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首斬り浅右衛門の家――浪人のまま大名並みに稼ぎ、処刑体から薬を売った「御様御用」山田浅右衛門家の二百年

江戸の話をしていると、たまに「え、その職業ほんとに実在したの?」という家に行き当たる。山田浅右衛門は、その代表格だ。刀の切れ味を試す係。しかも試す相手は人間の遺体。

おまけに死刑の首斬りも請け負う。身分は浪人。なのに稼ぎは小大名クラス。さらに副業で、処刑された人の内臓から作った薬を売っていた。しかも飛ぶように売れた。

なんだこれは、と思う。全部が全部、現代の常識から外れている。でもこれは怪談でも都市伝説でもなくて、幕府の公式な役務として二百年近く続いた実在の家業だ。今回はこの山田家という異物について、代々の名前も年号も地名も全部並べながら、じっくり見ていきたい。読み終わる頃には、たぶん江戸という時代の見え方が少し変わっているはずだ。

そもそも「御様御用」って、何をする役だったのか

まず言葉から片づけよう。御様御用と書いて「おためしごよう」と読む。御試御用とも書く。要するに、将軍家の刀の切れ味を公式にチェックする役だ。なんで刀の切れ味をわざわざチェックする必要があるのか。

ここが江戸という時代のややこしいところで、泰平が続いて刀は実戦に使われなくなった。でも刀は武士のアイデンティティで、しかも将軍が大名に下賜する贈答品でもある。贈る側としては、切れない刀を渡すわけにはいかない。だから「これは確かによく斬れます」という保証が要る。問題は、その保証をどうやって取るかだ。

江戸時代の常識では、刀の切れ味を確かめるなら人間で試すのが一番だとされていた。硬さも、皮膚の抵抗も、骨の入り方も、巻き藁では再現できないという理屈である。今の感覚で聞くとぎょっとするが、当時は本気でそう考えられていた。そこで登場するのが、死罪になった罪人の遺体だ。江戸時代の死罪というのは、単に首を斬られて終わりではない。

斬首のうえ、遺体を試し斬りに供する、という付加刑が最初からセットになっていた。同じ打首でも「下手人」という軽い方の刑罰だと遺体は試し斬りに使われず、遺族が引き取って弔うことも許された。死罪はそれが許されない。財産も没収される。埋葬も弔いも建前上は認められない。

刑の重さが、死んだあとの扱いで表現されていたわけだ。山田家は、この「死罪人の遺体を拝領する」権利を持っていた。ここが全ての起点になる。

山田浅右衛門は、勝ち残ったんじゃない。生き残った

初代は山田浅右衛門貞武。明暦三年、西暦でいうと一六五七年の生まれで、享保元年の暮れ、一七一七年の頭に六十歳で亡くなっている。この人、若い頃はろくでもなかったらしい。当時の江戸には「六方者」と呼ばれる、街をのし歩いて喧嘩を売るような連中がいて、貞武もその手合いだった。父親が「もう出家させるしかないか」と本気で悩んだという記録が残っている。

それが人の忠告で心を入れ替え、武芸に打ち込むようになる。ちょうどその頃、新しく打たれた刀の性能を確かめる試し斬りが流行っていて、貞武はそこに突っ込んでいった。大事なのは、貞武が試し斬りを発明したわけではないという点だ。彼は山野一門の門下生である。江戸初期の試し斬りの世界には、すでに名人と呼ばれる人たちが何人もいた。

山野勘十郎、中川左平太、鵜飼十郎右衛門。とくに鵜飼という人は元禄五年に御様御用を拝命してから九年の間に千五百人分の遺体を斬ったと伝わる、桁外れの数字を残した人物だ。つまり最初、この仕事は複数の「芸者」――ここでいう芸者は芸能の人ではなく、特殊技能の専門家という意味だ――が競合するマーケットだった。山田家はそこに後から入ってきた新参のひとつにすぎない。ところがだ。

ライバルたちが、次々といなくなる。享保五年五月二日、伝馬町の牢屋敷での御用で切り手を務めたのは、宇都宮城主戸田家の家来である倉持安左衛門と、浪人の山田浅右衛門の二人だった。同じ年の六月二日と七月二十五日も、この二人組が担当している。そして元文元年、一七三六年の九月二十七日、倉持安左衛門の死去が幕府に届け出られる。これで、御様御用の切り手は山田浅右衛門ただ一人になった。

同じ年の十月十日、浅右衛門は幕府に伺いを立てる。今の状態だと自分が病気になったときに御用に差し支えるので、息子の源蔵にも御様御用の経験を積ませたい、と。この一件で、山田家が将軍家の試し斬りを「家の芸」として独占する体制が固まった。江戸史家の氏家幹人はこの経緯について、浅右衛門は勝ち残ったのではなく生き残ったのだ、という趣旨のことを書いている。これがすごく的確だと思う。

誰かを蹴落として頂点に立ったのではなく、みんなが降りていった結果、最後に一人残ってしまった。じゃあなぜみんな降りたのか。年齢や死去もあるだろうが、この仕事そのものへの罪悪感、宗教的な負い目のようなものが確実にあった。斬れば斬るほど、心に何かが積もっていく。そういう商売なのだ。

浪人のままでいたのは、たぶん計算だった

ここが山田家の一番わかりにくいところで、そして一番おもしろいところでもある。将軍家の御用を独占的に務めているのに、山田家は幕臣ではなかった。身分は一貫して浪人。決まった知行も俸禄も受け取っていない。明治五年のいわゆる壬申戸籍でも、山田家は「平民」と記載されている。

なぜか。二代目の吉時が将軍徳川吉宗の前で試し斬りを披露した際、取り立ての機会があったのに逃したのだ、という説がひとつ。もうひとつ、こちらの方が説得力があると思うのだが、幕臣になってしまうと家禄が世襲になり、腕がなくても家が続いてしまう。それを避けたのではないかという見方がある。実際、山田家は後で見るように、実子ではなく腕の立つ弟子に家督を渡す家だった。

役職が世襲化すれば、その原理が働かなくなる。武士になった瞬間に技能集団としては終わる、と当主たちは分かっていたのかもしれない。そして浪人でいることには、露骨な実利もあった。幕府の役人になっていたら、副業で荒稼ぎはできない。曖昧な身分のままだったからこそ、山田家は全国の大名や刀剣愛好家から直接依頼を取り、直接カネを受け取り、依頼があれば大名家に人材派遣までやれた。

制度の外側に立つことで、制度の中では絶対に得られない自由を手に入れていたわけだ。

大名並みの財産は、どこから湧いてきたのか

山田家の富は、小大名並みと言われる。三万石から四万石相当という見積もりもある。幕府から一文も貰っていない家が、どうやってそこまでいくのか。収入源を分解してみよう。一番大きいのが「遺体」そのものだ。

処刑された罪人の遺体を拝領できるのは山田家の特権だった。江戸市中で刀の試し斬りをしたければ、浅右衛門に頼む以外の手段が事実上なかった。だから全国から刀と依頼料が送られてくる。ここで面白いのが、需要が供給を完全に上回っていたことだ。処刑される罪人の数より、試し斬りを頼まれる刀の本数の方がはるかに多い。

足りない。どうしたか。斬った遺体を縫い合わせて、一体で何振りもの刀を試したという。この記述に出会ったとき、ちょっと呼吸が止まった。効率化という言葉が、こんなところにまで及ぶのかと思ったのだ。

それでも足りないので、自分で試し斬りをやりたい武士に対して遺体を売ることもあった。江戸には、この分野に妙に熱心な殿様たちが実在した。次が鑑定料。試し斬りの膨大なデータを持っているということは、刀の目利きとして誰よりも信頼できるということでもある。山田家は刀剣鑑定を請け負い、折紙と呼ばれる鑑定書を発行して礼金を得た。

これが安定した収入になった。そして処刑代行の手数料。ここの仕組みが、実は相当ややこしい。

首斬りの役を、わざわざ買っていた話

江戸の死罪の執行で、実際に首を斬るのは町奉行所の同心の仕事だった。ここを間違えている本は多いのだが、浅右衛門が公式の死刑執行人だったわけではない。あくまで本来の担当は同心である。同心が首を斬ると、刀の研ぎ代として金二分が支給された。ところが、その役を浅右衛門に譲って代わりに斬らせると、その二分は同心の懐に丸ごと残る。

そのうえ「役を譲ってやった」という名目で、浅右衛門からも礼金の分け前が入る。同心にしてみれば、譲った方が儲かるし、気も楽だ。だから浅右衛門の側は、この役を回してもらうために、日頃から同心たちに付け届けを贈っていた。首を斬る仕事を、こちらからカネを払って買いにいっていたわけだ。なぜそこまでするのか。

斬首の場に立ち会えれば、その遺体をそのまま試し斬りに使える。試し斬りの依頼料と遺体販売と、その先の製薬まで全部つながっている。首斬りは、山田家にとって儲けの入り口だったのだ。ここに気づくと、この家の構造が一気に見えてくる。彼らは死刑執行人という「役職」の人ではなくて、死罪という制度の周りにできた経済圏を丸ごと押さえていた事業者だった。

二つ胴、三つ胴――刀に刻まれた成績表

試し斬りには、きちんとした技術体系と等級があった。据物斬りと呼ばれる技術がそれで、要するに動かない対象を規定の姿勢で斬る技だ。遺体は土壇と呼ばれる盛り土の上に置かれ、竹の杭で固定される。切り手から見て右側を上、左側を下、背中を切り手の側に向ける。こうした置き方の作法まで細かく決まっていた。

斬る場所も部位ごとに名前がついていて、肩に近い方から順に、摺付、毛無、脇毛、一の胴、二の胴、八枚目、両車といった呼び名で区別された。名称は全部で十種類以上ある。上に行くほど骨が太くて難しく、腰に近い両車や、体を斜めに深く抜く太々、雁金といった斬り口が最上級の難度とされた。逆に三の胴あたりは比較的やさしい部類に入る。そして有名なのが「二つ胴」「三つ胴」だ。

これは遺体を複数重ねて、一太刀で何体まで斬り通せるかという記録である。記録として史実に残っているのは七つ胴あたりまで。数字だけ見ると信じがたいが、この等級は刀の性能を示す公式な数値として通用していた。この結果は、刀身に刻まれる。截断銘といって、どの部位をどれだけ斬ったか、斬り手は誰か、いつやったのかを、金象嵌などで刀に象嵌する。

刀にとってこれは成績証明書であり、同時に価値証明書だった。截断銘が入っている刀は、今でも評価が高い。斬れ味の記録が、そのまま美術品の価値になっている。ここでちょっと立ち止まりたい。刀に彫られたその一行は、誰かの死の記録でもある。

それが数百年後にコレクターズアイテムの付加価値として扱われている。この二重性が、山田家という存在の本質を一番よく表している気がする。

江戸で一番売れた「格付け本」を作った男

五代目、山田浅右衛門吉睦。一七六七年生まれ、一八二三年没。この人が後に朝右衛門と名を改める。山田家の歴史のなかで、たぶん一番社会的インパクトを残した当主だ。寛政九年、一七九七年の秋、『懐宝剣尺』という本が出る。

肥前唐津藩士の柘植平助方理の依頼で編まれたもので、試し斬りの実務を担当したのが吉睦と須藤五太夫だった。中身は何かというと、刀工の格付けである。最上大業物が十二工、大業物が二十一工、良業物が五十工、業物が八十工。混合分類を含めて合計二百二十八工。選定の目安は、十回試して三回から四回は両断できる、あるいは両断寸前まで斬り込めるという水準だった。

これが売れた。刀を持つ武士も、刀を打つ刀工も、この本の序列を無視できなくなる。自分の差料が最上大業物に入っているかどうかで気分が変わる。刀工にとっては、ここに載るかどうかが商売に直結する。要するに、江戸のミシュランガイドだ。

好評を受けて文政十三年、一八三〇年に増補改訂版として『古今鍛冶備考』が出る。こちらは最上大業物十五工、大業物二十二工、良業物五十四工、業物九十一工、合計二百四十六工に増えている。ちなみにその少し前、文政六年にあたる一八二三年には、山田家の秘伝書『当流一流免前之巻』も成立している。面白いのは、この格付けの権威が何に由来しているかだ。人間の遺体を実際に斬った膨大な回数、それだけである。

そのデータの出どころを誰もが知っていながら、格付け自体は堂々と流通し、刀剣の世界の共通言語になった。今も刀剣の解説で「最上大業物」という言葉を見かけるが、あの言葉はここから来ている。二百年以上たった今も、山田家の仕事は生きているのだ。

そして、人胆丸の話をしよう

ここからが山田家の話で最も引っかかる部分だ。山田家は薬を作っていた。原料は処刑された罪人の遺体である。肝臓、胆嚢、胆汁、脳。それらを乾かして丸薬にした。

商品名は「人胆丸」「山田丸」「浅右衛門丸」。人胆丸はジンタンガンともニンタンガンとも読まれたようで、当時の読み方は一定していない。効能として喧伝されたのは労咳、つまり結核だった。江戸時代、労咳は不治の病である。かかったら死ぬ。

治す方法がない。そこに「効く」と言われる薬が現れたら、人はどうするか。買う。値段がいくらだろうが買う。この薬は飛ぶように売れ、山田家に莫大な富をもたらし、武家も町人も買った。

誰もが原料が何かを知っていて、それでも買った。なぜそんなことが成立したのか。背景には、人間の体、とくに肝には特別な力が宿るという古い信仰がある。中国医学の古典である『本草綱目』には人胆という項目が実在し、死者の邪気や肺の病、瘧、切り傷に用いると書かれている。日本でも、九州の一部には処刑された者の肝を求める習俗の伝承が残る。

江戸の薬屋では、珍しい薬材の虫干しと一般公開が人気の催しになっていて、そこには黒檀や象牙や角水晶と並んで、人体由来の品が誇らしげに陳列されていたという。つまり人胆丸は、山田家が思いついた突飛な発明ではなかった。当時すでにあった需要と信仰の上に、原料への独占的アクセスを持つ家が乗っかった。それだけの話だ。だからこそ怖い。

異常なのは山田家ではなく、そういう需要が普通にあった社会の方なのだ。ここではっきり書いておくが、この記事は製法を紹介する気は一切ない。史料にも詳細な工程が残っているわけではないし、残っていたとしても書く意味がない。押さえるべきは、遺体という資源を独占した家が、その資源から医薬品市場へ橋を架けたという構造の異様さだ。処刑という国家の暴力の副産物が、パッケージされて薬として流通する。

制度と市場が、こんな形で接続してしまうことがある。浅右衛門の屋敷には、この原料を保管しておく蔵まであったと伝わる。役所の小役人が薬を目当てに集ってきたという話も残っている。上質な原料は健康な体からのものだ、といった生々しい認識も記録に見える。産業だったのだ、完全に。

「じゃあ俺の肝を買ってくれ」

この家に伝わる逸話のなかで、個人的に一番忘れられないのがこれだ。ある日、山田家にいかにも人相の悪い男が訪ねてきて、金を貸してくれと言った。断られる。すると男はこう返した。じゃあ俺の肝を買ってくれ。

どうせあんたに首を斬られるんだから、その前金だ。そう言って、不気味に笑って帰っていった。短い話だが、情報量がすさまじい。この男は自分がいずれ処刑されると分かっている。処刑されれば遺体が山田家に渡ることも、そこから薬が作られることも知っている。

だから先に売る、と言う。自分の死後の体を、生きているうちに商品として値付けする発想が、この時代の路上にごく普通に転がっていた。冗談として成立するということは、前提が共有されていたということだ。山田家が何をしているか、江戸の人間はみんな知っていた。知ったうえで、薬を買っていた。

この距離感が、江戸という時代の肌ざわりを教えてくれる。

息子には継がせない、という家訓

山田家の相続は、かなり変わっている。原則として、当主に実子の男子がいても跡を継がせない。弟子のなかから最も腕の立つ者を選んで養子にし、家督を渡す。実子が継いだのは、二代目の吉時と八代目の吉豊、この二回だけだ。理由は二つあると言われる。

ひとつは技術の維持。据物斬りも介錯も、生まれつきの才能と猛烈な鍛錬がないと務まらない。血だけで継がせたら、いつか失敗する。失敗すれば苦しむのは斬られる側だ。もうひとつは、もっと人間的な理由。

罪人の首を斬るという家業を、自分の子に背負わせたくなかった。この感情があったとされる。このふたつは、実は同じところを向いている。技を守るためには血縁を諦めるしかなく、子を守るためにも血縁を諦めるしかなかった。家というものが血のつながりで定義される社会のなかで、この家だけが技能と情のために血を切り離していた。

異常な家だと言われるけれど、この一点だけ見れば、むしろ誠実すぎるくらいだと思う。歴代を並べておこう。初代が貞武、一六五七年から享保元年すなわち一七一六年。二代が吉時、一七四四年没で、髭浅右衛門という異名があった。三代が吉継、一七〇五年から一七七〇年。

四代が吉寛、一七三六年から一七八六年で、晩年は病がちで代役が立ったという。五代が吉睦、一七六七年から一八二三年、格付け本の人だ。六代が朝右衛門吉昌、一七八七年から一八五二年。七代が朝右衛門吉利、一八一三年から一八八四年だ。八代が吉豊、一八三九年から一八八二年。

そして九代の吉亮、一八五四年から一九一一年。七代吉利は新見藩士で門人だった後藤五左衛門の次男だ。五代目の養子である吉寧の娘、つまり六代目の養女と結婚して家に入っている。血ではなく腕と縁組で入ってきた人である。そして九代の吉亮は八代吉豊の実弟にあたり、七代吉利の三男だ。

介錯という、もうひとつの顔

山田家の仕事は、罪人の斬首だけではない。切腹の介錯という、まったく性格の違う仕事も担っていた。江戸中期以降の切腹は、実質的にほぼ儀式になっていた。腹を切るとされてはいても、三方に載っているのは短刀ではなく扇子や木刀ということも多く、切腹人がそれに手を伸ばした瞬間に介錯人が首を落とす。扇子腹と呼ばれる形式だ。

介錯には作法がある。首を完全に落とさず、皮を一枚残して胴につないだ状態にする。これを抱き首という。首が飛んで土に汚れるのを防ぐため、身体を分断するのは親不孝だという儒教的な観念のため、そして首が胸の前にぶら下がる重みで体が前に倒れるようにするため。いくつもの理由が重ねられている。

討ち死には前のめりが美しいとされたからだ。何より、完全に落としてしまうと不名誉な斬首刑と同じになってしまう。介錯は、死の形式を武士のものとして守るための技術だった。そしてこれが、恐ろしく難しい。腕の未熟な者がやると、何度も斬りつけて相手を苦しめることになる。

刀を曲げてしまうこともある。介錯の失敗は預かり側の家の恥とされたから、家中に腕の立つ者がいなければ、外部に依頼するしかない。そこで山田家に声がかかる。山田家は当主だけでなく多くの弟子を抱えていて、必要に応じて各所に派遣した。川越藩の据物師である長畑家のように、親子でこの技を継いだ家もある。

弟子たちはそれぞれ異なる藩に所属していた。つまり山田家は、江戸最大の「斬る技術」の人材センターでもあったのだ。浪人の当主が、諸藩の武士に技術を供給し、武士の名誉ある死の作法を成立させていた。身分の建前と実務の中身が、ここまでねじれる。

蝋燭が、一本ずつ消えていく

この家には、怪談がまとわりついた。当然といえば当然だ。有名なのが蝋燭の話。処刑の日、斬る人数を聞いた浅右衛門は、その数だけ蝋燭を灯してから出かける。そして首がひとつ落ちるたび、屋敷に残された蝋燭の火が、ひとりでに一本ずつ消えていく。

誰も触っていないのに、である。これは事実ではない。事実ではないが、当時の人がこの家をどう見ていたかを教えてくれる。江戸の人々にとって山田家は、生と死のあいだに立って何かを操作している家だった。だから物理法則が通じない話が似合ってしまう。

もっと現実的な誤解も広まっていた。浅右衛門は穢多頭の弾左衛門の配下だ、という噂だ。これは完全な間違いで、山田家は被差別身分に属していない。専門技能を持つ浪人である。だが、こういう誤解が流布したこと自体に意味がある。

首を斬る仕事をする者は、そういう身分の人間に違いない。江戸の人々の頭のなかには、そういう回路があった。ここは慎重に扱いたい。江戸の刑罰体系では、誰が執行するかによって刑の重さが表現されていた。磔のような最も重い刑は、当時被差別身分とされた人々に執行させることでその重さを象徴させる、という構造があった。

これは当時の身分制度が生んだ差別の仕組みであって、担わされた側の人々の性質を表すものでは全くない。歴史を見るときに必要なのは、その構造がどう作られ、誰にどんな負荷を押しつけたかを見ることだ。山田家に貼られた誤ったレッテルも、その構造が生んだ影のひとつとして読むべきだと思う。

穢れと誉れ――同じ刀が、忌まれ、称えられる

この家を語るのに一番いい言葉が「穢れと誉れ」だと思っている。宝永元年、一七〇四年の四月。徳川家康の命日に行われる日光の祭礼にあたって、幕府は忌み慎むべき穢れの一覧を出した。そこにこう書いてある。試し斬りをした刀や脇差は、三十日を経なければ穢れが付いているので、神事の場には持ち込めない。

刀に対してすらこれだ。ものにも移ると考えられていた。ならば、それを実際に振るう人間がどう見られていたかは想像がつく。ところが、まったく同じ刀が、まったく同じ行為の結果として、刀剣の世界では価値を上げる。截断銘の入った刀は名品として珍重される。

そして浅右衛門本人は、刀剣鑑定の第一人者として大名からも尊重されていた。客筋は最上級である。日光参詣に際して三百両を寄進したという記録もある。同じ行為が、宗教の文脈では穢れになり、鑑識の文脈では権威になる。これは矛盾ではなく、この時代の権力構造がそのまま出ているだけだ。

武士という支配層は、結局のところ人を殺す能力によって権力を握っている。その事実を武士道という言葉で覆いながら、覆いきれない部分を誰かに引き受けさせる必要があった。山田家は、その引受人だった。誉れと穢れを同時に押しつけられる場所に、ぽつんと立たされていたのだ。

供養塔を建て、俳句を詠んだ人たち

じゃあ当主たちは、それをどう処理して生きていたのか。まず、供養だ。歴代の浅右衛門は、稼いだ大金の相当な部分を、自分が首を斬った者たちの供養に注ぎ込んだ。貧しい人への施しにも使った。六代目の吉昌は刑死者の供養塔を建てている。

今も東京の池袋、瑞鳳山祥雲寺という曹洞宗の寺に残る塚がそれだ。この寺には八代目の墓もあり、七代目の墓も伝わっている。ちなみに祥雲寺は天文元年、一五三二年の創建で、池袋に移ってきたのは大正四年のことだ。昭和十三年には研究者たちの手で「浅右衛門之碑」が建てられ、三代目以降の戒名と没年月日、そして辞世が刻まれた。もうひとつが、俳諧だ。

三代目の吉継以降、当主たちは俳諧を学び、俳号を持った。八代目吉豊の俳号は亀宝館柊哉という。なぜ首斬り役が俳句を詠むのか。伝わっているのは、処刑される者が最期に残す辞世の句や歌を、きちんと理解するためだったという話だ。目の前の人間が命の最後に絞り出す十七文字を、意味も分からず聞き流したくない。

そのために教養を身につけた。これが本当なら、相当なことだと思う。仕事としては効率も何も関係ない。ただ、自分が斬る相手を最後まで人間として扱うために、勉強していた。供養に金を注ぐのも同じ動機だろう。

自分の裕福な暮らしが誰かの死の上に立っていることを、この家の人たちは正確に自覚していた。自覚していたから、その重さを何かで受け止めようとし続けた。そういえば七代目の吉利には、こんな話も残っている。首の上に米粒を載せておいて、首と一緒に米まで斬った。左手に傘を持ったまま、右手一本で斬った。

技の伝説である一方で、晩年の吉利は困窮した人の世話に力を注ぎ、毎朝、縁の下の鼠と軒下の雀に餌をやっていたという。手を叩くと集まってくるほど懐いていたそうだ。伝説と実像が、妙な形で同居している。

吉田松陰の首を斬ったのは、本当に浅右衛門なのか

山田家の名前が一番よく登場するのが、安政の大獄だ。七代目の朝右衛門吉利が、橋本左内や吉田松陰の首を斬ったと伝わっている。池袋の祥雲寺に残る七代目の墓の説明にも、剣豪として知られた七代目が橋本左内、吉田松陰らの首を斬った人物とも伝わる、と書かれている。ただし、この「伝わる」という言い方は重要だ。

安政六年、伝馬町の牢屋敷で執行されたこれらの処刑について、切り手を明記した一次史料が確実に押さえられているわけではない。前に書いたとおり、死罪の首を斬るのは本来は町奉行所の同心の役目で、浅右衛門はそれを譲り受けて斬ることが多かった、という関係だ。だから可能性は高いのだが、断定できる話ではない。歴史の伝承は、こういうふうに強い名前へ吸い寄せられる。

幕末の重要人物が斬られた、江戸で首斬りといえば浅右衛門だ、じゃあ斬ったのは浅右衛門だろう。この推論はたぶん多くの場合正しいのだけれど、正しさの根拠は「そういうものだから」という慣習の知識であって、記録ではない。ここは正直に書いておきたい。伝承としては強固で、たぶん事実に近い。でも、証明されたことではない。

この留保を外して断言する記事が世の中には多すぎる。なお、小塚原の刑場は慶安四年、一六五一年に千住大橋の南側に作られた場所で、現在の東京都荒川区南千住にあたる。磔や火刑、獄門が執行され、試し斬りの場としても使われた。創設から廃止までに二十万人以上が処刑されたという伝えもある。寛保元年、一七四一年には高さ三メートルほどの首切り地蔵が建てられた。

明和八年、一七七一年には杉田玄白らがここで刑死者の解剖に立ち会い、後の『解体新書』につながっていく。安政の大獄で処刑された橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎らも、この地に一時葬られた。回向院の名で知られる寺が隣接し、供養を担った。もうひとつの刑場である鈴ヶ森が江戸の南の入口を押さえ、小塚原が北を押さえる。街道から江戸に入る人間が、必ず見せられる場所に刑場は置かれていた。

見せしめのための立地である。

高橋お伝と、明治になっても続いた首斬り

幕府が倒れても、山田家の仕事はすぐには消えなかった。八代目の吉豊とその弟の吉亮は、明治政府のもとで「東京府囚獄掛斬役」として出仕する。手当は月に五両。江戸のときと違って、はっきり役人になったわけだ。氏家幹人の分析を借りれば、牢屋の外部に発注していた死刑執行が、牢屋の内部で調達される体制に変わった。

空間の配置そのものが変わったのだ。この明治期に、九代目の吉亮は近代日本の事件史に名前を残すことになる。明治十一年、紀尾井坂で大久保利通を暗殺した島田一郎ら。そして明治十二年一月三十一日、市ヶ谷監獄で斬首された高橋お伝。お伝の事件は明治九年八月二十六日、浅草蔵前の宿で古着商の後藤吉蔵を殺害し、十一円を奪ったというものだ。

処刑の翌日から小新聞が一斉に戯作調で書き立て、読売の口説き歌にまでなり、「毒婦もの」というジャンルが生まれた。このお伝の処刑については、暴れた、何度も斬り損ねた、といった凄惨な伝承がついて回る。ただ、これらの多くは当時の新聞や後世の読み物が膨らませた部分が大きく、記録から確実に言えることは限られる。

伝わっている場面としては、同じ日に処刑された安川巳之助という男が恐怖で震えていたのを、お伝が笑って見ていたというものがある。そして、この事件で本当に重いのは処刑そのものではなく、その後だ。お伝の遺体は警視庁第五病院で軍医により解剖され、一部の標本が衛生試験場に保存された。標本はその後、東京大学医学部、戦時中には東京陸軍病院に渡ったとされるが、詳細は分からない。

昭和七年の時点でまだ保存されていたという報告がある。遺体そのものは小塚原の回向院に葬られた。これは何を意味するか。江戸の山田家が刀の試し斬りのために遺体を利用したのと同じ場所に、近代医学が別の理屈で立ってきたということだ。刑死者の体を資源として扱う発想は、制度が変わっても消えなかった。

名目が「刀剣の性能検査」から「医学研究」に置き換わっただけとも言える。近代化はこの構造を解体しなかった。上書きしただけだ。ここは強調しておきたい。

明治三年四月十五日、家業が禁止された

山田家の終わりは、じわじわ来た。明治二年、東京府で試し斬りが差し止められる。当主は嘆願書を出した。これまで通り続けさせてほしい、と。却下された。

この嘆願書については研究論文も書かれている。江戸期には公職に付随する副収入が当たり前に認められていたのが、近代国家ではそれが認められなくなる。その過渡期のきしみが、この一枚の紙に出ている。そして明治三年四月十五日、いわゆる弁官達が出る。文面はこうだ。

これまで刑死者の遺体で刀剣の切れ味を試してきたが、これは残酷なことであるから厳しく禁止し取り締まること。その他、人胆や霊天蓋、陰茎などを密売しているようであるから、これも厳しく禁止し取り締まること。一枚の通達で、山田家の二大収入源が同時に消えた。試し斬りも、製薬も、どちらも違法になった。

ちなみに国立公文書館には、この件に関する太政類典の文書が「刑余ノ骸ヲ以刀剣ノ利鈍ヲ試ミ及人胆霊天蓋陰茎等ヲ密売スルヲ禁ス」という件名で残っている。理由として掲げられたのは「残酷である」ということだった。近代国家として西欧と対等な人権基準を持つ必要がある、という判断が背後にある。実際、小塚原の刑場は明治六年七月に廃止された。伝馬町の牢屋敷も、明治八年に市ヶ谷監獄ができるまでで役目を終える。

明治七年、八代目吉豊は斬役の職務を解かれる。残ったのは弟の吉亮だけになった。

最後の首と、床屋で倒れた男

明治十四年七月二十七日、市ヶ谷監獄。強盗目的で一家四人を殺害した岩尾竹次郎と川口国蔵の死刑が執行された。これが、日本の法制史上最後の斬首刑だとされる。そして山田吉亮は、この年、斬役から市ヶ谷監獄の書記に配置換えになる。翌明治十五年、退職。

同じ明治十五年一月一日、旧刑法が施行された。明治十三年に公布されたこの法律は、死刑の方法を絞首刑に統一している。刀で首を斬る刑は、これで制度上も消えた。刀を使う死刑がなくなったということは、刀を振る専門家が国家に要らなくなったということだ。山田家という家は、幕府が倒れたから終わったのではない。

刑罰のかたちが変わったから終わったのだ。制度が生んだ家業が、制度の変更で消滅した。それだけと言えばそれだけだが、二百年近く続いたものが、たった二つの法令であっけなく畳まれる。八代目の吉豊は明治十五年に亡くなっている。七代目の吉利は明治十七年、一八八四年に七十二歳で世を去った。

戒名は天寿院慶心和水居士。祥雲寺に眠っている。そして九代目の吉亮。明治十四年に斬役を離れてから、三十年ほどを生きた。亡くなったのは明治四十四年、一九一一年。

四谷の床屋で脳の血管が切れて、突然倒れたという。五十八歳だった。最後の首斬り役人の最期が、床屋である。この落差が、なんとも言えない。刀を持って土壇に立った男が、椅子に座って髪を切ってもらっている途中で、あっけなく死ぬ。

彼が斬った人数の記録も、彼が何を思って三十年を過ごしたのかも、確たるものはほとんど残っていない。

この家が今も引っかかり続ける理由

山田浅右衛門という家の話が、なぜこんなに人を引きつけるのか。怖いからではないと思う。というか、怖さの種類が違う。この家がやっていたことは、全部、当時のルールの内側にある。死罪の遺体を試し斬りに使うのは刑罰の一部として法に定められており、刀の切れ味を人体で確かめるのは技術的な常識だった。

人の肝から薬を作るのは古い医学書に典拠のある行為だった。誰も法を破っていない。誰も隠れてやっていない。全部、白昼の制度として動いていた。異常なのは個人ではなく、システムの方だ。

そしてそのシステムは、参加している人間の誰にとっても異常には見えなかった。刀を送ってくる大名も、薬を買う町人も、首斬りの役を譲って小遣いを稼ぐ同心も、みんな普通のことをしているつもりだったのだ。そのシステムの一番濃いところに立たされた家が、供養塔を建て、俳句を習い、実子に継がせず、蝋燭の怪談を背負った。それが山田浅右衛門だ。明治になって、この家は消えた。

消えたのは、それが残酷だと国家が判断したからだ。判断が変われば、制度は変わる。制度が変われば、その周りにできた家業も人生も丸ごと消える。逆に言えば、今わたしたちが当たり前だと思っている制度も、百年後には同じ目で見られている可能性がある。山田家を見るときの一番の収穫は、たぶんそこだ。

過去を裁くための材料じゃなくて、自分たちの足元を疑うための鏡。この家は、そういう形で今も残っている。ここからは、本文で足早に通り過ぎた論点をもう少し腰を据えて掘り下げたい。山田浅右衛門という主題は、ちょっと調べると逸話の派手さに引っ張られてしまう。蝋燭が消える、米ごと首を斬る、遺体を縫い合わせる。

どれも強烈で、記事映えする。でもこの家の本当のおもしろさは、逸話ではなく構造の方にあると思っている。まず整理したいのが、山田家が「死刑執行人」だったのかという問題だ。ここは誤解が多い。江戸の死罪において、首を斬る役は本来、町奉行所の同心が担っていた。

制度上の執行者は同心である。山田家は、その役を譲り受けて代行することが多かった、という関係にすぎない。研究の世界でも、山田家を刑吏の専門階層として描いた古い説には批判がある。実態は「刀の試し斬りと鑑定を生業とする浪人」であって、死刑執行はそこに付随した業務だった。この順番が大事だ。

首斬りが本業で試し斬りが副業なのではなく、試し斬りが本業で首斬りが手段だった。しかも手段を得るために、こちらから同心に付け届けを渡していた。つまり山田家の行動原理は、宗教でも義務でもなく、極めてビジネスライクな垂直統合だ。上流の原料調達、つまり遺体を確保するために、執行の現場に自分から入り込んでいく。そこから試し斬り、鑑定、格付け出版、製薬まで、一本の線でつながる。

江戸の家業としては、驚くほど近代的な事業設計をしている。次に掘りたいのが、なぜ独占が成立したのかという点だ。本文でも書いたが、山田家は競争に勝ったのではない。江戸初期、この分野には山野勘十郎、中川左平太、鵜飼十郎右衛門といった強力な担い手がいた。鵜飼などは元禄五年から九年で千五百人分を扱ったとされる。

にもかかわらず、彼らは一人ずつ舞台を降りていく。享保五年の段階で残っていたのは倉持安左衛門と山田浅右衛門の二人、元文元年に倉持が死んで、山田だけになった。ここで見落とされがちなのが、退場の理由だ。年齢や死去だけでは説明がつかない。氏家幹人が指摘するように、戦国から江戸初期にかけては大名ですら自ら試し斬りをやっていた。

それが特定の専門家の手に移っていった背景には、武芸の専門分化だけでなく、試し斬りそのものに対する忌避感情の高まりがあった。つまり社会の側が、この行為から少しずつ後ずさりしていったのだ。そう考えると、山田家の独占は栄光ではなく、押しつけの帰結ということになる。誰もやりたくないが、制度上は必要な仕事。それを引き受け続けた家だけが残り、残ったがゆえに莫大な利益を得て、同時に穢れの印象を一身に背負った。

利益と烙印がセットで来る。この構造は、実は現代の社会にも形を変えて残っている気がする。誰もやりたがらないが社会に必要な仕事を、少数の担い手に集中させて、報酬と偏見を同時に押しつける。名前と業種が違うだけで、仕組みは大差ない。三つ目に掘りたいのが、人胆丸の位置づけだ。

この話はどうしてもグロテスクな見世物として消費されやすい。でもそこで止まると、一番大事なことを見落とす。労咳、つまり結核は江戸時代の日本で最も恐れられた病のひとつだった。治療法はない。かかれば死ぬ。

この絶望的な空白に対して、人体由来の薬という発想が入り込んでくる。しかもその発想は日本の思いつきではなく、中国医学の古典に典拠がある。『本草綱目』には人胆の項目が実在する。江戸の薬屋は、虫干しの日に人体由来の品を堂々と並べて客を集めていた。この事実が示すのは、当時の扱いだ。

人体由来の薬材は「怪しい闇の品」ではなく、「珍しい高級薬材」だった。

つまり山田家は、既存の需要に対して原料を独占供給できる立場にいただけだ。彼らが需要を作ったのではない。需要は先にあった。そこに、死罪の遺体を合法的に拝領できる唯一の家がいた。これは市場の構造としてはあまりに強い。

競合が原理的に存在しないのだから。もっと言えば、この構図は明治になっても本質的には終わっていない。高橋お伝の遺体は解剖され、標本が数十年にわたって保管され、複数の機関を移動していった。この事実が示すのは一つだ。刑死者の身体は、国家によって研究資源として扱われ続けた。

江戸では刀剣、明治では医学。目的が変わっただけで、「刑死者の身体は公共的に利用可能である」という前提はそのまま引き継がれた。

近代化はこの前提を否定していない。むしろ、より合理的な言葉で正当化した。明治三年の弁官達が禁じたのは、あくまで刀剣試験と密売であって、刑死者の身体の利用そのものではなかったのだ。四つ目に、養子相続の話をもう一段深く考えたい。実子がいても継がせず、腕の立つ弟子を選ぶ。

この慣行を「技術重視の合理的な家」として褒める記述をよく見かけるが、それだけでは足りないと思う。江戸の家制度において、家督とは血の継承であると同時に、生業と社会的地位の継承でもある。実子に継がせないという選択は、自分の子をこの生業から降ろすという選択でもある。逆に言えば、弟子には背負わせるということだ。ここには自分の子への愛情と、他人の子への冷たさが同居している。

でも、そう単純でもない。弟子たちは自ら望んでこの家に入ってきている。七代目の吉利は新見藩士の次男で、門人として山田家に来て、養女と結婚して家に入った。技術に惚れて入門し、実力で選ばれ、家を継ぐ。これは血縁社会のなかでは、むしろ実力主義の理想形にも見える。

愛情から実子を外し、実力で弟子を入れる。この二つが同じ判断のなかに同居している。近代的な職業選択の自由がない時代に、この家だけが妙に選択的だった。五つ目に、技術と儀礼の話。据物斬りの部位区分、二つ胴三つ胴の等級、截断銘の記録、介錯の抱き首の作法。

これらを並べて見ると、山田家の技術は「うまく斬る技術」ではなく「決められた形に斬る技術」だということが分かる。介錯で首の皮を一枚残すのは、実用的にはまったく無意味だ。むしろ難しくなるだけである。にもかかわらずそれが作法とされたのは、そこに切腹と斬首刑を区別する意味が乗っていたからだ。同じ首を斬る行為でも、形が違えば意味が変わる。

名誉の死と不名誉な死を分けるのは、首の皮一枚だった。そう考えると、山田家が売っていたのは物理的な技術ではなく、意味の生成能力だったとも言える。この刀は業物である、この死は名誉ある切腹である、この遺体からは効能ある薬が取れる。全部、彼らが保証することで成立する意味だ。試し斬りの等級も、格付け本も、介錯の作法も、根っこは同じだと思う。

彼らは死の周辺で、意味の格付けをする権威だった。だから明治になって制度が変わったとき、この家はあっけなく消えた。技術が失われたからではない。彼らの保証を必要とする意味の体系が、まるごと消えたからだ。絞首刑には業物も抱き首も等級もいらない。

近代の刑罰は、意味の演出をやめて、効率と均質性を選んだ。首斬り役人が失業したというのは、そういうことだ。最後に、この題材を扱ううえで自分がどこに線を引いたかを書いておきたい。処刑や斬首の具体的な手技は、この記事では書いていない。部位の名称や等級の名前は史料として記録されているし、刀剣の価値評価の理解に必要だから触れたが、どう構えてどう振るかといった再現可能な情報は意図的に外した。

人体からの製薬についても同じで、原料が何であったかという事実は歴史の理解に必須だが、工程は書かない。書く意味がないし、書くべきでもない。被差別身分についても慎重に扱ったつもりだ。江戸の刑罰制度は、誰が執行するかによって刑の軽重を表現するという仕組みを持っていた。それは当時の身分制度が生んだ構造であって、担わされた人々やその子孫の性質とは何の関係もない。

山田家が弾左衛門の配下だという誤解が流布したこと自体、一つの証拠になる。当時の社会が「首を斬る者はこういう身分だろう」という偏見を持っていた証拠だ。その偏見を今なぞる必要は、まったくない。そして、現存する関係者の話にも踏み込まない。この家の記録は明治で途切れているし、その先を詮索するのはこの記事の仕事ではない。

遺体の描写を避けたのも同じ理由だ。この題材は放っておくと見世物になる。

血の量や斬り口の様子を細かく書けば、たぶん読者はもっと反応する。でも、そこで得られる刺激は、この家が抱えていた問題を何ひとつ説明しない。山田浅右衛門の話がいまも読まれる価値があるとしたら、それは怖い話としてではない。制度が人に何をさせるか、そして制度がどれほど簡単に人の生業を作り、また消すか。それを二百年分の実例として見せてくれるからだ。

供養塔を建てた六代目吉昌も、俳句を習った歴代の当主も、床屋で倒れた九代目吉亮も、みんな自分の意思でこの家業を選んだわけではない。そこにあった制度に、たまたま最も深く関わってしまった人たちだ。彼らを怪物として消費するのは簡単だが、それをやると、この話から学べることが全部こぼれ落ちる。池袋の祥雲寺には、今も塚と墓がある。あの塚を建てたとき、六代目は何を思っていたのか。

記録は残っていない。でも、莫大な稼ぎのかなりの部分を、自分が斬った人たちの供養に注ぎ込んだという事実だけは残っている。その事実の重さは、蝋燭の怪談よりよほど怖いと、わたしは思う。

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