九日の晩、おじいさんが藁鉄砲を作ってくれた
十日夜の前の晩になると、子どもたちはおじいさんの家へ行った。藁鉄砲を作ってもらうためだ。埼玉県狭山市が公開している民俗行事の解説に、その様子が書き残されている。
藁鉄砲は、稲刈りのあとの藁を束ねて、縄で硬く巻いた棒。地面を叩いたときにいい音が出るように、芯へ里芋の茎を入れる工夫もあった。愛媛県の日土町には、蓮芋の茎を芯にして、より大きな音を出そうとした子がいたという。西でも東でも、子どもの考えることは似ている。
十日の夜、母親たちは心をこめてぼたもちを作り、九つを重箱に入れて飾った。夜になると、みんなでそれを食べた。頬を真っ赤にした子どもたちは「とうかんや、とうかいや、亥の子のぼたもちなまでも三ばい食いたいな」と大声で唱えながら、隣から隣へと庭先を叩いて回ったそうだ。
ドスン、バタン。あたり一面に、そんな音が響いたそうだ。解説には「この日だけ子どもたちは、夜おそくまで地面をたたいてまわり」とある。わざわざ「この日だけ」と断っている。ふだんの夜は、そうはいかなかった。
十日夜は、旧暦の十月十日の夜に行う収穫祭。北関東を中心に、甲信越から東北地方の南部にかけて分布した。西日本の「亥の子」と対になる行事で、いまは新暦の十一月十日に行う所が多い。
朝そばきりに昼団子、ヨーメシ食ったらひっぱたけ
唱えごとは、土地ごとに違った。秩父地方では「トーカンヤ、トーカンヤ、朝そばきりに昼団子、ヨーメシ食ったらひっぱたけ」と唱えた。朝は蕎麦切り、昼は団子、夕飯を食べたら地面を叩け、という文句だ。
食べ物と叩く動作。それが、ひと続きの息で並んでいる。入間や川越の周辺では「トーカンヤ、トーカンヤ、十日のぼた餅生でもいいから十食いたい」だった。十日にかけて、ぼた餅を十個食べたいと言うのだ。
狭山市の堀兼の青柳には、こんな話が残る。十一月九日の夜、「とおかんや、とおかんや、亥の子の晩のぼた餅は生でもいいから食いたいな」と唱えて、隣近所の庭を藁鉄砲で打って歩いたという。十日夜と呼びながら、叩くのは九日の晩だった。
暦の解説サイトには、別の文句も載っている。「十日夜の藁鉄砲、餅を食ってひっぱたけ」。「十日夜の藁鉄砲、大豆も小豆もよく実れ」。後のほうは、実りを願う文句。茨城県の北部や福島県の一部では、藁鉄砲を「ムジナッパタキ」と呼ぶ土地もあるそうだ。
どの文句も、餅を食べることと叩くことを、同じ息で唱える。生でもいいから食べたい、という食い気が子どもらしい。狭山市の解説は、藁束で地面を打つのは田の神への感謝であると同時に、大切な作物を荒らすネズミやモグラを追い払うことにもなった、と説明している。
水野のあたりでは、十日夜の日に村境まで行って石合戦をした、という話も聞かれる。藁鉄砲の晩に、子どもたちの荒っぽい遊びがくっついていた。柏原では、いまはお年寄りが幼稚園の子どもたちに藁鉄砲の作り方を教えている。作る側が祖父母の世代なのは、昔と同じだ。
文献では、柳田國男が『年中行事』で「十日夜の藁鐵砲」を取り上げた。唱えごとだけを扱った論文もある。それだけ文句の数が多い、ということだ。
大根畑に入るな、割れる音を聞くと死ぬ
十日夜は「大根の年取り」「大根の年越し」とも呼ばれた。東北地方から中部地方、佐渡にかけて、この日は大根畑に入ってはいけないという禁忌があった。畑へ入って大根の割れる音を聞くと死ぬ、と伝える所もある。
埼玉県の一部は、まるで逆のことをする。藁鉄砲で大根畑を叩くと、音に驚いた大根が抜け出してくる。音を聞いた大根が背伸びをして、大きくなる。そう唱える地域があった。狭山の奥富では、九日の晩に子どもたちが地面を打つ音を聞いて大根が背伸びするので、九日には大根を収穫するなと言われた。
同じ晩に、同じ大根を、正反対に扱う。耳をふさぐ側と、棒で起こす側。片方は近づかずに音を避け、もう片方は棒で叩いて音を浴びせる。それでも、音が大根を動かすと見ていた点は共通する。
大根は、この行事のもう一人の主役だった。長野県の東筑摩には、葉つきの大根と餅を箕にのせて、庭先に神を祭る所があった。南佐久郡では、餅を臼ごと供えるとき、長い大根を二本添える。その大根の名が「案山子さまの御箸」だ。百科事典の解説は、十日夜も亥の子も大根との関係がたいへん密接で、大根畑に入ってはならないという東日本の禁忌も亥の子と同じだと書いている。
案山子は蓑笠をつけて内庭に上がった
長野県では、十日夜を「案山子上げ」とも「案山子の年取り」とも呼んだ。田んぼで一年立ち続けた案山子を、この晩に家へ連れ帰る。蓑と笠を着せて、両手に箒と熊手を持たせ、餅や二股の大根を供えて祀る、って話だ。
案山子をどう見るかは、土地で違った。諏訪地方では案山子の神が天へ上がる日だといい、南安曇では案山子が田の守りを終えて山の神になる日だという伝承が残る。田の見張り番が、一晩で神さまになる。
行き先も、そろっていない。山へ帰る神、天へ上がる神。十日夜の解説は、田から家へ帰る日だとも書いて、神さまの行き先を三通りに書き分けている。福島県を中心に、二月十日前後の田の神降ろしと対にして、この日を田の神送りと見る所もあった。春に迎えて、秋に送る。
八月の十五夜、九月の十三夜、十月の十日夜。この三つの月見を「三月見」と呼ぶ。十日夜の月の晴れ曇りで、翌年の豊凶を占う例もあった。
縄を何本もつけた石を、大勢で引き上げて落とす
西日本の亥の子は、旧暦十月の最初の亥の日に行う。亥の月の、亥の日の、亥の刻。亥の刻は午後九時から十一時にあたるから、夜更けに叩いて回るわけだ。
地面を叩く道具は、藁鉄砲のほかに石があった。瀬戸内海の沿岸で盛んだった亥の子突きは、石に縄を何本もつけ、大勢で引き上げては落として地面を搗いた。石の重さは、一キロから十キロ。地方によって幅がある。男の子だけの行事にする所も多く、いまは女の子や大人が加わる地域もある。
愛媛県今治市の菊間町には、家々を回るための小さな石と、宿で使う大きな石があった。小さいほうを「いのこさん」、大きいほうを「ごうりんさん」と呼ぶ。宿は最後に訪ねる家で、近ごろ子どもが生まれた家がなることが多い。石を搗いた跡を踏むとバチが当たると言い、踏んだ人の髪の毛を三本抜く地区まである。
愛媛県松前町の解説は、ゴーリンサンを「降臨さん」の意と読む。亥の子石は、神霊が天から降りてくる座だったと考えるのだ。神霊は四月の亥の日に田へ降りて仕事にかかり、十一月の亥の日に仕事を終えて天へ帰る。地面を搗くのは、その神さまを迎えるためだという。同じ解説は、強く叩くことを、悪霊を地下に押さえつけて生産を促す呪術とも説明している。
松前町では、亥の日が年によって二度か三度巡り、一番亥の子から三番亥の子まである年と、二番亥の子で終わる年がある。宿の床の間には石が祀られ、鯛、米、餅、葉つきの大根が供えられた。各家でも、枡に米と餅と柚子を入れ、大根を二本、箕の上に祀った。ここにも大根がいる。
松前町の田窪では、亥の子の日に大根を畑から抜いてきた。搗き大根を三杯酢にして、搗きたての餅を入れて食べる。大根とにんじん、里芋、油揚げ、いりこを入れた炊き込みご飯も、この日の食事だった。一升枡に小さな餅を十二重ねてゆずを添え、大黒さまをまつる家もあった。亥の子の日は、炬燵の火入れの日。
祝わん者は、鬼生め蛇生め
亥の子唄には、祝う文句と呪う文句が対になっていた。家の人が祝儀を出せば、祝いの唄で返す。広島県福山市の駅家町には「亥の子の晩に祝うた者は、四方のかどで蔵たって繁盛せえ」という文句があった。
祝儀が出なければ、唄が変わる。同じ駅家町では「亥の子の晩に祝わん者は、鬼産め蛇産め、角のはえた子産め」と歌った。愛媛県松前町では「いのこ いのこ いのこ餅ついて、祝わん者は、おにうめ じゃんめ、つののはえた こうめ」と歌いながら、早足で通り過ぎた。
鬼と蛇と、角の生えた子。生まれるぞ、という脅しだ。猪の多産にあやかる祭りなのに、返礼のない家には異形の子を産め、と唄う。祝福の裏側に、こんな呪いがぴたりと貼りついていた。
岡山県津山市の西吉田地区では、祝わなかった家に向けて「じじいとばばあ どし込め どし込め」と歌った。奈良県高取町の佐田には、「亥の子の晩に餅せん家は、箸の家建てて、馬のくそで壁塗って」という唄が伝わる。餅を搗かない家は、箸で建てた家に馬糞の壁だと囃されたわけだ。
鹿児島県の指宿では、餅を搗かない家に向けた唄に、声が出ないときは馬の糞をなめよ、という文句まで入っていた。地元の調査記録には、差別的な歌詞もあるので唄うのがはばかられる、という聞き取りが載っている。子どもたちの口から出る悪態は、ここまで来ると笑い話では済まなかった。
今晩は、お亥の子さんをつかしてくれませんか
松前町の解説は、『重信の子どもの遊び』という本から、訪ねる場面を引いている。その本は、亥の子の神を田の神とし、この日は神さまが田んぼから家へ帰る日で、その神さまを迎えるために餅を搗くのが地域の習慣だと記している。亥の子は、神さまを迎える晩でもあった。
子どもたちの一団が、家の戸口で言う。「今晩は、お亥の子さんをつかしてくれませんか」。家の人は答える。「ぼくら、よう来てくれたのう、元気ようついてよ」。
子どもたちはにこにこして、リーダーの声で藁の亥の子を搗き始める。土ぼこりが舞う。祝儀として、重ね餅やミカンをもらった。祝儀をもらえなかった家の前では、先ほどの鬼と蛇の唄を歌って、早足で通り過ぎる。
搗き終えた藁の亥の子は、柿の木や夏みかんの木にぶら下げる。そうすると来年よく実る、と言い伝えられた。いまもミカンや柿の木に吊るした景色があちこちで見られる、と解説は伝えている。
一で俵ふんまえて、二でにっこり笑うて
愛媛県の亥の子唄には、数え唄の形をしたものが多い。松前町に伝わる一つは、こう始まる。「おいのこさんという人は、一に俵ふんまえて、二でにっこり笑うて、三で酒造って」。続きは「四つ世の中よいように、五ついつものごとくなり、六つ無病息災に、七つ何事もないように」。締めは「八つ屋敷を建て広げ、九つこくらを建て並べ、十でとうとうおさまった」。
「俵を踏む」とは、足の指の横皺が三本入っていることをいい、食べ物に困らない意味だという。松山市の城北地区の記録が、そう補っている。踏んで笑って酒を造るのだから、どこまでも景気のいい唄。
唄の主は、土地によって呼び名が変わる。松山市では「おいべっさん」で、恵比寿さんのことだ。大分県の臼杵市では「大黒さんという人は」と歌い、愛媛県の鬼北町では「お大黒様が」と歌った。俵を踏んで笑い、酒を造るのは、福の神の二人。
数え唄は、土地の暮らしに引っぱられて形を変えた。広島県福山市の新市町の金名には、職業尽くしの唄がある。「四つ嫁御は姑の髪、祝え」「八つ山伏は法螺の貝、祝え」「十で豆腐屋は豆腐籠、祝え」と、持ち物を一つずつ祝った。
最後は、亥の子の宵に祝うた者は四方へ蔵を建てて繁盛せよ、と結ぶ。商売道具を祝う唄は、その土地に暮らす人の顔が見える。
愛媛県宇和島市の高光の唄は、神仏尽くしだ。「一つは一ノ谷の敦盛様、二つはお江戸の観音様、三つは讃岐の金比羅様、四つは信濃の善光寺様、五つは出雲の大社様」と続く。奈良の大仏や八幡の八幡様を挟んで、十は、ところの氏神様で締めた。
三重県の四日市の神前では、「亥の子の餅はついてもついても折れません、もう一つついたら折れすぎた」と歌った。ここは藁鉄砲を使い、掛け声は全員で出す。上級生が一人で、「大亥の子」と呼ぶ巨大な藁鉄砲をつく。
搗かれた庭には、半球の穴が残った
石で搗いた庭先には、石の形をした半球の穴が残った。大きいほど喜ばれた、と記録にある。初冬の風物詩だった光景も、いまはコンクリートの舗装に押された。小さな畳を持ち運んでその上で搗く地域、搗く動作だけを空中でする地域、石を引き合ってこするだけの地域がある。
昭和四十年代には、学校が行事を禁止して、廃れてしまった地域もある。準備や亥の子唄の練習に夢中になって、宿題や勉強がおろそかになる、というのが理由だった。一方、公民館の行事として守られ、いまも盛んな地域もある。愛媛県宇和島市の吉田町が、その例に挙がる。
大分県の臼杵市は、市内の各地にあった亥の子が、指導する人もなくなって年々廃れた、と書いている。藁縄に石を結んだものや、藁を束ねて固めた棒で、子どもたちは門前の地面を打った。打ちながら、厄除けの文句を唱えて家々を回ったという。臼杵の唄には「亥の子もちつかんもにゃ鬼生め、蛇生め、角生えた子を生め」の文句があった。
三叉路の真ん中に、石が埋めてあった
鹿児島県の指宿には、亥の子とは呼ばない亥の日の石突きがある。片野田という集落の行事で、いまは旧暦十月の二度目の亥の日に近い日曜日に行う。調査の記録によれば、もとは三叉路の真ん中に石を埋めた。
そこへ、放射状に引き縄をつけた別の石を、唄に合わせて綱を引いて上下させ、叩きつけた。いまは公民館の庭に石を埋めてある。蔓を編んだ台座には子どもを乗せ、石突きと同じ要領で上下させる。台座の下には、一面の藁。
当日は、午前十時ごろから石突き、続いて台座突きを行う。終わると、公民館の前の特設のかまどに火を入れ、甑で蒸した餅米を搗いて、参加者みんなでいただく。餅米は、前日から研いで寝かせておくそうだ。
由来を尋ねると、「神様が山に帰る前に、豊作を感謝する行事」だという答えが返る。何の神様なのかは、分からないそうだ。ネズミやモグラやミミズを追い出すためだ、という説明もある。猪の多産にあやかって、無病息災や縁結び、子孫繁栄を願うのだともいう。
石にも話がある。昔は使い終わった石を、三叉路の脇の竹やぶへ投げ入れていた。いつの間にか行方が分からなくなっていたが、たまたま見つかった。復活は、その偶然の発見から始まる。餅は搗くが、家々を回って餅をもらうことは、ここではしなかったという。
民俗学者の小野重朗は、これを農耕の区切りの行事として読んだ。秋の収穫が終わると、石や棒で土地を突き固めて閉ざす。それ以後は、人も土地も農耕を休んで、静かな暮らしに入る。新しい年を迎えてから、土を掘り起こして農耕を始め直す。小野は、正月のハラメウチの習俗と対にして考えた。
薩摩半島の西岸には、モーモードンと呼ぶ習俗があった。収穫のあと、旧暦十月の亥の日に、田んぼへ餅の入った藁苞を立てて豊作を感謝する。牛の舌のような餅を子どもがくわえて、引っ張り合う。唱えるのは「モーモーモメモ、いっしゅまに十三俵」。一畝にまいて十三俵、という意味だ。
紫の上のもとへ届いた亥の子餅
亥の子餅の元をたどると、古代の中国に行き着くという説が基本になっている。旧暦十月の亥の日の亥の刻に、穀類を混ぜ込んだ餅を食べる風習があり、それが日本の宮中行事に取り入れられた。中国では、大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖の七種を混ぜた餅を食べれば、病気をしないという俗信があった。
鎌倉時代にできた『二中歴』にも、この七種の材料が書いてある。平安時代の『源氏物語』葵の巻には、紫の上のもとへ亥の子餅が届けられる場面が出てくる。江戸後期の屋代弘賢は、貞観年間にはすでに宮中の行事だったと推し量った。
室町時代には、白、赤、黄、栗、胡麻の五色の餅を作り、宮中や将軍から臣下へ下した。宮中の主役は、天皇その人。手ずから小さな臼を使い、「つくつく」と唱えながら餅を搗く儀式だったという。
餅は碁石ほどの大きさで、官職の高さによって色や包み紙に厳しい決まりがあった。亥の日は月に何度か来るので、下賜は三度にわたる。添える葉も、菊、楓、銀杏と替えた。餅は、位を一目で示す贈り物。
宮中へ餅を納める村もあった。摂津国の能勢にある木代村、切畑村、大円村である。明治三年まで、毎年旧暦十月の亥の日に亥の子餅を献上した。能勢の伝承では、皇太子だった応神天皇が猪に危難を救われ、のちに吉例として献上を命じたという。
餅を作る家は、亥の日の七日前から、調理の場所と道具と井戸を僧侶の加持で清めた。できあがるのは、猪の色に似た淡い紅色の餅だ。上に並べる栗は猪の骨、覆う熊笹は牙に見立てたという。
京都の護王神社では、昭和三十五年に亥子祭を再現した。毎年、胡麻の黒、小豆の赤、栗の白の三種の亥子餅を搗いて神前に供え、御所へ献上している。
宮中の行事は貴族や武士へ広がり、やがて民間にも定着して、農村では刈り入れが終わったばかりの時期の収穫祝いと重なっていった。
江戸城の門に、釣瓶式の大篝火が焚かれた
江戸幕府にも、玄猪の祝いがあった。大名や役人が江戸城へ登城し、将軍から白、赤、黄、胡麻、萌黄の五色の鳥の子餅を拝領する。服装は熨斗目長裃と決まっていた。夜には、大手門や桜田門の外などに、釣瓶式の大篝火が焚かれた。
餅の包みには、格付けがあったらしい。石高ではなく、親藩、譜代、外様の別で差がついたという。『甲子夜話』には、五色の餅は御前に出る人ごとに好きな色を下され、胡麻の黒い餅をもらった人は「目出たし」と自ら祝った、とある。
この日は、囲炉裏を開く日でもあった。炉で鍋を焼き、火鉢に火を盛る。西日本の臼杵市の解説にも、古来この日から炬燵を開く習慣があったと見える。亥の子の日に炬燵を開けば、火事を逃れるともいった。
火事との結びつきには、理由が付いた。猪は、火伏せの神である愛宕神社の使いだというのだ。陰陽五行では、亥は水の象徴にあたる。茶の湯の炉開きをこの日に行う家があり、茶席の菓子に亥の子餅が使われた。
伊勢貞丈の『貞丈雑記』は、祝いの理由を二つ挙げる。猪は子を多く産むので、あやかって子孫繁昌を祈る。もう一つは、猪の子の祝いは摩利支天の祭りだという一説だ。摩利支天は猪に乗るので、猪は使者にあたる。亥の月の亥の日に摩利支天を祭って運を祈り、武家がもっぱら祝った。
ちなみに、亥の日は一月に二、三度巡ってくる。最初を武士の亥の子、次を百姓の亥の子と呼ぶ、という言い方もあった。
関東から北では、事情が違った。明治や大正の頃、亥の子に関する行事は知られておらず、江戸や甲州で亥の子餅が見えるのも江戸時代からだ。その東の側に、十日夜があった。
景行天皇は、椿の槌で地面を打ったという
地面を叩く理由は、一つに決まらない。景行天皇が九州の土蜘蛛を滅ぼしたとき、椿の槌で地面を打ったことに由来する、という説がある。農村の側には、田の神を天や山へ返すために打つ、という伝えがある。
百科事典の解説は、モグラの害を防ぐ呪法が儀礼になったものとみる。石に縄をかけて地を打つのも、藁鉄砲で土を叩いて音を響かせるのも、モグラを脅す意味だという。一方で、神を励ます音だと見る土地があり、悪霊を地下へ押さえ込む音だと見る土地があった。
陰陽の考えで読む説明もある。亥は、陰の極まる月だ。陰が極まれば、転じて陽に変わる。その時に、陽の気を持つ男の子が地面を打つと、陰陽の交わりが起こる。そう考えたようだ、という。
稲荷の音読みは「トウカ」だ。そこから、十日の「トウカ」と掛けて行事が生まれた、という説もある。ただし、はっきりしたことは分からない。亥の子と十日夜は、西と東に分かれながら、石と藁の違いだけで、同じ動作を残している。
俳句の世界では、亥の子は冬の季語だ。「臼音は麓の里の亥の子かな」。詠んだのは、鳴雪。
