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墓を掘り返し、心臓を焼き、その灰を兄に飲ませた――一八九二年ニューイングランド吸血鬼パニックと、砂利山から出てきた骨

一八九二年三月十七日の朝、ロードアイランド州エクセター。丘の上の小さな墓地に、四人の男が鍬とシャベルを持って立っていた。前の晩まで雪が残っていた。地面はまだ半分凍っている。掘るのに骨が折れる、という言い方がそのまま当てはまる仕事だった。

男たちが掘り返そうとしていたのは、他人の墓ではない。同じ町に住むジョージ・ブラウンという農夫の、妻と娘二人の墓だ。妻は九年前に死んでいる。長女はその半年後。次女はつい二か月前、一月に死んだばかりだった。

彼らは、この三人のうち誰かが「まだ完全に死んでいない」と考えていた。そして墓の中から、生き残った兄エドウィンの血を吸っている、と。

これはハンガリーの民話ではない。トランシルヴァニアの霧の話でもない。電信線が通り、鉄道が走り、ロベルト・コッホが結核菌を発見してから十年が経った、十九世紀末のアメリカ合衆国で実際に起きたことだ。しかもこれは孤立した奇談ではなく、少なくとも八十件以上が記録された、ニューイングランド全域にまたがる長期の風習の、最後の一例だった。

そして今から三十数年前、コネチカット州の砂利採取場で、この風習の物的証拠がひとつだけ地面から出てきた。頭蓋を胴から外され、大腿骨を胸の上でエックス字に組まれた、五十五歳の男の骨だ。棺の蓋には真鍮の鋲で「JB55」と打ってあった。

この記事は、その二つの話をつなぐ話だ。

掘り返す朝、チェストナットヒルの空気

エクセターという町を先に説明しておく。ロードアイランド州の西端、コネチカット州との州境に貼りついた、細長い農村だ。土壌は石だらけで、地元の歴史協会の人はのちに「岩、岩、そしてもっと岩」と表現している。畑のトウモロコシの列は、動かせない巨岩を避けて左右にうねっていた。

十九世紀後半のエクセターは、坂を転げ落ちるように人が減っていた。一八二〇年には二千五百人以上いた人口が、一八九二年には九百六十一人。南北戦争で若い男が死に、生き残った者は西部の肥沃な土地と鉄道の仕事に吸い出されていった。一八九〇年の人口密度は一平方マイルあたり十七人。一八九三年の調査では、町内の農場の五分の一にあたる六十三軒が放棄されていた。

都市部の新聞はこの一帯を「見捨てられたエクセター」と呼んでいた。

その見捨てられた土地に、結核が居座っていた。

三月十七日の朝、チェストナットヒル・バプティスト教会の裏手の墓地に集まったのは、ブラウン家の親戚と近所の農夫たちだった。それに医師が一人。エクセターと隣接するノースキングスタウンの検屍医を兼ねていた、ウィックフォード在住のハロルド・メトカーフだ。地元では「ドク・メトカーフ」と呼ばれていた。そしてもう一人、プロヴィデンス・ジャーナル紙の通信員がいた。

この記者がいたおかげで、我々はこの朝のことを知っている。

父親のジョージ・ブラウンは来ていない。見ていられなかったのだ。病床の息子エドウィンも当然いない。棺を作り、三人全員を埋葬した葬儀屋のジョージ・クランストンも来なかった。彼は自分の手で埋めた人間たちが確かに死んでいることを知っていたし、掘り返す作業に関わるつもりは一切なかった。

最初に開けたのは、母メアリー・イライザの墓だった。一八八三年十二月に死んでいるから、八年以上が経っている。ジャーナル紙の記述はそっけない。筋肉と肉の一部がミイラ化した状態で残っていたが、心臓に血の痕跡はなかった。次が長女メアリー・オリーヴ。こちらは骨だけだった。ただし髪は豊かに残っていた。死後に髪が伸びたように見える現象は、実際には皮膚が乾いて縮み、毛根が相対的にせり出すことで起きる。

当時の人々にはそれが「まだ育っている」証拠に見えた。

そして三番目。次女マーシー・レナ・ブラウン、十九歳。

彼女は一月に死んだが、地面が凍っていて墓穴が掘れなかったため、墓地の隅にある半地下の受入納骨堂に安置されたままだった。石造りの、天然の冷蔵庫のような場所だ。冬のニューイングランドの外気温である。棺の蓋が持ち上げられたとき、そこにいた全員が息を呑んだ。

遺体はほとんど腐っていなかった。

レナと呼ばれていた娘

家族は彼女をマーシーとは呼ばなかった。レナだった。一八七二年八月にエクセターで生まれ、公立学校に通い、母と姉を十一歳で相次いで失い、その後は家事の大半と三人の弟妹の世話を引き受けていた。それ以外に、彼女がどんな人間だったかを伝える記録はほとんど残っていない。趣味も、口癖も、好きだった歌も分からない。この事件の最大の残酷さは、そこかもしれない。

世界中に名前が知られているのに、本人については何も知られていないのだ。

ブラウン家の死の順序を整理しておく。

最初に倒れたのは母のメアリー・イライザ・アーノルド・ブラウンだった。一八八二年の暮れごろから咳が始まり、一八八三年十二月八日に死んだ。三十六歳。プロヴィデンス・ジャーナル紙の同年十二月十二日付に死亡記事が載っている。

次が長女のメアリー・オリーヴ。二十歳の仕立て屋だった。母の死の半年後、一八八四年六月六日に死んだ。地元紙の追悼記事は「最期の数時間は大変な苦しみだったが、信仰は揺るがず、彼女は旅立つ準備ができていた」と書いている。葬儀には町中の人間が集まり、オリーヴ自身が選んでいた讃美歌「ワン・スウィートリー・ソレム・ソート」を歌った。

三番目が長男のエドウィン。愛称エディ。ある新聞のコラムニストが「大柄でがっしりした青年」と描写した男だ。ウィックフォードにあるジョージ・クランストンの雑貨店「ファーマーズ・エクスチェンジ・アンド・ジェネラル・ヴァラエティ・ストア」で店員として働いていた。一八八九年から一八九〇年ごろに肺の異常が出はじめる。医者にできることはなかった。

当時の定石どおり、彼は転地療養を勧められ、コロラドスプリングスへ向かった。乾いた高地の空気と鉱泉が肺病に効く、というのが十九世紀後半の医学界のほぼ唯一の処方箋だったからだ。妻もあとから合流した。

そして最後がレナ。彼女が発症したのは、母と姉が死んでから十年近く経ってからだった。医師は「疾走性」の結核だと診断している。長期間無症状で潜伏し、症状が出てからは一気に崩れ落ちるタイプだ。一八九二年一月十七日、彼女は死んだ。記録によっては十八日、十九日とするものもある。プロヴィデンス・ジャーナル紙の一月二十日付に載った死亡記事は、姉のときと比べてひどく短い。

「肺病を患っていたレナ・ブラウン嬢、日曜の朝に死去」。それだけだ。

エドウィンは妹の死の知らせを受けて、一八九二年二月二十三日にコロラドから妻とともにエクセターへ帰ってきた。西部でわずかに保っていた体調は、帰郷とともに崩れた。彼は寝床から起き上がれなくなった。

そして彼は、熱にうなされながら叫ぶようになる。「あいつがそこにいる」「一緒に来いと言っている」「取り憑かれている」。

町が動いたのは、このときだ。

「あなたの家族の誰かが、まだ死んでいない」

近所の人々がジョージ・ブラウンのところへ来て、こう言った。あんたの家に取り憑いているものがある。妻か娘のどちらかが完全には死んでおらず、墓の中からエディの生きた組織と血を食っている。掘り出して、どれがそうなのかを確かめ、それを止めれば、エディは助かる。

ジョージ・ブラウンは、この話を信じていなかった。複数の同時代記録がその点で一致している。彼は「古くからの迷信」に対して公然と否定的だったし、掘り返しの現場にも立ち会わなかった。ドク・メトカーフも、精神的な相談相手だった教会長老のエドウィン・ウッドも、おそらく彼に「そんなことをしても何も変わらない、エディの命はもう主の御手の中にある」と言ったはずだ。

それでも彼は許可を出した。

ここが、この事件のいちばん重要な部分だと思う。無知な田舎者が迷信に踊らされた、という話ではない。妻を失い、娘を二人失い、残った一人息子が目の前で死にかけている男が、医学から「打つ手はありません」と告げられた状態で、隣人全員から「これしかない」と迫られたのだ。信じていなくても、やらないという選択が取れなくなる瞬間がある。

ウィックフォードの郷土史家ティム・クランストンは、この件について非常に温度のある文章を残している。彼は葬儀屋ジョージ・クランストンの子孫であり、自分の名前も先祖から取っている。彼はこう書いた。この話は「田舎者の無知と迷信」の物語として語られすぎている、と。「ジョージ・ブラウンがこの異様な出来事に関わったのは、無知や迷信のせいではなく、愛と絶望のせいだ。昔も今も、愛と絶望は親に何でもさせる。

ジョージ・ブラウンと『吸血鬼の灰』と十九世紀を笑う人間は、二十世紀に妻や子を救おうとして、桃の種の治療やコーヒー浣腸の療法を求めて南米まで飛び、破産していった無数の親たちのことをどう思うのか。私はそこに違いを見出せない」。そして彼は、掘り返された三人と、それを見届けたドク・メトカーフと、それに関わることを拒んだ先祖の墓を今も訪ねると書いている。

心臓の中の血

さて、開いた棺の前に戻る。

レナの遺体は「かなり良好な保存状態」だった、とプロヴィデンス・ジャーナルの通信員は書いている。加えて、遺体の向きが動いていた、という証言もある。横向きになっていた、寝返りを打っていた、という話だ。これは後世の伝聞で膨らんだ可能性が高いが、当時の人々の目にどう映ったかを考えるうえでは重要だ。

心臓と肝臓が取り出された。おそらく執刀したのはドク・メトカーフ本人だ。心臓を切り開くと、凝固して一部分解した血が出てきた。肝臓には血がなかったが、こちらも保存状態は良かった。

メトカーフはその場で説明した。これは死後二か月の遺体としてまったく正常な状態だ。冬に死に、冬に凍った土と石の納骨堂に置かれていたのだから、腐敗が遅れるのは当たり前だ。心臓に凝血があるのも当然のことである。そして彼は肺も調べ、そこに結核の病変が広がっていることを確認した。つまり医学的には、死因も保存状態も、何ひとつ不思議はなかった。

集まった人々は、その説明を聞いたうえで、無視した。

墓地の一角にある岩の上で火が焚かれ、心臓と肝臓は灰になるまで焼かれた。プロヴィデンス・ジャーナルの記述はここも淡々としている。「これら二つの臓器は取り出され、墓地で火が焚かれて灰にされ、参加者たちは満足したようだった」。

ジャーナル紙は続けて、エクセターの人々が信じている理屈をこう解説している。心臓に血がある限り、その家族のうち肺病を患っている者は悪化し続ける。だが心臓を焼けば、病人はよくなる。そして確実に効かせるためには、心臓と肝臓の灰を病人自身に飲ませなければならない。

灰は水に混ぜられ、エドウィン・ブラウンの枕元へ運ばれた。彼はそれを飲んだ。

彼は一八九二年五月二日に死んだ。妹の心臓を飲んでから、二か月も経っていなかった。

話はそこで終わらない

大半の記事は、エドウィンの死で幕を引く。だが実際には終わっていない。

結核はブラウン家の子供たちを取り続けた。アニー・ローラ・ブラウン・テイラーが一八九五年に死んだ。ジェニー・アデライン・ブラウン・エドワーズも同じ一八九五年、十八歳で死んだ。ミラ・フランセス・ブラウン・カズウェルは一八九八年に結婚し、一八九九年六月に十八歳で死んだ。死亡記録には「フシシス」――肺結核を指すギリシャ語由来の古い病名――と記されている。

つまり、レナの心臓を焼いた後にも、三人の姉妹が同じ病気で死んだ。だが彼女たちは誰も掘り返されなかったし、吸血鬼の物語にも一切登場しない。この事実は、この風習の性質を残酷なほど正確に照らし出す。これは病気の説明ではなく、「誰かを怪物に決める」という一回きりの儀式だったのだ。決めてしまえば、あとの死は物語に組み込まれない。

ジョージ・トーマス・ブラウン本人は、家族のなかでほぼ唯一、結核にかからなかった。彼は一九二二年十一月十七日、生き残った娘ハティの家で死んでいる。八十歳。妻と六人の子を先に埋めた男の、長すぎる余生だった。

新聞はこの朝をどう書いたか

この事件が世界的に知られるようになった最大の理由は、現場に記者がいたことだ。

プロヴィデンス・ジャーナル紙は一八九二年三月十九日、三面に記事を掲載した。見出しは「遺体を掘り出す――エクセター町における恐るべき迷信の検証」。淡々とした現地レポートである。ところが編集部はこの記事に不満だった。理由は、通信員が「吸血鬼」という言葉に一度も触れていないことだった。

ジャーナル紙は「この記事からは『吸血鬼』への言及がすべて欠落している」「地元通信員は迷信の核心に到達できなかった」と自ら注釈をつけ、当時権威のあったセンチュリー辞典から吸血鬼の定義を引用して補った。曰く「人間の肉体を保持したままの一種の幽霊的存在で、下ドナウ地方のスラヴ系その他の民族に伝わる迷信によれば、夜間に墓を離れ、眠っている男女の温かい血を吸うことで生の見せかけを保つもの」。

これは非常に示唆的だ。「吸血鬼」という語をこの事件に持ち込んだのは、エクセターの農夫たちではなく、プロヴィデンスの新聞編集者だった。

翌三月二十日、ジャーナル紙は四面に社説を載せた。論調は容赦がない。「この地方には、教育と文明の力がほとんど及んでいない農村人口がかなりの規模で存在する」「ニューイングランドの一部の片隅に残る無知と迷信の量は、驚きを通り越している」。三月二十一日には八面で続報「吸血鬼説――エクセターの墓における幽鬼探しについて」を出した。

地元紙も動いた。パウタクセット・ヴァレー・グリーナー紙には、掘り返しの一週間ほど後に匿名の投書が載っている。その筆者は、レナの父と兄、そして検屍医のメトカーフの三人がこの儀式に消極的だったことを明記している。当事者たちの温度差を伝えた、当時としては貴重な記録だ。

ボストン・デイリー・グローブ紙は掘り返しの翌日に記事を出し、さらに一八九六年には特集を組んだ。この一八九六年のグローブ記事の発信地は「ソドム」となっている。エクセター町内にある、家が四、五軒しかない集落の名前だ。記事は「地図に載らないほど小さい」と書いているが、実際には地図に載っている。

ジョージ・スティトソンという人類学者

エクセターの一件は、ある学者を引き寄せた。ジョージ・ロチフォード・スティトソンだ。彼はロードアイランドへ調査に入り、同僚宛の手紙にこう書いている。「去年の夏、ロードアイランドで、迷信の要求に従い、死者を掘り出すことでその信仰を示した家族の、十二件かそれ以上の十分に裏づけられた事例を見つけた」。

その成果が、一八九六年一月発行の学術誌アメリカン・アンスロポロジスト第九巻第一号に載った論文「ニューイングランドにおけるアニミズム的吸血鬼」である。この論文は今日でも一次資料として引かれ続けている。

スティトソンの筆致は、現代の目で読むと相当に上から目線だ。彼は吸血鬼信仰を「野蛮人のアニミズム」の産物と断じ、この現象が「我々が啓蒙の十九世紀と呼びたがっている時代の末期」にロードアイランドで生き残っていることを「異常な事例」と評した。

エクセター、フォスター、キングスタウン、イーストグリニッジといった町名を具体的に挙げ、それらの地域が「農業が衰退し、放棄農場が多く、本の行商人と石版画売りと万能薬売りの巡回路であり、扇情的で神経症的な現代小説の本場」だと書いている。

だが上から目線を差し引いても、スティトソンが記録した中身は貴重だ。彼はこう書いている。「ニューイングランドにおいて、吸血鬼の迷信は正式な名前で知られていない。そこでは、肺病は肉体の病ではなく霊的な病、憑依、あるいは訪問だと信じられている。

死んだ肺病患者の親族の遺体の心臓に血がある限り、それはオカルト的な影響力が死を求めてそこから盗み出し、生者の血を死者の心臓へ引き込み、急速な衰弱を引き起こしている証拠だとされる」。

つまり地元の人々は、自分たちが吸血鬼退治をしているとは思っていなかった。彼らがやっていたのは、医療だった。効くと信じられている最後の治療法だ。

スティトソンはまた、ハンガリーやセルビアでの作法との違いも書き留めている。あちらでは心臓その他を鋭利なもので刺し貫き、遺体は叫び声を上げるとされ、そのあと斬首して焼く。ニューイングランドでは掘り出して心臓を焼き、灰を撒く。この対比は、両者が同じ根から出た変種であることを強く示唆する。

スティトソンの論文が出ると、全米の新聞がそれを種に扇情的な記事を量産した。ボストン・イヴニング・トランスクリプト紙は一八九六年に「ロードアイランドの吸血鬼たち」という長文記事を掲載している。書いたのはワシントン特派員のルネ・バッシュで、彼はスティトソンの論文の表現をほぼそのまま流用していた。マーシー・ブラウンの物語の細部の多くは、実はこの四年後に書かれた記事に由来している。

現地取材ではなく、学術論文の二次利用から生まれた「詳細」なのだ。

一七九三年二月、鍛冶場に千人が集まった

マーシー・ブラウンは最後の一例であって、最初ではない。ここから百年ほど時計を戻す。

バーモント州マンチェスター。当時はミーズミル、のちにファクトリーポイント、現在のマンチェスターセンターと呼ばれる場所だ。この町の初期史を、判事ジョン・ペティボーン(一七八六年生、一八七二年没)が一八六〇年ごろに手稿「マンチェスター初期史」として書き残している。その第二部に、驚くべき記述がある。

アイザック・バートンという男がいた。独立戦争での従軍から「キャプテン」の敬称で呼ばれ、地元の会衆派教会の執事を務めていた。彼は一七八九年ごろ、二十歳のレイチェル・ハリスと結婚した。ペティボーンは彼女をよく知る人物の言葉として「健康で美しい、見事な娘だった」と記録している。ところが結婚から間もなく彼女は衰えはじめ、一年ほどで肺病により死んだ。墓碑によれば一七九〇年、二十一歳。

墓石はゼルバベル・コリンズ(一七三三年生、一七九七年没)という当代随一の石工が白大理石に花と天使を彫った見事なもので、今もファクトリーポイント墓地に立っている。

バートンは一年ほどして再婚した。相手はエスクァイア・パウエルの娘ハルダ・パウエル。ペティボーンは「非常に健康で器量もよかったが、最初の妻ほど美しくはなかった」と、余計なことまで書いている。そしてハルダも、結婚後まもなく病に倒れた。同じ病だった。

ハルダが末期に入ったとき、ペティボーンの言葉を借りれば「奇妙な狂信が、一族と友人たちの心を支配した」。彼らは、最初の妻の内臓を炭火で焼き尽くせば、二番目の妻の病が治ると信じ込むに至った。

一七九三年二月。三年ほど土の中にいたレイチェルが掘り出された。肝臓、心臓、肺の残っていた部分が取り出され、ジェイコブ・ミードの鍛冶場の炉で灰になるまで焼かれた。儀式を執り行ったのはティモシー・ミードという町の有力者だった。ペティボーンの原文はこうだ。「ティモシー・ミードが祭壇において、バートン大尉の当時存命の妻の血をなお吸っていると信じられていた悪魔的吸血鬼への供犠を司った。

時は二月、橇の滑りは上々だった。興奮はすさまじく、五百人から千人が居合わせた。この記録は、その出来事の目撃者から私に提供されたものである」。

橇の滑りは上々だった、という一文がすごい。真冬の見世物として、周辺の村から人が馬橇で集まってきたのだ。人口規模を考えれば、地域の成人のかなりの割合が来ていた計算になる。

灰を水に混ぜてハルダに飲ませたという話も伝わっている。効かなかった。ハルダ・パウエル・バートンは同じ年の九月に死んだ。

その後、マンチェスターの人々の解釈は微妙に変化した。レイチェルは吸血鬼ではなく魔女だったのではないか、という説が出回るようになったのだ。診断名を変えれば失敗が説明できる、という発想は、実はかなり普遍的なものだと思う。

二〇二二年、バーモント・フォークライフ・センターとウィリアム・ポメロイ財団の「バーモント伝説と伝承」プログラムの支援で、マンチェスター歴史協会がファクトリーポイント墓地の入口に記念標識を建てた。標識の見出しは「マンチェスターの吸血鬼」。レイチェル・ハリス・バートンの名前と物語が刻まれ、彼女の墓の方向を指している。

除幕式にはバーモント・フォークライフ・センターのアンディ・コロヴォス、マンチェスター歴史協会学芸員のショーン・ハリントンらが立ち会った。ハリントンはペティボーン手稿の「ジェイコブ・ミードの鍛冶場」という記述から、彼女の埋葬地がファクトリーポイント墓地であることを推理して突き止めている。

ダートマス大学生の心臓

バーモントにはもう一件、名前の残る有名な事例がある。

サウス・ウッドストックのフレデリック・ランサム。一七九七年生まれ、一八一七年二月十四日に二十歳で肺病により死去。ダートマス大学の学生だった。

この件が民俗学的に興味深いのは、ランサム家が裕福で教育のある一家だったからだ。この風習は「無知な貧農の迷信」という枠にきれいに収まらない。彼の父親は、自分の家系に「肺病への傾向」があると考えており、そして「家族の誰かが肺病で死んだとき、その心臓を取り出して焼けば、残りの者は病から自由になる」と信じていた。息子は掘り返され、心臓はキャプテン・ピアソンの鍛冶場の炉で焼かれた。

効かなかった。フレデリックの母、姉妹、そして二人の兄弟が、そのあと同じ病で死んでいる。

ウッドストックにはもうひとつ、一八三〇年ごろの伝承がある。六か月前に肺病で死んだ男の、腐っていない心臓が、ウッドストックの町の広場のど真ん中で、鉄鍋の中で灰になるまで焼かれたという話だ。病気の弟を救うためだった。町の広場である。隠れてやる作業ではまったくなかった。

民俗学者マイケル・ベルは、バーモントの事例が公然と、祝祭的にすら行われた理由を、植民地の入植パターンから説明している。ロードアイランドには百平方マイルあたり約二百六十か所の墓地がある。バーモントは約二十か所だ。ロードアイランドの墓地は小さく、私有農場の敷地内に点在していた。バーモントの墓地は大きく、しばしば町の中心にあった。

つまりバーモントでは、吸血鬼退治を内緒でやることが物理的に不可能だったのだ。

作法の地域差はほかにもある。メイン州やマサチューセッツ州プリマス周辺の一部の共同体では、掘り出した遺体をうつ伏せにひっくり返して埋め直すだけで済ませた。コネチカット、ロードアイランド、バーモントでは心臓を焼くことが多く、その煙を病人に吸わせる作法もあった。心臓だけを焼く土地と、遺体全体を焼く土地がある。灰を飲ませる土地と、飲ませない土地がある。

ヨーロッパでも同じで、斬首する地域もあれば、足を茨で縛る地域もあった。

果樹園の半分が枯れる夢

ロードアイランドで最も物語性の強い事例は、一七九九年のエクセター、ティリングハスト家のものだ。

スチューカリー・ティリングハスト、通称スナッフィー。裕福な果樹園農家で、妻オナーとのあいだに十四人の子がいた。ある夜、彼は夢を見た。自分の果樹園に立っている。木々は秋の色に美しく染まっている。そこへ谷を越えて嵐が来る。木が次々に枯れ、腐り、嵐が過ぎたときには、果樹園のちょうど半分が死んでいた。

翌朝、彼は果樹園を見に行った。木は一本も傷んでいなかった。それでも彼はこの夢を忘れられず、近所や牧師に意味を尋ねて回った。誰にも分からなかった。その年の収穫は記録的な豊作で、やがて彼は夢のことを忘れた。

数週間後、娘のサラが病に倒れて死んだ。

そのあとが恐ろしい。次に病んだ子供が、こう訴えはじめたのだ。夜になるとサラが来る。そして体のどこかの上に座る。ひどく痛い、と。別の娘は、サラが枕元に立って「寒い、温めてほしい」と言うのだと語った。母のオナーまでが、サラの姿を見るようになった。「お母さん、こっちはとても寂しくて、とても寒い。一緒に来てくれない?」

一人、また一人と死んでいった。六人の子が死に、七人目が病んだ段階で、共同体の協議が開かれ、墓を開けることが決まった。子供たちの遺体は順に掘り出された。どれも通常の腐敗が進んでいた。最後にサラの棺が開けられた。最初に死んだはずの彼女だけが、腐っていなかった。目は開いて固定され、髪と爪は伸びたように見え、心臓には新鮮な赤い血が満ちていた。

心臓は取り出され、家の前の岩の上で焼かれた。遺体はすべて埋め直された。この一家に平安が訪れた――ただし七人目の犠牲が出たあとで。

スチューカリーが振り返ったとき、失った子は正確に半分だった。夢のとおりだった。

ただし、これは一八八八年にシドニー・ライダーが活字にした版の話だ。マイケル・ベルは実際の記録を洗い直し、いくつもの食い違いを見つけている。サラの死は一七九九年であって独立戦争直前ではないこと、彼女は長女ではなかったこと、その年に死んだ子は七人ではなく四人らしいこと。姓が「ティリングハスト」であること、一家の住居と墓地がパインヒルの西斜面にあることを突き止めたのもベルだ。

事件から八十九年のあいだに、物語は独り歩きして形を変えていた。伝説というのはそうやって育つ。

サラの墓はエクセターの小さな一族墓地――現在は住宅地の裏庭のような場所にある――のどれかだが、碑文が読めない石が多く、特定できない。母オナーの墓石だけは、入口の壁際にはっきり残っている。

煙を吸う――一八二七年、フォスターのナンシー・ヤング

作法のバリエーションとして重要なのが、この事例だ。

ロードアイランド州フォスター。キャプテン・リーヴァイ・ヤングと妻アンナの農場は、トウモロコシ、ジャガイモ、タマネギで安定した収入を得ていた。長女ナンシーは頭が良く、十九歳で農場の帳簿を任されていた。一八二七年、彼女は肺病に倒れ、四月六日に死んだ。

数か月後、妹のアルマイラが同じように衰えはじめた。リーヴァイは地域で評判のいい医者を片端から呼んだが、誰にも何もできなかった。そしてある朝、アルマイラは父にこう言った。夢でナンシーを見た、と。「すごく明るくて、天使みたいだった」。姉は「痛みはもうすぐなくなる」と言ったそうだ。夢のあいだ、自分が病気であることを忘れていられたとも。

父親はその話を聞いて、青ざめた。

リーヴァイ・ヤングは近隣の友人と隣人に頼み、ナンシーの遺体を掘り出して焼いた。心臓だけではない。遺体そのものを薪の上で焼いたのだ。そして――ここが他と違う――家族全員がその火の周りに立ち、燃える遺体の煙を吸い込んだ。煙が体内の悪しきものを洗い流すという理屈だった。

効かなかった。アルマイラは死に、その後さらに四人ないし五人のヤング家の子供が同じ病で死んだ。誰も掘り返されなかった。

この「煙を吸う」作法は、コネチカット州西スタッフォードにも記録がある。一八七〇年代から八〇年代にかけて、姉妹六人のうち五人が疾走性の肺病で相次いで死んだ家があった。地元の人々の説明はこうだ。「死者の生命器官にはある種の生の残り火がなお留まっており、何らかの奇妙な過程によって生者の生命力を吸収する」。

そして彼らは、掘り出したら心臓と肺が腐った内臓の中でひとつだけ生々しく残っていた例や、それを焼いたら死にかけていた親族が奇跡的に回復した例を語った。ただしこの土地では、儀式は夜間に、開いた墓の前で、たった一人の人間によって執り行われなければ効果がないとされていた。

町議会が許可した「実験」

この風習が「隠れて行われる異端」ではなかったことを示す、決定的な文書がある。

ロードアイランド州カンバーランドの町議会、一七九六年二月八日の議事録だ。原文の綴りは当時のもので、こう記されている。

カンバーランドのスティーヴン・ステイプルズ氏が本議会に出頭し、故アビゲイル・ステイプルズ――カンバーランド在住の未婚女性、彼の娘――の遺体を掘り起こす許可を求めた。目的は、当該アビゲイルの姉妹であるライヴィナ・チェイス(スティーヴン・チェイスの妻)に対して実験を行うことである。

これを正当に審議した結果、当該スティーヴン・ステイプルズが当該故アビゲイルの遺体を掘り起こすことを許可し、前述の実験を行った後は、当該アビゲイルの遺体を然るべく丁重に埋葬することを、議決し決定する。

町議会が、正式な議事として、墓の掘り起こしを許可している。そして「実験」という語が使われている。マイケル・ベルはこの語の来歴に注意を促している。ラテン語のエクスペリメントゥム(試み、試験)から古フランス語を経て英語に入ったこの語は、もともと魔術師の用語であり、魔術とほぼ同義に使われていた。十七世紀に至っても、医学的な症例や処方が「実験」と呼ばれていた。

つまり十八世紀末のロードアイランドでは、医療目的の掘り起こしは完全に周縁化されてはおらず、共同体の公式な社会構造に組み込まれうるものだった。町の役人が、書類の上でそれを承認していたのだ。

記録に残る最古級の一件は、牧師の家で起きた

もうひとつ、この風習が「無教養な人々のもの」だという通説を崩す例がある。

マサチューセッツ州ベルチャータウン。イェール大学で学んだ会衆派教会の牧師ジャスタス・フォワード(一七三〇年生、一八一四年没)は、この教会に六十年近く仕えた地域の名士だった。

一七八八年七月までに、フォワード夫妻は三人の娘を肺病で失っていた。そのうちの一人、マーサ・フォワード・ドワイトは一七八二年、二十三歳で死んでいる。そしてさらに二人の娘が病んでおり、うちマーシーという娘は喀血が始まっていた。

牧師は手紙にこう書いた。「今朝(七月二十一日)、六年近く前に死んだ、三人の娘のうち最後の娘の墓を開けた。……遺体を開いてみると、肺は溶けておらず、血が入っていた。ただし新鮮ではなく凝固していた。肺は死んだばかりの遺体で想像されるようなものではなかったが、予想されるよりはるかに健全に近い状態だった。肝臓も肺と同じく健全だったと聞かされた。

我々は肺と肝臓を別の箱に入れ、同じ墓の、棺の十インチから一フィートほど上に埋めた」。

娘のマーシーは一七八九年一月に死んだ。

イェール卒の牧師が、自分の娘の墓を開け、肺と肝臓を取り出して別の箱に埋め直す。これを「辺境の無知」で片づけるのは無理だ。

余談だが、二〇二三年にボストン・グローブ誌の取材でマイケル・ベルがこの現場に立ったとき、フォワード家の区画には二百三十五年前に苗木だったかもしれない巨大な白樫が枝を広げていて、その下に、傾いて地衣類に覆われたマーサ・ドワイトの墓石があったという。

ジューエットシティの吸血鬼たち

コネチカット州の話に移る。ここが後半の主役になる土地だ。

グリズウォルド町の一部にジューエットシティという地区がある。ここに、レイという大きな農家があった。

一八四五年、レイ家の息子リミュエル・レイが二十四歳で肺病により死んだ。数年後に父が死に、一八五三年には兄弟のイライシャ・レイが二十六歳で死んだ。そして一八五四年、もう一人の息子ヘンリー・ネルソンが同じ病に倒れた。九年間で一家の男が次々に消えていったことになる。

家族は決断した。地元紙ノリッチ・クーリエが一八五四年に報じたところによれば、「死者は生者を食うものと考えられていた」ため、そして「墓の中の遺体が全部または一部でも腐らずに残っている限り、生き残った家族はその遺体が食う糧を供給し続けなければならない」ため、一家と友人たちは墓地へ向かい、リミュエルとイライシャの遺体を掘り出して、その場で焼いた。

この記事を書いた小さな地元紙の記者は、こう嘆いている。十九世紀に、しかも自らを啓蒙的と称する州において、こんな無知と盲信が生きているとは。

レイ家の墓はジューエットシティ墓地の、アンソニー通りの突き当たりにある。同じ姓を刻んだ墓石が一列に並び、そこが焚き火の現場でもあった。ヘンリー・ネルソン・レイの墓石は一族の区画にはなく、墓地の反対側に一八五四年の没年で立っている。つまり吸血鬼退治は、彼を救えなかった可能性が高い。

このジューエットシティの一件が、三十六年後に、まったく別の場所で決定的な意味を持つことになる。

一九九〇年十一月、砂利山から転がり落ちてきたもの

一九九〇年秋、グリズウォルドの丘の斜面にある砂利採取場で、子供たちが遊んでいた。斜面を滑り降りるのが面白かったのだ。ある回の滑走で、二つの頭蓋骨が斜面から外れ、子供たちと一緒に転がり落ちた。

一人が家に走って帰り、母親に話した。母親は最初信じなかった。息子が頭蓋骨を持ってくるまでは。

警察が来た。当時コネチカット州では連続殺人犯マイケル・ロスの事件が記憶に新しく、警察は最初これを彼の犯行かもしれないと考え、現場を犯罪現場としてテープで封鎖した。だが茶色く崩れかけた骨は、百年以上前のものだった。

呼ばれたのがコネチカット州考古学官のニコラス・ベラントーニ、通称ニック・ベラントーニだ。コネチカット大学の人類学者でもある。彼の判断は早かった。これは植民地時代の農家の家族墓地だ。ニューイングランドにはこの種の無標の一族墓地が無数にある。土地の権利証書を辿ると、一六九〇年にグリズウォルドへ移住してきたウォルトン家が、一七五〇年代からこの丘を一族の墓所として使っていたことが分かった。

問題は、砂と砂利の丘が不安定で現地保存ができないことだった。全部の墓を発掘して取り上げるしかない。作業は一年がかりになった。掘り出された墓は二十七基、人骨にして二十九体分。うち十五体が未成年、六体が成人男性、八体が成人女性だった。

副葬品はほとんどない。装身具もなく、着衣らしきものも乏しい。質素な木の棺に、腕を体側に置くか胸の上で組んだ姿勢。倹約家のヤンキー流の、ごく典型的な十八世紀から十九世紀初頭の埋葬だった。骨に残る病変は、重労働の人生を物語っていた。変形性関節症。年配の女性の一人には、治癒しなかった大腿骨頸部の骨折があった。

ただし一基だけ、最初から違っていた。

埋葬番号四。

埋葬番号四

ベラントーニは発掘前からこの墓に注目していた。二十七基のうち石を積んで内壁を作った石室墓は二基しかなく、そのうちの一つがこれで、しかも砂利採取の断面から一部が露出していた。

平鍬で土を落とし、それから刷毛と竹べらに切り替え、数フィートの土をかき分けて石室の天井に到達した。屋根を構成する大きな平たい石を、ベラントーニは一枚ずつ持ち上げていった。

最初の一枚を外したとき、赤く塗られた棺の残骸と、骨だけになった一対の足が現れた。彼の記憶によれば、それは「完璧な解剖学的位置」にあった。つまり足は正しい場所にあった。

次の一枚を持ち上げたとき、視界に入ったものが違った。その人物の残りの部分は「完全に……並べ替えられていた」。

頭蓋は胴から切り離されていた。そしてその頭蓋と、両方の大腿骨が、肋骨と椎骨の上に置かれていた。大腿骨は頭蓋の真下でエックス字に交差していた。

「髑髏と交差骨のマークに見えた。海賊旗だ。あんなものは見たことがなかった」。ベラントーニはのちにそう語っている。

肋骨と椎骨は散乱していた。棺の一部は叩き壊されていた。棺の蓋には、真鍮の鋲を打ち込んで「JB55」という文字が作られていた。金具は木ねじと銅のダボ蝶番で、これは十九世紀初頭の棺の仕様だった。

そして骨には、もうひとつ重大な情報があった。骨折の痕である。分析の結果、斬首と肋骨の骨折は、死後およそ五年経ってから加えられたものだと判明した。生前の暴力でも、埋葬時の事故でもない。誰かが、五年後に墓を開けて、それをやったのだ。

ベラントーニは他の骨は再埋葬用に梱包したが、この一体だけはワシントンの国立健康医学博物館へ送った。そしてネットワークを使いはじめた。発掘現場に考古学者と歴史家を招き、仮説を募った。単なる破壊行為とは考えにくい。盗掘でもない。副葬品らしい金目のものが最初からないからだ。

そのとき、同僚の一人がこう言った。「ジューエットシティの吸血鬼の話、知ってるか?」

一九九四年の論文と、ベラントーニの証言

ベラントーニは、当時この分野を十年近く追いかけていたロードアイランドの民俗学者マイケル・ベルに電話をかけた。この一本の電話が、考古学と民俗学をつないだ。

グリズウォルドはロードアイランド州南部と州境を接する農村地帯で、ベルが調べていた事例群と地理も年代もぴったり重なった。しかもベルの資料には、掘り出され、乱暴に手を加えられ、埋め直された遺体の話が山ほどあった。その文脈に置いた瞬間、死後の肋骨骨折の意味が見えてくる。JB55を告発した人々は、心臓を取り出して焼くために、彼の胸腔をかき回したのだ。

国立健康医学博物館の法医人類学者ポール・スレジックが骨格を分析した。年齢は五十歳から五十五歳。肋骨の胸膜側の表面に、増殖性の病変があった。これは慢性の肺感染症、とりわけ結核に特徴的な所見だ。ウォルトン墓地の他の遺体には、結核の痕跡は見つからなかった。

スレジックとベラントーニは、一九九四年、アメリカ自然人類学誌の第九十四巻に「ニューイングランドの吸血鬼民間信仰に関する生物考古学的および生物文化的証拠」という短報を発表した。彼らの結論はこうだ。ある成人男性が結核、あるいは家族に結核と解釈された肺感染症で死んだ。数年後、家族の誰かが結核にかかった。彼らはそれをJBが死から戻って自分たちを「食っている」せいだと考えた。

病の進行を止めるため、心臓を焼こうとして墓を開けた。ところが開けてみると、心臓はすでに腐って消えていた。焼くべき心臓がなかったため、彼らは胸の骨をかき乱し、頭蓋と大腿骨を髑髏と交差骨の形に並べた。

論文はこの仮説の根拠として、斬首がヨーロッパにおける吸血鬼処理の一般的手法であったこと、ケルト人や新石器時代のエジプト人が死者の害を防ぐために頭を胴から分離していたことを、ポール・バーバーの一九八八年の古典『吸血鬼、埋葬、そして死――民俗と現実』を引きながら挙げている。

ベラントーニがのちに語った言葉が、この記事全体を貫く核心だと思う。彼はこう言った。「これは恐怖から、そして愛から行われていたことだ。家族の中で人が死んでいくのに、止める手段がまったくなかった。ひょっとしたらこれで死が止まるかもしれない、というだけだった。彼らはこんなことをやりたくなかった。だが、まだ生きている者を守りたかった」。

別のインタビューでは、彼はもっと即物的に言っている。「これは公衆衛生の問題だった。肺病は十九世紀ニューイングランドで流行病だった。彼らは細菌説を知らなかったし、どうやって病気が広がるのかを理解していなかった」。

Y染色体が名前を吐いた日

JB55の身元は、その後四半世紀以上ずっと分からなかった。

一九九〇年代初頭に、大腿骨から採取した試料が米軍のDNA鑑定研究所へ送られている。だが当時の技術で歴史試料から取れるのはミトコンドリアDNAの制御領域の配列くらいで、これは母系の系統マーカーにしかならない。比較対象となる母系の親族が分かっていない以上、身元特定はできなかった。

二〇一九年、状況が変わった。

八月二十二日、学術誌ジーンズ第十巻に「グリズウォルド、コネチカットに埋葬された十九世紀の吸血鬼JB55の推定身元をDNA検査が明らかにする」という論文が載った。筆頭著者はジェニファー・ダニエルズヒギンボサム。共著者にはブライアン・スパトラ、フランクリン・ダマン、そしてニコラス・ベラントーニ本人の名前が並んでいる。

やり方はこうだ。まず祖先情報を持つ一塩基多型のパネルで解析し、ヨーロッパ系であることを確認した。これは骨から得た人類学的所見と一致し、DNAが汚染ではなく本物であることの裏づけにもなった。次にY染色体の短鎖縦列反復の完全なプロファイルを取得した。ハプログループはR1b、さらに絞ってR1b-P312。西ヨーロッパで最も一般的な系統だ。

ここからが面白い。研究チームは、この反復配列のプロファイルを、誰でもアクセスできる系譜学サイトのR1bプロジェクトのデータベースに投げ込んだ。棺の鋲が「JB」と読める以上、姓は「ビー」で始まるはずだという当たりをつけていた。

該当したのは二人だけだった。ある一座位で反復数が一つ違う(JB55は十二回、二人は十一回)だけの、ほぼ同一のプロファイル。そしてその二人の姓は、どちらも「バーバー」だった。

次は歴史資料の番だ。チームは、公共事業促進局の時代に編纂されたコネチカット州の膨大な生命記録集成――一六二九年から一九三四年をカバーするチャールズ・ヘイル墓碑銘・新聞告知集成――を検索した。そこに、一八二六年にグリズウォルドで十二歳で死んだネイサン・バーバーという少年の死亡告知があった。父の名はジョン・バーバー。

そして、あの墓地でJB55のすぐ近くから出た未成年の棺の蓋には、同じ真鍮鋲の技法で「NB13」と打ってあったのだ。

つまり、JB55はジョン・バーバー。おそらくは貧しい農夫。五十五歳で肺結核により死んだ。論文の共著者チャーラ・マーシャルはこう述べている。「この事件は一九九〇年代からずっと謎だった。技術的な能力が拡張された今、彼が誰だったのかという謎を解けるかどうか、JB55をもう一度調べたかった」。

ちなみに研究チームは、この事例が歴史上の有名人のDNA鑑定――イングランド王リチャード三世やロマノフ家など――とは根本的に手法が違うことを強調している。あちらは「この人だろう」という推定身元が先にあって、生存する親族のDNAと照合する。JB55にはイニシャルと死亡年齢と時代と場所しかなかった。推定身元のない歴史的遺体をDNAだけで特定した研究として、これは著者らの知る限り最初の例である。

顔が戻ってきた

二〇二二年秋、続きがあった。

パラボン・ナノラボズという民間企業と米軍のDNA鑑定研究所の共同チームが、十月三十一日から十一月三日にワシントンで開かれた国際ヒト個人識別シンポジウムで、新しい成果を発表した。

技術的には、彼らは三つの手法を比較している。ショットガンシーケンス、ヒトゲノム全体を標的にする手法、そして約八十五万か所の一塩基多型を狙い撃ちする手法だ。後ろの二つが同程度で、ショットガンを大きく上回った。費用対効果で全ゲノム標的化が選ばれた。

それでも壁は高かった。標準的なゲノム解析ではゲノムの各断片を三十回読む(三十倍カバレッジ)のが業界標準だが、この骨から得られたのは一回あたり約二・五倍。パラボンのバイオインフォマティクス責任者エレン・グレイタックの説明は、率直で分かりやすい。「この技術は骨、とくに歴史的な骨とは相性が悪いんです。骨は古くなると分解して断片化していく。

それに何百年も土の中にあった遺体だと、周囲の環境由来のDNA――バクテリアや菌類のもの――も試料に混ざり込んでしまう。それでも、難しい歴史試料からDNAを取り出せることを示したかった」。

彼らは低カバレッジ補完という手法を使った。何千ものすでに解読済みのゲノムの情報を統計的に利用して、各多型部位で最も可能性の高い遺伝子型を推定する。こうして一本の使えるプロファイルを組み立て、系譜学、血縁推定、祖先解析、外見形質予測のすべてに使った。

予測された外見はこうだ。非常に色白ないし色白(確度九十二・二パーセント)。茶色ないしハシバミ色の目(九十九・八パーセント)。茶色ないし黒の髪(九十七・七パーセント)。そばかすが少しある(五十パーセント)。

これに頭蓋の三次元スキャンを組み合わせ、国際鑑識協会認定の法医アーティスト、トム・ショウが顔を復元した。歯の喪失や推定される健康状態も反映され、髪型は十九世紀の様式から選ばれている。生まれてきたのは、白髪混じりのもみあげと、疲れた目をした中年男の顔だった。

そしてもうひとつ、系譜の細部が更新された。近くに埋葬されていたNB13のDNAも解析されたのだ。試料の質はさらに悪く、カバレッジは〇・六八倍しかなかったが、血縁解析の結果、JB55とNB13は三親等――つまり従兄弟同士――だと判明した。長らく「息子」だと考えられていた関係が、いとこに書き換えられたのである。

両者のデータはジェドマッチという系譜データベースにアップロードされ、七十五センチモルガン以上を共有する四件のキットが見つかった。そのうち二件の家系図を遡ると、十八世紀後半から十九世紀初頭のニューイングランドに住んでいたバーバー姓の祖先に行き着いた。姓の予測は、別ルートからも裏づけられたことになる。

砂利山から転がり落ちた頭蓋骨が、名前と顔を取り戻すまでに、三十二年かかった。

敵の正体――結核という病気

ここまで来たら、この物語の真犯人をきちんと説明しないとフェアではない。

十九世紀のアメリカで、結核は圧倒的な死因だった。一八〇〇年の時点で、アメリカ東部では二百五十人に一人が毎年肺結核で死んでおり、全死因のおよそ二十五パーセントを占めていた。四人に一人だ。ロベルト・コッホは一八八二年の講演で、統計上は全人類の七分の一が結核で死んでおり、働き盛りの年齢層に限れば三分の一かそれ以上が結核に持っていかれると述べている。

十九世紀末には、ヨーロッパと北米の都市人口の七割から九割が結核菌に感染しており、発症した者の約八割が死んだ。二十世紀の変わり目のアメリカでは、一日に四百五十人が結核で死んでいたと推定される。しかもその大半が十五歳から四十四歳、つまり一家の稼ぎ手であり、母であり、若い恋人であり、これから人生が始まる年代だった。

当時の呼び名は「消耗病(コンサンプション)」だった。人間を文字どおり消費し尽くす病気だから、この名前がついた。ギリシャ語由来の医学用語では「フシシス」。詩人たちが好んだ呼び名は「白い疫病」。

症状の描写を、十八世紀のある医学書から引く。「痩せさらばえた姿は人に恐怖を与える。額は汗の粒に覆われ、頬は生々しい深紅に塗られ、目は落ち窪み……息は不快で、速く、苦しげであり、咳は絶え間なく、哀れな患者が自分の苦しみを訴える時間さえ与えない」。

ここに、この記事の核心がある。

結核の症状は、そのまま「何かに血を吸われている人間」の症状なのだ。青白く血の気のない皮膚。黄疸。充血して腫れた目。咳とともに口の周りに出る血。日ごとに削れていく体。夜間に悪化する発熱と大量の寝汗。そして胸を押さえつけられるような息苦しさは、当時の患者がしばしば「誰かが胸の上に座っている」と表現した感覚そのものだった。

ティリングハスト家の子供たちが「サラが体の上に座る」と訴えたのは、比喩ではなく、症状の一人称的な記述だったのかもしれない。

そして家族内で連鎖する。結核菌は咳やくしゃみで飛散する飛沫核によって空気感染する。すきま風の入る小さな農家で、同じ部屋に寝て、同じ食器を使い、病人を家族が交代で看病していれば、感染はほぼ確実に広がる。しかも結核は潜伏する。感染してから発症までに何年もかかることがある。だから母が死んだ十年後に、当時十一歳だった娘が突然崩れ落ちる。マーシー・ブラウンに起きたのは、まさにこれだ。

十九世紀の人々は、細菌も飛沫核も知らない。彼らが観察できたのは、こういう事実だけだった。ある家で一人死ぬと、次に別の一人が同じ症状で衰えはじめる。その次も、その次も。順番に、外側からは何も見えない力で、生気が抜かれていく。しかも先に死んだ者が、あとから病む者の夢に出てくる。

その観察から「先に死んだ者が生者の生命力を吸っている」という結論に至るのは、実は論理としてかなり筋が通っている。マイケル・ベルの言い方が好きだ。「私は、過去の世代の人々は我々と同じくらい知的だったという前提から出発する。私は論理を探す。なぜ彼らはこれをやったのか?何かを『ただの迷信』と名づけた瞬間、合理的だったかもしれないものへの探究の道はすべて閉ざされる。

合理的であることは、必ずしも理性的であることを意味しない」。

一八八二年三月二十四日、ベルリン

真犯人が特定された日付は、はっきりしている。

一八八二年三月二十四日の夜、ベルリン生理学会の月例会で、三十九歳のロベルト・コッホが登壇した。彼は決して雄弁な講演者ではなく、細い声で、「えー」「あのー」を連発する癖があった。だがこの夜の彼は明晰だった。半年間、同僚にも告げずに研究室に籠もって、結核の原因となる細菌――結核菌――を分離し、培養する方法を確立していたのだ。

会場にいた医師たちは打ちのめされた。科学史の証人になっていることを自覚した聴衆は、拍手すらできず、同業者の発表を攻撃するという学会の伝統的な作法にも入れなかった。その場にいた二十八歳の皮膚科医パウル・エールリヒは、のちにその晩を「私の科学人生で最も心を掴まれた経験」と回想している。彼は講演が終わるやいなや自宅に駆け戻り、一晩かけて結核菌の新しい染色法を開発した。

十七日後の四月十日、講演は『ベルリン臨床週報』に「結核の病因論」として掲載された。イギリスのタイムズ紙が四月二十二日に訳出し、ニューヨーク・タイムズ紙が五月三日に報じた。数週間のうちに「コッホ」は文字どおり世界中の家庭で知られる名前になった。

つまり、マーシー・ブラウンが掘り返された一八九二年三月十七日の時点で、結核が細菌によって起きる感染症であることは、すでに十年前から世界の常識だったことになる。

だが、この知識はエクセターには届いていなかった。少なくとも、届いていても何の役にも立たなかった。理由は単純で、原因が分かっても治療法がなかったからだ。抗結核薬が使えるようになるのは一九四〇年代である。あいだの六十年間、医学が提供できたのは隔離と休養と新鮮な空気だけだった。

エドワード・リヴィングストン・トゥルードーが一八八五年二月にニューヨーク州サラナックレイクに開いたアディロンダック・コテージ・サナトリウムが、アメリカ最初の結核療養所だ。エドウィン・ブラウンがコロラドスプリングスへ送られたのも、この療養思想の延長線上にある。

一八九二年、つまりレナが死んだ年、ある医師は結核の原因を「泥酔と、貧者のあいだの困窮」に求めていた。当時の処方には、水に溶かした黒砂糖を飲むこと、頻繁な乗馬などが含まれていた。ベルの表現を借りれば、「正直に言えば、当時の医学界はこう言うべきだった。『我々にできることは何もありません、あとは神の手の中です』」。

医学が空席なら、その席には別の何かが座る。

遺体はなぜ「生きて」見えたのか

もうひとつ、科学的に潰しておくべきことがある。掘り返された遺体が示した「不自然な徴候」の正体だ。

一九八八年にポール・バーバーがイェール大学出版局から出した『吸血鬼、埋葬、そして死』は、この問題を体系的に整理した本として今も参照され続けている。彼が示したのは、ヨーロッパの吸血鬼伝承に出てくる特徴が、ほぼ例外なく通常の死後変化で説明できる、ということだった。

腹部の膨張は、腸内細菌が出すガスによる。膨れた体は「血を飲んで太った」ように見える。そのガス圧が口や鼻から血の混じった液体を押し出すと、「口の周りの血」になる。皮膚が乾燥して収縮すると、爪と髪の根元が露出して、伸びたように見える。表皮が剥離すると、その下から新しく健康そうなピンク色の皮膚が現れる。これが「生気のある顔色」だ。埋葬された遺体が寒冷な条件下にあれば、腐敗はきわめて遅くなる。

そして心臓や大血管の中の血液は、条件によっては凝固せずに液状のままか、あるいは死後凝固したものが再び液化する。

これらのすべてが、レナ・ブラウンの棺の中で起きていた。彼女は真冬に死に、凍った地面のせいで埋葬できず、石造りの半地下納骨堂に二か月置かれていた。冷蔵庫と同じ条件だ。腐っていないほうがおかしい。

ドク・メトカーフが墓地でその場で説明したのは、まさにこれである。そして彼の説明は完全に正しかった。それでも人々は火を焚いた。

ヨーロッパの土から出てくる同じ恐怖

ニューイングランドの逸脱埋葬は、突然変異ではない。同じ発想の産物が、ヨーロッパの土からも大量に出てくる。

イタリア、ヴェネツィア。ヌオーヴォ・ラッザレット島には、十六世紀と十七世紀のペスト死者を埋めた集団墓地がある。二〇〇六年から二〇〇七年にかけて発掘調査が行われ、混ざり合った大量の骨のなかから、ひとつだけ異様な埋葬が出た。整理番号六番。頭蓋の形態と上腕骨頭の寸法から成人女性と判定された。仰向けで、腕は体軸に沿って伸ばされ、関節の解剖学的位置は保たれている。

その口腔内に、それなりの大きさのレンガが押し込まれていた。下顎骨は顎関節に嵌まったまま大きく開かされていた。

法医人類学者マッテオ・ボリーニと法歯学者エミリオ・ヌッツォレーゼは、二〇一〇年に法科学誌ジャーナル・オブ・フォレンジック・サイエンシズにこの分析を発表した。彼らの結論は、レンガが偶然そこに落ち込んだ可能性は排除できる、というものだった。埋葬土に含まれる「実質のある物体」は過去の埋葬に由来する骨片だけであり、レンガの供給源がない。

骨の関節が離断していないことから、レンガが入れられた時点で遺体はまだ完全にはバラバラになっていなかった。

彼らの復元した筋書きはこうだ。新しいペスト死者のために穴を掘っていた墓掘り人が、先に埋まっていた彼女の遺体を掘り当ててしまった。屍衣に包まれた遺体には、口の位置に穴が開いていた。遺体は思ったより崩れていなかった。彼らはそこに、屍衣を噛んで疫病を広げるとされる存在――ドイツ語圏でナッハツェーラーと呼ばれる「屍衣喰い」の類――を見た。だから彼らは口にレンガを詰めた。感染の危険を冒してまで、である。

ポーランドではもっと組織的な例が出ている。ドラフスコ第一墓地。十七世紀から十八世紀の墓地で、二〇〇八年から二〇一二年にかけて約二百八十五体、最終的には三百三十体以上が発掘された。そのうち六体が「逸脱埋葬」に分類された。内訳は成人男性一名、思春期後期の女性一名、成人女性三名、性別不明の未成年一名。年齢も性別もばらばらである。

六体のうち五体には、鎌が置かれていた。喉の上か、腹の上に、正確に。死者が起き上がろうとしたら、その動きで首が落ちるか腹が裂けるように、という理屈である。さらに二体には、顎の下に大きな石が押し込まれていた。口を開けられないようにして、他人を噛むこと、あるいは屍衣を噛むことを防ぐためだと考えられている。

興味深いのは、これらの墓が墓地の隅に隔離されていなかったことだ。ごく普通の埋葬に混じって、同じ区画に並んでいた。共同体から追放されたのではなく、共同体の一員のまま「念のため」の措置を施されている。

二〇一四年十一月、プロス・ワン誌に発表された研究は、この六人が「よそ者」だったという仮説を検証した。歯のエナメル質のストロンチウム同位体比を六十人分測定し、地元の自然環境の値と比較したのだ。エナメル質は幼少期に形成されるので、どこで育ったかが分かる。結果、逸脱埋葬の五人は全員が地元の値を示した。彼らはよそ者ではなかった。地元で生まれ育った人間が、何か別の理由で疑われたのだ。

研究チームが示した代替仮説は、コレラである。十七世紀に東欧を席巻したコレラの流行では、感染症の集団発生で最初に死んだ人間が、死から戻ってくる可能性が最も高いと考えられていた。ただしコレラは急速に人を殺すので骨に痕跡を残さず、この仮説を骨から確かめることはできない。

ヨーロッパの逸脱埋葬にはほかにも型がある。斬首。体を貫く鉄杭。遺体の上に直接置かれた石。ポーランドだけで五十例以上が報告されている。二〇一二年にはブルガリアの黒海沿岸ソゾポルで、胸に鉄杭を打ち込まれた骸骨が発見され、国際的なニュースになった。

こうして並べてみると、ニューイングランドの「心臓を焼く」作法は、この巨大な家族の一員であることがよく分かる。ただしベルが指摘するように、ニューイングランド版は著しく簡略化されている。ヨーロッパの伝承は、誰が吸血鬼になりやすいか、どう身を守るか、そもそも吸血鬼にしないためにどうするか、といった膨大な体系を持つ。ニューイングランドに渡ってきたのは、そのうち「病気を止める手順」の部分だけだった。

移民が持ち込んだ荷物のうち、使う予定のあるものだけが開封された、という感じがする。

誰も「吸血鬼」とは言っていなかった

ここは強調しておきたい。

マイケル・ベルの結論はこうだ。「死体が実際に墓を離れて血を吸ったと記述する信頼できる記録は存在しない。そして、この行為に関わった人々が自らそれを『吸血鬼行為』と呼んだり、疑われた死体を『吸血鬼』と呼んだりしたことを示す証拠はほとんどない。ただし新聞記事はこの語をこの慣習を指すのに用いた」。

スティトソンもまったく同じことを書いている。「ニューイングランドにおいて、吸血鬼の迷信は正式な名前で知られていない」。

つまりこの物語には、二つの層がある。下の層には、農村共同体が代々受け継いできた、消耗病に対する最後の民間療法があった。彼らはそれを「悪しき影響」とか「憑いているもの」と呼び、実行者は自分たちを医療行為の担い手だと考えていた。上の層には、都市の新聞と学者が持ち込んだ「吸血鬼」という語彙があった。センチュリー辞典と、下ドナウ地方のスラヴ民族と、ヨーロッパのゴシック文学が輸入した枠組みだ。

そして、上の層が下の層を飲み込んだ。今日、我々が「ニューイングランド吸血鬼パニック」と呼ぶものは、その飲み込みの結果である。

ブラム・ストーカーの机の上にあった切り抜き

一八九六年二月二日、ニューヨーク・ワールド紙が「ニューイングランドの吸血鬼たち」という記事を掲載した。ジョーゼフ・ピューリツァーが所有していた、当時アメリカで最も影響力のあった新聞のひとつだ。内容は、スティトソンの論文とロードアイランドの事例を扱ったものだった。

この記事の切り抜きが、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』創作ノートの中に残っている。ノートの複製版では、百八十六ページから百九十三ページにあたる。

一八九六年、ストーカーはロンドンのライシーアム劇場でヘンリー・アーヴィングの興行主を務めながら、スコットランドのクルーデンベイで『ドラキュラ』の執筆を続けていた。刊行は翌一八九七年である。

この年代の一致は、長らく「マーシー・ブラウンがルーシー・ウェステンラのモデルだ」という説を支えてきた。確かに符合は多い。十九歳の若い女性。消耗性の病で死ぬ。掘り出され、不自然に保存された状態で見つかる。心臓を破壊される。男性の親族を救うため。しかも『ドラキュラ』では、ルーシーの墓の場面に医師が立ち会う。マーシーの掘り返しにドク・メトカーフが立ち会ったように。

ただし、これは慎重に扱うべきだ。ストーカー研究者が指摘するとおり、ローゼンバック財団が所蔵するストーカーのノートを見ると、彼が『ドラキュラ』の構想を書簡体小説として組み立てはじめたのは一八九〇年三月八日にはすでに始まっていた。一八九〇年八月のウィットビー滞在中のメモは、そのまま第六章と第七章の文章になっている。ヴァンパイア文学研究者のフェイ・リンゲルの言い方が的確だ。

「マーシー・ブラウンが『ドラキュラ』の女吸血鬼たちに影響したのではない。『ドラキュラ』が、そのあとのマーシー・ブラウンの受け取られ方に影響したのだ」。

つまり因果は逆かもしれない。ストーカーが十九世紀末に吸血鬼の決定版イメージを作り、そのイメージが遡及的に、ロードアイランドの農家の娘を「アメリカ最後の吸血鬼」という商品に変えた。

ただし、切り抜きがノートに挟まっていたこと自体は事実だ。少なくとも執筆の最終段階のストーカーが、アメリカの田舎で実際に墓が掘り返されているという報道を読み、それを手元に取っておいた。この事実だけで、私は十分に鳥肌が立つ。

ラヴクラフトの「忌み嫌われる家」

もう一人、この土地の作家がこの事件を作品に取り込んでいる。

ハワード・フィリップス・ラヴクラフトは一九二四年十月十六日から十九日にかけて「忌み嫌われる家」を書いた。舞台はプロヴィデンスのベネフィット通り百三十五番地に実在する、一七六三年ごろ建造の家である。ラヴクラフトの叔母リリアン・クラークが一九一九年から二〇年にかけてこの家に住んでいた。作品はラヴクラフトの生前には出版されず、彼の死の七か月後、一九三七年十月号のウィアード・テイルズ誌に掲載された。

その作中で、召使いのアン・ホワイトという女が、この家の連続する死は吸血鬼のせいだと言い出す。彼女の出身地は、ラヴクラフトの筆によれば「現在エクセター町として分離されたノースキングスタウンの一部」であり、そして地の文はこう続く。

「マーシーは、ヌースネックヒル地方の人間を雇うべきではなかった。あの辺鄙な奥地は、当時も今も、最も居心地の悪い迷信の巣窟なのだ。つい一八九二年には、エクセターのある共同体が、公共の健康と平安を害する何らかの訪問を防ぐために、死体を掘り出し、その心臓を儀式的に焼いた。一七六八年におけるその同じ地域の見方は、推して知るべしである」。

ちなみにヌースネックというのは、ロードアイランド州に実在する村の名前だ。

三十年、墓地を歩いた男

この話が今日ここまで詳細に分かっているのは、一人の民俗学者の執念による部分が大きい。

マイケル・ベルは、インディアナ大学で博士号を取り、アメリカ南部のアフリカ系アメリカ人のヴードゥー実践者――愛の呪いと呪詛をかける人々――を研究していた。一九八〇年、ロードアイランド州の民俗調査を指揮するために同州に来た。一年の予定だった仕事が、一生の仕事になった。

一九八一年、全米人文科学基金の助成でワシントン郡の民俗調査を進めていたとき、インターンの一人がエクセターに面白い人物がいると報告してきた。ルイス・エヴェレット・ペックという農夫だ。インターンはベルにこう言った。「必ず、彼の一族の吸血鬼について訊いてください」。

ベルは一九八一年十一月十八日、エクセターのソドム・トレイルの突き当たりにあるペックの農場を訪ねた。四頭のセントバーナードが小さな車に飛びかかってきたので、彼は窓を細く開けて「降りても大丈夫か」と尋ねねばならなかった。灰色の作業着姿の中年男が犬を檻に入れ、薪ストーブで暖まった居間に彼を通した。

ソファの脇の小さなテーブルには、切り抜きと書類の山が積んであった。ペックはそこから黄ばんだ一枚を引き抜いてベルに渡し、「自分がどこにいるか分かるかね」と尋ねた。地図と写真と文章が載った記事だった。ベルは赤で囲まれた道を見つけて「これがソドム・トレイル?」と訊いた。ペックは写真の説明文を指して「そこに何て書いてある?」と促した。ベルは読み上げた。

「ここから半マイルの、ソドムと呼ばれる場所には、州内で最初に建てられたとされる綿ないし毛織物工場の跡がある。……この集落には二家族しか住んでいない」。記事の日付は一八九六年だった。

ペックは言った。「そうさ、で、俺がその一人だ。一九八一年現在、残ってるのは俺一人だがね」。そして笑った。ベルは、自分が試験に合格したと感じたという。

ペックは山からもう一枚、二年前の地元紙のハロウィーン週の記事を引き出した。見出しは二段組みで、小さい活字が「彼らは彼女の心臓を焼いた……」、その下に大きな太字で「マーシー・ブラウンは吸血鬼だったのか?」。記事の脇には、作業着姿のペックがマーシーの墓石の横に立ち、左のほうを指さしている写真があった。説明文にはこうあった。

「エクセター、ソドム・トレイルのルイス・ペック氏が、チェストナットヒル墓地のマーシー・ブラウンの墓(左)の傍らに立ち、一八九二年に遺体の心臓が焼かれた岩を指さす。ペック氏の祖先が、遺体から吸血鬼と信じられていたものを除去するため、この忌まわしい行為を実行した」。

ペックは磨き抜かれた語り口で話しはじめた。「マーシー・ブラウンは親戚だ。今すぐどうつながるかは言えないが、親戚なのは確かだ。俺の母方の祖母がブラウン家の人間だった。子供のころ、母から聞かされた話だ」。

彼の語る物語は、新聞記録よりずっと強烈だった。彼のバージョンでは、この死者はもっと強力な存在で、ブラウン家を恐怖に陥れ、十二人の男を病気にし、マーシーの遺体は墓の中で寝返りを打っていた。そして子供のころ、大人たちは彼を、心臓が焼かれた岩に近づかせなかった。

現実には、マーシーの「餌食」とされたのは兄エドウィン一人だ。だがこれが口承というものの性質である。事実の骨組みの上に、恐怖と誇りと血縁の記憶が肉づけされていく。

ベルはこの一件から、記録の海に潜り込んだ。町役場の地下室の手書き記録、墓石、古い墓地図、系譜、そして子孫への聞き取り。二〇〇一年に『死者への糧――ニューイングランドの吸血鬼を追って』を出版したとき、彼が確認できた事例は約二十件だった。二〇一二年の時点では約八十件。オンラインデータベースが使えるようになってからはさらに六十五件を追加し、近年の著書では八十から八十五件を論じている。

最古は一七八四年、最新は一八九二年のマーシー・ブラウンだ。地理的には、ミネソタ州まで西に広がっている。

そして彼は、記録に残ったものは氷山の一角にすぎないと考えている。「掘り返しを描いた記事を読むと、その中で近くの町で似たようなことがあった、と書いてある。記録され、私がたまたま見つけたものは、氷山の一角だ」。

もうひとつ、ベルの近年の指摘で重要なものがある。この儀式は、後ろ暗い禁忌などではなかった、という点だ。「証拠が示しているのは、十八世紀後半から十九世紀を通じてニューイングランドで、消耗病を止めるための儀式は実際に知られ、受け入れられ、是認さえされ、時には共同体全体によって、町の当局によって、医師によって、そして聖職者によってすら実行されていた、ということです」。

カンバーランドの町議会の議事録も、ベルチャータウンの牧師の手紙も、マンチェスターの千人の観衆も、その裏づけである。

世論、医師、牧師、そして反証

同時代の反応は一枚岩ではなかった。

都市の新聞は、ほぼ一貫して軽蔑的だった。プロヴィデンス・ジャーナルの社説は前述のとおりだ。一八五四年のジューエットシティの一件でも、コネチカットの小さな地元紙がすでに嘆いている。他の新聞は「古い迷信」「奇妙な考え」と呼んだ。ロードアイランドの農村部の住民がコネチカットへ移住すると、現地の人々は彼らを「無教育」で「粗暴」だと見なしたが、その理由のひとつが吸血鬼信仰だった。

一八〇一年のグリズウォルドの郷土史には、それより前の二十五年間で「消耗病が多くの者にとって致命的であった」と記されており、一九二九年に編まれた同町の歴史書は、グリズウォルドが一八一二年直後に、西部ロードアイランドからの移住者によって部分的に開拓されたこと、そして地元の伝承では彼らが「無教育で粗暴」だったことを記録している。

医師の反応も割れていた。ドク・メトカーフのように現場に立ち会い、正しい医学的説明をしたうえで、それでも儀式を止められなかった者がいる。一方、スティトソンが取材した男は、医者たちがこの療法の効能を信じていなかったことを覚えていたが、自分は信じていた、と述べている。彼の父親は兄弟の遺体を見て、その心臓に動脈血があったと証言した。

はっきりと制度側から記録された反証もある。一八四〇年、ボストン医学外科雑誌第二十一巻に、ニューハンプシャー州ニューイプスウィッチのジョン・クラフ医師がこう書いている。「これらの迷信に関連して、当地(ニューイプスウィッチ)で三十年と経たぬうちに起きたある出来事に触れないわけにはいかない。おそらく同様の出来事はニューイングランドの多くの町で起きていただろう。

それは、一家全員が肺病に強い素因を持つ家族の遺体を掘り起こし、心臓を取り出して焼くというもので、その灰は、なお生存していて同じ病に苦しむ可能性のある家族にとって、絶対的な治療薬と見なされていた。これは、古代において人々の心を魔術的に支配していた性格の要素が、比較的啓蒙された我々の時代においても、共同体に影響を及ぼすことを完全にはやめていない、という事実を示すにすぎない」。

一八七三年には、マサチューセッツ州衛生局の第四次年次報告書に、ルーシー・エイベル医師の報告が載っている。彼女は五人から九人の子供がほぼ全員肺病で死んだ家族を複数知っていると述べ、そのうち一家では「死者の心臓等を焼き、その灰を生き残った者が飲み込むという、迷信のおぞましい遺物」に頼ったが、効果はなかったと書いた。

聖職者の反応も一様ではない。ベルチャータウンのフォワード牧師のように自ら墓を開けた者もいれば、ティリングハスト家の牧師のように「これは呪いではない、すべては神の時に過ぎ去る」と説得を試みて失敗した者もいる。エクセターのエルダー・エドウィン・ウッドは、おそらくジョージ・ブラウンに思いとどまるよう助言していた。ヘンリー・デイヴィッド・ソローは一八五九年九月末の日記にこう書いた。

「人間の中の野蛮は決して完全には根絶されない。バーモントのある家族の話を今読んだ――家族の何人かが肺病で死んだあと、これ以上誰も罹らないようにするために、最後に死んだ者の肺と心臓と肝臓をただ焼いたという」。この記述には別の重みがある。ソロー自身がこのとき、自分が結核であることを知っていた。彼は三年後、この病気で死んだ。

なぜ、近代のアメリカでこれが生き延びたのか

最後に、この記事でいちばん考えたかったことを書く。

セイラムの魔女裁判は一六九二年だ。マーシー・ブラウンの掘り返しは、そのちょうど二百年後の一八九二年である。魔女狩りより二世紀も新しい。しかも場所は、電信も鉄道も新聞も届く、独立から百年以上経った共和国だ。なぜこれが可能だったのか。

理由はいくつも重なっている。

第一に、宗教地理の問題がある。ベルが徹底的に調べた結果、ニューイングランドで確認された二十件以上の事例は、すべてマサチューセッツとそれに接するコネチカットのピューリタン中心地の外側で起きている。分離派、寛容派、あるいは宗派不明の「周縁」地域だ。しかも植民地時代から建国初期にかけて、ニューイングランドの白人人口の八十五から九十パーセントは、どの教会にも所属していなかった。

彼らは無宗教だったわけではなく、キリスト教信仰と民間実践を非公式に混ぜ合わせた、雑種の信仰を生きていた。錬金術、占星術、占い、透視石、ダウジング。ピューリタンが悪魔的とみなしたものが、この土地では聖書や説教師と並んで、何の矛盾もなく参照されていた。これがモルモン教やオナイダ共同体を生んだ、ニューヨーク州中部の「焼き尽くされた地区」につながる文化的土壌である。

第二に、医学の空白だ。原因が分からず、治療法がなく、しかも確実に殺す病気が、二十五パーセントの死因を占めていた。医学が「打つ手なし」と言うなら、人はそれ以外のどこかへ行く。ベルの言葉を借りれば、「人は正規のルートでは何の手立てもない、切迫した状況に置かれる。民間の体系は、代替案を、選択肢を提供する」。時には迷信だけが唯一の希望なのだ、と彼は言う。

第三に、これは「隠れた異端」ではなく「公認の医療」だったという点。町議会が許可を出し、医師が立ち会い、牧師が黙認し、千人が見物に来る行為は、社会的に承認された儀礼である。承認されているものは、承認が撤回されるまで続く。

第四に、地理と経済だ。エクセターやグリズウォルドのような土地は、産業革命と都市化から取り残されていた。若者は西へ出て行き、農場は放棄され、残った人々は互いの家から遠い場所で暮らしていた。スティトソンが「農業の不況は頭脳の不況である」という当時の言い回しを引いたのは意地悪だが、社会的孤立が古い知識体系を保存する温室になるという指摘自体は間違っていない。

そして第五に――これがいちばん大事だと思うが――この儀式には、医学が提供できない機能があった。人類学者セルゲイ・カンの葬制研究を援用したベルの解釈が鋭い。ニューイングランドで行われていたのは、一種の「二次埋葬」あるいは「二重葬」だったのではないか、と彼は言う。

どの遺体が「まだ完全に朽ちていない」か、つまりどの死者が「新しい存在にまだ定着していない」かを特定し、その心臓を焼くことで、死者と生者の不自然な関係を終わらせる。それは実務的には喪の作業を完了させることであり、生者が「あの世の事柄」から解放されて、もっと日常的な関心事へ戻ることを可能にする。

つまりこの儀式は、病気を治すためのものであると同時に、遺された者が「もう自分にできることはすべてやった」と言えるようにするための装置でもあった。

ジョージ・ブラウンが最終的に許可を出した理由は、たぶんそこにある。彼はこれが効くと信じてはいなかった。だが、やらなかった場合に息子が死んだら、彼は残りの人生でずっと「やっていれば」と思い続けなければならない。彼は九年で妻と娘二人を埋めていた。そのあとも三人の娘を埋めることになる。彼が持っていた選択肢は、すべて残酷だった。

岩の上の火は、無知ではなく愛が焚いたものだった

チェストナットヒル墓地は今もエクセターにある。マーシー・レナ・ブラウンの墓石には、今も観光客が物を置いていく。プラスチックの牙。安物のアクセサリー。造花。石で押さえて開いたままにした聖書。ロードアイランド出身のホラー作家クリスタ・カーメンのように、自主的に墓の掃除に通い、煙草の吸い殻を拾い、ダリアの花瓶と小さなカボチャを置いていく人もいる。彼女はこう言う。

この話で見失われているのは、家族に取り憑いた病気に怯えていたであろう十九歳の少女なのだ、と。「母と姉が死んでから、彼女は農場の家事を全部やって、三人の弟妹の面倒を見ていた。その八年間、いつ自分に来るか分からない病気を抱えて生きるのがどんなものだったか、考えてみてほしい」。

ニック・ベラントーニが掘り出した男は、ジョン・バーバー。おそらく貧しい農夫。五十五歳で結核により死んだ。彼の骨は五年後に掘り返され、頭を外され、大腿骨を胸の上でエックス字に組まれた。それをやったのは、彼を憎んでいた誰かではない。彼の家族だ。心臓が残っていれば焼いていた。残っていなかったから、彼らは骨を並べ替えた。彼らにできる最善のことをした。

一九九〇年の秋、砂利の斜面を滑り降りた子供たちがいなければ、この物語に物的証拠は永久に存在しなかった。ベルが記録した八十件以上の事例のうち、地面から実際に出てきたのは、今のところこの一件だけである。ほかの墓は時間に食われた。残っていたとしても、興味本位の掘り返しは地元では嫌われるし、それは正しい。

この話の教訓めいたものを書くのは難しい。だが少なくとも、ひとつだけ言えることがある。

十九世紀のエクセターやグリズウォルドの人々を「無知な田舎者」と笑うのは簡単だ。だが彼らが持っていた情報で組み立てられる仮説として、「先に死んだ家族が、あとの家族の生気を奪っている」というのは、驚くほど筋が通っていた。彼らは観察し、推論し、介入した。手順もあった。検証もした――心臓に血があるかどうかで、犯人を絞り込んだのだから。彼らに欠けていたのは知性ではなく、顕微鏡だった。

そして彼らの動機は、恐怖と、それより強い愛だった。ベラントーニの言葉をもう一度引く。「彼らはこんなことをやりたくなかった。だが、まだ生きている者を守りたかった」。

墓を掘る朝は寒い。土は凍っている。掘っているのは、自分の妻の墓だ。娘の墓だ。それを掘らせているのは、家の中で死にかけている息子だ。

その場に立ったことがない人間に、あの火を笑う資格があるかどうか、私にはよく分からない。

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