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幕府の役人は、王子の狐火を見に来ていた――大晦日の榎に狐が集まるという話は、いつ、誰のために語られたのか

道ばたに、榎の代わりの碑が立っている

王子二丁目の道ばたに、小さな社が一つある。装束稲荷神社という。社のそばには、「装束榎」と刻んだ碑が一基。

碑があるのは、肝心の木がもう無いからだ。榎は明治の中ごろに枯れた。昭和4年(1929年)には道路の拡張にともなって切り倒され、碑と社はそのあとで道ばたに据えられた。

ただし、経緯は資料によって書き方が違う。ニッポンドットコムの連載記事は、地元の人の話として、切り倒したあとに地域で不幸が続き、祟りと恐れられたと書く。そこで新しい榎を植え、その横に装束稲荷神社を建てたという。確かめる材料は、筆者は見つけられていない。

伝わる話はこうだ。大晦日の夜、関八州の狐がこの榎の下に集まる。そこで装束を改めて、王子稲荷へ参る。そのとき灯る狐火の数を近在の農民が数え、翌年の豊凶を占った。

木が消えても、話は消えなかった。いまも大晦日になると、この場所から狐の行列が出る。

断っておく。話そのものには、いつ誰が見たという日付が付いていない。あるのは絵と文書と、新しい行事の記録だ。それを古い順に並べてみる。

狐は口もとに小さな火を浮かべていた

いちばん知られた手がかりは、歌川広重の浮世絵だ。『名所江戸百景』の一枚で、題は「王子装束ゑの木大晦日の狐火」という。安政4年(1857年)の作で、世に出たのは9月。

シリーズの第118景にあたる。太田記念美術館は、これを全体で唯一、現実ではない伝承の情景を描いた作品だと紹介する。

大判の錦絵で、縦37.4センチ、横25.3センチある。いまは東京国立博物館が所蔵している。江戸東京博物館の資料情報では、版元は魚屋栄吉、改印は安政4年9月。

画面の奥には、小高い丘がシルエットで沈む。丘の上が王子稲荷だ。手前の榎のまわりに狐が群れ、どの狐も顔のそばに狐火を浮かべている。

東京国立博物館の解説文は、伝承をこう書く。大晦日の夜、大榎のもとに何千という狐が集まり、木を飛び越えて高さを競った。そのあと宮廷女官の装束に着替えて、王子稲荷へ向かったという。

浮世絵を読み解く個人のブログには、別の指摘があった。命婦の装束姿は人の目に見えないので、絵の狐は素の狐のままだ、という読みだ。この絵は実景ではなく、構想図だとも書いている。

広重は、この絵の翌年にあたる安政5年(1858年)に亡くなった。シリーズの目次では、この一枚が最後に置かれる。

王子の狐を描いた浮世絵は、これ一枚ではない。卒業研究が参考に挙げる絵には、広重の『江戸名所道戯尽』にある「王子狐火」や、昇斎一景の「東京名所三十六戯撰」の「王子」がある。江戸から明治にかけて、王子の狐は何度も絵になった。

土民は火影で翌年の豊凶を卜った

広重より二十年あまり前に、江戸の地誌がこの話を載せている。斎藤長秋が編み、長谷川雪旦が絵を描いた『江戸名所図会』だ。刊行は天保5年から7年(1834年から1836年)。

王子稲荷の項は、おおよそこう書く。毎年十二月晦日の夜、諸方の狐がおびただしく集まるのは恒例で、いまもそうだ。灯した火影を見て、土地の者は明くる年の豊凶を占うという。

図会の記述を紹介する資料では、火の連なりは松明や蛍の飛ぶさまに似ていて、その違いで豊凶が分かると読める。現代語の紹介には、狐が官位を決めるために集まる、と書くものもある。農民にとって狐火は、天気予報に近い存在。

図会には、榎を描いた図版も入っている。題には「装束畠」と「衣装榎」の語が並ぶ。榎の名は、絵巻の91年後にあたる享保17年(1732年)の菊岡沾凉『江戸砂子』にも出てくる。

話は、語られるたびに細部が増えていく。絵巻の下札にあるのは、狐が火を灯して来ること、松の下で装束を整えることまでだ。木を飛び越えて高さを競う、宮廷女官の装束に着替える、という細部は、筆者が読めた範囲では絵巻にも図会にも出てこない。いつ加わったのかは、確かめられなかった。

ここで一つ、数が合わない話がある。大田南畝は『ひともと草』に、むかしは装束松と言ったが、いつのまにか榎に替わったと書いた。木は松だったのか、榎だったのか。呼び名が揺れた理由を直接語る材料は、見つけられなかった。

絵巻の下札に、役人が見分に来たと書いてあった

では、この話はいつ文字になったのか。いまのところ、いちばん古い手がかりは寛永18年(1641年)の絵巻。題は『若一王子縁起』だ。

徳川家光の命で作られた絵巻で、文に林羅山が関わり、絵は狩野尚信が描いた。完成は7月17日。原本は伝わらず、精巧な模本を紙の博物館が持つ。模本の奥書には、堀田正盛のもとで斉藤三友が実務にあたったと記される。

絵巻は王子神社の縁起だが、別当寺が同じ金輪寺だったので、下巻に王子稲荷の前の道が描かれた。道のあちこちに、狐火を灯した狐がいる。松の木の下には二匹が座る。

下札の文はこうだ。毎年十二月晦日の夜、関東三十三か国の狐が火を灯して稲荷の社へ来る図で、この松は同じ夜に狐が集まって装束を整えると言い伝える。ここでの木は、榎ではなく松だった。

もう一つ、下札には目を引く一行がある。御徒歩目付と御小人目付が、狐火を見分するために遣わされた、という趣旨の記載だ。幕府の役人が、狐火を調べに来ていたことになる。見分の結果を記した文書は、筆者は見つけられていない。

この記載から、縁起を作るより前に調べが入っていたと読む解説がある。北区教育委員会の解説書を紹介する事典類の読みで、筆者は原本を確かめられていない。念のため書いておく。

ここからは筆者の見立てだ。根拠は、王子の社と将軍家の近さにある。慶長14年(1609年)には秀忠の命で金輪寺の僧が両社の別当になり、寛永11年(1634年)には家光の命で社殿が造られた。絵巻はその7年後だ。

将軍家が建てた社の由緒を整えるとき、すでに評判だった狐火の話が公の記録に入った。そう考えるのがいちばん無理がない。ただし、なぜ寛永だったのかを直接語る史料は、見つけられなかった。

三十三か国の狐は、いつ関八州に縮んだのか

絵巻の下札は「関東三十三か国」と書いていた。広重の絵の解説は「関八州」だ。数が違う。

事典類が引く北区教育委員会の解説によれば、転機は寛政3年(1791年)だった。寺社奉行の松平輝和が、老中の松平定信に文書を出した。王子稲荷が「東国惣司」を称していることが、問題の始まりだと書く。

王子稲荷は、三十三か国にまつわる額や幟を没収され、処罰を受けた。その後、世間の語りは関八州の話に縮んだ。という筋書きになる。

ただ、ここに引っかかる点がある。文政4年(1821年)、没収から30年たった王子神社と王子稲荷の納経には、「東三拾三ヶ国惣司」「王子稲荷大明神」の文字が並ぶものがある。社のほうは、呼び名を手放していない。

筆者の見立てを書く。縮んだのは世間の語りの側で、社の自称は別に動いたのではないか。つまり、江戸の町人が口にする狐火は関八州の晩になり、社の内側の言葉は三十三か国のまま残った。そう読める。

ただし、これは裏づけのない推測だ。没収の理由を直接書いた文書を、筆者は読めていない。広重の絵の解説が関八州で語る点は、その推測に合うというだけの話だ。

社の裏山には、本物の狐が住んでいた

話の土台には、実際の狐がいたらしい。王子稲荷神社の由緒は、社殿の背後の山中に多くの狐が住み、神使として大切にされていたと書く。

そのすみかの跡は、いまも「御穴様」として境内に保存されている。江戸の人が王子稲荷へ通ったのは、狐を拝みに行くためでもあった。街道筋には「王子いなりみち」の標石が立ち、門前には茶屋や料理屋が並んだ。

社の古い歴史も、由緒に出てくる。康平年間(1058年から1065年)に源頼義が深く信仰し、「関東稲荷惣司」と崇めたという社伝だ。創建の年は分かっていない。

元亨2年(1322年)には、領主の豊嶋氏が熊野から王子権現を迎え、村名が岸から王子に改まったと伝わる。この神社も、そこから王子稲荷と呼ばれたらしい。

祭神は、宇迦之御魂神、宇気母智之神、和久産巣日神の三柱。いずれも食べ物や穀物にかかわる神だ。農民が狐火の数で作物の出来を占う話は、この祭神と筋が通る。

現在の拝殿と幣殿は、文政年間(1818年から1830年)の建物だ。昭和20年(1945年)の空襲で本殿などが大破し、本殿は昭和35年(1960年)に再建された。

筆者の見立てを置く。夜の山裾に灯りが動けば、人はまず狐を思っただろう。狐が実際にいて、社がそれを神使としていた土地だったからだ。狐火の話は、誰かの作り話というより、その暮らしの中で形になったのではないか。

神社の由緒は、落語『王子の狐』が当時の様子をよく伝えると書く。2月の初午祭には、火防の凧守を求めて大勢が参る。

提灯の列を、子どもたちは嫁入りと呼んだ

王子だけが特別だったわけではない。列になった怪しい火の話は、各地に残る。

宝暦年間の越後の地誌『越後名寄』は、夜、提灯か松明のような火が一里あまりも途切れず遠くに見えることがある、と書く。蒲原郡には折々あって、子どもたちは「狐の婚」と言い習わした。

出雲崎では、明治39年(1906年)の郷土史料に、狐の嫁入りと称して峠のあたりに青い火が点々とし、消えたり燃えたりして提灯が連なるように見える、とある。昭和62年(1987年)の『出雲崎町史』には、大正生まれの二人の体験談が載る。

新潟の村誌にも記録がある。『岩塚村誌』は、明治二十年ごろまで、日がすっかり暮れると、毎晩のように二十間ほど続く火が見えたと書く。「今は其の事なし」と、書き手は添えた。

長野では、昭和4年(1929年)の民俗雑誌『民族』に、提灯のような火がたくさん並んでついたり消えたりするという報告が出た。

村上市の『ふるさとの百年』は、瀬波温泉の下田池で大正の初めごろまで狐の嫁入りの灯が見えたと、写真の説明に添える。『村松町史』には、大正10年ごろ、狐火がぽかぽかと行ったり来たりしたという聞き書きがある。

狐火の話には、怖い向きのものもある。『堀之内町史』は、文政11年(1828年)5月5日に堀之内村を焼いた大火の原因を、狐火とする口碑を「狐火事の由来」という題で載せる。

呼び名も土地ごとに違う。山形の出羽や秋田では「狐松明」と呼び、良いことの前触れとした。岡山や鳥取では、低く浮かぶ火を「宙狐」と呼んだ。出雲では、狐火に当たって高熱が出たという伝えがあり、触れると祟る神に近いものとして扱う説もある。

石川の門前では、人をどこまでも追ってきたという。長野の飯田では、足で蹴り上げれば退散すると言った。

郷土研究家の更科公護のまとめによれば、狐火の正体を確かめに行くと、必ず途中で消えるそうだ。近づけない火だから、人は好きな筋書きを足せたのかもしれない。

新潟県阿賀町の津川は、狐火の話が多い町だ。町の公式案内は、津川の狐火は世界一だと言い、麒麟山の狐火が多く見える年は豊作だと書く。王子の豊凶占いと、考え方は同じだ。2010年の『阿賀町ものしりガイドブック』も、麒麟山を狐火がよく見られた場所として挙げる。郷土誌『阿賀路』19号には、昭和53年の「狐火を語る座談会」を伝える記事「狐火のふるさと津川をたずねて」が載る。

並べると、骨組みが見える。列になった火に、人は筋書きをつける。阿賀町の案内によれば、昔の嫁入りは夜に提灯を下げて行われ、提灯の灯と狐火が並んで見えたことが「狐の嫁入り」の元だった。王子では参詣の行列になった。

これは筆者の見立てだが、筋書きの選び方は、その土地の暮らしの型に合わせてある。嫁入りの町では嫁入りになり、稲荷の町では参詣になる。火そのものは、どちらも同じ「列」だった。

季節にも食い違いがある。更科のまとめは、狐火の出る時期を春から秋、とくに蒸し暑い夏の天気の変わり目とする。一方で、冬の現象とする見方も広い。王子の話は大晦日だ。季節の現象というより、暦の晩の話だと見たほうが筋が通る。

骨をくわえた狐と、空気のレンズ

では、火そのものは何だったのか。江戸の人も、正体を考えていた。

元禄の本草書『本朝食鑑』は、狐が地中の朽ちた木から火を作ると書く。人の頭蓋骨や馬の骨で光を作るという記述もある。三好想山の『想山著聞奇集』など、のちの書も、狐が馬の骨をくわえて火を灯すと書いた。

寛保年間の『諸国里人談』には、変わった話がある。元禄の初めごろ、漁師が網で狐火を捕らえたら、狐火玉が掛かっていた。昼は光らず、夜は明るいので、灯りとして重宝したという。

のちに、骨に含まれるリンの発光に結びつける説が出た。唱えたのは井上円了らだ。リンが60度で自然発火するという話も、その結びつきを強めた。

反論は早くから出ている。狐火はキロメートル単位の遠さでも見えると伝わる。菌糸や骨のリンの弱い光で、そこまで届くとは考えにくい。昭和6年(1931年)の神田左京『不知火・人魂・狐火』は、発光動物の研究者が怪火を科学で検討した本で、目次に「骨の狐火」「いわゆる骨の燐」「提燈の狐火」と並ぶ。

大きな転機は、日本民俗学会の会員だった角田義治の研究だ。1977年に、山間から平野へ抜ける扇状地に出やすい光の異常屈折で、狐火はほぼ説明できるとされた。昭和54年(1979年)の著書『現代怪火考』には「狐火の研究」の副題があり、目次には、「空気レンズを作る」「人工狐火の実験」という章が並ぶ。

異常屈折とは、遠くの灯りが温度の違う空気の層に曲げられて見える現象を指す。空気レンズの実験という章題も、その理屈に沿う。これなら、キロの距離の見え方も説明がつく。天然石油の発火や球電を挙げる説もあるが、事典類は、いまも正体の分からない部分が多いと書く。

王子は、この説にそのまま当てはまるだろうか。北区は武蔵野台地と荒川低地にまたがる。王子稲荷は、高台の中腹に建つ。扇状地ではなく、台地の縁だ。

筆者の見立てを置く。台地の崖線と低地の境で、似た空気の層ができた夜があったのかもしれない。だが、王子の狐火をこの方法で調べた研究は、見つけられなかった。王子の話が早くから数と暦で語られていることを考えると、観測の記録というより行事の語りだったと見るのが自然だ。

狐火は、消えもした。『南魚沼郡志』(1920年)は、明治十年ごろまでは狐狸が多くて狐火の怪も盛んに説かれたが、いまは狐狸も著しく減った、と書く。角田の本の目次には、「狐火は豊年の吉兆だったか?」「なぜ狐火は消えた?」という章題も並ぶ。

かがり火年越しの晩、摺師が口を開いた

王子の話に戻る。榎が枯れて伐られたあと、話は碑と小さな社に預けられた。町がそれを拾い直したのは、平成になってからだ。

昭和40年代から、王子銀座商店街の若手が集う「さんもく会」が動いていた。装束稲荷を預かるのは、商店街の人々が集まる「奉賛会」。二つの会は、大晦日の晩に、参拝に来る人へ焚き火で暖をとらせ、奉納の酒を振る舞った。この晩の呼び名は「かがり火年越し」。

平成4年(1992年)12月31日、タウン紙『きたシティ』第21号がこの行事を載せた。参詣者は例年より増えた。その一人が、浮世絵摺師の中條甲子雄(1925年から2006年)だ。

中條は、ここが「王子装束ゑの木大晦日の狐火」の原点の稲荷だと、集まった人々に話した。年越しの合図が鳴ると、人々は一緒に王子稲荷へ初詣に向かった。大学の卒業研究が聞き取りで伝えるところでは、当時の地元に、王子稲荷へ初詣に行く習慣はなかったらしい。

ここで食い違いがある。公式サイトも北区の資料も、行列の始まりを平成5年(1993年)の大晦日とする。卒業研究は、最初の流れを平成4年の晩に置く。第31回が2023年の大晦日に当たるので、回数の数え方に合うのは平成5年説。平成4年の晩は、行列の前触れだったのだろう。

公式サイトは、始まりを「ささやかな行列でした」と書く。

平成5年(1993年)の5月から11月には、王子小学校で王子狐囃子の出張授業も始まった。太鼓と篠笛と踊りを、子どもたちに教える授業だ。狐メイクは、顔全体を白く塗り、額から鼻の頭にかけて、オレンジの線を2本引く。

王子狐の行列は、平成11年度に地域づくり団体の自治大臣表彰を受けた。公式サイトの言葉では、古い文化を新しい街づくりに生かすための行事だ。狐メイクは、津川の狐の嫁入り行列に学んだという。

津川は、会津と越後を結ぶ交通の要所だった。阿賀野川の舟運で栄えた津川港は日本三大河港と呼ばれ、町には雁木と呼ぶ独特の町並みができた。町のシンボルの麒麟山は、戦国時代に津川城が置かれた険しい山で、狐も登るのを諦めて戻るという意味の「狐戻城」の名がある。角田義治の『現代怪火考』にも、津川の行列を扱う章がある。

津川の行列も、始まりは町おこしだった。新潟県の資料によれば、商工祭でかつて細々と行われていた狐の嫁入り行列を、およそ40年ぶりに復活させた。第1回は平成2年(1990年)5月3日。狐に扮した花嫁と仲人、お供を合わせて108人が、住吉神社を出て町を練る。

津川の行列は、花嫁と花婿が舟で川を渡り、霞がかった麒麟山に消えるところで終わる。そのあと山に狐火が灯っていく、という演出だ。

ここまで来ると、誰が伝承を支えてきたかが見えてくる。筆者の見立てを書く。絵巻の時代の持ち主は、寺社と将軍家だったのかもしれない。幕末は、絵を売る版元の側だ。

先の個人ブログは、年末に客足が落ちる王子の料理屋や茶屋を、この絵で盛り上げようとする版元の思惑もあったかもしれない、と書く。王子稲荷の門前に茶屋や料理屋が並んでいたことは、神社の由緒にも出てくる。

王子には、人を呼ぶ場所がもう一つあった。飛鳥山だ。元文2年(1737年)に、八代将軍の吉宗が山を王子神社に寄進し、桜を植えて庶民の遊び場にした。江戸の市中から人が通い、数々の絵草紙が王子を題材にして、装束榎の伝承も紹介した。

いまは商店街と町会が支える。持ち主は替わったが、狐火の話が人を呼ぶ、という働きは変わらない。役に立つ話だけが、木が枯れても残る。

行列の出発は深夜0時。参加者は榎の下に集まって装束を整え、年越しのカウントダウンとともに初詣へ向かう。100名余りの隊列が、狐囃子の太鼓と笛にあわせて装束稲荷から王子稲荷へ進む。コロナ禍で中止が続いたあと、2023年の大晦日に再開し、見物客は2万人を超えた。

ただし、担い手は足りない。卒業研究によれば、2023年の回は狐メイクの人手が揃わず、メイクを取りやめた。初めのころの会員は高齢になり、後継者がまだ育っていないという。

第34回は、令和8年(2026年)の大晦日に予定されている。公式サイトは、当日を支えるボランティアを5月から募っている。初詣に行く習慣はなかったという町の王子稲荷に、いまは長い参拝の列ができる。

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