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絞首台の桟敷席には値段がついていた――処刑を見物するというヨーロッパの作法、その一日と、畳まれ方

十八世紀のロンドンで、絞首台のまわりには桟敷席が組まれていた。板を渡しただけの粗末な観覧席で、そこに座るには金を払う必要があり、良い席はかなり高くついたという。処刑は見世物だった、という言い方はよく聞くけれど、あれは比喩じゃない。本当に興行だったんだよな。券が売られ、席が確保され、露店が出て、印刷物が配られ、終われば片付けられて日常が戻る。

この記事で追いかけたいのは、誰がどんな罪で死んだかという個別の物語ではない。その死を「見物する」という行為に、人間がどうやって作法を与えたのか。どうやって制度を整え、商売にし、そしてある日それを恥じて畳んだのか。その筋道だ。ヨーロッパの絞首台と断頭台、そして江戸の刑場を並べて眺めると、見物という営みの骨格が驚くほど似ていることが見えてくる。

前夜零時、監獄の壁の外で鳴らされる手鈴のこと

処刑日の一日は、前の晩から始まっている。ロンドンのニューゲート監獄のすぐ隣にセント・セパルカー教会という古い教会がある。そこには一六〇五年に仕立屋組合のロバート・ダウという商人が五十ポンドを寄付して作らせた手鈴が伝わっている。寄付の条件が変わっていた。処刑の前夜、教会の下働きが監獄の死刑囚房の窓のできるだけ近くまで行く。

そして、その手鈴を十二回、二打ずつ鳴らせ、というものだった。

鳴らしたあとに読み上げる文句まで決められていた。おおよそ「死刑囚房に横たわるおまえたち、支度をせよ、明日おまえたちは死ぬ。皆で目を覚まして祈れ、全能者の前に立つ時が近づいている。よく己を省み、間に合ううちに悔い改めよ、永遠の炎に送られぬように。そして明日セント・セパルカーの鐘が鳴るとき、天上の主がおまえたちの魂を憐れみたまわんことを。

ただいま零時を過ぎた」といった内容で、最後に時刻の告知がつく。

この習慣の異様さは、内容が信仰的である点にあるのではない。四百年近く前の遺言によって固定され、雇われた人間が給金をもらって毎回同じ台詞を反復していた、という事実にある。

しかも寄付者は、当日の朝に大鐘を鳴らすことまで指定していた。囚人を乗せた荷車が教会の塀の前を通るとき、鈴を持った同じ男が塀越しに顔を出して呼ばわることまで決めていた。「善良な人々よ、今しがた死に向かうこの哀れな罪人たちのために心から神に祈れ、この大鐘は彼らのために鳴っているのだ」と。つまり処刑には台本があった。

死ぬ側の心の準備を促すという建前の下で、実際には見物の始まりを告げる開演ベルとして機能していたわけだ。

前の晩から酒場が混み、沿道の家の窓が貸し出され、宿を取って泊まり込む見物客がいた。鐘は彼ら全員に向かって鳴っていた。

荷車は三キロを三時間かけて進み、途中で酒がふるまわれた

朝、囚人たちは死刑囚房から出され、足枷を外され、手を前で縛られる。着るものは自前で、それも作法の一部だった。晴れ着で行く者がいて、婚礼用の服を着ていった者の記録も残っている。「良い見せ場を作ることが期待されていた」という言い方が史料の側からも出てくるくらいで、みすぼらしく震えていれば失望された。堂々としていれば喝采を浴びた。

荷車は馬に引かれた無蓋のもので、囚人は自分の棺と並んで座らされることもあったのだ。監獄付き牧師が付き添い、日曜の晩に囚人たちの前で行われた「死刑囚説教」の記憶がまだ生々しいまま、彼らは門の外の光の中へ出ていく。

ニューゲートからタイバーンの処刑場までは、およそ三キロ足らず。歩けば三十分ほどの距離を、行列は三時間かけて進んだ。単純に人が多すぎて進めなかったからだ。十八世紀半ばのロンドンは人口七十万を超える世界最大級の都市で、その相当部分が沿道に出ていた。道筋はホウバーン、セント・ジャイルズ、そしてタイバーン街道――今のオックスフォード街――を東から西へ。

二階の窓という窓に人が鈴なりになり、投げ銭が飛び、花が飛び、汚物も飛んだ。囚人に投げキスをする娘がいて、罵声を浴びせる者がいて、両方が同じ場所で同時に起きていた。荷車には武装した騎馬の護衛がついていた。過去に奪還未遂が何度もあったからで、あれは儀礼であると同時に警備行動でもあったのだ。

途中で酒を飲ませるのが慣例だった。セント・ジャイルズ・ハイストリートの「ボウル亭」が中間地点として知られていて、そこで強い酒やエールがふるまわれる。最後の一杯を出す店はほかにもいくつか名乗りを上げていて、どこが本当の「最後の酒場」だったのかは今でも揉めている。ここで注意したいのは、酒が慈悲として与えられていたのか、それとも見物のためだったのかという点だ。同時代の批判者はまさにそこを突いた。

酔って正体をなくした男が台の上でふらつくのを、群衆は「肝が据わっている」と誤読する。酩酊を勇気と取り違えるこの倒錯こそ、見世物としての処刑が抱えていた根本的な欠陥だった。

絞首台のまわりに組まれた桟敷と、その席料

タイバーンの絞首台は三本の柱に三本の梁を渡した三角形の構造物で、「タイバーンの木」と呼ばれた。この形にしたのは一度に大人数を吊るせるようにするためで、つまり最初から大量処理を前提に設計された装置だったのだ。そしてその周囲には、常設ではないが恒常的に、木組みの観覧席が建てられていた。

一七六〇年、乳牛を飼っていた「プロクター母さん」と呼ばれる未亡人が、自分の地所に桟敷を建てて貸し出す商売を始めた。この席は「プロクター母さんの桟敷」と呼ばれて名物になる。同じ年のフェラーズ卿の処刑では一日で五百ポンド以上を上げたと伝えられている。十八世紀半ばの五百ポンドは、熟練職人の年収の十数倍にあたる額だ。処刑見物は、地権者にとって確実に儲かる不動産事業だった。

一七八五年時点でタイバーンには三つの桟敷が建っている。そのうちの一つはミッチェルという人物の所有物で、処刑の日に貸し出されていたことが分かっている。ちなみに一七七一年六月には桟敷の一つが崩落して、雑誌が負傷者を報じている。見物席が崩れるという事故は、この時代の処刑場ではさほど珍しくなかった。

席料の相場が具体的に分かるのは、むしろ処刑場が監獄前へ移ってからだ。十九世紀のニューゲート前では、絞首台を見下ろす近隣の家の窓ぎわの席が十ポンドで売られたという記録がある。一八四九年にロンドン南部のホースモンガー・レイン監獄で夫婦が処刑されたときには、業者が屋根の上に観覧席を組んだ。チャールズ・ディケンズはそこに二ギニーを払って場所を確保している。

二ギニーというのは当時の下働きの数か月分の稼ぎに相当する。処刑反対を訴えることになる文豪自身が、見晴らしのいい席を買って見物していたわけだ。この居心地の悪さが、後述する彼の文章の温度をつくっている。

「最後の言葉」は、処刑より先に刷り上がっていた

処刑見物の周辺には、印刷業という産業がべったり張りついていた。売られたのは「最後の言葉と告白」と題された一枚刷りだ。片面刷りの粗い紙に、大きな見出しで罪人の名と罪状を打つ。使い回しの木版画――絞首台か棺か鎖につながれた人型――を刷り込み、事件と裁判の顛末、当人の「告白」、そして教訓めいた韻文を並べる。多くが「心ある基督者よ、皆聞け」といった呼びかけで始まる決まり文句を持っていた。

値段はおおむね一ペニー。

問題は、それがいつ刷られていたかだ。答えは、処刑の前である。裁判の終結から執行までには通常数週間の間があり、印刷業者はその間に版を組み、大量に刷りためて当日に備えた。だから紙の上の「臨終の告白」は、まだ生きている人間の口から出ていない言葉だった。

原稿を書く専門の職人がいたのだ。後年ヘンリー・メイヒューの聞き書きに登場する男は、平然とこう語っている。「クールヴォアジエの悲嘆の歌を書いたのは私だ」「ラッシュの挽歌も私が書いた」と。ラッシュの分については「ほかのと同じで本人が書いたことになっていて、それはもう殊勝な出来だった」とまで言う。読み書きのできない囚人が獄中で詩を詠んだことになっている例も普通にあった。

ウィリアム・ホガースが一七四七年に発表した連作版画「勤勉と怠惰」の第十一図には、この構造がそのまま描き込まれている。処刑場に向かう荷車と絞首台のあいだ、画面の手前で、女が「最後の言葉」を売っている。当の男はまだ台にたどり着いてすらいない。十八世紀の観客は、この絵を見て笑ったはずだ。皆が知っていた光景だったからだ。

監獄付き牧師の副業と、四百五十号という数字

一枚刷りの粗雑な商売の上に、もっと格の高い定期刊行物が乗っていた。ニューゲート監獄付き牧師――「オーディナリー」と呼ばれた――が刊行していた冊子だ。正式な題はやたらと長い。『ニューゲート監獄付き牧師による、タイバーンにて処刑されたる死刑囚らの振舞い、告白ならびに臨終の言葉についての報告』というような調子だった。題は号ごとに少しずつ違う。

一六七六年から一七七二年まで、ほぼすべての処刑日の後に刊行された。四百五十を超える号が出て、およそ二千五百人分の伝記が載った。

この刊行権は牧師職の役得だったのだ。値段は三ペンスから六ペンス、部数は数千に達し、十八世紀初頭には年二百ポンドの副収入になったという。牧師という職分の人間が、自分が魂の世話をした囚人の告白を素材にして雑誌を出し、それで食っていたわけだ。中身の構成も決まっていた。

裁判の基本情報、牧師自身の説教の要旨と引いた聖句、囚人一人ひとりの生い立ちと会話の記録、本人が書いたとされる手記や書簡。そして最後に処刑当日の様子――歌われた詩篇、囚人の状態、逃走を試みたか否か。初期には広告まで載っていた。

形態の変化も面白い。一七一二年までは一枚刷りに近い二つ折り紙だった。その後六ページに増え、一七二〇年代には活字を小さくして三段組にする。一七三四年には十六ないし二十八ページの小冊子になった。要するに売れたのだ。

ところが一七六〇年代になると、競合する安価な一枚刷りに押されて売上が落ち、一七七〇年代初頭には定期刊行が途絶える。

見物という文化そのものは続いていたのに、その記録の権威を握っていた公式媒体が先に潰れた。これは、処刑にまつわる語りが教会の手から街の印刷屋の手へ完全に移った瞬間だと考えていい。

一七八三年、行列が廃止された朝

タイバーンでの処刑は一五七一年から一七八三年まで続いた。十八世紀の百年だけで、男およそ千百人、女百人近くがここで死んでいる。一七一五年から一七八三年十二月までの六十九年に限れば約二千百六十八人、年平均で三十一人あまり。同じ期間に旧法廷で死刑を宣告された人数は四千二百四十一人だから、半分は減刑されていた計算になる。処刑日は年に八回程度と決まっていて、だからこそ待ち構えられ、混雑した。

その最後の日は一七八三年十一月三日、追い剥ぎのジョン・オースティンという男が吊るされて幕が下りた。そして五週間後の十二月九日、十人の重罪人がニューゲート監獄の正面で処刑される。黒布を掛けた新式の落とし戸つき処刑台が据えられ、ここから先、囚人は街を練り歩かず、監獄の中庭を横切って階段を上るだけになった。

移転の理由は治安と統制だ。行列は毎回、都市の最も交通量の多い軸線を数時間にわたって占拠し、群衆を巨大化させ、しばしば暴動の火種になった。監獄の前でやれば、群衆と処刑台のあいだに距離を置ける。柵で囲える。警官を配置しやすい。

歴史家のあいだでは、この移転を「都市計画としての演出」と捉える見方が強い。

一七八〇年のゴードン暴動で焼け落ちた後に厳めしい姿で建て直されたニューゲートの壁面は、絵画的な背景としてこれ以上ない舞台装置だった。荘重な建築と、目の前で行われる恐怖。その組み合わせを意図的に作った、という読み方だ。

ただし、当時この変更に猛烈に反対した人物がいる。サミュエル・ジョンソンだ。彼はこう言い放った。処刑が群衆を集めすぎると連中は文句を言うが、処刑とは群衆を集めるためのものだ、群衆を集めないなら目的を果たしていない、と。そして続ける。

古いやり方は皆にとって満足のいくものだった、公衆は行列によって満たされ、囚人は行列によって支えられていたのだ、と。この言葉は不謹慎に見えて、実は制度の本質を突いている。

見せしめであるためには見られなければならない。しかし見られた瞬間に、それは祭になる。行列の廃止は、この矛盾から国家が撤退し始めた最初の一歩だった。

四万人が集まり、二十七人が圧死した朝

監獄前に移しても群衆は減らなかった。むしろ場所が街の中心に近づいた分、密度が上がったのだ。その帰結が一八〇七年二月二十三日に起きる。

その日、殺人の罪で三人が処刑されることになっていた。二人の男については有罪の根拠が共犯者の証言に大きく依存していて、当時から冤罪を疑う声が強く、それが逆に人を呼んだ。集まった群衆はおよそ四万人。ハウンズローやバグショットといった郊外からも人が来ていた。朝八時の時点で処刑台が見える地面に空きは一寸もなく、人々は荷車の上、街灯柱、窓の下枠によじ登っていた。

旧法廷の北側では、群衆の動きが波にたとえられている。

八時六分から八分のあいだに落とし戸が開く。見物人が前へ押し寄せた。そのときグリーン・アーバー・レインの角で、人が乗りすぎた荷車の車軸が折れた。荷車が崩れ、上に乗っていた者が地面に落ちる。数メートル先ではパイ売りが商品の籠をひっくり返し、拾おうとしてかがんだところに人が折り重なった。

一度倒れた者は二度と起き上がれなかった。「人殺し」という叫びが方々から上がり、それでも群衆は動きを止められなかったのだ。

乳飲み子を抱いた女が、倒れる瞬間に赤ん坊を隣の男の腕に押し込んで命乞いをした。男は自分が助かるので精一杯で子を放り、放られた子は別の男に受け止められ、その男もまた放り、最後にある男が荷車の下に潜り込ませて置いた。子は助かったのである。母は死んだ。十二歳の息子と手をつないでいた男は、息子だけを踏み殺された。

処刑された三人が吊るされているあいだ、下の人間を助けることは誰にもできなかった。遺体が下ろされ、処刑台が撤去され、警吏が道を空けたとき、通りには百人近くが倒れていたのだ。死者は新聞報道で二十七人から三十人、目撃者による数え上げでは三十四人。負傷者は七十人前後。遺体は近くの病院に運ばれ、女性病棟の床に並べられて顔だけ出して覆いをかけられ、身元確認のために人が列を作った。

翌日開かれた検死は金曜まで続き、評決は「圧迫および窒息により死亡した」だった。

この事故の後、検死記録に残された死者の身元を分析した研究がある。そこから浮かび上がるのは、処刑見物の観客が「食い詰めた無頼の群れ」だったという同時代の描写とはかなり違う姿だ。職人、徒弟、商家の使用人、家族連れ。ピアノ製造業者のもとで働いていた徒弟がいて、遠くから来たらしいパンとチーズを袋に入れた水夫の少年がいた。処刑見物は、社会の底辺の悪習ではなく、都市の広い層に共有された社交だった。

この一点が、後の廃止論の理屈を難しくする。

スリの稼ぎ場としての絞首台

処刑を公開する理由は建前上ただ一つ、犯罪の抑止だった。ところが同時代人が繰り返し指摘したのは、その現場が犯罪の温床になっているという皮肉だ。群衆が密集し、全員が同じ方向に気を取られている空間は、掏摸にとってこれ以上ない職場だった。処刑を見物する群衆から財布を抜き、その罪でいずれ同じ台に上がる。この循環はあまりに露骨で、当時のパンフレット類は嫌になるほど繰り返しこれを書いている。

ディケンズは一八四六年の新聞連載で、ある数字を引いている。ある聖職者が長年にわたって死刑囚百六十七人に問うたところ、処刑を見物したことのない者はわずか三人だった、という。出所の怪しい統計ではあるけれど、当時の廃止論がどこを急所と見ていたかはよく分かる。見せしめは、見せられる側を怯えさせるどころか、暴力の光景に慣れさせているのではないか。ディケンズはこれを「嫌悪の吸引力」と呼んだ。

悪人ではなく善良で行儀のいい人々の心の中で、犯罪そのものへの正当な恐怖を、処刑への病的な好奇心が押しのけてしまう、と。

実務的な批判はもっと早い。バーナード・マンデヴィルは一七二五年、タイバーンの処刑があまりに頻繁である原因を論じた小冊子の中で、処刑日の一部始終を書いている。囚人に触りたくて男や馬の脚のあいだをくぐって服を破く若い悪党たち。絞首台の近くでいよいよ激化する押し合い。振り回される棒、割れる頭、踏まれる人。

そして彼は容赦なく結論する。

この光景は死ぬ本人の魂の準備にも、抑止されるべき仲間にも、厳粛さに打たれるべき見物人にも、ほとんど何の役にも立っていない、と。四半世紀後、治安判事でもあった小説家のヘンリー・フィールディングが同じ主張を繰り返す。一七五一年の『強盗増加の原因についての考察』でのことだ。両者に共通するのは、道徳的な嫌悪ではなく、費用対効果の冷淡な計算だった。効かないものに金と手間をかけるな、という話だ。

体重を測って落とす距離を決める、という発想

ここで技術の話をしておきたい。見物の性格を最終的に変えたのは、法律よりもむしろ絞首刑の物理学だったからだ。

十八世紀までのやり方は単純だった。荷車の上に立たせ、首に縄をかけ、荷車を引き離す。あるいは短い落差の落とし戸を開ける。いずれにせよ死因は窒息で、絶命までに数分かかることが珍しくなかった。だから友人や家族が脚にぶら下がって早く終わらせようとする、という光景が生まれる。

逆に、縄の位置や結び目の具合によっては完全に絶命せず、処刑後に息を吹き返す例もあった。

十六世紀には蘇生がしばしば起きすぎて、外科医組合が費用負担の規則を決めていたほどだ。一七〇九年に蘇生して十年生きた男が「半分吊るされたスミス」と呼ばれた話も残っている。

これを変えたのが落下距離の計算だ。一八六六年、サミュエル・ホートン師が力学と生理学の両面から絞首刑を検討した論文を発表した。「患者の体重をポンドで表した数で二千二百四十を割れば、その商が落下距離のフィート数になる」という式を提示した。要するに軽い者ほど長く落とせ、という比例式である。

実務に持ち込んだのはウィリアム・マーウッドという靴屋上がりの男だ。彼は処刑を一度も見たことがないまま独自に考え抜いた。そして一八七二年四月一日、リンカンで初めて自分の方式による執行を行った。従来の苦悶がなく、絶命は事実上即時だったと記録されている。

マーウッドは自分用の落下距離表を作った。八ストーン(約百十二ポンド)の者に十フィート、十六ストーン(二百二十四ポンド)の者に七フィート。これで生じる衝撃力は千百二十から千五百六十八フィート・ポンドになるが、上限側は首が千切れかねない領域に踏み込んでいた。

三度書き換えられた表と、それを無視した執行人たち

失敗が続いたため、一八八六年にアバデア卿を長とする委員会が設けられ、一八八八年に報告書が出る。委員会は二十三例を検証した。うち二例では首が切断されたか、それに近い状態になっており、そのときの計算エネルギーは二千三百二十フィート・ポンドだった。三例では死因が窒息と判定され、エネルギーは千八十二から千百六。残る十八例では首の骨折脱臼が起きていて、値は千百二から千四百三十八、平均千三百三十。

委員会が推奨したのは千二百六十で、極端に軽い者については千百二十とした。この数字から逆算した表が作られた。七ストーンなら十一フィート五インチ、二十ストーンなら四フィート六インチ。そういう具合に体重区分ごとの落下距離が定められた。

細かい運用の指示まで報告書には書き込まれている。囚人の体重は入所時の記録ではなく、前日に量り直せ。死刑囚房では食事が良く運動が少ないため太る者が多いからだ。余った縄は束ねて細い糸で留めておけ。落下の衝撃で糸は切れる。

これは一八八三年に、垂らしておいた縄の輪に囚人の肘が引っかかって落下が止まってしまった事故を受けた措置だった。

その後一八九二年、内務省が初の公式表を出す。ところがこの表は基準を千二百六十から八百四十フィート・ポンドへ大幅に下げていた。首が切れるくらいなら絞まるほうがましだ、という判断である。そして現場はこれをほぼ完全に無視した。三十二例の分析で、表どおりの距離が使われたのはたった一例。

二例が表より短く、残る二十九例は八インチから二フィート六インチも長く落としていた。

執行人たちは、机上の安全側の数字より自分の経験を信じたわけだ。一九一三年十月に大幅改訂された表が出て千フィート・ポンドに戻る。一九三九年以降は執行人が慣例的にさらに九インチ足すようになる。

この技術史が見物にもたらした変化ははっきりしている。長い苦悶が消えたのだ。皮肉なことに、それは見世物としての処刑を退屈にした。落とし戸が開き、縄が張り、それで終わる。もがきも、脚を引っぱる家族も、蘇生の望みもない。

群衆が何時間もかけて集まって見るべき「芝居」が消滅した。処刑の人道化は、同時に処刑の脱劇場化でもあった。

もっとも、この技術が完成したのは公開処刑が終わった後だという順序は押さえておきたい。壁の内側に入ったからこそ、失敗を隠さず記録し、統計を取り、表を改訂できたという面もある。

パリの断頭台の常連と、編み物をしていた女たち

海を渡ろう。フランスの断頭台をめぐる見物の作法は、ロンドンとは前提が違った。

一七九三年から翌年にかけての恐怖政治期、パリのレヴォリューション広場――今のコンコルド広場――では処刑がほぼ日課になった。全国でおよそ一万七千、パリだけで二千六百前後という数字が伝わっている。一七九四年の六月から七月にかけては、一日に二十件を超える日もあった。一月二十一日の国王処刑には二万人が集まったとされる。そういう特別な日を別にすれば、処刑はやがて市場の立つ日のような日常の行事になっていく。

物売りが軽食を売り、常連が定位置を持つ。

その常連の代表として語り継がれてきたのが「編み物女」たちだ。断頭台の足元に椅子を並べ、刃が落ちるあいだも黙々と編み針を動かしていた女たち、という像である。ただ、ここは慎重に見たほうがいい。彼女たちの出自は一七八九年十月にヴェルサイユへ行進した市場の女たちで、当初は「国民の母」と讃えられた政治的な主体だった。

ところが一七九三年五月二十一日、国民公会の傍聴席から彼女たちを締め出す政令が出て、その五日後には一切の政治集会への参加を禁じられる。編み物女という呼び名が定着するのは、まさにこの排除の後なのだ。

つまりあの光景は、残虐な女たちの生態というより、政治から追い出された女たちが公共空間に残された最後の場所へ流れ込んだ結果でもあった。編んでいたのはフリギア帽や靴下で、売り物にもなったし、椅子そのものを見物客に貸して稼いだという話も伝わっている。手を動かし続けることは、緊張を処理する所作でもあっただろう。もちろん彼女たちが処刑に喝采を送り、罵声を浴びせたのも事実で、それを美談にする気はない。

ただ、この像がここまで有名になった一番の理由は、ディケンズが一八五九年の小説に造形した架空の人物にある。実在の記録より、小説の一人の女が、後世の想像力を独占してしまった。史料と物語が混ざる典型例として、これは覚えておいていい。

一九三九年六月、群衆はハンカチを血に浸した

フランスの公開処刑がどう終わったかは、あまりに象徴的なので書いておきたい。

一九三九年六月十七日、ヴェルサイユのサン・ピエール監獄前で、連続殺人の罪に問われた男の処刑が行われた。慣例では夜明け前に済ませることになっていたのに、群衆が多すぎて準備が手間取り、執行は明るくなってからになった。真夏の朝の光は、写真にも映画にもたっぷり足りたのだ。当時十七歳でパリにいた青年が友人に叩き起こされて連れて行かれ、その一部始終を目撃している。

後年の彼の証言によれば、男が扉から出た瞬間、群衆から吠えるような叫びの大波が起きた。三十秒ほどで一切が終わり、彼は目を逸らせずに見てしまい、魂が悪くなった、と書いている。

問題はその後だ。処刑が終わるやいなや、見物人が遺体に殺到した。ハンカチやスカーフを、舗道に広がった血に浸して持ち帰る者がいた。装置はすぐに解体され、舗道は水で洗い流され、最初の路面電車が通り、隣の二軒のカフェが店を開けて、日常が戻ったのだ。翌日の新聞は群衆を「胸の悪くなるような」「無秩序な」と評した。

サンドイッチを頬張り、押し合い、口笛を吹き、野次を飛ばしていたと書いた。

しかし、サンドイッチを食べながら処刑を見る客など何百年も前からいたのである。決定的だったのは、明るい光の下で鮮明な写真が撮られ、しかも一部始終が映像に収められてしまったことだ。写真は各国の雑誌に載った。国家の側から見れば、これは見物人が無限に増殖することを意味する。同月二十四日、大統領令によって公開処刑は打ち切られ、以後の執行は施設の内部で、判事、医師、警官、司祭だけが立ち会うものになった。

「見せしめのために見せる」という原理と、「見るに堪えない」という感受性。この二つを両立させようとしてヨーロッパ各国は長い隠れんぼを続けてきた。断頭台を町外れに追いやり、高い台を禁じ、夜明け前に、予告なしに執行する。それでも群衆は来た。細く、しかし必ず来た。

決着をつけたのは道徳論ではなく、記録技術だったのだ。

死体は解剖学校へ運ばれ、あるいは鎖で吊るされた

見物は絶命で終わらない。むしろその後にもう一幕あった。

一七五二年に施行されたいわゆる殺人法は、殺人犯の死体を絶対に埋葬させないと定めた。ロンドンとミドルセックスで処刑された場合、遺体はただちに外科医組合の会館へ運ばれたのである。受領証と引き換えに渡され、解剖されることになっていたのだ。地方であれば裁判官が指定した外科医に引き渡される。

解剖を選ばない場合の選択肢が、鎖に吊るして晒す刑――絞首台に鉄の枠ごと吊り下げ、腐っていくのを何十年も見せ続ける処置だった。

条文には「いかなる場合も殺人者の死体を埋葬させてはならない」とある。死刑に「さらなる恐怖と特別な汚辱の印」を加える、というのが立法趣旨だった。

面白いのは、この法律の効果が立案者の意図とずれたことだ。まず、解剖に回される遺体を殺人犯だけに限定したことで、ロンドンで解剖される犯罪者の総数はむしろ大きく減った。それ以前は、外科医の手先が絞首台の下で遺体を確保しようとし、家族や仲間がそれを実力で阻止するという乱闘が処刑のたびに起きていた。一七四〇年にサミュエル・リチャードソンが書き残した目撃談は生々しい。

「哀れな者たちが半分死にかけた途端、あれほど大勢の警吏がいるのに、群衆が死体を引っぱり合い、そのせいで何度も殴り合いになり頭が割れた。片方は処刑された者の友人たち、もう片方は解剖用の死体を得るために私設の外科医が送り込んだ連中だったのだ。争いは激しく血なまぐさく、見るに堪えなかった」。

この争いは単なる迷信ではなかった。手紙が残っている。ニューゲートから元の雇い主に宛てて「どうか少しの金を、棺と経帷子のために。私の体を木から持ち去ってもらうために」と頼む若者がいる。妻を殺して処刑される男が「妻のそばに埋めてほしいから、外科医に体を渡さないでくれ」と友人に書き送る。

れんが職人が仲間の遺体を守るために出張り、はしけ乗りが同業者のために遠方から駆けつけ、辻馬車の御者たちが仲間の体を守るために集まった。これは職業共同体の互助であり、死をめぐる連帯だった。殺人法は、この乱闘を減らすことには成功したのだ。減らした代償として、外科医は合法的な死体をほとんど得られなくなり、墓を暴く商売が異常な規模に膨れ上がる。

そして一八三二年の解剖法が、救貧院や監獄で死んだ引き取り手のない貧者の遺体を医学に開放することで、この均衡を作り直した。

鎖吊りのほうは、十九世紀に入ると急速に嫌われた。都市の住民は「せめて住宅地から離れた場所へ」「街道からもっと奥へ」と要求する。一八三〇年代には、立てた鎖付き絞首台が地元の抗議で三日で撤去される事態が起きている。一八三四年、この刑罰は廃止された。廃止の理由が人道ではなく「不快で邪魔だから」に近かったという点は、記録しておく価値がある。

死人の手で腫れ物を撫でる、絞首台の下のもう一つの市場

処刑場には、司法とも医学とも違う、第三の需要があった。民間療法である。

十八世紀から一八六八年の公開処刑廃止まで、絞首されたばかりの男の手で患部を撫でると腫れ物が治る、という信仰が広く行われていた。研究者が新聞と雑誌の電子化資料を精査した。すると、実際に処刑の場でこれが行われたか、行いたいと申し出た事例が二十七件確認できる。初出は一七五八年、最後は一八六三年。対象はこぶ、甲状腺の腫れ、頸部リンパ節の腫れ、皮膚の腫瘍など。

撫でる回数は三回、七回、九回と決まっていて、九回が最も多い。男の手でなければならず、患者が男なら女の遺体の手を使う、という性別を交差させる決まりもあった。一八二一年にニューゲートで男女二人が処刑されたときのことだ。複数の男が女の手で首や顔をこすり、同数の女が男の手で同じことをした、と新聞が報じている。

この行為は絞首吏の管理下にあった。彼は許可を出す立場であり、実際に手を取って患部にあてがう実行者でもあり、そして手数料を取っていた。一八二五年にニューゲートで行われた例では、老女が付き添いに支えられて台に上がり、絞首吏が彼女の首に腕を回して遺体の手でこすり続けたのだ。老女が失神しかけたので一度やめ、少ししてから反対の手で再開した、という記録がある。絞首吏の役得はこれだけではない。

使った縄を切り売りするのも彼の稼ぎで、ある有名な事件の執行人は縄を一インチ一ギニーで競り売りしたと風刺画に描かれた。

なぜ絞首された者の手なのか。説明は複数流通していた。病が生者から死者へ移り、まだ体を離れきっていない魂が病を彼岸へ持って行ってくれる、という転移の理屈。処刑直前の告白と悔悛によって贖罪の力が宿るという宗教的な理屈。一七五九年の新聞投書はもっと理屈っぽい。

死体は腐敗の開始とともに「体液が外へ向かって動く」ので、長く接触すればその作用が腫れを溶かすのだと論じている。

当時の新聞の多くはこれを「迷信の澱」と切り捨てたが、当の投書子は「これは迷信ではない、哲学的原理に基づく」と反論していた。

注目したいのは、この習俗が処刑台の構造変化によって、かえって制度化されてしまったことだ。十八世紀末に処刑台が高く作られ、群衆から距離を置かれるようになる。するとそこへ上がって撫でてもらう行為は、公式に許可された正式な手続きの外観を帯びた。当局は望めばいつでも止められたのに、なかなか止まらなかった。絞首吏は貴重な副収入を手放したがらず、彼らを雇う側は数少ない執行人の機嫌を損ねたくなかったからだ。

最終的にこの慣習を終わらせたのは道徳的説得ではなく、処刑の場が監獄長の管理下に完全に移ったという行政上の事実だった。大英本土で許可された最後の例は一八四五年、ウォリックでの執行とされる。

見た人間が書き残した三つの朝

同時代人の証言を三つ、それぞれ読み物として置いておきたい。処刑見物という経験がどんな手触りだったのか、これ以上の資料はない。

一つ目は一七六三年五月四日のジェイムズ・ボズウェル。二十二歳の彼は前日にニューゲートへ行き、独房前の中庭で囚人たちが礼拝堂へ向かうのを見ている。強盗のポール・ルイスという男は「海で働いていて船長と呼ばれていた、上品で気概のある若者」だった。白い上着に青い絹のチョッキ、髪をきれいに結い、銀の縁取りの帽子を粋に傾けていた。知人に調子を聞かれ「大変よろしい、覚悟はできている」と答えたという。

ボズウェルは強く心を動かされる。翌日、彼は好奇心に抗えず、友人を連れて処刑場へ行き、絞首台のすぐ近くの桟敷に上がった。書き残された言葉は短い。「見物人は途方もない大群衆だった。私はひどく衝撃を受け、深い憂鬱に投げ込まれた」。

その晩、彼は暗くなると一人でいることに耐えられず、友人の部屋に転がり込んで寝床を分けてもらっている。

翌々日にサミュエル・ジョンソンにこの話をすると、老博士は「彼らの大半は、そもそも何も考えたことがないのだ」と切り捨てた。続けて「死の恐怖は人間にとってあまりに自然で、人生とはそれを考えないでいるための営みにすぎない」と言った。

一七六八年、ボズウェルは新聞に自己分析を寄せている。あらゆる公開の見世物の中で処刑ほど人を集めるものはない、そして自分は一度も欠かしたことがない、と彼は書く。最初に見たときは同情と恐怖でほとんど痙攣し、その後何日も、特に夜が辛かった。それでも通い続けるうちに感受性が鈍り、今では平静に見ていられる、と。

この「慣れ」の記述は、廃止論者が最も恐れていた事態を、当事者自身が正直に書いてしまった稀有な証言だ。

二つ目は一八四〇年七月六日のウィリアム・メイクピース・サッカレー。死刑廃止に投票した議員に誘われて出かけ、看守長の許可を持たなかったので群衆に混じって足元の位置を取った。前夜は十時に寝たが眠れず、近所の時計が時を打つのを全部聞き、どこかの犬が哀れっぽく吠え続けた。一時に鶏が力なく鳴き、二時過ぎに窓の戸の隙間から灰色の光が差し、迎えが来たときようやく三十分ほど眠ったところだったのだ。

彼の記述は、処刑そのものよりも群衆の描写が突出している。四万人、あらゆる階層――職人、紳士、掏摸、上下両院の議員、街娼、新聞記者。彼らは自然な夜の眠りを捨ててこの「おぞましい放蕩」に加わりに来た。それは眠りよりも葡萄酒よりも新作のバレエよりも興奮するからだ、と彼は書く。掏摸も貴族も同じようにくすぐられる、我々の種族に隠れている血への渇きに動かされて、と。

そして肝心の瞬間、彼は目をつぶった。

「その先を見ていられなかったと言うことを、私は恥じない」。帰り道、彼は十一歳と十二歳くらいの少女二人に出会う。一人は激しく泣いていて、後生だからここから連れ出してほしいと頼んだ。年上のほうになぜこんなところにいるのかと尋ねると、少女はにやりと笑って「男が吊るされるのを見に来たんだ」と答えた。

二週間経っても男の顔が目の前から消えない、絞首吏が気楽な様子でポケットから縄を取り出すところが今も見える、と彼は書いている。「あの残忍な見世物へ私を連れて行った残忍な好奇心を、私は恥じ、貶められたと感じる」。

三つ目は一八四九年十一月十三日のチャールズ・ディケンズ。夫婦の処刑を見るために三万人以上が集まった朝で、彼は前夜からずっと群衆を観察していた。翌日『タイムズ』に送った書簡はこう始まる。私は死刑の是非を論じるつもりはない、ただこの恐ろしい経験を役立てたいのだ、と。そして続く。

真夜中に現場に着いたとき、すでに一番いい場所を占めていた少年少女の群れが時折上げる金切り声と唸り声の甲高さに、血が凍った。

夜が更けるにつれ、悲鳴と笑いと、流行歌の替え歌の大合唱が加わった。夜が明けると、盗人、街娼、ならず者、あらゆる種類の浮浪者が押し寄せ、口にできない振舞いをしたのだ。喧嘩、失神、口笛、人形芝居の物真似、下卑た冗談。失神した女が服を乱したまま警官に引きずり出されると、卑猥な歓声が上がって座は一層盛り上がった。

太陽が明るく昇り、何千何万という上向きの顔を金色に染めた。その残忍な浮かれようと無感覚さがあまりに醜悪で、自分が人間の形をしていることを恥じたのだ。悪魔の似姿に造られた己から身を引きたくなった。そして二人が宙に吊るされて震えたとき。そこには何の感情もなく、憐れみもなく、二つの不滅の魂が裁きに赴いたという思いもなかった。

この世にキリストの名が聞かれたことなど一度もなく、人間は獣のように死ぬという以外に何の信仰もないかのようだった、と。

ディケンズは、この光景ほど短時間で都市を荒廃させるものはないと断じ、処刑を監獄の壁の内側で行う法案を政府に出すよう内務大臣に強く求めた。三年前の彼は死刑そのものの完全廃止を唱えていたのに、ここでは公開の廃止へ後退している。妥協なのか現実主義なのかは今も議論があるが、はっきりしているのは、彼が糾弾したのが死刑ではなく観客だったということだ。

廃止までの二十年と、その決着のつき方

サッカレーとディケンズの文章が出た後も、公開処刑は三十年近く続いた。世論が動くには時間がかかる。一八六一年には百人を超える議員が死刑そのものの廃止に投票していて、廃止論は決して少数派ではなかった。しかし一八六四年から六六年にかけて開かれた王立委員会は、死刑の存続を認めたうえで、執行を非公開にすることを勧告した。

委員会の言葉を借りれば、処刑の「グロテスクな見世物」を終わらせるべきだ、というのが理由である。一八六七年に同趣旨の法案が時間切れで流れ、翌年、あらためて法案が通る。

最後の公開処刑は一八六八年五月二十六日、ニューゲート監獄の外で行われた。集まった群衆は報道によって幅があるが、数千規模。この日の『タイムズ』は二欄半を割いて詳報した。記事はこう書いている。夜明けとともに人が流れ込み、新来者は若い女と幼い子供が多かった。

ビロードの帽子と白い羽根飾りが、群衆を押しとどめる柵に沿って並んだ。

ある者は笑い、ある者は殴り合い、ある者は説教し、ある者は宗教冊子を配り、ある者は讃美歌を歌った。説教師に対しては笑いが起き、公然と強盗が行われている最中には静まり返った。七時に近づくと人の塊は巨大になり、柵にもかかわらず麦畑の穂のように前後に揺れ続けたのだ。鐘が鳴り始めると「帽子を取れ」という飢えたような叫びが上がり、露頭になった密集した群れが朝日の下で白く不気味に光った。

柵への圧力が増して、最前列の女や娘が悲鳴を上げてもがき始めた。記者はこう書き添える。これがイングランド最後の公開処刑になると思うと、感謝の念を抱かずにこの光景を見られる者はいなかった、と。

その三日後、五月二十九日に法律は裁可された。以後、死刑は収監されている監獄の壁の中で執行され、遺体は監獄の敷地内に埋葬される。新法下の最初の執行は同年八月十三日、メイドストンで、絞首吏は最後の公開処刑を担当したのと同じ人物だった。同じ手が、外でも中でも同じ仕事をした。

制度の変化は、外側からは見えにくい形で続く。法は内務大臣に、執行の濫用を防ぎ、より荘厳にし、そして「壁の外へ執行の事実を知らせる」ための規則を随時定める権限を与えた。この最後の一項が、黒旗を掲げる慣習と、鐘を鳴らす慣習を生む。見物は禁止されたが、告知は残った。人々は壁の外に立ち、旗が上がるのを見て、中で何が起きたかを知る。

見物の作法は、抽象化されて生き延びたのだ。

もう一つ、報道の統制も進んだ。当初は記者が中に入れた。やがて新聞記者への入場許可は原則として出さない方針に切り替わる。地方紙の多くは「記者は排除された」と一行書いて、他の話題へ移るようになった。処刑をめぐる情報の量は、公開の停止から数年で劇的に痩せていく。

ニュルンベルクの処刑人が四十五年つけていた帳面

地域差の話をしておきたい。イングランドの絞首台とフランスの断頭台の話だけでは、ヨーロッパの見物の作法を語ったことにならない。

神聖ローマ帝国の自由都市ニュルンベルクに、四十五年にわたって処刑人を務めた男がいた。一五七三年から一六一七年まで、彼は自分が執行した刑罰を克明に書き留めた帳面を残している。処刑三百六十一件、それに鞭打ちや耳・指の切断といった身体刑三百四十五件。各項目に日付、場所、方法、対象者の名と出自と身分が記され、後年になるほど罪の内容が詳しく書き込まれるようになる。

この帳面から見えるのは、大陸の処刑が持っていた別種の秩序だ。方法が罪によって厳密に使い分けられていた。斬首、絞首、車輪、火、水。火刑は四十五年でわずか二回。嬰児殺しの女に法典が定めていた溺死刑は、彼自身と聖職者の働きかけによって、ニュルンベルクでは慣例的に斬首に減軽されていた。

つまり処刑人が量刑の実務に口を出し、より苦痛の少ない方法へ動かしていた。

処刑人という職業の社会的位置も独特だ。彼らは「不名誉な身分」として市民社会から排除される一方、経済的には極めて恵まれていた。この男の週給は都市の最富裕層の法律家と並んでいた。無料の広い住居と自前の風呂、薪と葡萄酒の定期支給、出張費の全額支給、生涯非課税という契約を結んでいたのである。基本給だけで市内の上位五パーセントに入り、ミュンヘンの同業者より六割高かったのだ。

さらに多くの処刑人がそうだったように、彼は医療相談を副業にしていて、そちらの収入も大きかった。人体に触れる仕事だという実務的な理由と、暗い職業にまとわりつく不気味な威光の両方が、この副業を成り立たせていた。彼は最終的に市民権を得、退職後は医療で生計を立て、皇帝から「名誉ある者」と宣言され、立派な葬儀で見送られている。

イングランドの絞首吏は縄を切り売りし、死人の手を貸して小銭を稼いでいた。ドイツの処刑人は薬師として身を立てた。根っこが同じ現象の、別の形だ。死を扱う者には力が宿るという信仰が、地域ごとの法制度と経済に合わせて別々の商売に結晶したにすぎない。

江戸の引廻しと、三日二晩晒された首

日本の話をしよう。ヨーロッパを珍しがるためではなく、比較の中でしか見えないものがあるからだ。

江戸幕府の刑罰体系では、庶民に科される死刑が六種類あった。そのうち斬首したうえで首を晒すのが獄門で、晒さない斬首の死罪より重い。処刑された死刑の内訳を見ると、獄門が全体の三割弱、死罪が七割弱で、合わせて約九十六パーセントを占めていた。斬首そのものは伝馬町の牢屋敷の内部で行われる。つまり執行は非公開だった。

ここが決定的にヨーロッパと違う。

では何が公開されていたか。二つある。一つは引廻し、もう一つは晒し首だ。

引廻しは単独の刑ではなく、死罪以上の判決に付け加えられる付加刑だった。受刑者を馬に乗せ、罪状を書いた捨札とともに市中を練り歩かせる。江戸には二種類の経路があって、軽いほうが「江戸中引廻」、重いほうが「五ヶ所引廻」。後者は牢屋敷から日本橋、赤坂御門、四谷御門、筋違橋、両国橋を巡って刑場に至る道筋で、総延長はおよそ二十キロ、丸一日がかりになる。各地点と刑場に、氏名と年齢と罪状を書いた捨札が立てられた。

六本の札が街に立つわけだ。付加された割合は死刑全体の二割前後で、そのうち八割ほどが短いほうの経路だった。

そして、ここに酒が出てくる。死出の旅ということで罪人には金が渡され、求めに応じて道中で酒を買わせたり煙草を買わせたりした、という記録がある。ロンドンの荷車が「ボウル亭」で止まって強い酒を飲ませたのと、構造がまったく同じだ。この慣行にまつわる有名な逸話も伝わっている。小石川の商家の前を通ったとき、見物人の中に赤ん坊に乳をやっている女がいて、罪人が「あの乳が飲みたい」と所望した。

検使役人は女に命じて願いを叶えてやったが、これ以後この制度は行われなくなった、という。話の真偽はさておき、道中の求めに応じるという慣行が実在し、それが行き過ぎとして畳まれた、という筋書きは示唆的だ。

晒し首のほうも手続きが細かい。斬首は牢屋敷で行われ、首は俵に入れられて、非人と検使の同心が行列を組んで晒し場まで運ぶ。晒し場には獄門台が立てられ、その上に首を据える。台の脇には番小屋と道具掛け、そして罪状を記した捨札が設置された。首は三日二晩晒され、その間は昼夜交代で番がつく。

期間が明けると首は取り捨てられるが、捨札のほうは三十日間立てたままにされた。首より札のほうが長く残る、というのが面白い。

見せるべき本体は情報であって、肉体は情報の添え物という設計になっている。

場所は江戸の南北の出入口、東海道沿いの鈴ヶ森と、日光街道沿いの小塚原。元禄期あたりからこの二か所に定着したと見られる。元は出身が西国なら鈴ヶ森、東国なら小塚原と振り分けていた。それが一八〇九年以降は、江戸在住者について住所と犯行場所で決めるようになった。街道の入口に置かれたのは、江戸へ入ってくる者、特に浪人への警告という意図があったと考えられている。

ここもロンドンと同じで、処刑地の選定は交通量の計算だ。

見せたい相手が通る場所に置く。

もう一つの共通点が遺体の扱いである。死罪の場合、死骸は試し斬りに供された。刀剣の切れ味を確かめるための素材にされたわけだ。小塚原は試し斬りの場所として「おためし場」と俗称されるほどで、同じ場所で腑分けも行われた。一七七一年にここで行われた腑分けの見学が、日本の解剖学史における一つの転回点になったのはよく知られている。

処刑された者の体が医学の資源になるという構造は、イングランドの殺人法とまったく同じだ。ただし日本では、それが法によって「刑罰の一部」として明示されていた点が違う。イングランドでは解剖が汚辱として法定され、日本では試し斬りと腑分けが実務として組み込まれていた。どちらも、死体には所有者がいるという前提の上に立っている。

そして終わり方も似ている。小塚原刑場と鈴ヶ森刑場は、明治に入って廃止された。理由は人道への目覚めというより、欧米と対等の人権基準を設ける必要に迫られた、という外圧に近い動機だった。フランスの公開処刑が写真によって畳まれたように、日本の刑場は国際的な視線によって畳まれたのだ。どちらの場合も、決め手は内側の良心ではなく外からの眼だったことになる。

それでも人はなぜ、処刑を見に行ったのか

ここまで来て、最初の問いに戻る。なぜ人はわざわざ出かけて行ったのか。

第一に、法の側がそれを望んだからだ。抑止のためには見られなければならない。この論理は近代以前の刑罰思想の中核だ。日本でも「処刑されるだけでなく処刑を公衆に見せる必要がある」という説明が、引廻しの根拠として通用していた。国家は最初、観客を必要としていた。

観客が来なければ、刑罰は目的を果たさない。

ジョンソン博士の乱暴な断言は、この点では完全に正しい。

第二に、共同体の仕事があったからだ。絞首台の下に集まった人々の相当部分は、見物ではなく用事で来ていた。遺体を守るため、埋葬してやるため、外科医の手先を実力で追い払うため。仲間のために出張った職人たちがいた。遠方から歩いてきた父親がいた。

処刑の場は、都市の下層が互いに顔を見せる数少ない公共空間でもあったのだ。

一八〇七年の圧死事故の死者名簿が示すように、そこにいたのは無頼漢だけではなく、都市のあらゆる層だった。

第三に、そこで買えるものがあった。一ペニーの紙切れ。腫れ物を治すという触れ込みの接触。縄の切れ端。桟敷の席だ。

パイと酒。処刑は経済圏だった。関わる商売の数を数えていくと、それが数百年続いた理由が分かってくる。誰かの死が、まっとうな職業を何十も養っていたのだ。

第四に――ここが一番言いにくいところだが――見たかったから、としか言いようがない層が確実にいた。サッカレーは自分を含めてそれを認めた。ボズウェルは慣れていく自分を克明に記録したのだ。ディケンズは二ギニー払って屋根に上がってから、群衆を悪魔呼ばわりした。この三人に共通するのは、批判者であると同時に観客だったことだ。

彼らが強いのは、外から糾弾したからではなく、自分の中の同じ衝動を認めた上で書いたからだと思う。

では、なぜ廃れたのか。人道が勝ったから、というのは半分しか当たっていない。もっと即物的な要因が三つある。一つは統制の失敗だ。群衆が大きくなりすぎて、四万人が集まって数十人が圧死するような事故を国家が管理しきれなくなった。

二つ目は技術の変化で、落下距離が計算されるようになると処刑は数秒で終わり、見世物としての持続時間そのものが消えた。

三つ目は記録の登場だ。写真と映画が「その場にいた者だけの体験」を無限に複製可能な物にしてしまう。当局は群衆の規模を制御する手段を永久に失った。

そして、いちばん怖いのはここだと思う。公開処刑がなくなったのは、人が残酷でなくなったからではない。残酷さの見せ方が変わっただけだ、という可能性が消えない。壁の中に入った処刑は、黒旗と鐘によって外へ告知され続けた。群衆は壁の外に立ち、旗が上がるのを待った。

首の代わりに三十日立ち続けた捨札と、これは同じことをやっている。見せるべきは肉体ではなく情報だ、という判断に、東西の当局は別々にたどり着いた。

十八世紀の桟敷席と、それを買った人々の顔は、遠い昔の他人には見えない。彼らは前の晩から並び、いい席に金を払い、露店で腹を満たし、終われば紙を一枚買って帰った。その一連の作法は、現代のわれわれが何かの「事件」を消費するときの手順とほとんど変わらない。違うのは、彼らの視線の先に本物の人間がいたことだけだ。そしてその違いは、彼らが選び取った差ではなく、単に舞台装置が入れ替わっただけかもしれない。

処刑見物の歴史がいちばん不気味なのは、絞首台そのものではなく、そこに向けられた眼のほうが、まったく古びていないという事実のほうだ。

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