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我が子をいったん「捨てる」――拾い親と捨て名、生まれ変わらせるための儀式

「お前は橋の下で拾ってきた」の裏側

子どもの頃、親に一度は言われたことがあるだろう。お前は橋の下で拾ってきたんだ、と。冗談だと分かっていても、子どもは一瞬本気で不安になる。なぜ橋なのか。なぜ公園でもスーパーの前でもなく、どの家でも橋の下なのか。このフレーズが日本全国で使われているという事実は、かなり妙なことなんだよな。

実はこれ、民俗学の側から見ると、適当な冗談じゃない。橋と川は境界だ。こちら側とあちら側を区切る場所であり、霊的な力が集まるとされるところだ。水界を生命や魂の原郷と見る世界観が、日本の民間信仰には深く入っている。だから子どもは橋の下から来る。ちゃんとした理屈がある。

そしてもっと直接的な理由もある。かつて、本当に子どもを橋のたもとに置いてきて、他人に拾わせるという儀式があったからだ。捨て子儀礼。これが今回の話だ。

病弱な子や、親の厄年に生まれた子を、一度わざと捨てる。しばらく放置して、あらかじめ頼んでおいた人に拾ってもらう。拾った人は一旦自分の子として家に連れ帰り、あとで実の親に返す。これをやると、子は丈夫に育つ。ごく最近まで、日本全国で真面目に行われていた。

いったん捨てる、という手順

まず全体像をさっと見ておきたい。地域で細部は違うが、骨格はどこも同じだ。

まず、対象の子を選ぶ。当事者はだいたい三タイプに分かれる。体が弱い子。上の子が何人も死んでいる家の子。それから、親の厄年に生まれた子だ。この三番目がもっとも事例が多い。

次に、拾い親を選ぶ。これは完全に事前交渉だ。偶然に任せることはまずない。選ばれるのは、子だくさんの家とか、子育ちのいい家とか、子運の良い人。要するに「子どもを死なせていない実績のある人間」だ。この選定基準は、考えてみるとなかなかに酷い。子を何人も死なせている家は声をかけてもらえない。

そして、日を決めて実行する。子を何かに入れて、決めた場所に置く。親はその場を離れる。このとき振り返ってはいけないとされる地域が多い。しばらくして、拾い親が現れて子を拾う。拾うときの作法がこれまた細かく決まっている。あとで詳しく見る。

最後に、子は実の親のもとへ戻る。このとき、子はもう別人になっていることになっている。名前が変わる場合もある。これで、厄と弱さを背負っていた前の子は、一度死んだことになる。

四十二の二つ児という災厄

この儀礼の引き金として一番有名なのが、「四十二の二つ児」だ。

男の厄年の本厄は四十二歳。この年に、二歳になる子どもがいる状態をこう呼ぶ。四十二は「死に」に通じ、二つは重なると「死に二つ」で死が二重になる。これが非常に悪いとされた。地域によっては「四十二のはじかきっ児」とも呼んだ。東京の葛飾あたりではこの言い方が残っていて、区の史料にも記録されている。

この状態になったときの対処法が、捨て子だ。子どもを一度捨てて、拾ってもらう。こうすると、四十二の二つ児というレッテルがリセットされる。拾った人の子になるのだから、四十二歳の父との因果関係が切れる。切れたあとで戻す。この「一度切る」という発想が、この儀礼の全部だ。

厄年は男だけじゃない。女の三十三歳も同様に重い。厄年に生まれた子は、親の厄を背負って生まれてくると考えられた。逆に「厄年の出産は厄落としになる」という言い方もあって、これは子どものほうに厄を移して親が楽になるということになる。子どもの側からすれば、それは救いではない。だからもう一度、子どもからも厄を剥がす手続きが必要になる。

箕に入れて、辻に置く

具体的な手順の一例を見てみる。

東京の葛飾周辺に伝わるやり方はこうだ。屑掃きに使う箕を用意する。箕というのは豆や穀を選り分けるときに使う、浅い目の籠のような道具だ。これに子どもを入れる。そして家の近くの辻、つまり道がふたまたになっているところに置いてくる。

この、箕を使うという部分が重要だ。箕はごみを集める道具でもある。つまりこの儀式では、子どもは一時的に「屑」として扱われる。価値のないもの、捨てられるものとして一度定義し直す。価値をゼロにしないと、背負っている厄もゼロにならないということなんだろう。青い顔をした乳児が、夕方の辻に、箕に入ったまま置かれている。この絵づらはなかなかのものがある。

箕の代わりに、地域によっては籠や、入れ物や、あるいは布一枚を使う。共通しているのは、子どもを直接地面に置かないこと。何かに入れて、道の端や神社の前や橋のたもとに置く。完全に放り出すのではない。ちゃんと器に入れて、拾いやすい形にしておく。

拾い親は、あらかじめ頼んである

ここを誤解してはいけない。捨て子儀礼は、偶然に賭けるギャンブルではない。完全な台本がある。

事前に拾い親を依頼する。何日の何時に、どこに、どういう格好で置いておくかを伝える。拾い親はその時間に合わせて現地へ行く。つまりこの儀式は、見ている側からすれば完全な茶番劇だ。だが役者は全員本気でやる。本気でやらないと効かないと信じられている。

面白いのは、拾い親との関係がその日で終わらないことだ。以後、拾い親として一生付き合いが続く。盆や正月には挨拶に行く。子どもの節目の儀式には呼ばれる。拾い親が亡くなれば葬儀に行く。地域によっては、実の親戚と同等か、それ以上の付き合いになる。儀式の上で作られた親子関係が、そのまま実体を持つ。

これは日本の民俗全体に言えることだが、形だけ作ったものが何十年も持続する。仮のもののはずが、いつの間にか本物になる。儀式というのは、現実を上書きする技術なんだよな。

箒とちりとりで掻き込む

拾うときの作法が、この儀礼の一番妙なところだ。

地域によっては、拾い親は箒とちりとりを持ってやってくる。そして地面に置かれた子どもを、箒で掻き入れるような動作をする。実際に箒で接触する場合もあれば、真似だけの場合もある。ちりとりに掻き入れてから、抱き上げて家へ連れ帰る。

この動作の意味ははっきりしている。子どもはごみなのだ。道に落ちていたごみを、通りがかりの人間が拾っていく。ごみだから、厄もついていない。価値もないかわりに、背負っていたものもない。この発想の身も蓋もなさが、この儀礼のすごいところだと思う。

地域によっては、拾うときに声を出す。「こんなところに子どもが落ちとる」「もったいない、拾っていこう」といった台詞を、生まれたばかりの子の前で声に出して言う。夕暮れの辻に、大人が一人。箕の中で泣いている乳児。声を出しての拾い上げ。この場面を、少し離れたところから実の親が見ている地域もあれば、絶対に見てはいけないとする地域もある。

晴れ着を着せて返す

拾われた子は、拾い親の家で一晩を過ごす。この間、形式的には拾い親の子だ。乳を与え、寝かせ、世話をする。

翌日、拾い親は子に晴れ着を着せて、実の親の家へ連れていく。このときの口上も地域で決まっていて、「拾ったけど、うちでは育てられないので預かってくれないか」という意味のことを言う。実の親は、初めて見る子どものように受け取る。

この受け渡しのとき、実の親から拾い親へ礼が渡される。熊本県の阿蘇地方では、この礼は酒だと伝えられている。子育ちの良い家の戸口に子を置いておいて、拾ってもらい、酒を持って入る。人ひとりの命の取引が、一升瓶で成立する。安すぎると思うかもしれないが、金額の問題ではない。大事なのは、対価が発生したという事実のほうだ。

なぜ捨てると丈夫になるのか

ここで、この儀礼の論理を整理しておきたい。複数の考え方が重なっている。

一度死んで、生まれ直す

一番強いのがこれだ。子どもを一度捨てることは、象徴的な死だ。捨てられた子は、いったんこの世から退場する。そして拾われることで、別の人間として再登場する。前の子は死んだ。だから、前の子に取りついていた病や厄も、行き場を失う。

この発想は世界中の通過儀礼にある。一度死んで生まれ変わるというフォーマットは、成人式でも入門儀礼でも使われる。面白いのは、これを乳児に対してやることだ。まだ何も分からない、自分の名前すら分からない相手を、一度殺して、生き返らせる。

神様に一度返す

もうひとつの論理は、子どもを一度神のものにする、というものだ。置く場所に氏神の境内や塞ノ神の前が選ばれるのはこのためだ。子どもを神の前に置くことで、一度奉納する。奉納されたものは、神のものになる。神のものになった子は、病や厄のような中途半端なものには手を出せない。

実際、神社の子とする儀礼は他にもある。子どもを一度神主の子にしてもらい、子としての名をもらう。神仏の名を一字もらって名前にするのも同じ発想だ。強いものの名前を背負わせれば、弱いものは近づいてこない。

厄を置き去る

一番実務的な論理がこれだ。厄というのは、人ではなく場所に付いてくるものだと考える。子どもを辻に置いてくると、厄はその辻に残る。子どもだけが拾われて帰ってくる。厄は、辻に置き去りにされる。

だから、置き去る場所は人の往来があるところでなければならない。辻、橋の上下、氏神の境内、塞ノ神の前。どれも人が通る。ところがこの発想を進めていくと、ちょっと嫌なことになる。置き去られた厄は、その後どうなるのか。次にその辻を通った人に付くのではないのか。この疑問に、伝承は明確には答えていない。

場所の選び方――辻、橋、氏神、塞ノ神

置く場所は、どこでもいいわけではない。選ばれるのは常に、境界だ。

辻は道と道が交わるところで、どちらの領域でもない。橋は川を跨ぐ場所で、こちらとあちらをつなぐ。氏神の境内は人の世界と神の世界の接点。塞ノ神はその名の通り、集落の入口を塞いで悪いものの侵入を防ぐ神だ。どこも、境界。

これらの場所は、同時に危険な場所でもある。境界には化け物が出る。行き倒れの死体が埋められ、捨て場になり、処刑場になる。そこに、数ヵ月の赤ん坊を置いてくる。もちろん短時間だし、拾い手は決まっている。だが、実の親はその短時間、自分の子を化け物の出る場所に一人で置いている。このリスクを取ることに意味があるのだろう。安全な場所に置いても、何も剥がれない。

地域ごとの手順の差

ここからは、伝承として拾える地域差を一つずつ見ていく。

熊本県阿蘇地方の酒

阿蘇地方に伝わったやり方では、子どもを置く場所は道端ではなく、子育ちの良い家の戸口だという。つまりターゲットが最初から明確だ。公共の境界ではなく、特定の家の入口という、これもまた境界を選んでいる。

礼として酒を持参するというのがこの地の特徴だ。酒は儀礼の場で共に飲まれるもので、人と人を結ぶものだ。これを差し出すことで、仮の親子関係が公式になる。後の付き合いもここから始まる。盃を交わすことで親子になるというやり方は、古くから日本にある。

長崎県松浦の「モライ親」

長崎県の松浦郡樺島に伝わった形では、子どもを捨てる先は子沢山の家だ。拾ってくれた人を「モライ親」と呼んだ。拾い親ではなく、もらい親。微妙な違いなんだけど、この呼び方の差は大きい。拾うのは偶然のニュアンスだが、もらうのは意思だ。この地では、子を手放す側と受け取る側の取引として、もっとはっきり認識されていたということになる。

子沢山の家を選ぶのにも理屈がある。子どもが多いということは、その家には子どもを育てる力があるということだ。もっというと、その家には子どもを引き寄せる何かがある。その何かを分けてもらうために、一度子を預ける。

群馬県勢多郡の三叉路

群馬県の勢多郡東村に伝わった形では、子を三叉路に置く。拾い手は子運の良い人に頼む。そして大事なのは、この後、拾ってもらった人とは親戚付き合いを継続するという点だ。

三叉路という場所の選定が面白い。十字路ではなく三叉路。三つの道が合流するところは、日本の民俗では特に霊的な場所とされる。Y字の形になっていて、どの道から来てもここを通る。境界の中でも、密度の高い境界だ。

埼玉県秩父の二銭

一番具体的で、一番不気味なのがこれだ。埼玉県秩父市周辺に伝わった形では、病弱な子を辻に置く。そして拾い手から、二銭で買い戻す。

買い戻す。この表現が重い。子どもは一度、拾った人の所有物になる。それを実の親が金を払って買い戻す。二銭というのは、当時の価値でも微々たる額だ。ということは、これは取引額に意味があるのではなく、「安い値段で売り買いされた」という事実を作ることに意味がある。

安い子は、命を狙われない。高価なものは奪われるが、二銭のものは誰も欲しがらない。子どもを意図的に値下げする。この発想は、あとで見る「わざと汚い名前をつける」という風習と完全に同じ回路にある。

東日本の「取子」と「取親」

東日本の広い範囲では、この手の仮の親子関係を「取子」と呼び、拾った側を「取親」と呼んだ。これも親に不幸が続いたり、子が虚弱だった場合に行われる。

ここで伝承上ひっかかってくるのが、取親に選ばれるのが、当時の社会で卑賤視されていた立場の人であるケースが報告されている点だ。低いとされていた者に、自分の子を一度預ける。低いところへ一度下げることで、厄の目を欺く。現代の感覚では強く問題を感じるやり方だが、こういう回路がかつて一部の土地で使われていたのは事実として記録されている。厄というのは、常に「より弱いもの」の方へ押し付けられる。

この構造自体が、この儀礼の一番嫌な部分だ。

仮親という制度の全体像

拾い親は、実は大きな制度の一部だ。日本には仮親、あるいは擬制的親子関係と呼ばれる仕組みが広くあって、人は一生の間に実の親以外に何人もの「親」を持つ。

出産のときに赤ん坊を取り上げた人が、取り上げ親。産婆であることもあれば、隣家の年配の女性であることもある。この人は子どもがこの世に登場する瞬間に立ち会っているので、特別な縁があるとされた。一生付き合いが続く。

名前をつける人が、名付け親。父親や祖父がつけることも多いが、わざわざ外部の人に頼むことがある。東京の浅草あたりでは、子どもの名前を売ってくれるおがみやさん、つまり祈祷師がいて、生まれた日時を伝えると名前をつけてくれたという。名前を売るという表現が良い。名前は商品なんだ。良い名前には金を払う価値がある。

新生児に初めて乳を含ませた人は、乳つけ親という。実母の乳が出ない場合などに、近所の授乳中の女性に頼む。帯親は帯祝い、つまり妊娠五ヶ月目の戌の日に岩田帯を巻く儀式で帯を用意したり巻いたりする人だ。この段階でもう仮親が登場しているのが凄い。生まれる前から、複数の大人が割り当てられている。

成人の段階で登場するのが、烏帽子親と鉄漿親。烏帽子親は男子の元服のときに烏帽子をかぶせる役で、武家ではこれが非常に重要な政治的意味を持ち、有力者に烏帽子親になってもらうことが庇護関係の確立を意味した。鉄漿親は、女性がお歯黒を初めてつけるときの仮親だ。

こう並べてみると、日本人の一生は仮親だらけだったことが分かる。帯親、取り上げ親、名付け親、乳つけ親、拾い親、烏帽子親、鉄漿親。実の親はひとりの親にすぎない。これは見方を変えれば、子どもの命のリスクを集落全体で分散するシステムだ。一人の親だけで背負うには、当時の乳幼児死亡率は高すぎた。

捨て名・拾い名という名前

さて、この儀礼が一番分かりやすい形で残したのが、名前だ。

捨吉、捨松、捨一、捨次郎、捨五郎、捨子。拾吉、拾一、拾子。明治から昭和初期の戸籍を見ると、この手の名前は決して珍しくない。現代の感覚では、子どもに「捨」という字をつけるのは考えられない。だが当時は、これこそが愛情の表現だった。

名前のロジックは単純だ。捨て子儀礼をやったという事実を、名前に刻む。この子は一度捨てられ、拾われた。だから前の子ではない。厄は剥がれている。名前を呼ぶたびに、その儀礼が再確認される。名前は、一生続く守り札なんだ。

同時に、もうひとつの効果がある。値打ちだ。病魔や悪霊は、良いものを欲しがるとされた。美しい子、賢い子、大事にされている子を狙う。だから、この子は価値がないと宣伝する。捨てられた子ですよ、拾ってきただけですよ、と。この身も蓋もない綱渡りを、親は真面目にやる。

豊臣鶴松、幼名「捨」

この風習を一番有名にしたのは、豊臣秀吉だ。

天正十七年、西暦一五八九年。淀殿が秀吉の子を産んだ。秀吉、このとき五十三歳。長らく子に恵まれなかった彼にとって、この子は天からの贈り物だった。そして彼は、この子に「捨」という幼名をつけた。すて、だ。

天下人の後継ぎに「捨てる」という字をつける。一見狂気の沙汰だが、当時の人間なら即座に意図を理解しただろう。これは捨て子儀礼だ。実際に子を一度捨て、家臣に拾わせたと伝えられる。天下を取った男が、得たばかりの子を地面に置いて、家臣に拾わせる。この光景を想像すると、彼の必死さが伝わってくる。

だが鶴松は、天正十九年に死ぬ。数え三歳。儀礼は効かなかった。秀吉の嘆きぶりは記録に残っていて、正気を失ったようになっていたと伝えられる。この失敗が、次の子のときの彼の判断に直接つながる。

豊臣秀頼、幼名「拾」

文禄二年、一五九三年。淀殿は二人目の子を産む。後の豊臣秀頼だ。秀吉は今度、この子に「拾」という幼名をつけた。ひろい。

前回は「捨てる」だけで終わった。今度は「拾う」ところまで名前に入れた。この変更は、儀礼の手順をさらに完全にするためのものだと思われる。捨てられただけでは不十分だった。拾われたという事実までを名前に刻む。

このときの拾い親については諸説あるが、家臣の一人が役を担ったというのが定番だ。大坂城のどこかで、数日の乳児が布に包まれて床に置かれ、重臣がそれを拾い上げる。周囲の者は全員知っている。全員知っていて、全員真面目にやる。天下人の家でも、やることは農村の辻と同じだ。

後の天下を取る徳川家の周辺でも、この手の幼名は使われた。徳川吉宗も、幼少期に形式的な捨て子を経ているという伝承がある。武家の子はとにかく死ぬ。後継ぎが死ぬことは家の滅亡を意味する。だから、使える手は全部使う。

大山捨松の「捨」

時代が下って、もうひとつ有名な「捨」の名前がある。大山捨松だ。

会津藩の家老・山川重固の五女として万延元年、一八六〇年に生まれた。元の名は「さき」。明治四年、一八七一年、十二歳のときに日本初の女子留学生の一人としてアメリカへ派遣されることになった。その旅立ちの際に、名前を「捨松」に改めた。

名付けたのは母のえんだ。意味は二つあるとされる。一つは「捨」。日本と家族への未練を一切捨てて、後ろを振り返らず学べ、という意味。もう一つは「松」。松の木のように動かず、娘の帰りを待ち続ける、という意味。捨てて、待つ。

当時のアメリカ行きは、今の留学とは全く違う。二度と生きて日本の土を踏める保証はない。しかも会津は戊辰戦争で負けている。家は崩壊し、将来は何もない。その状態で、十二歳の娘を地球の裏側へ送り出す。送り出すときに、捨てるという字を名前に入れる。

これは厳密には捨て子儀礼ではない。拾い親はいない。だが発想の根っこは同じだ。一度捨てることで、もう一度手に入れる。手放さないと、失う。手放すことで、守る。この逆説を、日本人は千年以上信じてきた。なお捨松は無事に帰国し、ヴァッサー大学を卒業生全体の上位で卒えている。儀礼は、今度は効いたことになる。

犬の子として育てる

同じ発想の別バージョンとして、子どもを人間以外のものとして扱うやり方がある。

代表が、犬だ。幼名に「犬」の字を入れる。犬千代、犬也、犬丸。あるいは干支の戌を使う。犬は安産の象徴で、一度にたくさん産んで丈夫に育てる。そのあやかりを子にはめ込む。帯祝いを戌の日にやるのも同じ理屈だ。

だがもう少し深い意味もある。人間の子ではなく、犬の子だと宣言することで、病魔の目から隠す。病魔は人間の子を探している。犬の子には興味がない。地域によっては、子どもの額に墨で「犬」と書く。これは実際に広く行われていて、宮参りのときなどに男児なら「大」、女児なら「小」と書く地域と、「犬」と書く地域がある。外出のとき、小さな額に墨で一字。この姿の乳児を想像すると、なかなかのものがある。

男児に女装させる

もうひとつ、よく語られるのが男の子を女の子として育てる風習だ。

理屈はこうだ。昔の家にとって、男児は跡取りであり、労働力であり、家の将来そのものだ。大事にされる。大事にされるものは、奪われやすい。だから、女の子の格好をさせる。髪を伸ばし、女児用の着物を着せ、女の子の名で呼ぶ。七歳や十五歳などの節目までこれを続けて、そのあと男に戻す。

これもやはり値打ちの呪術だ。女児のほうが価値が低いとされていた時代の価値観に、この呪術は完全に依存している。ターゲットの価値を下げる。病魔に「この家の子は女だ、奪う価値はない」と思わせる。家の内側では大事にしながら、外側には価値がないと見せる。二重帳簿だ。

伝承の中には、この風習をやめるタイミングを間違えると良くないというものもある。途中でやめると、騙していたことがバレる。やるなら決められた節目まで、きっちりやる。呪術は制約を守らないと効かないし、途中で崩すと逆に弱いポイントを作る。

汚い名前で呼ぶという手

値打ちの極限形もある。わざと汚い名前で呼ぶ。

アイヌの社会では、生まれたばかりの子どもを「オソマ」と呼ぶことがあった。意味は糞だ。他にも「シタクタク」糞の塊、「ポイシオン」小さな古糞などの例が知られている。理由ははっきりしていて、病魔はきれいなものを好むからだ。汚い名をつければ、嫌われて放置される。放置されれば、子どもは生きる。

日本本土でも、幼名に「鬼」や「犬」や「捨」を入れるのは同じ回路だ。さらに「丸」を付けるのも、この字自体に神仏の世界と俗界を仲介する力があるとされたからだという。徳川家康の竹千代、豊臣秀吉の日吉丸、織田信長の吉法師、上杉謙信の虎千代、伊達政宗の梵天丸。戦国武将の幼名がどれも妙な響きを持っているのは、全部この手の守りの仕掛けだからだ。

体験談その一:昭和三十年代の橋のたもと

ここからは、語り継がれている体験談をいくつか。

一つ目は、昭和三十年代の中国地方の農村での話だ。語っているのは、当時十歳前後だった男性。彼の弟が生まれたときのことだ。

父親が厄年だった。しかもこの弟は生まれつき体が弱く、乳をよく吐き、夜中に青くなってひきつけを起こすことがあったという。神主に見てもらったところ、一度捨てなさいと言われた。

実行は夕方だった。集落の外れ、小さな川にかかっているコンクリートの橋のたもと。母親が籠に弟を入れて、橋のこちら側の、道から少し外れた草の上に置いた。上に手拭いを一枚かけた。そのあと、母親は一度も振り返らずに道を戻った。彼は少し後ろからついていって、何回も振り返ったそうだ。「見るな」と母に叱られたのを覚えている。

拾い親は、同じ集落の、子どもが五人いて全員健康に育っている家の主人だった。彼はちょうどその時間に畑から帰る風を装って橋を渡り、「こんなとこに子がおる」と大声で言って、籠ごと抱えて帰った。声は集落のほうまで聞こえたという。

翌日の朝、拾い親は弟に新しい着物を着せて連れてきた。母親は青い顔で待っていたそうだ。弟はその後、丈夫に育った。彼の名前には、拾い親の名前から一字もらった字が入っているという。

体験談その二:拾い親の家の仏壇

二つ目。これは拾った側の話だ。九州のある集落で、拾い親を何度も務めた家があった。

その家は代々子孫に恵まれ、死んだ子が一人もいないという。だから、集落中から拾い親を頼まれた。一世代で十人以上拾ったこともあると言われている。

この家の孫にあたる女性が語ったのは、仏壇の話だ。仏壇の引き出しに、古い和紙の束があった。長さの違う紙切れが何十枚も束ねてあって、それぞれに名前と日付が書いてある。祖母に聞くと、「拾った子の分」だという。

ややこしいのは、その束の中に、名前の上に線が引いてあるものが数枚混ざっていたことだ。線が引いてあるのは何なのかと聞くと、祖母は「それは、もうおらん子や」とだけ答えた。拾ったあとで亡くなった子だ。拾い親の役目を果たせなかった、ということになる。

彼女は、その束を二度と見ないことにしたという。だが一枚だけ、日付を覚えてしまったものがあるそうだ。自分の誕生日と同じ日付だった。名前は違ったし、線も引いていなかった。ただ、同じ日に別の子がこの家に拾われていたというだけの話なのだが、彼女は今でもそれを思い出すと少し嫌な気分になると言っていた。

体験談その三:戻ってこなかった話

三つ目は、地方の語り物として伝わる、失敗例の話だ。この手の話は各地にあって、細部は違うが骨格は共通している。

ある家が、子を捨てることになった。拾い親も頼んである。日時も場所も決めてある。ところが当日、拾い親が来ない。急な用事が入ったとも、日付を間違えたとも、道を間違えたとも語られる。

子を置いて、実の親は家に戻る。規定の時間が過ぎても、拾い親から連絡がない。失敗に気づいて戻ってみると、子はそこにいる。いるのだが、もう冷たくなっている。あるいは、いない。この二つのパターンで語られる。

残酷な話なんだけど、この手の伝承が各地にあるという事実は、この儀礼が実際にやられていたことの裏付けでもある。儀礼には常に失敗リスクがある。しかもこの儀礼の場合、失敗のコストが子どもの命そのものになる。厄を落とすための儀式で、子を失う。この皮肉を、伝承は目を逸らさずに語っている。

こういう失敗談が語り継がれるのには、教育的な意図もあるのだろう。手順を疎かにするな、という警告だ。事前の打ち合わせを綿密にやれ、日時を間違えるな、場所を間違えるな。呪術の失敗は、しばしば現実の事故の形でやってくる。

本当の捨て子と混同されるとき

この儀礼の一番難しいところが、ここだ。外形は、本当の捨て子と完全に同じなんだ。

江戸期を通じて、実際の捨て子は深刻な社会問題だった。京都の冷泉町の史料によれば、町奉行所は捨て子を直接救済するのではなく、町の責任で里親希望者を募集させていた。希望理由の審議があり、許可後に保証人を立てて養子として引き取られる。福岡藩では養育目付という役職を置いて、産婆の協力を得て妊娠中の女性を把握し、出産後も育てているか見張っていたという記録がある。里親への持参金や衣類の支出もあった。

つまり、行政は本当の捨て子を必死で管理しようとしていた。そこに、儀礼としての捨て子が混ざる。辻に置かれた乳児を見つけた人間は、これが儀礼なのか本番なのか判別できない。儀礼だと思って通り過ぎたら本番だった、という事態も起き得る。逆に、儀礼の最中に第三者が先に拾ってしまって騒ぎになることもあったという。

伝承の中には、儀礼で置いた子を別の人間が本気で連れ去ってしまい、実の親が探し回ったという型の話もある。探しても見つからない。儀礼の建前上、自分から「自分の子を捨てた」とは言いにくい。儀礼の壊れ方は、こういうグレーゾーンにも現れる。

この風習が現代まで残らなかった一番の理由も、たぶんここにある。今同じことをすれば、保護者の義務を果たさない行為として扱われる。注意だけでは済まない。だから儀礼は形を変えて、屋内で完結するスタイルへ移行した。

現代に残る痕跡

では、この儀礼は完全に消えたのか。そうでもない。

一番分かりやすいのは、名付け親の風習が残っていることだ。今でも、子どもの名前を神社や寺、あるいは姓名判断の先生に頼む人は少なくない。これは名付け親制度の直系の子孫だ。名前を外部の権威に任せることで、子どもを実の親だけのものにしない。

厄年の出産に関する儀式も、形を変えて残っている。西日本の一部では、退院するときに神社に寄って、赤ん坊を一瞬だけ境内に置く、というやり方が伝えられている。あるいは、親戚の誰かに一度抱いてもらって、「拾った」と声に出して言ってもらう。現代版の捨て子儀礼だ。玄関先で、祖母が孫を一度床に置いて、拾い上げる。二十秒で終わる。だがやっていることは、千年前と同じだ。

名前にも痕跡がある。現代ではさすがに「捨」の字は使わないが、神仏の名を一字入れる、丈夫そうな自然物の名を入れる、という発想は健在だ。岩、山、樹、鑑、強。強そうな字を入れて子を守る。この回路は、死んでいない。

掲示板と考察界隈の反応

このテーマ、ネットでは定期的にバズる。一番多いのは「神社の前に赤ん坊を置いている家族を見て通報しそうになった」という目撃談だ。知らない人からすれば、完全に事件に見える。

考察界隈で盛り上がるのは、この儀礼の「厄の行き先」問題だ。子どもから剥がした厄は、どこへ行ったのか。主な説は三つある。

一つ目は場所に残る説。辻や橋に厄が置き去りにされる。だからこそ境界を選ぶ。境界はもともとそういうものの溜まり場なので、一つ増えても問題ない。この説の反証は、それなら念の入った辻を通るのは危険になるはずだが、そういう伝承が必ずしも対になっていないことだ。

二つ目は拾い親が背負う説。子を拾うというのは、その子の厄も一緒に引き受けることだ。だから拾い親には子運の良い人、つまり厄を受けても平気な頑丈な人間が選ばれる。この説に立つと、先の体験談二に出てきた「線の引いた紙切れ」の意味が変わってくる。

三つ目は消滅説。厄は子どもと一体なので、子どもが別人になった瞬間に行き場を失って消える、というもの。一番上品だが、一番面白くない。人はこういうとき、「どこかへ行った」という説明のほうを選ぶ。消えたという結末を、人間はあまり信じない。

なぜこれが怖いのか

捨て子儀礼の話が余計に怖いのは、これが「愛情の形をした切断」だからだと思う。

親は子を救いたい。そのために、子を一度捨てる。捨てることでしか救えないと思っている。このロジックには内部矛盾がない。完全に一貫していて、完全に倒錯している。夕方の辻に自分の子を置いて、振り返らずに歩き去る母親の背中を想像してほしい。あの背中は、愛情のポーズとしてはあまりにも遠い。

もう一つ、この儀礼は子どもの意思を一切問わない。当事者は乳児で、何が起きているのか分からない。自分の名前も、自分が一度捨てられたことも、あとから人に聞かされて知る。なぜ自分の名前には捨の字が入っているのかと聞いた子に、親は「お前は一度捨てられた子だ」と答える。この会話が、日本中の家で何万回と行われてきた。

広まった理由は単純だ。安い、早い、すぐできる。専門家も道具も金もほぼ要らない。必要なのは、協力してくれる近所の人間が一人だけだ。しかも、やっても何も損しない。子が丈夫に育てば儀礼のおかげだし、育たなくても「やらなければもっと早かった」で済む。反証不可能で、コストが低く、効果の可能性だけがある。乳幼児死亡率が高かった時代に、これをやらない理由はない。

人のアイデンティティは、手続きで書き換えられる

全体を見直してみると、この風習はひとつの非常に道具的な発想の上に立っている。人のアイデンティティは、手続きで書き換えられる、という発想だ。

厄や病は、その人の身体に内在するものではない。「この子は四十二の二つ児である」というラベルに付属している。だから、ラベルを剥がせば厄も剥がれる。ラベルを剥がすには、一度子を子でなくすればいい。だから、一度捨てる。拾う。別のラベルを貼る。完了。この手続きは、現代の民事手続きと発想がよく似ている。名義を一度移して、戻す。途中で属性がリセットされる。

この発想は、日本の他の儀礼と完全に揃っている。雛人形が子どもの厄を引き受けて川に流されるのも、節分の柊鰯が鬼を門口で止めるのも、神社で紙の形代を撫でて息を吹きかけるのも、すべて同じだ。悪いものは移動する。移動できるものは、切り離せる。切り離したものは、境界の向こうへ送れる。日本の民間信仰は、この三段論法を千年以上回し続けている。

だが捨て子儀礼には、他の儀礼にはない特徴がある。身代わりを立てないことだ。雛人形は子どもの代わりに流される。形代は人の代わりに焚かれる。鰯の頭は人の代わりに門で風雨にさらされる。ところが捨て子儀礼では、子ども本人を、本人の身体ごと、境界に置いてくる。代替はない。人形を使わない。影武者を立てない。本人を、実物で、一度捨てる。

この徹底さが、この風習の一番強いところであり、一番怖いところだ。呪術としての完成度が高い。本番をやっているからだ。箕に入れて辻に置く。屑として扱う。箒で掻き入れる。二銭で買い戻す。どの工程も、子どもの価値を一度徹底的に下げる方向へ動いている。価値を下げなければ、厄は剥がれない。愛しているからこそ、徹底的に値下げする。

名前に目を戻せば、この逆説はさらに鮮明になる。天下人となった男が、五十三歳でやっと得た子に「捨」と名付けた。その子が三歳で死ぬと、次の子には「拾」と名付けた。捨てるだけでは足りなかったと思ったのだろう。拾うところまでを名前に入れて、儀礼を完結させた。時代が下って、会津の家老の娘がアメリカへ送られるときにも、母は同じ字を選んだ。捨てて、松のように待つ。千年分の信仰が、名前の一文字に圧縮されている。

今、この儀礼はほとんど行われていない。やれば問題になるし、やる必要もない。乳幼児死亡率は劇的に下がった。体の弱い子には医学がある。厄年の出産は、もはや災厄ではない。だが、神社で赤ん坊を一度境内に置いて、親戚に拾ってもらう家はまだある。名付けを外部に頼む人も山ほどいる。意味を知らないまま、手順だけが残っている。

そして、あの台詞も残っている。お前は橋の下で拾ってきたんだ、というやつだ。言っている本人は、ただの冗談のつもりでいる。だがこのフレーズが全国にあるのは、かつて本当に橋のたもとに子どもを置いて、拾ってもらっていたからだ。冗談ではなかったことを、言葉だけが覚えている。子どもが一瞬本気で不安になるのは、その層をどこかで感じ取っているからなのかもしれない。

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