- 眉のない顔が、この国の標準だった
- そもそも何をどうしていたのか
- 抜くのか、剃るのか。道具と、痛みの話
- 眉を落とす朝――ある嫁入り前の家の情景
- 額の上に描かれた、あの丸い眉
- 描くための黒。黛、掃墨、そして焼いた麦
- なぜ眉を消したのか。理由は一つに決まっていない
- 説の突き合わせ――どこで折れて、どこが残るか
- 最初はいつか。裳着とお歯黒と、抱き合わせで始まった
- 男もやっていた。公家の元服と、武将の顔
- 源氏物語のなかで、男が女の眉を抜いた話
- 眉を抜かなかった姫の話
- 白粉と間違えて、眉墨を顔じゅうに塗った女
- 江戸。娘は描き、嫁は染め、母は消す
- 浮世絵は嘘をつく。三十歳以下は眉を描いてもらえた
- 眉のマニュアルが存在した――『化粧眉作口伝』と『都風俗化粧伝』
- 遊里の眉。吉原の女将たちに眉がない理由
- 眉を落とす――嫁ぐときと、夫を失ったときに、同じことをする
- 眉を消した顔の下で、何が起きていたか
- 幕末。外の目が入ってくる
- 異人が見た顔――幕末の記録から
- 明治三年二月五日、「染歯掃眉ヲ停止ス」
- 皇后がやめた日
- それでも、村では残っていた
- そして、眉のない顔は妖怪になった――能面、のっぺらぼう、雛人形
- 眉毛を数えられると、化かされる
- 海の向こうの眉
- なぜ生まれ、なぜ消えたのか
眉のない顔が、この国の標準だった
眉を抜く。全部だ。一本残らず毛抜きでつまんで、根元から引っこ抜く。血がにじむこともある。そのうえに鉛の白粉をべったり塗って、生え際に近い高いところへ、墨で丸い眉を二つ描く。
顔のパーツの位置が、物理的にずれる。
これが引眉であり、ひきまゆ、と読む。剃るやり方は剃眉、眉作り、眉引き、掃眉、置眉、いろんな呼び方がある。呼び方が多いということは、それだけ長く広く行われていたということでもある。
やっていた期間がすごい。平安の初めごろから明治まで、ざっと千年、地方によっては大正、さらに昭和のはじめまで生き残った。しかも途中で男もやった。公家の男が、武将が、寺の稚児が、みんな眉を抜いて額に丸を描いていたのだ。
今の感覚だと完全にホラーだが、当時はこれが上品な顔だった。
そして怖いのはここからだ。この風習が消えた瞬間、眉のない顔は化け物の顔になった。のっぺらぼう、雪女、能面の女、日本の怪異の女の顔から眉が消えているのは、偶然じゃない。かつて日常だったものが、日常でなくなったときにどこへ行くのか。
その行き先が妖怪だった。
今回はその千年ぶんを、抜き方から、道具から、痛みから、法令の文言まで、全部並べていく。
そもそも何をどうしていたのか
引眉というのは、二段構えの作業であり、ここを混同すると話がぐちゃぐちゃになるので、先に分けておく。
第一段階が、自前の眉をなくすこと。抜くか、剃るか。時代と身分と地域で、どっちが主流かは違う。平安の貴族社会では抜くのが基本だったとされる。毛抜きでつまんで引っ張る。
第二段階が、描くこと。なくした眉の代わりに、墨で新しい眉を描き入れる。これが黛だ。
で、ややこしいのは、この二段目をやらない時期があることであり、江戸の後期になると、既婚女性は剃りっぱなしにする。描かない。つまり、眉のない顔のまま人前に出る。江戸中期まではまだ剃ったあとを薄い墨でうっすらなぞっていたのだが、それすらしなくなる。
抜いたうえに描く時代と、剃ったまま放置する時代、この差が、そのまま「眉が何を意味していたか」の変化に対応している。描いていたころの眉は美の記号であり、描かなくなったころの眉は、無いこと自体が記号になっている。眉が無い、という情報が服を着て歩いている状態だ。
抜くのか、剃るのか。道具と、痛みの話
具体的な作業を想像してみたい。
抜く場合、使うのは毛抜きであり、今のと形はそう変わらない。金属の板を折り曲げた、あの単純な道具、これで眉毛を一本ずつ、あるいは数本まとめてつまんで引く。眉の毛根はけっこう深いし、皮膚も薄い。
抜けば赤くなるし、腫れる人もおり、何度も繰り返せば毛が生えにくくなるので、年季が入るほど作業は楽になる。逆に言えば、はじめてやる十代の娘がいちばん痛い思いをする。
剃る場合は剃刀であり、江戸の女性は顔剃りを日常的にやっていたから、剃刀の扱いには慣れている。眉のところだけ丁寧に当てて落とす。ただし剃刀だと毛根が残るから、剃った跡が青く残る。この青い剃り跡が独特の色味で、浮世絵や舞台化粧では薄い青、いわゆる青黛を使ってわざわざ表現された。
眉が「無い」ことを、青で描くのであり、無を描くという発想が、なかなかすごい。
そして毎日やる。剃ったところは数日で伸びてくる。伸びかけの眉が生えた顔は、当時の感覚だとみっともない。だから朝の支度に組み込まれる。顔を洗って、剃刀を当てて、白粉を塗る。
この繰り返しが何十年も続く。十四で嫁いだ女が七十まで生きたら、五十六年ぶん、毎朝自分の顔から眉を削り落としていたことになる。
眉を落とす朝――ある嫁入り前の家の情景
具体的に、一日の始まりを再現してみる。江戸後期のどこかの町家、嫁いだばかりの若い女の朝だ。
まだ暗いうちに起きる。井戸の水で顔を洗う。手ぬぐいで拭いて、鏡台の前に座る。鏡は磨いた銅であり、今の鏡ほどはっきりは映らない。
行灯の火を近づけると、ぼんやりと自分の顔の輪郭が浮かぶ。
引き出しを開ける。剃刀を出す。前の晩に砥いであり、刃を親指の腹で軽く確かめる。眉のところに少し水を含ませ、頬に当てるときより浅い角度で刃を寝かせて、上から下へ、外から内へ引く。
剃り落とすというより、なでるように削ぐ。毛は柔らかいから抵抗はほとんどない。じょり、という乾いた音だけが顔の骨を伝って耳に届く。この音を、彼女はこれから数十年、毎朝聞くことになる。
剃り終えた額は、青い。毛根が皮膚の下に残っているから、うっすらと影のような色が出る。手のひらでなでると、ざらりとした感触があり、ここに白粉を置く。板状の白粉を小皿でおろし、水で溶き、刷毛で薄く、薄く、何度も重ねる。
額、まぶた、鼻筋、首筋まで。青い影が白の下へ沈んでいく。何層か塗ったところで、青は消える。額はのっぺりと白い平面になる。
そこで手が止まる。鏡のなかに、眉のない顔があり、目と生え際のあいだに、なにもない。人間の顔から一番よく動く部品が取り払われて、白い余白だけが残っている。この状態の自分の顔を、彼女は毎朝一度は見ることになる。
慣れる。だが、はじめの何日かは、慣れない。
そして、家によっては、ここから墨を出して薄く形をなぞる。江戸中期まではそうしていた。後期になると、それすらやらない。白いままで、髷を結い、着物を着て、店の表に出る。誰も驚かない。
往来を歩く大人の女は、みんな同じ顔をしている。
額の上に描かれた、あの丸い眉
平安の絵巻や雛人形のお内裏様を見ると、額のずいぶん高いところに、ぽってりした丸い眉が二つ浮かんでいる。あれが殿上眉であり、麻呂眉ともいう。
形は長円形、楕円をつぶしたような、指でぽんと押したような形をしている。位置は、本来の眉の位置よりはるかに上、生え際に近いあたりに置く。だから顔の縦の比率がおかしくなる。
目と眉のあいだが異様に広い顔ができあがる。
この「異様に広い」がミソだ。眉というのは表情筋と直結しており、怒れば寄る。驚けば上がる。困れば下がる。
つまり眉は感情の実況中継装置なのだ。ところが、その眉を根こそぎ排除して、動かない額の上に絵として置いてしまえば、どんな感情も顔に出なくなる。喜んでも悲しんでも、額の丸は微動だにしない。
平安の貴族社会でこの顔が求められた理由は、まさにそこにある。感情に左右されない、静かで高貴な顔、感情を隠すのではなく、感情を表示する機能そのものを顔から外してしまう。この発想の徹底ぶりが、引眉という風習のいちばん怖いところだと思う。化粧というより、顔の改造だ。
描くための黒。黛、掃墨、そして焼いた麦
では何で描いたのか。ここも面白い。
平安期に使われたのが掃墨であり、はいずみ、と読む。粉状の墨で、これを水で溶いて筆で描く。ものによっては油煙、つまり油を燃やして出た煤を集めたものが使われた。書道の墨と原理は同じで、要は炭素の粒だ。
江戸期になると、捏墨という言葉が出てくる。こねずみ。煤と油を練り合わせたもので、伸びがよく、落ちにくい。庶民は麦を焼いて炭にしたものを使ったという記録もあり、台所で麦を黒焦げにして、それを砕いて眉にする。
ずいぶん所帯じみているが、逆に言えば、そのくらい身近な化粧だったということだ。
そして黛という言葉、これはもともと、青みを帯びた黒の顔料を指す。日本の眉墨は真っ黒というより、わずかに青みや灰色を含んだ黒が好まれた。真っ黒だと白粉の上で浮くのであり、白い顔の上に、少し青みのある黒。
この色の組み合わせは、お歯黒の黒、紅の赤とあわせて、白と赤と黒という三色の体系を作る。日本の伝統的な化粧は、この三色しかない。
ちなみに白粉のほうは鉛白か、水銀を使った軽粉だった。鉛の白粉はよく伸びて発色がいい。だから広く使われた。これが後々とんでもない話につながるのだが、それは後述する。念のために先に書いておくと、鉛や水銀の白粉は明確な毒物であって、当時の記録として書いているだけだ。
真似できるものではないし、真似してはいけない。
なぜ眉を消したのか。理由は一つに決まっていない
引眉が生まれた理由については、いくつも説があり、決着はついていない。
いちばんよく言われるのが、さっき書いた感情の隠蔽説であり、動く眉を取り除いて、動かない眉を描く。宮廷という、感情をむき出しにすることが下品とされた空間で、これは合理的だった。
二つ目が、大陸の影響説。唐の化粧文化では眉を剃って描き直すことが盛んに行われていて、その形の流行が細かく記録されている。蜀の地に伝わったという『十眉図』の話は有名で、眉の形に十種類の名前がついていた。この習慣が日本に入り、国風文化のなかで日本独自の形へ変形したという流れだ。ただし唐の眉は目の上に描くものが多く、額の高いところに置くのは日本の独自展開に近い。
輸入したのは「剃って描く」という発想までで、置き場所は日本で決めた、ということになる。
三つ目が、通過儀礼説、引眉はもともと単独の化粧ではなく、裳着という女子の成人儀礼のなかで、お歯黒とセットで行われた。つまり最初から、美しくなるための行為ではなく、大人になったことを身体に刻む行為だった。だから痛くてもやる。手間でもやる。
効率の話ではないのだ。
四つ目が、単純に照明の問題だという説、当時の室内は暗い。灯明の光は弱く、赤い。そのなかで顔の造作をはっきりさせるには、白粉で顔を真っ白にして、黒でパーツを描き足すのが手っ取り早い。眉は自然のままだと薄くて見えないから、いっそ消して、目立つ位置に濃く描く。
舞台化粧と同じ発想だ。
どれが正解ということはない。というより、たぶん全部が少しずつ効いており、千年続いた風習は、たいてい理由が複数ある。
説の突き合わせ――どこで折れて、どこが残るか
さっき並べた諸説を、今度は反証にかけてみたい。ここをやらないと、ただの説の羅列で終わってしまう。
まず、貞操を守らせるために女を醜くしたのだという説、幕末に来た外交官が書き残して以来、これはずっと生き延びている。だが弱点がはっきりしている。第一に、平安から中世にかけては男もやっていた。男の貞操を守るために男の眉を抜いたとは考えにくい。
第二に、当時の日本人はこの顔を醜いとは思っていない。
醜くする目的なら、醜いという評価が国内の記録にも残っているはずだが、むしろ逆で、艶っぽい、清らかだという評価が並ぶ。この説は、外から来た目が自分の嫌悪感を制度の意図として読み替えたものだ、と見るのが妥当だと思う。
次に、感情を隠すための装置だという説、これはかなり強い。動く眉を排して、動かない眉を置く。効果としては間違いなくそうなる。ただし、これが最初の動機だったかは別だ。
裳着というパッケージの一部として始まっている以上、出発点は儀礼のほうにある。感情の抑制は、結果として後から発見された効能かもしれない。効能が動機として語り直されるのは、風習にはよくあることだ。
大陸伝来説はどうか。剃って描くという技術そのものが唐からの流れであることは、まず動かない。ただし額の高い位置に置くのは日本の独自展開に近く、輸入品をそのまま使ったわけではない。だから「起源は大陸、完成形は国産」という折衷が現実的な線になる。
そして通過儀礼説、これがいちばん頑丈だ。なぜなら、この説だけが、痛くて面倒でリターンの薄いこの行為が千年続いた理由を説明できるからだ。美しくなるためなら、もっと楽な方法が発明されていたはずである。楽な方法へ流れなかったということは、面倒であること自体に意味があったということになる。
通過儀礼は、コストが高いほど効く。
最初はいつか。裳着とお歯黒と、抱き合わせで始まった
起源をたどると、平安時代の裳着に行きつく。
裳着というのは、女子の成人式であり、裳という衣を初めて身につける。この場で、髪を上げ、歯を黒く染め、そして眉を抜く。三点セットである。つまり引眉は、単独で流行った化粧ではなく、成人儀礼のパッケージの一部として日本社会に入ってきた。
これはとても重要な出発点だ。
年齢は時代によってばらつく。平安期には十歳前後という記述があり、室町のころには九歳でお歯黒、十五、六歳から眉作りという段取りが記録される。つまり歯が先で、眉が後であり、子どものうちに歯を黒くして、思春期に入ってから眉を落とす。この二段階が、当時の女の一生における最初の大きな節目だった。
さらに室町になると、眉の位置がもっと上がる。平安のそれよりさらに高く、ほとんど生え際のあたりに、より太く描くようになる。時代が進むにつれて眉が額を登っていく。この動きは絵巻や肖像を並べていくと目で追えるので、機会があれば見比べてみてほしい。眉が毎世紀じわじわ上へ移動していくのは、なかなかシュールな光景だ。
男もやっていた。公家の元服と、武将の顔
そしてここが今回いちばん強調したいところなのだが、引眉は女だけのものではない。
平安中期以降、男性貴族も元服の際に眉を抜くようになる。平家の武将たちもやった。大きな寺院の稚児もやった。つまり、身分の高い男の顔からは眉が消えていたのだ。額に丸い眉が二つ描かれた男が、烏帽子をかぶって政務をとっていた。
なぜ男までやるのか。理由は明快で、これが身分の記号だったからであり、眉を抜き、歯を染め、白粉を塗る。これができるのは、時間と金と、それを許される立場のある人間だけであり、つまり顔が身分証になっている。
田で働く男には無理だ。だから逆に、白い歯と自前の眉は、下の身分の印になった。
戦国のころになると、この価値観が武士の世界で揺れる。ある層は依然として公家風の化粧を続け、ある層はそれを軟弱と見た。今川義元がいまだに白塗りに丸眉の姿でイメージされているのは、この揺れの産物だ。実際のところ、義元の母は京の公家の出であり、彼自身も若いころ京で僧として学んでいる。つまり公家的な作法は身についていて当然だった。
周囲の豪族に対して、自分は京の格式に連なる存在だと示すための装置として化粧を使ったという見方もある。バカ殿の記号ではなく、権威の演出装置、そう置き直すと、あの顔の意味がまるで変わってくる。
源氏物語のなかで、男が女の眉を抜いた話
文献に残る具体的な場面を見ていこう。
『源氏物語』の末摘花の巻に、光源氏が幼い紫の君の顔をかまう場面が出てくる。眉がくっきりしたのも美しく清らかだ、という趣旨の描写がある。つまり源氏は、まだ子どもの少女に大人の化粧をさせており、眉を抜き、墨で描いてやっている。これがどれだけ倒錯した場面かは、現代の目で読むとかなりくる。
彼はこの少女を自分好みの女に育てている最中で、その育成の一環として、顔の造作をいじっているわけだ。
この場面のえぐさは、当時の読者にはたぶん共有されていた。というのも、引眉は本来、裳着という公的な儀礼で、しかるべき年齢に、しかるべき手続きを経て行うものだからだ。それを私的な空間で、男が、遊びのように行う。順序が壊れている。
同じく源氏物語のなかには、まだお歯黒をつけていない、まだ大人ではないという意味の表現も出てくる。歯と眉の状態を書けば、その人物の年齢と立場が一行で伝わる。作者はそれを知っていて使っている。当時の顔は、情報量の詰まった掲示板だった。
眉を抜かなかった姫の話
引眉を語るうえで、絶対に外せない場面があり、『堤中納言物語』のなかの一編、虫めづる姫君だ。
この姫は変わり者として書かれている。蝶より毛虫が好きで、毛虫を集めて眺めており、周囲は気味悪がる。そして化粧について、彼女はこう言い放つ。人はすべて、つくろふところあるはわろし。
取り繕うところがあるのはよくない、という主張であり、だから、眉をまったくお抜きにならない。お歯黒も、さらにうるさし、きたなし、と言って、つけない。そしていと白らかな歯を見せて笑いながら、朝な夕なに虫をかわいがっている。
これは千年前の、化粧という制度に対する明確な拒否であり、しかも理由が「面倒だから」ではない。人工的に取り繕うことが本質から遠ざかる、という思想としての拒否である。うるさし、きたなし、という言い方も強い。うるさいというのは煩わしい、きたないというのは不潔だという意味で、お歯黒の実際の作り方を思えば、この評価はかなり的確ですらある。
面白いのは、この姫が物語のなかで一種の怪物として扱われていることだ。眉があって、歯が白い若い女、それが当時の読者にとって不気味だった。今の我々の感覚とちょうど逆さまになっており、眉を抜かない娘が異形で、眉を抜いた娘が普通。
この反転を頭に入れておかないと、以降の話が全部ずれる。
そしてこの一編は、その後の日本の物語のなかで妙な位置を占め続けた。制度に従わない女は、変人か、怪異か、そのどちらかに配置される。虫めづる姫君は、その最初期の見本であり、彼女は妖怪にされる寸前で踏みとどまった存在だと言ってもいい。
白粉と間違えて、眉墨を顔じゅうに塗った女
もう一件、同じ『堤中納言物語』から。はいずみ、という一編があり、これが最高に怖くて、そして最高に切ない。
筋はこうであり、ある男が新しい女のところへ通いはじめる。もとの妻は貧しくなり、家を出ようとしており、ところが男が思い直して、新しい女のところへ来なくなりそうになる。あるとき男が予告なしに新しい女の家を訪れる。
女はあわてる。化粧をしなければ。急いで白粉の入った容器を取り、顔じゅうに塗りたくる。
だが、つかんだのは白粉ではなかった。掃墨であり、眉を描くための、粉の墨、それを白粉と思い込んで、顔いちめんに厚く塗り広げてしまう。
当然、顔は真っ黒になる。しかも本人は気づいていない。鏡を見ずに、そのまま男の前に出る。男は絶句し、そのまま帰ってしまう。そして親たちが娘の顔を見て仰天する。
娘は何が起きたか分からない。周囲は物の怪の仕業だと騒ぎ、陰陽師を呼ぼうとまでする。娘はようやく鏡を見て、そこではじめて大騒ぎになる。泣きに泣いているうちに、涙で墨が流れ落ちて、顔はもとに戻った。
笑い話として書かれているのだが、構造を抜き出すと本当にぞっとする。化粧の道具を一つ取り違えただけで、人間の顔が化け物の顔になる。周囲は迷わず物の怪だと判断し、祓おうとする。そして涙という、感情の産物によってしか元に戻らない。感情を消すための化粧が、感情によって解除される。
これは平安の人が意識して書いたかどうかは分からないが、恐ろしくよくできた話だ。
さらに言えば、白粉と眉墨が同じ場所に並べて置かれていたという事実そのものが情報だ。白い粉と黒い粉、顔を白くする粉と、眉を黒く描く粉。この二つが手の届く同じ箱に入っており、だから間違える。
当時の化粧箱の中身が、この一編から透けて見える。
江戸。娘は描き、嫁は染め、母は消す
時代が下って江戸になると、引眉は完全に女のものになる。そして意味が細分化していく。ここが日本の眉の歴史でいちばんややこしく、いちばん面白いところだ。
まず未婚の娘、彼女たちは自前の眉を持っており、剃らない。そのうえで、形を整えたり、墨で足したりして、流行に合わせた眉を作る。三日月のような細い弧、笹の葉のような優美な形。
この時期の眉化粧は、純粋におしゃれであり、しかも娘時代にしかできない。だから熱心にやる。眉を作れるのは若い娘の特権だった。
次に、結婚する。ここでお歯黒がくる。歯を黒く染める。これで既婚の印がつく。ただしこの段階ではまだ眉は残っていることが多い。
そして子を産む。ここで眉を落とす。庶民の一般的な作法では、妊娠したとき、あるいは出産したときに眉を剃った。つまり、歯の黒さは結婚を、眉の無さは子を持ったことを表していた。二段階の表示装置になっているわけだ。
すれ違った女の顔を見れば、独身か、既婚か、母親かが一瞬で分かる。
上流はもう少し違う。武家や公家の女性は、家ごとに伝わる礼法に従って、一定の年齢に達すると眉を剃り、決められた形の眉を、決められた位置に描き直した。眉と眉のあいだの距離、太さ、額のどのあたりに置くか。全部規定があり、年齢が上がれば描く位置や形も変わる。
年齢と身分が、眉の座標として顔に書き込まれている。
当時の結婚適齢期はおよそ十四歳から十八歳だ。だから二十歳を過ぎた女性は、ほとんどが眉を落としていた。町を歩けば、大人の女はみんな眉がない。それが江戸の風景だ。
浮世絵は嘘をつく。三十歳以下は眉を描いてもらえた
ここでひとつ、可笑しな慣行がある。
浮世絵に描かれた既婚女性を見ると、眉があることが多い。実際には剃っているはずなのに、絵のなかでは眉があり、これは絵師のミスではなく、お約束だ。三十歳以下の女性であれば、実際に眉がなくても絵では描いてやる、という暗黙のルールがあった。
理由は単純で、そのほうが美しく見えるからだ。当時の人も、眉のない顔が絵として映えないことは分かっていた。分かっていて、現実ではやっていた。ここに江戸の美意識のねじれがある。制度としての眉なし顔と、鑑賞対象としての眉あり顔が、社会のなかで並存していた。
だから浮世絵を史料として読むときは注意がいる。あの美人画は現実の記録ではなく、修正済みの理想像だ。実際の町を歩いていた女たちの顔は、もっと平坦で、もっと表情が読みにくかったはずだ。
眉のマニュアルが存在した――『化粧眉作口伝』と『都風俗化粧伝』
眉の描き方には、ちゃんと教科書があった。
一つは『化粧眉作口伝』。江戸前期に成立したとされる手引きで、写本が複数伝わっている。眉の描き方の技法と、そのための道具について書かれたものだ。口伝という言葉が入っているとおり、もともとは家から家へ、女から女へ口移しで伝えられた技術が、あるとき文字に落とされたものらしい。裏を返せば、口移しで伝えなければならないほど細かいノウハウがあったということだ。
もう一つが『都風俗化粧伝』。佐山半七丸が書き、速水春暁斎が絵を描いた。文化十年、西暦でいえば一八一三年の刊行だ。こちらは庶民向けの美容マニュアルで、百年以上売れ続けた大ロングセラーになった。顔かたちごとに似合う眉の形を説き、描き方の手順を絵入りで示している。
同じ本のなかに、色のしろきは七難かくすと諺にいえり、という一文が出てくる。江戸の美の第一条件は色白だった。
つまり江戸の女たちは、慣習として決められた眉を持ちながら、同時に自分の顔に似合う眉を探していた。制度と、おしゃれ。この二つが同じ顔の上でせめぎ合っている。何百年も前の話なのに、やっていることは今の我々とほとんど変わらない。
遊里の眉。吉原の女将たちに眉がない理由
花街に目を移すと、また別のルールがある。
吉原の遊女たちは、お歯黒はつけた。ただし眉については、店や役割によって扱いが違う。そして、いわゆる女将、遣手や楼主の妻といった立場の年配の女たちには、眉がない。時代劇や近年の作品で、吉原の女将が眉のない顔で描かれるのは、これが理由だ。
彼女たちは既婚であり、年齢も重ねており、江戸の作法に忠実に従えば、眉は当然なくなる。つまりあの顔は、特別な演出ではなく、当時としてはごく普通の中年女性の顔だ。ただ、その普通の顔が、遊里という場所に置かれると、独特の凄みを帯びる。
ここで一つ、押さえておきたいことがある。遊女や遊里の女たちの姿を、彼女たちの人格の問題として読むのは間違いだ。あの制度は、貧困と身売りと年季奉公という仕組みが作り出したものであって、そこにいた個人の選択ではない。眉のない顔も、黒い歯も、その制度が身体に押した刻印だ。顔の話をするときは、この構造の話を必ず一緒に置いておきたい。
眉を落とす――嫁ぐときと、夫を失ったときに、同じことをする
眉に関する日本語の言い回しには、妙に重いものが混ざっている。
眉を落とす、という表現は、単に眉を剃る動作を指すだけではない。夫を亡くした女が、髪を下ろして尼になる。そのときも眉を落とす。俗世との縁を切る印であり、つまり同じ動作が、結婚の印にも、出家の印にもなる。
これはかなりすごいことだと思う。同じ身体加工が、人生の始まりと終わりの両方を表す。嫁ぐときに眉を落とし、夫を失ったときにも眉を落とす。方向が正反対の出来事が、顔の同じ場所に刻まれる。眉のあった場所は、その人がどこにいるかを示す掲示板であり、同時に何を失ったかを示す傷でもあった。
そして、いったん落とした眉は簡単には元に戻らない。何十年も抜き続ければ毛は生えなくなる。剃り続ければ薄くなる。つまりこれは、事実上の不可逆な加工であり、人生のステータスが、取り外しのできない形で顔に固定される。
この一点だけで、引眉という風習はホラーの資格を十分に満たしている。
眉を消した顔の下で、何が起きていたか
ここで、いちばん生々しい事例を一つ紹介したい。土の中から出てきた話だ。
江戸の加賀藩前田家の屋敷跡、現在の東京大学本郷キャンパスにあたる場所で、発掘調査が行われた。文政十年、一八二七年に建てられた溶姫御殿の一帯だ。二千十三年から翌年にかけての調査で、女中たちが暮らしていた区画の便所遺構が掘り出された。便槽の下の層から土を採取し、分析にかける。
出てきたのが鉛だ。白く変色していた土壌の鉛濃度は、通常の土の三倍から四倍あった。同じような発見は、一九八〇年代後半の別地点の調査でも報告されている。
この鉛がどこから来たかというと、白粉であり、鉛白の白粉を毎日顔に塗る。皮膚から吸収され、口から入り、体内に蓄積される。それが排泄物として便槽に落ち、土に残った。つまりあの土は、二百年前の女たちの化粧の残骸だ。
さらに指摘されているのが、乳幼児への影響であり、母親の身体に蓄積した鉛は母乳を通じて子に移る。抱かれた赤ん坊が、母親の首筋や胸元を舐める。そこにも白粉が塗ってあり、当時の乳幼児死亡率の高さの一部を、この化粧が押し上げていた可能性がある。
鉛の毒性が正式に問題視されるのは明治に入ってからだ。明治二十年、井上馨の邸宅で催された歌舞伎の興行で役者が鉛毒に倒れた一件が広く知られる。そして鉛白粉が全面的に禁止されるのは、なんと昭和十一年、一九三六年になってからだ。引眉が消えてからさらに六十年以上、鉛の白粉は売られ続けていた。
引眉と白粉は不可分であり、眉を抜いた跡を隠すために、白粉を厚く塗る。白い額があってはじめて、その上に描いた黒い眉が映える。つまりこの化粧の様式そのものが、鉛の摂取量を押し上げる構造を持っていた。念のためくどく書いておくが、これは当時の記録の話であって、鉛や水銀を含む白粉は明確な毒物だ。
再現しようなどとは絶対に考えないでほしい。
幕末。外の目が入ってくる
千年続いた顔が揺らぐのは、外から人が来たときだ。
出島にいたオランダ商館の医師をはじめ、幕末に日本を訪れた欧米人たちは、日本女性の顔について容赦のない記録を残している。歯が黒いことへの嫌悪はよく引かれるが、眉についても同じであり、眉のない、のっぺりした顔、感情の読めない顔。彼らにとってそれは、人為的に美を損なう行為に見えた。
初代の英国公使は、これを女性を意図的に醜くして貞節を守らせる仕組みではないかと推測している。この解釈は今でも根強い。ただし、当時の日本人にとって黒い歯も眉のない額も醜くはなかったのだから、この見立ては外から来た目線の産物という反論がある。醜くするための装置だと解釈できるのは、それを醜いと思う文化の側にいるからだ。
とはいえ、この視線は日本側にも効いた。開国して外交をやる以上、相手からどう見えるかが政治的な問題になる。文明国として扱われたい、という当時の切実な焦りは、まっさきに国民の顔に向かった。
異人が見た顔――幕末の記録から
外の目が残した記述を、もう少し丁寧に読んでおきたい。ここには証言として読み応えのある材料がある。
出島にいたオランダ商館付きの医師は、日本の女性の化粧について、はっきりと否定的な言葉を書き残している。この上なく厭で見苦しい、という趣旨だ。彼が見ていたのは、白く塗られた顔、黒い歯、そして眉のない額という三点セットだった。医師である以上、身体への影響も気になったはずだが、記録に強く出ているのはまず生理的な拒否反応のほうだ。
幕末に艦隊を連れてやってきた側の随行者たちも、似たようなことを書いている。日本の女性が笑うたびに嫌悪を覚えた、という趣旨の一文が残っており、これは冷酷な物言いだが、正直でもある。彼らにとって、笑うという行為は白い歯が見えることとセットだった。ところが目の前の女は、笑うと口の中が黒い穴になる。
しかも眉がないから、笑っているという表情そのものが読み取りにくい。目だけが細くなって、額は動かない。
感情が伝わらない笑顔は、笑顔として認識されない。彼らが感じた不気味さの正体は、たぶんそこにある。
初代の英国公使はもう少し理屈をこねた。これは女性を意図的に醜くして、他の男に見向きされないようにするための社会的な仕掛けではないか、と。前の節で書いたとおり、この見立てには無理があり、だが、なぜ彼がそう考えたかは分かる。目の前にあるのが、明らかに手間と苦痛をかけて成立している顔だからだ。
人はそれだけの労力を、意味のないことには払わない。だから意味を探した。
そして自分の文化のなかで一番手近な答え、つまり貞操と嫉妬に行き着いた。
面白いのは、この評価がわずか十数年で日本の政策に反映されてしまったことだ。彼らが記した罵倒に近い一文が、明治政府の耳に届き、文明国として見られたいという焦りに火をつける。外国人の日記の一行が、太政官布告の一行になる。顔をめぐる話としては、これ以上ないくらいスケールの大きな連鎖だと思う。
明治三年二月五日、「染歯掃眉ヲ停止ス」
そして法令が出る。
慶応四年、つまり明治元年の段階で、政府は公家の男性に対して、お歯黒と置眉をしなくてよいという趣旨の布告を出している。まずは男からであり、公家の男が丸眉をやめる。
本命は明治三年二月五日、西暦では一八七〇年三月五日に出た太政官布告第八十八号だ。文言はこうなっており、華族元服ノ輩染歯掃眉ヲ停止ス。
短い。とんでもなく短い。華族で元服する者は、歯を染めることと眉を払うことをやめよ。それだけであり、掃眉、という言葉が公文書に出てくるのが面白い。
掃くという字を使う。眉を掃き払う。千年やってきた身体加工が、七文字の熟語に圧縮されて、行政用語として処理されている。
注意したいのは、この布告の対象が限定されていることであり、華族で、元服する者。つまり、これから大人になる上流階級の若者に対する指示であって、いま眉のない全国の女たちに剃るなと命じたわけではない。国家はまず上から手をつけた。
その後も重ねて達しが出て、対象は広がっていく。だが法令だけでは動かない。人の顔は、法律で変わるほど軽くない。
皇后がやめた日
決定打は明治六年、一八七三年に来た。
この年の三月、宮内省が発表する。皇太后および皇后が、黛と鉄漿をやめた、と。眉墨をやめ、お歯黒をやめた。国のいちばん上にいる女性が、千年の顔を捨てた。
これが効いたのであり、上流階級の女性たちが一斉に追随する。華族の女性たちが伝統的な化粧をやめ、東京の中産階級がそれに続く。都市部では、明治二十年代にはかなり減っていたとされる。
崩れ方が興味深い。禁じられたからやめたというより、上の人がやめたから古くさくなった、という流れだ。もともと引眉は高貴さの記号だった。高貴な人がやめた瞬間、その記号は逆転する。眉のない顔は、身分の高さではなく、時代遅れを意味しはじめる。
価値のヒエラルキーは上から崩れると早い。
そして明治三十年代になると、鉛筆型の眉墨が普及する。自前の眉を活かして、足りないところを描き足す。抜くのではなく、生やして整える方向へ、発想が百八十度ひっくり返った。
それでも、村では残っていた
だが消えたのは都市だけだ。
明治十年ごろの錦絵には、まだお歯黒の女がはっきり描かれており、皇后がやめてから四年経っている。地方では、なぜこれをやめなければならないのか、その理屈自体が理解されなかった。中身を溶かすだけで使える簡便なお歯黒の粉が、明治の中ごろまで売られ続けたという記録もある。需要があったということだ。
眉についても同じで、農村では明治の終わりごろまで、既婚女性が眉を落とす習慣が残った。大正に入ってほぼ消滅するが、東北の一部などでは昭和のはじめまで見られたとされる。ラジオが鳴り、電車が走り、洋服の人が歩いている時代に、山あいの村では嫁いだ女が朝に剃刀を当てていた。
三重県の記録を見ると、この儀礼がどれだけ社会に根を張っていたかが分かる。かつては鉄漿付け親、筆親と呼ばれる仮親を立てて、その女性に歯を染めてもらった。この仮親とは生涯にわたる擬似的な親子関係を結ぶ。地域によって時期は違い、伊賀を除く北部では十七歳から十九歳という年齢を基準にし、南部では婚約や結婚を基準にした。
面白いのは、この関係だけが化粧より長生きしたことだ。鳥羽市の浦村町では、十九歳の厄年にカネオヤとカネツケゴという関係を結ぶ習慣が、化粧の実態が消えたあとも続いた。歯を染めなくなっても、眉を落とさなくなっても、親子の縁を結ぶ仕組みだけが残る。風習の抜け殻に、人間関係だけが残って生き続けており、これはかなり感動的な話だと思う。
そして、眉のない顔は妖怪になった――能面、のっぺらぼう、雛人形
さあ、怪談の時間だ。
日本の怪異の女には、眉がない。のっぺらぼうは言うまでもなく、そもそも顔に何もない。雪女の顔は白く平坦で、表情が読めない。能面の女面もそうだ。小面にせよ若女にせよ、あの面の額のずいぶん高いところに、ぼんやりと二つの丸が置かれている。
あれは引眉した顔を彫ったものであり、つまり能面は、平安から中世の上流女性の顔をそのまま木に写している。
だから、能面が怖い理由の半分は引眉にあり、眉が動かない。動かない眉を持つ顔は、感情を読み取らせてくれない。人間は相手の感情が読めないとき、そこに何を入れるか。恐怖を入れる。
空白は、たいてい恐怖で埋まる。
考えてみてほしい。引眉というのは、能面を作る作業を、生きた人間の顔で毎朝やることだ。表情筋と連動する毛を根こそぎ排除し、動かない位置に絵として眉を置く。仮面をかぶるのではなく、顔そのものを仮面に近づける。これを千年やっていた。
そして風習が終わったあと、この顔は行き場を失った。かつては誰の顔でもあったものが、誰の顔でもなくなる。行き場のない顔は、怪異の側に居場所を見つける。のっぺらぼうの、あの何もない顔、あれは我々が捨てた顔だ。
捨てた側が、捨てられたものを怖がっている。
雛人形を見ると、この構造がよく分かる。お内裏様の額には、いまも丸い眉が浮かんでいる。あれは平安の男性貴族の化粧を、そのまま人形の顔に固定したものだ。毎年三月に、我々は千年前の顔を段の上に飾って、めでたいものとして眺めている。同じ顔が、木彫りの面になると怖い。
人形になると縁起物になる。顔は変わっていない。変わったのは、こちらの側の枠だけだ。
眉毛を数えられると、化かされる
眉と怪異をつなぐ言い伝えは、もう一つあり、眉唾だ。
疑わしい話のことを眉唾物という。この言葉の由来は、眉に唾をつけておけば狐や狸に化かされない、という俗信だ。江戸期に広く行われていた実際のまじないで、山道を歩いていて怪しいものに出会いそうなとき、指を舐めて眉に塗る。
なぜ眉なのか。ここには、狐狸は人の眉毛を数えることで相手を化かす、という前提がある。眉の本数を数えられてしまうと、化かされる。だから唾をつけて濡らし、数えられないようにする。
この俗信を、引眉の風習と並べて置いてみると、ぞっとする景色が見えてくる。既婚の女には眉がない。数える眉がない。彼女たちは狐に化かされないのか、それとも、そもそも化かされる対象として数えられないのか。
もちろん俗信の側にそんな理屈はない。だが、日本人の想像力のなかで、眉というものが単なる毛ではなく、人間であることの目印のような扱いを受けていたのは確かだ。眉を数えられると人でなくなる。眉を落とすと大人になる。眉を落とすと俗世を離れる。
眉のない顔は妖怪の顔になる。全部つながっており、眉は、この国では人間と人間でないものの境界線に置かれた毛なのだ。
海の向こうの眉
日本以外にも目を向けておく。
眉を剃って描き直す習慣は、日本の発明ではない。唐の中国では、眉の形が細かく流行を作った。細い眉、太い眉、短く切り詰めた眉、山型、垂れ型。蜀の地に伝わったという『十眉図』には十種類の眉の形が図示されていたとされ、それぞれに名前がついていた。眉を剃り落として、そのシーズンの流行の形に描き直す。
今のファッション誌と発想は変わらない。
だが日本の引眉は、そこから離れていった。中国の眉は基本的に目の上、本来の眉のあたりに描く。日本の殿上眉は額の高いところに置く。この移動が決定的だった。目の上に描く眉は、まだ人間の顔の延長にある。
額の上に置いた眉は、顔のパーツとしての眉ではなく、顔の上に浮かんだ記号になる。
もう一つ違うのが持続期間だ。中国では時代ごとに流行が変わり、剃眉と自然眉のあいだを何度も行き来した。日本は千年、ほぼ一方向に押し切った。おまけに途中から意味を、美から身分へ、身分から婚姻状態へと乗り換えさせながら、行為だけは維持し続けたのだ。この粘りは異様だと思う。
なお、こういう比較をするときに、どこかの文化が野蛮だという話にするのは筋違いだ。眉を抜くのも、剃るのも、描くのも、その社会が顔に何をさせたかったかの表れであって、優劣の話ではない。現代の我々だって、眉のサロンに通って毛を抜いてもらっており、やっていることは、そんなに変わらない。
なぜ生まれ、なぜ消えたのか
まとめる代わりに、この風習の輪郭をもう一度なぞっておく。
引眉が生まれたのは、顔を情報の板にするためだ。文字を読める人間が少なく、身分の移動が制限され、初対面の相手の素性を知る手段が乏しかった社会では、顔に情報を書き込むのがいちばん確実だった。眉の位置、眉の有無、歯の色、この三点で、身分、年齢、婚姻、出産、出家までが表示できる。名札を配るより早い。
そして消えたのは、その必要がなくなったからであり、明治になって戸籍ができる。姓を名乗る。書類が身分を証明する。顔に情報を書く必要がなくなった瞬間、あれだけ手間のかかる作業を続ける理由は消えた。
法令は最後のひと押しにすぎない。皇后の決断も、崩れかけていた壁を蹴っただけだ。
だから引眉の終わりは、化粧の流行の終わりではない。顔が身分証だった時代の終わりであり、そう考えると、あの丸い眉の意味がまるで変わってくる。あれは装飾ではなく、書類だった。
ここまで千年ぶんを駆け足で並べてきたので、最後に全体を見渡して、この風習の骨格をもう一度組み直しておきたい。書きながら気づいたことがいくつもある。
まず何より、引眉は「引き算の化粧」だという点を強調しておきたい。人類の化粧の大半は足し算であり、色を足す、線を足す、輝きを足す。ところが引眉は、まず顔から要素を一つ完全に取り除くところから始まる。ゼロにしてから、別の場所に置き直す。
この構造は世界的に見てもかなり珍しい。眉を細く整える文化はどこにでもあるが、根こそぎ取ったうえで、まったく違う座標に描き直す文化は多くない。
そしてこの引き算が、そのまま「表情を削る」という効果を生んだ。日本の伝統的な美意識が、感情の抑制、間、余白といった言葉で語られることは多いけれど、その最も物理的な実装がこの顔なのだ。余白の美学を、人間の顔面で実行した。そう考えると、あの丸い眉は美術史の対象ですらある。
次に、意味の乗り換えの速さについて。この風習は、行為の形をほとんど変えずに、意味だけを三回も四回も入れ替えている。最初は成人儀礼の一部だった。次に身分の記号になり、男にまで広がった。武士の時代に一度ぐらつき、江戸で婚姻と出産の表示装置として再定義され、さらに上流と庶民で別々のルールに枝分かれし、遊里ではまた別の意味を持ったのだ。
同じ毛抜き、同じ剃刀、同じ墨を使いながら、何を意味しているかが世紀ごとに書き換わっていく。風習というのは中身が空の器なのだと、あらためて思う。器の形だけが数百年残って、そのつど社会が違う中身を注いでいく。だから「なぜ眉を抜くのか」という問いには、時代を指定しないと答えが出ない。平安の答えと江戸の答えは、まるで別のことを言っている。
三つ目に、この風習が持っていた身体的なコストを、もう一度まっすぐ見ておきたい。毛抜きで一本ずつ抜く痛み。剃刀を毎朝顔に当てる手間、剃り跡の青み。そしてその上を覆う鉛の白粉。
溶姫御殿の便所跡から通常の三倍から四倍の濃度で出た鉛は、この化粧様式が女性の身体に何をしていたかの物証だ。眉を消したから白粉を厚く塗る。厚く塗るから鉛の摂取が増える。乳児にまで届く。
鉛白粉の全面禁止は昭和十一年で、引眉が消えてからさらに六十年以上あとだ。つまり、風習が終わっても毒だけがしばらく残った。ここは笑えない。繰り返すが、これは記録として書いていることであって、鉛や水銀を含む化粧品は毒物だ。再現の対象では絶対にない。
四つ目に、明治の終わり方の妙な非対称さについて。太政官布告第八十八号の文言は、華族元服ノ輩染歯掃眉ヲ停止ス、というたった一行だ。対象は華族で、これから元服する者、全国の既婚女性に向けたものではない。にもかかわらず、この一行が引き金になった。
国家は上流の若者だけを撃ったのに、その弾は全国に届いた。しかも決定的だったのは法令ではなく、明治六年三月に宮内省が発表した皇后と皇太后の決断のほうだ。
上のいちばん高いところが降りた瞬間、下まで一気に崩れた。制度を壊すのは制度ではなく、象徴の側の一手だという、恐ろしく実務的な教訓がここにある。同時に、地方ではまるで効かなかった。大正まで、東北では昭和のはじめまで残った。国家の命令が届く速度と、村の朝の支度が変わる速度は、まったく別の時計で動いている。
五つ目に、怪異化のメカニズムをもう少し掘っておきたい。よく言われるのは、眉のない顔が怖いのは表情が読めないからだ、という説明であり、これは正しいが、半分でしかない。もう半分は、時間差にある。ある顔が「かつては普通だったが、いまは誰もしていない」という状態に入ったとき、その顔は怪異になる。
誰もしていない顔は、この世の誰の顔でもない。だから、あの世の側の顔として処理される。
のっぺらぼうも、能面も、雪女も、全部その処理の産物だ。逆に言えば、いま我々が当たり前だと思っている顔のうち、どれかは百年後の怪談の顔になる可能性が高い。極細眉が流行した時期がかつてあった。あの顔が、いつか怖いものとして語られる日が来るかもしれない。順番が回ってくるだけの話だ。
六つ目に、証言として残った文学の強さについて。虫めづる姫君は、眉を抜かず、歯も染めず、白い歯を見せて笑いながら毛虫をかわいがっていた。あの一編は、千年前に書かれた制度への異議申し立てとして、いまだに現役だ。うるさし、きたなし、というたった二語で、当時の女性が背負っていた身体加工の実情が全部伝わってくる。煩わしくて不潔。
それ以上の説明は要らない。
一方で、はいずみの女は、白粉と眉墨を取り違えただけで物の怪扱いされ、陰陽師まで呼ばれかけた。化粧の道具箱の中身がひとつずれるだけで、人間は化け物になる。この二編を並べて置くと、化粧という制度が女の顔にかけていた圧力の輪郭が、かなり正確に見えてくる。作者はどちらも笑い話として書いているのに、読み終わるとまるで笑えない。
最後に、いちばん引っかかっていることを書いておく。この風習で本当に怖いのは、痛みでも、毒でも、妖怪でもない。誰も強制していないのに、全員がやっていたことであり、明治三年の布告は華族の元服者にしか触れていない。それ以前に、眉を抜けと命じる法律はどこにもなかった。
にもかかわらず、千年にわたって、この国の大人の女は自分で毛抜きを持ち、自分で剃刀を当て、自分の顔から眉を消していた。
掟でも刑罰でもなく、ただ「そういうものだから」という理由で。
そして、やめるときも同じだった。皇后がやめたから、なんとなくダサくなって、みんなやめた。始まりも終わりも、誰の命令でもない。空気だけがそこにあって、千年ぶんの顔がその空気の形に沿って削られていた。
いま鏡の前で、我々は自分の眉をどうしているだろうか。抜いている人もいる、剃っている人もいる、描いている人もいる。理由を聞かれたら、たぶん似合うからと答えるだろう。だが本当にそうだろうか。平安の姫君も、江戸の嫁も、聞かれれば同じように答えたはずだ。
そういうものだから、と。顔にかかっている圧力は、自分の顔にかかっているときにはいちばん見えにくい。
千年かけて眉を消し続けたこの国の話が怖いのは、その圧力が、いまも形を変えてちゃんと生きているからだ。
