通夜って、冷静に見るとかなり異様じゃないか
通夜というやつは、当たり前の顔をしてそこにあるけれど、一歩引いて見るとかなり変な行事なんだよな。
人がひとり死ぬ。すると親族と近所の人間が夜中に集まってくる。部屋の真ん中には、さっきまで生きていた人が布団だか棺だかに寝かされている。顔には白い布。その数メートル横で、みんな寿司を食い、ビールを開け、故人の若い頃の失敗談で笑っている。線香は一晩絶やすなと言われ、誰かが交代で起きている。そして翌朝、何事もなかったように葬儀が始まる。
落ち着いて考えてほしい。死体のすぐ隣で飲食して、雑談して、一晩過ごすんだぞ。これ、他のどんな場面でやっても完全にアウトだろ。でも通夜だけは許される。というより、やらないと「薄情だ」と言われる。この妙な逆転が、実は日本の葬送のいちばん古い層から染み出してきた名残なんだ。
その古い層の名前が「殯」。読み方は「もがり」。漢字一文字で、意味は「まだ埋めていない状態の遺体を、屋根の下に置いたまま置いておく期間」。現代の通夜が一晩なのに対して、殯は数十日、数ヶ月、記録によっては三年に及んだ。
つまり我々がやっている通夜は、三年間の行事を一晩に圧縮した圧縮ファイルみたいなものなんだ。展開すると、とんでもないものが出てくる。
死んだ人を「まだ死んでない」ことにする、という発明
殯の核心はここにある。医学的に息が止まった瞬間を「死」とはみなさない。息が止まった人は、まだ「死につつある人」でしかない。
じゃあいつ死ぬのか。肉が落ちて、骨だけになって、腐敗という現象がすべて終わったとき。そこでようやく「この人は死にました」と社会が判定する。それまでは、生きている扱いに近い。
だから遺体には毎日食事が供えられる。話しかけられる。名前を呼ばれる。着替えさせられることすらあった。埋葬という決定を下すまでの猶予期間、それが殯なんだ。
現代の感覚だと、これは死の否認に見える。でも当時の人にとっては否認じゃなくて、手続きだった。人はいきなり死者にはならない。ゆっくり死者になっていく。その進行を見届けるのが遺族の仕事だったわけだ。
この発想が生まれた背景には、単純な技術的事情もある。医者もいない、心電図もない時代、「本当に死んだかどうか」を確かめる方法が、腐り始めるかどうかしかなかった。実際、殯の期間には「蘇生を期待して待つ」という側面が確実にあったと考えられている。
呼びかけ続ければ帰ってくるかもしれない。だから呼び続ける。数日呼んで、返事がない。十日呼んで、返事がない。そのうち匂いが変わってくる。ああ、これはもう帰ってこないんだな、と全員が納得する。その納得のプロセス全体が殯だった。
現場は、こんな匂いと音と会話でできていた
想像してみてくれ。舞台は板葺きの小屋。喪屋(もや)とか殯宮(もがりのみや)とか呼ばれる、そのためだけに建てた仮設の建物だ。中には棺、あるいは棺ですらない台の上に、白い布をかけられた遺体。周囲には菰(こも)が敷かれている。火は焚かれているが、それは明かりのためであると同時に、匂いをごまかすためでもある。
最初の数日は、正直そんなに変化がない。冬なら特にそうだ。顔色が悪いだけで眠っているように見える。家族は普通に話しかける。寒くないか。今日は雨だ。あんたの畑の豆、まだ採れとるよ。声をかけながら、供えた粥を新しいものに取り替える。
夜になると近隣の者が集まってきて、酒が出る。誰かが手を叩いて歌い出す。三世紀の中国人が驚いたのはこの点で、遺族はわんわん泣いているのに、その周りで他の人間が歌って踊って酒を飲んでいる、と書き残している。悲しみと祝祭が同じ部屋に同居しているわけだ。
変化は、たいてい四日目あたりから来る。
まず匂いだ。甘いような、鉄のような、はっきり異質な匂いが小屋にこもり始める。香を焚いても消えない。次に音。腹の中でガスが動く音がする。これは今でも安置に立ち会った人がよく口にする現象で、知らないと本気で心臓が止まりかける。そして顔の変化。頬がこけ、口が開き、皮膚の色が変わっていく。
ここから先、話しかける声のトーンが変わってくる。最初は「まだいる人」への声かけだったのが、だんだん「もういない人」への独り言に変わっていく。この転換こそが殯の目的だった、と言っていい。
「モガリ」という言葉の、うすら寒い語源たち
この「もがり」という響き、なんとなく不吉に聞こえるだろう。実際、語源の説がいくつかあって、どれもそれなりに不穏なんだ。
ひとつ目は「喪あがり」の縮まったもの、という説。喪が明ける、その期間の全体を指した、という考え方。
二つ目は「もがる」という動詞から来ているという説。これは「あらがう」「抵抗する」に近い意味を持つ古語で、つまり死に抵抗している状態を指す。これがいちばん実態に近い気がしてゾッとする。死を認めない、押し返そうとする、その膠着状態が「もがり」なわけだ。
三つ目は、遺体を仮に囲う柵や垣を「もがり」と呼んだという説。今でも工事現場の仮囲いを「虎落(もがり)」と書くことがある。竹を組んだ柵のことだ。死者を囲う垣、生者と死者の間に立てた仕切り。そう考えると、殯という行事は「囲いを立てて、中でゆっくり死んでもらう」ことだったとも読める。
漢字の「殯」のほうも面白い。左側は「歹」で、これは骨が残った状態を表す部首。右側は「賓」、つまり客だ。骨になりかけた客。家に迎え入れた、帰るあてのある客。死者を「客」として扱う感覚が、この一文字に閉じ込められている。客はいずれ帰る。だから殯宮は宿であって、住まいではない。遺体はそこに滞在しているだけ。この距離感の取り方が、なんとも日本的でぞくりとする。
三世紀の中国人が見た倭人の葬式が、もうこの時点で殯だった
殯の記録として、日本の書物より古いものが海の向こうに残っている。三世紀に編まれた中国の史書のうち、倭人について記した部分だ。
教科書では邪馬台国や卑弥呼のくだりばかり有名だけど、その少し後ろに、当時の倭人の葬式についての短い記述がある。
そこにはこうある。人が死ぬと、まず十日あまり喪に服して遺体を留め置く。その間、遺族は肉を食べない。喪主は声をあげて泣き、他の者たちはそばで歌い、舞い、酒を飲む。埋葬が終わると、一家そろって水に入り、体を洗い清める。
短い文章だけど、要素が全部そろっている。十日以上遺体を置く。飲食の禁忌がある。泣く者と歌う者が同じ場に共存する。終わったら水で禊ぐ。これ、まるまる殯の作法なんだよ。
つまり三世紀の時点で、日本列島には「死んだらすぐ埋めない、十日以上置く」という習慣が定着していた。しかも一族単位じゃなく、地域社会の行事として。中国側の記録者にとっては珍しくて書き留める価値があった、ということでもある。彼らの感覚では、死者は速やかに埋めるのが常識だったからだ。
隋の役人は「貴人は三年、外に殯する」と書き残した
時代を四百年ほど下って、七世紀初め。遣隋使の時代の記録には、もっと具体的な葬送の描写がある。
死者は棺と槨に納める。親族や客人が遺体のそばに来て、歌い舞う。妻子や兄弟は白い布で喪服を仕立てる。そして身分の高い者は三年のあいだ、外に殯する。庶民は日を占って埋める。埋葬のときには遺体を船の上に置き、それを陸で引く。あるいは小さな輿に載せる。
「貴人は三年」。この数字がとんでもない。三年だぞ。丸三年、遺体は埋められないまま、屋外の仮の建物に置かれ続ける。しかもその間ずっと、儀礼が断続的に続く。この記述が誇張なのか正確なのかは議論があるけれど、少なくとも「日本の偉い人の葬式はやたら長い」という印象を、外国の観察者が持つ程度には長かったのは確かだ。
もうひとつ注目したいのが「白い布で喪服を仕立てる」というくだり。日本の喪の色が白だったという話は、この時期の記録からも裏付けられる。今の黒い喪服は明治以降に西洋から入ってきたもので、それ以前の日本の喪は白だった。白装束、白い布、白い幕。殯の小屋の中も、白と木と火の色だけの世界だったはずだ。あの色彩の乏しさが、また怖い。
日本最古の殯は、浮気者の神様の葬式だった
日本側の文献で殯が最初に生々しく描かれるのは、神話の中だ。
八世紀初頭に成立した歴史書のうち、古い方に載っている話で、主人公は天若日子(アメノワカヒコ)という神。彼は葦原中国を平定するために天から派遣されたのに、現地の姫と結婚してしまい、八年間まったく報告をよこさなかった。しびれを切らした天上から使いの雉が送られてくるが、天若日子はそれを矢で射殺す。その矢が天まで飛んでいって、投げ返された矢が彼の胸を貫いた。寝ている間に死んだ。自業自得と言えば自業自得だ。
ここからが本題。妻の下照比売(シタテルヒメ)が泣き叫ぶ声が、風に乗って天まで届く。天若日子の父が地上に降りてきて、その場に喪屋を建てる。そして八日八夜にわたって、飲み、歌い、舞い続けた。原文の表現では「八日八夜遊びき」となっている。
この「遊ぶ」が曲者で、現代語の遊びじゃない。神事としての歌舞、死者の魂を慰め、また鎮めるための所作を指す。
注目すべきは、これが日本の文献に現れる最初の本格的な葬儀の描写だという点だ。神々の世界で最初に行われた葬式が、埋葬ではなく殯だった。つまりこの国の神話は、「死んだらまず八日八夜そばで飲み歌う」と定めているに等しい。
八日八夜、鳥が飯を炊き、鳥が泣いた
この喪屋の場面で、いちばん忘れがたいのが役割分担の描写だ。人間じゃなくて鳥が担当している。
河雁(かわかり)が「きさり持ち」。これは死者に供える食物を持ち運ぶ役。鷺が「掃持(ははきもち)」で、箒を持って喪屋の中を掃き清める役。翡翠(かわせみ)が「御食人(みけびと)」、つまり調理担当。雀が「碓女(うすめ)」で、臼をついて米を搗く。そして雉が「哭女(なきめ)」、泣き役だ。
この配役表が何を意味しているか。殯という行事が、単に遺体を置いておくことじゃなく、明確に分業された運営業務だったということだ。掃除係がいる。炊事係がいる。米搗き係がいる。そして泣く係がいる。
泣くのが「係」なんだよ。悲しいから泣くんじゃなくて、泣くという職務がある。後の時代の泣き女、雇われて葬列で号泣する職能者の原型がここにある。
そして八日八夜、その全員が交代で働き続ける。掃いて、炊いて、搗いて、泣いて、また掃く。死体の隣で回り続ける小さな共同体。この光景を想像すると、怖いというより、ある種の狂気じみた真面目さを感じる。彼らは死者をもてなしている。客として。
遊部(あそびべ)――刀と酒を持って死者の前に座り続けた一族
さらに踏み込むと、殯には専門の職能集団がいた。「遊部」と書いて「あそびべ」と読む。名前だけ聞くと楽しそうだが、やっていることは相当に重い。
平安時代に編まれた法令の注釈書に、この一族についての記述が残っている。それによれば、遊部は天皇の殯宮において、二人一組で奉仕した。ひとりは「禰宜(ねぎ)」と呼ばれ、刀と矛を持つ。もうひとりは「余比(よひ)」と呼ばれ、刀と酒食を持つ。そして殯宮の中で、死者に向かって供物を捧げ、鎮魂の所作を行う。
由来についても妙な話が伝わっている。遊部を務める家系が絶えてしまったとき、円目王という人物が比自支和気の娘を妻としていた縁で、その役目を引き継ぐことになった。時の天皇は彼に「手足の毛が八束の長さになるまで遊べ」と命じた。八束というのは、手のひら八つ分。つまり毛が伸び放題になるまで、ずっとこの役を務めよ、という意味だ。
その代わり、子孫は課役を免除された。税を免除される代わりに、代々、天皇の遺体の前に座り続ける家。そういう家があったわけだ。
「凶癘魂」という、この話でいちばん怖い三文字
遊部の職務を説明する文脈で出てくる言葉が「凶癘魂(きょうれいこん)」だ。彼らの仕事は、この凶癘魂が荒ぶらないよう鎮めることだったとされる。
凶癘魂とは何か。字面のとおり、凶暴で疫病をもたらす魂のことだ。誰の魂かというと、死んだばかりの人の魂。
ここが肝心なところで、古代の日本人にとって死者の霊は、無条件に懐かしいものでも守ってくれるものでもなかった。死んだ直後の魂は不安定で、暴れる。祟る。疫病を撒く。特に非業の死を遂げた者や、地位の高い者の魂は危険だとされた。
だから殯は、追悼であると同時に「封じ込め」でもあった。遺体を囲いの中に置き、専門職が刀と矛を持って番をし、酒と食物を供えて機嫌をとる。数十日から数年かけて、荒ぶる魂をゆっくり冷ましていく。冷めきったところで、初めて埋葬して「祖霊」という穏やかな存在に格上げする。この二段構えの死生観が、あとの日本の御霊信仰にまっすぐつながっていく。菅原道真も、平将門も、この延長線上にいる。
身も蓋もない言い方をすれば、遊部は死者を慰めていたんじゃない。監視していたんだ。刀を持って。
殯は政治だった。遺体は空位の玉座みたいに置かれていた
ここで一気に現実的な話になる。天皇の殯がやたらと長引いた理由には、宗教的なものだけじゃなく、露骨に政治的なものがあった。
天皇が死ぬ。次の天皇が決まっていない。この状態で遺体をさっさと埋めてしまうと、王権が空白になる。だから遺体は殯宮に置かれたまま、後継者争いの決着を待つ。
その間、殯宮では毎日儀礼が行われ、有力者たちが弔問に訪れ、誄(しのびごと)を読み上げる。誄というのは死者の生前の功績を称える言葉なんだけど、実質的には「自分は先帝とこれだけ近しかった」という政治的アピールの場だった。誰が最初に読むか、どんな肩書きで読むか、それ自体が権力序列の表示装置になっていたわけだ。
つまり殯宮は、遺体を安置した部屋であると同時に、次の権力を決める会議場でもあった。遺体は空位の玉座のように、そこに置かれ続けた。腐敗しつつある元首の前で、生きている連中が椅子取りゲームをやる。この構図、率直に言ってホラーより怖い。
二年二ヶ月、天武天皇の遺体は宮に置かれ続けた
具体的な数字を出そう。記録に残る殯の期間はまちまちで、欽明天皇の場合は五ヶ月ほど、崩御から埋葬までが半年に満たなかったという記述がある。一方で、極端に長い例もある。
最も知られているのが天武天皇のケースだ。朱鳥元年、西暦六八六年の秋に崩御。しかし埋葬されたのは持統天皇二年、六八八年の冬。実に二年二ヶ月にわたって、遺体は殯宮に置かれ続けた。
この間、皇后であった鸕野讚良皇女――のちの持統天皇――が政務を執り続けている。息子の草壁皇子への継承を確実にするための時間稼ぎだったという見方が根強い。実際、殯の最中に大津皇子の謀反事件が起き、大津皇子は処刑されている。殯宮の隣で、粛清が行われていたわけだ。
二年二ヶ月。想像してみてほしい。二度目の夏が来る。三度目の秋が来る。その間ずっと、殯宮では日々の供物が捧げられ、決められた日には儀式が行われる。もちろん遺体はとっくに白骨化に近い状態になっているはずだ。それでもなお「まだ死んでいない」という建前が維持される。
この建前を維持するために、どれだけの人手と食料と我慢が費やされたか。殯というのは、国家規模で行う巨大な引き延ばし作戦でもあった。
六四六年、国家が「殯はもうやめろ」と言い出す
さすがにこれはやりすぎだ、と考えた人たちもいた。大化二年、西暦六四六年に出されたとされるのが薄葬令だ。名前のとおり「葬儀を薄く、簡素にせよ」という命令。
内容は身分に応じた墳墓の規模制限が中心で、王族から庶民まで、造ってよい墓の大きさ、工事にかけてよい日数、動員してよい人数が細かく決められている。天皇の陵にかける工事日数を七日以内に制限する、といった規定もあったとされる。さらに人や馬を殉死・殉葬させることを禁じ、宝物を墓に納めることも制限した。
この令が実際にどこまで実行されたかについては、後世に日本書紀が編纂された時点での後付けではないかという説も強い。ただ、結果として見れば、この時期を境に前方後円墳の造営は途絶え、古墳時代は事実上終わる。墳墓は小型化し、方墳や円墳が主流になる。
そして仏教の浸透とともに火葬が広まっていく。火葬は殯の天敵だ。焼いてしまえば「ゆっくり肉が落ちるのを待つ」というプロセスが丸ごと不要になる。日本で最初に火葬されたとされる僧の記録は七世紀後半、持統天皇自身も火葬されている。国家が舵を切ったわけだ。
こうして、公式には殯は縮小していく。だが、消えたわけではなかった。
瀬戸内の両墓制と、十三年後の「穴がえし」
殯は姿を変えて民間に残った。そのいちばん分かりやすい形が、両墓制だ。ひとりの死者に対して墓をふたつ作る制度で、遺体を埋める「埋め墓」と、参拝するための「詣り墓」を別々の場所に設ける。
これが濃厚に残ったのが瀬戸内の島々だ。香川県の塩飽諸島――本島、佐柳島、志々島、高見島――や、三豊市の荘内半島あたりが知られている。佐柳島の両墓制の墓地は香川県の指定有形民俗文化財になっていて、埋め墓には「デコ」と呼ばれる桐材の人形を棒の先に立てる風習があった。志々島などでは埋め墓の上に小さな霊屋を建てる例もある。丸亀市の笠島や甲生地区にも痕跡が残る。
二〇二二年十二月に本島で行われた実地調査の記録では、地元のガイドの案内で、土葬してから十三年経過した時点で「穴がえし」を行う慣行が語られている。十三年目に、埋めた穴を掘り返して整理する。
つまり埋葬から十三年経つまでは、その遺体はまだ「処理中」なんだ。埋め墓のほうは草も生え、荒れるに任せる。手を合わせるのは詣り墓のほう。遺体と魂を空間的に切り離してしまうこの発想は、殯の「肉体が終わるまで待つ」という時間感覚を、場所の分割に置き換えたものだと考えられている。
南島では、殯が「数年」に伸びてしまった
本土で薄葬令と火葬が殯を押しつぶしていったのに対し、南の島々では逆方向に振り切れた。琉球諸島と奄美群島では、遺体を洞窟や崖下に置く風葬が続き、数年後に骨を洗って納め直す洗骨という二段階の葬送が近代まで生きていた。
これは殯の時間軸が、数日から数年へと引き伸ばされた形だと言っていい。本土の殯が「肉が落ちるまで待つ」を建前だけ残して短縮していったのに対し、南島では文字どおり肉が落ちるまで待った。しかも待った上で、それを人の手で確認し、洗い、納め直す。殯のいちばん過酷な部分だけが純粋培養されて生き残った、という言い方もできる。
沖縄本島では戦後の保健所指導で急速に消え、離島でも一九七〇年代後半以降に火葬が広まって、ほぼ姿を消した。それでも二十一世紀に入ってからも粟国島などでわずかに行われていたという話がある。奄美では「カイソウ」と呼ばれ、与論島では洗骨がほぼ行われなくなったのが二〇一〇年頃だとされる。この島の火葬場が完成したのは二〇〇三年、平成十五年だ。つまり平成に入ってからも、この国の一部では殯の直系子孫が続いていた。
青森の門に組む木と、忌中の家の暗さ
東北にも殯の痕跡は残る。青森県の一部では、家に死者が出ると、門のところに木の棒を二本、交差させて組んで飾る風習が残っている。ぱっと見はただの標識みたいなものだが、これは「この家は今、忌の中にある」という表示であると同時に、外から来るものを遮る結界の意味を持っていた。
殯の「もがり」が仮囲いの意味を含んでいたことを思い出してほしい。囲いを立てる。中と外を区切る。中は死者の領域、外は生者の領域。この二本の棒は、その最小限の残骸なんだ。門に棒を組むだけで、その家全体が殯宮になる。
東北の忌中の家は、とにかく暗かったという話がよく残っている。昼間でも雨戸を閉め、火は最小限にする。声も落とす。畑仕事も止める。家全体が息を潜めて、死者が出ていくのを待つ。
この「待つ」という感覚が、まさに殯の本体だ。埋葬すればそれで終わり、ではない。埋葬してもしばらくは家が忌の中にあり、その間は世間から少し切り離される。忌明けの法要でようやく元に戻る。四十九日という区切りが仏教由来だという建前の裏で、実際には「肉が落ちきるまでの期間」の記憶がそこに重なっている。
愛媛の夜葬と「酉の日には出さない」という理屈
西日本の葬送民俗を丁寧に記録した資料のなかに、愛媛県の事例がまとまっている。昭和五十九年三月に刊行された県史の民俗編に載っている記述だ。
たとえば喜多郡肱川町では、昭和四十年頃まで夜間に葬儀を行う習慣が残っていた。夜葬だ。日が落ちてから遺体を送り出す。理由については諸説あって、農作業の都合という現実的な説明もあれば、死者は夜のものだからという説明もある。
東宇和郡城川町では、葬列における役割の割り当てが、そのまま遺産分配にも影響したという記録がある。葬列で誰がどの位置を歩き、何を持つか。それが家の中での立場を可視化していたわけだ。行列には「野火手(ノボテ)」と呼ばれる役も含まれていた。
越智郡宮窪町の余所国には、「酉は鳥目だから遅くなってから出す」という言い伝えが残る。酉の日は鳥目、つまり夜が見えない。だから出棺を遅らせる。理屈としてはほぼ駄洒落なんだが、こういう語呂合わせのタブーは全国に山ほどあって、しかも真剣に守られた。松山市久谷町では、死人が出ると葱の苗を作らないという禁忌があった。種を断つ、つまり家系が絶えることを連想させるからだ。
そして出棺の際には「願ほどきの茶碗」を割る。故人が生前使っていた茶碗を、玄関先で叩き割る。もう戻ってこなくていい、この家に未練を持つな、という宣言だ。門火を焚く地域もあった。
殯が「引き止める」行事だとすれば、これは「もう帰るな」と告げる行事で、二つはセットになっている。引き止めて、引き止めて、最後に突き放す。
納棺のとき首にかける袋の中身が、けっこう重い
同じ愛媛の記録から、もうひとつ生々しい話を引いておく。東宇和郡宇和町では、納棺のときに死者の首に「サンヤ袋」と呼ばれる袋をかけさせた。その中身が、六文銭、五穀、そして縁者の爪、頭髪、手ぬぐいだ。
六文銭と五穀はわかる。あの世への旅費と食料だ。問題は爪と頭髪。これは死者本人のものじゃなくて、生きている縁者のものなんだ。つまり家族が自分の爪を切り、髪を切り、それを死者の首にかける袋に入れて一緒に送り出す。自分の一部を持っていってもらう、という発想だ。
これをどう読むか。ひとつには、死者が寂しくないように、という優しい解釈。もうひとつは、もっと即物的な解釈で、生者の一部を人質として渡すことで「もうあなたのぶんは渡したから、これ以上こっちに来るな」と取引している、という読み方。民俗学的にはこの手の「身体の一部を分ける」行為は、たいてい後者の呪術的な意味を含む。
殯の期間、遺体のそばで過ごす何日間かのあいだに、家族はこういう準備をしていた。爪を切り、髪を切り、袋を縫う。その手仕事の時間もまた、殯の一部だったわけだ。
聞き書きその一――昭和三十年代、雪の山あいで過ごした四日間
ここからは、殯そのものではないが、その空気を色濃く残した時代の話をいくつか。すべて個人が特定されない形にしてある。
北陸の山間部で生まれ育った、昭和二十年代生まれの女性が語った話。小学校三年か四年のとき、同居していた祖父が亡くなった。真冬で、道が雪で塞がっていた。当時その集落から火葬場のある町までは、雪のない季節でも半日近くかかった。だから遺体は、雪が緩んで道が通れるようになるまで、家に置かれた。四日間だったという。
祖父は奥の座敷に寝かされた。その部屋だけは火鉢を入れず、障子を少し開けて外気を通していた。それでも三日目の朝、部屋に入ると空気が違っていたのを覚えている。「甘い、というのがいちばん近い。でも果物の甘さじゃない。嗅いだことのない匂いだった」と彼女は言った。
祖母はその匂いのする部屋に、朝と昼と晩、三度ごはんを運んでいた。茶碗に少しだけ盛って、湯気が立ったまま枕元に置く。そして「じいちゃん、ごはんですよ」と、生きているときとまったく同じ声で言った。
子供だった彼女は怖かった。でも、いちばん怖かったのは遺体でも匂いでもなく、祖母の声だったという。祖母は四日間、一度も泣かなかった。ただ淡々と、生活の続きのように世話をしていた。出棺の朝、雪の道を橇で運び出すとき、初めて祖母が声を上げて泣いた。「あのとき初めて、じいちゃんは死んだんだなと思った」。四日間かけて、その家は祖父を死者にしたわけだ。まさに殯だった。
聞き書きその二――離島の「まだ帰ってこん」という言い方
瀬戸内の島に嫁いだ、昭和四十年代生まれの女性の話。嫁いだ先の集落には、二〇〇〇年代に入ってからも独特の言い回しが残っていた。誰かが亡くなると、島の年寄りたちは「亡くなった」とは言わず、「まだ帰ってこん」と言ったという。
最初は意味がわからなかった。海で遭難でもしたのかと思った。違った。普通に病院で亡くなった人のことを、そう言うのだ。
あとで義母に聞くと、島には両墓制の名残があって、埋めた場所と手を合わせる場所が別々にあった。埋めたほうの墓は集落から離れた海沿いにあり、そこは基本的に誰も行かない。手を合わせるのは家に近い墓のほう。だから「あの人はまだ、あっちの墓からこっちの墓に帰ってきてない」という意味で「まだ帰ってこん」と言うのだと。
何年経てば帰ってくるのかと聞いたら、義母は「昔は十三年って言うたけどねえ」と笑ったそうだ。実際には火葬になってからその期間の意味は失われている。それでも言葉だけが残った。
彼女が印象的だったと語ったのは、義父の葬儀の日、近所の高齢の女性が線香をあげながら、遺影ではなく部屋の隅の何もない空間に向かって「まだ、おってですか」と話しかけたことだった。まだいますか。まだ帰ってこないんですか。生者と死者のあいだに、まだ「移動中」という状態があると信じられていたことの、最後の残り香だ。
聞き書きその三――平成の納棺師が見た、話しかけ続ける家族
三人目は、関東で十数年、納棺の仕事に携わった男性の話。彼の口から出てくる現代の遺族の姿が、驚くほど古代に似ている。
「これは職業病なのか何なのかわからないけど」と前置きして、彼はこう言った。安置期間が長い家ほど、家族の様子が変わっていくのがはっきりわかる、と。火葬場が混んでいると、亡くなってから火葬まで一週間近く空くことがある。夏場は特に厳しい。
そういうとき、最初の二、三日、家族は遺体を「その人」として扱う。手を握る。頬を撫でる。話しかける。暑くない、なんて聞いたりもする。
ところが四日、五日と経つと、扱いが変わる。触れなくなる。話しかける相手が、遺体から遺影に移る。部屋に入る回数が減る。そして火葬の直前になると、多くの家族が「早く楽にしてあげたい」と口にするようになる。
「あれはたぶん、うちの仕事の何倍も大事な仕事を、ご家族が自分でやってるんですよ」と彼は言った。時間をかけて、その人を死者にする作業。彼の見立てでは、それをやりきった家族はあとの立ち直りが早い。逆に、亡くなった翌々日に火葬まで済んでしまった家族は、しばらく地に足がつかない状態が続くことが多いという。
もうひとつ、彼が忘れられないと語った場面がある。ある高齢男性の安置の際、奥さんが枕元に小さなラジオを置いていた。ずっと野球中継を流していた。「主人、これ聞きながらじゃないと寝ないんです」と。三日間、遺体の枕元でラジオが鳴り続けていた。「あれが殯って言われるやつなんですかね」と、彼は自分から言った。
ネットの反応――「怖い」より「うらやましい」が混ざる
この手の話題がネットに出ると、反応がきれいに分かれるのが面白い。
第一の反応は当然「怖い」。三年も遺体を置くとか衛生観念どうなってんだ、疫病が流行るに決まってる、という現代的なツッコミ。これはまったく正しくて、実際に明治以降の行政が殯的な習俗を規制していった理由も、まさに公衆衛生だった。腐敗した遺体の周りに人が集まって飲食するというのは、感染症対策の観点からは最悪の部類に入る。
第二の反応は「政治怖い」。天武天皇の二年二ヶ月の話が出るたびに、遺体を政治の道具にしていたのがいちばんホラーだ、という書き込みが必ず湧く。ここには近代以降の「死者は静かに眠るべき」という感覚がある。古代人にはその感覚がなかった。
面白いのが第三の反応で、「ちょっとうらやましい」というやつだ。これが意外に多い。病院で亡くなってから通夜まで数時間、火葬まで二日、気づいたら骨になっていて、実感が追いつかないまま四十九日が来る。そういう体験をした人ほど、「もっと時間をかけたかった」と書く。殯を「野蛮な過去」ではなく「失われた贅沢」として見る視線だ。
考察界隈では、殯を「死者蘇生への期待」と読む説と「死の判定手続き」と読む説がずっと対立している。前者はロマンチックだが、遊部が刀と矛を持っていたことを説明しにくい。後者は合理的だが、なぜ数年も必要だったのかを説明しきれない。有力なのは折衷案で、殯の性格は時代と身分によって変わり、初期は魂の鎮圧、後期は権力の空白調整へと重心が移った、という見方だ。
ひとつの言葉が千年かけて中身を入れ替えた、と考えるほうが自然なんだよな。
平成元年、皇居の一角に殯宮が建った
殯は完全に消えた過去の話ではない。皇室の葬儀には、いまも殯宮の名が残っている。
昭和天皇が崩御されたのは昭和六十四年一月七日。その後、皇居の宮殿内に殯宮が設けられ、崩御から数えて十三日目に遺体が移された。そこから大喪の礼が行われた二月二十四日まで、およそひと月半にわたって「殯宮日供の儀」が毎日執り行われた。日供、つまり毎日の食事の供え物だ。
それに加えて「殯宮二十日の儀」「殯宮三十日の儀」「殯宮四十日の儀」といった節目の儀式が続く。この間、遺族――当時の皇太子ご夫妻を含む――は連日にわたって参列を続けた。現代の殯はおおよそ四十五日を目処とされるが、それでも相当な負担であることは想像に難くない。
二〇一六年、当時の天皇陛下が退位の意向をにじませたビデオメッセージの中で、自らの葬儀が社会に与える負担に触れられたことがあった。あのとき「殯」という古語が突然お茶の間に流れ込んで、多くの人が初めてこの言葉を知った。一四〇〇年前の言葉が、平成の終わりに現役の制度として姿を現したわけだ。
そして我々の通夜。あれは殯の最終形態だ。夜通し火を絶やさない。遺体のそばで飲食する。故人の話をする。翌朝送り出す。八日八夜が一晩に、三年が一晩に圧縮された姿。圧縮率が高すぎて元の形が見えなくなっているけれど、確かに同じものだ。
なぜ怖いのか。そしてなぜ我々はまだ通夜をやめられないのか
殯の何がそんなに怖いのか、整理しておきたい。
第一に、時間だ。腐敗という不可逆な過程を、隠さず、逃げず、真正面から見続ける。しかも数十日から数年。現代人がいちばん見たくないものを、当時の人は義務として見た。この持久戦の感覚が、生理的にきつい。
第二に、建前と現実の乖離だ。目の前で明らかに崩れていく遺体に対して、「まだ生きている」という設定を全員で維持し続ける。この集団的な演技の異様さ。誰も「もう死んでるだろ」と言わない。言った瞬間に、その場が終わってしまうからだ。
第三に、死者への不信だ。遊部が刀と矛を持っていたことが示すように、殯には「死者は危険だ」という前提があった。愛する人であると同時に、警戒すべき何かでもある。この二重性が、いちばん深いところで怖い。あなたの家族は、死んだ瞬間に、あなたを害するかもしれない存在になる。
じゃあ、なぜ廃れたか。答えは単純で、火葬と公衆衛生と時間の値段だ。焼けば数時間で終わる工程を、数年かけてやる理由がなくなった。都市に人が集まり、家に安置する部屋がなくなった。仕事を何日も休めなくなった。合理性に負けたわけだ。
それなのに、なぜ通夜は残ったのか。ここに殯のいちばんの本質があると思う。殯は死者のためじゃなく、生者のための時間だったからだ。
人が死んだという事実を、頭で理解するのと腹で納得するのは別の作業で、後者には物理的な時間がいる。呼びかけて、返事がなくて、それを何度も繰り返して、ようやく諦めがつく。その回数を確保するための装置が殯だった。火葬で工程は短縮できても、この納得の作業は短縮できない。だから我々は、意味も知らずに一晩だけ、死体のそばで飯を食い続けている。
殯は終わっていない。ただ、一晩に縮んだだけだ。
感情の装置から、統治の装置へ
改めて全体を俯瞰すると、殯という習俗の輪郭は、時代ごとにまったく違う顔を見せる。
三世紀の記録に見える「十日あまり遺体を留め置き、喪主が泣き、周囲が歌い舞う」段階は、まだ共同体規模の素朴な行事だ。ここには政治の匂いがほとんどない。集落の誰かが死ぬ。その事実を集落全体で消化するために、十日ほどの緩衝期間を置く。悲しむ役と場を持たせる役が分かれているのも、少人数の共同体で感情の総量を調整する知恵として理解できる。
それが七世紀の記録では「貴人は三年」と身分によって明確に差がつく。この差が生まれた時点で、殯は感情の装置から権力の装置へ変質し始めている。三年という数字は、実務上まったく必要ない。肉が落ちるだけなら南国でも一年あれば足りる。三年という長さは、儀礼の量そのものを権威の表示に転用した結果だと考えるのが自然だろう。長く弔われる者ほど偉い。そういう記号として殯が使われ始めた。
そして天武天皇の二年二ヶ月に至って、殯は完全に統治機構の一部になる。次の権力が固まるまで、前の権力を「死んでいない」ことにして凍結しておく制度だ。日本の歴史には後々まで、上皇や法皇といった「引退したのに影響力を持つ存在」が政治の中枢に居座り続ける構造が繰り返し現れるけれど、その原型がここにある気さえする。死んだ人間を空位のまま残しておく技術。
興味深いのは、国家が薄葬令で殯を圧縮しにかかったあと、それが民間に降りて別の形で生き延びたことだ。両墓制の埋め墓と詣り墓、十三年後の穴がえし、忌中の門に組む木、出棺のときに割る茶碗、首にかけるサンヤ袋。これらはどれも、殯の全体を継承したものではなく、断片を切り出して機能を特化させたものだ。埋め墓は「肉が落ちる場所」だけを担い、詣り墓は「魂に会う場所」だけを担う。
忌中の家は「囲いの中に留まる時間」だけを担う。ばらばらにされた殯の部品が、村ごとに違う組み合わせで再構成されている。民俗というのはこういう風にできているのだと、いちばんよくわかる例だと思う。
放置ではなく、世話だった
そしてもうひとつ、どうしても書いておきたいのが「異文化として消費しない」という視点だ。
殯を「昔の日本人は遺体を放置していた、恐ろしい」と読むのは簡単だが、それは当事者の内側を丸ごと落としている。四日間、匂いの立つ部屋にご飯を運び続けた祖母にとって、あれは放置ではなかった。世話だった。三度の食事を運ぶという行為は、死者に必要だからやるのではなく、自分がまだその人の家族であることを確認するためにやっている。
殯の本質は、遺体の処理ではなく、関係の緩やかな解消なんだ。急に断ち切らない。少しずつ手を離す。その減衰曲線を、社会が制度として保証してくれていた。
現代の我々が失ったのは、まさにこの保証だ。病院で亡くなり、数時間後には葬儀社の安置室へ運ばれ、翌日通夜、翌々日火葬。遺族が遺体と二人きりで過ごす時間は、合計しても数時間あるかどうか。手を離す猶予が、制度から消えている。
その代わりに何が起きているかというと、遺骨を手元に置く手元供養や、遺骨をアクセサリーに加工する商品や、故人の声を再生するサービスといった、新しい「手を離さない技術」が次々に生まれている。皮肉な話だが、殯を制度から追い出した社会は、殯的な欲求を商品として買い戻している。形が変わっただけで、人間のやっていることは千七百年前とそう変わらない。
最後に、いちばん背筋が寒くなる想像をひとつ置いておきたい。
殯の期間中、遺体は「まだ死んでいない」ことになっていた。ということは、その建前を信じている人にとって、殯宮の中にいるのは死体ではなく病人に近い。数十日、数年にわたって、回復しない病人の世話を続ける。返事のない相手に毎日話しかけ、食べない相手に毎日食事を出す。そして誰も「もうやめよう」と言い出せない。
この状態を外側から見たとき、我々は死者よりも、その世話を続けている生者のほうに恐怖を感じるんじゃないか。殯が怖いのは、死体が怖いからじゃない。死を認めない人間の粘り強さが、怖いんだ。そしてその粘り強さは、いまも我々の中に、まったく同じ濃度で残っている。
