

十五世紀の修道士で「キリストに倣いて」の著者とされるトマス・ア・ケンピスについて、後年になって奇妙な話が語られるようになった。彼の列聖の手続きが進まなかった理由として、遺体を確認したところ棺の蓋の内側に引っかき傷がある。それは彼が生きたまま埋められて、しかも最後に神への抵抗を示したことを意味するから、というものだ。

この話の出所は極めて怪しい。同時代の記録ではなく、はるか後年に登場する。だが、話としては強い、だから残る。

一八七七年にはイタリアのナポリで、埋葬された女性の遺体の衣服が引き裂かれ、手足が折れていたという記事が出ている。妊娠中の女性が墓の中で出産していたという、さらに凄惨な話も複数の版で語られてきた。イタリアのラヴィニア・メルリという名で伝わる話がそれだ。

ここで正直に書いておくべきことがある。こういう話が「全部でたらめだ」と切り捨てられるかというと、そこまでは言えない。前近代の死亡診断が不確実だったのは事実であり、誤診がゼロだったはずはない。ただ、確実に検証できる形で残っているものは、ほとんどないというのが現状だ。

棺の内側の爪痕――その話を検証するとどうなるか

この記事の題材の核心にある話をやろう。掘り返したら棺の内側に爪痕があった、という語りだ。

まず、法的な話を先に済ませておく。日本を含むほとんどの国で、許可なく墓を掘り返して遺体を取り出す行為は犯罪だ。日本では墳墓発掘罪と死体損壊罪の対象になる。この記事は当然、そうした行為を勧めない。以下は、正規の考古学的発掘や、移葬に伴う調査で得られている知見の話だ。

では、棺の内側に傷が残っていた場合、それは生き埋めの証拠になるのか。

答えは、ならない、であり、少なくとも、それだけでは証拠にならない。

理由はいくつもあり、まず、遺体は埋葬後に動く。腐敗によるガスの発生で体は膨れ、そして萎む。この過程で腕や脚の位置は変わる。硬直と弛緩の順序によっても姿勢は変わる。つまり「仰向けで安置されたはずの遺体が横を向いていた」という所見は、それ自体では何も意味しない。

次に、棺そのものが動く。土の重みで蓋がたわみ、隙間から地下水が入る。土圧で棺が変形し、内部の遺体が押されて位置を変える。棺材の板が割れ、その断面が骨に当たる。

さらに、木の表面に残る筋状の痕跡は、動物によるものであることも多い。棺に到達したネズミ類が中を荒らすことは珍しくなく、虫の食害も筋状の痕を残す。木材そのものの乾燥収縮による割れも、細い線に見える。

法医考古学の分野では、棺の内部で骨と棺材が擦れて生じる痕跡についての実験研究も行われている。要は、生き埋めでなくても、棺の内側にはさまざまな理由で傷ができるということだ。

そして、いちばん大事な点。爪痕を「爪痕だ」と断定するには、その傷が人間の指先の運動によって、しかも埋葬後に生じたものだと示す必要がある。単に木の表面に線があるだけでは、そこまで言えない。

にもかかわらず、この語りは強い。なぜか。それは、この話が「証拠」の形をしているからだ。目撃者の証言ではなく、物として残っている。物として残っているものは、疑いにくい。

しかも、この語りには目撃者がいない。掘り返した誰かが見た、という形で語られるが、その誰かはたいてい名前を持たない。名前がなければ、検証もできず、都市伝説の完成形だ。

背景その一――伝染病が埋葬を急がせた

なぜこの恐怖は、十八世紀後半から十九世紀にかけて、これほど強く燃えたのか。時代の側に理由がある。

まず伝染病であり、コレラは一八三〇年代にヨーロッパを襲った。一八三二年のパリでは、半年ほどで二万人近くが死んだとされる。同じ年、イギリスの各都市でも流行があった。

コレラで問題だったのは、その症状だ。激しい脱水で体は冷たくなり、皮膚は青灰色になり、脈は触れにくくなる。まさに死体のように見える患者が、まだ生きている。そういう状態が起こりうる病気だった。

そして流行時には、当局が迅速な埋葬を命じた。感染源を放置できないからであり、通夜も待たないし、診断も当然のように雑になる。一八三二年のパリでは、仮装舞踏会の最中に倒れた人が、道化の衣装のまま埋められたと同時代の人が書き残している。ペール・ラシェーズ墓地の門前には霊柩車が何百と並び、秩序が崩れて棺がひっくり返る場面まで記録されている。

流行病はもうひとつ効果を持った。恐怖を全員のものにしたのであり、平時なら、誤診で埋められるのは他人事でいられる。だが疫病の時期には、自分と家族が数日以内にその手続きに乗る可能性が現実味を帯びる。

一七九三年にフィラデルフィアで黄熱が流行したときの記録が、後の世代に読まれ続けたことも大きい。病人が死者と一緒に集団埋葬地へ運ばれた、という話だ。人々はそれを自分たちの時代のコレラに重ねた。

背景その二――墓地不足と、墓を掘る者たち

同じ時期、都市の墓地は限界を超えていた。

産業革命でロンドンやマンチェスターに人口が集中する。だが墓地は中世以来の教会付属地のままであり、数字を見るとぞっとする。ロンドンのスパ・フィールズという墓地は、千三百余りの区画しかないところに、推定で八万体が押し込まれたという。エノン礼拝堂という建物では、地下の約十五メートル四方ほどの空間に、一万二千体が積み上げられた。安価な埋葬を売りにした結果だ。

墓掘り人の証言に、遺体の山の上を飛び跳ねて踏み固めた、という趣旨の生々しいものがある。鉛の棺が腐敗ガスの圧力で破裂した記録もある。

さらに、墓は安全な場所ではなかった。解剖学教育のための遺体が慢性的に不足していて、その隙間を掘り出し屋が埋めていた。イギリスでは、遺体は法的に「物」ではないため、盗んでも窃盗罪にならないという抜け穴があったのだ。新鮮な遺体の値段は、一七九〇年代の二ギニーから、一八二〇年代後半には八ギニーまで上がった。

そして一八二七年から一八二八年にかけて、エディンバラでバークとヘアの事件が起きる。彼らは十六人ほどを殺害して、遺体を解剖学者に売った。この事件は社会を震撼させ、一八三二年の解剖法の制定につながる。ただしこの法律は、身寄りのない貧しい死者の遺体を解剖に回すことを認めるものだった。つまり、貧しい人にとって「死んだあとの安全」はむしろ悪化した。

墓に鉄格子をかぶせ、金属の檻で墓を囲む。エディンバラの古い墓地には、いまもこの装置が残っている。中流以上の家は鉛の棺を買った。

ここを押さえておきたい。当時の人にとって、墓は静かな安息の場所ではなかった。誰かに掘り返されうる場所であり、あふれかえった場所であり、そして自分がまだ生きているかもしれない場所だった。

背景その三――死亡診断制度と、ロンドンの協会

制度の側も動いていたのだ。

イングランドとウェールズでは、一八三六年に出生・死亡・婚姻の登録制度が法制化される。死亡が公的な記録になり、埋葬には証明が必要になっていく。ただ、初期の制度には大きな穴があった。死亡証明書が、遺体を実際に診察せずに発行されることがあったのだ。医師が生前に診ていた患者について、家族の報告だけで書く。

それが可能だった。

この穴を突いたのが、生き埋め防止運動だった。一八九六年、社会改革家のウィリアム・テブと医師のウォルター・ハドウェンが、ロンドンで早すぎた埋葬の防止のための協会を設立する。共同で活動した人物の中には、自身が埋葬されかけた経験を持つエドワード・ペリー・ヴォラムもいた。

彼らの要求は明快だった。死亡証明書は、遺体を実際に診た医師だけが発行できるようにせよ。年に一ギニーの会費を払うと、会員には冊子と、死亡確認のための書式が送られてきた。協会の立場は一貫していて、確実な死の徴候は腐敗の進行だけである、というものだった。

テブが挙げた検査法は、当時としては現実的だったのだ。聴診器で心音と呼吸音を確認すること。電気刺激を与えること。人工呼吸を試みること。

つまり、この運動には二つの顔がある。一方では、検証されていない怪談を集めて恐怖を煽った。他方では、死亡診断を医師の実地確認に基づかせよという、まっとうな制度改革を推した。そしてこの二つは、実のところ同じ動力で動いていたのだ。

十九世紀を通じて、都市の埋葬制度そのものも整備される。一八五二年、イギリス議会はロンドン中心部での埋葬を禁じる法を通した。市外に大規模な庭園墓地が作られていく。ケンサル・グリーンが一八三三年、ハイゲイトが一八三九年、アビー・パークが一八四〇年。埋葬は教会の管轄から、公衆衛生の管轄へと移っていった。

この制度整備こそが、結果的にタフォフォビアを鎮めた。医師が実際に診るようになり、死亡から埋葬までの手続きに時間と記録が挟まるようになる。恐怖を消したのは、鐘でも旗でもなく、書類だった。

ポーが火に油を注いだ

文学の話をしないわけにはいかない。

エドガー・アラン・ポーの短編「早すぎた埋葬」は、一八四四年七月三十一日、フィラデルフィアの新聞に発表された。その後、複数の雑誌に転載されている。

内容はこうであり、語り手は強硬症を患っている。死んだように見える発作を起こす体質だ。彼はそのせいで、生きたまま埋められることを病的に恐れている。彼は過去の早すぎた埋葬の実例をいくつも語り、自分の家に閉じこもり、いざというときに合図を送れる仕掛けを備えた墓所を作る。そしてある日、暗闇の中で目を覚ます。

狭い。木の板が近い。ついに来たか、と絶望する。

落ちが効いており、彼がいたのは、実は小舟の寝台だった。狭い船室で寝ていただけだった。この経験を境に、彼の恐怖症は消え、発作も止まる。

ポーはこの作品でひとつのことをやってのけた。恐怖を、外の世界の出来事から、内側の問題に移し替えたのだ。語り手を苦しめていたのは、埋葬の危険そのものではなく、その恐怖に取り憑かれた心のほうだった。

ポーはこの主題を繰り返し使った。「アッシャー家の崩壊」でも、「ベレニス」でも、「アモンティリャードの樽」でも、人が壁の向こうや棺の中に閉じ込められる。彼が生涯を通じてこの主題に戻り続けたのは、彼自身の恐怖でもあったのだろう。

そして、この作品が同時代に果たした役割は皮肉だ。ポーは冒頭で実際の事例をいくつも列挙する。読者はそれを、作り話の一部としてではなく、実話として受け取った。フィクションが恐怖の証拠として流通したのだ。二十世紀に入ってから映画やテレビ番組で何度も翻案された。

そのたびに「早すぎた埋葬は実際にあった」という印象が更新されていった。

遺言に書かれた恐怖――ワシントンとノーベル

この恐怖が、単なる庶民の迷信ではなかったことを示す例がある。当時の最も有名な人たちの遺言だ。

一七九九年、ジョージ・ワシントンは死の床で、自分の遺体をすぐに納骨堂に入れないようにと指示したと伝えられている。数日待て、と。

アルフレッド・ノーベルは一八九六年の遺言で、自分の遺体の血管を切開してから埋葬するよう指示した。死を確実にするためだ。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、寝るときに「私は死んでいるだけに見えます」と書いた紙をそばに置いていたという話が伝わっている。フレデリック・ショパンは、死後に心臓を取り出すよう望んだとされる。

こういう指示は、突飛な思いつきではなかった。当時の生き埋め防止運動が推奨していた手続きそのものだ。血管を切る、心臓を刺す、体を焼く。確実に死んでいることを確かめてから埋めろ、と。

アメリカのヴァーモント州には、この恐怖を建築で解決しようとした医師の墓が残っている。ティモシー・クラーク・スミス。一八五五年にニューヨークで医師の資格を取り、ロシア軍でも働き、合衆国の領事館にも勤めた国際派だ。一八九三年十月三十一日、ハロウィーンの日に亡くなった。

彼の墓は、地下約百八十センチまで垂直に掘られ、四方をコンクリートで固めた縦坑になっている。地表にはコンクリートの塊が置かれ、そこに直径約三十五センチのガラス窓が嵌め込まれている。この窓からのぞくと、彼の顔があるはずだった。呼吸用の管も通されていた、そして彼の手には、鐘が握らされていたという。

今その窓をのぞいても、何も見えず、長い年月で内側が曇り、水滴がついている。鐘は鳴らなかった。彼の妻は、同じ地下室の中の、窓のない別の区画に葬られている。

現代の安全棺と、いまも起きること

この話は十九世紀で終わらない。

一九九五年、イタリアのファブリツィオ・カゼッリという人物が、現代版の安全棺の特許を取得している。装備が現代的だ。緊急警報装置。双方向のインターコム。懐中電灯だ。

呼吸装置、そして心拍センサーと、心臓刺激装置。つまり、生きていることを検知するだけでなく、生かし続けるところまで踏み込んでいる。

需要がないわけではない。埋葬時の遺体保存に防腐処置を行わない文化圏や、死後二十四時間以内の埋葬を宗教的に求める地域では、確認の時間が短くなる。そういう場所で、この種の装置への関心はいまも消えていない。

そして、現代でも「死んだはずの人が生きていた」という出来事は起きる。二〇一八年には南アフリカで、事故で死亡と判定された女性が、遺体安置所の冷蔵設備の中で生きているのを職員が発見した。インドでは、医師に死亡を宣告された男性が安置所から生きて出てきた例が報じられている。ギリシャやアメリカでも同種の報道がある。

医学的には、ラザロ現象と呼ばれる事象が知られている。心肺蘇生を中止した後に、自発的に循環が戻るというものだ。世界の医学文献に報告されている症例は、数十件の規模とされる。原因としては、蘇生中の過剰な換気で胸腔内の圧が高まっていたものが、処置の中止後にゆっくり抜けて心臓が動き出す、といった機序が考えられている。

現代の死亡確認は、この時代の不安をほぼ制度の力で潰してしまった。心停止と呼吸停止に加えて瞳孔の対光反射の消失を確認するという三つの徴候の確認が基本にある。必要に応じて心電図が用いられ、脳死の判定にいたっては厳密な手順と時間をおいた再確認が法的に定められている。それでも判定を急がないという原則が残っているのは、二百年前のドイツ人が三日待った理屈と、根っこのところでつながっているからだろう。

技術がどれだけ進んでも、人間は最後の一線を機械にだけは預けきれないらしい。

だから現代の救急医療では、蘇生を中止した後、一定時間の観察を置くことが推奨されている。十九世紀のドイツ人が三日待ったのと、理屈の骨格は変わらない。精度が上がっただけだ。

そして念のために書いておくと、防腐処置や火葬が一般的な現代の先進国において、埋葬まで意識のある人間が気づかれないという事態は、事実上起こりえない。恐怖の対象としては、もう歴史上のものだ。

なぜ、これほど怖いのか

最後に、この恐怖の構造を分解してみたい。

まず、この恐怖には「助けが目の前にある」という要素がある。地上には人がおり、声が届けば助かる。距離にして百八十センチ。届かないのは、間に土があるからであり、この「あと少し」が、恐怖を耐えがたくする。完全に孤立した死より、届きそうで届かない死のほうが苦しい。

次に、この恐怖は「自分の身体が裏切る」形をとる。意識はあり、理解している。だが動かない、声が出ない。これは睡眠麻痺、いわゆる金縛りの体験と構造が同じだ。多くの人が生涯に一度は経験する、あの感覚、だから、この話は他人事にならない。

三つめ。この恐怖は「制度への不信」を言葉にする。医者が間違える。役所の手続きが進む。家族は泣きながら、それを止めない。

誰も悪くないのに、生きている人間が土に埋まる。誤診による生き埋めの物語は、専門家を信じるほかない社会に生きる不安の、いちばん濃い形なのだ。十八世紀の医学は、権威を持ちはじめたばかりだった。信じろと言われた。でも当の医者自身が「確実には分からない」と本に書いたのだ。

この時期に恐怖が爆発したのは、偶然ではない。

四つめに、この恐怖は「死の定義が揺れる」瞬間に必ず戻ってくる。十八世紀には仮死と昏睡が問題だった。二十世紀後半には脳死が問題になった。臓器移植の是非をめぐる議論の底には、いつも同じ問いがある。この人はもう死んでいるのか。

判定するのは誰か。信じていいのか。

安全棺は、その問いに対する、ものすごく素朴で、ものすごく物理的な回答だった。分からないなら、鐘をつけておけばいい。旗を立てておけばいい。管を通しておけばいい。人間が判断できないなら、装置に判断させればいい。

その装置は一度も鳴らなかった。だが、それを作った人たちを笑うのは違うと思う。彼らは、自分たちの医学が何を知らないかを、正確に知っていた。知らないことを知っている人間が、それでも何かしようとした。その形が、あの奇妙な棺だったのだ。

ここまで書いてきて、どうしても書き足しておきたいことがいくつか残った。

ひとつめは、この恐怖の「階級」についてだ。

安全棺の歴史をたどっていくと、装置を買えた人と買えなかった人の線が、はっきり見えてくる。ブラウンシュヴァイクの公爵は自分専用の棺を作らせた。カルニツェ・カルニツキ伯爵は四年を開発に費やせた。ヴァーモントの医師は地下に縦坑を掘らせたのである。全員、余裕のある人たちだ。

一方、同じ時期、ロンドンの貧民は千三百区画の墓地に八万体という密度で葬られていた。エノン礼拝堂の地下に一万二千体が積み上げられた。彼らには棺の窓も、指の糸も、地上に伸びる管もない。むしろ彼らのほうが、慌ただしく、確認もされずに処理された。誤診で埋められるリスクが高かったのは、間違いなく貧しい側だ。

さらに、一八三二年の解剖法は、身寄りのない貧しい死者の遺体を解剖に回すことを認めた。つまり貧しい人にとって、死後の身体はいっそう自分のものでなくなった。生き埋め防止の運動が最も熱心に守ろうとしたのは、そういう人たちではなかったのだ。会費一ギニーの協会に入れる階層だった。

こう見ていくと、安全棺というのは奇妙な装置に思えてくる。統計的にリスクが低い人ほど、リスクを恐れて金を払った。これは現代の保険や安全装備にもそのまま当てはまる構図だ。恐怖は、それを買える人のところに集まる。

ふたつめは、「装置が誤報を出す」という問題の深さについてだ。

タベルガーの鐘も、カルニツキのガラス玉も、失敗の理由は同じだった。感度が高すぎたのだ。生きている人の動きを取りこぼしたくない、だから閾値を下げる。すると腐敗ガスによる膨張でも作動する。誤報が続く。

人が反応しなくなる。反応しなくなれば、本物が来ても意味がない。

これは現代の警報設計とまったく同じ問題だ。病院の医療機器のアラームが鳴りすぎて、看護師が慣れてしまう現象には名前までついている。火災報知器も、防犯システムも、同じ壁にぶつかる。

十九世紀の墓地の技師たちは、この問題を人力で解決しようとした。フーフェラントは番人を訓練し、報奨金を出した。フェスターは管にガラスの扉をつけて、掘り返さずに顔を確認できるようにしたのだ。カルニツキは、確認より先に空気と光を送り込む設計にした。

三者三様だが、どれも同じ発想に行き着いている。誤報をゼロにできないなら、誤報のコストを下げろ。これは、二百年たった今でも通用する原則だ。彼らの装置は使われなかったが、彼らの考え方は間違っていなかった。

みっつめは、検証という行為が持つ、どうしようもない非対称性についてだ。

エレノア・マーカムの件をもう一度考えてみる。一八九四年七月に話が出た。二週間後に地元紙が現地調査をして、そんな人物は存在しないと報じた。取材して、足を運んで、確認したのである。誠実な仕事だ。

だが、その否定記事を読んだ人は何人いただろう。そして生き埋めの話を読んだ人は何人いただろう。桁が違うはずだ。その後、否定されたはずの話は、生き埋め防止協会の代表者の本に収録され、権威を得た。百年以上たって、著名な作家がそれを実例として紹介した。

オクタヴィア・ハッチャーの件も同じ構造だ。地元紙を一枚ずつ確認して、掘り返しの記事が存在しないことを確かめた人がいる。存在しないことを証明する作業は、存在を主張する作業の何倍も面倒で、そして何十分の一しか読まれない。

これは怪談を扱ううえで避けられない現実であり、物語は口伝えで増殖できる。検証は文書でしか伝わらず、速度が違いすぎる。

だから、この記事を書きながらずっと考えていたのは、「否定を面白く書けるか」ということだった。爪痕の話を否定するとき、木の乾燥収縮の話や、ネズミの食害の話を持ち出すのは、怪談としては明らかに弱い。でも、そこを面白がれないと、この分野の話は永遠に同じ嘘を回し続けることになる。

よっつめ、それでも、この恐怖には正しい部分があった、という話をしたい。

生き埋め防止運動は、確かに怪談を集めて煽った。数字も怪しかった。年間二千七百件という主張には、まともな根拠がない。テブの集めた事例には、明確に否定されたものが混ざっていた。

だが、彼らの制度要求は正しかった。死亡証明書は、遺体を実際に診察した医師が書くべきだ。これは、当時としては全然当たり前ではなかった。診察なしで死亡証明が出る制度は、実際に存在していたのだ。

そして、その制度は変わった。医師の実地確認が求められるようになり、登録と証明の手続きが挟まるようになり、埋葬までに時間がかかるようになった。恐怖が沈静化したのは、人々が賢くなったからではない。制度が恐怖の根拠を消したからだ。

つまり、この百年の騒動は、怪しげな怪談が、まっとうな制度改革を引っ張ったという話でもある。怪談が完全に無駄だったわけではない。ただ、成果は装置ではなく、書類の側に出た。特許図面はどれも使われずに終わったが、死亡診断のルールは残った。

いつつめ。最後に、この話がなぜ今も語られるのかを考えたい。

現代の日本で、生きたまま埋められる心配をしている人はいない。火葬が原則で、死亡診断書がなければ手続きは進まない。医学的には、この恐怖はもう賞味期限が切れている。

それでも、この話は繰り返し語られる。映画になり、小説になり、動画になる。

理由は、たぶん、この恐怖が「埋葬」の話ではないからだ。これは、自分の意識が外の世界に届かなくなることの話であり、中には自分がいる。考えている。感じている。でも外の人には、それが見えない。

外の人は、自分を「もういない者」として扱いはじめる。

そう考えると、この恐怖に触れる場面は現代にもある。意識障害の患者をめぐる判断。認知症の人への接し方。重度の身体障害を持つ人への「意思がない」という決めつけ。どれも、外側からの判定が中身を取りこぼす可能性の話だ。

十九世紀のドイツ人は、その可能性に対して、遺体の指に糸を結ぶという方法で答えようとした。動いたら教えてくれ、と。その糸は結局、腐敗ガスにしか引かれなかった。

でも、あの糸が何のためのものだったかは、はっきりしている。あれは、外側から中身を判定することの限界に対する、素朴で必死な保険だった。彼らは、自分たちの判定が間違っているかもしれないと本気で思っていた。そう思う謙虚さがあったから、あんな面倒な建物を建てたのだ。

現代の私たちは、判定の精度をはるかに上げた。上げた分だけ、疑わなくなった。どちらが正しいかは、簡単には言えない。

ミュンヘンの死体安置所の天井には、何十本もの電線が張られていた。そこから垂れた紐の先には、金属の輪がついていた。輪は、そこに横たわるすべての人の指に嵌められていたのだ。二十体から四十体ぶんの指が、同じ事務室の一つのベルにつながっていた。

そのベルは、たぶん、何度も鳴った。そして駆けつけた誰かが、毎回、何も起きていないことを確認して戻ったのだ。

それでも次の日も、輪は嵌められた。

そこがいちばん、怖いところだと思う。

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