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切り取った身体を壺に納め、棚の高いところへ上げた――宦官・去勢制度の二千年と、最後の宦官が失った「宝」

北京の骨董屋の隅に、蓋つきの小さな壺が転がっていることがあったという。中身は空。値もつかない。だが百年前なら、あの壺には一人の人間の一生分の意味が詰まっていた。壺の名前は「宝」という。

文字どおり、宝物。何が入っていたかというと、その壺の持ち主自身の、切り取られた身体の一部だ。まあ、落ち着いて聞いてほしい。これは、その壺の話である。そして壺を持たされた人たちが、二千年にわたって東アジアの宮廷を回してきたという、途方もない話でもある。

棚の上に置かれた壺、それを「高く昇る」と呼んだ

先に言っておくと、結論はこうだ。宦官という制度でいちばん怖いのは、去勢そのものじゃない。切られたあとに始まる、長い長い人生のほうだ。切り取られた部分は、施術した者の手で処理され、蓋のできる容器に収められる。素焼きの壺だったり、升のような枡型の容器だったりした。

それを部屋のいちばん高い棚に上げて置く。理由がふるっていて、高いところに置くと「高く昇る」、つまり出世する、という語呂合わせの縁起担ぎだった。升に入れて上に置けば「升遷発財」、昇進して金が儲かる。中国の縁起担ぎは徹底的に音と字面で遊ぶ。人生でいちばん取り返しのつかない喪失を、駄洒落で縁起物に変換してしまう。

この落差が、たぶんこの制度の本質に近い。そして壺は、ただのお守りではなく、実用品だった。宮中で位が上がるとき、上役の宦官による検分がある。「宝を検める」と呼ばれた儀礼で、壺を持ってこられない者は昇進できない。だから壺は身分証明書であり、履歴書であり、退職金の担保でもあった。

十九世紀の北京にいたイギリス人のジョージ・カーター・スタントは、この検分にまつわる裏事情まで聞き出している。切られたときに壺を受け取り損ねた者は、あとから施術者の家に買い戻しに行く。足元を見られて、五十両ふんだくられることもあった。それも払えない者はどうするか。仲間から借りるのだ。

検分の日だけ他人の壺を借りて、持ち主のふりをして提出し、終わったら返す。宮廷という場所で、いちばん個人的なものが貸し借りされていた。なぜそこまでするのか。理由はもうひとつあって、こちらのほうが切実だった。死んだときに棺へ一緒に入れてもらうためだ。

中国の伝統的な身体観では、親からもらった身体は欠けたまま死んではいけない。欠けたまま死ぬと、あの世で人間として扱われない。当時の言い伝えでは、閻魔にあたる冥界の王が、身体の欠けた者を騾馬に変えてしまうとされた。それも雌の騾馬に。壺さえ棺に入っていれば、その裁定を回避できる。

自分のものが手に入らないなら、他人のものでもいい。とにかく数が揃っていればいい。この「他人のものでもいい」という一点に、正直いちばんぞっとする。信仰でありながら、どこか事務処理じみている。書類の欠損を埋めるように、身体の欠損を埋める。

殷の骨に、すでに「寺人」の字がある

いつからあったのか。答えは、記録がある限りずっと、である。殷の甲骨文には、去勢された者を指すと解釈される文字がすでに現れる。周代の文献には「寺人」という語が出てくる。宮中の奥向きに仕える者たちで、詩経にも寺人の作とされる詩がある。

春秋戦国には「奄人」「寺人」といった呼び名が並び、後漢のころから「宦官」が去勢者専用の語として固まっていく。「宦」という字は、もとをたどれば奴隷を意味した。それが王の身近に仕える者を指すようになり、最後に去勢者の代名詞になった。言葉の履歴そのものが、この身分の位置を語っている。明清では「太監」と呼ぶのが普通になる。

もともとは役所の長官職の名前だったのが、宦官全体を指す言葉に落ちた。ちなみに起源は刑罰であり、ここは動かない。古代中国の刑罰体系、いわゆる五刑は、顔に入れ墨を彫る刑、鼻を削ぐ刑、足を切る刑、生殖能力を奪う宮刑、そして死刑にあたる大辟の五つからなる。宮刑は死刑の一つ下、つまり「殺す以外でいちばん重い罰」だった。腐刑とも陰刑とも呼ばれた。

腐刑の呼び名の由来には諸説あり、傷が癒えるまで腐ったような臭いを発するからだとも、子孫を作れなくして家系を腐らせるからだとも言われるが、どれも決め手はない。なぜそこまで重いのか。祖先祭祀を軸にした社会では、子孫が絶えることは家そのものの死を意味した。自分が死ぬより重い。だから宮刑は「命は取らないが、家は殺す」刑だった。

漢の景帝のころ一度は廃止されたと伝えられるが、紀元前一四六年には死刑の代替として腐刑を許すという運用が記録されている。死刑を宣告された者が、宮刑を受け入れることで命だけは助かる。この「減刑としての宮刑」が、後の歴史を大きく捻じ曲げることになる。

蚕室に下す――暖かい部屋に百日押し込める

宮刑を受けた者は、その後どこへ行くか。「蚕室」である。蚕室とは文字どおり蚕を飼う部屋のことだが、刑罰の文脈では、風と日光を遮った暖かい密室を指した。傷が化膿しないように、体温が下がらないように、火を絶やさず暖かくして、およそ百日間そこに置く。だから当時の文書では、宮刑に処すことを「蚕室に下す」と婉曲に表現した。

蚕が繭に籠もるように籠もらせる、という比喩なのだろうが、繭から出てきた者はもう別の身分になっている。百日という数字は、後の時代の民間の去勢でもほぼそのまま踏襲された。回復期間の目安として、二千年ぶれていない。逆に言えば、そのあいだ働けないし、誰かが世話をしないといけない。つまりこの制度は、最初から「他人の手当てを前提とする」制度だった。

個人の決断だけでは完結しない。必ず、施術する者、看る者、費用を出す者が要る。産業になる素地が、最初から仕込まれていた。隋の文帝の代に宮刑は一度廃止される。ところが明代に復活する。

復活の理由がまた身も蓋もなくて、需要があったからだ。宮廷が宦官を必要とし、宦官になれば食えると分かった人々が、刑罰を待たずに自分から志願しはじめた。刑罰としての去勢が細るのと入れ替わりに、職業としての去勢が膨れ上がる。この逆転が、明という王朝を宦官の帝国にしていく。

紫禁城の西の門のそば、みすぼらしい建物があった

十九世紀の北京。紫禁城の西華門の内側、皇城の中に、みすぼらしい平屋が建っていた。人はそこを「廠子」と呼び、小屋、作業場、といった意味の言葉だ。そこで働く者たちは「刀子匠」と呼ばれた。刃物を扱う職人、という意味である。

この呼び名を、スタントは英語で「ナイフ屋」と訳した。のちの研究者はこの訳語が侮蔑的だとして「刀の専門家」と訳し直すべきだと指摘している。呼び方ひとつで、その職業の輪郭が変わる。刀子匠は世襲で、弟子を取るにしても、ほとんど身内から取る。技術も道具も家の中で受け継がれ、外には出ない。

彼らはこの仕事だけで食べており、相場は、少年一人につき六両。それとは別に、回復するまで面倒を見る費用を受け取った。金のない者には後払いの取り決めもあり、宮廷に入ってから給料から差し引く形で返させたのだ。つまり刀子匠は、施術者であると同時に金貸しであり、就職斡旋業者でもあった。近年の研究では、彼らを一種の仲介業者とみなし、去勢された身体の一部を保管する「倉庫」まで運営していた点に注目している。

大人が志願してくる場合は、身元保証人を立てさせた。素性の知れない者を宮中に送り込むわけにはいかない。ここでも刀子匠は審査の窓口として機能している。明代には、宮城の中に専用の施設があったとも伝えられる。座面に穴の空いた椅子が置かれ、そこで処置が行われたという記述が残っている。

助からなかった者は、切り取られた部分を袋に入れて一緒に運び出された。あの世で身体を揃えて再会させるためである。ここでも「揃っていること」が最優先されている。なお、清代には少年の年齢が驚くほど低いこともあった。九つ、十、あるいはもっと幼い。

孤児、罪人の子、飢えた家の三男四男。志願というより、家族が決めた。当時の中国では親の言葉は子にとって法だったから、少年に選択の余地はほとんどなかった。

三日目の朝、生きるか死ぬかが水の音で決まった

ここから先は、手順の説明ではない。記録に残された言い伝えとして書く。伝えられるところによれば、処置の前に必ず一度、問いが投げられた。「後悔しないか」。ここで少しでも迷いを見せた者には、刀子匠は手を出さなかったという。

契約の成立を、当人の言葉に依存させていた。少年の意思がどこまで本人のものだったかは別にして、少なくとも形式としては、そう決まっていた。麻酔らしい麻酔はない。伝承では熱い唐辛子の汁で洗ったと言われる。腹部と腿を白い布できつく縛って出血を抑え、あとは刃物と速さの勝負だった。

処置のあと、傷口には栓が差し込まれ、冷水に浸した紙が当てられて包帯が巻かれる。そして本人は、二、三時間、二人がかりで支えられながら歩かされた。倒れさせないためである。いちばん危ないのは、そのあとの三日間で、この間、水を与えない。渇きと痛みで意識が朦朧とする。

そして三日目の朝、包帯が解かれ、栓が抜かれる。ここが分岐点だ。水が勢いよく噴き出せば、生きる。何も出なければ、その先には激烈な苦痛と死しかない。助ける手立てはなかった。

死亡率については、記録がまるで一致しない。十七世紀のヨーロッパ人旅行者シャルダンは四人に一人しか生き残らないと書いた。ある高官つきの医師は三分の二が死ぬと言ったのだ。一方でスタントは、自分が知る限り死んだのは一人だけだったと書き、百人に二人程度という別の推計のほうが実態に近いと考えた。日本語の百科事典的な記述では、清代には一パーセント未満まで下がったとする説も紹介されている。

この数字のばらつきは、そのまま資料の性質の差でもある。伝聞で書いた者、宮廷の記録を見た者、当事者に直接聞いた者。誰が何を見て書いたのか、そこを外して数字だけ拾うと、必ず間違える。

月に二両、四十八の部署、そして呼べばすぐ来る小さな家

生き延びた者を待っていたのは、意外なほど地味な公務員生活だった。清代の宮中には、多いときで三千人前後の宦官がいた。スタントがいた時期には二千人ほどに減っていたという。現代の研究では、康熙のころで三千から三千三百人、乾隆期の一七五七年に三千三百人とされる。そこから十九世紀半ば以降は減り続け、最後の皇帝の時代には八百から九百人まで落ち込んだらしい。

明代がピーク時に七万から十万というスケールだったことを思うと、清はその三から五パーセントしかいない。清は明の失敗を明確に反省した王朝だった。宮中の仕事は四十八の部署に分かれていた。庭園、中庭、厨房、武器庫、輿。それぞれに監督役がいて、その上に全体を統べる総管がいる。

位階は細かく、清の制度では宦官の位は原則として四品を超えないと定められていた。明の宦官たちが政権を私物化した記憶が、この上限に刻まれている。給料は月に二両から四両。どれだけ出世しても十二両が天井だった。ほかに米の支給があり、宦官たちは自分たちで金を出し合って共同の食事をこしらえた。

ほかの官僚が半年ごとの支給だったのに対し、宦官だけが月給制だったのは、たぶん彼らに蓄えがなかったからだ。住まいは、担当する建物の脇にある小さな部屋。呼ばれたらすぐ行けるように、そこにおり、眠るのも、そこ。七十歳になるか、病で働けなくなると、月二両から六両の年金を受けて退く。行き場のない者は、宦官の守り神を祀る寺に無料で住むことができた。

その守り神というのが、また凄まじい来歴の持ち主である。

自ら証明した男が神になった

剛丙、あるいは剛鉄と伝えられる人物がいる。明の永楽帝に仕えた将軍で、皇帝の寵愛が篤かった。伝説はこうだ。宮中で彼を妬む者が現れ、後宮の女性との関係を疑われそうになった。皇帝が狩りに出る前夜、剛丙は自ら刃物で身体を切り、切り取ったものを袋に入れて、皇帝の馬の鞍の下に忍ばせた。

狩りから戻った皇帝の前で、大臣たちが剛丙の不品行を訴える。剛丙は鞍の下を見せろと言う。中から出てきたものが、すべてを黙らせた。永楽帝は感動して彼を宦官の長に取り立て、死後は聖なる者として祀らせた。墓所と祠が建てられ、のちに「宦官の寺」と呼ばれるようになる。

二十世紀の半ばまで、北京の宦官たちはそこに集い、参拝し、老後を過ごした。この伝説の面白さは、「自分で切った」ことが忠誠の最高の証明として扱われている点にある。他人に切られた者は罰を受けた者だが、自分で切った者は忠臣である。同じ結果、正反対の意味。制度というのは、こういう意味づけの反転で人を動かす。

「刀鋸の余れる者」――司馬遷が生きることを選んだ理由

宮刑を受けた人物の中で、いちばん有名なのは司馬遷だろう。紀元前九九年、匈奴に投降した将軍の李陵を弁護したことで、武帝の怒りを買った。死刑の宣告。当時、死刑を免れる道は二つあった。莫大な金を積むか、宮刑を受け入れるか。

司馬遷は金を持っていなかった。彼が友人の任安に宛てて書いたとされる手紙が残っている。そこで彼は自分を「刀鋸の余れる者」、刃物と鋸の残りかす、と呼ぶ。そして「これ以上の恥辱はない」と言い切る。当時の士大夫の常識では、この恥を受けたら自ら死ぬのが筋だった。

周囲もそう思っていたはずだ。だが彼は死なず、手紙の中で、その理由を書いている。中途半端に投げ出したものを残して滅びるのが我慢ならなかった、自分の書いたものが後世に知られないまま消えるのが耐えられなかった、と。人がどう死ぬかがすべてを決めるのだ、とも書いている。その結果が『史記』である。

中国の歴史記述の型を決定づけた本が、宮刑を受けた男の、死なない理由として書かれた。司馬遷はのちに中書令に任じられている。皇帝の身近で詔勅を扱う職だ。皮肉な話で、彼を切った制度が、彼をもっとも権力に近い場所へ押し上げた。この構造は、そのあと二千年繰り返される。

皇帝を作り、皇帝を殺す

宦官が権力を握るメカニズムは、拍子抜けするほど単純だ。皇帝に毎日会えるからであり、大臣は皇帝に直接ものを言えない。取り次ぎが要る。取り次ぐのは宦官だ。ある歴史家の言い方を借りれば、皇帝の注意を引きたい高官は、まず宦官を説得しなければならなかった。

情報の入口を握った者が、実質的な権力を握る。秦の趙高は始皇帝の死を伏せ、遺詔を書き換えて二世皇帝を立てた。鹿を指して馬と言わせた男である。後漢では宦官が皇帝の外戚を排除する道具として使われ、やがて道具のほうが主人になった。霊帝は張譲を「わが父」、趙忠を「わが母」と呼んだ。

十常侍と総称された集団が政治を握り、批判した官僚たちは党錮の禁で徹底的に潰された。一八九年、何進が宦官の一掃を企てて逆に殺されると、袁紹が宮中に乱入し、宦官とその一党をほとんど皆殺しにした。このとき髭のない者は宦官と見なされて斬られたという話まで伝わっている。張譲らは幼い皇帝を連れて逃げ、最後は川に身を投げた。そこへ現れたのが董卓であり、後漢は事実上ここで終わる。

魏はこの反省から、宦官に権限を与えない体制を敷いた。だが唐でまた同じことが起きる。しかも規模が違った。唐の宦官は神策軍という中央軍を掌握し、軍事力を持ったのだ。高力士は玄宗の右腕として権勢をふるい、李輔国は安史の乱の混乱の中で実権を握った。

そして八三五年、甘露の変。文宗は宦官支配から脱するため、李訓と鄭注に策を授けた。庭に甘い露が降りたという吉兆をでっちあげ、宦官たちを一箇所に集めて一網打尽にする計画だった。ところが幕の隙間から伏兵が見えてしまう。気づいた仇士良は皇帝の身柄を確保して逃げ、逆に李訓らを逆賊として処刑した。

腰斬であり、以後、文宗は完全な傀儡になった。「朕は家奴に制されている」と嘆いたと伝えられる。唐の後半、皇帝の廃立はしばしば宦官の手で行われた。皇帝を作る側に回った奴僕、というのが唐後期の宦官である。蔡倫のことも書いておかないとフェアじゃない。

後漢の宦官で、紙の製法を改良して普及させた人物とされる。この記事を読める文明の一部は、彼に負っている。

二十四の役所と、赤い筆

明は宦官の帝国だった。宮中には二十四衙門と呼ばれる役所群が置かれた。中でも司礼監が突出している。皇帝が臣下の上奏に朱筆で決裁を書き入れる、その作業を代行する権限が司礼監にあった。掌印太監、秉筆太監といった役職がそこに並ぶ。

要するに、国政の最終決裁のペンを、宦官が握った。御馬監は軍馬と軍事に関わり、東廠は特務機関として官僚を監視した。のちに西廠も置かれる。人数は膨れ上がった。万暦のころ宮中だけで一万を超え、全国の官職に就いていた者を合わせると七万から十万という数字が伝わる。

志願者は列をなした。一四七五年には、自ら去勢して職を求める者の存在が公文書に記録されている。仕事にありつけなかった者たちが北京の周辺に滞留し、社会問題になった。明の宦官の名前を並べると、そのまま王朝の躓きの石になる。王振は正統帝をそそのかして親征に出させ、土木の変で皇帝が捕虜になるという前代未聞の事態を招いた。

劉瑾は正徳帝の下で権勢をふるい、一年のうちに三百人を超える反対派を追い出して自派で埋めた。失脚後に没収された財産は、金の延べ棒二十四万本、金貨五万七千八百枚に、莫大な銀。国家の年間予算を上回ったと伝えられる。凌遅刑で処刑された。そして魏忠賢である。

九千歳、生祠、そして四年で終わった帝国

魏忠賢は一五六八年ごろ、北直隷河間府粛寧県の貧しい農家に生まれた。若いころは博打と放蕩で身を持ち崩し、借金で家庭が壊れ、妻と別れ、娘を手放した。そこから自ら去勢して宮中に入る。彼の運命を決めたのは、天啓帝の乳母だった客氏との結びつきだった。事実上の夫婦のような関係で、客氏は皇帝の絶大な信任を得ていた。

魏忠賢は彼女を通じて皇帝に近づき、対抗する宦官の王安を排除して地歩を固める。天啓帝は政務に興味がなく、大工仕事に熱中していたと伝えられる。魏忠賢は司礼監秉筆太監として詔勅の実務を握り、同時に東廠の長官として特務機関を統括した。決裁と情報と暴力が、一人の手に集まった。反対したのは東林党と呼ばれる士大夫たちである。

楊漣、左光斗らが弾劾に立ったが、逮捕され、拷問を受け、獄死した。東林党の獄と呼ばれる。権力の絶頂で、彼は「九千歳」と呼ばれた。万歳は皇帝だけの尊称である。九千歳とは、皇帝の一つ下という意味になる。

さらに、生きている人間を祀る祠、生祠が各地に建てられ、地方官たちが競って建て、民衆に参拝させた。終わりは速かった。一六二七年に天啓帝が死に、崇禎帝が立つと、即位直後から宦官勢力の抑制が始まる。鳳陽への左遷を命じられた魏忠賢は、その途上の阜城で自ら命を絶ったと伝えられる。遺体は改めて処罰され、一族と側近も粛清され、権力の頂点から破滅まで、実質四年ほどだった。

西太后の隣にいた男と、頭だけの墓

李蓮英は一八四八年、直隷の貧しい家に生まれた。六歳で去勢され、一八五六年に紫禁城に入る。一八六一年の政変で西太后に手を貸したことで信任を得た。一八六九年に前任の総管太監が処刑されると、その席に座る。以後、西太后の身の回りを取り仕切り、彼女に会いたい官僚から金を取った。

清の制度では宦官は四品までのはずだったが、彼はそれを超える待遇を受け、制度の上限は、寵愛の前では紙だった。一九〇八年、光緒帝と西太后が相次いで死ぬ。光緒帝の死をめぐって李蓮英に毒殺の疑いを向ける説が当時からあったが、確かなことは分かっていない。彼は退職し、一九一一年、赤痢で死んだとされる。辛亥革命の直前で、奇妙なのはその後だ。

一九六六年、文化大革命の最中に彼の墓が暴かれた。棺の中に入っていたのは、頭蓋骨だけで、胴体がない。以来、殺されて首だけ埋められたのだという説、あるいは別の事情があったのだという説が飛び交い、決着していない。宮中でいちばん身体の完全さにこだわった職業の人間が、頭だけになって見つかった。話ができすぎている。

だからこそ、この話は繰り返し語られる。

一九二三年七月十六日、雨の神武門

制度が終わった日ははっきりしている。一九二三年六月二十六日の夜十一時過ぎ、紫禁城の建福宮花園から火が出た。内務府の集計では、焼けたものは金の仏像二千六百六十五体、書画千百五十七件、古玩四百三十五件、古書九万冊。ただし研究者の調べでは、建福宮に置かれていた文物だけで一万件を超えていたという。すでに退位していた溥儀は、宮中の宝物が組織的に盗み出されていることに気づいていた。

彼はのちに自伝で、この火事は盗みの証拠を消すための放火ではないかと疑ったと書いている。同時に、宦官たちが「あの火は皇帝自身がつけたのかもしれない」と噂しているのを耳にして、責任転嫁されていると感じたとも。二十日後、七月十六日。溥儀は宮中の宦官千百三十七人全員の解雇を命じた。彼らは大雨の中、神武門の外の泥の上に立たされ、荷物を抱えて出ていった。

当時の報道は、その様子を「きわめて狼狽していた」と伝えている。別の記録では、袋に荷物を詰めて、甲高い声で泣きながら出ていったとある。数か月後、当局はひそかに百人余りを呼び戻している。宮廷の日常は、彼らなしでは回らなかった。それでも一九二四年、溥儀自身が紫禁城を追われて、制度は完全に終わる。

放り出された者たちの多くは行き場がなかった。宦官は他の家に使用人として雇ってもらえない。世間の目が許さなかった。物乞いになった者、寺に入った者、そして紫禁城の堀に身を投げた者がいたと伝えられる。

孫耀庭が八歳の朝に見たもの

最後の宦官と呼ばれた孫耀庭は、一九〇二年とも一九〇三年とも伝えられる年に、天津の近くの貧しい家に生まれた。八歳のとき、父親の手で去勢された。刀子匠ではなく、父親が、剃刀で。麻酔はない。彼は三日間意識を失っていたという。

家族がなぜそこまでしたかというと、村に宦官になって金持ちになった者がいたからだ。そして地主に受けた仕打ちへの意趣返しとして、宮廷とのつながりが欲しかったという事情も伝わっている。問題は時期で、一九一一年。彼が意識を取り戻した頃には、清朝はもう倒れかけていた。父親は泣いたという。

この子は何のために苦しんだのか、と。それでも彼は十四歳で紫禁城に入る。宮中はまだ動いていた。溥儀の親族に仕え、やがて皇后の婉容の身近に仕える。彼は宮廷の内側をよく見ていた。

婉容の阿片への依存も、その他の秘密も、後年、彼の口から語られた。そして一九二三年の追放。彼はいったん宮廷を離れる。以後の人生は長い。北京の広化寺で寺男のような形で暮らし、僧籍を得て、養子を取り、共産党の時代になると、彼は嘲笑と屈辱の対象になった。

彼の生涯でもっとも深い傷は、去勢そのものではなかった。文化大革命の最中、家族が彼の「宝」を捨ててしまったのだ。紅衛兵に見つかれば何をされるか分からない。だから捨て、当然の判断だ。だが孫耀庭にとって、それは死後に人間として埋葬される権利を失うということだった。

彼はそのことを終生嘆いたと伝えられる。一九九六年十二月十七日、九十三歳で死去。彼の遺品は、北京の宦官文化の博物館に納められている。彼の生涯を聞き書きした賈英華の伝記が一九九八年に出て、のちに英語にも訳された。八歳で切られ、九年ののちに制度が消え、七十年生きて、最後に壺を失った。

この順番が、あまりにも残酷だ。

スタントが聞き書きした声

一八七七年、スタントが北京で書いた報告には、宦官自身の言葉がいくつも紛れ込んでいる。彼が驚いたのは、志願者の中に、貧困とは無関係な者がいたことで、ある新婚の男が宦官になりたいと言い出した。理由を聞くと、そうすれば「食って飲んで寝るほかにすることがなくなる」からだと答え、家族が止めたのでその話は流れたのだ。だが別の若者は、実際に肉屋の包丁で自ら処置し、そのまま宮中に採用された。

妻子があり、家庭もあった男が、それを捨てて宦官になった。スタントはこの一件をよほど呑み込めなかったらしく、驚きを隠さずに書いている。もう一つ、スタントが記録した強烈な話がある。ある貧民が質屋で金を借りようとして断られた。彼はその場で自分を傷つけ、切り取ったものをカウンターの上に置いて、三十吊よこせと迫った。

当時の値打ちで四ドルほどだという。質屋の主人は仰天した。ここでその男に死なれたら自分が罪に問われる。結局、主人は食事と手当てを負担させられ、最終的には宮廷での職の世話までさせられた。これは脅迫であり、同時に交渉である。

自分の身体を担保にできると知っている人間の、絶望的な合理性だ。制度が「身体には値段がつく」と社会に教え込んだ結果、こういう使い方をする者が出てくる。イギリスの中国学者ジョン・ブロフィールドが聞いたという別の宦官の言葉も残っている。「たったひとつの快楽を手放すだけで、あれだけ多くのものが手に入るなら、大したことではないように思えた。うちは貧しかった。

あの小さな変化を耐えるだけで、この上なく美しく壮麗な場所での安楽な暮らしが約束されたのだから」。これを強がりと読むか、本心と読むか。私はどちらとも決めかねている。ただ、少なくとも当人はそう言葉にして生きた。外から「不幸だったに違いない」と決めつけるのは、また別の暴力だと思う。

スタントは他にも細かいことを大量に書いている。宦官はみな前かがみで、歩幅が短く、脚を閉じて爪先を外に開いて歩く。馬に乗るときは鞍を挟まず、短い鐙で上下に跳ねる。服は灰色の長い上着に濃紺の短い上着、先の四角い靴。子どものうちに切られた者の声は若い女性とほとんど区別がつかず、大人になってから切られた者の声はひび割れた裏声になる。

髭は数か月で抜け落ちて、二度と生えない。性格については、こう書いている。西洋の物語に出てくるような血に飢えた宦官像は現実と違う、と。彼が会った宦官たちは、むしろ人当たりがよく、自分より強い相手に取り入ろうとするような態度をとった。些細なことで泣き出し、些細なことで激怒し、そして同じくらいすぐに機嫌を直したのだ。

仲間意識が異様に強く、宦官でない者と揉めると全員で加勢した。盗みを働く者はほとんどおらず、貧しい人に施しをするために小銭を持ち歩いており、小商人は宦官の客を歓迎した。値切らないからだ。「好きなだけ取ってくれ」と言えば、必ず多めに払ってくれる。釣り銭も受け取らない。

そして、身体の欠損に触れることは絶対的な禁忌だった。客が座敷で尻尾のない犬を見かけたら、「尾のない犬」と言ってはいけない。「鹿の尾の犬」と言い換える。取っ手のない急須には触れない。「切る」を意味する字は、別の言葉に置き換える。

賭博と阿片については、スタントは容赦なく書いている。宦官はみな博打を打つ。暇な時間のほとんどを博打に費やす。彼ら自身が「博打をやらなければ楽しみがない」と言っていた。宮中には阿片を吸える場所が七、八か所あって、宦官も、中庭で待たされている官僚も、そこで吸った。

公然の秘密だったが、見て見ぬふりをするのが得策だと考えられていたのだろう、とスタントは書いている。脱走と罰の記録も生々しい。逃げた宦官は専門の役所で罰せられ、一度目は禁錮二か月と杖二十。二度目は首枷二か月だ。三度目は東北への追放二年半。

軽い違反は棍棒による打擲で、四十八の部署から一人ずつ呼び出され、竹を二枚貼り合わせた棒で、八十から百回打たれる。そして三日後、かさぶたが固まったころに、もう一度打つ。苦痛を最大化するためだ。二人が同時に罰せられるときは、互いに打ち合わせた。先に打つほうは、見られているから手加減できない。

あとから打つほうは、自分が打たれた仕返しで力いっぱい打つ。役人はそれを「順番に打つ」と呼んだ。死んだあとの扱いも、家族とは切り離されていた。宦官になることを、当時の言葉では「家を出る」と言った。僧侶になるのと同じ表現である。

そして僧侶と同じように、死んでも一族の墓には入らない。生きているうちから家の外にいて、死んだあとも一族から切り離される。スタントは最後に、こう書いている。良いところと悪いところを差し引きすれば、彼らは普通の中国人と比べて見劣りしない。あれほどの喪失を受けた人間だと思えば、多くの欠点は大目に見たくなるし、軽蔑よりも憐れみの対象だと考えたくなる、と。

この「憐れみ」という言葉が、いま読むと引っかかる。それはそれで、彼らを一段下に置く視線だからだ。

盛られた話、削られた話

ここで一度、資料を疑っておきたい。まず、西洋人の記述には明確な偏りがある。近年の研究、とくにハワード・チャンの仕事はこう指摘している。十九世紀後半に西洋で宦官についての記述が急増したのは、中国を理解するためではない。西洋の読者に向けて、中国を語るためだったのだ。

中国を「去勢された文明」と呼ぶ言い回しが実際に使われた。宦官は、中国という国家が男性性を失って衰弱しているという比喩の材料に使われ、医学写真もその道具になったのだ。一八九六年にフランス人医師マティニョンが撮った写真は、宦官個人の身体を診るためではなく、「中国のどこがおかしいのか」を示すための画像として流通した。スタント自身も例外ではない。

彼は去勢を「社会の汚点」と呼び、キリスト教の光がこれを照らすべきだと書いた。そのうえで、一夫多妻制こそが宦官を生む根本原因だと結論づけ、アメリカのモルモン教徒がこのままだと将来宦官を導入するのではないか、と真顔で心配している。今読むと相当に妙な議論だが、彼はそれを社会改良の熱意でやっている。問題は、この報告が現在でもよく引用されることだ。細部が具体的で、他に代わる史料が乏しいからである。

研究者の中には、引用され続けることでこの偏った史料が正典化してしまったと批判する者もいる。私もこの記事でかなり頼っている。だから、彼の書いたことは「一八七〇年代の北京で、あるイギリス人が、宦官やその周辺の人物から聞き取ってこう書いた」という限定つきで読むべきだ、と断っておく。数字も同じである。

明の宦官が十万人という数字は、どこまでが宮中で、どこまでが地方の職を含むのか、そもそも誰が数えたのか、はっきりしない。死亡率の推計は資料によって二パーセントから七十パーセントまで開く。開きすぎである。統計が存在しない領域で、それぞれの立場の人が、それぞれの印象を数字にしている。もうひとつ、当事者像そのものへの再検討も進んでいる。

メリッサ・デイルは清の内務府文書を使って、宦官の大多数が政治的な力とは無縁の下働きだったことを示した。李蓮英のような例外に引きずられて宦官全体を語るのは、社長の伝記で会社員の生活を語るようなものだ。デイルは同時に、宦官を「第三の性」と呼ぶ現代的な括り方を退けている。彼らは自分を男性だと考えていたし、性のカテゴリーは彼らの経験の中心ではなかった、というのが彼女の見立てである。

一方でハワード・チャンは、去勢が単なる欠損ではなく、新しい男性性を作り出したのだと論じる。宦官は弟子を取り、養子を取り、宦官として自分を再生産した。血のつながりでない継承を「内側から生まれる」と表現する言い方が実際にあった。制度の外から「本来の男性性を奪われた人」と見るか、制度の中で「別の系譜を作った人」と見るか。この対立は、まだ決着していない。

そして最後に、身体への影響についても、素朴な想像は当たらない。二〇一二年に発表された朝鮮の宦官の寿命に関する研究では、系譜資料から追跡できた宦官八十一人の平均寿命が約七十歳で、同じ階層の男性より十四年から十九年長かった。百歳を超えた者が三人き、男性ホルモンが免疫や心血管に与える負荷を示唆する結果として注目された。

もちろん標本は小さく、宮廷勤務という恵まれた生活条件の影響を分離できていないという批判もある。それでも、「去勢された者は弱く早死にする」という通俗的なイメージが、少なくとも単純には成り立たないことは分かる。

ハーレムの黒人宦官と白人宦官

中国だけの話ではない。同じ発明が、地中海の東側でも独立に立ち上がっている。オスマン帝国の宮廷では、宦官が二つの系統に分かれていた。白人宦官はカフカスやバルカン出身で、男性の小姓たちを監督したのだ。黒人宦官はアフリカ出身で、多くはナイル上流の地域から少年のうちに連れてこられた。

当初は白人宦官のほうが格上だったが、十六世紀の後半に逆転が起きる。一五九二年ごろには役割が明確に分けられ、白人宦官は小姓の管理に限定され、黒人宦官がはるかに格の高い後宮内部の管理を担うようになった。その頂点が黒人宦官長、通称キズラル・アガである。正式には「至福の館の長」という。一五七四年、ムラト三世の代に設けられ、ハベシ・メフメト・アガが最初にその職に就いた。

全盛期には、大宰相とイスラム法学の最高権威に次ぐ、帝国第三位の地位とされ、彼の力の源は二つあった。ひとつは宗教財産である。一五八六年、ムラト三世はメッカとメディナのための寄進財産の監督権を黒人宦官長に移した。この財産の管理は、莫大な収入と影響力を意味したのだ。もうひとつは情報の独占で、大宰相と皇帝の間の連絡を取り次げるのは彼だけだった。

中国とまったく同じ構造であり、政治への介入も派手だった。一六一七年にはある黒人宦官長がムスタファ一世の即位を成功させ、一六五一年には別の宦官長が、対立する側について皇太后を殺害している。十八世紀のベシル・アガの時代が絶頂で、大宰相の任免と外交の方向にまで口を出した。ある大宰相が彼を引退させようとしたところ、逆に自分が罷免された。宦官の数も膨らんだ。

セリム一世の時代には四十人ほどだったのが、ムラト三世の時代には千人を超えたと伝わる。オスマンの制度で押さえておくべきなのは、イスラム法が去勢を禁じていたという点だ。だから帝国の内部では原則として行われず、外部から連れてこられた。エジプトや紅海沿岸で、イスラム教徒以外の手を経て、というのが建前だった。禁じられているのに需要がある。

この矛盾を境界の外側に押し出す構造は、他の宗教圏でも繰り返される。引退した黒人宦官長の多くはカイロへ送られ、追放である。ところが彼らはそこで不動産を買い、寄進を設け、地方の名士になった。歴代の元宦官長たちのネットワークが、追放先で機能していた。制度が生んだ人間関係は、制度の懲罰を回避する力にもなる。

一八三〇年代、マフムト二世の改革で寄進財産の監督権が新設の省に移されると、この職の権力は急速に萎む。一九〇八年の青年トルコ革命のあと、正式に廃止された。

天使に似た者たち

ビザンツ帝国の宦官は、また違う顔をしている。まず数が多く、そして地位が高かった。九世紀から十世紀の宮廷では、宦官しか就けない官職が十ほどあったのだ。中でもパラコイモメノスは文字どおり「傍らで眠る者」を意味し、最高の実力者の職だった。ほかに衣装係の長、皇帝と皇后の食卓を司る役、宮殿の管理職、酌人。

ある官職一覧によれば、上級の六十の位のうち五十が宦官に開かれていて、閉ざされていたのは三つだけだった。軍事でも活躍している。六世紀のナルセスは、ユスティニアヌス帝の下で東ゴートやヴァンダルを破り、最高位の栄誉を受けた。宦官が軍を率いて勝つ。中国では唐まで待たないと出てこない光景が、ビザンツでは早くから普通だった。

そして決定的な違いが、宗教である。マタイ福音書には「生まれつきの去勢者もいれば、人の手で去勢された者もいる。天の国のために自ら去勢者となった者もいる」という一節がある。この一句が、ビザンツで宦官の地位を根本から支えた。神学者たちは、玉座を取り巻く宦官を、天上の天使の合唱隊になぞらえた。

どちらも通常の時間と空間の外にいる、というわけだ。十二世紀のオフリドの主教テオフィラクトスは宦官擁護の文章を書き、去勢は魂を損なうものではなく、育った葡萄の木を剪定するようなものだと論じた。聖職者になった宦官も多い。ニカイア公会議は、病気のために医師の手で切除した者は聖職に留まってよいと確認している。ゲルマノス一世、ニケタス一世、メトディオス一世、テオフィラクトス、ポリュエウクトス。

歴代の総主教に宦官がいる。ロマノス一世の息子テオフィラクトスは、十六歳で総主教になった。皇帝の息子が宦官にされ、教会の頂点に据えられる。有力貴族の次男以下を去勢する例は珍しくなかった。中国の貧民の子とはまるで違う階層から供給されている。

法律は建前としては去勢を禁じ続け、ユスティニアヌスは施術者と共犯者に同害報復の原則を適用すると定めた。レオン六世は罰を緩め、死刑ではなく金十ポンドの罰金と十年の追放にした。禁じながら供給し続けるという矛盾は、ここでも同じである。供給源はカフカス、パフラゴニア、アルメニアといった周辺地域だった。第一回十字軍のころ、シャルトルのフルシェリウスはコンスタンティノープルに二万人の宦官がいたと書いた。

この数字が正確とは思えないが、目に見えるほど多かったのは確かだろう。だがこのころ、政治的な力はすでに衰えていた。一二〇四年の陥落と一二六一年の回復を経て、パレオロゴス朝の時代には完全に姿を消していく。西欧の影響で、宦官の身体的特徴が単なる欠点として見られるようになったこと、そして世襲の観念が固まって「子を作れない忠臣」の必要が薄れたことが理由とされる。

朝鮮の内侍府――結婚し、養子を取り、家系図を作った人たち

朝鮮半島の制度は、中国と似ているようで、決定的に違う点がある。高麗の時代から宦官はいた。元との関係の中で、朝鮮半島から中国へ宦官が送られることもあった。朝鮮王朝になると、内侍府という役所に組み込まれる。彼らは内官と呼ばれ、正式な品階を持つ官僚だった。

しかも儒学の経典についての試験があった。宮中の雑務をこなすだけでなく、王の日常を支え、時に王命を伝える。決定的な違いはここからだ。朝鮮の宦官は結婚し、妻を持ち、家庭を営んだ。そして養子を取り、去勢された少年を養子にして家を継がせることもあれば、女児を養女にすることもあった。

血縁ではない家系を作り、その家系図が文書として残された。二〇一二年の寿命研究は、まさにその家系図を史料に使っている。去勢の経緯も中国とは少し違う。事故によって、という語られ方が目立つ。幼いころに犬に噛まれた、といった説明である。

もちろんそれがすべて事実だったとは限らない。志願を事故と言い換える方便だった可能性は十分にある。ただ、そうやって言い換える文化があったこと自体が重要だ。「そうなってしまった人」として受け入れる余地が、社会の側にあったということだから。内侍府は一八九四年の甲午改革で廃止された。

中国より三十年早く、制度としては静かに終わっている。

イタリアの少年たち

そして、これはヨーロッパの話である。十六世紀の半ば、イタリアで、音楽のための去勢が始まった。教会は女性が聖歌隊で歌うことを許さなかった。少年の声は数年で変わってしまう。裏声の歌い手では音量が足りない。

そこに登場したのが、少年の声のまま大人の肺と身体を持つ歌い手、カストラートだった。一五五三年の文献に「男性のソプラノ」という表現が現れる。一五五五年には、ある枢機卿が少年の歌い手の入手について問い合わせている。システィナ礼拝堂の記録に明確にカストラートとして採用された歌手が現れるのは一五九九年、二人の名前が残っている。

教皇シクストゥス五世は一五八九年、サン・ピエトロの聖歌隊をカストラートを含む形に再編した。彼らの身体には、去勢がもたらす特徴がそのまま音楽的な武器になるという皮肉があった。男性ホルモンが働かないと骨端の閉じ方が変わり、手足が長く伸びる。肋骨も伸びる。結果として胸郭が大きくなり、肺活量が桁違いになる。

その巨大な呼吸器官に、子どもの大きさのままの声帯がついている。ありえない声だった。歴史家の推計では、一六三〇年から一七五〇年のあいだ、同時期に数百人のカストラートが活動していた。一六九四年ごろのローマだけで百人ほどいたという。ナポリの音楽院が供給源として有名だった。

成功すれば国際的なスターになる。ファリネッリ、セネジーノ、カファレッリ。セネジーノは貧しい家の出で、成功を期待した親に切られた。カファレッリは裕福な家の出だった。貧困だけが動機ではなかったのは、中国と同じである。

教会は矛盾を抱え続けた。一七四八年、教皇ベネディクトゥス十四世は制限を試みたが、全面禁止は現実的でないとして踏み込まなかった。一八七八年、レオ十三世が新規の採用を禁じる。一八九八年の時点でシスティナ聖歌隊に残っていたカストラートは六人と、指揮者が一人。一九〇二年に再び禁令が出て、一九〇三年十一月二十二日、ピウス十世の自発教令が高音部は少年が歌うべきだと定めて、制度に幕が引かれた。

アレッサンドロ・モレスキという歌手がおり、一八五八年生まれ。一九〇二年と一九〇四年に録音を残した、唯一のカストラートである。録音技術は未熟で、彼自身も全盛期を過ぎていた。オペラの舞台には立たなかった。だからあの音源から、十八世紀の伝説的な歌手の声を想像するのは無理がある。

それでも、あれだけが残っている。一九一三年に引退し、一九二二年に死んだ。イタリアのカストラートを中国の宦官と並べると、共通点が見えてくる。どちらも、貧しい家の少年の身体を、代替のきかない稀少な資源に変える仕組みで、どちらも、その稀少性が高く売れた。そしてどちらも、成功者が一握りで、その他大勢は消えていった。

声が思ったほど良くならなかった少年たちがどうなったかは、ほとんど記録されていない。

なぜ人類は、同じ制度を何度も発明したのか

中国、オスマン、ビザンツ、朝鮮、ベトナム、ムガル。互いに独立に、あるいは緩やかな影響関係の中で、似た制度が繰り返し現れた。偶然にしては多すぎる。理由の第一は、権力者が抱える根本的な矛盾にある。権力者は、自分の身近に人を必要とする。

着替えを手伝い、食事を運び、寝室の外で番をし、伝言を運ぶ人間が要る。だがその人間は、権力者の秘密をすべて知ってしまう。しかも身分の高い者に任せれば、自分の一族の利益を優先しはじめる。低い身分の者に任せれば、成り上がって一族を作りはじめる。去勢は、この矛盾に対する残酷な解決だった。

子を持てない者は、王朝を作れない。相続させる相手がいなければ、蓄財の動機も薄れる、と考えられた。実際には養子を取り、一族に地位を配り、莫大な財を貯め込んだ者がいくらでも出たのだから、この前提は間違っていたのだ。だが為政者はこの理屈を捨てなかった。二千年、捨てず、理由の第二は、後宮の存在である。

スタントの見立てはここに集中している。一夫多妻の宮廷は、大量の女性を一箇所に囲い込む。そこに男性の使用人が必要になったとき、血統の純粋性を守るという名目で去勢が要請される。世継ぎが誰の子かを疑わせないための装置。これは中国でもオスマンでも同じだ。

中国の宮中では、皇帝が妃の一人を呼んだ日付と名前を宦官が帳簿に記録し、皇帝が署名した。生まれた子の正統性を、その帳簿が保証する。宦官は、血統管理システムの一部品だった。理由の第三は、需要が供給を生む経済の話だ。制度が続くと、それを担う職業が生まれる。

刀子匠のような世襲の専門家、仲介者、保証人、送り出す村。清代の宦官の大半が直隷、とくに河間府や北京周辺の限られた地域から出ていることは、これが個別の悲劇ではなく地域産業になっていたことを示している。当時の中国人は「あそこの人間は宦官になりたがる」と言ったが、スタントはそれを否定して、最初は強制だったものが「習慣」に固まっただけだと書いた。この見方は正しいと思う。

何世代も続いた選択肢は、いつのまにか文化になる。そして、当事者の側の意味づけがある。これを抜かすと片手落ちになる。飢えている家にとって、これは唯一の上昇経路だった。土地も学問も持たない家の子が、皇帝の隣の部屋で眠る仕事に就ける。

ほかにそんな道はない。宦官になって成功し、故郷に錦を飾った人物が一人でも村にいれば、その村からは次の少年が出る。孫耀庭の家がまさにそれで、宦官たちは、宦官としての人生の中に、独自の価値の体系を作り上げ、守り神を祀った。師弟関係を親子になぞらえ、寺を建て、墓を作り、老後の互助を組織した。北京の田義の墓のように、立派な墓所を残した者もいる。

壺の縁起担ぎもその一部だ。切られたことを不幸として抱え込む代わりに、「昇進」と「発財」の言葉に結びつけた。これは弱さではなく、生き延びるための技術だと思う。

で、結局なぜ怖いのか

去勢そのものの痛さが怖いのではない。それなら、ただの残酷な話で終わる。怖いのは三点だ。ひとつ。この制度は、誰も悪人でなくても回る。

刀子匠は家業を継いだだけだ。親は子を食わせようとしただけである。皇帝は信頼できる従者が欲しかっただけだ。官僚は宮廷の秩序を保とうとしただけだ。誰の動機も、単体では極端に邪悪ではない。

それが噛み合うと、八歳の子どもが三日間水を飲めずに横たわる。悪意なしで動く残酷さは、悪意のある残酷さより止めにくい。ふたつ。この制度は、失ったものを縁起物に変換する仕組みを内蔵していた。壺を高い棚に置くのは、失ったものを「昇進」に変えるためだ。

制度は罪悪感を管理する。当事者に「これは損失ではない、資産だ」と言わせる。そう言えるようになった人だけが、その先を生きられる。この意味づけの上手さが、制度を二千年もたせた。上手さそのものが恐ろしい。

みっつ。終わり方だ。一九二三年七月十六日、雨の中で放り出された千百三十七人は、制度が消えても身体は戻らない。孫耀庭の父が泣いたのは、そういうことだ。制度は人の身体を作り替えておいて、いらなくなったら解散する。

作り替えられた側は、そのまま七十年生きなければならない。そして最後に、壺のことをもう一度考える。あの壺は、この制度がいちばん露骨に人間くさくなる場所だった。他人のものを借りてでも棺に入れたかった。文革の最中に家族が捨ててしまったことを、九十過ぎまで悔やんだ。

制度がどれだけ人を部品として扱っても、部品の側は、自分が完全な人間として埋葬されることを最後まで諦めなかった。怖いのはたぶん、そこだ。制度が非人間的だから怖いのではない。制度の中で、人間が最後まで人間であろうとし続けた記録が残っているから、怖い。ここから先は、本編に収めきれなかった話と、書き終えてから気になったことをまとめて置いておく。

「宝」という言葉の設計思想について

もう一度、あの壺の話に戻りたい。中国語で「宝」は宝物であり、同時に子どもや大切な人を呼ぶ愛称でもある。切り取られた身体の一部にこの言葉を当てたのは、単なる婉曲表現ではないと思う。婉曲表現なら、もっと無味乾燥な言い方がありえた。実際、宦官のことを指す言葉には、事務的なものから侮蔑的なものまで幅広い階層がある。

スタントによれば、いちばん下品な呼び方は面と向かって使ってはならない禁句で、本人のいない場所でしか口にされなかった。南方の人間が他人に対してその手の言葉を使うと、最大級の侮辱になった。そういう語彙の体系を持つ言語が、切り取られたもの自体には「宝」という最上級の褒め言葉を当てている。これは反転させることで扱い可能にする技術だ。失ったものを「失われたもの」と呼び続けたら、毎日それを見るたびに傷が開く。

だから「宝」と呼び、高い棚に上げ、昇進と結びつける。忌まわしいものを縁起物に反転させる操作は、日本の民俗にも似た例がいくらでもある。忌み言葉を裏返して使う、といったやつだ。面白いのは、この反転が国家によって公認されていたことである。昇進のたびに「宝を検める」儀礼があるということは、国家がこの縁起担ぎを制度に組み込んでいたということだ。

個人の慰めが、そのまま人事管理の手続きになっている。個人の心の処理と行政手続きが同じ物体を使い回している例を、私は他にあまり知らない。そして買い戻しと貸し借りの話。ここが一番いい。壺を持っていない者は買う。

買えない者は借りる。借りて返す。人間の身体の一部が、賃貸市場を形成する。もはや儀礼の重みも何もない、実務である。この乾いた実務性が、逆にリアルだ。

神聖なものは、日常の中で必ず事務になる。

誰が数えたのか、という問題

数字について、もう少し粘っておきたい。この記事で私は、明の宦官が七万から十万、清の最盛期が三千前後、清末で八百から九百、一九二三年の解雇が千百三十七人、といった数字を並べた。だが、この四つの数字は信頼度がまるで違う。いちばん信用できるのは一九二三年の千百三十七人だ。近代の行政文書があり、報道もあり、当事者の回想もある。

次が清の内務府の記録に基づく数字で、これは実際の給与支払いや人事の記録から積み上げられているから、かなり堅い。メリッサ・デイルの仕事はここに立っている。怪しくなるのが明の十万である。この数字が何を数えたものなのか、はっきりしない。宮中に常駐した者だけなら一万台という記述もある。

十万というのは、全国の鉱山監督や税関や地方の監軍まで含めた、宦官という身分の総数の推定なのだろう。だがその推定を誰がどうやって出したのか。明代の文人が書いた数字を後世が引き写した可能性は高い。そして明の文人は、宦官を憎んでいた。憎んでいる相手の数は、多めに見積もられる。

死亡率にいたっては、もはや数字と呼べるものではない。四人に三人が死ぬという話と、百人に二人という話が同じテーブルに載っている。前者は伝聞、後者は現地での聞き取り。どちらも統計ではなく、ただ、傾向としては言えることがある。十七世紀のヨーロッパ人が書いた数字ほど高く、十九世紀に現地で聞き取った数字ほど低い。

距離が遠いほど数字が跳ね上がる。これは資料批判の教科書みたいな現象だ。数字を疑うのは、この制度を軽く見るためではなく、逆だ。数字が大きいから怖い、という語り方をすると、数字が小さかったと分かった瞬間に話全体が崩れる。千百三十七人が雨の中に立たされたという事実は、それが十万人でなくても十分に重い。

中国以外の制度の、それぞれの「抜け道」

地域ごとに、制度が抱えた矛盾の逃がし方が違っていて、そこが面白い。オスマンの逃がし方は、地理だった。イスラム法が去勢を禁じているから、帝国の中心では行わない。外から連れてくる。エジプトや紅海沿岸で、非ムスリムの手を経て。

禁止と需要のあいだの矛盾を、国境の外に押し出して見ないことにする。現代の産業にもよくある構造で、汚れる工程だけを外に出す。ビザンツの逃がし方は、神学だった。福音書の一句を根拠に、去勢者を天使になぞらえる。地上の秩序の外にいる存在として位置づけ直す。

だから宦官は総主教にも将軍にもなれた。中国では宦官が士大夫から徹底的に見下されたのに、ビザンツでは貴族が自分の次男を宦官にした。同じ身体の状態が、片方では最下層の印になり、もう片方では宮廷キャリアの入場券になる。朝鮮の逃がし方は、家族だった。宦官に結婚を許し、養子を認め、家系図を作らせた。

祖先祭祀を重んじる社会で、祭祀を継ぐ者を確保させたわけだ。中国の宦官が抱えた「家が絶える」という恐怖を、制度の側が最初から解消していた。これはかなり合理的な設計に見える。イタリアの逃がし方は、否認だった。誰も「音楽のために切った」とは言わない。

イノシシに噛まれた、馬から落ちた、病気だった。教会も知っていて知らないふりをした。禁令を出しながら、聖歌隊にはカストラートがいる。この百五十年以上にわたる集団的な見て見ぬふりが、ヨーロッパの音楽史を作った。四つ並べると、どの社会も「これはまずい」と分かっていたことが見えてくる。

分かっていて、それぞれのやり方で見ないようにした。制度を可能にしたのは無知ではなく、うまい言い訳のほうだ。

宦官たちが作った、もう一つの家族

もう少し、当事者の側の話をしたい。宦官は血縁を持てない。だが人間関係を持てないわけではなかった。中国の宮中では、新入りは必ず先輩の宦官に弟子入りする。師匠は技術と作法を教え、宮中の政治を教え、出世の道をつける。

師匠に気に入られなければ昇進はない。この師弟関係は、事実上の親子関係として機能した。そこから発展して、養子を取る宦官が現れる。財産を継がせ、墓を守らせるためだ。中国の宦官は自分の甥を後継ぎにすることが多かった。

血のつながりを迂回して確保するやり方である。ハワード・チャンはこの点を重視して、宦官は自分を宦官として再生産していた、と論じる。血ではなく、宮廷という場所を通じて次の世代が生まれる。北京の郊外に恩済荘という宦官の墓地があり、明代の宦官である田義の墓は今も残っている。彼らは共同で墓地を維持し、寺に寄進し、老後の面倒を見合った。

スタントが「彼らは異様に仲間意識が強い」と書いたのは、この互助の裏返しだ。宦官でない者と揉めれば全員で加勢する。それはただの結束ではなく、他に守ってくれる者がいない人間たちの、最低限の生存戦略だった。だから、宦官を「孤独な去勢者」として描くのは、たぶん半分しか当たっていない。彼らは家族を持てなかったが、家族に似たものを作った。

その作り物のほうが、実際の家族より頼りになった場面もあっただろう。少なくとも孫耀庭は、養子を取り、寺に居場所を得て、九十三年生きた。

現代がこの話をどう扱っているか

最後に、この題材が現代でどう消費されているかにも触れておきたい。宦官は、いま中国の時代劇やアニメの定番キャラクターである。後宮ものが流行するたび、宦官という設定が便利に使われる。その大半は、去勢の実態にはほとんど触れない。触れないほうが物語として都合がいいからだ。

一方で、二十世紀の前半には、まったく逆の消費のされ方をしていた。西洋の医学書や旅行記や新聞が、宦官の身体を「中国という国家の病理」の証拠として使ったのだ。写真を撮り、寸法を測り、分類した。そこには一人の人間としての宦官はいない。文明を診断するための材料があるだけだ。

どちらも、当事者を素材にしている点では同じである。片方は物語の素材にし、もう片方は診断の素材にした。この記事も、そこから完全には自由ではない。私はこれを「怖い風習」の記事として書いている。読み物として面白くしようとしている。

その時点で、私も彼らを素材にしている。だからせめて、彼らの言葉を残しておきたい。「たったひとつの快楽を手放すだけで、あれだけ多くのものが手に入るなら、大したことではないように思えた」と言った男がいた。三日間水を飲まずに耐えて、噴き出す水の音を聞いて生き延びた少年たちがいたのだ。壺を借りて検分をやり過ごした男たちがいた。

文革の最中に壺を失って、それを九十過ぎまで悔やんだ老人がいた。彼らは被害者であり、当事者であり、そして自分の人生を自分なりに意味づけて生きた人たちだ。その三つを同時に見ておかないと、この話は「昔の中国はひどかった」という薄っぺらい感想で終わってしまう。それがいちばんつまらないし、いちばん失礼だと思う。制度は一九二四年に終わった。

壺のいくつかは、たぶんまだどこかにある。中身のないまま、蓋を閉じて。

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