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上の歯が先に生えた子は、川に返される――エチオピア・オモ渓谷「ミンギ」の掟はなぜ生まれ、どうやって壊れたのか

丸木舟が川の真ん中で止まる

エチオピア南部、オモ川の下流域。乾季の終わりの、風がぬるい午後だ。

丸木舟が一艘、岸を離れる。漕いでいるのは村の男たち。舟の底には布にくるまれた小さなかたまりが置かれている。泣いている。まだ二歳かそこらの子どもだ。

岸には母親がいる。地面に膝をついて、声にならない声を出している。まわりの女たちが彼女の腕をつかんでいる。止めているのか、支えているのか、たぶん両方だ。

舟は流れの真ん中まで出て、そこで止まる。男たちの手が動く。水音がひとつ。それだけだ。舟はゆっくり岸に戻ってくる。誰も振り返らない。

この子は何も悪いことをしていない。病気でもない。健康な子だ。ただ一点、上の乳歯が下の乳歯より先に生えてきた。それだけで、この子は「ミンギ」と判定された。呪われた存在。生かしておけば村に干魃が来て、家畜が死に、疫病が広がる。長老たちはそう信じていた。

これは寓話ではない。ついこの前まで実際に起きていたことで、地域によっては今も完全には消えていないと報告されている。今回はこの「ミンギ」という掟を、頭からケツまで解きほぐしていく。怖い話として消費して終わりにはしない。なぜこんな掟が生まれたのか、なぜ長いこと持ちこたえたのか、そしてなぜ崩れたのか。そこまで行かないと、この話は本当には怖くならないと思う。

まず、オモ渓谷がどういう場所か知ってほしい

舞台はエチオピアの南西の端っこだ。行政区分でいうと南オモ・ゾーン。かつては南部諸民族州と呼ばれていた地域の一部で、県都はジンカという町。ここからケニアとの国境、トゥルカナ湖まではもう目と鼻の先だ。

この一帯、とにかく道が悪い。ジンカに出るのに悪路を七時間、みたいな話が普通に出てくる。舗装路がほとんどないから、雨が降れば孤立する。エチオピアの高地から見れば、ここはずっと「低地」で「辺境」だった。

そのかわり、民族の密度がとんでもない。南オモ・ゾーンだけで公認されている民族集団が十六。言語系統もクシ系、ナイル・サハラ系、オモト系と入り乱れている。人類学者のイヴォ・シュトレッカーは、一万五千平方キロにも満たない範囲で十以上の言語が話されている、これはエチオピアどころかアフリカ全体でも最高水準の多様性だ、と書いた。

今回の主役はそのうちの数集団だ。カラ(外からはカロと呼ばれることが多い)、ハマル(ハメルとも綴る)、バンナ(ベナとも書かれる)、そしてバシャダ。この四つは言語がほぼ同じで、相互に結婚できて、互いに戦争しないことになっている。人類学者のジーン・リダルが1976年に「ひとつの文化的単位」と表現した通りの関係だ。

バシャダは行政上ハマルの下位集団として扱われているが、自分たちの歴史も領域も儀礼指導者も持っている。

規模はかなり違う。カラは千五百人前後、多く見積もる資料でも三千人くらいの小集団だ。対してハマルは二万五千から五万、資料によっては五万七千という数字も出る。バンナも数万規模。つまりカラは、周りに大集団を抱えた極小の民族なのだ。この人口差は後でものすごく効いてくるので、頭の隅に置いておいてほしい。

川が食い扶持を決める暮らし

カラの村は三つある。北からラブク、ドゥス、コルチョ。それぞれの村の周りに畑地と小さな集落が散らばっている。昔はオモ川の西岸にも村があったが、この三十年ほどで西岸の定住村はすべて放棄された。より人数が多く武装も勝るニャンガトムに押されたからだ。それでもカラは西岸の土地の権利を主張し続けている。

暮らしの土台は「氾濫原耕作」だ。オモ川は毎年七月から十月にかけて増水し、岸を洗い、内陸の窪地まで水を運ぶ。水が引くと、そこには上流から流れてきた栄養たっぷりの泥が残る。カラはその泥にソルガム(モロコシ)を播く。トウモロコシ、豆、緑の野菜も作る。

これがどれだけ生活の中心かというと、カラの食料供給のおよそ八割がこの氾濫原耕作だという推計がある。半年の農期で、残り半年分まで食いつなぐ収穫を得る。この芸当ができることがカラの誇りであり、自尊心の柱になっていた。少数でありながら、ニャンガトムに軍事的に負けもせず、ハマルに同化もされずにやってこられた根拠がここにある。

一方でカラは牛をあまり持たない。ツェツェバエと眠り病にやられた歴史があって、家畜はヤギとヒツジが中心だ。持っている数少ない牛は、ハマルの「盟友」に預けてある。その代わりハマル側は、乾季の一番きつい時期に、洪水が育てた川辺の草にアクセスできる。互いに足りないものを差し出し合う、けっこう精緻な仕組みだ。

ハマルとバンナのほうは山側の民で、こっちは徹底的に牛の民だ。牛は乳と血と肉の供給源であるだけでなく、通貨であり、地位であり、社会そのものである。男の富も、結婚できるかどうかも、村での発言力も、全部牛で測られる。

そして共通しているのは、雨が信用できないということ。半乾燥地帯で、雨は少なく、しかも当てにならない。二、三年に一度は雨不足か害虫か鳥害で収穫が飛ぶ。だからこの土地の人たちにとって「今年うまくいくかどうか」は、常に不安の対象だった。

この不安の存在を覚えておいてほしい。ミンギの掟は、この不安の真上に建っている。

バルジョ――世界は放っておくと壊れる

ミンギを理解するには、まずその反対語みたいな概念を知る必要がある。「バルジョ」だ。

ハマル語でバルジョ。カラではバリヨとも発音される。訳しにくい言葉で、研究者は「幸運」「福利」「創造力」「運命」あたりの語を並べて説明する。宣教師や一部の研究者はこれをキリスト教の神に当てはめようとしたが、それはうまくいかない。バルジョは人格神ではないからだ。

シュトレッカーの説明がわかりやすい。ハマルの世界観では、天地創造は「大昔に一回起きた出来事」ではない。創造は今この瞬間も継続している。そして人間はその継続的な創造に、能動的に参加する義務がある。生き物も、雲も、雨も、星も、それぞれバルジョを持っていて、それがあるから規則正しく現れる。逆に言えば、バルジョが損なわれれば、雨は降らず、星は狂い、世界は壊れる。

だから長老たちは「バルジョを呼ぶ」。バルジョ・アエラという儀礼だ。年長の男が先導し、他の男たちが各句の最後の語を繰り返す。リダルとシュトレッカーが1979年に記録した一節はこんな調子だ。雨が降れ、降れ。子どもらが遊べ、遊べ。草が良い匂いを放て、放て。雨が水たまりを作れ、作れ。雨が植物に変われ、変われ。群れが囲いに入れ、入れ。病が去れ。

呼べるのは既婚の年長男性だけだ。彼らが若者のために、男が女のために、バルジョを呼ぶ。逆はない。女性は言葉を使わず、ヤギの囲いの入口を掃いたり、タカラガイを縫いつけた帯を締めたりして、静かにバルジョを呼ぶ。

ここには権力構造がはっきり出ている。シュトレッカーは「誰が誰のためにバルジョを呼ぶかを見れば、誰が誰を統制しようとしているかがわかる」と書いた。同時に、バルジョという概念には競争的な要素も攻撃的な要素もない。バルジョが大きい人ほど、穏やかで、争わず、他人と衝突しない。誰もバルジョを得るために派手なことをしないし、自分のバルジョを自慢したりもしない。

そして、この宇宙観の裏面に「マエシ」がいる。祖霊だ。死んだ人間はマエシになり、怒れば子孫に病をもたらす。バルジョが一般的で建設的な力なら、マエシは個別的で破壊的な力だ。病気が出れば占い師が呼ばれ、どのマエシが怒っているのかを診断する。

つまりこの世界では、不幸には必ず原因がある。偶然の不運という枠がほとんど用意されていない。雨が降らなければ、それは誰かが何かを間違えたからだ。

ミンギは、その「間違い」の名前である。

ミンギ――呪いと訳される言葉、実際には「不浄」

ミンギはよく「呪い」と訳される。ラレ・ラブコ自身もインタビューで「英語で言えばカース、呪いです」と説明している。ただ、人類学の記述を読むと、もう少し正確には「儀礼的な不浄」あるいは「危険な不純」に近い。

ハマル、バシャダ、バンナ、カラの人々の考えでは、ある種の妊娠とある種の子どもは、生まれつき不浄で、家族や共同体全体にとって危険だ。生まれてしまえば、その子は家族に災いをもたらす。干魃、疫病、不作、鳥害、虫害。エップレの記述にはこうした具体的な災厄がずらりと並ぶ。

面白いのは、この不浄が子ども自身の「罪」とはされていないところだ。ハマルの理解では、母親が受胎前に済ませるべき一連の儀礼を怠ると、ブッシュの霊が母の胎に入り込む。つまり悪いのは手続きの不備であって、生まれてきた子はその結果にすぎない。だから当事者たちは、この子を「悪い子」だと思っているわけではない。「間違った手続きの産物」だと思っている。ここが重要で、後の説得工作にも効いてくる。

そしてミンギには複数の種類がある。地元の呼び方と、支援団体が整理した呼び方が混在しているが、内容はだいたい重なる。

まず歯のミンギ。上顎の乳歯が下顎より先に生えた子ども。これは生後半年から一年、場合によっては二歳前後で判明する。つまり、もう歩いて、笑って、名前を呼ばれれば振り向く子が、ある朝いきなり対象になるということだ。ミンギの残酷さの核心はここにあると思う。乳歯が欠けた場合も同様に扱う地域がある。エップレが記録したバシャダの事例では、永久歯が上から先に生えたことが問題になっている。

次に双子。双子の出生そのものが不吉とされ、両方が対象になりうる。半乾燥地帯で二人を同時に育てる困難を考えれば、この判定が生まれた背景は想像がつく。想像がついてしまうのが、またきつい。

次に婚外の子。結婚の儀礼を経ていない娘が産んだ子ども。地元の言葉ではアンザ・ナス、「娘の子」と呼ばれる。ここで押さえておくべきは、この社会が性関係そのものに厳しいわけではないという点だ。カラでは婚前の性交渉は許容されている。問題は妊娠と出産の側にある。婚資が高くて結婚できないカップルが多く、結果として「儀礼を経ていない妊娠」が構造的に発生しやすい。

そして儀礼を経ていない既婚女性の子。結婚はしていても、受胎前に必要な儀礼が済んでいなければ、生まれた子はミンギになる。しかもこの儀礼は、女性が自分の判断でできるものではない。村の年長男性たちと、姑の承認と参加が要る。つまり儀礼のタイミングは、実質的に姑と長老が握っている。

この最後の一項が何を意味するか、少し考えてみてほしい。ある女性が子を産んでいいかどうかを、姑と村の長老が決めている、ということだ。承認しなければ、生まれる子はミンギになる。ミンギになれば、その子は排除される。これはもう、単なる迷信ではなく、生殖の統制装置である。

誰が決めるのか――長老会議とサンダル占い

判定を下すのは長老たちだ。ハマル語ではドンザ。既婚で、儀礼的な資格を持った年長男性の集団である。

ハマル、バンナ、カラの社会には王もいなければ、常設の政府もない。人類学の用語でいう「アセファラス」、頭のない社会だ。統治は年齢組の階梯と、集会での議論と、儀礼的地位を持つ者の言葉で回っている。その頂点に近いところに「ビッタ」がいる。カラではビッティ。共同体の福利を守り、社会と自然界の乱れを収拾する、儀礼上の指導者だ。

判定のプロセスは、静かに始まることが多い。まず噂だ。あの家の娘は儀礼を済ませていないらしい。あの子の歯は上から出た。誰かが見たと言っている。

エップレがバシャダで追った1998年の事例が、この過程をよく示している。ある少女の第二歯が上顎から先に生えた。母親は娘を隠そうとしたが、隠しきれなかった。最初のうち、共同体は少女の存在をなんとなく黙認していた。ところが収穫が失敗したり、雨が足りなかったりするたびに、あの子のせいだという噂が浮かび上がってくる。

そして噂に決定的な形を与えるのが占いだ。バシャダとハマルには「モアラ」と呼ばれる占い師がいて、儀礼用の革サンダル一組を投げ、その落ち方を読んで災厄の原因を診断する。地元ではドゥングリと呼ばれる占具だ。占いが「あの子だ」と出れば、噂は事実に格上げされる。同じような役割を、ヤギの内臓を読む占いが果たすこともある。

つまり判定は、一人の権力者の思いつきではない。噂と、占いと、長老会議の合意という三層構造でできている。誰も単独では責任を負わない。全員がわずかずつ責任を分け合う。この構造は、こういう決定を持続させるうえで、驚くほど効率的だ。

そして数シーズンにわたって噂と占いが積み重なった末に、共同体は決断を下す。1998年のその少女について、共同体は「死ぬか、この土地を去るか」と結論した。

排除の実際――記録に残っているもの

排除の方法は複数ある。事実として記録に残っているものを、必要な範囲で書く。手順として書くつもりはない。

もっともよく語られるのはオモ川だ。子どもを舟に乗せて流れの真ん中まで運び、水に落とす。この川にはワニがいる。遺体は回収されない。

藪への遺棄もある。食料も水もなしに置き去りにする。夜になればハイエナが来る土地だ。一部の記録には、置き去りにされた子が集落を遠巻きに追い続け、やがて飢えか捕食で力尽きた、という記述もある。

口に土や砂を詰める方法もある。2011年にクリスチャニティ・トゥデイ誌に載ったマシュー・ラプラントの取材記事に、コルチョ村の長老アリ・ラレの証言がある。十五年ほど前、ある子がミンギとされ、長老たちがアリに手伝いを求めた。アリはこう語っている。赤ん坊は泣いていた。だから口に砂を入れた。それでもまだ泣こうとしていたが、やがてできなくなった。

そして、遺体は埋葬されない。これは重要な点だ。ミンギとされた子は、正規の埋葬儀礼から外される。理由として語られたのは、土そのものが不毛になることへの恐れだったという。つまりこの排除は、ただの殺害ではなく「共同体の外に完全に出す」ための儀礼的操作として設計されている。

もうひとつ、静かな方法もある。「家に留め置いて、食べ物を与えない」というやり方だ。支援団体の説明にはこれが明記されている。手を下さなくても、結果は同じになる。

ラプラントが記録したもっとも重い事例を挙げる。ある健康な男児の上の歯が先に生えた。長老たちはこの子をミンギと判定した。問題は、この子の双子のきょうだいがすでに死んでいたことだった。議論とヤギの内臓の占いの末、長老たちは死んだ双子もミンギだったに違いないと結論した。彼らは遺体を掘り起こし、生きている子と縛り合わせ、舟で流れの中心まで運んで、二人ともオモ川に落とした。

こういう話を、僕は面白がって書きたくない。ただ、これが「昔話」ではなく、2000年代の出来事として記録されているという一点は、はっきり書いておく必要があると思う。

ラレ・ラブコが十五歳で見たもの

ここで一人の人物に入ってもらう。ラレ・ラブコ。カラのドゥス村の生まれで、この話の中心にいる男だ。

彼は自分の正確な生年を知らない。九歳まで牛とヤギを追っていた。ある日、村の長老でもあった父親が、慣習に逆らって彼を学校に出すことを決めた。スウェーデン系の宣教師が運営する寄宿学校で、村からは百キロ近く離れている。休みのたびに、彼は何日もかけて歩いて村に帰った。カラで最初に学校に行った子どもの一人だった。

十五歳のとき、休暇で村に戻っていた彼は、長老たちが泣き叫ぶ二歳の子どもを母親から引き剥がしていく場面に出くわす。子どもは川に連れていかれた。

何が起きたのかわからなかった彼は、自分の母親に聞いた。母親は答えた。あの子は「歯のミンギ」だと。そしてその流れで、こう続けた。あなたが生まれる前に死んだ二人の姉さんも、ミンギだったのだ、と。

ラレはのちにこう語っている。あの晩から、それが毎晩頭に浮かぶようになった。誰も止めなければ、これから何人も同じ目に遭う。自分が宣教師の学校に送られたことには理由があったのだと、そのとき思った。

彼の言葉で印象的なのは、共同体を憎む方向にいかなかったところだ。「彼らは悪意でやっているのではない」という趣旨のことを、彼も、彼の周辺の人たちも繰り返し言っている。クリスチャニティ・トゥデイの取材に応じたある関係者は、はっきりこう述べた。彼らは邪悪でも野蛮でも愚かな怪物でもない。他の人々の命を恐れているのだ、と。

この理解の仕方が、後の戦略のすべてを決めることになる。

外の世界はいつ、どうやってこれを知ったのか

ミンギが英語圏で広く知られるようになったのは、2010年代に入ってからだ。だがそれ以前に、地道な学術的蓄積がある。

まず1970年代。イヴォ・シュトレッカーとジーン・リダルの夫妻がハマルに入る。二人は1979年に『南エチオピアのハマル』という全三巻の民族誌を出した。第一巻がフィールドノート、第二巻が現地の主要な語り手バルダンベによる自文化解説、第三巻が村での会話記録という構成で、当時としてはかなり尖った作りだ。シリーズは後に五巻まで伸びる。

シュトレッカーは1988年に『象徴化の社会的実践』を、2013年にはハマルの偉大な代弁者を主人公にした『ベリンバの抵抗』を出している。

映像も多い。シュトレッカーは『牛の背を越える跳躍』『ヤギの父――南エチオピア・ハマルにおける供犠と占い』などの民族誌映画を撮った。『ヤギの父』は、バルダンベの屋敷での日常を映したあと、ヤギの供犠と、その内臓から未来を読む占いを追う。病という物理的・社会的な脅威を、ハマルの人々がどう処理しようとしているかを扱った作品だ。ミンギの判定を支える占いの実務が、そのまま映っている。

リダルの仕事はもっと女性側に寄っている。彼女は『ハマル三部作』と『ドゥカのジレンマ』を撮った。『ドゥカのジレンマ』は、夫が第二夫人を迎えたことで揺れる既婚女性ドゥカの数年間を、娘のカイラ・シュトレッカーと二人で追った作品だ。姑がかき回し、第二夫人が出産し、口論が起き、最終的に家がもう一軒建つ。

ミンギの話には直接踏み込まないが、ここに描かれる姑と嫁の関係、第一夫人と第二夫人の緊張は、後の研究がミンギ告発のリスク要因として名指しするものと、ぴったり重なる。

シュトレッカーとリダルは、ジンカに南オモ研究センターを設立した。アディスアベバ大学とドイツ政府、マインツ大学の支援を受けた拠点で、この地域の研究の土台になっている。2002年にはジンカで「南オモにおける女性の誇りと社会的価値」というワークショップが開かれ、アルボレ、アリ、バンナ、バシャダ、ダサネッチ、ハマル、カラ、マーレの女性たちが集まって、それぞれの役割分担や儀礼を議論した。

ミンギを語る言葉が現地の側から出てくる基盤は、こういう場所で作られている。

もっと直接ミンギを扱った学術研究もある。ティナ・ブリューダーリンは2005年にマインツ大学に提出した修士論文で、ハマルにおける人格の概念と、出生前後の儀礼を扱った。論文の後半には「ミンギとダッカ――儀礼的不浄の概念」という章があり、婚前妊娠の帰結、親の儀礼を怠った結果としての不浄、不浄のしるし、そして「非嫡出性を社会統制の手段として使うこと」という項目が並んでいる。

そしてスザンヌ・エップレ。彼女は1994年から95年にかけてバシャダで調査を始め、以来この地域を追い続けている。2020年には『エチオピアにおける法多元主義』という論集に「バシャダとハマルにおける嬰児殺と闘う――南エチオピアの『有害な伝統的慣行』の背後にある複雑さ」という章を寄せた。これが現時点でもっとも解像度の高い記述だと思う。

エップレが記録した、一人の少女の四年間

エップレの章から、ひとつの事例を丁寧に追いたい。証言というより、記録された生の経過だ。

エップレがバシャダに入った1994年から95年ごろ、彼女はすでにミンギの噂を耳にしていた。ただし人々はそれを、ほとんど「過去のこと」として語った。中絶をした娘や女性のことは知っていた。嬰児殺の噂も聞こえてきた。でも誰も、それを現在形では話さなかった。

そこに、隠しきれない事例が起きる。ある少女の第二歯が、上顎から先に生えたのだ。母親は娘を隠そうとした。だが子どもの歯は隠し通せるものではない。

最初、共同体は黙認したように見えた。ところが収穫が落ちたり雨が遅れたりするたびに、あの子のせいだという声が上がる。占い師がサンダルを投げると、その声は「確認」される。これが何シーズンも続く。噂と占いと不作が絡み合って、少女の存在は年を追うごとに重くなっていった。

そして1998年、共同体は結論を出した。この子は死ぬか、この土地を去るかだ。

母親には選択肢が三つあった。ひとつめは、隣のバンナの儀礼指導者ビッタ・アデノのところへ連れていくこと。彼はミンギの子を儀礼的に清められると言われていた。ただし、清めをバシャダの共同体が認めてくれる保証はない。認められなければ何も解決しない。

ふたつめは、キリスト教に改宗して町へ移ること。共同体の外に出てしまえば、掟の射程からは外れる。

母親が選んだのは三つめだった。娘を、近くのディメカの町にあるカトリック伝道所に預けたのだ。ディメカは市場町で、郡の行政庁が置かれている。少女はそこから、アディスアベバに住む外国人家庭の養子になった。

同じ時期に同じ村で調査していた人類学者ニコル・ポワソニエが、この家族と親しかった。彼女は事態を追いかけただけでなく、伝道所との連絡を取り、養親を探して、実際にこの少女を助けた。

エップレはこう書いている。バシャダの多くの人は、この少女が度重なる災厄の原因だと確信していた。にもかかわらず、彼女が生きたまま村を出ていったことに、全員が安堵しているように見えた、と。

この一行が、僕にはずっと引っかかっている。彼らは殺したかったわけではないのだ。ただ、この子がここにいてはいけないと信じていた。だから「生きて、遠くへ行く」という選択肢が現れたとき、みんなほっとした。

この構造を見抜いたことが、のちの運動の勝ち筋になる。

民族ごとに、時代ごとに、ぜんぶ違う

「オモ渓谷ではミンギをやっている」と一括りにするのは、事実として間違っている。差はかなり大きい。

まず地域差。エップレの観察では、変化はまずバンナで起きる。バンナは県都ジンカに地理的に近く、外の情報と人の出入りが多いからだ。逆にハマルとバシャダの南部、つまり町から遠い一帯は、保守的で外部の介入に強く抵抗する。同じ民族でも、道が通っている村と通っていない村では話がまったく違う。

民族差もある。カラでは嬰児殺は広く放棄されたとされ、ミンギとされた子が村で育てられている例もある。バンナ、ハマル、バシャダでも、一部の定住地では同じことが起きている。しかしそれ以外の多くの場所では、婚前妊娠は今も中絶で処理され、ミンギとされた子は共同体の外へ養子に出されるか、ひそかに排除されている。エップレが2016年から17年に調査した時点での記述だ。

歴史的な変遷もある。イタリアがエチオピアを占領していた1936年から1941年の間、イタリア領東アフリカ植民地政府はミンギを犯罪として禁止した。もちろん実効性は限られていたはずだが、外部権力による最初の禁止令が八十年以上前に出ていたという事実は押さえておきたい。

近隣の民族にも似た概念があった。エップレによれば、アリとアルボレにもかつてミンギの概念と嬰児殺が存在した。ただし形はやや違っていたという。南オモの他の集団にも「人間の不浄」という考え方は広く見られるが、それが何を引き起こすかは集団ごとに違う。

判定基準の細部も揺れる。歯を主な基準にする話が有名だが、支援団体の整理では四類型が並び、地域の報告では口唇口蓋裂を持つ子が含まれるという記述もある。乳歯が欠けただけでミンギとされるという説明もあれば、そこまでは含めないという記述もある。つまり「ミンギの定義」は一枚岩ではなく、村ごと世代ごとに揺れ動く、生きている基準だった。

そしてもう一つ。ハマル郡が行政に届け出ている「有害な伝統的慣行」のリストには、ミンギ以外にも十以上の項目が並んでいる。強制中絶、相続婚、年齢差の大きい婚姻、女性器切除、乳歯の抜去、早婚、そして牛跳び儀礼における女性への鞭打ち。ミンギはその一つとして扱われている。地元の行政官にとっては、ミンギは「唯一の悪」ではなく、優先順位の一番上にある項目、という位置づけなのだ。

牛の背を渡る祭りと、鞭を求める女たち

ミンギの周りには、同じ社会の他の儀礼がびっしり並んでいる。中でも有名なのが、若者の成人儀礼だ。

ハマル語でウクリ・ブラ。「牛の跳躍」と訳される。ハマル、バンナ、カラに共通する通過儀礼で、これを通らなければ男は結婚できず、家畜を持てず、公の場での発言権も得られない。日程と場所は跳ぶ本人の親が決める。招待は、結び目の数で日数を示した紐や布の切れ端で回る。この土地にはカレンダーがないからだ。

当日、まず女たちの時間が来る。跳ぶ若者の姉妹やいとこたちが、鈴を膝と足首に巻き、赤土と獣脂を混ぜたものを髪と体に塗って、狂騒的に踊り、歌う。そして、すでに儀礼を終えた男たち――マザと呼ばれる――に、鞭打ちを要求する。細い枝の鞭だ。

打たれると背中は裂ける。血が出る。それでも女たちはひるまない。むしろ打ち手を挑発し、もっと強く打てと迫る。この傷跡はシャラシャと呼ばれ、生涯残る隆起性の瘢痕になる。彼女たちはそれを誇りとして背負う。

外から見ると、これは虐待にしか見えない。実際、行政の有害慣行リストにも載っている。だが、これを一方的に断罪するのはやっぱり乱暴だ、というのが人類学の側の見立てだ。

ジーン・リダルが正面から書いている。1970年代、女性解放運動が動き出した時期に、彼女はハマルで男女関係の不均衡を目の当たりにした。同じ頃、ロバート・ガードナーは『リバーズ・オブ・サンド』という映画を撮った。これがハマルの男女関係をあからさまに一方的に描いた作品で、ガードナー自身が後年のインタビューで「ハマルの男が特に嫌いだった」と認めている。リダルはこの映画に納得できなかった。

彼女のジレンマはこうだ。ハマルの男女関係は自分には不公平に見える。ところがその不平等をもっとも熱心に支持しているのは、女性たち自身なのだ。だから彼女は、判定を下すのをやめて、女性たちに「なぜそうするのか」を語らせる映画を作ることにした。

女たちの答えはこうだった。この鞭打ちは、兄や従兄弟への愛を表現するための、極めて強力なレトリックなのだ。そして同時に、彼らに「自分を愛し、面倒を見ろ」と迫る要求でもある。女性と、その兄弟やいとことの関係は、女性とその子どもたちにとっての安全網の中核をなす。だから彼女たちは打たれる。将来、困ったときにこの背中を思い出せ、という契約なのだ。

リダルはさらに厄介な問いに進む。自分の映画は男女関係に光を当てたが、同時に政府や非政府組織が「男女平等」の名において介入する燃料にもなってしまう。介入は女性たちに伝統の放棄を迫る。それは彼女たちが長年かけて作り上げてきた持続的な生存の仕組みを掘り崩し、男たちの協力を引き出す手立てを奪うことにもなりかねない。では、女性たち自身にどんな男女関係を築くか決めさせろと言う私は、反フェミニストなのか、と。

答えは出ていない。でもこの問いを飛ばして「野蛮な風習」と書くのは、たぶん一番安いやり方だ。

なお、この牛跳び儀礼は今では観光資源にもなっている。見学料が祭りそのものの資金になっているという指摘もある。祭りに外国人を呼ぶ動機が、共同体の側にも生まれているということだ。

なぜこんな掟が成立したのか

ここからが本題かもしれない。なぜミンギは生まれ、なぜ長く続いたのか。いくつもの説明が併走している。

一番わかりやすいのは、資源配分の説明だ。半乾燥地帯で、雨は二、三年に一度は裏切る。共同体が養える人口には天井がある。その環境で、育てるコストが高い子ども、あるいは共同体の再生産に貢献しにくいと見なされた子どもを減らす仕組みが、宗教的な形をとって定着した――という見方。2011年の英語圏の記事にも、この方向の推測が載っている。

何世代も前に、負担になりやすい者、あるいは集団の存続に寄与できない者を取り除く仕組みとして始まったのではないか、と。

双子については、もっと直接的だ。医療も粉ミルクもない環境で、乳児を二人同時に育てることの困難は説明するまでもない。二人とも失うか、一人を諦めるか。掟がその選択を「決まりごと」として引き受けた、という見方はできる。個人が決断を背負わずに済むぶん、掟は残酷なだけでなく、ある種の緩衝材でもあった。

婚外の子については、社会構造の説明が要る。この地域では婚資が高く、結婚には多数の家畜が要る。若い男は簡単には結婚できない。一方で婚前の性関係は許容されている。すると、儀礼の外側での妊娠が構造的に発生し続ける。そこで生まれた子は、どの父系集団にも帰属先がなく、誰が育てるのかが決まらない。ミンギの判定は、この帰属不能な子どもを制度的に処理する装置でもあった。

もっと踏み込んだ分析をしたのが、ワシントン州立大学のスコット・コンリー・カルバートだ。彼は2013年にハマルで人口調査と聞き取りを行い、2016年に修士論文をまとめている。指導教員はバリー・ヒューレット。

彼の見立てはこうだ。ミンギと儀礼の複合体は、二つの機能を果たしている。ひとつは、夫以外の男との子を排除すること。もうひとつは、村の協同的な育児ネットワークにあまり貢献していない女性やカップルの生殖を抑えること。

データが示したのは、告発されやすい女性のプロフィールだった。リスクは第二夫人に集中する。第二夫人は寡婦であることが多く、父方の祖母を亡くしていることが多く、夫の家系と無関係な男との子を持つことが多く、食料や労働の共有ネットワークに参加し続けるための資源が乏しい。つまり、村の噂の標的になりやすい。物質的な貧困と重なることは多いが、決定的なのはむしろ「社会関係資本の乏しさ」だとカルバートは言う。

逆に言えば、防御手段は明確だ。共同作業に出ること。他人の子を預かること。人を家に招き、求められたものを分け与えること。この「競争的な向社会性」を積み上げた女性は、告発されにくくなる。

エップレの記述と合わせると、絵が立体的になる。ミンギの判定は、宇宙論の言葉で語られながら、実際には村の中の人間関係を映す鏡になっていた。誰が孤立しているか。誰が守られているか。それが子どもの生死に直結していた。

「メディアの数字はおかしい」――もう一つの声

そのカルバートが、論文の要旨に書いた一文が重い。メディアの報道とは裏腹に、ミンギによる嬰児殺の発生率は非常に低いように見える、そして乳幼児死亡率も低い、と。

これは重要な指摘なので、丁寧に扱いたい。彼は「ミンギは存在しない」と言っているのではない。「頻度が桁違いに小さい」と言っている。そして、その稀さこそが機能の中心だと論じる。

彼が持ち出すのは、文化進化論の「信頼性増強ディスプレイ」という概念だ。ある集団が本気で信じていることを示すには、コストの高い行動を実際にやってみせるのが一番効く。稀に、しかし劇的に行われる嬰児殺は、超自然的な罰の脅しと組み合わさることで、村の中の協力を強制する低コストな手段になる。実際、ハマルの村では血縁のない女性同士の協力が成立していて、子どもの生存率は高い。

つまりカルバートの主張は、こうまとめられる。ミンギは、日常的に大量の子どもを殺す制度ではない。ごく稀にしか発動しないが、その稀な発動によって全員の行動を統制する制度だ。そしてその統制は、社会的に弱い立場の女性の生殖を抑え、地位の高い男女の生殖を有利にする方向に働く。

さて、この観点から数字を見直すと、公開されている推計はかなり幅がある。

支援団体の系列では、年間二百人から三百人という数字が出る。ドキュメンタリー『ドローン・フロム・ウォーター』の紹介文は、この地域で有害な伝統的慣行によって年間およそ千人の子どもが死んでいると推定する。エチオピアの日刊紙レポーター・エチオピアの2018年の記事は、公式な集計はないとしたうえで、「呪い」によって今も年に三百人が死んでいるという推計を紹介した。

ラレ・ラブコ自身は2022年のインタビューで、活動を始めた二十年ほど前には全民族合わせて年に三千人ほどが殺されていたと見られていたが、現在は年百人から二百人まで減ったと述べている。

英語版の百科事典的な記述には、七十万人近くが今も秘密裏にこの慣行を保持している、という数字と、五万人という数字が並んで載っていて、明らかに整合していない。

正直に書くと、どの数字も検証可能な形では出てきていない。無記録の出生と無記録の死亡が大半を占める地域で、正確な統計を作るのはほとんど不可能だ。だからこそ、「毎年千人」という数字が独り歩きするのも危ういし、「実はほとんど起きていない」という結論に飛びつくのも危うい。

言えるのは、少なくとも次のことだ。実際に排除された子どもが存在したことは、複数の独立した記録が裏づけている。ラレの二人の姉。ラプラントが記録した双子。エップレが追った少女。カルバートが聞き取った五人の母親。そして、ジンカで生きている五十人以上の子どもたち。

数がわからないことは、事実がないことを意味しない。

上の歯の話は、アフリカ中にあった

カルバートの論文には、もうひとつ面白い章がある。「上顎先行」の信仰を、アフリカ全域で追跡した比較研究だ。

上の歯が先に生えることを危険の徴とみなし、それを理由に嬰児殺を行う慣行は、実はオモ渓谷の専売特許ではなかった。カルバートの整理によれば、この信仰は1960年ごろまでサハラ以南のアフリカに広く分布していた。西アフリカ、コンゴ盆地の北側と中央部、大湖地方、ケニアと沿岸部、そして南部アフリカ。

起源は西アフリカとみられ、ニジェール・コンゴ語族のベヌエ・コンゴ分岐より前、つまりおよそ五千年から六千年前にさかのぼる可能性があるという。そこからアダマワ・ウバンギ系の集団を通じてコンゴ盆地の北を、バントゥ系の拡散を通じて中央・東・南部アフリカを、それぞれ伝わった。バントゥ系の集団から、南西エチオピアのオモト語系集団へ飛び移ったらしい形跡もある。

さらに、マダガスカルのサカラヴァ――オーストロネシア語系の集団――にも同じ信仰と慣行があった。

これは何を意味するか。ミンギの中核をなす判定基準のひとつは、オモ渓谷が独自に発明した奇習ではなく、アフリカ大陸を横断して伝播した、非常に古い文化的形質だったということだ。

そしてもうひとつ。この信仰は他の地域では二十世紀後半までにほぼ消えた。つまりオモ渓谷は「特別に野蛮な場所」なのではなく、「同じものを最後まで持っていた場所」だった。この違いは、書き方に決定的な差をもたらすと思う。

ラレ・ラブコの戦略――四年をかけて長老を説得する

ここから運動の話に入る。

2004年、アメリカの写真家ジョン・ロウがオモ渓谷にやってきた。もとはソフトウェア企業の幹部で、家庭用ゲーム機向けのゲーム開発をしていた人物だ。引退後、写真への情熱を追いかけてこの土地に来た。彼はガイドとしてラレを雇う。二人は親しくなった。

だがラレがミンギの話をロウに打ち明けたのは、友情が五年目に入ってからだった。ロウは後にこう言っている。ミンギという言葉は、決して口にされなかった。それはタブーだった。部外者に話すようなことでは絶対になかった、と。

話を聞いたロウの反応は即決だったらしい。彼の言い方はこうだ。ラレの話を聞いて、ミンギのことを聞いて、赤ん坊がこんなふうに殺されていると聞いて、自分は言った。よし、ここに線を引こう。この子たちは大丈夫にする。俺たちが守る、と。

2008年、ラレは動き出す。当時彼はサファリの通訳として働いていた。まず同世代の若いカラの男たちを組織した。自分の兄弟や姉妹が不要に死んだと感じている若者たちだ。彼らはカラの主要な三つの村の長老たちに、繰り返し話をしに行った。

順番が重要だった。ラレ自身の説明では、最初に説得したのは父親だ。父はカラで影響力のある人物だった。次に若者たち。秘密の会合を重ねて、ミンギに反対して立ち上がる仲間を作った。そのうえで王と長老たちに向き合った。長老の言葉には、人々が従うからだ。

彼の説得の論理は、独特だった。ミンギの子を殺すな、とだけ言ったのではない。彼はこう言った。子どもを私にください。私に「川」と「藪」の役をやらせてください。呪いは私が遠くへ持っていきます。私にも、あなたたちの村にも、何も起こりません。子どもは祝福に変わります。

これは天才的だと思う。長老たちが恐れているのは「ミンギの子が村にいること」であって、「子どもが生きていること」ではない。エップレが記録した1998年の少女の件で、共同体全員が安堵したのと同じ構造だ。ラレは、共同体の宇宙観を否定せずに、その論理の内側に出口を作った。

長老たちは、まず一人の子を託した。バレという名の二歳の女の子だ。ラレは宣教師の友人の助けを借りてジンカに家を借り、そこにバレを連れて行った。ジンカはカラの土地から徒歩で三日かかる町だ。

そこから四年間、彼は共感してくれる村人たちの情報網を使って、長老たちが先に動く前に子どもを引き取りにいった。2012年までに救出したのは三十七人。彼はこう語っている。あの子たちに、ミンギは呪いではなく祝福なのだという生きた証拠になってほしかった、と。

代償は大きかった。彼には殺害の脅迫が来た。実際に殺そうとした者もいた。父親の家が焼かれかけた。最終的に、家族ごと集団から追放された。自分と食事をすれば呪いが移ると信じられ、完全に孤立した。それでも妻のギドとチームで踏みとどまった、と彼は言っている。

ギド自身はアルボレ出身の女性で、共同創設者だ。二人は最初、救い出した子を自宅の小さな家に住まわせていた。人数が増えたので、組織として持続させるためにオモ・チャイルドという団体を立ち上げた。設立年は資料によって2009年とも2010年とも書かれている。

干魃をひっくり返した井戸と、2012年7月14日

説得の決め手になったのは、たぶん言葉ではなかった。

2011年の夏、オモ・チャイルドはカラの村々に手押しポンプの井戸を設置した。当時この地域は厳しい干魃に見舞われていた。水が出た。

これが何を意味するか考えてほしい。ミンギの掟の存在理由は「干魃を防ぐこと」だ。その干魃に対して、まったく別の手段で対処してみせた。ミンギの子を排除しなくても、水は手に入る。スーザン・ハックが当時の記事で書いた通り、これは自然災害の責任をミンギの子に押しつける循環を、外側から断ち切る動きだった。

さらに効いたのが、子どもたちの姿だ。ジンカで暮らす救出された子どもたちは、学校に通い、成績を上げていた。呪われているはずの子が、毛布をかぶっても病気にならず、コーヒーを飲んでも何も起こらない。2023年のエチオピア人権ジャーナルの論文には、この点に触れた現地の証言が引かれている。救出された子どもたちがちゃんと学び、体を壊さないのを見て、カラの中に新しいグループが生まれた。彼らはこう言い出した。

私たちの共同体が呪いだと考えてきたもの、あの子たちを呪われた者とする物語は、間違っていたのではないか。長老たちが言ってきた呪いというのは、言葉による脅しであって、実体はないのではないか。

同じ証言には、こんな一節もある。かつてミンギとされたニャンガトムの人物が、いま医師として一緒に働いている。それを見て、後悔を口にする者も出てきた。もし自分たちもラレのように子どもを支えていたら、うちの子も医者になっていたかもしれない、と。カラの人々は言葉より行動を信じる、とその証言者は言う。ラレは、自分の信じることを実際にやってみせたのだ。

そしてもうひとつ、身も蓋もない論理が働いた。人口である。

カラは千五百人規模の極小集団だ。周りには数万人規模の集団がいる。彼らはミンギのような掟を持たず、一家族で十二人の子を持つこともある。紛争になれば、人数の差はそのまま圧力になる。エチオピア側の研究者が女性・子ども問題事務所の専門家から聞き取った言葉が残っている。いまカラは、他の集団が何をしてきたかを見ている。彼らはミンギのような有害な伝統なしに、ずっと増え続けてきた。

その大きな人口が、いまカラを圧迫している、と。

つまり最後は、宇宙論ではなく生存戦略の話になった。この掟を続けたら、俺たちの民族そのものが消える。

2012年6月、ラレは長老たちと会合を持った。施設にいる子どもたちの健康状態を報告し、自分自身が教育を受けたことが共同体にどう役立ってきたかを説明した。そして7月、最終的な採決が予定された。ラレは最後の説得を行った。

2012年7月14日、ドゥス村で儀式が行われた。エチオピア政府の関係者も招かれた。長老たちは村の近くの林で、子どもを殺すことの是非について議論した。それから村に移り、ヒツジを一頭屠って、ミンギの終わりを標した。儀礼的な食事とビールの献納が行われた。

そのあと、猛烈な砂嵐が地域を吹き抜け、待ち望んでいた雨をもたらしたという。長老たちはそれを吉兆と受け取った。

ただし、その場にいた誰もが無邪気だったわけではない。同じ日の記事に、カラの長老ダモ・ボルドの言葉が引かれている。「これから数年、見てみよう。これが祝福なのか、呪いなのか」。

それで終わりではなかった

2012年の廃止は、大きな節目だった。でも終わりではない。

まずラレたちはハマルに向かった。当時の推計で四万五千人から五万七千人。カラの三十倍規模だ。2014年の夏、ハマルの王のうち一人――二万一千人を統括する立場の人物――が、ミンギの名のもとに子どもを殺すことをやめると表明した。前進ではある。ただ、ハマル全体を動かしたわけではない。

そして、カラ自身も完全にクリアになったわけではなかった。ここが一番言いにくいところだ。

2023年に『エチオピア人権ジャーナル』に載ったビナイエウ・タムラットとハイマノット・アレマイェフの論文は、カラを対象にした民族誌調査に基づいて、こう結論している。度重なる取り組みにもかかわらず、ミンギの慣行はカラ共同体において依然として広く残っている、と。論文はこれを「構造的暴力」という枠組みで捉える。

同じ論文には、2012年の合意についての踏み込んだ評価がある。ラレと仲間たちが長老を説得したのは事実だが、その決定と合意は最終的でも拘束力のあるものでもなかった。慣行を減らすことには貢献したが、根絶はしていない、と。ジンカの女性・子ども問題事務所も、ハマル郡ではハマルとカラの双方でミンギが今も見られると確認しているという。

さらに、この論文には目を背けたくなる報告が入っている。法律で殺害が禁じられ、子どもたちが育つようになった結果、間接的な強制が生じている、というのだ。ある看護師の証言はこうだ。母親が別の男と再婚するとき、前の関係でできた子は連れていけない。その子は祖父母に預けられる。だが祖父母がミンギの慣行を支持していれば、その子に食べ物を与えず、世話もしない。「不当に生まれた、呪われた子だ」と思っているからだ。

結果、飢えで死ぬ。三人の子どもがそうやって亡くなった、と。

殺すことを禁じると、飢えさせることになる。制度を止めるのが、いかに一筋縄ではいかないかがわかる。

もうひとつ、同じ看護師が伝えているのは、若い娘たちの態度の変化だ。新しい世代の娘の中には、自分に貼られたミンギという名前を引き受けてしまう者が出てきている。「私はもう、自分のミンギ性ごと生きている」と言うのだという。この態度が広まることを恐れて、ハマルやカラの娘は正規の学校教育を受けさせてもらえない――そういう地域があると、論文は指摘する。

エップレの観察も同じ方向を向いている。2016年から17年の調査時点で、彼女は村で育っているミンギの子の事例をいくつか聞いた。1990年代から2000年代初頭にはゼロだったから、これは明確な変化だ。政府はトゥルミやディメカで会合を開き、各行政区の代表者たちに、共同体を説得するよう求めた。それでも中絶と嬰児殺は放棄されていない。

だから政府は最近、儀礼指導者であるビッタを巻き込み、慣習法の側からこれらを禁じさせる方針を取り始めた、という。

外から法律で押すのではなく、内側の権威に禁じさせる。エップレが記録したこの転換は、ラレの戦略と同じ発想だ。共同体の論理の内側から出口を作る。

国家の側から見た「有害な伝統的慣行」

ここでエチオピアという国家の側の話をしておく。

エチオピアの刑法には「有害な伝統的慣行による生命・身体・健康に対する罪」という章がある。第561条から第570条で、特に妊婦と子どもの生命を危険にさらし身体を傷つける行為が第561条と第562条にあたる。罰は罰金または三か月から一年の軽懲役だ。

嬰児殺は第544条で別に扱われる。母親が出産中に犯した場合は軽懲役、故意または過失で子を殺した場合は殺人として扱う。教唆した者や共犯者にも同じ法が適用される。

面白いのは第563条だ。「裁判所の裁量」と題されたこの条文は、加害者の年齢、教育、経験、社会的地位を考慮して、警告だけにとどめる余地を裁判所に与えている。つまりこの法体系は、法を知らない人々に法を適用することの難しさを、あらかじめ織り込んでいる。

行政の運用はもっと現場的だ。南オモ・ゾーンの各郡には女性・子ども問題事務所があり、職員が定期的に村を回る。そして住民と一緒に「有害と見なしうる慣行」を洗い出し、郡ごとのリストを作る。リストは郡から県へ、県から州都ハワッサへ上がり、そこから指示が降りてくる。リストは毎年更新され、どれが放棄され、どれが続いていて、どれが復活したかが記録される。

ハマル郡のリストには十二項目が載っている。ゾーンの担当者によれば、成果には濃淡がある。美容目的の身体加工に関する項目は、比較的うまく減らせた。自発的で、儀礼的・社会的な含意が薄いからだ。結婚に関わる項目――早婚、取り決め婚、略奪婚、一夫多妻、婚資、亡霊婚、寡婦の相続――はずっと難しい。これらを手放すと、年齢秩序と男女関係そのものが変わってしまうからだ。

牛跳び儀礼での鞭打ちも、文化的資産と見なされていて放棄されていない。ただし程度は緩和されたという。

そして最優先かつ最難関に置かれているのが、中絶とミンギである。

このリスト運用のリアリティが、僕は好きだ。「野蛮な慣行を根絶する」という掛け声ではなく、毎年リストを更新して、進んだところと戻ったところを淡々と記録している。派手さはないが、これが現場の実務なのだろう。

民間団体の側も入っている。ノルウェーの資金でセーブ・ザ・チルドレンが、ハマル、ダサネッチ、ニャンガトムの三郡で有害慣行と衛生に関するプロジェクトを走らせた。その基礎調査報告書には、住民が挙げた優先課題が並んでいる。鞭打ち、強制中絶、ミンギ、相続婚、高齢男性と若い娘の婚姻、女性器切除、乳歯の抜去。回答者の六割五分以上が、ミンギと強制中絶を有害な慣行だと認識していた。

同じ報告書は、強制中絶の実態も記録している。婚外で子を産めば夫を得られない、追放される、といった恐れから、腹部を強く揉んで胎児を流す方法が取られる。施術するのは自分自身か、共同体の中で「詳しい」とされる人物だ。薬草の抽出物や動物由来のものを使うこともある。ミンギを避けるための中絶が、別の身体的被害を生んでいる。

報告書の提言は現実的だ。長期的にはミンギの信仰そのものを解体するしかない。だが短期的には、長老たちに対して、殺したり丘に投げたり土地の外に捨てたりする代わりに、政府や非政府組織に子どもを引き渡すという選択肢を提示するのが望ましい、と。

これはまさにラレがやったことだ。信仰を否定せず、逃げ道を用意する。

欧米メディアの描き方は、正しかったのか

ここは避けて通れない論点だ。ミンギが世界に知られたのは、ほぼ全面的に欧米メディアと欧米人写真家の力による。それは救われた命につながった。同時に、深刻な副作用も持っている。

批判の一番強い形は、こうだ。オモ渓谷は長いこと、西洋の想像力の中で「原始」の陳列棚として扱われてきた。

歴史をたどると根は深い。二十世紀初頭、この地域を歩いた英国の探検家や象牙商人は、住民をひとまとめに「シャンキラ」と呼んだ。アムハラ語で黒人を指す蔑称だ。1920年の記録は彼らを「衣服を持たない真の黒人型」と書き、別の記録は「文化的特徴を持たない人々」と扱った。アディスアベバから南西の町マジへ向かう旅を「光から闇へ、文明から野蛮へ」の移動として描いた文章もある。

低地は避けるべき場所であり、病に満ち、神を知らぬ野蛮人が住んでいる――そういう見方が、エチオピア高地側にも、ヨーロッパ側にも共有されていた。

ハンガリー出身の人類学者レギ・タマーシュは、植民地期の旅行記から現代の観光ブログまでを一連の系譜として分析した論文で、この「原始」というトロープが、いかに政治的・文化的に強力なイデオロギーとして機能してきたかを論じている。彼の見立てでは、百五十年前の記述の型は、今日の観光客のブログにほとんどそのまま反復されている。

同じことを、スリ(スルマ)の研究者ジョン・アビンクが写真の側面から書いた。2009年の論文で彼はこう指摘する。写真ギャラリーや人気記事や旅行代理店のサイトのどこにも、その民族に関する既存の文献への言及がない。それは、写真家や映画制作者や旅行会社が丹念に作り上げた「発見の真正な感覚」を台無しにしてしまうからだ。ツアーを売り、写真を売り、ドキュメンタリーを売るためには、神秘化が要る。

未知を隠し、そして作り出す必要がある。そうやってエンターテインメント価値が最大化される。

アビンクの一撃はこうだ。ほとんどの写真は、新しい神秘的な現実を作り出すポーズである。それらは何かを明らかにしたり説明したりするためのものではない。作り手の関心を反映しているだけで、スリの生活とはほとんど関係がない。

さらにアビンクは、こういう写真がある種の「保護主義的」感情を生むことにも触れる。旅行者や写真家の中には、しばしば激しい反宣教師的な態度を取る者がいる。彼らは自分自身の存在が現地に及ぼす影響は否定しながら、宣教師や開発関係者の影響は糾弾する。

ムルシを研究したデイヴィッド・ターンは、2004年に『アンソロポロジー・トゥデイ』に唇皿と「写真を撮る人々」をめぐる論文を書いた。そこで紹介される事実がひとつある。ムルシ語の「エジョ」という語は、写真を撮ることと銃を撃つことの両方を意味する。仕草も同じだ。片目を閉じて、人差し指を引く。

こういう批判を、ミンギ報道に当てはめるとどうなるか。

問題は二つある。ひとつは単純化だ。「上の歯が先に生えただけで殺される」という一文は、確かに強烈で、記憶に残る。だがこの一文は、バルジョという宇宙観も、受胎前の儀礼の連鎖も、姑と長老が生殖を統制する構造も、社会関係資本の乏しい女性が標的になる力学も、全部削ぎ落としている。残るのは「不可解な野蛮」だけだ。

もうひとつは頻度の問題だ。カルバートの調査結果が正しければ、報道で語られてきた頻度は現実よりずっと高い。「毎年千人の子どもが殺されている」という文が、検証されないまま繰り返し引用されている。それは寄付を集めるには有効だが、事実の記述としては危うい。

ではメディアは黙っているべきだったのか。それも違うと思う。ラレ・ラブコが世界に届いたのは、ジョン・ロウという写真家と、彼が撮ったドキュメンタリーの力による。2011年から2012年にかけて公開された三十分の短編『ドローン・フロム・ウォーター』は、ラレの初期の救出活動を記録した。2015年にはロウ自身が監督し、息子のタイラー・ロウが製作した長編『オモ・チャイルド――川と藪』が公開された。

五年をかけた作品で、ある評者は「この民族を古臭くて凶悪なものとして描くのは簡単だっただろうに、そうせず、カラの人々がなぜ呪いを恐れたのかを掘り下げた」と評価している。この作品は社会的インパクトを評価する映画賞を受け、ロサンゼルスなどで上映された。

作品を作らなければ、資金は集まらなかった。資金がなければ、ジンカの家も学校も存在しなかった。同時に、その作品が流通する回路は、百年前から続く「原始の陳列棚」の回路と、部分的に同じものだ。この矛盾は解消できない。せめて自覚しておくしかない。

写真一枚五ビル――もうひとつの経済

批判の話を続ける。オモ渓谷ではいま、写真そのものが産業になっている。

ルールは村ごとに違うが、大枠は共通している。観光客が撮りたい人を指差す。指された人が数秒から十数秒ポーズを取る。その間に何枚か撮る。そして紙幣を渡す。相場は一人あたり五ビル前後。米ドルで二十五セント程度だ。写真に二人写れば二人分払う。母親と赤ん坊なら、母に五ビル、赤ん坊に二ビルで計七ビル、という細かい取り決めがある村もある。背景に写り込んだだけの人には払わない。

村によっては、村全体への入場料と撮影料を一括で払い、村長が分配する方式もある。ただこの方式にも問題がある。ある旅行者は、ガイドと村長から「許可を求めずに撮っていい」と言われて困惑したと書いている。料金を払ったから、断る権利が消えたことになっている。実際、撮られたくなさそうな人が、断れずにいるように見えた、と。

そして服装だ。スリやムルシの写真でよく見る、花や植物を大量に頭に載せた壮麗な姿。あれは日常の格好ではない。1990年代以降、写真を撮りに来る外国人が増えたことで生まれた比較的新しい実践だ。あるスリの女性の言葉が引かれている。「観光客がそうしてくれと言うから、そうしているのよ」。

これを「文化の破壊」と嘆くのも、実は雑だと批判されている。ある研究は、この「作り込み」を被害の証拠としてのみ読むことに反対する。それは彼女たちの主体性を消してしまうからだ。彼女たちは、圧倒的な力の差がある接触の場で、自分の見せ方を操作している。カメラが観光客の仮面なら、盛装は彼女たちの仮面だ。女たちと子どもたちが互いに塗り合い、飾り合う準備の時間は、それ自体が結束を強める共同作業になっている。

ムルシのある男性は、同胞に向かってこう言った。「俺たちの体は特別だろう。写真の値段が安すぎる」。彼の兄弟は、ムルシの文化を説明する冊子を作って観光客に配った。短い訪問では理解できないほど自分たちの慣習は複雑なのだ、と伝えるためだ。

カラの村コルチョは、四輪駆動車でたどり着きやすく、オモ川と広大な平原を見下ろす絶景がある。だからカラの村の中でも観光の比重が高い。近年、観光はカラにとって重要な収入源になっている。

ここに、ミンギとつながる論点がある。2012年の廃止儀礼の日に書かれた記事が、率直な疑問を投げている。カラの長老たちがサファリの客に写真代を要求してきたのだとすれば、信仰体系そのものを手放すことの見返りに、彼らは何を求めるだろうか。外国からの援助と現金が流れ続けることを期待するのではないか、と。

そして、もっと難しい問いも並べられている。婚外の子がミンギの範疇に入る以上、廃止後、父親が特定できず、十代の母親に生活手段がない子どもは、どうなるのか。ミンギという名前がなくなっても、望まれない妊娠の結果として遺棄される赤ん坊は出続けるのではないか。

十年以上たった今、この問いは的中していたと言わざるをえない。祖父母のもとで飢えて死んだ三人の子の話は、まさにこの問いの答えだ。

ギベ3ダム――洪水が消えた

そして、この土地の前提そのものを変えた出来事がある。

1996年、アフリカ開発銀行の委託で作られたオモ・ギベ流域のマスタープランが、オモ川へのダム建設と、下流での灌漑プランテーションの組み合わせを提言した。2006年7月、ギベ3ダムの建設が始まる。施工はイタリアの建設会社。完成すればアフリカで最も高いダムになる規模だ。

下流の懸念に対して、政府と施工業者は「人工洪水」を約束した。ダムに放流ゲートを設け、年に十日ほど開けて、失われた自然の洪水を補償するという説明だ。

2015年2月、貯水が始まった。同年10月に発電に必要な水位に達し、2016年12月に貯水が完了した。

そして毎年の洪水は、来なくなった。

約束された人工洪水は、実質的に実現していない。2015年には放流がなく、2016年の放流は作物を育てるには足りなかった。フランスのコンサルタント会社が2010年に行ったレビューは、人工洪水が実施される見込みは薄いと指摘していた。発電を止める間の逸失収益が七百八十万から千八十万ドルに達するうえ、放流は下流の灌漑インフラを傷めるからだ。施工業者の側の説明も、後に変わった。

人工洪水は恒久的なものではなく、氾濫原耕作からより近代的な農業へ移行するための「適切な期間の過渡的措置」だ、と。

これがどれほどの意味を持つか。オモ川の氾濫原耕作に依存して暮らしていた人は、少なくとも九万人。ソルガムを川岸で育ててきた、十以上の民族集団だ。カラに至っては食料の八割を氾濫原耕作に頼っていた。

さらに、失われた土地の一部は砂糖キビのプランテーションに変わった。クラズ製糖開発事業。当初の計画では二十四万五千ヘクタール。それが十七万五千に減り、2016年には十万に減った。事業開始から七年たった時点で、実際に植えられていたのは一万六百ヘクタール。六つ予定されていた製糖工場のうち、建設されるのは四つになり、2018年10月時点で稼働していたのは二つだけだった。

一方でトゥルカナ湖の水位は、2015年1月から2017年1月の間に約一・五メートル下がった。この湖にはオモ川からの流入が八割から九割を占める。灌漑取水が増えれば、さらに下がる。研究者の中には、最悪の場合アラル海と同じことが起きうると警告する者もいる。

オークランド研究所が2019年に出した報告書は、現地調査を「深刻な飢餓の状況下で」行ったと記している。本来ならオモ川の岸で作付けをしているはずの時期に、ムルシの人々は平原で立ち往生し、牛の乳と血、そして牛を売って手に入れたわずかな穀物で食いつないでいた。ボディやクウェグも同様だ。移住先の灌漑施設が機能せず、耕作用の水どころか生活用水も得られずに、移住地を離れた人々もいる。

報告書に引かれた住民の言葉が刺さる。2006年、あのころは土地が穀物でいっぱいだった。オモ川にはたくさんの洪水の水があって、私たちはとても幸せだった。いま水は消えて、みんな飢えている。この先にあるのは死だ。大きな洪水があった時代には、オモ川にはたくさんの、本当にたくさんの人がいて、耕していたのだ、と。

なぜこの話をミンギの記事に入れるのか。理由は単純だ。ミンギという掟は、「洪水が来て、水が引き、泥に種を播く」というリズムの上に成り立っていた宇宙観の一部だからだ。カラの儀礼生活は、オモ川の増水と減水に沿って組み立てられている。バルジョを呼ぶ言葉には「雨が降れ」「洪水の水が流れよ」というフレーズが繰り返される。

その洪水が、ダムによって永久に来なくなった。

長老たちがバルジョを呼んでも、雨は降らない。祖霊を慰めても、水は戻らない。ミンギの子を排除しても、川は増水しない。宇宙観を支えていた物理的な循環そのものが、上流の巨大なコンクリートで断ち切られたのだ。

これは掟にとって、どういう出来事だったのか。二つの読み方がある。ひとつは、儀礼の実効性が目に見えて失われることで、掟の説得力が崩れるという読み方。もうひとつは逆で、飢餓が慢性化すればするほど「誰かのせいだ」という説明への需要が高まり、掟が息を吹き返すという読み方だ。

エップレは、ハマルとバシャダの南部が保守化しやすいのは町から遠いからだと書いた。飢えと孤立は、ふつう寛容を育てない。だからカルバートやエップレの記述にある「まだ続いている」という報告を、僕は楽観的には読めない。

なぜこの掟は生まれ、なぜ崩れたのか

整理してみる。

生まれた理由は、複数の層が重なっている。一番下にあるのは環境だ。半乾燥地帯で、雨は当てにならず、二、三年に一度は収穫が飛ぶ。共同体が支えられる人口には天井がある。この条件が、育てるコストの高い子どもを減らす圧力を常に生んでいた。

その上に、宇宙観の層がある。世界は放っておくと壊れるものであり、人間には壊れないよう積極的に働きかける責任がある。不幸には必ず原因があり、その原因は人間の手続きの不備にある。この世界観の中では、災厄は運命ではなく課題であり、課題には解決策がある。ミンギの排除は「解決策」として位置づけられていた。

シュトレッカーは、ミンギは否定的な予兆に肯定的な行動で応じることであり、より大きな混沌と悪に対する必要な措置と見なされている、と説明している。

さらにその上に、権力の層がある。誰がいつ子を産んでよいかを、姑と長老が握る。判定基準の中でも「儀礼を経ていない」という項目は、事実上いくらでも運用できる。カルバートのデータが示したように、告発されるのは社会的に孤立した女性の子だった。掟は生殖の統制装置として作動していた。

そして頻度の層。カルバートの言う通り、これは日常的に大量発動する制度ではなく、稀にしか発動しない制度だった。稀だからこそ、発動したときの衝撃で全員が従う。信仰の本気度を証明する高コストの行動が、共同体の協力を維持する。

では、なぜ崩れたのか。

ひとつめは、教育だ。ラレが九歳で寄宿学校に送られなければ、この物語は始まっていない。共同体の内部にいながら、外部の枠組みで自分の文化を見られる人間が現れた。それも一人ではなく、彼が組織した若者たちという集団として現れた。

ふたつめは、代替手段の提示だ。井戸のポンプは、干魃に対してミンギ以外の対処法があることを実演した。掟の存在理由を、掟を否定せずに無効化した。

みっつめは、逃げ道の設計だ。「殺すな」ではなく「私に預けろ、呪いは私が持っていく」。共同体の恐れを否定せず、その恐れを満たす別の出口を作った。エップレが1998年に記録した「生きて村を出た少女に全員が安堵した」という観察は、この出口が最初から共同体の心理にフィットしていたことを示している。

よっつめは、生きた証拠だ。ジンカで育った子どもたちが病気にもならず、学校で結果を出し、大学に進み、あるいは医師になった。呪いの予言が外れ続けることを、共同体は見た。

いつつめは、人口の論理だ。この掟を続ければ、小さな民族はさらに小さくなる。周りの大集団との力の差が開く。生存の計算が、掟の維持と衝突するようになった。

むっつめは、国家と外部の圧力だ。刑法があり、逮捕があり、投獄があった。実際に子どもの死に関与して四年の刑を受けた女性の事例が報告されている。これは掟を地下に潜らせる効果も持ったが、コストを引き上げたことは確かだ。

そして最後に、たぶん一番大きいのが川である。氾濫が消え、儀礼が保証していた自然のリズムが機能しなくなったとき、その儀礼を支えていた世界観全体が揺らぐ。ただしこれは、崩れる方向にも、逆流する方向にも働きうる。

川はまだ流れている

この記事を書きながら、僕はずっと自分の書き方を疑っていた。

「上の歯が先に生えただけで川に沈められる」というフレーズは強い。読んだ人はきっと覚える。でもその強さは、百年前から続く「原始の陳列棚」の売り方と、たぶん同じものでできている。アビンクが言うように、神秘化はエンターテインメント価値を最大化する。僕はそれをやっていないと言い切る自信がない。

だから、いくつかのことを最後にはっきりさせておきたい。

ミンギは、特定の民族が野蛮だから存在したのではない。上の歯を危険の徴とする信仰は、五千年前の西アフリカに起源を持ち、バントゥの拡散に乗ってアフリカ大陸を横断し、マダガスカルにまで届いた、きわめて古くて広い文化的形質だった。他の地域では二十世紀後半までに消えた。オモ渓谷は「特別に残酷な場所」ではなく、「最後まで持っていた場所」だ。

ミンギは、人を殺すためだけの制度ではなかった。それは干魃と飢えへの不安を処理する装置であり、村の中の協力を強制する装置であり、そして誰が子を産んでよいかを決める権力の装置だった。この三つの機能が絡み合っていたから、簡単には解けなかった。

ミンギを終わらせたのは、外から来た正義ではなかった。ドゥス村で生まれ、九歳で村を出て、十五歳で子どもが川に運ばれるのを見た男が、二十年かけて自分の共同体を説き伏せた結果だ。彼は共同体を軽蔑しなかった。「彼らは邪悪でも愚かでもない、他人の命を恐れているだけだ」という理解の上に、全部の戦略を組み立てた。

そしてミンギは、終わっていない。2023年のエチオピア人権ジャーナルの論文は、カラでさえ慣行が残っていると報告した。エップレは、多くの地域で中絶と嬰児殺が続いていると書いた。飢えで死んだ三人の子の話がある。「私はもう自分のミンギ性ごと生きている」と言う娘たちがいる。

一方で、ジンカでは五十人を超える子どもたちが育ち、そのうち三人がすでに大学に進んだ。かつてミンギとされた人物が医師として働いている。この地域で最も高い教育を受けた者たちが、いま、かつて自分を殺そうとした共同体に戻っていこうとしている。

ラレ・ラブコは、こう言っている。ミンギを止めるのは自分ではない。自分のもとで育っているハマルとバンナの少年少女たちだ。自分はいま、ミンギは呪いではなく祝福だと信じている。この子たちが人々にそう伝えることで、人々の考えは変わっていく、と。

彼はまた、ミンギの根絶が自分の生きているうちに実現するとは思っていない、とも言っている。この二つの発言は矛盾していない。彼は自分の代で終わらないことを引き受けたうえで、続けているのだ。

オモ川は、いまも流れている。ただ、以前のようには増えない。上流のダムがリズムを止めてしまった。泥は運ばれず、種を播く岸は痩せ、飢えは慢性化しつつある。バルジョを呼ぶ長老の声は、まだ響いている。だがその声が呼びかけている雨と洪水は、もう空と川だけの管轄ではなくなった。

掟がひとつ終わりかけている土地で、暮らしそのものが別のかたちで壊れかけている。この二つは同じ川の話だ。だからこの記事は、めでたしめでたしでは終われない。終われないということを、そのまま置いておく。

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