- 赤い窓が一秒だけ開く
- 仏教徒の家に生まれた子に、ヒンドゥーの女神が降りる
- 賽を振る女神と、覗き見した王女
- 王冠は、幼女の指先から渡された
- 菩提樹の体、雌牛のまつ毛、獅子の胸
- 水牛の首が並ぶ暗い部屋――どこまでが本当か
- 白い布の上を歩いて、その子は帰らなくなる
- 朝八時に起こされ、九時から正午まで神をやる
- 血が一滴出た日に、女神は出ていく
- 「歩き方が分からなかった」――ラシュミラ・シャキャの八年間
- 三十年間、女神のままだった人――ダナ・クマリ・バジラチャルヤ
- 女神だった十年と、クレジットアナリストの今――チャニラ・バジラチャルヤ
- 神の家族になるということ
- 「クマリと結婚した男は早死にする」
- 2005年、一人の弁護士が最高裁に紙を出した
- 判決文は、女神を廃止しなかった
- 判決のあとに変わったこと、変わらなかったこと
- ワシントンD.C.に行った十歳の女神
- 大統領が幼女の前にひざまずく国
- なぜ、これが二十一世紀に残っているのか
- それでも赤い窓は開く
赤い窓が一秒だけ開く
カトマンズのダルバール広場から、土産物屋の並ぶ路地を少し入る。石の獅子が二頭にらみをきかせた門をくぐると、ぱっと視界が開けて、煉瓦造りの中庭に出る。三階建ての建物が四方を囲んでいて、黒ずんだ木の窓枠には気の遠くなるような細かさで神々や蛇や蓮が彫り込まれている。ここがクマリ・ガル、生き神の館だ。
中庭には常に十数人がいる。ネパール人の参拝者、リュックを背負った旅行者、ガイドに連れられた団体。みんな黙って上を見ていて、全員の視線が、三階のいちばん真ん中の窓に集まっている。
誰かが小声で「カメラをしまって」と言う。すると空気が変わる。数十秒、誰も動かない。
そして格子の奥に、赤い服の子供が現れる。
年齢は三歳から十歳くらい。髪はきつく結い上げられ、目の縁は黒く塗られて、その黒い線がこめかみのほうまで長く伸びている。額の中央には赤と金と黒で「火の目」が描かれていて、彼女は笑わない。うなずきもしない。
ただ下にいる人間たちの上を視線がすっと通り過ぎて、それで終わりだ。
十秒もない。窓から引っ込むと、あとには何も起きない。参拝者は額づき、旅行者は「今のがそう? あの小さい子が?」と半信半疑で顔を見合わせる。
あれが女神だ。ネパール語でクマリという。ヒンドゥー教の女神タレジュ・バワニ、つまりドゥルガーの化身が、生身の幼女の体に入っているとされる。ヒンドゥー教徒も仏教徒も彼女を拝む。そして2008年に王政が倒れるまで、国王は年に一度この子の前にひざまずいて、額に赤い印を押してもらわなければ、翌年も王でいられないと信じられていた。
王政がなくなったあとは、大統領が同じことをしている。
これは「かわいい民族衣装の女の子」の話ではない。国家の正統性が幼女の指先から出ていた国の話である。その幼女が初潮を迎えた瞬間に神ではなくなって家に帰される制度の話である。その制度をめぐって最高裁判所が「女神は廃止しない」と判断した判決の話だ。
そして、その全部を実際に生きた女性たちが、今も生きて喋っているという話でもある。
仏教徒の家に生まれた子に、ヒンドゥーの女神が降りる
まず、何がどうなっているのかを整理する。ここがねじれていて、そのねじれ自体がこの制度の核心なので、飛ばさずに読んでほしい。
クマリはサンスクリット語で「処女」「未婚の少女」を意味する。カトマンズ盆地の先住民であるネワール人の社会の中から、初潮前の少女が一人選ばれ、女神タレジュの器として祀られる。タレジュはマッラ王朝の守護女神で、ヒンドゥーの大女神ドゥルガーの一形態だ。
ところが選ばれる少女は、ヒンドゥー教徒の家からは来ない。シャキャ姓、あるいはバジラチャルヤ姓、つまりネワール仏教徒の家系からしか選ばれない。シャキャは金銀細工師のカーストで、そう、釈迦が出た釈迦族と同じ名を名乗る一族だ。バジラチャルヤはネワール仏教の司祭階層である。
つまり、仏教徒の家に生まれた女の子が、ヒンドゥーの女神の体になり、ヒンドゥー教徒の王がその足元にひれ伏す。ネワール仏教徒の側から見れば、彼女は自分たちの主要な女尊ヴァジュラデーヴィーでもある。同じ一人の子供が、二つの宗教の別々の神として同時に拝まれている。
カトマンズ盆地というのは、要するにそういう場所なのだ。ヒンドゥーと仏教が千年かけて分離不能なところまで混ざった。クマリはその混合を人間の形でやって見せている実物標本みたいなものだと思えばいい。
クマリは一人ではない。最高裁に出された訴状の記載では、盆地とその周辺に11人の生き神がいた。カトマンズに4人、バクタプルに3人、パタンに2人、デオパタンとブンガマティに1人ずつ。数え方によっては12人とも言われる。
その中で別格なのが、カトマンズのロイヤル・クマリ、通称バサンタプルのクマリだ。彼女だけが親元を離れ、ダルバール広場のクマリ・ガルに住み込む。国王(現在は大統領)に印を授けるのも彼女だ。
パタンのクマリは事情が違う。彼女は自宅に住み続ける。家が丸ごとクマリの館になるという形で、両親も兄弟もそのまま一緒に暮らす。抱きしめてもらうこともできる。この差は決定的で、後で出てくる元クマリたちの証言のトーンが人によってまるで違うのは、ほとんどこの一点で説明がつく。
バクタプルのクマリ、通称エカンタ・クマリは、自宅から通う形で、普通の学校に行っている子もいる。ブンガマティに至っては、退任の条件からして違う。初潮ではなく、乳歯が一本抜けた時点で女神は去るとされる。乳歯だ。四、五歳で任期が終わる。
同じ「クマリ」という言葉で括られているが、実態は都市ごとにかなり違う。西側のメディアが「ネパールの生き神」として描くのは、ほぼ常にカトマンズのロイヤル・クマリの、それも最も隔離の厳しかった時代の姿だ。ここは押さえておいてほしい。ちなみに、この取り違えは日本語の記事でもよく起きる。
賽を振る女神と、覗き見した王女
制度の起源となると、とたんに話がぼやける。
文献上いちばん古いとされるのは1280年、アナンタ・マッラ王の時代の碑文だという。ただしリッチャヴィ朝(四世紀から八世紀ごろ)まで遡る口承もあって、要するに「いつ始まったか誰も知らない」というのが正直なところだ。研究者の推定も1615年から1768年までばらけている。
その代わり、起源譚のほうはやたらと詳しく残っていて、しかも複数ある。
いちばん有名なのがジャヤ・プラカーシュ・マッラ王の話だ。カトマンズ最後のマッラ王である。女神タレジュは毎晩この王の部屋を訪れ、二人でトリパサという賽子の遊びをしていた。条件は一つ、このことを誰にも言わないこと。ところがある夜、父の様子を怪しんだ王女があとをつけ、女神の姿を見てしまう。
タレジュは激怒して消える。
その後、女神は王の夢に現れてこう告げた。これからはシャキャ族の幼い娘の体に入る。その子を私だと思って拝め、と。
別バージョンもある。こちらでは、王がタレジュに対してよこしまな気持ちを起こしたのが原因だ。女神は赤い蛇の姿で王の寝室に現れ、そこで輝くばかりの美女に変じるのが常だった。ある日、王の視線がその美しさに邪なものを含んだ。罰として女神は「もう二度と直接は来ない。
幼女の体を借りる」と宣言した。しかもその幼女を、ヒンドゥー王を嘲笑うかのように仏教徒の家から選んだ、という筋立てになっている。
元ロイヤル・クマリのラシュミラ・シャキャが支持しているのはさらに別の話で、こちらは女神の側ではなく子供の側から始まる。ある小さな女の子が王に対して不作法な口をきき、「私は女神だ」と言い張った。王は怒って一家を追放したが、直後に王妃が病に倒れる。自分の過ちに気づいた王は娘を呼び戻し、彼女こそタレジュの顕現だと認めた。
バクタプルにはバクタプルの起源譚があり、そこではトライロキヤ・マッラ王が創始者ということになっている。パタンにはパタンの話がある。三つの旧王都が、それぞれ自分の王こそが最初のクマリを立てたと主張している。これは歴史というより、都市同士の格付け争いの痕跡だ。
歴史の側で確実に言えることもある。1757年、ジャヤ・プラカーシュ・マッラがクマリ・ガルを建てた。そしてインドラ・ジャトラ祭の中にクマリの山車行列を組み込んだ。研究者のプレルナ・プラダンは、これを宗教的というより政治的な一手だったと分析している。当時のジャヤ・プラカーシュは、隣の二王国とゴルカのプリトビ・ナラヤン・シャハに挟まれて権力が危うかった。
女神を市中に引き回し、その車の綱を自ら引くことで、彼は「自分は信者であり同時にこの谷の王である」と可視化しようとした。
そして、その仕掛けは十年ほどで裏目に出る。
王冠は、幼女の指先から渡された
1768年、ネパール暦1825年バドラ月。インドラ・ジャトラの当日、カトマンズの街は祭りの狂騒のただ中にあった。ジャヤ・プラカーシュ・マッラは山車を引くのに忙しかった。
そこへプリトビ・ナラヤン・シャハが軍勢を率いて攻め込んだ。祭りの日を狙ったのは偶然ではない。彼はまっすぐハヌマン・ドカの王宮に入り、玉座に座り、そしてクマリの前に進み出て、額に印を受けた。マッラ王がその場にたどり着く前に。
ジャヤ・プラカーシュはパタンへ逃げた。シャハ朝が始まり、現在のネパールという国の輪郭ができた。
この一件をどう語るかは今も一定しない。「クマリが間違えて渡してしまった」という語り方もあれば、「マッラ王には渡さなかった」という語り方もある。どちらにせよ結論は同じで、ネパール人の意識の中では、プリトビ・ナラヤン・シャハは戦争ではなく女神の一撃で勝ったことになっている。
ここから二百四十年、シャハ朝の歴代国王は毎年インドラ・ジャトラでクマリの前に頭を垂れ、印を受け続けた。これは個人的なお祈りではない。憲法上の行為に近い。一年分の統治権の更新手続きだ。
そして、うまくいかなかった年の記録も律儀に残っている。イザベラ・トゥリーが著書『The Living Goddess』で列挙しているのが分かりやすい。1955年、トリブバン王はクマリが額に印を置くのを拒んだとされ、その半年後に死んだ。1971年、マヘンドラ王はクマリへの礼を欠き、その年のうちに死んだ。
1990年の民主化運動のとき、クマリの髪がどうしても結い上がらず、ビレンドラ王が立憲君主制を受け入れる決断をした直後にようやく結えたという。そして2001年6月1日の王族殺害事件の三週間前、クマリの体には発疹が出ていた。
こういう話を集めた本が売れるくらいには、この国の人々はクマリの体調を国家の体調として読む習慣を持っている。
菩提樹の体、雌牛のまつ毛、獅子の胸
さて、選定だ。
女神が去ると、つまり現職のクマリが血を流すと、次の器を探す作業が始まる。選定を仕切るのは、五人の高位バジラチャルヤ司祭、王室付き司祭(現在は国家司祭)、タレジュ寺院の司祭、そして王室占星術師。かつてはここに国王が加わった。今は大統領府と政府の担当部局に通知が行く。
候補になれるのはシャキャ姓とバジラチャルヤ姓の家の娘だけ。しかもカトマンズのロイヤル・クマリの場合、対象は特定のバハル(僧院を核とした街区)に限られる。2025年に新クマリが選ばれたときの選定委員のサンガラトナ・シャキャの説明によれば、12のバハルに通知を出して、条件に合う子の名前を集め、そこから絞り込んで三人を最終委員会に上げた、とのことだ。母集団はもともと数百家族しかない。
一次条件は身も蓋もない。健康であること。体に傷、あざ、ほくろの類が一つもないこと。これまでに一度も血を流していないこと。鼻血でもだめだとする説明もある。
歯が一本も欠けていないこと。乳歯が全部揃っていること。そして、生まれてから一度も髪を切っていないこと。
そのうえで見られるのが「バッティス・ラクシャナ」、三十二の相である。
これはヒンドゥーの図像学が理想の身体を記述するときに使う定型表現の集積で、そのまま訳すと詩なのか身体検査なのか分からなくなる。列挙してみる。
体は菩提樹(バニヤン)のごとくあること。がっしりと均整が取れているという意味だ。腿は鹿のごとく。細く、しなやかに。胸は獅子のごとく。
広く、強く。頬もまた獅子のごとく、血の巡った赤みを帯びていること。首は法螺貝のごとく、前へ優美に曲線を描いていること。まつ毛は雌牛のごとく、長く密であること。眉も雌牛のそれのように、きれいな弧を描くこと。
髪は黒く、まっすぐで、切られていないこと。一説には孔雀の首のように、黒に青みが差していること。瞳は黒、あるいは黒みがかった青。声は鴨のごとく澄んで柔らかく、しかし雀のようによく通ること。
肌は毛穴が細かく、きめが整っていること。手足は絹のように柔らかいこと。指は長く、足の指も長いこと。踵の形が整っていること。足の裏に円形の紋様があること。
これは吉相とされる。肩は丸く、背はまっすぐで、左右の高さが揃っていること。腕は長く、動きに品があること。
舌は小さく、常に湿っていること。乾いた舌は不調の徴と見なされる。歯は白く、隙間がなく、二十対そろっていること。体臭がないこと。悪臭は一発で失格になる。
そして、性器が深く収まっていて、形が整っていること。
最後に、蓮華座に座ったときの姿勢が円環を描くように整うこと。そして全体として、ヴィシュヌ神のように、静かで、恐れを知らない気配をまとっていること。
以上で三十二前後になる。「前後」と書いたのは、数え方や伝承する寺によって内容が少しずつ違うからだ。バクタプルでは、ロイヤル・クマリのように全項目を厳密に確認する手続きはすでに行われておらず、司祭が全体として「整っている」と見て取るだけになっていると、イザベラ・トゥリーは報告している。衣服を脱がせて傷を確認する作業も、バクタプルではしていないという。三十二のうち二十五を満たせばよいとする説明もある。
ここで一つ、身も蓋もない証言を置いておく。ラシュミラ・シャキャ、1984年から1991年までロイヤル・クマリを務めた女性は、自伝の中でこう言っている。自分は三十二の相を備えていたなどとは到底言えない。もし色白であることが本当に条件だったなら、自分には最初からチャンスがなかった、と。
そのうえで彼女は、身体検査は世間で言われているような、幼女の全身を隅々まで調べ上げるような無遠慮なものではなかったとも述べている。過激な部分は、ほとんどが外から来た書き手の想像だった、というのが当事者の言い分だ。
身体検査のあとに来るのが、占星術による照合であり、候補者のホロスコープが国王のそれと衝突しないこと。王政廃止後は、大統領のもの、あるいは国家のそれと照合するとされる。これが最終的なふるいになる。2001年にプリーティ・シャキャが選ばれたときも、決め手はホロスコープが当時のビレンドラ王と調和したことだった。
もう一つ、あまり外に出ない手続きがある。パタンのクマリだったチャニラ・バジラチャルヤが複数のインタビューで語っているのだ。だが、最終段階で候補の少女たちに特定の穀物が与えられる。体質によっては反応が出るもので、熱を出した子、泣き出した子は落ちた。チャニラはわずかに顔が赤くなっただけだった。
委員会はこれを「タレジュがこの子に宿っている証拠」と読んだ。
七人がこの段階に残っていたという。
水牛の首が並ぶ暗い部屋――どこまでが本当か
そして、この制度を世界的に有名にした話に行く。
暗い部屋。床には切り落とされたばかりの水牛と山羊の首が百八個、整然と並べられている。角のあいだには火の灯った灯芯が置かれ、敷石には血がまだ溜まっている。そこへ二、三歳の候補者が一人で入れられる。悪鬼の面をかぶった男たちが踊り、恐ろしい声を上げる。
泣かなかった子が、女神になる。
美しいほど怖い話だ。そして通信社の記事にも旅行会社のサイトにも、判で押したように書かれている。実際、ロイターの2007年の記事にさえ「生き神は、暗い部屋に入れられて泣かないことなどの基準を満たさねばならない」という一文が紛れ込んでいる。
では、これはどこまで事実なのか。順番に切り分ける。
まず、百八の水牛の首が実在するのは本当だ。ダサイン祭の期間、カラーラートリ(黒い夜)と呼ばれる夜がある。ドゥルガーが水牛の魔神マヒシャースラを討った神話の再演で、ハヌマン・ドカ王宮の中庭で、真夜中に百八頭の水牛が屠られる。1997年にネパール在住のライターが現地で取材した記録によれば、その直後にクマリが中庭の入口に連れてこられ、首の列を時計回りに一周する。
委員会はバルコニーからそれを見下ろしていて、少女は一切の恐れを見せてはならない。
ここまでは、目撃記録がある。
問題は、これが「選定試験」なのか「就任後の年中行事」なのかだ。
当事者の証言ははっきりしている。ラシュミラ・シャキャは自伝で、切り落とされたばかりの百八の首と一晩を過ごさせられたことなど一度もない、と明言している。彼女の説明では、水牛の首の儀式はクマリに即位したあと、毎年参加する行事であって、候補者をふるいにかける試練ではない。
チャニラ・バジラチャルヤも似たことを言っている。悪鬼と生首だらけの入会儀礼のような話が広まっているが、そんなものはなかった。ただし彼女はこう付け加えていて、部屋は確かに怖かった。油の灯明だけで照らされていて、暗かったのである。
でも女神の力が入ってくると、もう怖くなくなるのだ、と。五歳の自分は、あそこにとても静かに座っていた。
つまり、こういうことだと思われる。恐れを見せないことが求められる暗い儀礼空間は、確かに存在する。血の匂いのする場所に幼い子が置かれるのも事実だ。だがそれは、候補者を一人ずつ放り込んで泣くかどうかを試すオーディションではなく、女神として立った子が毎年くぐる儀礼のほうに属している。そして即位そのものに伴う密教的な浄化の作法は、司祭だけが知っていて、外部には一切明かされない。
イザベラ・トゥリーが十三年かけて取材しても、タレジュ寺院のタントラ司祭ウッダブ・カルマチャルヤは最後まで核心を語らなかった。彼女自身「タントラは自分にとって閉じた本のままだ。入門しなければ理解できず、入門すれば沈黙の義務を負う」と書いている。
では、なぜ「候補者が生首と一晩過ごす」という話のほうが世界中に流通したのか。
理由は単純で、そのほうが記事になるからだ。1990年代から2000年代にかけての外国メディアの記事を並べていくと、同じ描写が少しずつ誇張されながらコピーされていく過程がはっきり見える。一周する、が、一晩過ごす、になる。委員会がバルコニーから見ている、が、仮面の男たちが踊り狂う、になる。年中行事が、選抜試験になる。
ラシュミラがわざわざ本を一冊書いた動機の大きな部分がこれだった。ネパールの記者も含めて、書き手たちが現地調査をせずに前の記事を引き写すせいで、誤解が繰り返しのうちに事実に昇格してしまった。彼女はそう批判している。
怪談の生成過程としては、実によくある形だ。核に本物の儀礼があり、それを外の人間が断片的に見る。見えなかった部分を想像で埋める。埋めた部分のほうがおもしろいので、そこだけが残る。
白い布の上を歩いて、その子は帰らなくなる
2025年9月30日、ダサイン祭の八日目。カトマンズのイトゥンバハルという街区の路地から、二歳八か月の女の子が父親に抱かれて出てきた。アリヤタラ・シャキャ。新しいロイヤル・クマリだ。
一行はタレジュ・バワニ寺院へ向かった。沿道には人が並び、写真を撮ろうと押し合った。儀礼を終えた彼女は、そのままクマリ・ガルへ運ばれたのである。
父親のアナンタ・シャキャは記者にこう言っていて、昨日までは私の娘でした。今日からは女神です。妻は妊娠中に、この子が女神になる夢を見ました。だから特別な子になると分かっていたのです。
同じ日、前任者が館を出ていった。トリシュナ・シャキャ、当時11歳。2017年に3歳で選ばれ、八年間女神をやった。彼女は裏口から、家族と支援者の担ぐ輿に乗って去った。表から新しい神が入り、裏から古い神が出ていく。
即位の日の所作のうち、公開されている部分はこうだ。選ばれた少女は赤と金の衣装を着せられる。髪は結い上げられる。額には火の目が描かれる。そして地面に敷かれた白い布の上を歩いて、王宮前の広場を渡り、クマリ・ガルに入る。
足は直接地面に触れない。
その手前と奥で何が行われているかは、書かない。書けない。密教の作法であり、司祭にしか伝えられておらず、外部者に明かされないことになっているからだ。断片的に伝わっている話はあるが、それを手順として並べることには意味がないし、誠実でもない。ここでは「外からは見えない」という事実だけを記録しておく。
一つだけ、司祭の側の言い分を引いておく。AFPやNPRの取材に応じたタレジュ寺院の司祭ウッダブ・マン・カルマチャルヤは、なぜクマリは初潮で退かねばならないのかと問われて、こう答えている。年頃になった娘は男に気を取られる。それにもう子供ではないから、寺の秘密を喋りたくなる。我々には決して漏らせない情報がある。
彼女は寺の中で司祭たちと言葉を交わしている。もし秘密を全部話してしまえば、彼女はもう女神ではなく、ただの女になってしまう。
神を降ろすための条件が、実務的には「秘密保持」でもあるという、なかなか身も蓋もない説明だ。
朝八時に起こされ、九時から正午まで神をやる
クマリ・ガルの中の一日を、いちばん具体的に語れる人間は、司祭でも本人でもない。世話係だ。
ガウタム・シャキャは、クマリ・ガルの世話係を代々務める家の十一代目である。父が亡くなったときに役目を継いだ。これまで六人のクマリの面倒を見てきた。家族ぐるみで館に住み込んでいて、本人はめったに外へ出ない。
彼の一日はこうだ。朝八時、クマリを起こす。九時から正午まで、参拝者に会う彼女に付き添う。午後二時から四時までは自由時間になる。この時間、クマリは学校から派遣されてきた教師の授業を受けているからだ。
空いた時間に彼は、館の一階の隅に出している売店に立って、観光客に飲み物と菓子を売る。青い横縞のポロシャツに短パンという恰好で。
生き神の世話係が、生き神の家の一階でジュースを売っていて、この光景がこの制度の現在を一枚で説明していると思う。
なぜ売店をやるのか。理由は金だ。政府と市を合わせて月に四万七千ルピー前後が現職クマリの維持費として出ているが、世話係の家族には一銭も出ない。ガウタムには十八歳の息子がいて、この役目を継ぐ気があるかどうか、彼は気にしている。金にならないし、時代も変わったから、と。
食事は彼の妻が作る。意外なことに、特別なものは何も作らない。神通力が健康を保っているのだから普通の食事でいいのだという理屈だ。タカリ料理が中心で、水牛と山羊は使うが鶏は使わない。クマリが仏教徒の家の子だからである。
彼はクマリの小さな癖もよく知っていて、十歳だった代のクマリはマンゴージュースが好きだった。祭りの時期になると、歴代の元クマリに声をかけて、館に遊びに来てもらうこともあるという。女神の同窓会だ。
もう少し儀礼寄りの記録もある。1997年の取材によれば、クマリは毎日、髪を儀礼用の髷に結われ、目の縁に灯明の煤で黒い線を引かれ、額に火の目を描かれて、二、三時間、獅子の玉座に座る。そのあいだタレジュ寺院の司祭が浄化の儀礼を行う。五つの感覚器官を一つずつ清めるという作法で、耳には小麦粉、口には米、鼻には香、目には灯明、触覚には赤い粉を用いる。
参拝者は一日に十人ちょっと。病気の相談が多く、とくに出血に関わる病の相談が多い。役人もよく来る。昇進祈願だ。世話係の老女は、そう証言している。
参拝者の前で、クマリは黙って座っていなければならない。そして、その微細な動きの全部が読まれる。黙って受け取れば願いは叶う。泣いたり大きな声で笑ったりすれば、重い病か死の予兆。手を叩けば当局に気をつけろという意味。
供え物をつつけば金を失う。目をこすっても凶とされる。
ここに、この役目のいちばん残酷な部分がある。子供が子供らしく振る舞うことが、全部、誰かの不幸の前兆として解釈される。
1990年代にロイヤル・クマリを務めたアニタ・シャキャは、二十代になってから取材にこう話している。私はただの小さな女の子でした。あるとき、ひどく体の悪いお爺さんが祝福を受けに来ました。咳き込んで、唾がほんの少し私の足の指にかかりましたのである。世話係たちが息を呑みました。
その人は翌日に亡くなりました。私はとても悲しかったのである。自分がその人を殺したのだと思っていました。
四十年以上前にクマリを務めたディル・クマリという女性の回想も引いておきたい。私がクマリだったころ、窓から外で遊んでいる子供たちをずっと見ていました。私も遊びたかった。蝶になって、あの子たちのところへ飛んでいきたかったのである。一人で石やお手玉で遊んでいました。
女神というのは、そういうものでした。
ちなみに、最近の世話係の説明はこれとはだいぶ違う。ガウタム・ラトナ・シャキャは2024年の取材で、噂を一つずつ否定している。足が地面に触れてはいけないというのは間違いで、インドラ・ジャトラのときでさえ彼女は自分で歩く。隔離されて儀式漬けの生活を送っているというのも違う。今のクマリは携帯電話を持ち、テレビを見て、家族や学校の友達と遊ぶ。
家族は抱きしめてもいいし、触れてもいい。参拝の受付は午前九時から十一時までで、その時間に足に額をつけて祝福を受ける。笑ってはいけないなどということもない。彼女は無邪気な子供なのだから、と。
どこまでが実態の変化で、どこからが制度を守る側の広報なのかは、外からは判定しきれない。ただ、二十年前の記事と今の記事を並べると、語られ方が明らかに変わっていることは事実として記録しておく価値がある。
血が一滴出た日に、女神は出ていく
任期の終わりは予告なく来る。
原則は初潮だ。ただし条件は「出血」なので、大きな怪我をして血を流しても同じことになる。乳歯が抜けた時点で終わるブンガマティのような例外もある。血が出た瞬間、タレジュはその体を去ったと見なされる。
そこから先の手続きは、パタンのクマリだったチャニラ・バジラチャルヤが、後任のサミタのケースについて書き残している。
初潮のあった最初の日から、彼女は日光の入らない暗い部屋に入れられた。男は誰も入れない。ただし女性の友人や親族は何人でも入ってよかった。この期間は十二日間続いた。ネワール社会で初潮時に行われるバラという慣習と重なる形式だ。
十二日目、彼女はもう女神ではなくなり、ようやく自分の足で外を歩けるようになった。
儀礼としては、結い上げられていた髪がほどかれ、額の第三の目が消される。装身具が外される。新旧のクマリが並んで最後に一度だけ一緒に拝まれる、という手順が取られた記録もある。1991年、ラシュミラが退位したときは、大祭の十日前に拡声器で交代が告知され、彼女は最後にもう一度拝まれてから装飾を外され、司祭と二十人の付き添いに連れられて実家へ帰された。ほとんど記憶にない家に。
チャニラはこの十二日間、友人のサミタに付き添って一緒に過ごした。自分が同じ思いをしたからだ。
そして翌年、サミタは制服を着てパタンの聖ザビエル校に通っていた。十三歳の普通の生徒として。楽器のドラムニェンを弾き、演奏会にも出るようになった。取材した書き手は、彼女の生活に元クマリの痕跡がほとんど残っていないことに驚いている。
うまくいく場合は、こういうふうにうまくいく。問題は、うまくいかない場合のほうが長らく標準だったことだ。
「歩き方が分からなかった」――ラシュミラ・シャキャの八年間
ここから三人分の証言を、それぞれまとまった形で書く。同じ制度を通った三人が、まったく違う場所に着地している。
ラシュミラ・シャキャは1984年、四歳でロイヤル・クマリに選ばれた。家族には別れを告げるのに一週間しか与えられなかった。そこから1991年までの八年弱を、クマリ・ガルで過ごしたのである。外に出られたのは年に十三日だけ。
館での暮らしは、ある意味では快適だった。八人の付き添いがついた。食事は専用に用意され、一段高くなった席で一人で食べたのである。遊び相手は世話係の子供たちだけだったが、その子たちは彼女の言うことを何でも聞いた。参拝者が次々にやってきて、額を床につけた。
教育はなかったのである。女神は全知なのだから教える必要がない、というのが当時の建前だった。実際には一日一時間ほどの家庭教師がついたが、しょっちゅう中断された。
十二歳で初潮が来たのである。「そのとき、自分に何が起きているのか分かりませんでした」と彼女は語っている。
家に帰った。そして、そこからが本番だった。
自伝の一節が有名だ。私に残されたのは、金襴の衣装一着と、記憶だけでした。私は事実上、読み書きができませんでした。
十二歳で小学二年生のクラスに入れられたのである。年下の子供たちに混じって、ゼロから追いつく作業が始まった。
それ以前に、体が生活に対応していなかった。靴を履いて歩くことを覚えなければならなかったのである。八年間、ほとんど歩いていない。祭りのときも人に担がれていた。自分の服を自分で選ぶという行為も知らなかった。
チョコレートを自分で買うという発想もなかったのである。人がくれるものだったからだ。友達の作り方も分からない。彼女がそれまでにやってきた対人関係は、命令することだけだった。
「普通の人みたいに歩き回ることすら分かりませんでした」と、彼女は2007年に取材に答えている。「人混みが怖かった」。
家族もまた、他人だった。母親のプラギャ・デヴィは1997年、取材にこう吐き出している。今知っていることを当時知っていたら、絶対にラシュミラをロイヤル・クマリにはさせませんでした。この子が適応するのは、あまりにも大変でした。読み書きができない。
ほとんど喋らない。めったに笑わない。私たちが冗談を言って笑っていても、この子は黙って引いたところに座っている。家族である私たちが、この子にとっては他人なのです。この前、この子に聞かれました。
お母さん、どうして私をクマリにしたの、と。
八年間の隔離のあいだに、体にも痕が残った。毎日きつく髪を結い上げていたせいで、頭に禿げた部分ができていた。元女神の唯一の可視的な残骸がそれだったのである。
それでも、ラシュミラの話には続きがあり、彼女は追いついた。高校を出て、情報技術の学士号を取った。元クマリとして初めて大学を卒業した人物になったのである。就職には苦労し、都市貧困層の支援団体で働いたあと、銀行系のソフトウェアを扱う会社に入った。
ソフトウェア開発者になった。
そして2005年、スコット・ベリーとの共著で『From Goddess to Mortal』を出したのである。元クマリが自分の言葉で自分の生活を語った最初の本だ。ベリーは十年前に彼女をクマリとして撮影したことがあり、写真店でその写真を見かけたことから再会したという。
彼女はこの本を、告発のためではなく、訂正のために書いた。生首の話は嘘だ。身体検査はそんなにひどくない。三十二の相なんて自分は満たしていない。そういう誇張を一つずつ潰したうえで、彼女は現実的な提案をしている。
在任中のクマリを、もう少し女神扱いせず、普通の女の子として扱ってほしい。そして終身年金を払うより、高等教育の奨学金を出したほうが、政府にとっても安上がりだ、と。
そのうえで彼女はこう言っている。そういう改革がなされるなら、私は他の子にクマリになることを勧めるのに何のためらいもありません。
「女神から人間へ落ちるのは、とても難しいことです」と語る同じ人が、である。
三十年間、女神のままだった人――ダナ・クマリ・バジラチャルヤ
もう一人、まったく別の軌道を描いた女性がいる。
ダナ・クマリ・バジラチャルヤは1954年、二歳でパタンのクマリになった。母親のシッディ・ラクシュミによれば、その少し前、二歳になるかならないかの娘が部屋で赤と黄色の二匹の蛇と遊んでいるのを見つけたという。占星術師は、この子は他のどのクマリよりも長く在位するだろうと予言した。
予言は当たった。というより、当たりすぎたのである。
パタンのクマリは初潮とともに退位する。ところが彼女には、初潮が来なかった。十代を過ぎても来なかった。二十代を過ぎても来なかったのである。
彼女は女神であり続けた。十年、二十年、三十年。
1984年、転機が来る。祭りの場で、当時十三歳のディペンドラ王太子が彼女を見て、「どうしてあんなに年寄りなんだ」と口にしたと伝えられている。この一言が引き金になった。
司祭たちは彼女を寺に呼び、タレジュの力がまだ宿っているかどうかを検査した。しかし失格の根拠が見つからない。出血の痕もない。生理が一度も来ていないのだから当然だ。
最終的に見つかったのは、耳のごく小さなかすり傷だった。
それを理由に、三十歳を超えた彼女は退位させられた。
三十年後、AFPの取材に彼女はこう語っていて、彼らには私を替える理由なんてなかったのである。少し腹が立ちました。女神はまだ私の中にいると感じていたのです。
1997年の取材で同じ件を問われたときの答えはもう少し硬い。それは私の意見ではありません。タレジュがお決めになることです。あの方が私から去る用意ができたときには、去るでしょう。
そして彼女は、退位後の人生を選ばなかった。
今も彼女はクマリとして暮らしている。毎朝起きると、かつてと同じ刺繍入りの赤い巻きスカートを身につけ、髪を頭頂で結い、目の縁に黒い線をこめかみまで引く。特別な日には赤と黄の粉で額に第三の目を描き、真鍮の蛇の彫刻がついた木の玉座に座る。土曜日と祭日には参拝者を迎える。パタンの赤煉瓦の家の、下の二階分は商店と金融協同組合に貸してあって、細い階段を二階分上がったところがその部屋だ。
彼女は読み書きを習わなかった。それなのに経典を読み、儀礼を執り行う。しかも、本来は男性の仏教司祭しか行わない秘儀まで務めるようになった。母親はそれを誇りにしていた。この子は不幸ではありません。
自分の力に満足しています、と。
部屋から出られなくて悲しくないのか、と問われたときの母親の答えが印象に残る。部屋の外で起きていることは全部もう知っているから、悲しくないのです。この子には全部見えています。未来も見えます。中で自由なのです。
その彼女が、生涯で一度だけ、自分の足で表通りに出たことがある。
2015年4月25日、マグニチュード7.8の地震がネパールを襲った。死者は八千八百人を超えた。パタンの寺も次々に崩れたのである。ダナ・クマリの住む五階建ての家も揺れた。
家族は屋内で固まっていた。他の住民のように飛び出すわけにいかなかったからだ。姪のチャニラはこう証言していて、「私たちだけ外に逃げるわけにはいきませんでした。あの人のことを考えなければならなかったのである。
どうすればいいのか分からなかった」。
そして、彼女は歩いて出た。
「あんなふうに家を出ることになるとは、考えたこともありませんでした」と彼女はAFPに語ったのである。「たぶん神々がお怒りなのでしょう。人がもう昔ほど伝統を敬わなくなったから」。
六十三歳。生まれて初めて、輿ではなく自分の足で街路に立った日の言葉である。
女神だった十年と、クレジットアナリストの今――チャニラ・バジラチャルヤ
三人目は、ダナ・クマリの姪にあたる。
チャニラ・バジラチャルヤは2001年、五歳でパタンのクマリに選ばれた。ネパール暦2057年チャイトラ月のことだ。前述の穀物の試験を通り、七人の候補の中から残った。
パタンのクマリなので、彼女は自宅に住み続けた。ただし家族は彼女を「ディヤ・メージュ」、つまり女神さま、と呼び、名前では呼ばなくなったのである。
就任から三か月ほど経ったころ、彼女は理由もなく泣き出した。涙が止まらない。眠っているあいだも頬が濡れていた。家族は、学校を辞めて家にこもることになったせいだろうと考え、なだめようとした。だが止まらなかったのである。
三日目、あるいは四日目。司祭と長老たちが見に来て、これは凶兆だと言った。家族は「女神が何らかの形で穢されたのではないか」と考え、赦しを乞う儀礼の準備を始めた。
その最中、彼女はふと泣き止んだ。午前二時ごろに目を覚まし、母親にこう言った。「私の仕事は終わった」。
母親が驚いているところへ、ナラヤンヒティ王宮の知らせが届いたのである。
2001年6月1日。晩餐会の席にディペンドラ王太子が銃を持って入り、父であるビレンドラ国王、母であるアイシュワリヤ王妃を含む十人を射殺し、五人を負傷させ、自らも撃った。
ネパールの伝統では、生き神が泣いたり怒ったりするのは国難の前触れとされる。この一件は、その言い伝えの最強の実例として今も語られている。
チャニラ自身は、この経験を神秘的に語りすぎない人だ。ただ、女神の力が自分の中にあるときの感覚については具体的に話している。体が熱くなる。とても心地よい感覚だ、と。そして参拝者の願いについてはこう言う。
自分の振る舞いは自分の制御下にはありませんでした。私の上に誰か至高の存在がいて、その人が願いを聞いたり無視したりするのです。至高であるという感覚があります。あのとき、自分は自分ではないのです。
任期は2010年、十五歳で初潮を迎えて終わった。母親と家庭教師は、そのずっと前から彼女に言い聞かせていた。いつか生理が来て、あなたはクマリではなくなる。人々はもうあなたを拝まなくなる。普通の生活に移らなければならない。
この非公式なカウンセリングが彼女を救った、と彼女自身が言っている。
それでも、その日は暗い日だった。「十年も女神として生きてから普通の女になることに、私は衝撃を受け、不安になり、怯えていました」。
いちばん難しかったことを問われたときの答えは、予想外の一語だ。歩くこと。
「初めて家の外に出たとき、私はまともに歩けませんでした。父と母が私の手を取って、歩き方を教えてくれました」。十年間、公の場では常に担がれていたのである。「最初のうちは、どうしてもう担いでくれないんだろう、と思っていたくらいです」と、彼女は笑いながら言う。
学校に入ってからも大変だった。クラスメイトは彼女を怖がった。元女神だからだ。少し違う扱いをされた。「あなたは宇宙人だ、と言われたこともあります」。
授業で発表しようと立ち上がったとき、二分間、一言も出てこなかった。ただ突っ立って、そのまま座った。
赤以外の服を着ることにも違和感があったのである。今でも革靴は履かないし、革製品を使わない。誰かが口をつけた食べ物を分けてもらうのにも慣れない。もう誰にも課されていない規則が、性格の一部として残ってしまっている。
そこから彼女は理系に進もうとして挫折し、数字と会計に方向を変えた。クマリ時代の、規則正しく几帳面な生活が、整理して考える習慣を作ってくれたのだという。母校がボランティア教師として彼女を呼び戻し、社会に慣らしてくれた。最初は教室の外で宿題の点検をしていた。やがて事務と経理に移り、そのまま八年ほど働きながら学部と大学院を終えたのである。
カトマンズ大学の経営学修士。
今はオーストラリアの住宅ローン会社のシニア・クレジット・アナリストとして、顧客の財務リスクを分析している。
応募のとき、履歴書のどこにも元クマリだとは書かなかった。「まず仕事で評価されたかったので」。同僚が彼女の正体を知ったのはずっとあとだ。雑誌かネットで写真を見た人がいたらしい。「上司たちが知った途端、急にすごく優しくなりましたけどね」。
彼女は今、現役のクマリたちに教育を受けるよう働きかける活動をしている。カトマンズでもパタンでもバクタプルでも、同じ水準の教育を政府が保障すべきだ。クマリの館にはコンピュータも音楽も美術もスポーツも必要だ、と。
その主張の理由が、身も蓋もなくて良い。「社会に戻るのが楽になりますから。この世の中で文字が読めないというのは、本当につらいことなんです」。
そして彼女は、自分の十年を損失とは呼ばない。「何一つ失っていません。誰も持っていない特権をもらったと、心から分かっていますから。私は二つのまったく違う人生を生きて、どちらからもたくさん学びました」。
たまに、こうも言うらしい。普通の暮らしは大変だ。金のために戦い、仕事のために戦い、偽物の生活に囲まれていて、神だったころのほうが楽だった。あそこは安全な場所で、必要なものは全部誰かが用意してくれたから。
神の家族になるということ
当事者の周りにいた人たちの話も、いくつか拾っておきたい。
2001年、ロイヤル・クマリの後任を探して世話係たちがカトマンズの家を一軒ずつ回ったとき、娘を候補に出すと言った親は五人しかいなかった。一世代前には数百人が名乗りを上げていた役目である。
そのうちの一人がプリーティ・シャキャの家だった。母親のリーナ・シャキャはこう振り返っていて、「ホロスコープを出したくありませんでした。でも、どうやって断ればいいのでしょう」。
プリーティのホロスコープは国王のそれと調和してしまった。三十二の相の確認は王室司祭の妻が行い、肌も髪も瞳も舌も条件を満たしていると判定された。三歳の娘は、新しい家族のもとへ連れていかれたのである。
「母親がどう感じるか、想像してみてください」とリーナは言う。「私の赤ん坊が、何年も私から取り上げられるのです。連れていかれた瞬間に、この子はもう女神になってしまったのだと分かりました」。
それから三年間、彼女が娘に会えるのは週に一度だけだった。会いに行くときの立場が、この制度の異様さを一行で表している。
「私は一般の参拝者として行きます。娘だと思う前に、女神だと思わなければなりません」。
プリーティの姉だけは、土曜日に妹と遊ぶことを許されていた。その姉を通じて、リーナは娘の近況を知る。今のプリーティは明るくて活発な六歳で、着せ替え遊びとアイスクリームが好きらしい、というような情報を、伝聞で。
教育をめぐる戦いもこの家族たちが引き受けてきた。1991年から2001年までロイヤル・クマリを務めたアミタ・シャキャの父親は、娘に家庭教師をつけてほしいと王宮に何度も手紙を書いた。返ってきた態度はこうだったのである。あなたの娘は女神だ。なぜ教育が要るのか。
事態が動いたのは、母親のミミタ・シャキャがクマリの儀式の場でビレンドラ国王に直接手紙を手渡してからだ。アミタが就任して五年目に、ようやく正式な教育の手配がついた。ロイヤル・クマリに家庭教師がつく制度は、この一通の手紙から始まっている。
パタンのクマリ、サミタの母親の言葉も引いておく。「嬉しくもあり、怖くもありました。娘が神になる、家に神がいるというのは喜ばしいことです。でも同時に、私たちが全部の掟を守りきれるのかどうか、不安でした」。
掟は細かい。毎日、娘の顔に複雑な化粧を施すのは母親の仕事だ。祭り以外は外に出さない。祭りのときは足を地面につけさせない。つまり誰かが担ぐ。
家族と親しい友人以外とは口をきかせない。
そして祭りの日、母親は重い装身具を一つずつ娘の体に留めていく。マホガニーの戸棚から首飾りと腕輪を出して。BBCの記者が見た場面では、娘はそのとき顔をしかめていた。装身具が重いからだ。それから母親は娘を抱き上げて階段を下り、中庭の玉座に座らせる。
そこには何百人もの人が並んでいる。花と金を捧げ、足に触れるために。
儀式が終わると、少女は自分の部屋に戻り、いちばん好きな楽器を取り上げて練習を始める。
引退後の人生が悲惨だった例も、当然ある。四十年以上前に務めたディル・クマリは、退位後すぐに見合い結婚をさせられた。
「女神として扱われたあとの結婚生活はつらいものでした。嫁としては義理の親に従わねばならない。妻としては夫に従わねばならない。私は人に拝まれ、贈り物をもらうことに慣れていました。妻になったら、床を掃き、米を炊き、水を運ぶことを求められました。
私は少し怠け者でしたのである。夫は私を殴って、お前は使い物にならない、出ていくぞと言いました。毎年、新しいクマリが山車で引かれていくのを見に行っては、悲しい気持ちになりました」。
全員が不幸になるわけでもない。二十年以上前にロイヤル・クマリだったナニ・マヤは、結婚して二児の母になり、自分で薬局を経営している。「クマリだったことは祝福だと思っています。本当の特権でした」。
ただし、彼女は自分の娘をクマリにすることは拒んだ。司祭たちが娘を差し出してほしいと言ってきたとき、断ったのは夫だった。娘には教育を受けさせたい、と。
そしてナニ・マヤには、繰り返し見る夢があるという。
「知らない女神にカトマンズの街を追いかけられる夢です。走って、走って、逃げ込めるのはクマリの部屋の中だけなんです」。
日々の生活のつらさが、神だった過去を安全地帯に変えてしまっている。この夢の構造は、チャニラが冗談めかして言う「神のほうが楽だった」という言葉と、たぶん地続きだ。
「クマリと結婚した男は早死にする」
元クマリの結婚をめぐっては、有名な俗信があり、彼女と結婚した男は一年以内に死ぬ、というものだ。
裏付けとして語られる話がえげつない。元クマリの体から蛇が出てきて、弱い夫を食い殺す、という類のものが伝わっている。1997年の取材では、近隣の住民が「最近の元クマリ九人のうち七人が結婚した。だが、その夫は全員一年以内に死んだ」と語ったと記録されている。
これは統計ではない。噂の形をした統計の模造品だ。裏付けのない伝聞であり、母数も追跡も不明である。だがこの種の話は、事実かどうかとは別の水準で機能する。
チャニラははっきり否定している。「元クマリと結婚すると男が早死にするという言い伝えは昔からありますが、これは誤解です。ネパールには幸せに結婚して子供を持っている元クマリがたくさんいます」。
とはいえ、彼女自身の結婚には別の障害がある。パタンのクマリはラトナカル・マハビハールという僧院に属する約百五十家族の娘からしか選ばれない。そして同じ僧院共同体の内部では結婚できない決まりだ。つまり彼女は必ず外の共同体に嫁ぐことになり、その共同体からはクマリは出ない。
制度の側から見ると、この俗信には露骨な機能があり、神の器だった体を、人間の男の所有物にしにくくする。あるいは、退位した女性を共同体の中で特別な位置に据え置く。どちらにせよ、少女の側にとっては、女神をやめたあとも自分の人生の選択肢を削られ続けるということだ。
近年の元クマリたちが、揃ってこの俗信を「迷信」と名指しして否定しているのは、だから単なる事実確認ではない。生活権の主張である。
2005年、一人の弁護士が最高裁に紙を出した
2005年5月9日。ラリトプル市サネパ在住の弁護士、プン・デヴィ・マハルジャン(スジャナ)が、ネパール最高裁判所に令状請求を提出した。ネパール暦2062年令状番号3581。求めたのは職務執行命令、つまりマンダムスだ。
彼女の主張はこうだった。カトマンズ盆地の11人のクマリたちは、移動の自由、言論と表現の自由、プライバシーを奪われている。教育を受ける権利も侵害されていて、これは児童の権利条約とネパール憲法に反する。国は手を打つべきだ。
当時、この訴えは国際的に「ネパールで生き神制度が裁判にかけられた」と報じられた。国連の報告書が、クマリ制度をネパール国内の児童虐待や性差別の深刻な例と並べて記載したこともあった。
ここから判決まで三年かかる。そしてその三年のあいだに、この国の国体そのものが消えてなくなる。
2006年、大規模な民主化運動でギャネンドラ王の直接統治が終わる。2007年、暫定憲法でネパールは世俗国家を宣言する。2008年5月、制憲議会が王政の廃止を決議し、二百四十年続いたシャハ朝が終わる。
つまりこの裁判は、「王に祝福を与える幼女の人権」を問う訴訟として始まり、審理中に王のほうが消滅した。
その間も、クマリは職務を続けていた。2007年には、国王と首相が二人揃ってクマリ・チェンに表敬に来るという場面すらあったのである。どちらが本当の元首なのか誰にも分からない時期に、両方が幼女のところに顔を出した。
マオイストにも一悶着あった。彼らは世俗国家を掲げていたから、クマリの山車が街を回るインドラ・ジャトラを止めようとしたのである。ところが「祭りが中止になる」と聞いた市民が数万人規模で街に出て抗議した。マオイストは折れた。そして政権に入ったあと、彼らが立てた大統領が、幼女の前でひざまずくことになる。
判決文は、女神を廃止しなかった
2008年8月16日(報道は18日付が多い)、最高裁判所の二人法廷、バララム・KC判事とタパ・バハドゥル・マガル判事は、判決を言い渡した。
結論から言うと、クマリ制度は廃止されなかった。ほとんど何も禁止されなかったのである。
判決の論理を追っていくと、裁判所が何をしたかったのかが見えてくる。
まず児童労働について。裁判所は「クマリは肉体的な労働力を投じて働いているわけではない」という理由で、児童労働ではないと判断した。したがって暫定憲法22条の児童の権利、26条の拷問からの自由、29条の搾取からの自由に反する慣行とは言えない、とした。
次に教育の権利について。ここが判決のいちばんの山場だ。裁判所はこう言った。憲法が子供に保障した教育を受ける権利は、いかなる慣習、伝統、しきたり、信念、慣行、旧弊の名においても侵害されえない。もし「教育を受けさせない」という慣習がどこかにあるとしても、それは正当性を得ない。
そのうえで裁判所は、こう続けた。ネパールの法律を含め、クマリだからといって教育を受けてはならないと定めたものは何一つ存在しない。現に、あるクマリの父親は娘を学校にやっている。他のクマリの保護者も、望めば学校に通わせることに何の障害もない。したがって、クマリの教育を受ける権利が侵害されているという申立人の主張には、当裁判所は同意できない。
法律の禁止がないのだから、権利は侵害されていない。学校に行かせないのは、法ではなく社会の側の問題である。だから裁判所が命令を出す筋合いではない。そう言い切ったのだ。
続けて裁判所は、移動の自由も家族と会う自由も居住の自由も、法によって禁止されているわけではないと確認した。祭礼のときに女神として座る以外の場面では、クマリはそれらの権利を全部行使できるはずだ、と。
そして最後にこう述べる。慣習や伝統や信念を理由にして誰かが権利を享受できていないのなら、社会自身が自覚し、意識を高めることでそれを享受させなければならない。法の適用ではなく、社会の覚醒の問題だ、と。
もう一つ、裁判所が認めたことがある。クマリ制度は、ヒンドゥーと仏教を信仰するネパール国民の宗教的・社会的・文化的権利の不可分の一部として存在している。憲法と国際条約の保障する子供の権利を侵害しない限り、それは信仰者の宗教的・文化的権利の一部として扱われるべきである。
要するに、女神は憲法の側にいる、という宣言だ。
では裁判所は何もしなかったのか。そうでもない。
裁判所は、子供時代に教育を受ける権利を含む基本的権利を奪われたまま社会に戻された元クマリたちについて、社会保障や年金のような便宜を与えることを国に検討させるべきだ、と述べた。そして具体的な命令を一つ出している。
女性・児童・社会福祉省、グティ・サンスタン(宗教財団管理公社)、文化の専門家を含む五人委員会を作り、現職と元職のクマリの権利・利益・社会保障を守るための報告書を一年以内に政府と最高裁に提出すること。さらに、その報告書が出たら政府はそれを実施せよ、というマンダムスを出した。
ネパールの法律家がこの部分を評して「まだ書かれていない報告書の実施を命じるという、興味深い戦略的迂回」と書いているのが面白い。裁判所は自分で制度設計をせず、委員会に投げ、その結論を先に義務化した。
判決当日、国際メディアの見出しは大混乱を起こした。ガーディアン紙は「ネパールの裁判所、生き神の伝統を廃止」と打ったのである。実際には廃止されていない。裁判所が言ったのは「学校に行くのを妨げてはならない」であって、「女神をやめさせろ」ではない。この見出しは、この件について外から書かれた記事の精度を象徴していると思う。
この判決を分析した人類学者のキアラ・レティツィアは、ここにネパール流の世俗主義の形を読み取っている。西欧型の政教分離とは違い、ネパールの世俗国家は宗教から手を引くのではなく、宗教を支え、同時に改革する立場に立つ。宗教的伝統は国家の資産であり、時代に合った社会改革を受け入れる限り保存する価値がある。そういう枠組みだ。
そして彼女が指摘する皮肉が効いている。法廷の中でクマリは、権利を奪われうるただの子供として扱われた。だが判決はその同じ幼女の、国家にとっての役割を承認した。人間であり神でもあるという地位が、世俗法制のもとで正式に追認されたのである。
判決が出たとき、クマリはまだ玉座にいた。そして彼女が印を授ける相手は、王から大統領に変わっていた。
判決のあとに変わったこと、変わらなかったこと
2008年の判決の実務的な効果を、現場の人間はどう見ているか。
クマリ・ガルの世話係ガウタム・プラサド・シャキャの評価は、かなり率直だ。「クマリの伝統はほとんど変わっていません。儀礼は全部、昔どおりに行われています」。
そのうえで彼はこう言う。「裁判の判決がもたらした唯一の大きな変化は、教育に関する部分です。クマリには裁判より前から家庭教師がついていましたが、判決がその仕組みを正式なものにしました。判決のあと、正午から午後四時までがクマリの授業時間として指定されたのです」。
つまり、時間割ができた。それがいちばん大きな成果だった。
物理的な条件もある。館の中で試験を受けられるようになった。教師は学校から派遣される。国語、英語、算数の授業が毎日ある。政府の定めた十か月のカリキュラムに沿って進む。
元クマリには奨学金と特別年金が出るようになった。
金額の話をすると、途端に生々しくなる。
1997年時点で、退任後の年金は月640ルピー。当時の為替で十一米ドルほどだ。学費どころか、遅れを取り戻すための家庭教師代にもならない。
2004年の記事では月3,000ルピー。2010年、現職クマリへの月額手当が6,000ルピーから7,500ルピーに引き上げられた。担当官僚のコメントは「生活を楽にするためです」。教育費も政府が持つ、と。
2014年1月、カトマンズ市が元クマリ約10人に対して、7月から10年間、月10,000ルピーの年金を出すと決めた。
一方、2016年のバクタプルのクマリの月収は3,050ルピーだった。内訳はコイシ・トシャカナから2,150ルピー、バクタプルのグティ・サンスタンから900ルピー。タレジュ寺院の主任司祭ナレンドラ・プラサド・ジョシは、これを「クマリへの侮辱だ」と言った。政府が高齢者に出す社会保障手当が月2,000ルピーなのだから、と。
バクタプルの元クマリたちは、その後も繰り返し増額を求めている。彼女たちの退職年金は月1,000ルピー、現職でも2,200ルピー。この額はネパール暦2058年、つまり2001年から動いていなかった。担当事務所は元クマリに月6,000ルピー、現職に月10,000ルピーという案を政府に上げた。だが、一年経っても通らなかったと、主任司祭は嘆いている。
要するに、こういうことだ。最高裁は「国は元クマリの社会保障を検討せよ」と述べた。政府はいくつかの制度を作った。しかしその金額は、都市によって三倍以上の開きがあり、しかも十年以上据え置かれたまま、増額案が役所で止まっている。
そして現職クマリの維持費として月に四万七千ルピー前後が出ているにもかかわらず、実際に彼女を毎日起こして食事を作って担いで歩く世話係の家には、一円も出ない。十一代続いた家系の当代は、館の一階でジュースを売りながら、息子が跡を継いでくれるかどうかを心配している。
制度が生き延びるかどうかは、しばしば神学ではなく、こういう部分で決まる。
ワシントンD.C.に行った十歳の女神
2007年、この制度の「穢れ」の観念が、現代のメディア環境と正面衝突する事件が起きた。
6月中旬、バクタプルのクマリだったサジャニ・シャキャが、アメリカの首都ワシントンに現れた。当時十歳。イシュベル・ウィッテカー監督のイギリス製ドキュメンタリー『Living Goddess』の宣伝のためだ。作品はアメリカン・フィルム・インスティテュートのシルバードックス映画祭で6月16日に世界初上映された。
彼女はクマリとして初めてアメリカの地を踏んだ人物になった。赤と金の衣装を着て、額に儀礼の第三の目を描いたまま、地元の小学校を訪ねたのである。ホワイトハウスを非公開で見学した。ネパール大使館が歓迎会を開いた。クラスの子供たちは彼女に質問したのである。
女神でいるのは好きですか、と。
滞在は39日に及んだ。
ネパールでの反応は速かった。7月3日、バクタプルのクマリ関係の財団の責任者ジャイ・プラサド・レグミがロイターに語る。「許可も取らずに外国を旅行するのは、間違っているし伝統に反する」。そして続けた。「我々の伝統では、これは不浄です。
新しいクマリを探して、生き神として即位させます」。
タレジュ寺院の責任者ナレンドラ・プラサド・ジョシはAFPにこう説明した。父親は、関係当局の許可を得ずに娘を国外に連れ出したのは誤りだった、と言っている、と。
BBC、ロイター、NPR、ニューヨーク・タイムズが一斉に報じた。「女神、アメリカ訪問で解任」。監督のウィッテカーは電話取材にこう答えていて、「みんな衝撃を受けて、悲しんでいます。この旅の目的はネパールとその伝統を世界と分かち合うことだったのに」。
サジャニ本人は7月18日にネパールに帰国した。記者たちの観察によれば、彼女は騒動に「気づいていない様子だった」。
そして話は、思ったより静かに終わる。
7月16日、寺の司祭たちが投票で彼女の復位を決めた。理由は、彼女が浄化の儀礼を受ける意思を示したから。司祭たちは、彼女が文化大使として果たした役割を称賛した、と報じられている。財団側も「解任したとは聞いていない。新しいクマリが見つかるまで、彼女はクマリであり続けなければならない」と態度を軟化させた。
ドキュメンタリーの制作陣は、騒動を起こしたことを謝罪した。
彼女は2008年までバクタプルのクマリを務め、任期を全うしたのである。
この一件が示したのは、単に「伝統が近代に驚いた」という図式ではないと思う。むしろ逆で、クマリ制度の側が国際世論という新しい環境変数に対して、驚くほど素早く適応してみせた事例だ。不浄は儀礼で落とせる。儀礼で落とせるなら、政治的損失を出してまで解任する必要はない。その判断が二週間で出た。
大統領が幼女の前にひざまずく国
インドラ・ジャトラの話に戻る。
この祭りはカトマンズ最大の祭礼で、十世紀にグナカマデヴァ王が街の建設を記念して始めたとされる。雨と豊穣の神インドラを祀る。仮面の神々と悪鬼が踊り、白いバイラヴァの巨大な面が公開され、竹と布で作られた象が街路を練り歩く。
そこに1756年、ジャヤ・プラカーシュ・マッラがクマリの山車行列を接ぎ木した。ガネーシャ役の少年、バイラヴァ役の少年、そしてクマリの三台の車が、三日間かけて街の南部、北部、中心部を順に回る。2012年からは三日目の車を女性だけの隊列が引くようになった。
この祭りの最も政治的な瞬間が、国家元首への印の授与だ。
かつては国王がハヌマン・ドカに出向いた。クマリが朱と米の粉を混ぜた印を国王の額の中央に押す。数秒で終わる。だが集まった群衆にとっては、それが祭り全体の中心だ。個人的な祝福ではなく、統治権の更新である。
そしてこの儀礼には、もう一つ付随する所作があり、元首がクマリと剣(カドガ)を交換するのだ。武力の象徴と神の承認が、手渡しでやり取りされる。
2008年、王がいなくなった。この印を誰が受けるのか、という問題が発生した。
答えは実務的だったのである。国家元首が受ける。つまり大統領だ。
初代大統領ラム・バラン・ヤダブが受け、次のビディヤ・デヴィ・バンダリが受けた。報道記録を見ると、彼女は在任中ほぼ毎年、バサンタプルのクマリ・ガルやハヌマン・ドカに出向き、花とプラサドと印を受けている。2021年には、女性たちが引く山車の日に印とプラサドを受け、剣を交換したと記事にある。
ここに、この稿でいちばん皮肉な事実が出てくる。
2002年9月、一人の国会議員が記者会見でクマリ制度の廃止を要求した。彼女はこう述べた。これは子供の権利だけでなく、女性の権利、人権の侵害です。少女は普通の社会から隔離され、何年も経って血を流し始めると放り出される。それはトラウマになるだけでなく、二つの世界のあいだを強制的に往復させられる子供にとって心理的な破壊です。
その議員の名は、ビディヤ・デヴィ・バンダリという。
十三年後、彼女はネパール初の女性大統領になった。そして国家元首として、毎年インドラ・ジャトラに出向き、幼い女神から額に印を受けた。
これを転向と呼ぶのは、たぶん少し乱暴だ。廃止を主張した2002年のネパールと、2015年以降のネパールでは、この制度が置かれた文脈がまるで違う。判決があり、時間割ができ、年金ができた。何より、王がいなくなったあとの共和国にとって、クマリは「王権の付属物」ではなく「この谷の文化そのもの」として再定義されていた。
マオイストが祭りを止めようとして数万人の市民に押し戻されたとき、その再定義は完了していたのだと思う。クマリは王のものではなかった。街のものだった。だから王が消えても残ったのである。
なぜ、これが二十一世紀に残っているのか
最後に、いくつかの角度から考えてみたい。
まず、ネワール社会の内側での意味。イザベラ・トゥリーが指摘していることだが、クマリは特殊な突然変異ではない。ネワールの家庭では、大きな祭りのたびに家の中でいちばん小さな女の子を飾り立てて拝む習慣がある。髪を結い上げ、目を描き、口紅をさし、赤い服を着せる。そして祖父も父も兄も、姉も母も祖母も、その子の足元にひざまずく。
国家規模のクマリは、この家庭内の所作を最大サイズで実演したものだ、という見方ができる。一人の特別な少女の話ではなく、「すべての幼い娘は女神でありうる」という前提の、いちばん派手な実例。
トゥリーはそこから踏み込んで、この伝統はむしろフェミニズムの旗印だ、と書いた。ある元クマリが彼女に語ったところでは、この制度は女性にとって力づけである。社会の男たちに対して「女性と子供にはこれだけの敬意を払え」と示す教材なのだという。
この主張には、当然、真っ向からの反論があり、書評子の一人はこう書いた。女神を崇拝することと、実際の女性の境遇がよいことは、まったく別の話だ。宗教儀礼で女性原理を持ち上げることと、生身の女性の福祉を一緒くたにするのは危険であり、たいていは誤りである、と。
これはインド亜大陸の宗教文化をめぐって百年議論されてきた論点そのもので、ここで決着はつかない。ただ、少なくとも当のクマリ経験者たちがどちらの側に立って発言しているかは、事実として記録しておくべきだと思う。ラシュミラも、チャニラも、廃止ではなく改革を主張している。
次に、観光資源としての面。これは無視できない。クマリ・ガルの中庭には毎日観光客が来る。ガイドが上に向かって声をかけ、窓が開き、十秒で閉じる。その周りで土産物が売れ、ツアーが売れ、本が売れる。
イザベラ・トゥリーの本はカトマンズ中の書店に平積みされている。
一方で、この商品化は制度の内側から嫌われてもいる。長年クマリを取材してきた書き手は、旅行業者がクマリ参拝ツアーを売っていることについて、はっきり批判している。名目は地域貢献でも、実際にはクマリの家族に形ばかりの謝礼を払って商売にしているだけだ、と。観光客の側がわざわざツアーを買う必要もない。自分で行けばいいのだから、と。
見せ物として消費される部分と、信仰として機能している部分は、同じ中庭の中で分離できないまま並存している。1997年の取材者が書いた光景が象徴的だ。ぴちぴちのTシャツと短パンで押しかけた観光客が、動物園の珍鳥を見るように窓の少女をじろじろ眺めている。その横で、出血の病を抱えたネパール人が順番を待っている。
三つ目に、担い手の問題。2001年に候補を出す意思のある親が五人しかいなかった、という事実は重い。かつては大変な名誉だった。今も名誉ではある。父親は「昨日まで私の娘でしたが今日から女神です」と誇らしげに語る。
だが同時に、元クマリのナニ・マヤの夫が「娘には教育を受けさせたい」と言って断ったように、天秤の反対側には別の未来が乗るようになった。
だからこそ、チャニラが教育と設備の改善を訴えているのは、制度への攻撃ではなく延命策でもある。彼女は明確に言っている。クマリであることは大きな責任だが、それとは別に彼女はごく普通の女の子である。神としての務めが終わったあとの人生があり、生きていくのに必要な技能を全部身につける必要がある、と。
廃止論と存続論は、実はもう真っ向からは衝突していない。廃止を求めた弁護士の訴えは、結果として「教育と年金の制度化」に着地した。人権活動家のサパナ・プラダン・マラは、この伝統は文化に深く根ざしすぎていて廃止は難しいだろうと認めたうえで、改革を提案していた。少女の権利を守れ。発達と教育の機会を十分に与えよ。
地位を降りる前にカウンセリングを受けさせよ。それは国家の責任だ、と。
判決は、ほぼその線に沿って着地した。
そして存続を支持する側にも、こういう言い分がある。三代のロイヤル・クマリの選定に立ち会った七十二歳の司祭ラメシュ・プラサド・パンデイの言葉だ。
「人間の理解を超えたものがあります。私がここに石を一つ置いたとして、私がそこに聖なるものを見るなら、それは聖なるものになる。でもあなたには、ただの石にしか見えないかもしれない。クマリも同じ原理です。これは信じるかどうかの問題なのです」。
それでも赤い窓は開く
この制度の何が怖いか、という話を最後にしておきたい。
生首でも、暗い部屋でもない。あれは外から来た人間が想像で足した装飾で、当事者たちは一貫して否定している。
本当に怖いのは、もっと静かな部分だ。
一つは、身体の完全性が神性の条件になっているという点。傷一つ、痣一つ、抜けた歯一本で失格になる。逆に言えば、体に一度でも傷がついたら神ではなくなる。ダナ・クマリを三十年の在位から引きずり下ろしたのは、耳のかすり傷だった。
もう一つは、その完全性が必ず壊れると最初から分かっているという点。初潮は来る。必ず来る。この制度は、いつか必ず失格する人間を、失格する日まで神として扱う。カウントダウンつきの神格である。
そして三つ目、いちばんきついのはここだと思う。降ろされたあと、彼女は自分の足で歩けない。
ラシュミラも、チャニラも、ダナ・クマリも、揃って同じことを言っている。歩き方が分からなかった。階段が下りられなかった。両親に手を引かれて歩き方を習ったのである。六十三歳で地震に追い出されて初めて表通りに立った。
神様は歩かない。担がれるからだ。だから神をやめた瞬間、その人には歩行という技能がない。
これは比喩ではない。物理的にそうなのだ。そして物理的にそうだからこそ、比喩としても効いてしまう。八年なり十年なり、人間としての生活を丸ごと中断させられた子供が、ある日それを返される。返された生活は、こちらの都合など待ってくれない。
学校のクラスも、友達の作り方も、靴の履き方も、全部、置いていかれた分だけ遅れている。
それでも、ラシュミラは学士号を取った。チャニラはMBAを取って外資系の与信分析をやっていて、サミタは楽器を弾いている。ダナ・クマリは読み書きを習わないまま経典を読み、男性司祭しかやらない秘儀を執り行っている。
彼女たちは誰も、自分は被害者だとは言わない。同時に、誰も「今のままでいい」とも言っていない。教育を寄こせ、設備を寄こせ、年金の額を人間が暮らせる水準にしろ、と言っている。そして自分の後に続く子供たちの世話を焼いている。
この制度が二十一世紀に残っている理由を一つだけ挙げろと言われたら、たぶんそこだと思う。制度を内側から批判し、内側から改良し続けている人間が、元神様の中から出てきたからだ。廃止を叫ぶ外部の声より、「私のときはこうだったから、次の子にはこうしてやってほしい」という具体的な要求のほうが、この制度を長持ちさせている。
二百四十年続いた王朝が消え、憲法が三回書き換えられ、毛沢東主義者が政権を取り、大地震で街の半分が崩れても、クマリ・ガルは屋根瓦一枚落ちなかった。あの家だけが無事だったことを、ネパールの人たちは今も特別な意味で語る。
そして今日もダルバール広場の中庭には人が集まり、上を向いて黙って待つ。
赤い服の子供が現れる。誰の目も見ない。十秒足らずで引っ込む。
その子には名前があり、就任のときにそれは使われなくなり、退位の日に返される。返されたときには、歩き方を習い直すところから始めなければならない。
窓の向こうにいるのは女神か、それとも女神をやらされている子供か。この問いに、ネパール最高裁は2008年、はっきりと答えている。両方だ、と。
