土産物売り場の棚に、丸い頭が並んでいる
東北の温泉宿。土産物売り場の棚に、丸い頭と円筒形の胴体を持つ木の人形が並ぶ。こけしだ。
素朴で、どこか愛嬌がある。その見た目とは裏腹に、この郷土玩具には長くつきまとう噂がある。
こけしという名前は「子消し」から来ている。飢饉に苦しんだ東北の農村で、生活のために間引きや堕胎をせざるを得なかった親が、その子の魂を慰めるために作った人形なのだ、と。
この説はネット上でくり返し語られてきた。土産物屋でこけしを見るたび背筋が寒くなる、という人も少なくない。
ただ、出所を丹念にたどっていくと、民俗学的な歴史とはまるで違う成立過程が見えてくる。しかも発端が一人の書き手のエッセイだと分かると、話の見え方がかなり変わる。
湯治客に売るために削られた
こけしの発祥は江戸時代後期、文化・文政期の東北地方とされる。十九世紀の初めごろだ。
当時の東北には湯治の風習が農民のあいだに深く根付いていた。温泉へ長く滞在して病や疲れを癒やす。農閑期になると、重労働から解放された人々が近隣の温泉地へ向かい、数日から数週間をそこで過ごした。
その湯治客に向けて、木地師(きじし)と呼ばれる木工職人が土産物として作りはじめたのがこけしになる。
木地師はろくろで椀や盆といった木製の生活用品を作る職人集団だ。もとは山間部を移動しながら働く漂泊の民で、やがて定住し、温泉地の周辺に集落を築いた。
椀や盆の技術を応用して、湯治へ来た子供のための玩具を削る。大人向けの土産に素朴な人形を添える。それが今日いう伝統こけしの直接の起源になった。
こけしは、悲しい弔いの品として生まれたわけじゃない。温泉地の賑わいのなかで育った、庶民の玩具であり土産物だった。
大正に入ると、キューピー人形など西洋から入ってきた新しい玩具に押され、人気は一度しぼむ。ところが昭和の初め、大人の趣味人や美術愛好家のあいだで、こけしの造形美を評価し直す動きが起きた。
第一次こけしブームと呼ばれる現象になる。一九二八年ごろから専門の収集家とコレクター文化が生まれ、こけしは子供のおもちゃから民芸品・郷土玩具へ格上げされていった。
戦後も何度かブームが来た。今では美術品としての評価も定まり、専門の展示館や即売会が各地で開かれている。
湯治という習慣そのものが、今はほとんど残っていない。数週間も宿に居座って湯に浸かる暮らし方は消え、温泉は一泊二日で通り過ぎる場所になった。それでも売り場の棚にはこけしが残る。売れるから置いてあるというより、置くものだから置いてある、という気配がする。
木で作った芥子人形、という説
では、なぜこけしという名前なのか。
民俗学の側で最も有力とされるのは、木で作った芥子(けし)人形に由来する、という説だ。
江戸時代の仙台周辺では堤人形という土人形が作られていた。そのなかに、赤い衣装をまとった小さな芥子人形が含まれる。木地師たちがろくろ細工でこれを模した木製の人形を作り、呼び名が訛ってこけしへ定着した。説の骨子はそこになる。
面白いのは、呼び名のばらつきだ。東北各地では「きぼこ」「でくのぼう」「こげほうこ」「きでこ」など、驚くほど多様な方言的呼称が使われていた。
これが「こけし」という表記に統一されたのは昭和十五年の全国こけし大会になる。正直、全国統一の名前ができたのは、わりと最近になる。
この経緯そのものが答えの一部になっている。こけしという名前は、特定の悲劇的な語源ひとつから生まれたものじゃない。各地の方言と玩具文化が緩やかに集まっていった結果だ。
子消しという重い言葉が本当に語源なら、これほど牧歌的な呼び名のばらつきが各地に残るとは考えにくいだろうね。
一九七一年、詩人が書いた一行
それでも子消し説がここまで広まったのには、はっきりした発端がある。
一九七一年、詩人で評論家の松永伍一が発表したエッセイ集『こけし幻想行』だ。
松永は、赤ん坊を意味する東北方言「きぼこ」に着目した。これが間引きされた子供を指す隠語だったのではないか、と推測する。そのうえで詩的で扇情的な一文を残した。子消しの罪つぐないのために、幻のわが児を木ぼこに形どる。すなわちこけしとして棚にかざったのではあるまいか、と。
肝心なのは、これが松永個人の文学的な想像であり仮説だった点になる。民俗学的な実証に基づく学説じゃない。
当時のこけし研究や地方文書を当たっても、こけしが間引きの慰霊のために作られたと裏づける記述は一つも見つかっていない。
松永自身も断定の形では書いていない。あるまいか、という推量の語尾で止めている。ところが引用されるうちに語尾が落ち、断定の文だけが独り歩きした。都市伝説が育つときの、典型的な壊れ方だ。
にもかかわらず、この扇情的で物語性の強い解釈は、のちにテレビ番組などのメディアでくり返し取り上げられる。視聴者の記憶へ強く刻まれていった。
ホラーやオカルトを扱う番組にとって、素朴でかわいい郷土玩具の裏に隠された悲惨な歴史、という構図はあまりに魅力的だったらしい。一人の物書きが提示した文学的レトリックが、いつしか定説のように扱われていく。
飢饉の記憶が、話に重みを与えた
背景に置くべきなのが、東北が実際に度重なる飢饉へ苦しんだ地域だったという点だ。
天明の大飢饉、天保の大飢饉。どちらも数年にわたって作物が実らず、村ごと人口が減った記録が各地に残る。東北各地で深刻な食糧不足が起き、生活苦から間引きや堕胎が行われた。当時の記録や口承のなかに、その痕跡が残っている。
この重い史実が実在したからこそ、こけしは間引きされた子の慰霊だ、という物語に一定のリアリティが宿った。単なる作り話として片づけられない説得力を持ってしまう。
悲惨な史実と、素朴な郷土玩具。この組み合わせが、都市伝説としてあまりによくできた話になった。半世紀以上たった今も根強く生き続けている最大の理由は、たぶんそこにある。
十二の系統と、土地ごとの言い伝え
こけしと一口に言っても、姿形は産地によってずいぶん違う。現在、伝統こけしは大きく十二の系統に分類される。
宮城県の遠刈田系、作並系、鳴子系。それぞれ頭部の形状や描彩のパターンが独特で、鳴子系は首を回すとキイキイと音が鳴る構造を持つ。
福島県の土湯系は比較的小ぶりで、表情が素朴だ。胴の細さと頭の小ささで、遠目にも土湯だと分かる。山形県の山形系、蔵王系、肘折系は、それぞれ違う伝統模様を受け継いでいる。秋田県の木地山系、青森県の津軽系、岩手県の南部系も、土地の木地師集団が育てた造形美を今に伝える。
地域差は見た目だけにとどまらない。系統ごとに独自の伝承や言い伝えが付く。
津軽系のこけしには「じゃんがら」と呼ばれる装飾模様があり、亡くなった子供の魂を模したものだという土地独自の言い伝えが、一部の地域で語られてきた。
こうしたローカルな言い伝えが全国的な子消し都市伝説と混ざり合い、尾ひれを増やしていった。子消し説は単一の起源から一直線に広まったわけじゃない。各地に元からあった土着の話と絡みながら肥大化していった。
床の間のこけしが、二体になっていた
都市伝説は名前の由来だけで終わらない。ネット怪談や洒落怖の世界では、こけしを題材にした話が数多く生まれてきた。
有名な型のひとつが、旅館にこけしを飾ると数が増える、というものになる。似た筋は西洋の人形怪談にもあるので、日本だけの発想ではない。ただ舞台が和室の床の間になると、急に生々しくなる。
ある旅行者が東北の老舗旅館へ泊まった。床の間に一体だけこけしが飾られている。夜中にふと目を覚まして床の間を見ると、こけしが二体に増えていた。
翌朝あらためて確認すると、やはり一体しかない。見間違いだと思い込もうとするが、次の夜も同じことが起きる。
仲居に尋ねると、昔からこの部屋のこけしは夜になると数が変わることがある、とだけ答えて、それ以上は語らなかった。そういう筋書きの怪談が、いくつものバリエーションで伝わる。
この手の話に共通するのは、こけしが間引きされた子供の魂の依り代である、という前提を暗黙に使っている点だ。子消し伝説が怪談の土台を用意したわけだ。
もうひとつの定番が、夜中にこけしが動く、あるいは首の向きが変わっている、という話になる。
とりわけ鳴子系は首を回すとキイキイ鳴る構造なので、誰もいない部屋で夜中にキイ、キイと音がした、という体験談が説得力を持って語られやすい。
実際のところ、木材の乾燥や湿度変化による軋みだろうね。ただ、こけしという人形の造形そのものが、見る者へ不気味さを与える要因だと分析されている。
顔だけがあって手足が無い。円筒形の胴体に、じっとこちらを見つめる描かれた目。この非対称なかたちが、素朴な玩具を一転してホラーの象徴へ変える仕掛けになっている。
怪談は個人のブログやSNS、動画投稿サイトのゆっくり朗読といった形で拡散され続けてきた。舞台に選ばれるのは、旅館の古い部屋、蔵、祖父母の家の納戸。どれも日常から少し外れた空間になる。
かつては普通の土産物だったのに、今では不気味なものとして語られる。そのギャップ自体が、怪談としての強度を上げている。
「実はガセ」と「それでも怖い」の二本立て
ネットでこの話題を追うと、流れが二つに分かれているのが分かる。
ひとつは、子消し説を俗説として検証し、正しい歴史を伝えようとする動きだ。近年はこけしの本当の由来を解説するウェブメディアや個人ブログが増えてきた。発端は作家のエッセイだった、という情報が広まりつつある。
歴史好きや民俗学の愛好家が集まるコミュニティでは、松永伍一のエッセイが出発点だと指摘される。一次資料の無い俗説をメディアが定説化してしまった典型例として扱われることも多い。
もうひとつは、真偽はともかく怖い話として面白いから語り継ごう、という層になる。オカルト系や怪談系のチャンネル、朗読コンテンツでは、子消し説を前提にしたオリジナルの怪談が今も新しく作られ続けている。
Q&Aサイトには、こけしの由来は本当に子消しなんですか、という質問が定期的に投稿される。そのたびに、俗説であって史実ではない、という回答がつく。このやり取りが様式美のようにくり返されてきた。
聞かれては否定され、また忘れたころに聞かれる。このサイクル自体が、この都市伝説の息の長さを示している。
産地の側は、この噂にどう向き合ってきたのか。工人や販売店の多くは、聞かれれば俗説だと答えるだけで、わざわざ表に出して否定したりはしない。否定の言葉を並べるほど噂のほうが広がる。そういう経験則があるのかもしれない。
水子地蔵とオシラサマのあいだで
子消し伝説は、日本各地に残る「子供の魂を弔うための民具」という信仰の型と、構造がよく似ている。
間引きや流産で亡くなった子を弔うために建てられる水子地蔵。こけしの子消し伝説は、これとしばしば同列に語られてきた。水子供養は仏教的な儀礼として今も広く行われており、これと混同される形で、こけしにも同じ慰霊の意味が後付けされたのではないか。民俗学の側から、そういう指摘も出ている。
東北にはオシラサマという信仰も伝わる。桑の木で作った一対の人形を祀るもので、馬と娘の悲恋伝説に由来するとされ、家の守り神として扱われてきた。
こけしとオシラサマは、木製の人形に強い霊性を見出す東北特有の精神文化として並べて語られることが多い。木で作った人形には魂が宿りやすい。その土着の人形観こそ子消し伝説の土壌だったと考えると、単なる作り話では片づけられない奥行きが見えてくる。
二つの顔を思い出してしまう
こけしという郷土玩具は、実際の歴史としては温泉地の賑わいのなかで生まれた牧歌的な土産物だった。
そこへ、たった一冊のエッセイから始まった扇情的な仮説が重なる。まったく別の「怖いもの」としてのイメージを背負わされてしまった。
怖さは史実ではなく物語の力で育った。それでも土産物店の棚に並ぶ素朴な丸い顔を前にすると、つい両方の顔を思い出してしまう。
成立の過程を知っているかどうかで、同じこけしの見え方が変わる。知ったうえで棚の前に立つと、今度は違う種類の落ち着かなさが残る。
怖い話としての価値が消えるわけでもない。史実ではないと分かったうえで夜の床の間を思い浮かべると、それはそれで別の背筋の冷え方をする。作り話だと知っている怪談のほうが、かえって長く付き合えることもある。
