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家に柿の木を植えてはいけない――「実がなりすぎる木は死人を呼ぶ」という迷信の由来

田舎の家で必ず一度は聞く話

「柿の木を庭に植えちゃいけない」。田舎の家を歩いていると、だいたいどこかでこの台詞にぶつかる。もっと物騒なバージョンもある。「柿がたわわに実りすぎた年は、その家から死人が出る」。

秋になれば柿は橙色の実をびっしりつける。本来なら豊作の象徴だ。喜んでいい話のはずなんだよな。ところが柿に限っては、実りすぎることが不吉の兆しとして扱われてきた。庭木としては敬遠され、わざわざ避けられてきた歴史がある。

日本人にとって柿はずいぶん身近な木だ。甘みが貴重だった時代には、それこそありがたい恵みだった。それがなぜ死や不幸と結びついたのか。理由はひとつじゃない。柿という植物の生態、日本人の色彩感覚、そして子どもの命を守るための実用的な戒め。この三つが絡み合っている。

系統はふたつに分かれる

この迷信、語られ方が大きく二系統ある。

ひとつは「柿の木そのものを庭に植えるな」という型。木の存在自体を忌避する。もうひとつは「実がなりすぎた年に不幸が起きる」という型だ。こっちは豊作そのものを不吉と見なす。

前者にはわりと生々しい背景がある。柿は大木になりやすい。そのくせ枝が非常にもろい。子どもが遊び半分で登って、ぽきりと折れて落ちる。大怪我をしたり、命を落としたりする事故が後を絶たなかった。

そこで生まれたのが、あの言葉だ。

落ちたら三年後に死ぬ、という脅し文句

「柿の木から落ちると三年後に死ぬ」。

直接的で、しかも妙に怖い。要するに木登りを思いとどまらせるための安全教育だった。三年という年数の根拠ははっきりしない。ただ、この「三年」がよくできている。

その場で無傷でも安心できないからだ。三年後にツケが回ってくる。時間差の恐怖を植え付けられたら、子どもはもう柿の木に近づかない。心理的な仕掛けとしては相当うまい。

庭が真っ赤に染まった年の話

もう一方の「実りすぎると死人が出る」は、だいぶ不気味な色をしている。

柿には表年・裏年と呼ばれる隔年結実の性質がある。たくさん実る年と、ほとんど実らない年が交互にやってくる。で、異常なほど実がついた年。庭全体が真っ赤に染まるほどの豊作になった年。

その赤々とした様子が、血の色に見えた。あるいは人魂に見えた。だから「この家には近いうちに不幸がある」という予兆として語られるようになった、という筋書きだ。

想像してみてほしい。誰も収穫しないまま木に残された熟れすぎた柿。夕暮れ時に赤黒く色づいて、枝という枝に鈴なりになっている。それだけで一種異様な迫力がある。「死人を呼ぶ木」というイメージは、たぶんこの光景から補強された。

最後の一個は木に残しておけ

柿の禁忌には地域ごとのバリエーションが山ほどある。

いちばん有名なのが「木守り」だ。柿の実は最後の一つを必ず木に残しておく、という風習である。表向きの理由は、冬を越す鳥たちのために食料を残しておくという自然への配慮。それと、翌年の豊作を願う祈りの意味もある。

でも裏を返すと、けっこう怖い話でもある。「木にあるものを全部人間が奪い尽くしてはいけない」。「自然の恵みを独占すると祟りがある」。柿の木そのものが持つ霊的な力への畏れが、根っこにあるとも読める。

実を取り尽くせば、木の神様が怒る。木に宿る精霊が怒る。そしてその家に不幸が来る。木守りは、そういう発想の裏返しなんだよな。

枇杷も桜もザクロも、忌み木の仲間

庭に植えてはいけない木は柿だけじゃない。枇杷、桜、ザクロあたりも同列に扱われている。

枇杷の理由が面白い。葉が古くから薬草として珍重されていた。だから「枇杷の木がある家には病人が薬を求めて集まってくる」。つまりその家には常に病人が絶えない、という縁起の悪さに転化した。

ザクロは鬼子母神の伝説にちなんで忌避された。桜は満開から一気に散る儚さが死生観と重なって敬遠された。

柿はこの中でちょっと毛色が違う。他の忌み木が「足りなさ」を嫌うのに対して、柿は「過剰さ」を恐れている。実りすぎる豊かさそのものが不吉だという、逆方向の論理が働いているわけだ。

屋根より高くなった木は境界を破る

もっと広い禁忌もある。「屋敷の庭木が屋根より高く育つと、その家から死人が出る」というやつだ。

柿は成長が早く、大木化しやすい。だからこの意味でも二重に警戒された。

屋根というのは、家の内と外を隔てる境界と見なされていた。この世とあの世の境目でもある。その境界を植物が突き破ってしまう。その恐れが、柿を含む高木全般への忌避感の土台になっていたらしい。

伐採の作法も残っている。柿の木を切り倒すときにお祓いや儀式を行う地域は少なくない。長年その場に根を張って、家の歴史を見守ってきた木だ。人間と同じように魂や精霊が宿ると信じられてきた。無闇に切れば祟られる。

酒や塩を供え、手を合わせてから作業に取り掛かる。この習わしは今も一部の農村部で守られている。迷信というより、長く一緒に暮らしてきた木への感謝の儀礼という色が濃い。

実際にあった、豊作の年の話

ある地方の古い民家の話がある。庭に何十年も前から生えている大きな柿の木があった。ある年、例年にないほど実がびっしりついた。枝がしなるほどの豊作だ。

その年の秋、祖父が急に体調を崩した。そのまま帰らぬ人となった。

近所の年配者は口々に言ったという。「柿がなりすぎた年は、あれは虫の知らせだったんだ」。以来その家では、実がつきすぎないよう早めに摘果するのが習慣になった。

もちろん柿の結実量と人間の生死に因果関係なんてない。ないんだが、当事者にとってはその年の記憶が強烈に結びついてしまう。以後どうしても、柿の豊作を見るたびに落ち着かない気持ちになるのだそうだ。

別の話もある。子どもの頃、祖母から繰り返し言われて育った男性がいる。「その柿の木には絶対登るな、落ちたら三年で死ぬ」。

ある日、友人にそそのかされて登った。案の定、枝が折れて落下した。腕を骨折する大怪我である。幸い三年後に何か起きたということはない。ただ本人はこう語っている。「今でも柿の木を見ると条件反射的に緊張する」。幼少期に刷り込まれた恐怖は、そう簡単には抜けないらしい。

三つ目は伐採の話だ。古民家を購入した家族が、庭にあった立派な柿の木を切ろうとした。「縁起が悪いから」と近所に勧められたからである。ところが作業を請け負った業者に忠告された。「柿の木を切る前はきちんとお祓いをしたほうがいい」。

慌てて近所の神社に相談し、簡単な儀式を行ってから伐採した。その後は特に変わったことは起きていない。ただ、切り株から翌年小さな芽が再び出てきたのを見て、この家族はこう感じたという。木の生命力そのものが、この迷信を生んだ根っこなのかもしれない、と。

ネットの住人が出した身も蓋もない答え

園芸系の掲示板やQ&Aサイトを覗くと、この話はもっと実用的に語られている。

回答者が並べるのは、柿の木の現実的なデメリットだ。大木化しやすくて管理が大変。実を目当てに鳥や虫が寄ってくる。ときには害獣まで来る。熟した実が地面に落ちて腐り、悪臭や害虫の発生源になる。枝が折れやすく、子どもの事故につながる。

こういう実害が積み重なった。それがいつしか「縁起が悪い」という抽象的な形に集約されて語り継がれた。そういう解釈が非常に多い。

SNSの反応は割れている。「うちも柿の木があるけど普通に元気に暮らしてる」「迷信は迷信、気にしすぎ」という否定派がいる一方で、体感として何かを感じ取っている人も一定数いる。「毎年実りすぎる年に限って親戚が入院する」「なんとなく分かる、あの赤さは不気味」といった声だ。

歴史方面からの指摘も面白い。柿はかつて庶民には手の届かない贅沢品だった。その名残で、実のなる木を庭に持つこと自体が身分不相応と見なされた。それが「縁起が悪い」という言い方に変わったのではないか、という説である。単なる怪異譚じゃなく、社会階層や経済史の話としても読めるわけだ。

本当は縁起のいい果物だったのに

そもそも柿は「嘉喜(かき)」に通じる語呂の良さを持っている。もともとは縁起の良い果物として扱われてきた歴史もあるのだ。

砂糖が貴重だった時代、自然の甘みをくれる柿は神の恵みだった。干し柿にして保存食にもした。生活に深く根ざした、特別な植物である。

それなのに庭木としては忌避される。この矛盾した二面性こそが、柿をめぐる迷信の奥深さだと思う。

真っ赤に熟した実が、夕暮れの薄闇にぼうっと浮かび上がる。その様子が人魂や鬼火のイメージと重なり、畏怖の対象になっていった。民俗学の側からはそう説明される。

一方で、柿の木が枝の脆さゆえに実際に転落死亡事故を起こしてきた記録は、各地の郷土史料にも散見される。現実の悲劇があった。それが「柿の木から落ちると死ぬ」という強烈な戒めに結晶化した。そこからさらに抽象化が進む。「柿の木そのものが死を呼ぶ」。「実りすぎることが不吉の予兆である」。

こう並べてみると、由来としてはこの筋がいちばん通っている。庭先の柿が不気味に見えるとしたら、それは呪いのせいじゃない。何十年もかけて誰かが子どもを守ろうとした、その必死さの残り香なのかもしれない。

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