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御祓に化けた丁稚と、柄杓一本で伊勢へ抜けた四百万人――お蔭参りの数字はどこから来て、無断の旅はなぜ許されたのか

大坂の辻に、六十年前の道しるべが立っていた

文政13年(1830年)の春、大坂の安堂寺町筋は、東から西まで抜け参りの人で埋まっていた。往来もむずかしいほどだ。

書き留めたのは、大坂に住む町人らしい書き手。文化3年から弘化3年までの見聞をつづった『浮世の有様』に、その日の辻の様子があり、評判が高いので見に行った、と書き手は記す。

堺筋の角に、古びた木が立っていた。明和8年4月と記した、六十年前の道しるべの木だ。物好きが囲って取っておいたのだろう、と書き手は見ている。その脇に、この年の分として紙を張った新しい道しるべが据えてあり、奈良と伊勢の文字が読めた。

町ごとに、銭を三文、五文とつないで配る家があり、豆や茶、煙草、昆布を施す家もある。下駄ばきのまま、旅支度もなく、施行でもらった紙袋を提げて浮かれ行く女がいた。

四十ばかりの女は、幼子を懐に入れ、三つほどの子を背負い、七つほどの子の帯に紐をつけて自分の帯に結んでいた。書き手は危ないと思いつつ、浮かれ歩く様子におもしろさも覚えたらしい。

止めはしない、断ってから出ろ

触れも回っていた。総年寄から町年寄へ申し渡された文面を、同じ書が写している。

要旨はこうだ。抜参りと称して、主人や親や夫に断らず家を出る者がいる。幼い子や老人を残して出る家まであるという。信心の参詣なら差し止める筋ではないものの、あまりに法外で乱雑になり、火の元もそのほかも不用心になる。参詣する者は、親か夫か家主に断ってから出るように。

止めない。断っていけ。お上の言い分は、それだった。

口達の申し渡しは、もう少し厳しい。参詣にかこつけて不埒なことをすれば吟味のうえ厳しく処罰し、奇瑞を言い触らして町を騒がせた者も、見つかれば沙汰をする。この触れで見合わせた人は少しいたが、世間はいよいよ騒がしくなった、と書き手は続ける。

幕府の動きも、禁止ではなかった。近江大津の代官から状況を通報され、閏3月23日付で道中奉行が東海道の宿々に廻状を出し、注意を促している。

念のため、日付に断っておく。翻刻では触れの日付が「寅壬三月七日」と読める。阿波の子どもたちが出たのは3月20日だから、3月7日では順序が合わない。

ここからは筆者の見立てだが、壬は閏の誤りだろう。同じ書は、閏3月2日に大坂から峠を越えて奈良へ出た者が9万1千数百人いたと、奈良生まれの人の話として伝える。閏3月7日なら、騒ぎのさなかだ。

柄杓を一本持てば、腹は満ちた

抜け参りの旅の装束は、白衣に笠、そして柄杓。三重県総合博物館の解説によると、柄杓は参宮者の印で、たとえ無一文でも一本あれば、施行や便宜を受けて旅を続けられた。

伊勢の箕輪在六が天保3年(1832年)に出した『御陰参宮文政神異記』には、外宮北御門の橋のそばに柄杓が積まれた図がある。旅姿の参宮者が、柄杓の山へ一本投げ上げている。

施行の規模は、数字で見たほうが早い。遠江国の見付村では、8月21日に旅人一人へ12文ずつを施し、その日は1,400人から1,500人が受け取ったという。静岡県立中央図書館の解説にある数だ。

掛け算すると、1万6800文から1万8000文になる。一日の村の持ち出しとしては、軽くない額。

大坂の堂島では、加島屋の蔵を借りて、町の人々が施行宿を開いた。閏3月3日から20日までに泊めた人数は、日ごとの数を足して18,164人で、『浮世の有様』が写す表の合計と一致する。

内訳は国別に出ていて、播磨が10,597人で半分を超える。阿波は2,002人。男8,698人に対し、女は9,387人だった。このほか、浜の蔵々に1万人ほどが泊まったとも書かれる。

ただ、施行がきれいな話だけだったとは言えない。書き手は手厳しい。飢えて門に立つ者を「通れ、通れ」と追い払う家が、見目のよい若い女には銭をたくさんやった、という。

町内で金を集め、立札を立てて東へ持ち出し、配る催しもあったが、書き手はこれを「真実の施行に非ず」と切る。名と利を求める者が、飛びついたのだ。

大店の門口でも、鴻池は一文、加島屋は二文、天王寺屋は三文、平野屋は五文と、家によって額が違った。京都は逆で、相応の身なりの者には施さず、哀れな身なりの者に手厚くしたと、書き手は聞いている。大坂より京都がよい、という口ぶり。

三重県の歴史資料に残る触れも、藩ごとに違う。久居藩は、施行を「奇特」と認めつつ、農業に差し支えないよう命じた。紀州藩の田丸領は、施行を心次第としたうえで、他領への米の移動を禁じた。止めはしないが、自領の米と田畑は守る。筆者の見立てでは、そういう計算だった。

四つの年は、四つの数え方で測られている

ここからが数の話。

お蔭参りの代表は四回ある。慶安3年(1650年)、宝永2年(1705年)、明和8年(1771年)、文政13年(1830年)だ。どの年が何人だったかは、出どころごとに数え方が違う。

慶安は『寛明日記』が頼りで、江戸の商人が流行らせたと伝わる。箱根の関所を通った数を、世界大百科事典は3月中旬から5月まで一日2,500人から2,600人とする。別の書き方では、同じ時期が一日2,100人だ。食い違いの理由は、確かめられなかった。当時の呼び名は、お蔭参りではなく抜け参りだった。

宝永は、4月9日から5月29日までの50日間で362万人で、本居宣長が『玉勝間』に、ある記録によると、と断って書いた数だ。県の歴史コラムは、山田三方会合所の記録と宣長の書を並べて挙げる。明治大学の教授の論考は、慶安と宝永の人数について、信頼できる情報が得られないと書く。

明和は、宮川の渡し船を4月8日から8月9日までに渡った人数が207万7450人で、『明和続後神異記』の数だと事典は書く。

文政は、閏3月から6月20日までの宮川の渡しで427万6500人。出どころは『文政神異記』だ。同じ論考は、3月1日から8月末までの宮川の渡しを476万人、大湊などからの船を10万人とする。

三重県総合博物館は、陸路の渡しが約486万人で、海路が10万人以上と説明する。山田奉行の報告として、閏3月の1か月だけで228万人、という話も伝わる。

宮川には橋がなかった。渡し場は3か所で、1か所は地元の人用だから、残る2か所の船の客を数えれば、参宮者の数になる。論考はそう説明する。

ここは筆者の見立てだ。427万と476万は、期間が違うだけで、同じ数え方の途中と最後に見える。根拠は、前者が6月20日まで、後者が8月末までと区切りを明記している点にある。ただ、476万と486万は10万の差があり、誤記なのか数え方の違いなのか、確かめられなかった。

三重県総合博物館の解説は、こう添える。正確に人数を数えたわけではないでしょうが、それにしても大変な人数だった、と。

平年の数も揃わない。山田奉行は享保3年(1718年)に、正月から4月15日までで42万7500人と報告した。事典には平年70万人ほどとあり、別の資料は毎年40万人から50万人という。数えた側の都合で、数字は伸び縮みするのかもしれない。

六十年目は一年早く来て、六十一年目は来なかった

「ほぼ60年周期」と言われる。間隔を引き算してみると、慶安から宝永は55年、宝永から明和は66年、明和から文政は59年。きれいな60年は、一度もない。

文政は、前の明和から60年にあたる年が1831年だった。それが1830年に早まったのはなぜか。三重県総合博物館の解説は、前年に式年遷宮があり、お蔭参りが起こるのではないかという期待が人々の間に高まっていた、と書く。オンラインの百科事典は、研究書を引いて、豊作だったことも挙げる。

きっかけは阿波で起きた。『文政神異記』によると、3月20日、徳島の佐古町の手習屋に通う子ども20人から30人が、参宮すると言って一緒に出かけた。静岡県立中央図書館の解説も、同じ筋を載せる。

同じ頃、10歳の男児が白馬で参宮し、阿波の各地に伊勢の御祓い札が降った。そんな神異も、聞き取りとして収めてある。

語ったのは、徳島から来た柄杓屋だという。商売道具が時代の目印になった年に、柄杓屋が語り手だった。

では、周期は何が決めたのか。材料は二つある。一つは、いま見た一年の前倒し。もう一つは、1830年から61年目にあたる明治23年(1890年)だ。世界大百科事典によれば、この年は前回のような施行もなされず、自然に消滅した。

ここまでを並べて、筆者の見立てを書く。周期を作ったのは天の暦ではなく、期待と施行の用意だった。期待があれば前倒しで始まり、施行する側が動かなければ、61年目でも始まらない。そう読める。

呼び名も揃わない。「お蔭参り」の語は明和から使われたと、県の歴史コラムは書く。事典には、宝永のころから神のお蔭という意識が広まったと説くものもある。

柱に縛られた丁稚は、御祓になって逃げた

『浮世の有様』には、丁稚の話が二つ載っている。

一つめは大坂の櫂屋町。ある家の丁稚が、どうしても抜け参りをしたくて、銭500文をやっと工面した。主人に見つかって叱られても、気持ちは止まらない。また抜け出そうとして、懲らしめに二階の柱へ縛られた。

その家の息子が、こっそり縄を解いて丁稚を逃がし、空いた柱に御祓を縛り付けておく。主人が見に来ると、丁稚が御祓になった、と息子が驚いたふりをする。肝をつぶした主人は、丁稚を尋ね回って連れ戻し、金一歩を渡して参宮を許した。家中が代わる代わる参詣したという。

話には落ちがつく。息子自身も参りたかったのに、親がけちで行かせてくれないので、一芝居打ったらしい。知人から聞いた話として、書き手はおもしろがって書き留めている。

二つめは京都。ある家の丁稚が抜け参りをしようとして、主人に叱られ、火の見の柱へ縛られた。折から普請で入っていた大工がこっそり解き、あとに御祓を縛り付けた。主人はそれを見て驚き、勿体ない、我に罰が当たる、と言ってすぐあとを追って参宮する。大工も、人をだました罰が当たると聞いて、そのまま参宮へ駆け出した。

書き手は二つめの末尾に、浪華の籠屋町にあった話と同日の談、と記す。一つめの町名は櫂屋町で、翻刻の揺れかもしれない。

ここで二つを比べてみる。止められた丁稚、縛る柱、解く第三者、柱に残された御祓、驚いて態度を変える主人。骨組みは同じだ。違いは、解いたのが息子か大工か、主人が金を渡したか自分も参ったか、という程度。

筆者の見立てでは、二つの町で同じ日に同じ筋が語られていたのは、事実の記録というより、型のある噂だったからだ。根拠は、書き手自身が同日の談と断っていること。ただ、どちらかが実話でもう一方が写しなのか、両方が噂なのかは、分からない。

どちらでも、話の落ち着き先は決まっている。止めた主人が負ける。

昼寝のまま起きなかった住持

同じ書には、止めた側が罰を受ける話が、いくつも並ぶ。

摂津の灘のあたりは門徒が多く、参宮の件で本願寺の使僧が行き来するほどの土地だった。その中の大石では、参宮する者が一人もいない。富んだ家が多いので、施行をしようとした者もいたが、檀那寺が止めて回った。施行するくらいなら、その金を本山へ納めよ、と言ったらしい。

数万人が往来するのに、施行する家が一軒もなく、通りかかる者は口々に悪口を言った。ところがその寺の住持は、昼寝をしたまま起きなかった。家の者が起こそうとすると、とうに息がない。参宮を止め、施行も止めた罰だと、人は語ったという。書き手は、知人の加島屋から聞いたと記している。

河内の門徒寺では、庭に御祓が降った。小僧が拾うと、寺の者が、宗門でそんな物は扱わないと言って火に投げ入れる。すると小さな蛇が二匹出て、その喉に巻き付いて離れなくなった、という。

伊勢では、施行の米をもらった参詣人が、側に積んだ俵から少しの米をこっそり盗んだ。その手が、俵に貼り付いて離れなくなったそうだ。人が集まって俵の中の米を出してやっても、俵は貼り付いたまま。

書き手は、全部を信じてはいない。この話のあとに、怪しむべきことだが、語った人の母は正直で言葉を飾らない人だから記す、と添えている。河内の蛇の話にも、怪しむべし、とある。

大坂の船宿にいた宿引は、女ばかり三人連れの抜け参りを泊め、夜中に手を出そうとして拒まれ、逆に追い出した。女たちは辻番に頼み込み、事情を話す。折から通りかかった夜回りの役人がそれを聞き、宿引は召し捕られて入牢した。

この男の妻も、抜け参りに出て留守だった。神罰がたちまち身に報いた、と噂になったそうだ。

ここで、神罰の話が誰に向けて語られたのかを考えたい。

世界大百科事典によれば、抜参りは初期には禁止や処罰の対象だった。伊勢信仰が盛んになると、小僧の参宮を妨げた主人が神罰を受けたという類の話が、広く伝わった。抜参りをしてきた者を、坂迎えで祝う習俗も見られる。別の項の説明では、近世中期以降、抜参りを阻止した主人などが神罰を受けると信じられ、黙認に向かう。

灘と河内の話は、どちらも門徒寺の側が、施行や御祓を拒んだ話だった。筆者の見立てでは、神罰談の宛先は、抜け出す者ではなく、止める側にいた。止めれば罰が当たると言い触らされた主人は、止めるための費用が高くつく。だから、止めなかった。

効き目には限りがある。同じ書によれば、備前では、届けずに抜け出すことが厳しい法度だった。備前の者が三人連れで抜け参りに出て、帰りに一人が病み、大坂の備前屋敷の門前で倒れた。屋敷が国元へ飛脚を立て、親類がすぐ駆けつける大騒動になったという。神罰が藩の法度に勝つとは限らない。

十四歳の幕臣の子は、柄杓をもらって伊勢へ向かった

勝海舟の父、勝小吉の自伝『夢酔独言』に、無断の旅の当事者の声がある。数え14歳のとき。生年から数えて、文化12年(1815年)ごろだ。お蔭参りの年ではない。

小吉の旅は、抜け参りではなく家出だった。江戸を出て、道中で持ち物を失い、途方に暮れていると、宿屋の亭主が柄杓を一本くれた。これを持って浜松の城下と在を回り、一文ずつもらってこい、と教えられる。一日回って、米と麦を五升ほどと、銭を百二、三十文もらって戻った。

亭主は、いい人だ。その晩は泊めてくれた。翌日には、伊勢へ行って身の上を祈ってこい、と勧めている。それから毎日乞食をして、松原や川原、辻堂に寝た。蚊に責められてろくに眠れず、つまらぬざまだったと、自分で書いている。

伊勢では、同じ乞食仲間から、龍太夫という御師の家を教わる。口上も教わった。品川宿の青物屋の奉公人が抜け参りに来たが、こういうわけなので泊めてくれ、と言うのだ。

そのとおりに言うと、袴をつけた男が帳面を持ってきて、何度も繰ってから、奥へ通れと言う。久しぶりに風呂へ入り、うまい物の膳を食べた。御師が狩衣で出てきて、ようこそ参詣なされた、と言う。小吉はお辞儀をするばかり。

ここは筆者の見立てだ。抜け参りという看板は、旅の通行証になっていた。根拠は、小吉が抜け参りを名乗ったとたん、御師の家で風呂と膳と夜具が出たことにある。作り話の口上でも、通じる土壌があった。もっとも、帳面に何と記されていたのかは、分からない。

この旅は、箱根の山中で野宿をするなど苦労が続き、本の目次には、四ヶ月ぶりの帰宅、という見出しがある。

ちなみに、この旅の細部は、同じ旅を書いた別の著書『平子龍先生遺事』と食い違う。口上の言い回しも、もらった銭の額も違う。自伝だから、話が盛られた部分もあるのかもしれない。

施行駕籠は、脇道へ曲がった

抜け参りには、光だけでなく影もあった。『浮世の有様』は、聞いた話を淡々と並べている。

天満の者が、18歳ほどの娘を連れて両親と抜け参りに出たところ、娘が道で足を痛め、施行の駕籠を勧められた。両親は娘を乗せたが、人波で離ればなれになる。駕籠かきは脇道へ入って娘に乱暴をし、遊女に売ろうともしたが、娘が承知しない。すると体じゅうに入墨をして、難波橋に置き去りにしたという。

両親は娘を探し回り、2日前に帰ってきたところだった。そこへ、その有様で戻ったのだ。書き手は、嘆きようは言いようがないと書き、人の集まる所へは用心して行くべきだ、と結ぶ。

大和の長谷の先では、紀州家中を名乗る侍二人と医者一人が、人に突き当たっては因縁をつけていた。そこへ、豊後から来た夫婦に十三歳の娘、幼子、老人の一行が通りかかる。斬り合いになり、娘はその場で亡くなった。噂では、三人は侍に化けた旅の盗人、ごまの灰だったともいう。

偽の抜け参りも、書かれている。紀州や泉州の貧しい者が施行宿を回ったが、毎日同じ顔が並ぶので宿が気づき、両国の者には宿を貸さなくなる。乞食が抜け参りを装って施しを受けるのも、のちにお上の吟味で止められた。

少しおかしい話もある。小判を一枚持ち出した十歳ほどの子ども三人が、ごまの灰に言いくるめられ、割の悪い両替をさせられた。追いついた親は、これで参ってこい、と金を渡したという。

いちばん重いのは、人買船の話。書き手は、日向飫肥藩の行列が、伊勢参りではぐれて飢えていた子どもたちを連れ帰ったと書く。五月中旬の項では、15歳から20歳ほどの男子が24、5人。のちの項では、子どもが30人ほどで、そのうち江戸の者が3人いた。

江戸の3人は途中で船を抜け、一銭も持たずに上陸した。飢えに耐えかねて、代官所に合力を願い出る。そこで事情が知れ、関東へ連絡がいき、厳しい吟味になった。飫肥屋敷の名代は毎日奉行所へ召し出され、関わった者は召し捕られて入牢した。

12月2日付の書状には、10歳から14歳の13人の名簿が付く。江戸や京、大坂の子の名が並ぶ。船は日向の油津浦の千四百石積みで、富高浦で上がったとある。

人数も年齢も、書き手の言う数と合わない。同じ件の別の数え方なのか、別件なのかは、確かめられなかった。

書き手は、大名が人をさらうなど古来聞いたことがない、言語に絶することだ、と憤る。藩側の意図は、分からない。

外宮の石垣は、いまも少しくぼんでいる

無断で出た者が、帰りには迎えられる土地もあった。

日本大百科全書は、三河国挙母町の例を挙げる。毎年、12、3歳から15、6歳の男女が、後見人を頼んで伊勢参りに出た。家には告げずに行き、費用は後見人があらかじめ立て替える。普段着のままの子どもたちだった。

家でも、やがて抜け参りだと気づく。帰るときは迎えに出て、神社で解散した。立て替えは、あとで清算した。若者組の行事になった土地もある。この土地では、無断は形だけで、後見人が付き、迎えまで用意されていた。

道中で借りた金は、あとで返さなければ、参った効果がなくなると言われていた。

箕輪在六の『御陰参宮文政神異記』は、食料の心配が最後に出てくる。お蔭参りが始まると、船で大湊と河崎へ1万俵余の米が運び込まれた。魚介も豊漁が続き、数か月、数百万人分の毎日の食べ物は欠けなかった。在六はこれを神の恵みと讃えて、本を結ぶ。

外宮の北御門を入り、火除け橋を渡ってすぐ左側に、石垣がある。一部が、わずかにくぼんでいる。三重県総合博物館の解説は、そこが江戸時代に参宮者が柄杓を置いていった場所とされる、と書いている。

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