群馬の山あいで、伏せたままの臼を見せてもらった。欅をくり抜いた古いやつで、直径は六十センチほど、内側は使い込まれた油が染みたみたいに黒く艶を帯びている。もう五十年は起こしていないと、その家の主人は言った。八十二になるらしい。
杵は梁に吊るされたまま埃をかぶり、縛ってある縄が半分ほどけかけていた。これで正月の餅を搗くんですかと聞いたら、主人は湯呑みを置いて首を横に振る。
「搗かねえよ。うちは搗かねえ家なんだ」
なぜですか、と聞き返した。こちらの想像では、面倒だからとか、二人暮らしで食い切れないからとか、その程度の答えが返ってくるはずだった。
「搗くと血が出るって、親父が言ってたからな」
血が出る。餅から。八十を越えた人が、煙草に火をつけながら、天気の話をするのと同じ調子でそう言った。冗談の気配はまるでない。土間は底冷えがして、話を聞いているあいだじゅう足の裏が痛いほど冷えていた。
- 「うちは搗かねえ家なんだ」
- 三が日の膳に載るのは、八頭とモヤシだった
- 四日まで待つ、という折衷
- 神棚に何を載せるか
- 搗けば血が混じる
- 火ごとに祟る、と言って聞かせた
- 死ぬのは決まって当主だった
- 臼が割れる、餅が腐る、病人が出る
- 逃げる途中、餅を搗く音で見つかった
- 音を立てない大晦日
- 餅を貰う側になること
- 喉に詰めて死んだ神様の話
- 餅を的にしたら、白い鳥になって飛んだ
- 氏神が餅を嫌う、という一点だけの理由
- 大晦日に間に合わなかった一族
- 一九七九年、民俗学がひっくり返った
- 坪井のあとに来た批判
- 調査票の余白に書かれたこと
- 餅がなぜ、そこまで特別だったのか
- 嫁いだ年の暮れに、姑が言った
- 昭和四十年代に、やめた家がある
- 祟りが怖いから、とはもう言わない
- 七軒が二軒になるまで
- 鰻を食べない家、胡瓜を切らない家
- 臼を洗う音
「うちは搗かねえ家なんだ」
日本の正月に餅は付き物、ということで全国だいたい話が通っている。年の暮れに搗いて、鏡餅を床の間に据えて、元日の朝に雑煮で食う。学校でもそう習うし、年末のテレビでも判で押したようにその映像が流れる。
その、全国共通のはずの段取りを、きっぱり拒みつづけてきた家がある。家どころか村ごと拒むところもあって、しかも一か所や二か所ではなく、北関東から九州の南端まで点々と散らばっていた。民俗学の世界では、これを餅なし正月と呼ぶ。
呼び名は土地によってばらばらだ。餅精進、餅断ち、餅つかず。単に、うちは搗かない、としか言わない家も多い。名前がついているほうがむしろ珍しく、たいていは名づけられないまま守られてきた。
拒み方にもいくつか段階がある。正月の餅をいっさい搗かない家。搗きはするけれど三が日のあいだは口に入れない家。年が明けて四日なり七日なり経ってから、ようやく臼を起こす家もあった。どれも餅なし正月の仲間に数えられる。
守る単位もまちまちだった。村落がまるごと守っている例もあれば、同じ村の中で特定の一族だけという例もあり、さらに絞られて一軒だけという例もある。隣の家からは餅つきの音が聞こえてくるのに、自分の家だけ臼を出さない。子どもにとっては、その一軒分の差が何より重くのしかかる。
群馬県高崎の東側で育った人が、自分の家は餅なし正月だったと書き残している。当たり前の顔をしてその中で育ったので、よその家と違うと気づいたのはずいぶん大人になってからだったという。
三が日の膳に載るのは、八頭とモヤシだった
餅を食わないなら何を食うのか。ここが土地ごとにまるで違っていて、並べていくときりがないほど面白い。代わりに据えられる食べ物を見ると、その土地が何で食ってきたかが一発で分かる。
いちばん多いのが里芋。それも小ぶりな子芋ではなく、八頭や唐芋と呼ばれる親芋を、皮をつけたまま丸ごと据えるやり方が目立つ。大きいものになると子どもの頭ほどもあって、椀に入れると椀のほうが小さく見えた。
徳島の祖谷に伝わるうちがえ雑煮という正月の椀は、八つ頭に、ごうしいもという在来種のじゃがいも、それと岩豆腐。岩豆腐というのは縄で縛って提げても崩れないという固さの豆腐で、包丁を入れるとぎしぎし音が鳴る。椀の中に餅は一片も入らない。
和歌山の旧大塔村、いまの田辺市のあたりでは、ぼうりと呼ばれる親芋を食う。二日ほど陰で干したあと、皮を剥かずにそのまま二日かけて煮込む。表面は煮汁を吸って真っ黒になるのに、箸で割ると中身が驚くほど白く、正月のあいだ、この黒い塊が膳の真ん中に居座った。
鹿児島の大隅半島に生まれた人の話も生々しくて、三が日の食卓に並んだのは、大きな八頭と、モヤシを煮たもの。餅は三が日が過ぎてから食べるものだとずっと思っていて、なぜそうなのか親に尋ねた記憶もないという。
東京の足立区四ツ家、いまの青井一丁目から二丁目のあたりにも、芋雑煮の正月が伝わっていた。環七のすぐ内側、二十三区のど真ん中と言ってもいい場所で、餅を搗かない正月が昭和のある時期まで続いていたことになる。
芋ばかりではない。年越しから正月にかけて蕎麦を打つ家、うどんを茹でる家、米の粉で団子を丸める家。豆腐を四角く切って皿に置くだけという家もあったし、赤飯を蒸して雑煮の代わりに据える例も関東や中部で拾われている。
蕎麦餅という折衷もあった。米の餅は搗かないけれど、蕎麦粉を練って餅のかたちに丸めれば神様も気づくまい、という理屈らしい。禁忌の抜け道をどう作るかに、その土地の性格がはっきり出る。
代替食は、たいてい白くない。里芋は灰色がかっているし、蕎麦は黒く、赤飯に至っては赤くて、搗きたての餅のあの白さだけを選んで避けているようにも見える。
四日まで待つ、という折衷
いっさい搗かないという徹底した家ばかりではなく、期限を切って折り合いをつけてきた家のほうが、数の上ではむしろ多い。三が日だけ避ける。四日の朝までは口にしない。
七草が済むまで待つ。松が明けてから搗く。待つ日数が、そのまま家ごとの祟りの重さに対応している。
二十日正月まで待つという家も近畿や北陸の山間で拾われていて、正月が完全に終わってからようやく臼を起こす。もはや正月の餅ではないので、年神とは関係のない、ただの餅として食えるという理屈だった。
小正月の団子で代わりを務める家では、十五日に米の粉で団子をこしらえ、木の枝に挿して繭玉に仕立てる。搗いてはいないから餅ではない。丸めてはいるので形は餅に似る。そのぎりぎりの線を、みんな承知のうえで守っていた。
面白いのは、こうした折衷型の家ほど、禁を破ったときの祟りをよく覚えていることだ。徹底して搗かない家は、そもそも破りようがないから祟りの話も薄い。半分だけ守っている家は、いつも境界線のそばに立っているので、踏み越えたときの話が生々しく伝わる。
神棚に何を載せるか
食う食わない以前に、供える供えないという問題があって、餅なし正月の家は床の間や神棚の上も当然ふつうとは違う。鏡餅の代わりに何を載せるかで、その家の理屈の筋が見える。
里芋の親芋を三方に据える家がある。洗って泥を落とした八頭を、裏白と橙と一緒に飾る。丸くて白っぽくて重いという鏡餅の条件を、芋がそっくり引き受けている形になる。
米そのものを盛る家もあった。搗きさえしなければよいという考え方で、洗い米を山盛りにして供える。搗くという行為のほうが禁じられていて、米が悪いわけではないという線の引き方だ。
何も載せない家もある。三方だけを据えて、上は空のまま三が日を過ごす。年神が来ても食うものがないことになるが、来ないから要らないのだと言う。こうなるともう、餅の禁忌を通り越して、年神そのものを拒んでいる。
搗けば血が混じる
禁を破ったらどうなるのか。ここからが本題。祟りの言い伝えは一つではなく、いくつもの系統に分かれて全国に散らばっていて、系統ごとに語り口も温度もまるで違っていた。
最初に挙げたいのが血だ。搗いた餅に血が混じるという言い方で、臼の中で捏ねられている白い塊の中に、うっすら赤い筋が走る。搗き手が気づかずに杵を振り下ろすと、その筋が引き伸ばされて、餅全体が薄桃色に染まっていく。
滋賀県蒲生郡日野町の中山にも、岡山県の新見にも、餅を搗けば血が混じるという伝えが採集されてきた。直線距離で三百キロ近く離れた土地で、同じ画が語られている。誰かが持ち歩いた話なのか、それとも別々に湧いた話なのか、そこは分からない。
血の出どころを説明してみせる家もある。先祖が討たれた場所の土を、この臼を据える前に踏み固めたからだという理屈。あるいは、代々の餅米に先祖の骨の粉が混じっているからだという理屈。どちらも苦しいけれど、語る人の口調はいつも落ち着いていた。
赤くなる、とだけ言う土地もある。血という言葉を使わず、ただ赤い餅が搗けると伝える。鏡餅にして供えておくと、二日目の朝には表面に赤い斑が浮いてくるという。カビだろうと割り切ってしまえばそれまでで、実際にそう割り切った家から順に風習が消えていった。
中国地方の山間では、臼の底から赤い水が滲むという話も拾われている。搗き終わって水を流し込み、こそげ落とした滓ごと外へ流すと、その排水が薄く赤い。それを見た年寄りが、もう搗くのはやめようと言い出して、その年から家例になったという伝えだった。
血の系統でもうひとつ厄介なのが、搗いている最中は誰も気づかないという型になる。丸めて重ねて床の間に据えて、三日ほど経ってから赤さに気づくころには、もう神前に供えてしまっている。取り返しがつかないという形をしているところが、いかにも祟りらしい。
火ごとに祟る、と言って聞かせた
次が火だ。数の上でも広がりの上でも、これがいちばん大きな系統になる。
静岡県下田市、稲生沢立野の中の瀬という集落に、輪郭のはっきりした話が伝わっている。この集落の鎮守は子ノ神で、子どもの神様だった。その神が、正月の三が日に托鉢僧の姿を借りて、家々を餅を貰って歩いていたという。
ある年、村の悪戯者が、相手を神とも知らずに不浄の物を入れて坊さんに渡してしまう。神は病んだ。怒った神はその家を火で焼き払い、そのうえで家人の夢枕に立って、こう言い渡したと伝わる。
これから先、正月三が日の餅托鉢には二度と出ない。この村でも三が日のあいだは絶対に餅を搗いて食ってはならない。もしその三日のうちに餅を食う者があれば、火に祟って家を焼き払う。
それ以来、中の瀬では三が日に餅を食わず、よそから移り住んできた家も同じように従ってきたという。禁を破れば必ず火ごとに祟る。そう親が子に言って聞かせる形で、この話は集落の中を回ってきた。
火ごと、という言い方がいい。火事という硬い熟語ではなく、火の事。暮らしの中で起きる出来事のひとつとして言う。だから、かえって近く感じられて怖い。
この集落の話には続きがある。よその土地から赴任してきた駐在の巡査が、いきさつを知らずに元日の雑煮を食ってしまった。数日後、その巡査の着物だけが、あちらこちら焼け焦げて着られなくなっていたという。家は焼けず、人も死なず、着物だけが焦げた。
火の的が人ではなく着物だったところに、神の加減が見える。殺しはしなかった。警告で済ませた。村の人たちはそう受け取ったので、この話はかえって大事に語り継がれることになる。
足立区の四ツ家には、別筋の火の話が伝わっていた。江戸時代、将軍が鷹狩でこの地を訪れた正月に火事が出て、村全体が厳しい処分を受けたという。それ以来、正月に火を使って餅を食うことを禁じたと伝える。
神の祟りではなく、お上の罰。同じ火でも、語り口がまったく違う。江戸の近郊らしく、筋の通ったきわめて現実的な説明になっていて、これはこれで土地の空気をよく伝えている。
火の系統は、破った年に必ず結果が出るところに特徴がある。人が死ぬ話は何十年も先まで効くけれど、火は年内に来るので、抑止力として強く、いちばんよく守られた。
死ぬのは決まって当主だった
火よりさらに重い祟りもある。人が死ぬという型で、しかも死ぬ相手があらかじめ決まっているところが恐ろしい。
当主だ。家長が死ぬ。餅を搗いた年のうちに、その家の主が倒れる。埼玉や千葉の、一族単位で守られてきた伝承の中に、この型がいくつも拾われてきた。跡取りの長男が死ぬという言い方をする家もある。
家の中でいちばん失ってはいけない人間を、名指しで持っていく。そういう設計になっている。餅を搗くか搗かないかを決めるのは当主なのだから、責任の取らせ方としては妙に筋が通っていた。
秩父の山側には、餅を搗いた年に必ず葬式が出たという家の話が伝わる。三代続けて正月の餅で喪を出して四代目でとうとうやめ、やめてからぱたりと葬式が止んだので、いまも搗かない。そういう順序で語られる。
もっと静かな言い方もある。家が絶える。誰かが劇的に死ぬのではなく、じわじわと人が減って、気がつくと跡を継ぐ者がいなくなっている。一代では分からない。二代、三代かけてゆっくり効く。
この、絶えるという型は、語る側の年齢が上がるほどよく出てきた。若い衆に言っても手応えがない。八十を過ぎた人が、絶えた家の屋号を指を折りながら並べていくと、急に足元がぐらつくような現実味が湧いてくる。
死の系統には、証明できないという強みがある。火事は起きたか起きなかったかがはっきりする。絶えるかどうかは百年経たないと決着がつかない。決着がつかない祟りは、いつまでも生き延びた。
臼が割れる、餅が腐る、病人が出る
死ぬほどではないけれど確実に嫌なことが起きる、そういう中くらいの祟りも各地にぽつぽつ転がっている。
臼が割れる。搗いている最中に分厚い欅の臼が縦にぱっくり裂け、ばきりと音がして、跳ねた餅と一緒に木屑が飛ぶ。臼は買えば相当な値段の道具だったから、これはこれでずいぶん痛い罰。
餅が腐る。搗いた翌日にはもう糸を引いている。冬の底冷えする土間に置いてあるのに、触るとぬめって、鼻を近づけると酸っぱい匂いがする。神が受け取らなかった印だと解釈された。
病人が出る。家族のうち誰か一人が、正月のあいだに寝込む。高い熱が出て医者に診せても原因がはっきりせず、それが三が日を過ぎたとたん、嘘のようにすとんと下がる。
餅を喉に詰まらせるという直球すぎる言い伝えもあって、これは現実にしょっちゅう起きるぶん、いっそう強く効く。実際に詰まらせた者が一人でも出れば、その家の禁忌はそのあと数世代は揺るがない。
牛馬が死ぬという例も、家畜を持つ家では拾われている。餅を搗いた年の春に飼っていた牛が立ち上がれなくなったという話で、家の財産の中では人の次に重いものが持っていかれる。
逃げる途中、餅を搗く音で見つかった
では、なぜ搗かなくなったのか。その由来譚がまた土地ごとに違っていて、聞き比べはじめると止まらなくなる。
いちばん多いのが落人型だ。先祖が戦に負けて、追われてこの山へ逃げ込んだ。追手はまだ後ろにいる。息を殺して谷の奥に隠れていた。
ところが、誰かが餅を搗きはじめてしまう。ぺったん、ぺったん。谷という場所は、驚くほど遠くまで音が響く。その音で居場所が知れて一族はそこで討たれ、命拾いした者が、二度と正月に臼を起こすまいと誓ったという。
音である、という一点がこの型の肝になっている。煙でもなく匂いでもなく、音で見つかる。餅つきは山の暮らしで出す音の中でもいちばん遠くまで届いたから、この由来譚を作った者は、その手触りを体で知っている。
長野の伊那谷、山梨の郡内、静岡の天竜筋。落人を名乗る家が集まっている土地には、たいていこの型が転がっていた。平家、南朝方、武田の遺臣。名乗る相手は土地ごとに違っていて、そこにまた土地の歴史が透ける。
愛知の北設楽にもよく似た話が伝わっていて、逃げ延びた一党が大晦日に山へ入り、正月どころの騒ぎではなかった。臼も杵も置いて逃げたのだから、そもそも搗きようがない。
搗けなかったという記憶が、いつのまにか、搗いてはいけないという禁忌に変わる。どこかで一度、反転が起きている。その反転が起きた瞬間の話だけは、どの家の伝承にも残っていない。
近畿の山間部でも、南北朝の落人を名乗る集落にこの型が見つかる。京都の丹波、奈良の吉野。中国地方では広島の比婆や島根の山中に似た伝えがあり、分布は山づたいに伸びていて、平地にはあまり降りてこない。
音を立てない大晦日
落人型の由来譚が音を問題にしているのは、正月という時期そのものが、もともと音に敏感な期間だったからでもある。年の変わり目は神が降りてくる時間で、その間は物忌みして静かに過ごすという建前が全国にあった。
大晦日の晩に大声を出すな、口笛を吹くな、大きな音を立てるな。そう戒める土地は餅なし正月の分布とは無関係に広がっていて、餅つきの音だけが例外的に許された音だったという見方もできる。年に一度だけ許された轟音を、あえて自分から手放す。それが餅なし正月の家のやっていることになる。
山の斜面に家が散らばっている集落では、どの家が何臼搗いたかが音の回数で筋向かいまで筒抜けになる。搗かない家の沈黙も、同じだけはっきり伝わってしまう。正月の何日かのあいだ、その家だけが集落の中にぽっかり空いた音のない穴。
搗かない家の子どもが、隣の家の餅つきを手伝いに行ったという話をいくつも聞いた。杵は握るけれど、自分の家では搗かない。搗いた餅を土産に持たされても、玄関で断って置いてくる。境界線の引き方が、いかにも子どもには理解しがたい細かさで決まっていた。
餅を貰う側になること
搗かない家は、正月のあいだ、餅を貰う側に回るしかない。親戚や近所から届く。断り切れずに受け取って、松が明けてから焼いて食う。自分の家で搗くことは許されないが、よそが搗いた餅を貰うのはかまわないという家が、思ったより多かった。
この線の引き方が餅なし正月の性格をよく表していて、禁じられているのは搗くという行為のほうで、餅そのものではない。臼と杵と、火と湯と、家の者が総出で立てる音。そこに禁忌が貼りついていて、出来上がった餅にはもう力が残っていない。
逆に、貰うことすら許さない家もある。玄関先で受け取って、そのまま裏の畑に埋めたという話まで伝わっていた。三が日のあいだ家の中に白い餅が一切れでも入れば、それだけで火が出る。そういう厳しさの家は、たいてい祟りの話も具体的だった。
貰う側に回りつづけるというのは、村の中でずっと負い目を背負うことでもある。もらいっぱなしの家。返せない家。餅を分け合う輪の中で、片方向にしか動けない位置に、その家はずっと立たされていた。
喉に詰めて死んだ神様の話
二つ目の型が、餅で死んだという話になる。しかも死ぬのが人ではなく、神だという例がある。
下田の立野には、氏神が元日の朝に雑煮を召し上がっていて、その餅が喉につかえて亡くなったという伝えが残る。神様が餅を詰まらせて死ぬ。神格の高さを考えると、かなり思い切った筋書きだ。
この話を持つ集落では、正月三が日のあいだ、餅も雑煮もいっさい口にしない。破れば火ごとに祟るという。神の死に方が食い物だったので、祟りのほうは生活の火に来る。ずれているようで、どこかつながっている。
先祖が餅を喉に詰まらせて死んだから食べない、という身も蓋もない由来を伝える家も、各地の報告に出てくる。理由としてはこれ以上ないほど単純で、単純だからこそ何百年ももった。
合戦の最中に餅を喉に詰めて討たれた、という混合型もある。逃げながら食った。急いで飲み込んだ。詰まって動けなくなったところを追いついた敵に斬られたという筋で、落人型と窒息型が一本につながる。
窒息の系統には、実際の事故が下敷きになっている可能性が高い。正月の餅は毎年のように人を殺す。家で一度それが起きれば、由来譚は要らない。事故そのものが禁忌になる。
餅を的にしたら、白い鳥になって飛んだ
三つ目は、餅を粗末にした罰という型。これには、はっきり古い出どころがある。
豊後の風土記に、餅を的にして矢を射た長者の話が載っている。射られた餅は白い鳥に変じて飛び去り、そのあと田は荒れ果てて、長者の一族は絶えたという筋だ。山城の稲荷の縁起にも、これとほとんど同じ骨格の話が入っている。
この古い話が形を変えながら、各地の餅なし正月の由来に入り込んでいる。先祖が餅を的にして矢を射た。先祖が餅を足で踏んだ。先祖が門に立った乞食に餅を与えなかった。細部は違っても、餅を粗末に扱ったという一点だけは動かない。
粗末にした罰として、餅そのものを取り上げられる。もう二度と搗くな、という罰の与え方だ。食べ物を禁じられることが罰として成立するのは、餅がそれだけ贅沢な物だったことの裏返しでもある。
年越しに餅を求めて訪ねてきた物乞いを追い返した、という筋も相当多い。追い返された相手が実は神仏か旅の僧で、その晩のうちに家が焼けたという筋は、下田の托鉢僧の話と骨格がまるごと同じ。
この型の話には、聞き手に道徳を仕込む働きも混ざっていた。餅は分けろ。分けない家は焼ける。正月というのは貧富の差がいちばん露骨に見える時期だったから、そういう土地ほどこの型がよく残った。
氏神が餅を嫌う、という一点だけの理由
四つ目は、理由らしい理由がまるでない型になる。氏神が餅を嫌う。ただそれだけ。
神の好き嫌いには説明がつかない。嫌いなものは嫌いなのだから、それ以上ほどきようがない。この型の伝承は短く、物語の体裁すら取らないのに、家の中ではいちばん強く効いていた。物語は忘れられても、好き嫌いは忘れられない。
神が餅で怪我をしたという変形もある。搗いているところへ近づいて杵が当たった。搗きたての餅に足を取られて転んだ。神の体に傷がついたから餅を作らないという、神を人間くさく扱うあたりに土着の神のありようが出ている。
近江の山間には、氏神の使いが白い獣で、餅の白さがそれに障るという理屈を伝える例もあった。白い物を正月に作ってはいけない。だから餅も搗かない。この理屈を厳密に守って、豆腐まで避けた家があったという話も聞く。
嫌うという言い方は、祟るという言い方よりも柔らかい。柔らかいぶん、交渉の余地がない。祟りなら詫びれば済むかもしれないが、嫌いなものを好きにさせる方法はどこにもなかった。
大晦日に間に合わなかった一族
五つ目が、開拓型と呼びたくなる系統。足立区の四ツ家に伝わる説のひとつが、これにあたる。
落武者となってこの地に落ち着いたのが年の暮れのことだったので、餅の材料である餅米はもちろん、餅を搗く余裕もまるでなかった。だから最初の正月は芋の雑煮で越した。その当時の苦労を忘れないために、以後もずっと芋で通すことにしたという。
ここには祟りが出てこない。神も出てこない。ただ、最初の正月をひたすら再現しつづけるという話になっていて、禁忌というより記念行事のほうにかなり近い。
この型は、祟りの型と同じ村に平気で同居する。四ツ家には開拓の説と将軍の鷹狩の説が両方伝わっていて、どちらが本当かを村人は決めなかった。決める必要がどこにもないからだ。
由来譚というのは、必要になったときに後から足されるものらしい。祟りが先にあって、説明があとから来る。民俗学がこの順序にはっきり気づいたのは、わりと最近のことになる。
一九七九年、民俗学がひっくり返った
餅なし正月に最初に目をつけたのは柳田國男だった。ただし柳田の扱いは慎重で、家例のひとつ、祭りに伴う食物禁忌のひとつという位置づけにとどめて、そこから先へは深く踏み込んでいない。
柳田は日本の民俗を、稲を中心に据えて組み立てていた。米があり、餅があり、年神がいる。その線を引くとほぼ全部が説明できてしまい、餅を拒む家は、その線から外れた例外として脇に置かれた。
柳田自身、餅の扱いにはどこか警戒が滲んでいた。正月の餅を一年の魂の配分として読む一方で、餅を忌む家の報告も早い時期から目に入れていたはずだ。ただ、それを日本人全体の像を揺さぶる材料としては使わなかった。使えば、自分の組み立てた稲の体系のほうが崩れる。
その例外を、正面のいちばん目立つ場所に引きずり出した人がいる。坪井洋文だ。一九二九年の広島生まれ、國學院大學を出て、助教授と教授を経て、一九八一年に国立歴史民俗博物館の教授になった民俗学者だった。
一九七九年、坪井は『イモと日本人』という本を出す。副題に民俗文化論の課題とあって、見た目は薄い研究書なのに、中身は完全に喧嘩を売る本だった。
坪井の主張はこうなる。餅なし正月は例外ではない。稲作文化とはまったく別系統の、イモを中心に据えた文化体系が、その下に隠れている。日本は稲作の単一文化ではない。
日本人とは米を食う民族だ、という国民像が、当時はほとんど疑われずに通用していた。その裏側に、芋を主食として山で生きてきた人々の層がある。坪井はそう書いた。餅なし正月は、その層が水面に顔を出した数少ない場所だという読み方だった。
目次を眺めると力の入れ方が分かる。単一文化の条件からはじまって、柳田国男の農耕文化論、畑作儀礼研究の計画と続いていく。そこへ餅なし正月の背景が来て、イモと餅の象徴が来て、最後は畑作文化の確認で締める。師の系譜を真正面から検討し直す構えになっていた。
焼畑への注目も、この人の仕事を支える柱になる。焼畑は第二次世界大戦の前まで各地の山で盛んに行われていて、米の外側には確かにもうひとつの暮らしがあった。坪井はそこを掘りに行った。
一九八二年には『稲を選んだ日本人』を出し、それで文学博士を取る。一九八六年には『民俗再考』。従来の民俗学が取り出してきた日本民族の価値基準と、地域の住民が実際に持っている価値基準は必ずしも一致しない。そう書き残して、一九八八年の六月に五十八歳で死んだ。
坪井のあとに来た批判
衝撃は大きかった。日本文化を稲作一本で語る癖に対して、民俗学の内側から正面切って釘を刺した仕事だったからだ。照葉樹林文化論や、農業以外で生きた人々の再発見といった議論とも、ちょうど時期が重なっていた。
七〇年代の後半から八〇年代にかけて、日本は単一ではないという主張が学問のあちこちから一斉に噴き出してくる。坪井はその一角を占めた。稲作単一文化という前提を捨てろ、同質で均質な日本民俗という像を手放せ、という要求の出し方だった。
ところが、そのあとの民俗学は、坪井説をそのままの形では受け取らない。稲作と畑作、米とイモという二項の図式が、あまりに切れ味よく出来すぎていたからだ。切れ味がよすぎる図式は、たいてい現実のどこかを切り落としている。
批判の中身はいくつかに分かれる。まず分布の問題で、餅なし正月の所在は畑作地帯にきれいに重なってくれない。米がふんだんに穫れる平地の裕福な家にも、一族単位の餅なし正月がしっかり残っていた。
由来譚の問題も大きい。実際に採集された由来を数えてみると、落人型と神の禁忌型が大半を占めて、イモの記憶を語るものはほとんど出てこない。イモを食うのは餅を禁じられた結果として残った代替にすぎない、という読み方も十分に立つ。
家例として、ある時期に突然はじまった例も報告されてきた。ある年に流行神を勧請して、その神の禁忌として餅を断つ。江戸の後期や明治の出来事として、はじまった年代まで押さえられている家がある。古層の残存という説明とは、まるで噛み合わない。
安室知の『餅と日本人』は、この線をはっきり打ち出した本になる。餅なし正月を稲作以前の残存として扱うのをやめて、流行神や家例や作物禁忌の一種として読み直す。そのうえで、当たり前とされてきた餅正月の側を逆に問い直す、という組み立てだった。
米かイモかという二分法そのものが間違っていた、という整理も出てくる。人は複数の生業を同時に回して生きる。米も作るし芋も作るし、山へも入れば川でも獲るので、どちらか一方を選んだ人など、はじめからいなかった。
それでも坪井の仕事の値打ちは落ちない。餅なし正月という、郷土資料の隅に埋もれていたはずの小さな禁忌を、日本人とは何かという問いの真ん中まで引きずり出した。あの一撃がなければ、この習俗は誰にも見つけられないまま消えていた。
調査票の余白に書かれたこと
餅なし正月の事例が全国から集まってきたのは、戦後の民俗調査が大量に動いたおかげでもある。市史や町史の民俗編を作るために、大学や役場の調査員が村を歩いて、年中行事の項目を一軒ずつ聞いて回った。
調査票には決まった欄がある。正月の準備はいつからか。餅はいつ搗くか。何臼か。
雑煮の具は何か。その欄に、搗かないと書き込まれた瞬間、調査員の手が止まる。止まって、余白に聞き書きが書き足される。
だから餅なし正月の記録は、たいてい調査票の余白に残っている。本文の表に収まらない情報として、あとから鉛筆で書き加えられている。表のほうは全国一律の様式なので、搗かないという答えを入れる場所がどこにもなかった。
その余白の文字を、後年になって読み直した研究者が、これは例外ではなく系統だと気づく。坪井洋文がやったのは、要するに全国の余白を集めて並べる作業でもあった。
聞き書きの現場は、たいてい正月ではない。調査は夏や秋に入るので、話し手は半年前や半年先の正月を記憶から引っぱり出して喋る。臼の前で聞いた話ではないぶん、細部が丸まっている可能性は常にあった。
それでも、火ごとに祟るとか、血が混じるとか、そういう言い回しだけは面白いほど原形をとどめて出てくる。長く繰り返された言い回しは、記憶の中で摩耗しない。話の筋は忘れられても、決まり文句は残った。
餅がなぜ、そこまで特別だったのか
拒むことが異常に見えるのは、拒まれている側が異常に重かったからだ。ここを押さえておかないと、この禁忌の本当の手触りが分からない。
餅はハレの食だった。ふだんは食わない。祝い事、節供、祭り、そして正月。
特別な日に、特別な手間をかけて作る。米を蒸して、臼に移して、搗いて、丸める。どう考えても一人ではできない。
人手がいるというのが餅という食べ物の性格を決めていて、臼と杵を出し、大釜で湯を沸かし、搗き手と返し手が息を合わせる。餅つきは最初から共同作業で、同時に、家の勢いを外に見せる行事でもあった。今年は何臼搗いたかで家の景気が知れる。
年神への供物という顔もある。鏡餅は年神が降りてくる依り代で、丸い形は魂をかたどったものだとされてきた。魂をタマと言い、丸いものをタマと言う。餅はタマそのものだという立場を取る民俗学者もいた。
力餅という言葉もいまだに残る。食えば力がつく。餅を食えば年がひとつ増える、という言い方さえあった。年を取ることと餅を食うことが、同じひとつの行為としてくくられていたわけだ。
誕生餅を一歳の子に背負わせる。力士が土俵から餅を配る。上棟式では屋根の上から餅を撒く。人生の節目という節目に、白い塊がいちいち出てくる。祝いの輪の中心には、たいてい餅が置かれた。
その餅を拒む。年神への供物を断り、魂の形を作らず、家の勢いを見せる機会を自分から放棄する。周囲から見れば、正月を祝っていないのとほとんど同じに映った。
だから餅なし正月の家は、しばしば後ろ暗い来歴を背負わされることになる。落人の子孫。罰を受けたから搗けないのだという噂。神に嫌われていると陰口も叩かれた。搗かないという一点がまず先にあり、来歴のほうはあとから貼りつけられていった。
嫁いだ年の暮れに、姑が言った
証言を三つ、聞いたままに並べておく。どれも風習の中身そのものより、自分の家がよそと違うと気づいた瞬間の話になっている。
一人目は、昭和四十年代に静岡の山間へ嫁いできた女性だ。十二月に入ると近所の家から順に餅つきの音が聞こえてきたので、うちはいつ搗くんでしょうか、と何気なく姑に聞いたという。姑は湯呑みを置いて、しばらく黙っていた。
うちは搗かんのよ、と言われた。搗くと火が出るから。そう続けられても意味が取れなくて、火が出るとはどういうことですか、と聞き返したらしい。姑は笑いもせず、去年も一昨年も搗いとらんでしょう、とだけ返した。
言われてみれば確かにその家の正月の膳に餅はなくて、大ぶりの里芋がひとつ、椀の真ん中にでんと座っている。実家の雑煮には必ず角餅が二つ入っていたから、椀を覗き込んだ瞬間に、自分はまるで別の家に来たのだと腹の底で分かったという。
その人は、嫁いで五十年が経ったいまも餅を搗いていない。子どもたちが独立して、東京のアパートで正月に餅を食うぶんには止めもしない。ただ、この家の土間では搗かない。そこだけは動かさないと決めている。
二人目は、群馬の男性。子どものころ、正月明けに学校へ行くと、友達が寄ると触ると餅の話をしていた。何個食っただの、焼いたら膨らんで破れただの。自分にはその話に混ざる材料がひとつもなかった。
うちには餅がないんだ、と言ったら貧乏だからかと聞かれて、そうじゃないと答えたかったのに、なぜ違うのかを説明できない。家に帰って親に聞いたら、うちは搗かん家だ、と一言で打ち切られた。
大人になってから、あれは民俗学できちんと名前のついた現象だったと知る。名前を知った日に、なぜか妙に救われた気がしたそうだ。理由の分からない差が、理由のある差に変わる。それだけで、子ども時代の記憶の色までいくらか変わったという。
三人目は鹿児島の大隅半島で育った人で、三が日の膳に載ったのは、大きな八頭と、モヤシを煮たもの。それがあまりに当たり前だったので、変だと思ったことすらなかった。
餅は三が日が過ぎてから食べるもの。そう思い込んで育った。なぜなのか親に尋ねた記憶もない。稲作だけでは暮らしが立たない土地で、芋とともに生きてきた家の正月だったのだろうと、いまは受け止めている。
尋ねなかった、という部分がずっと引っかかっていて、禁忌がいちばん強く効いているとき、人は理由を聞かない。聞くという発想がそもそも湧いてこない。聞くようになったら、その禁忌はもう半分終わっている。
昭和四十年代に、やめた家がある
やめた家の話も、続けている家の話と同じくらい面白い。というより、やめるほうは記録に残りにくいぶん、聞けたときの手応えが大きい。
やめ方にはいくつか型がある。ひとつは、事故のように終わる型だ。誰かが何も知らずに餅を家へ持ち込む。嫁が実家から土産に提げてくる。帰省した孫が包みを開けて、元日の昼に焼いて食ってしまう。
そうして、何も起きなかった。火も出ず、誰も死なず、臼に血も混じらなかった。その一回であっさり終わる家がある。祟りというのは、一度でも起きなければその瞬間に効力を失う。
ふたつめは、離れて暮らす型になる。跡取りが町へ出て、そこで所帯を持つ。町の集合住宅には臼も杵も置けないから、暮れに買ってきた切り餅を焼いて雑煮に入れる。禁忌のほうは、実家の土間に置き去りにされる。
みっつめが、語る人が死ぬ型だ。祟りの話をしていた祖父母が死ぬ。次の代は、搗かないという習慣だけを受け取って、なぜ搗かないのかという中身を受け取りそこねる。理由のない習慣は、二代ももたずに崩れる。
戦後の食糧事情もはっきり効いた。統制が解けて餅米が手に入りやすくなると、正月に餅を搗くことが全国どこでも当たり前になっていく。搗かない家のほうが、それまでより急に目立つようになった。
高度成長期には家族の形そのものが変わる。三世代が同じ土間を使う暮らしが崩れて、核家族の所帯が並びはじめた。臼を出すには人手がいるのだから、搗く家も搗かない家も、結局は同じ理由で臼を使わなくなっていく。
臼が売られていく光景を、あちこちで聞いた。庭石として据えられた臼。玄関先で傘立てに転用されている臼もあった。ひっくり返して植木鉢を載せられた臼。餅を搗かない家の臼は、搗く家の臼よりずっと早く役目を失う。
祟りが怖いから、とはもう言わない
それでも続いている土地はある。ただし、続ける理由の言い方が、昔とはずいぶん変わってきた。
祟りが怖いから、とはもう言わない。先祖がそうしてきたから、と言う。あるいは、うちはそういう家だから、と言う。恐怖が家風という言葉に翻訳されて、角の取れた形で受け渡されている。
下田の中の瀬では、よそから移り住んできた家も三が日は餅を口にしないと伝わる。禁忌が家ではなく土地の側に張りついているので、住む人が入れ替わっても引き継がれていく。家例ではなく村例になっている型だ。
記録する側も動いた。足立区の博物館は、四ツ家の餅なし正月を地域文化の項目として展示に載せている。二十三区の内側に芋雑煮の正月があったというのは、いま聞くとかえって新鮮に響く話になった。
各地の民俗資料館や市史の民俗編にも、年中行事調査の一項目として餅なし正月が拾われてきた。厚みがあるのは昭和三十年代から五十年代にかけての調査で、そこで聞き書きに応じた老人たちは、もう全員が鬼籍に入っている。
地域おこしの文脈で表に出てきた例もあって、祖谷のうちがえ雑煮は、いまや土地の名物として宿や食堂で供される。和歌山のぼうりも、正月の郷土食として観光の側から紹介されるようになった。禁忌が名物に変わっていく過程を、私たちはちょうど同時代で見ていることになる。
禁忌だったころの重さは、名物になった瞬間にすとんと抜ける。抜けたほうが暮らしは間違いなく楽だ。楽になった代わりに、臼の前で声を落として話す時間だけがなくなった。
若い世代が理由を聞きに来る家もある。取材を受けた七十代の男性が、同じ話を孫娘にしてやった翌年から、その孫娘が正月に帰ってくるようになったという。話が残るかどうかは、たぶんそういう偶然で決まっていく。
七軒が二軒になるまで
ある山間の集落では、平成のはじめに餅を搗かない家が七軒あったと記録されている。二十年後の調査では三軒になり、いまは二軒だそうで、残る家はいずれも八十代が家の中心に座っている。
減り方には波がある。ひとりまたひとりと減るのではなく、ある年にまとめて三軒が同時にやめる。誰かがやめると、あの家もやめたそうだという話が回って、翌年には別の家もやめる。禁忌は、案外まわりの様子を見ながら守られてきたらしい。
やめると決めた年の暮れは、どの家も落ち着かない。初めて臼を起こして、初めて餅米を蒸して、家じゅうで息を詰めながら搗く。何も起きないのを確かめてからようやく丸めはじめるので、その年の餅は、どの家でもひどく不格好に仕上がる。
残った家のほうにも、言い分がある。やめた家が何ともなかったのは知っている。それでも、自分の代でやめて何か起きたら取り返しがつかないし、損得で考えれば、搗かないほうが確実に安い。そういう計算で守られている禁忌が、たぶん相当な数ある。
餅なし正月をやめた家の子や孫が、大人になってから調べに来るという流れも生まれている。役場の民俗担当のところへ、うちの家はなぜ搗かなかったのかと問い合わせが入る。答えられる資料が残っていることもあれば、余白の一行すら見つからないこともあった。禁忌が消えたあとに、禁忌の理由だけを探しに来る人がいる。
鰻を食べない家、胡瓜を切らない家
餅を拒む家だけが特別というわけでもない。特定の食べ物を口にしない家や氏子は、日本中にごろごろいる。
諏訪の周辺には、鰻を食べない家がある。諏訪明神の使いが鰻だからだという理由で、同じ伝えは三嶋大社の氏子にもあって、伊豆では鰻を避ける家がぽつぽつ見つかる。神の使いを食う者があるか、という理屈になる。
祇園の氏子は胡瓜を食べない。輪切りにした断面が、八坂神社の木瓜の神紋によく似ているからだという。神紋を食うことになるので避ける。輪切りにしなければかまわないという抜け道を使う家も、ちゃんとあった。
足立区でも、大鷲神社の氏子が鶏肉と卵を食べない例が拾われている。酉の市の神の使いが鶏だからだ。餅なし正月と同じ区の中に、まったく別系統の食物禁忌が並んで生きていたことになる。
蟹を食べない家もある。先祖が川で溺れかけたとき、蟹が岸まで引き上げてくれたという由来を持つ。胡麻を作らない家は先祖が胡麻殻で目を突いたからだそうで、理由の付け方がどれもよく似ていて、そこが面白い。
この手の禁忌は、たいてい三つの部品でできている。守る単位、禁じられる物、破ったときに来る祟り。餅なし正月も、この型にきれいに収まってしまう。餅という物が飛び抜けて特別なだけで、構造そのものはちっとも珍しくない。
珍しいのは、禁じられているのが正月の餅だという一点になる。日本の年中行事のいちばん真ん中に据えられた食べ物を、名指しで拒む。鰻や胡瓜の禁忌は、暮らしの隅を少し削るだけで済んだ。餅の禁忌は、一年の始まりをまるごと作り替えてしまう。
臼を洗う音
群馬の家の話に戻る。土間に伏せてあるあの臼は、年に一度だけ動くのだと主人は言った。
正月ではない。秋の彼岸だ。彼岸のうちに一度だけ、水を張って洗う。搗きはしない。ただ洗って、日に当てて乾かして、また同じように伏せておく。
なぜ洗うんですかと聞いた。主人はしばらく考えてから、使わねえ道具でも汚れたままにしておくと、ろくなことがねえからな、と答えた。
搗けば血が出ると言われてきた臼を、年に一度、水を張って洗う。その水がどんな色をしているかを、この人は五十年以上、毎年見ていることになる。確かめているのか、確かめずに目を逸らしているのか。そこまでは、とうとう聞けなかった。
帰り際、梁に吊るされた杵をもう一度見上げた。縄はほどけかけているけれど、落ちてはいない。誰かが時々、結び直している。
