神門から先は男だけの朝
7月1日の午前6時30分、成就社の境内で御神像の出御祭が始まる。午前7時になると、一番手の御神像が信徒の背に負われて頂上社へ向かう。二番手と三番手も15分おきに続き、順番は仁、智、勇だ。山が動く日。
この日だけ、神門から先は男しか入れない。女性が上がれるのは、成就社か土小屋の遙拝殿。山頂を目指せるのは翌2日からで、神社の日程表には「女人登拝開始」と、成就社と土小屋の名を添えて書いてある。頂上の山荘は、この日を「伝統の男山」と呼んでいる。
前日の6月30日には、本社から三基の神輿が出て、その夜は御神像が成就社の本殿に仮泊する。翌日からの10日間、御神像は山頂の頂上社に置かれる。7月10日に終了祭が済むと、また成就社へ下り、11日に本社へ戻る。ひと続きの大祭。
ところが明治の初めまで、この山の持ち主は神社ではなかった。石鎚山を取り仕切っていたのは前神寺という寺で、山の神は、役の行者が感得したと伝わる蔵王権現という仏の姿をしていた。鎖も、御神像を山へ運ぶ祭りも、女人禁制も、その寺の時代から続くものだ。寺の名は、一度は公式に消された。
雪が解けるまで、山は開かなかった
石鎚山は、5月になっても雪が残るのが珍しくない山だ。山系の協議会は、雪が完全に解けた5月下旬から10月下旬が、登山に向く時期だと案内している。最高峰の天狗岳は、標高1982メートル。西日本でいちばん高い。寒さと雪は、昔の人にとって今よりずっと身近な障害だった。
元禄2年(1689)の『四国遍礼霊場記』は、春と冬は雪と氷柱で路が通らず、登れるのは6月1日から3日までだと書く。夜中に松明を燃やし、2里のあいだ真言や阿弥陀の名号を唱えながら登ったという。富士山に登るのと変わらない、とも記している。愛媛県史が引いた原文は、そうなっている。
正徳3年(1713)の俳書『花橘』にも、水無月の朔日から3日が毎年の参詣の定めの日だと出てくる。明和5年(1768)の前神寺蔵の文書も、石鎚への参詣は古来6月1日から3日と決まっていると述べる。80年近く、日取りは動いていない。山の都合が、そのまま祭りの日になったわけだ。
筆者の見立てでは、日取りの理由は単純だ。岩場に鎖が掛かる山で、雪や氷の残る時期に人を入れれば、危ないのは誰にでも分かる。6月の3日間は、信仰の決まりである前に、雪と岩の都合で決まった日取りだと思う。鎖が1713年にはもう登拝の山場だったことは、次の節で書く。
天保13年(1842)の『西条誌』になると、祭礼は5月25日から6月3日までで、別当と先達は前日の24日に登ると書かれる。始まりが前へずれ、期間が延びた。愛媛県史は、講中が育って登る人が増えたことが、延びた理由だと推している。いつ延びたのかは、県史にも書かれていない。
安政4年(1857)6月3日の『小松藩会所日記』に、参詣人が夥しいという記録がある。5月25日に4050人、その前後に千人から千五百人、6月1日は200人ほどで、合わせておよそ1万2050人になる。いちばん混んだのは、旧来の初日より前倒しした5月25日だった。西条藩は祭礼のたびに藩士を送り、取り締まりと保安に当たらせたという。
今の山開きは7月1日から10日で、昭和60年の入込客は約10万人とみられた。旧暦6月の山開きが新暦の7月に置き換わったことは確かだ。ただ、それがいつだったのかは、愛媛県史の該当箇所に年が書かれていない。分からない。
鎖に刻まれた寄進者の名前
成就社から登ると、鎖場が4つ続く。試しの鎖、一の鎖、二の鎖、三の鎖。一の鎖は33メートル、二の鎖は65メートル、三の鎖は68メートルと、石鎚神社の案内にある。数字は、出どころで少し食い違う。
試しの鎖は、神社の案内が67メートルとするのに、ロープウェイ会社と愛媛県の観光サイトは74メートルと書く。山系の協議会は、上りが48メートル、下りが19メートルと分けて載せている。足すと67。測り方の違いなのか、掛け替えで長さが変わったのかは、確かめられなかった。
試しの鎖は、あとの3本を登れるかどうかを見る鎖で、登ったあとは反対側の鎖で下りる。鎖場は、ほぼ垂直に切り立った岩場にある。どの鎖にも迂回路があり、山の側も無理をしないよう案内している。頂上山荘のページには、無理をして二の鎖に取りつき、腕の力が尽きて動けなくなって転落した事故も書かれている。遊び場じゃない、と山の側が言っているわけだ。
鎖がいつ掛けられたのかは、確実な文献が残っていないと神社は認めている。神社は、安永8年(1779)に掛け替えた記録があり、それ以前に鎖が掛かっていたのは事実だと説明している。正徳3年の『花橘』が、その裏を取ってくれる。作者の坂上羨鳥は、宇摩郡の俳人。登拝の様子を書き残した。
朔日の前の夜、一行は白い衣に縄の襷をかけ、手に松明を持って山を登った。夜明けを待ち、ものを言わずに鉄の鎖をよじ登ったと、羨鳥は書いている。鎖は掌に冷たく、南無南無南無と念じたという。300年あまり前の登拝記に、すでに鎖が山場として出てくる。
鎖は切れれば掛け替える。愛媛県史は、前神寺に伝わる『石鎚山弥山大鎖・小鎖之銘写』を引く。安永9年(1780)に再び造った鎖は、松山城下と道後7郡、広島領や尾道、福山など諸国の講中の寄進だった。講中の名は、唐人町、三津浜、久万山と、地名ごとにずらりと並ぶ。
年が合わない。神社は安永8年の掛け替えと書き、県史は安永9年の再造の銘を引く。事典の石鎚山の項は、1779年に鎖が切れ、翌年に掛け替えたと整理している。同じ事典の石鎚神社の項は、功労者の木地屋市左衛門が一番先達会符を受けたのも1780年だと書く。県史は、その会符第一号を安永4年(1775)とするので、5年の差は史料の読み方の違いかもしれない。
鎖の銘には、講の名が並ぶ。筆者の見立てでは、鎖は寺の持ち物であると同時に、講の共有財産だった。掛け替えのたびに寄進を集め、名を刻むことで、広島領や尾道まで広がる遠い村々の信者を、山につなぎ止めたと思う。修行の道具であり、集金と結束の仕掛けでもあった鎖。
鎖を登るときは、六根清浄、ナンマイダンボと唱える。愛媛県史は、とくに鎖禅定の場合にこの詞を唱えたと書く。道では、下る人は登る人へ「お上りさん」、登る人は下る人へ「お下りさん」と声を掛ける。
一の鎖の下に古草鞋の山ができた
石鎚の聖域は、古来7里四方といわれた。成就社から頂上までがとくに浄域で、八丁坂は「走り込み八丁」と呼ばれる。禅定が森の下は「無言の禅定」で、口をきかずに通る決まりだった。夜明峠を越えると、一の鎖が現れる。
一の鎖の元が、境目だった。ここから先は特別に神聖な区域で、新しい草鞋に履き替える決まりがあり、鎖元には脱いだ古草鞋の山ができた。愛媛県史は、白山や飯豊山、月山にも同じ習俗があったと書く。今はそれほどでもないらしい。
用足しの決まりもあった。行者堂から上で便意を催したら、紙を敷いてその上で済ませ、白紙をかぶせて銭を1文供えた。オハライ銭という風習。霊山を穢した詫びの意味があったと、県史は説明する。
登る前の7日間は、精進潔斎。海や川で垢離を取り、魚肉を断ち、蚤や蚊を殺すことまで慎んだ。海から遠い土地の人も、最後は潮垢離を取りに行き、海藻を持ち帰った。愛媛県史が拾った、県内各地の民俗。
縛られたのは本人だけじゃない。八幡浜市の川上地区では、登拝者が氏神の社殿に籠って別火の暮らしをし、家族も精進した。漁を休み、虫一匹殺さず、親類に不幸があっても、帰るまで弔問に行かなかった。家の門口に注連縄を張るのは各地共通で、人が戻れば抜く土地もある。
細かい禁忌の数々。登拝中の豆炒りは、足に豆ができるといって避けた。髪をすくこと、殺生、不浄に触れること、月経中の女性を近づけることも禁じられた。越智郡玉川町の木地では、糸針や臼を使うことまで止めたという。
留守の家には、仲間が手を貸した。大洲市三善や越智郡菊間町には、講員が登拝者の水田の草取りを引き受ける「講草取り」があったと、愛媛県史は書く。筆者の見立てでは、厳しい禁忌は一人の修行である前に、村ぐるみの取り決めだった。講草取りは、それを回す仕掛けの一つだと思う。
初めて登る年は、普通は15歳。親があらかじめ願を掛けておき、15歳で願解きに登る例が多かった。「石鎚は一度は来ても二度は来な」という諺がある。道後平野あたりでは、石鎚と四国遍路が男の一人前の条件だったという。
頂上には「のぞき」の岩場があり、初めて登る若者に試練が課された。『西条誌』の著者は、先達が若者を縄で縛って谷へ吊るし、これまでの悪事を懺悔させ、改心を誓わせたと書く。引き上げたあとで縄を解いたという。県史は、これを男一人前への花道だったとまとめている。
女人返しの王子社と、減っていった禁制の日数
女人禁制が緩んだ年は、数字で追える。県史がはっきり書いている。昭和22年(1947)に、お山開き中の7月6日からの登拝が解禁された。禁制の日はその後3日に縮まり、昭和57年(1982)から7月1日だけになった。5日から3日、3日から1日。
昔は、もっと手前に線があった。今宮道では「矢倉の女人返し」、黒川道では「女人還の行者堂」までが、女性の行ける限りだった。事典の石鎚神社の項にある王子社の一覧にも、17番の「女人返」が載る。女性はここで遙拝し、先へは進まなかったと解説がある。
愛媛県史は、道者が女性を避ける習俗の根を、別火と月経の禁忌に見ている。西宇和郡三崎町では、夫が登拝している間に妻が月経になると、妻は婚家を離れて実家へ帰り、そこで暮らした。昼の農作業にだけ通い、婚家には近寄らず、用があれば裏口から声を掛けるだけだった。松山市の三津浜や怒和島にも、月経中の女性を他家に預ける例が見える。
月経の女性が籠る小屋を、ヒマヤやベツヤという。石鎚山村では、大正時代まで各家にヒマヤがあった。ところがお山市の頃は、そのヒマヤが道者の民宿になる。黒河の集落では、隣の有永にあった共同のヒマヤ岩屋に女性が籠った。
女人禁制の理由は、一般には2つ挙げられる。月経や出産に伴う血の穢れを避けることと、男の修行者の心を乱さないよう女性をあらかじめ遠ざけることだ。僧侶でジャーナリストの著者が、著書『欲望の仏教史』でそう整理している。起源は平安時代まで遡ると、同書の抜粋を載せた記事にある。
神社の公式ページは、女人禁制は時の流れとともに次第に開放され、今は7月1日だけだと書く。その7月1日は、御神像が信徒の背で山へ上がる日だ。筆者の見立てでは、最後に1日だけ残したのは、祭りの中心に当たる日を守るためだと思う。
願書には「口碑」と書いてあった
石鎚山の開山は、685年。役の行者が開いたと、神社の公式ページは書く。前神寺の寺伝は、天武天皇の時代に役行者が山頂で修行し、蔵王権現を感得して像を彫ったとする。斧を研ぐ老人の話も伝わる。頂上の厳しさに諦めかけた行者が、斧を磨ぐ老人に会い、「磨いて針にする」と言われて引き返したという。
愛媛県史は、役の行者の開山を慎重に扱っている。石鎚の名が出る最初の文献は、平安時代初めの『日本霊異記』だという。そこに挙がる名は寂仙で、役小角ではない。寂仙は、死後28年で桓武天皇の皇子に生まれ変わったという転生説話をもつ聖だ。県史は、この寂仙あたりが開山者と見ながら、確証はないと断っている。
『続日本紀』が役小角を伝える文武天皇3年(699)5月24日の記事は、伊豆島へ流された話だ。葛木山に住み、呪術で評判になったと書く。石鎚の名は、そこにない。県史も、役小角の開山は大和の金峯山などにもある伝承だと添えている。
決め手は、明治2年(1869)4月29日の願書。西条藩の公用人が政府に出した文書で、前神寺が別当を務める石鎚山蔵王権現のことを述べている。旧記は天正の兵火でことごとく焼け、確かな証拠はない。役小角の開山は口碑、すなわち言い伝えとして伝わるだけだと、藩自身が書いた。
同じ願書は、僧の灼然や上仙が山頂で精進して修行したことは『文徳実録』にも見える、と添えている。史料で確かめられると藩が書いた名は、役小角でなく灼然と上仙だったわけだ。藩は、蔵王権現は仏体で間違いないと届けていた。小松藩は同じ権現を神と届けており、その食い違いを政府の裁きで決めてほしいという趣旨だった。付箋の返事は、「神社ト相定可申事」。
役の行者に神変大菩薩の諡号が贈られたのは、寛政11年(1799)のこと。没後1100年の遠忌に、光格天皇が聖護院へ勅使を出した。それまでは法起菩薩と呼ばれていたと、事典は書く。石鎚の天狗の法起坊は、役の行者の化身ともいわれる。事典は、昇天した役小角が石鎚山へ来て大天狗になり、山を守ったという話を載せる。
愛媛県史にも、天狗が出てくる。不浄な者は、山の天狗に放り投げられると信じられていた。筆者の見立てでは、『日本霊異記』が書いた「浄行の人だけが登れる山」の理屈が、天狗の話に姿を変えて残ったのかもしれない。
役の行者の名は、いつ石鎚の開山者として定着したのか。確かめられたのは、1713年の『花橘』に「役優婆塞開起」の文字があるところまでで、それ以前を書いた史料には行き当たらなかった。前神寺は、延宝4年(1676)に先達所を定め、各地へ講を広げた寺だ。筆者の見立てでは、遠くの信者を集める寺にとって、役の行者は使いやすい看板だった。正直なところ、決め手はない。
住職は還俗しなかった
明治元年(1868)3月、神仏判然令が出た。神と仏を分け、長く続いた混淆をやめさせる命令だ。愛媛県史は、伊予では権現号や牛頭天王の称号を改めて神社名にする程度で、廃仏毀釈は他県よりかなり穏やかだったと書く。石鎚神社の場合は、その神仏分離の代表例として挙げられている。
石鎚山でも、奉斎像の取り調べが命じられた。西条藩の届けは、山頂の蔵王権現が仏体。小松藩の届けは、同じ権現を神とするもの。同じ山の同じ神仏が、藩ごとに仏と神へ割れる形になる。
明治2年8月8日、西条藩は山頂の権現像と常住の堂宇の取り壊しも政府に伺い出ていた。明治3年(1870)閏10月25日、神祇官は、石鉄神社と称してよく、従来の権現の像は別に祭らなくてよいと答えた。石鎚山から権現の名が消えた裁定。土地は、別当前神寺の寺域をそのまま神社が占める形に落ち着く。
県史によると、前神寺の住職の一人と横峰寺の住職は、官命に従って還俗し、神職として石土神社の祭で神事を務めた。ところが前神寺の現住の住職は、還俗を拒んだ。ここからが長い。蔵王権現の像を山上に安置し、山頂の鎮座の姿に模して、民衆の信仰を集めたと県史は書く。旧石鉄県から役人が来て迫っても、復飾はしなかった。
明治5年(1872)2月に、本堂と庫裡が焼けてしまう。住職は、無住になっていた末庵の医王院へ移り、権現像は封印されて戸長に預けられた。県史の別の巻は、この退去を明治6年6月のこととする。寺は処分を不服として司法省の裁判所へ控訴したが、結末は訴えの撤回。明治7年(1874)2月には、県が権現像は破却するほかないと教部省に伺いを出していた。
明治8年(1875)、県令の岩村高俊は、前神寺を廃絶するか、別当寺として分離して残すかのどちらかだと意見を述べた。檀家は180戸。7月9日、県の通達で廃寺が決まり、7月20日には、檀家総代の庄屋が存続を求める歎願書を出した。決着は、まだ先だった。
前神寺は、前上寺の名で復活する。県史はそれを明治11年(1878)、事典の石鎚神社の項は明治12年とする。神の字を使うことは許されなかった。旧称に戻れたのは明治22年(1889)。神社の公式ページによると、同じ年、豊臣秀頼が慶長15年(1610)に造営した成就社が火災で焼けている。
神社の側も、楽ではなかった。県史は、発足当初の神社は態勢が不十分で、神仏分離の混乱で信者が減り、長く不振が続いたと書く。社名は石土、石鉄と揺れ、石鎚に落ち着いたのは明治35年(1902)のことだ。立て直したのは、明治45年(1912)に第10代社司となった越智勝丸で、各地に崇敬講を作って財政を再建した。
唐櫃から神輿へ、仏像から神像へ
前神寺の時代の山開きは、仏像3体を唐櫃に納めるところから始まった。旧暦の5月晦日に常住舎へ運び、翌朔日の朝に弥山へ納める決まり。差配は道中奉行で、土佐の信者が供奉するのが古式だった。道中奉行は、会符一号をもつ家の世襲と県史は書く。
山から下ろす日の山場は、「走り込み」と呼ばれた。弥山から戻る仏像が山門に着くと、長い参道に信者が土下座して待つ。唐櫃が頭の上を通ると、みな合掌して念仏を唱え、涙を流した。愛媛県史が、そう伝えている。
今のお山開きでは、仏像が神像に替わり、唐櫃が神輿になった。三体の神像は、明治14年(1881)の『石鎚神社先達用記』という冊子に、頂上社へ安置すると書かれている。県史は、神社ができた頃に、それまでの権現像に代えて作られたものと推している。像は、仁、智、勇の神徳を表す。信徒の背に負われて山を登る。
唐櫃も神輿も、山の下から上へ運び、10日置いて、また下ろす。中身が仏から神に替わっても、骨組みは同じだ。県史は、寺の祭礼行事が神社の成立後に別の方法で神社側に受け継がれたと書く。県史によると、前神寺の側も、7月1日の入峰に権現像三体を唐櫃へ納めて奥の院へ上げ、11日に下ろす。寺と神社が、同じ10日間に、同じ山で、似た形の行列を出していたわけだ。
頂上では、御神像を身体に押し当てて神徳を授かる。昔は、この御神像を奪い合う荒っぽい行事だったと県史は書く。奪い合いにも決まりがあった。会符の番号が若い者ほど権威があり、「若番で来い」と古い会符を出されたら、先に来た者でも譲る不文律があった。
会符は、信者の階級を示す免許証。神社になってからも、仕組みは作り直されて続いた。県史によると、神社は大神嶽講を結び、大正2年(1913)に崇敬講、同4年には崇敬組合と遙拝所の設置へ重点を移した。それまでの講は、崇敬組合に統合される。筆者の見立てでは、寺は講で、神社は崇敬組合で、同じ型で信者を束ねた。
今も、お山開きの間に成就社から登る人は、崇敬組合の窓口で受付をする。登山切符と赤いリボンを受け取り、リボンを左肩に付けて、神門でお祓いを受ける。土小屋から登る人は、赤以外のリボン。二の鎖の元の分岐の鳥居で、赤いリボンの確認があると、神社の案内は書く。
先達は17階級あり、昇進のたびに初穂料を納める。先達会符を携帯すれば入山料が免除になると、事典の石鎚神社の項にある。石鎚神社の信徒は全国で300万人ともいい、先達は7万人に達すると、昭和の末に出た県史は書く。戦後に作られた石鎚本教は、神社だけでは出せなかった教師免状や教会設立の道を開いたと、神社自身が説明している。
お山市の入込客は、昭和60年に約10万人とみられ、西条市を代表する観光行事になったと県史は書く。ロープウェイの月別の利用客は、県史の表で7月がいちばん多い。成就社の参道には旅館があり、夜の神事も宿泊とつながっている。筆者の見立てでは、寺から神社、石鎚本教へと看板が替わっても、続いたのは、続けて得をする人が山にも麓にもいたからだ。
7月10日は、午前10時に終了祭、11時30分に出御祭があり、正午ごろから御神像が15分おきに成就社へ下る。午後2時以降に着く。その夜、成就社では「御神像拝戴」の神事があり、10日だけは午後5時から、境内の旅館への宿泊が条件と日程表にある。翌11日の午後12時30分、御神像は西田の本社に戻る。本殿に収まったあとの本社でも、御神像拝戴がある。
