目録の一行目は、承平五年の巻物だった
滋賀県が指定する有形民俗文化財の目録がある。蛭谷と君ヶ畑に伝わる木地師の文書を、綸旨から木札や印鑑まで、一点ずつ並べたものだ。いちばん上に載るのは、朱雀天皇綸旨。巻物が一巻。日付は承平5年で、西暦に直せば935年、正史の薨去から38年あとの日付になる。
文面の肝は一文にある。木地師を器の統領として諸国の山に入らせ、西は櫓櫂の立つほど、東は駒蹄の通うほど許す、という趣旨だ。日本中どこの山でも木を伐ってよい。そう読める一枚の紙が、椀や盆を挽く職人の手元で、何十年も生きていた。たかが紙一枚だ。
目録の二番目は、正親町天皇綸旨で、元亀3年(1572年)の日付がある。三番目は織田信長の免許状、四番目は豊臣秀吉の免許状で、天皇と天下人が順番に、木地師の味方についた格好になる。並びだけ見れば、これ以上ない後ろ盾だ。
ただ、この並びには引っかかる点がある。信長の免許状と呼ばれる文書の日付は天正11年(1583年)で、本能寺の変の翌年にあたり、署名は家臣の丹羽長秀だ。民俗の事典は、長秀がその年は賤ヶ岳の戦いなどで奔走していたことも挙げて、この日付の不自然さを指摘している。
福井県史も、古い綸旨の写しには疑わしいものがあると書く。一方で、長秀の免許状と天正15年(1587年)の増田長盛の安堵状は、越前に伝わる関係文書の写しとして挙げている。疑う側も、全部を偽と切り捨てているわけではない。まあ、写しが本物かどうかと、その写しが働いたかどうかは、別の問いだ。
偽作と考えられている文書が、なぜ効いたのか
歴史学者の間では、これらの綸旨や免許状は偽文書とされる。蛭谷の筒井神社の神主だった大岩助左衛門重綱が、江戸時代に作ったものが多いと考えられている。2022年に吉川弘文館から出た研究書が、その見方を取る。筒井の里の紹介記事は、大岩氏がかつて小椋を名乗り、領主の小倉氏をはばかって改めたと伝える。親王伝説も大岩氏が仕立てたと見る向きがある、と同じ記事は書く。
木地師の側から見ると、話は少し違ってくる。同じ内容の写しが、四国、中国、信州、東北と全国の家から見つかるからだ。近江の本元から配られた写しだと、中身で分かる。出どころは、小椋谷。
写しそのものに、特権を保証する力があったわけではない。それでも、前例に従って里の人や領主が扱ううちに、本物の効き目が生まれた。宮本常一の『山に生きる人びと』に拠った解説は、そう整理している。紙は、扱われ方で本物になった。
島根の研究者が書いたコラムに、安政年間の信州の山で、村役人が山入りの証文への署名を求めた話が出てくる。喜内という木地師は、署名すれば綸旨免許を取り消すことになる、と言って断ったという。騒ぎは領主の役所と近江の本元の神社まで及び、喜内はその土地から姿を消した。出どころは『大鹿村史』。
本物かどうかを争う学者の横で、その紙を命綱にした人がいた。喜内にとって、あの巻物の写しは偽ではなかった。ここからが厄介な話になる。
親王の没年は、地元と正史で十九年ずれる
紙の元になった人物を見ておく。惟喬親王は文徳天皇の第一皇子で、承和11年(844年)の生まれだ。第四皇子の惟仁親王、のちの清和天皇が皇太子に立ち、親王は皇位に就けなかった。
官歴は六国史から拾える。天安2年(858年)に14歳で大宰権帥、貞観5年(863年)に弾正尹、翌年に常陸太守になった。貞観14年(872年)には上野太守を兼ね、同じ年の7月に出家している。薨去は寛平9年(897年)、享年54。
地元の案内は、別の年を挙げる。貞観元年(859年)に側近とともに小椋谷へ着き、薨去までの19年をここで暮らした、と書く。859に19を足せば、878年だ。
この878年は、思いつきの数ではない。筒井の里の石柱に、延宝6年(1678年)の日付で「素覚法師八百年会式塔」と刻まれている。素覚は親王の法名で、1678から800を引くと、やはり878になる。願主は大岩助左衛門。その年は全国の木地師が筒井に集まり、餅八百を供えたと伝わる。
小椋谷には17世紀の時点で、没年を878年とする数え方があった。正史の薨去とは、19年の差が出る。念のため断っておくが、官職の記録は居場所の記録ではないので、この差だけで伝承が崩れるわけではない。
命日も食い違い、正史は寛平9年2月20日、小椋谷は11月9日だ。墓も一つに決まらない。京都の大森にも墓と伝わる寺があり、筒井峠にも君ヶ畑にも墓所がある。紹介記事は、政所の八幡、京都の北山と大原、美濃の山奥にも親王の墓があると数える。よほどの人気者だった、というわけだ。
轆轤を思いついた場面も、よく語られる。東近江市の案内は、転がって広がる経の巻物と、池の面で回るドングリの帽子を見て、親王が椀を作ろうと考えたと書く。地元の別の案内は、法華経の巻軸が回る原理を挙げる。
話は絵になる。けれど轆轤の技は、親王より前に近江にあった。正倉院文書の天平6年(734年)の記録に、近江の轆轤工二人へ粮米を給する、という項目がある。親王が生まれる110年前の記録。
親王の名は後から結びついた、という見方もある。木地師の項目は、一つの説を紹介する。小椋庄は親王の子とされる兼覧王にゆかりの所領で、のちに由緒を親王へさかのぼらせたというのだ。山川の日本史小辞典は、蛭谷の大岩氏が近世の初めに伝承を作って広めたと考えられる、と書く。
筒井の里の紹介記事によれば、親王と小椋谷と木地師を結ぶ話が文字になったのは、17世紀の前半だ。親王の没後、七百年以上が過ぎていた。巻物の「御縁起」も、近世の制作だと推測されている。
君が代の歌は、君ヶ畑の名の由来にされた
伝承は、年を経るほど肥える。君ヶ畑の観光案内には、君が代にまつわる話が載る。親王の側近の藤原定勝が、岐阜の春日村という木地師の村でさざれ石を見つけ、「我が君は」の歌を詠んだ。その「君」が君ヶ畑の親王を指すので、小松畑と呼ばれた土地が君ヶ畑になった、という筋だ。
春日村のさざれ石公園の案内板にも、同じ話が触れられている、らしい。ちなみに、親王の項目には別の名が出てくる。木地師の藤原朝臣石位左衛門が、仕えていた親王に詠んだ歌だ、という説だ。話の骨組みは同じで、側近の名だけが違う。
地名にも、似た話がある。犬上郡の大君ヶ畑、いまの多賀町も、親王の流離譚に由来する名で、君ヶ畑と混同されやすい。加賀の山中温泉の真砂地区では、親王を奉じる平家の落人の村だと伝わり、山中漆器の源になったという。山奥へ逃れた貴人の話は、場所を変えながら増えていった。
筆者の見立てを書いておく。名前が揺れるのは、話が土地ごとに作り直されている証拠だ。確かめられる事実は、君が代の作者が不明とされてきたことと、その空白に木地師の話が入り込んだことまでになる。
二人一組の巡回人は、菊の紋の提灯を提げていた
蛭谷は、かつて筒井千軒と呼ばれた。人口は蛭谷で2800人、君ヶ畑で600人と伝わる。千軒址とされる場所は、いまは杉の林で、紹介記事は千軒を収めるには狭すぎると書く。
由緒は、使われて初めて金になる。蛭谷では氏子駈、君ヶ畑では氏子狩と呼ぶ。小椋谷から二人一組の巡回人が出て、全国の木地師の山を訪ねる制度だった。九州の宇佐八幡宮の氏子巡りをまねたものだ、と伝わる。
巡回人は小椋の名字と刀を許され、十六弁の菊の紋が付いた絵符や提灯を持った。公文所の御用と記した木札と、印鑑も携えた。間隔はおよそ5年から10年。一つの地方を回るのに、3か月から6か月かかった。回る前には、行き先の村へ先触れの廻状を渡したという。
集めたのは、初穂、烏帽子着の料、儀式の料といった寄進だ。名目は神社の修理や建て替えだった。文化13年(1816年)の筒井八幡の建て替えには、36か国の3600人あまりが費用を納めた、と氏子狩の項目は書く。
氏子駈帳には必ず序文が付き、その回の巡回の目的が書かれた。本山がいちばん勢いのあった時期は、徳川の中期から末期までの約150年だと、筒井の里の紹介記事は書く。
払う側にも見返りがあった。往来手形や宗門手形、神札、鑑札を受け取れ、山から山へ渡る者にとっては、身元を保証する紙こそ必要だった。地方の木地師は、本山を一生に一度は訪ねたいと願ったという。解説サイトは、隠れて仕事をする者や、別家して届けない者を、巡回人が見張ったとも伝える。
福井の県史には、数字が出てくる。蛭谷の氏子狩帳には、越前へ8回、若狭へ17回の巡回が記される。大野郡の小沢村に住んだ木地師の家には、木の氏子札が五枚。文化10年(1813年)から明治5年までの氏子札のほか、天保14年の往来手形と、弘化4年の宗門手形も残る。
島根の益田市の広報は、氏子駈帳から匹見に逗留した450人あまりの木地屋を確かめられる、と書く。山陰の山あいまで、二人組は歩いたわけだ。
同じ元禄七年に、二つの村が帳面を始めた
氏子駈の帳面は、現存する最古のものが正保4年(1647年)だ。蛭谷が先で、君ヶ畑は約50年遅れて始め、元禄7年(1694年)の帳面が君ヶ畑のいちばん古い帳面になる。
蛭谷の日記は、別の話をする。33代目の大岩助左衛門重綱が元禄8年(1695年)にまとめたもので、廻国は天正年間に始まったと書いてあるという。現存する帳面より、70年は古い。確かめる帳面のない年を、日記だけが語っている。
蛭谷の側にも、その元禄7年の動きがある。この年の3月5日の日付をもつ石碑に、惟喬親王御廟、筒井正八幡宮、日本国轆轤師等鎮守と彫られている。君ヶ畑が帳面を始めた年に、蛭谷は親王の廟を打ち出していた。
地名も落ち着かない。蛭谷の名そのものが、この時代に揺れている。紹介記事によれば、寛文年間には筒井村、のちに昼滝、元禄年中から昼谷と改まった。ヒルが多いので蛭谷と書くようになった、とも伝わる。
背景には本所の争いがある。蛭谷は吉田家、君ヶ畑は白川家の系統で、どちらも自分こそ親王の社だと名乗り、各地の木地師を取り合った。氏子狩の項目は、両社が時に偽造文書も出して競った、と書く。
君ヶ畑の側の目録には、白川の神祇伯の下知状(明和元年)と、日本国々の木地師の配下をめぐる一件(文化2年)がある。文化4年には御公儀の裁許が出て、文政8年に両村は和解した。君ヶ畑は朝廷との縁も手放さず、文政6年(1823年)に禁裏御所へ御祈祷札を献上する習わしを再開している。
もう一つ、順番に気になる点がある。筒井八幡の神主は、全国の木地師が一年ずつ交替で勤める決まりで、天文年間にはもう行われていたという。君ヶ畑も、本居宣長の『玉勝間』によれば、村の民が代わる代わる一年ずつ神主になった。
筒井八幡の側は、それが慶安2年(1649年)に、常時の神主を置く形へ変わる。最古の氏子駈帳の、2年あと。
筆者の見立てを書く。神主の席が一つの家に固まった時期と、帳面が始まる時期が近いのは、偶然には見えない。氏子の数が収入になるなら、看板は固定した家が握るほうが得だ。伝承は役に立つから残った、という見方に、この年表は合う。
偽文書で権威を盛る流儀は、本所のほうがずっと古かった。宗教学の論文によれば、吉田家は応安4年(1371年)ごろに綸旨を偽作している。神祇伯を務めた先祖がいたと言うためで、その先祖の歴任も史実ではないという。
七合目より上、という線引き
木を伐ってよいのは、七合目より上。八合目とする文書もある。麓の村の山には手を出さない約束に見える。島根の研究者は、ここに疑問を持った。全国の山を自由に使える権利が本当にあったなら、領主や村の林野の所有と衝突するはずだ、と。
木地家に伝わる文書を引いた紹介記事が、その線の内側の掟を伝える。男の子が鉋を使えるようになると、本山へ出向いて烏帽子の儀を受ける。蛭谷の不動滝で身を清め、神前で名を告げて小椋の姓を名乗り、免許状と一台の轆轤を渡されて、初めて一人前になった。
弟子を他人に取ることは、なかった。尊い血を受けた者の仕事だから、継ぐのは息子か一族に限る、という理屈だ。二人挽きの轆轤は、一人が綱を引き、もう一人が鉋を当てる。協力者がいなくなれば、権利も返した。
聖地の側にも、禁忌があった。紹介記事によれば、親王の命日の11月9日、蛭谷の男たちは斎戒沐浴をして白布で口を覆い、無言で掃除をする。筒井峠の御陵には、女の入山を絶対に許さない。君ヶ畑の正月三日の神事も、2010年代の紹介記事では女人禁制と書かれている。
木地師の村は、40か国にまたがる。木地師制度を研究した歴史学者は、戦前の町村の数で、確かめられただけで1414を数えた。根は近江の4系統と、大和の1系統。小椋谷だけが元だった、とは言い切れない。幕末には、東北から宮崎まで7000戸ほどが散っていたと言われる。
木地師は、木を伐り尽くすと山を移った。数年から10年ほどで動いたと言う人もいれば、20年から30年と言う人もいる。小椋谷そのものも、原木が足りなくなって人が出ていき、近世の初めには木地師が途絶えた土地だった。
近江の戦国大名の蒲生氏郷は、天正18年(1590年)に会津へ移った。君ヶ畑から多くの木地師を連れて行ったと、愛知学泉大の研究者は話す。江戸時代には小椋谷の奥の銀山が栄え、精錬の炭のために木が伐られ、木地師には致命的だったはずだ、という談話もある。
伐ったあとの決まりも、あった。歴史学者によれば、伐り跡に御礼杉として杉や檜を植える習わしが、日本の森の形づくりに役立った。奪うだけの職人ではなかった、らしい。
その年だけ、過去帳に三十四人の名が並んだ
山の暮らしの値段は、別の帳面に出る。揖斐川の上流、美濃の小津村に、洞泉寺という寺がある。そこの過去帳は、木地屋の戒名の上に山の字を付けて区別していた。檀家寺は臨済宗の寺で、木地屋は真宗だという通説とは違っていた。
享保年間の20年分を数えると、木地屋の記載は年に0人から8人の間に収まる。ところが享保18年(1733年)だけ、34人の名が載る。その年の過去帳には、大雪のなだれで不幸にも亡くなった、という趣旨の理由が添えられていた。
小屋を掛け、木を伐り、轆轤を挽く。材がなくなれば次の山へ移る。そういう暮らしの隣に、雪崩はいつもあった。冬の事故のために尾根道を使うようになった、という話も伝わるが、これは裏が取れていない。
この論文は、帳面の穴も示している。氏子狩帳から数えると小津の木地屋は17世紀後半に六軒前後だが、延宝年間の文書には、その3倍にあたる18軒が見える。帳面に載らなかった木地屋が、多かったことになる。
帳面の数も、書き手によってずれる。蛭谷の分は、32冊とする解説、34冊とする新聞、35冊とする学会誌がある。名前の人数は4万9990人と4万8500人に割れ、新聞は両村の合計を延べ約3万人と書く。君ヶ畑の分も51冊と53冊に分かれる。数え方の違いかもしれない。
四万を超える名前は、全員の数ではない。帳面の向こうには、数えられなかった人がいる。
戸籍が来た年、山の許可状は紙切れになった
木地師は、誇り高い人々だったと伝わる。解説サイトによれば、農家との結婚を位が落ちるとして好まず、同族で縁を結んだ。転職も、祖先の伝統を捨てることとして嫌った。一度よそへ去れば、墓参りには戻らないのが普通だとも書く。一代のうちに山々を渡る暮らしでは、墓参は事実上できなかったからだ。
江戸の末には、足元が崩れていた。里の百姓が山に入って木地を作るようになり、木地師と利害がぶつかって、領主も定住する村人との関係を重く見た。県の目録には、木地職の困窮を訴える文書が四枚あり、文化12年から慶応元年にわたる。18世紀に材が尽きた土地では、百姓に転じた者が寄進を断り、巡回も次第に途絶えたと、解説サイトは見る。
明治になって、山は官のものと民のものに分けられた。地租改正で地券が配られると、日本中どこの山でも伐ってよいという綸旨は、効き目を失った。新聞のコラムは、山林の国有化と皇室財産化が進み、木地師は次々に廃業したと書く。
明治5年に戸籍が作られる。木地師の多くは、本籍を蛭谷か君ヶ畑に置いていた。解説サイトによれば、動き回る暮らしは徴兵や納税の義務を逃れていると見なされ、官林を伐った罪を言い渡される者も増えた。
県の目録には、伊予の木地職の戸籍の控がある。日付は明治5年。会津郡の木地師の戸籍は、明治7年。人別送りの一札もある。全国から問い合わせが小椋谷の戸長役場へ届き、役場は手を焼いた、と解説サイトは伝える。
山を下りた者は、温泉地や村に定住した。民俗の事典は、山論で木地屋が不利になったのが背景にあると見る。里で客と顔を合わせるようになった職人が、湯治客の土産として木の人形を作った。こけしの始まり。
宮城の白石には、小野宮惟喬親王神社がある。弥治郎こけしの産地の近くで、通称はこけし神社。蛭谷の資料館にも、東北のこけし工人が筒井神社へ納めたこけしが並ぶという。君ヶ畑の境内には、轆轤と万年筆の碑まである。山を下りても、親王の名はついてきた。
明治15年、蛭谷で惟喬親王の千年祭が営まれた。何千人もの木地屋が集まったという。親王の没年を878年とする小椋谷の数え方なら、1004年目にあたる。翌年には君ヶ畑も千年祭を開いた。君ヶ畑の大皇大明神が器地祖の三字を加えて改称したのも、この明治15年だ。
氏子駈帳の最後の記録は、明治26年。同じ年に、内務省が君ヶ畑の社へ保存金を百円、下付している。氏子狩は明治20年代に行われなくなったと、東近江市の案内は書く。
帳面を見に来る人がいる
木地師の研究は、明治の中ごろに始まった。御料局の職員だった田中長嶺が、明治33年に『小野宮御偉績考』を出した。昭和34年には橋本鉄男が君ヶ畑で、氏子狩帳を新たに多数確かめている。
昭和30年に、国は「木地屋の生活伝承」を記録作成の対象に選び、『木地師の習俗』は三冊にまとまった。平成30年度には、小椋谷が日本森林学会の林業遺産に認定された。認定文は、金銭を集める一方で手形や免状を出し、木地師社会の保護を担った、と氏子狩を評する。何をもって発祥の地とするかは、定説に至っていないとも書く。
蛭谷の木地師資料館は、昭和54年に文化庁の助成で建った。氏子駈帳のほか、往来手形や木札、印鑑が並ぶ。手挽きの轆轤は、昭和40年ごろまで使われていたと、紹介記事は書く。筒井神社の拝殿の扁額は、東京都金属加工挽物協同組合の奉納だ。
毎年7月の海の日には、惟喬親王祭が開かれ、全国の現役の木地師が集まるという。君ヶ畑には明治の初めに65軒、約620人が住んだが、いまは12軒、16人だと、2020年の記事は伝える。蛭谷の資料館には、四万を超える名前を記した帳面がある。祖先の名を探しに、子孫が訪ねてくることがあるらしい。
